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1200年〜1350年:1

(8) クビライの野望

遊牧民のクビライはなぜ日本や東南アジアに派兵したか、それがこの時代の東アジアを解く鍵。
  1. クビライは海上貿易に強い関心があった。
  2. 元の成立と平行して、東アジアや東南アジアでは政権の交代がおきた。
  3. 宋の時代に発達した海上貿易を管理下に置こうとした。
  4. それに失敗したが、かえって通商が栄えることになった。
  5. クビライの課題は明の永楽帝と鄭和に引き継がれた。

鎌倉幕府と元

貴族文化に浸ってきた京都を避け、鎌倉に幕府を開いた源頼朝は平氏を滅ぼして武家政権を樹立しました。その平氏は、神戸を拠点に宋との貿易で新しい時代を切り開こうとしていました。平家の時代には宋銭が大量に日本に流入し、日本は宋を中心とする東アジア経済圏に巻き込まれようとしていました。

この宋に替わったのが元で、平氏に替わったのが源氏の鎌倉幕府でした。元は鎌倉幕府に交易を働きかけ、幕府はそれを拒否しました。

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鎌倉幕府

鎌倉政権は平氏の失敗から多くのことを学んだようでした。まず、朝廷や貴族の影響力の小さい関東に政権の基盤を置いたことです。さらに、政治の仕組みも朝廷・貴族と武家政権を分離して、自分に従う武士(御家人)は直接支配できる独自の世界を構築しようとしていました。一歩、誤ればまた朝廷や貴族の時代に戻ってしまいかねない危うさがまだ残っていた時代でした。

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元寇

鎌倉政権が安定期に入ろうとしていた頃、元朝(中国)のクビライは日本へ通商を求めて使節を遣わせましたが、鎌倉政権はこれを拒絶します。既に朝鮮を支配下においていた元は1274年と1281年、日本に二度にわたって軍を差し向けました。

元寇と言われるこの攻撃はなんとか阻止されますが、新しい領地をもたらさなかったこの戦争の恩賞をめぐって、支配下の武士達の不満がつのり、鎌倉政権は弱体化していきました。

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博多

古くは遣唐使派遣の拠点や中国からの来航者の窓口として重要な役割を担ってきた港町の博多は、この時代、宋・元との貿易で栄えていました。遣唐使が取りやめになって以来、日本と中国との正式な国交は途絶えていましたが、宋との貿易は盛んで、大量の宋銭が流入し、日本の中で流通するようになっていました。また、博多は禅宗を中心とする新しい文化や東南アジアの珍しい品々をもたらす貴重な窓口でもありました。

クビライと東南アジア

元のクビライは日本に軍を派遣したのと同じころ、東南アジアでも苦しい征服戦を戦っていました。クビライが中国を征服したとき、「中国を焼き払い、馬の放牧地にしては」との進言を退け、彼はむしろ南宋の海運業をそのまま引き継ぐことを重視しました。

遊牧民ではありますが、海上貿易の可能性を見抜いていたクビライは、東南アジアに軍隊を派遣して、西と東を結ぶ東南アジアを支配下におこうとしました。しかし、元寇と同じようにその目的を達することはできませんでしたが、その後交易が栄えたことは日本の場合と同じでした。

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その後の東南アジア

クビライ・ハンによる東南アジア遠征は、日本と同じように失敗しましたが、それによってこれらの地域には大きな変動が起きました。

ベトナムの陳朝は元の軍隊を撃退しましたが、インドネシアではシンガサリ朝が滅び、マジャパヒト朝が海上貿易で栄えました。また、ビルマ(今のミャンマー)のパガン朝が滅び、一方でタイ系の諸王朝が栄えました。

半島の地域ではそれまでのヒンドウー教や大衆部仏教に替わって上座部仏教が盛んになり、島嶼部ではイスラーム化が進みました。これらの変化は前の時代から続いていましたが、その背後には南インドのタミル商人やムスリム商人による影響が考えられます。

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クビライの宿題

宋は軍事路線より経済成長路線を重んじました。その結果、東アジアでは海上貿易が発達しました。それに誘われるようにモンゴルが出てきて、中国を征服します。海上貿易の世界でも中国伝統の朝貢貿易体制を確立しようとしますが、失敗します。

クビライがこなせなかった宿題は、百年後に明の永楽帝によってやり遂げられました。

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