下の年表によると、モンゴル勢が中国を捨ててモンゴル高原に撤退した1368年から、黎朝がベトナムで建国する1428年の間の60年間、東アジアでは大きな変動が起きていたようです。この流れの背後にあったことを探ってみました。
鎌倉時代は農業生産力が飛躍的に増大し、宋銭の流入もあって、貨幣経済が活発になった時代です。この増えた生産に対して、朝廷・公家・寺社などは古来からの権利を主張し、在地の武士や農民も自分達の取り分を要求しました。
鎌倉政権は、利権が錯綜する時代にあって、御家人と呼ばれた傘下の武士の取り分を保証することによって、彼らに対する求心力を維持してきました。
しかし、変動の大きい時代にあって、御家人の利権を安定して守ることには多くの困難がともないました。結局、鎌倉政権はこれに失敗し、錯綜する利権の再調整は新たに成立した室町幕府の仕事になりました。
人口も少なく、土地も狭かった古代では、為政者は農民を把握して徴税や徴兵を行いました。地中海でも中国でもそうです。人は経済的に行きづまれば逃げたり、実力者を頼ったりします。どうしても土地は特定の人に集まる傾向があります。
したがって、古代では「小農経営」に基盤を置いた土地制度が、中世では「大土地所有」を前提とした制度が一般的です。税金は土地の管理者から徴収し、兵は市民・農民に頼らず専門集団に任せます。農民は移住も職業選択もできません。社会は身分制になります。
ここで難しいのが、誰を土地の管理者とするかです。中世の歴史が分かりにくい原因のひとつがここにあります。誰を土地の管理者にするかは、土地の事情によってまったく異なっています。小さな差異にこだわらずに、「大土地所有者」とだけしておきましょう。所有という観念すらない時代なのですから。
室町時代はまさに「土地の管理者」が流動的な時代でした。朝廷、公家、寺社、農民、農村の有力者、地頭、守護、将軍。地域によって、時代によってこれが様々に変化しました。戦国時代を経て、最終的には江戸時代に農民の身分は固定され、領主となった武士の世界には厳しい上下関係が完成しました。
このような時代では法的な秩序より、「やった者が勝ち」の実力主義が幅をきかせます。西日本の商人・地侍・漁民の中には、朝鮮半島や中国の沿岸での貿易で利益をあげたり、海賊行為をはたらく者も出てきました。彼らが略奪の対象としたのは米や人で、捕虜にされた人びとは奴隷として使われたり、琉球などにも売られたりしました。
この「倭寇」と呼ばれた海賊には朝鮮(高麗)の政府も元や明の政府も対策に手を焼きました。このことが、東アジアの近代の歴史に大きく影響していくことになります。