うつ伏せに寝かされて、乳児が窒息死する事故がときどき報じられます。乳児は、はじめは自分の体を自分で動かして寝返りをすることができません。新生児の脳は体重の約10パーセントを占めています(成人は2〜3%)。赤ちゃんの筋肉では、この重い頭を支えることができません。出生後は重力はすべて自分にかかってくるわけですが、新生児の筋肉は胎内の羊水に浸かっていた頃とほとんど変わりません。
このように、新生児は無力な状態で生まれてくるわけです。ですから、百パーセント他の人に頼らなければ生きられない存在だと言えます。この無力さが、逆に大きなメリットにもなります。無力だから誰かに頼るしかありません。だからその相手次第で、どうにでもなるわけです。
新生児は、もって生まれたすべての能力をつかって、自分がうまれた環境を全身で感じます。その中から生き延びられる可能性を見つけ出し、適応を始めます。それを私たちは「発達」と呼んでいるのだと思います。
新生児の生活は眠ることと泣くことで占められています。とにかくよく眠ります。そしてよく泣きます。母親はその泣き方から、子どもが何を求めているか推測して、世話をしなければなりません。
お腹が空いた。喉が渇いた。姿勢を変えて欲しい。ウンチやおしっこで気持ち悪い。汗をかいた。かゆい。そして泣く。泣くことによって、それに応えてもらう。このような状態で体感する「自己」こそ、最初の「自己」なのではないでしょうか。
母親に世話をやいてもらっている受け身の存在を「自己」というのはどこか奇妙な感じがします。英語で言うなら、「I」ではなく「me」が先に成立するというわけですから、順序が逆のようにも思えます。
しかし、それ以外に「自己」らしきものをさがしても、どこにもそれを見つけることはできません。あえて言えば、赤ちゃんの身体自体が「自己」と言えるのかもしれませんが、それと向き合い自覚する「自己」はまだ存在していません。ですから、「自己」とは他から働きかけられている身体の状態でしかありません。この段階ではそう考えるしかないと思います。
それでは、このような初期の「自己」とはどのような存在なのでしょうか。
新生児にとって「自己」とは、情動のようなものです。体全体で感じたり反応してしまう感情のかたまりです。全身で、苦痛をいやがり、気持ちのいいことを表現します。これが、「自己」の最初の「はたらき」です。誰かから働きかけられ、それに反応している情動そのものです。
自分では、何もできないわけですから、苦痛を和らげ、気持ちよくしてくれる存在に自然に体が向きます。奇妙な言い方かもしれませんが、赤ちゃんは積極的に受け身な存在だと考えられます。この段階での「自己」という「はたらき」とは、まさにこの受け身な姿に現れている「積極性」ではないでしょうか。
自分の体に自分で触る体験より先に、誰かから触れられている体験がある、そう言ったら「自己」というあり方をうまく表せるかもしれません。
図(meの形成)
自己」とは、まず触られる存在から始まるのだと思います。働きかけられる存在であり、同時にそれを受けとめる存在でもあるのが、「自己」の始まりなのです。
それでは、主格の「I」はどこからやってくるのでしょう。