V:「生きづらさ」について
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第三章 依存する「自己」と自立する「自己」

妊娠・出産・授乳という流れから、乳幼児期の保育・育児では母親が中心的な役割をはたすことになります。赤ちゃんにとっても母親にとっても、ほとんど一体の状態からのスタートですから、まずは十分に依存することが赤ちゃんにとっては必要なことです。

依存すればするほど、発達の密度や質は高まるわけですから、依存そのものが自立のはじまりだとも言えます。

しかし、そこには矛盾もあります。依存度が高いほど、発達の可能性は大きくなりますが、同時に自立も難しくなるのが理屈です。なぜなら、自立とは依存した状態からの離脱、つまり依存の克服(否定)だからです。このふたつは、まったく逆の現象に見えます。このことをどのように考えたらいいのでしょうか。

※母親が乳幼児の世話をすることを前提として、これまで話をすすめてきましたが、それが「母親」であるとは限りません。父親とか施設の職員とかさまざまな場合がありますから、「養育者」を「母親」に限定せず、「第一養育者」とか「中心的な養育者」などと表記すべきですが、「母親」の方がイメージしやすいと考え、今後もそのように表現しています。ただ、その方が分かり易いというだけが理由です。

「第一養育者」以外の人びととの関係が、ここからは話の中心になっていきます。

9.イメージの世界とライブの世界

  •  母親を中心とする乳児期の体験をとおして、赤ちゃんのなかには下の図に示したような三つの世界が形成されていきました。
  •  ひとりで立ち歩くようになり、言葉も少しずつ話せるようになると、母親以外の人との関わりも深まり、それにつれてイメージの世界は豊かになっていきます。
  •  この過程で、どのような変化が赤ちゃんに現れてくるか、考えてみます。
  • 図(三つの世界)

    図(上の図を横から見ると↓)



    @イメージの世界をとおして見る世界

    話を進める前に、知覚について確認しておきます

    網膜に映った像を、私たちは直接見ることはできません。もしそれを見ることができたら、たとえば歩きながら眺めた彫刻は刻一刻と姿を変え、一瞬一瞬彫刻は異なったものとして目に映るはずです。にもかかわらず、それらをおなじ彫刻として鑑賞できるのは、脳の中で何枚もの画像がデーター処理されているからです。(知覚の「覚」は自覚の「覚」と同じです)

    朝、軒先に自分で吊した白いシャツの洗濯物であっても、夜に帰宅して見ればその時の心理状態によっては見知らぬ人影に見えるかもしれません。それと同じです。私たちは見えているものを見るのではなく、見ようとするものを見ているのだということです。ですから、まったく見たこともないような物に接したとき、見方がわからず、少なからずパニックをおこしてしまいます。

    私たちの知覚は、ライブの世界での豊富な体験を土台として成りたっていると考えられます。母親をはじめ他の多くの人たちとの「ライブ体験」によって培われた、豊かなイメージの世界が知覚を支えていると言っていいでしょう。

    Aライブの世界

    ライブの世界での体験は、五感をとおした身体的な体験です。ですから情感に直接ひびいてきます。生きていることに喜びを感じられるのは、こうした体験にもとづいていますが、それも、乳児期に十分な保護・養育を受けたという背景があるからこそ、深い充足感にもつながるのだと思います。

    この充足感は、単に生理的なことだけに拠っているのではありません。十分な保護を与えられ、求めれば与えてもらえるという乳児期の体験に裏づけられた、<他者への志向性>とも言うべき精神性をともなっているからだと思われます。期待すれば応えてもらえるのだという信頼感のようなものです。

    言い替えれば、ライブの世界での体験は、<大切なこと>を感じとる能力の源泉になっていると考えることができます。乳児期のこのような体験がなければ、何かを<大切なこと>と感じる能力が十分育たず、無気力で感動することの少ない人格が育ってしまうことが想像できます。

    Bイメージの世界の重要性

     ライブの世界での体験は母親との共同体験でした。しかし、それが身体的な体験であるのは、あくまでも赤ちゃん本人にとってのことであって、母親の身体を赤ちゃんが体験することはできません。このことは前にも確認しました。

    それを再びとりあげるのは、このことが、人間の精神の特徴を理解するうえで、きわめて大切なことだと考えるからです。それは次のような理由からです。

    ライブの世界の体験が共同体験と感じられるのは、本人(赤ちゃん)にとってだけです。にもかかわらず、それが相手(母親)にとっても等しく共同体験であると感じてしまうのは、本人(赤ちゃん)の思い込みでしかありません。そう思い込めるのは、それが乳児期の十分な依存体験に裏づけられているからこそではないでしょうか。 

    この思い込みこそ、人間がイメージの世界をきずきあげていく根拠になっています。どういうことかと言うと、たとえば相手との共同体験によって同じ<物>を見たと信じている場合、見たと信じているのは<物>そのものではなく、自分の体験にもとづく想像上のイメージでしかありません。相手も自分と同じ<物>を見ているはずだという<確信>こそが、イメージの世界の根拠なのです。

    そういう意味で、イメージの世界ライブの世界は互いに補強し合う、密接な関係にあると言えます。

    C価値と意味、ライブとイメージ

    「あらゆる状況で、何が<大切なこと>なのかを直感的に判断(価値判断)し、その状況に合わせてどう行動すべきか分析(意味分析)する」。これは、おそらくほとんどの動物にそなわっている生存のための行動原理ではないでしょうか。そのプロセスが単純か複雑かにかかわらず、動物たちはそのように生きていると考えられます。

    ライブの世界では、イメージ化された過去の体験をもとにさまざまな<価値>判断がなされます。一方、イメージの世界では、ライブの世界での体験が根拠となってイメージが生みだされ、<意味>が編まれていきます。

    この二つの世界が成りたっているのも、私たちが身体をもって自然界に生きているからこそなのですが、ライブの世界イメージの世界が充実したものになるにしたがって、「実在の世界」は意識の周辺に追いやられ、やがて、「在るはずの世界」となり、人生のメインテーマとなる機会は少なくなっていきます。

    「実在するはずの世界」がメインテーマにせり上がってくるのは、「大災害」に遭ったり、「大自然」の生の風景に対面したりするときです。

    赤ちゃんが、イメージの世界の住人としてふるまうのは、全面的に依存する時期を終えて、自立がテーマになってくる頃のことです。

    図(意味と価値との関係)



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