日本が隋の都に使者を派遣して、交流を始めたのは607年でした。隋が滅び唐の時代になってからは、第一回遣唐使が630年に派遣され、それは894年に廃止するまで続きました。
日本からの使者は日本の特産品を唐の皇帝に献上しましたが、それ以上の品々を授けられて帰ってきました。これは朝貢貿易を呼ばれたりしていますが、当事者達にとっては立派な外交でした。それが東アジアの流儀でした。
異国の文物はそれを初めて見る者を驚かせ、古い時代にはそれには呪術的な力もともなって、支配者の威信をよく保ちました。
中国の最先端の文化に触れようとすれば、漢字を学ぶだけで十分でした。絵を文字にした漢字は、読み方は違っても意味は通じたので、民族を越えた文化の交流には好都合でした。
こうして、7世紀にはユーラシア大陸の東部には、巨大な東アジア文化圏が形成されていました。日本の古代文化もその中で芽ぶいたのでした。
8世紀の半ばに始まった内乱(安史の乱)により、中国は東アジアの文化交流センターとしての役割を果たせなくなりました。そのため、最新文化が届かなくなった東アジアの諸地域では、それまで中国から学んだ文化を基盤にして、民族ごとに固有の文化が形成されていきました。
例えば、日本人は漢字を略してカタカナを作り、漢字をくずしてひらがなを考案しました。衣服も住宅も日本の風土に合わせて改良され、国風文化が形成されました。
同様のことが東アジアの各地域におこっていました。こうして、各地域には中国という共通性を持ちながら、これぞれの固有文化が育っていったのです。
ユーラシア大陸の東部でおきていたのと同じようなことが西部でもおきていまいました。
商都メッカの商人ムハンマドは、部族間での対立が続くアラブの部族社会を、その人格と唯一神アッラーへの強い信仰により、ひとつの集団に束ねることに成功しました。
こうして、古来より交易の要衝を奪い合った争いは、7世紀にアラビア半島からおきたアラブ人を中心とするイスラーム勢力が勝者となって結着していきました。
唯一神アッラーに絶対帰依するこのイスラームの教えは、西アジアの風土によく合い、イベリア半島からアフガニスタンまで普及し、イスラームの法の下に人びとは安定した生活を手に入れることができました。
どの街にもモスク(礼拝所)とバザール(市場)ができ、イスラームの世界は広域のネットワークで結ばれ、商業活動が活発に進められました。その中心はバグダードで、ここに権力も富も情報も集中しました。
ムスリム商人(イスラームの信者をムスリムと言います。)からもたらされた各地の文物はバグダードで交換され、また商人の手によってイスラーム・ネットワークで結ばれた各地へと広がっていきました。
ムスリム商人は早くから海上貿易に関心を示しました。西アジアは地中海と中国やインドを結ぶ交易の要衝にあり、古代から海上貿易も盛んでした。
ムスリム商人の中には東南アジアから中国まで行く者もあり、中国やインドの文化もバグダードに届きました。それらはさらにヨーロッパにももたらせれました。彼らの商業活動は北欧まで及んでいたとが分かっています。