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1350年〜1500年:4

(15) 崩れゆく封建社会

ヨーロッパではこの時代、封建社会が急速に崩壊し始めた。崩れて行ったのは誰たちだったか。
  1. 没落したのは領主(騎士・聖職者)たち。
  2. 農民と商人と国王は力をつけた。
  3. 火薬・印刷術・羅針盤はこの時代に伝わる。

ペスト大流行

1347年からヨーロッパで始まったペストの流行は、西ヨーロッパの人口の三分の一を奪うほどの猛威をふるいました。本来、中央アジアの風土病だったペストがヨーロッパでこれほど流行したしたことには、当時の特に西ヨーロッパの歴史的背景がありました。

11世紀以来、人口が増え続け、商業が発達したヨーロッパでは人や物や金の移動が盛んになっていました。当時の都市は衛生状態も悪く、しかも、それらは互いにネットワークで結ばれ、地中海を経て、アジアにつながっていましたから、ペストが大流行するための条件が十分に整っていたわけです。

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立ちあがる農民

ペストによる人口の減少は当時の社会を大きくゆさぶりました。農民は土地から逃げ、労働力も不足しましたから賃金や手工業製品の価格は高騰しました。地代も低下しましたから、領主達は議会で労働者や物価を統制し、農業の移動を制限したりしました。しかも、増税までされた農民は立ちあがるしかありませんでした。フランスでは1358年にジャックリーの乱が、イギリスでは1381年にワット・タイラーの乱が起きます。

ワット・タイラーの乱では聖職者のジャン・ポールは「アダムが耕し、イヴが紡いだとき、だれが領主だったか」と聖書に触れて、農奴制の廃止まで要求しましたが、乱は失敗してしまいました。

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百年戦争

フランスでは1328年、カペー朝が断絶し、ヴァロア朝が王位を継承しました。当時、イギリスの王家(プランタジネット朝)はフランスの諸侯と婚姻関係にありましたから、系図をたどれば、イギリス王エドワード3世がフランス国王も兼ねる可能性も十分ありました。これがフランスの王位継承をめぐる百年戦争の原因となりました。

中断しなが1337年から1453年まで百年続いた英仏間の戦争は、最終的にはイギリスの敗北に終わりました。この戦乱により、多くの諸侯が没落し、国王は都市の商人と手を結び力を伸ばしました。

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教会批判

ジャンポールやワット・タイラーが反乱をおこしていたころ、イギリスの神学者ウィクリフとチェコのプラハ大学の教授フスはローマ教会と信仰とめぐって戦っていました。

ウィクリフは、ローマ教皇の権威と権力を否定し、教会財産を没収して国の財産とすべきだと主張しました。また、聖書を唯一の権威として、聖書の英訳を提唱しました。  教会側は1414年、コンスタンツ公会議で彼を異端とし、後に彼の墓は暴かれ、遺骸は焼きすてられました。

フスは南ボヘミアで貧農の子として生まれ、プラハ大学で神学を修め、教授に就任しました。ウィクリフの思想に共鳴し、教会の土地所有や世俗化を批判しました。聖書をチェコ語に翻訳し、チェコ人の民族教育にも尽力しました。禁止されていたウィクリフの説を支持したり、免罪符の販売を批判したりしたため、1411年ローマ教皇より破門されました。

フスはコンスタンツ公会議で、異端とされ焚刑に処せられました。その灰はライン川にまかれ、激怒したフス派教徒は皇帝や教会を相手にフス戦争をおこしました。

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