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1350年〜1500年:2

(13) 明王朝の海洋政策

明王朝が一時期、積極的に取り組んでいた海洋政策はどうなったか。
  1. 明王朝が一時期、積極的に取り組んでいた海洋政策はどうなったか。
  2. 永楽帝はクビライとならんで積極的に海洋政策に乗り出した例外的な皇帝。
  3. 宋・元の時代に盛んになった民間貿易は和冦という無秩序な状態を作り出していた。

紅巾の乱

元末には、公鈔(紙幣)の乱発・内紛・天災・疫病などが続き、中国では社会的な緊張が高まっていました。1351年、白蓮教徒が中心となって農民の反乱が起きます。頭を覆った紅い布を目印としていたため「紅巾の乱」と呼ばれたこの反乱の中から、1368年に明をおこすことになる朱元璋が現れます。

また、高麗(朝鮮)にもおよんだこの反乱軍の撃退に手柄をたてたのが、1392年に李氏朝鮮をおこすことになる李成桂でした。

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朱元璋の明

朱元璋は一貧農から身を起こし、明を建国しました。漢民族最後の中華帝国となった明の国づくりについて、洪武帝(朱元璋)は徹底した君主独裁体制をめざしました。

行政機関も軍隊も皇帝に直属する組織とし、全国一斉に土地台帳(魚鱗図冊)と戸籍資産台帳(賦役黄冊)を作成して、税制や兵制を整備しました。流民化した農民を土地に定着させ、彼らから税と兵を確保し、治安を回復させるのは、中国歴代王朝がその建国期に必ず実施する基本政策でした。明も例外ではありませんでした。

しかし、明の課題はそれだけではありませんでした。東アジアから東南アジアで発展していた海上貿易の世界が、元末の混乱で、無秩序に放置されていたのです。

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海禁

中国では伝統的に、貿易は公式に関係がある国との朝貢貿易だけに限られていましたが、 洪武帝は、1392年に海禁政策として自国民の海外渡航や私的な貿易を禁じました。それは倭寇の活動を抑えるとともに、倭寇と国内の不穏分子との結びつきを防止するためでした。

この政策は、その後、中国や朝鮮・日本の外交政策の基本となりましたが、その始まりは倭寇対策にありました。

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李氏朝鮮と倭寇

李氏朝鮮を建国した李成桂は、「紅巾の乱」や「倭寇」など討伐に功績をあげ、高麗の高官として活躍します。彼は、満州に入ってきた明の軍隊との戦いの途中、軍を引き返して国王を追放し、最終的には全権を掌握しました。そして、都を漢陽(ソウル)に移し、李氏朝鮮を建国しました。

李氏朝鮮は明の冊封を受け、儒教を国教し、ハングルをつくるなど、現在の韓国の基礎をつくり、1911年に日本に植民地化されるまで続きました。

この李氏朝鮮は、日本人との関係を原則として塩浦・薺浦・釜山浦の港に限り(のち釜山浦に限定)、緊急課題であった倭寇対策に取り組みました。

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永楽帝

洪武帝はモンゴル帝国にならい、自分の子供を各地の王として全国に配置しました。第三代皇帝となる永楽帝は燕王とされていましたが、靖難の変をおこして二代皇帝から位を奪い、北京に都を遷しました。

彼の治世は中国歴代皇帝の中でも、その対外政策においてもっとも活気のある時代となりました。大軍を率いて5度モンゴリア親征を行い、シベリア経営を手がけ、サハリンまで領土を拡大し、チベットを間接統治し,安南にも出兵して中国領土に編入し、西域にも勢力を伸ばし、李氏朝鮮を臣属国とし、室町幕府の3代将軍足利義満を日本国王に封じて日本を朝貢国としました。

そして、さらに南海遠征にまでのりだしたのでした。

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勘合貿易

日本から中国へ朝貢に向かう船には、勘合を持たせて、正式な朝貢船であることを証明させました。この勘合貿易は永楽帝の時代に始まりました。

勘合船は1404年から1547年のあいだに17回84隻が渡航し、1回の渡航船は3〜9隻で、搭乗者は1隻150人から200人くらいの規模となりました。内訳は使節団の官員や水夫が40〜90人で、他は大部分が商人で、最大規模で9隻1200余人におよぶこともありました。

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鄭和の南海遠征

鄭和は西域出身のムスリムの子として雲南省で生まれ、宦官として永楽帝に仕えた人物です。彼は1405年より、永楽帝の命を受け7回、東南アジアからインド、西アジア、東アフリカまで遠征します。1433年まで続くこの大遠征は合計七回にわたり、60隻以上の船に2万以上の人びとが乗船したこともありました。

南海遠征の目的は、陸上に留まらず、南海の国々にも明の国力を示し、明への朝貢を求めるためでした。しかし、永楽帝後は莫大な費用への批判が高まり、中国が海上貿易に積極的に乗りだしていくとこはありませんでした。しかし、70年後には、鄭和が航海した南の海をポルトガルの船が行き来することになるのでした。

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マラッカ王国

14世紀末、マレー半島の南端近くのマラッカにマレー人が定住し、マラッカ王国を建国しました。当初はタイのアユタヤ朝に服従し、貢物を納めていまいたが、鄭和の艦隊の補給基地となり、倉庫が建てられたりして、マラッカは貿易港として発展し、タイから独立して明の朝貢国になり、王は永楽帝から国王に封ぜられました。

鄭和の艦隊が来港しなくなると、タイの攻撃を受けるようになりますが、イスラームに改宗した国王はタイとの戦いを聖戦として臨み、勝利を収めました。その後は、イスラームの国家として、東アジアとインド・西アジアとの中継港として栄えました。

1509年、ポルトガル艦隊が来港し、貿易の許可を求めました。これに反対するムスリム商人・インド商人との間で対立が生まれ、最後にはポルトガル艦隊にマラッカは占領されてしまいました。

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