14世紀、諸侯は没落し、教会は批判にさらされていました。ちょうど英仏間の百年戦争が結着した同じ1453年、象徴的な事件がおきました。ビザンツ帝国の都コンスタンティノープルがオスマン帝国のメフメト2世の奇策によって陥落したのです。
西ローマ帝国が滅亡した後も、存続し続けたビザンツ帝国(東ローマ帝国)は西ヨーロッパにとってライバルであっても、同じキリスト教国として心の支えであり続けたことは容易に想像できます。しかし、それが滅亡した後は、異教徒であるイスラームとヨーロッパは直接、向きあわなければならなくなりました。
滅亡したビザンツ帝国の最後の皇帝の姪ソフィアはコンスタンティノープルから逃れてモスクワに来ていました。そこでモスクワ大公国のイワン3世(1462‐1505)と結婚しました。モスクワ大公国はキプチャク・ハン国から徴税役を命じられて、苦難の歴史に耐えてきていました。1480年、この「タタールのくびき」と言われる日々からロシアを解放したのはこのイワン3世でした。
イワン3世は勢いに乗じて国内の体制を固めるとともに、自らを「ツアーリ(皇帝)」と称して、ロシアを「第三のローマ帝国」として対外的にも印象づけました。
コンスタンティノープルからはイタリアへ難を逃れた学者達もいました。彼らは古代ギリシアの学問をイタリアに伝え、まだキリスト教に影響をうけていなかったころのギリシアの古典をイタリアに伝えました。初めて目にする古代ギリシアの文化はイタリアの人びとに強い印象を与え、彼らの間から、自然や人間をありのままに観察し、自由にそれを表現する文化が育っていきました。
ルネサンス(文芸復興)と称せられるこの思想・文化運動はイタリアからヨーロッパ各地に伝わり、新しい時代を切り開いていくことになりました。
東地中海がオスマン帝国の支配下に入ると、それまで東方貿易で栄えてきたヴェネツィアの勢いも衰え、それに替わってジェノヴァが大西洋貿易に乗り出しました。時代は地中海から大西洋へと変わりつつありました。
そのころ、レコンキスタの戦いに勝利を収めていたポルトガルは早くから、大西洋貿易に関心を示し、エンリケ航海王子のもとでアフリカ沿岸の探検を続けていました。
1488年、バルトロ・メウ・ディアスはアフリカ南岸の喜望峰に達し、インド洋の存在を知りました。さらに、1498年にバスコ・ダ・ガマはムスリムの案内でインドへ至り、東廻でインドへ至る航路により、ポルトガルは香料貿易で莫大な富を手にしました。
スペインにとって1492年は輝かしい年になりました。まず、ムスリムのイベリア半島最後の砦グラナダが陥落しました。ここに500年続いたレコンキスタが完成したのです。カスティリアの女王イザベラとアラゴンの王フェルディナンドが結婚し、スペインという国が誕生したのも1492年でした。イザベラの援助の下、ジェノヴァの商人コロンブスが、大西洋を越えてアメリカ大陸に至る西廻航路を発見したのも、1492年でした。
コンスタンティノープル陥落から39年後、まったく新しい時代が始まろうとしていました。