4世紀より始まったゲルマン民族の大移動に続いて、ヨーロッパには各方面からさまざまな民族が流入しました。6世紀にはスラブ人やブルガール人が、9・10世紀にはマジャール人(後のハンガリー)が、北からはノルマン人が移動してきました。
このような時代にあって、ヨーロッパでは封建社会が形成されていきました。
封建社会とは簡単に言えば、自分のことは自分で守ることを基本にした社会です。弱い者は強い者に頼んで力を借りました。その代償に差し出せるものを出しました。農民は作物を出し、守ってくれる者のために耕すこともしました。力のある者のところには、多くの従者が集まって、忠誠を誓い、互いに助け合いました。
教会や修道院も同じでした。僧侶達にとっては祈りが力でしたから、弱い者のために祈りました。侵入者たちから身を守れるようにと祈りました。感謝した人びとは差し出せる物を出し、僧侶達も力や財力を得ることになったのです。
こうしてヨーロッパは「働く人」と「戦う人」と「祈る人」に分かれ、互いに助け合いながら生きる封建社会が形成されたのでした。
地中海には古くからのキリスト教会が5つありました。
イスラームの征服により、ヨーロッパ人の手に残されたのはコンスタンティノープルとローマの教会だけでした。
東ローマ帝国(ヴィザンツ帝国)の都でもあったコンスタンティノープルの教会は主にスラブ人に、ローマ教会はゲルマン人に分担してキリスト教を広めました。そして、それぞれをギリシア正教とローマ・カトリックと言いました。
西ローマ帝国がすでに滅び、守護者を失っていた西ローマ教会は、信仰のスタイルを「祈り、働け」をモットーとするイタリアのベネディクトウスの修道院に見出しました。信仰ある者が集まり、共に生産活動をしながら学問と信仰を深める拠点として修道院は西ヨーロッパに広がっていきました。
もともと砂漠の宗教であったキリスト教を、森の民であるゲルマン人に理解させるには工夫が必要でした。イエスや聖母マリアの姿を絵に描いて示したりしました。キリスト教では、偶像を崇拝することは禁じられていましたから、イエスの姿を絵に描くことは許されなかったことでした。
コンスタンティノープルの教会はこうしたローマ教会を批判しました。このように、皇帝という力の後ろ盾をもたないローマ教会はコンスタンティノープル教会に対抗しながら苦しい布教を続けていきました。