各地域、同時代並行の世界史
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900年〜1200年:1

(4) 東アジアの繁栄

宋の時代の東アジアは経済的な結びつきを強めて、繁栄していた。
  1. 宋は軍事大国より経済大国を目指した。
  2. 南部を中心に海上貿易で栄えた。
  3. 東アジアの各地域でも、固有の文化が生まれていた。

平安末期

今の京都に都が遷されたのは794年です。遣唐使が廃止されたのが894年、鎌倉幕府が開かれたのが1192年ですから、この時代(900〜1200)年というのは平安時代400年のうちの後ろから四分の三の期間ということになります。仏教文化と貴族文化が花開き、中国の古代文化を国風文化へと日本風に深化させた時代でもありました。

それもやがて衰退時期を迎え、貴族達が末法の世と嘆くようにました。しかし、新しく台頭してきた武士達にとっては時代の表舞台に登場する時期を注意深く待っていた時代でもありました。

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宋の経済成長

中国は内乱、分裂の時代を経て、960年に宋が建国され、皇帝による強力な中央集権体制の下に文治主義の政策が遂行されました。地方の軍隊を縮小し、官僚を中核とする支配体制によって国を治める政治です。

それを支えたのは、国家試験とも言うべき科挙に合格した知識人官僚でした。彼らの多くは新興地主階級出身で、広大な土地を開墾・干拓して新しい農業技術をとり入れ、意欲的な農業経営で財力を蓄えた人びとでした。

形勢戸と呼ばれたこの人びとを中心にして、宋は大経済成長時代を迎えました。各地には都市が生まれ、海と川を結ぶ水上交通網が整備され、その経済活動は東アジアを大きく巻きこんで、発展していきました。

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優勢な遊牧民族

宋は万里の長城の修築を行ったり、北方に大規模な遠征軍を派遣することはありませんでした。その代わり、北方を脅かしていた遼・西夏・金など諸民族に、莫大な絹・茶・銀を毎年贈って、安定した外交関係を保とうとしました。

このような関係は、他の時代と比較すれば珍しい特徴でもありましたが、この事実は逆に宋がいかに経済的に豊かだったかを証明してもいます。

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江南開発と海上貿易

満州におこった金が南下すると、宋王朝は国土の北半分を放棄して、南に中心を移しました。宋代に干拓が進んだ水郷の江南地方は、この時代に飛躍的に生産量を伸ばしました。繁栄する南宋の港を目指して、東南アジアや西アジアからもイスラーム商人が訪れました。

これまでのラクダによる砂漠の交易と違い、船による海上貿易は大量の商品を運べ、陶磁器など重い商品もその対象になりました。

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