ヨーロッパ人が東南アジアや東アジアに来港するまで、明とともにユーラシア大陸を二分したティムール帝国は、建国者ティームの亡き後は、帝国をまとめる後継者に恵まれず、130年ほどの短命に終わりました。しかし、モンゴル以後のユーラシア大陸で果たしたトルコ人の役割を考えると、その歴史的な重要さが明らかになります。
トルコ化・イスラム化したモンゴル族(チャガタイ族)の子孫として、中央アジアに生まれたティムールが征服した地域は、中央アジア・イラン・アフガニスタンとまさに遊牧民とオアシアス民の世界でしたが、この帝国の成功の理由はモンゴル帝国と同じように、遊牧民の軍事力とオアシス定住民の経済力の結合させたことにありました。
ティムールは学問・芸術の愛好者でもあったため、サマルカンドの都には学者や芸術家、職人が多く招かれ、イスラーム文化が花開きました。後のトルコ・イスラーム、インド・イスラーム、イラン・イスラームの文化はこのティムール帝国から広がっていきました。
マムルーク朝はエジプトに栄えたファーティマ朝・アイユーブ朝に次ぐ王朝で、1250年アイユーブ朝の奴隷軍団の反乱から建国されました。マムルークとはトルコ人の軍人奴隷を意味します。
モンゴル時代の前期マムルークはキプチャク・ハン国と手を組んで、隣国のイル・ハン国のアフリカ進出を防ぎました。5代スルタン(王)のバイバロス1世は外交・内政に手腕を発揮し、マムルーク朝の繁栄の基礎を作りましたが、1347年からのペスト流行によって国力を落としました。
ティムール時代と同じこの時代に栄えた後期のマムルーク朝は地中海とアラビア海を結ぶ中継貿易の拠点として栄えると共に、カイロは学問や芸術の中心地として栄え、イスラム諸学の集大成がこの地で行われ、後世に多大な影響を残しました。
しかし、ポルトガルがアフリカ周りでアジアに進出するようになると、中継貿易で栄えたマムルークの時代は終わりを迎えました。
1071年、セルジューク朝トルコはビザンツ帝国との戦いに勝利すると、中央アジア・イランからトルコ系遊牧民がアナトリア半島へ侵入しました。オスマン帝国はその中の一勢力が1299に建国しました。以後、14世紀から15世紀にかけてバルカン諸民族を破り、ブルガリア・北部ギリシア・セルビアを支配下におさめました。
1402年、ティムールにアンカラの戦で敗北しましたが、バルカンとアナトリアの領土を回復し、1453年にコンスタンティノープルを攻略してビザンティン帝国を滅亡させ、ここをイスタンブールと改めて首都としました。
15世紀末までにアナトリアとバルカンを統一し、16世紀初頭にはエジプトのマムルーク朝を破って(1517)、メッカとメディナの保護下におきました。オスマン帝国のスルタンは同時にイスラム世界全体の長としてのカリフの資格を獲得したのでした。多様化した西アジアのイスラム世界が再び統一されたのでした。