ムスリムに占領されたイベリア半島でも、キリスト教徒の土地を取り戻すための戦いが始まっていました。「国土回復運動(レコンキスタ)」と呼ばれたこの戦いは五百年以上(〜1492年)も続きました。この戦いの中で現在のポルトガルやスペインが生まれたのです。
森の開墾、干拓、東方への植民活動、巡礼ブーム、都市の発展。こうしたヨーロッパの拡張の機運の中で十字軍が始まったのでした。
しかし、それにはもう少し複雑な事情がありました。
諸侯の力が強いドイツでは、有力諸侯が集まって国王を決めていました。ザクセン公のオットー1世がドイツ王になった時、かれはマジャール人の侵入からイタリアを守った功績などもあり、教皇は彼にイタリア王も兼務させました。二つの国を治める王ですから皇帝と言うことになり、ドイツとイタリアを合わせて神聖ローマ帝国とし、962年オットー1世は神聖ローマ帝国皇帝ということになりました。
しかし、イギリスにもフランスにも別に国王はいますから、神聖ローマ帝国は有力諸侯や都市が分立するドイツとイタリアを緩やかにまとめる存在にすぎませんでした。
オットー1世には作戦がありました。聖職者は妻帯が許されていません。つまりその地位は世襲ではないのです。従って自分で聖職者を任命できれば、聖職者をとおして自由に国を治めることができます。オットー1世は強引にそれを実行しました。
しかし、ローマ教皇は聖職者の任命権は教皇にあると主張しました。ここに皇帝と教皇の間で長く続くことになる叙任権闘争が始まったのでした。
少しでも主導権をとりたいと考えた教皇が「聖地イエルサレムを奪還せよ。」と大号令を全ヨーロッパに発したのは十分うなずけることでした。
聖職者の選任に関する教皇と皇帝の争いは、教皇グレゴリウス7世の時代に一つの結着を見ました。グレゴリウス7世は堕落した聖職者を追放したり、聖職者の妻帯を禁じたりして、教会の刷新を目指しました。その一貫として、皇帝や国王が聖職者を任命するのは教会の腐敗の原因としてそれを禁止しました。
これに不満の皇帝ハインリッヒ4世は教皇と文字どおり叙任権闘争を繰り広げました。教皇は皇帝を破門し、最後には皇帝がカノッサで教皇に謝罪することで結着します。こうして、長く続いた聖職者の任命に関する争いは、教皇の勝利に終わりました。
この勢いに乗り、教皇は十字軍の大号令を行ったのでした。
1096年、十字の旗の下、「聖地イエルサレムを奪還せよ」と、いきなりイエルサレムを襲う暴挙は、教皇ウルバヌス2世の呼びかけによって始められたものでした。
当時、経済成長に湧く西ヨーロッパは大巡礼ブームでした。各地に点在する聖人達の遺跡をしのぶ旅が流行していました。「それでは、聖地イエルサレムへも行こう。」となるのは自然な成り行きでしたが、イエルサレムはセルジューク・トルコの支配下にあったため、教皇ウルバヌス2世の大号令になったわけです。
「聖地イエルサレムを奪還しよう。」これが1097年から1274年まで続いた十字軍の始まりです。