11世紀はヨーロッパでも大経済成長期を迎えていました。この時代は温暖な気候が続き、農業生産も増大しました。人口が増えたため、森林が切り開かれ、沼地が干拓によって農地になっていきました。さらに新天地を求めて、東方や北方へ移住する人もいました。農具も工夫され、重量有輪鋤(車輪の付いた鉄製の重い鋤)が発明され、大地を深く耕すことができるようになりました。
さらに、この鋤で畑を細長くすじ状に耕し、畑を春まき、秋まき、休耕地と三区分して利用する三圃式農法も行われるようになりました。
これまで、農民は自家用の農作物を育てながら、週に何回かは領主のために領主の土地を耕す義務を負っていました。しかし、重量有輪鋤によって土地の区分を無視してすじ状に長く耕し、三圃式農法を導入することができるようになり、生産量は増えました。
これによって、農民達はこれまでのように領主のために労働する必要がなくなり、替わって生産物だけで地代を納めるようになりました。
生産物で地代を納めるようになると、生産量が増えれば、地代を払った残りの生産物は自分の物になります。ここに農民達が自分の努力で豊かになる道が切り開かれたのです。実際、余剰は増えました。
余った生産物は他の物と交換され、交換のために市がたつようになりました。やがて、定期市は常設市となり、その中には城壁をもった都市へと発展していくものもありました。
都市が成長するにつれて、領主との結びつきも切れて、都市の市民は領主や領民のいずれにも属さない階級へと育っていきました。
北ドイツや北イタリアでは都市が互いに同盟を結んで保護し合ったり、皇帝や国王と結んで、その保護下に入る場合もありました。
こうして、ヨーロッパに都市が誕生し、それらは互いに結びついてネットワークを創っていきました。ネットワークの先にはイタリアのヴェネツィアからコンスタンエィノープルからエジプトのカイロを経て、ムスリム商人のネットワークへと引き継がれ、中国の港まで至るようになりました。
このネットワークをとおして、遠方の珍しい品物や情報に触れる機会も多くなり、ヨーロッパの人びとも外の世界へと目を向け始めるようになていきました。
また、イギリスの羊毛や毛織物などの分野では、貨幣経済が農村にも入り込むようになっていきました。