環境に適応しながら命をつなぐ「しくみ」、それが生物です。しかし、人類が文明をもつようになって、その環境が急速に変化するようになってきました。
特に、二百年ほど前からその傾向は強くなる一方で、肥大するイメージの世界がライブの世界を呑みこんでしまいそうです。実は、このイメージの肥大化こそが、「自己という病」が広がる背景となっているのだと考えられます。このことについて、二・三の視点から考えてみます。
自分はどのような職業が向いているのか。進路や適性の問題は、思春期の多くの若者が抱える課題の一つです。しかし、それは解決しづらいテーマで、結局成りゆきに委ねられてしまうのが現実です。その一因は、学校教育のカリキュラムにあると思います。
現在の日本では、小学校六年、中学校三年、高校三年、大学四年の「六・三・三・四制」になっていますが、思春期について考える場合は、これを次のように四年を単位に区切った方が分かりやすいと思います。
表(学校教育のカリキュラム構造)
A:小学校の1234学年では、いわゆる「読み書き・そろばん」を基本とした、日常生活に欠かせない基礎的な知識を中心に学習します。小学四年生程度の知識で、十分普通の生活をおくることができるようになります。
B:小学5〜中学2年で学ぶ知識があれば、テレビや新聞の一般的な内容が理解でき、社会人として生活していくにはこれで十分と言える内容です。
C:中学3年と高校の三年間。この時期の学習は将来の進路選択に直接結びついており、その意味で必要不可欠ではありますが、すべての生徒に等しくその学習を強いるには、内容が抽象的で、専門的すぎるきらいがあります。
D:大学・専門学校等の四年間は、職業に結びつく専門的なことを学びます。将来のことを真剣に考え、経済的にも親から独立する準備をする時期です。
このように学校教育は、日常生活と職業訓練という二つの柱によって成りたっています。特にAの小学校低学年とDの大学(専門学校)では、まさにそのままの内容です。
それに対して、位置づけが難しいのが中学と高校です。どういうことでしょうか。(発達段階としては、小学五年から中学二年までの四年間と中学三年から高校三年までの四年間ですが、以下では現行の制度にしたがい中学・高校として区切ります。)
小学校低学年では日常生活にかかわる具体的な知識を身につけ、大学(専門学校)では職業生活にかかわる専門的な技術や知識を学ぶ、つまり、両方とも学習の中心が実生活に直結する具体的な内容になっていますが、その間に挟まれた中学・高校、特に高校では、生活に直結しない教養中心の内容ばかりの授業が続きます。
さらに、中学と高校では力点の置き方が微妙に異なります。中学校では、小学校での日常生活に根ざした具体的な内容を、視野を広げて体系的かつ総合的に学習します。身の回りで体験することを論理的に整理し、それをよりいっそう深く理解できるようになり、学習意欲も自ずと高まりやすい時期でもあります。
雑然と思われた自然界の背後に存在する秩序、図形がもつ性質を言葉だけで証明する論理の力、社会の仕組みにほどこされている巧みな配慮と工夫、歴史の変化にみられる法則性。こうしたことは、教わらなければ知らないまま終わってしまうことです。それを知ることができた喜びと自信。自分を取り囲む事象が合理的に説明できる言葉の力への信頼と敬意。これらは、自分を信頼して生きぬく力となって、人の生涯をささえるはずです。
ところが、高校の授業は、中学と違っていきなり学問的で教科書の記述も抽象的になります。もちろん教材の配列には教育的な配慮がなされてはいるのでしょうが、予め準備された体系をどこか高いところから授けられているような、一方的な感じで膨大な量の情報が迫ってきます。
それはおそらく、高校卒業後に予定されている専門教育の準備としてカリキュラムが設計され、その情報量も決まっているためだと思います。ですから、進路がはっきりと決まっていない大多数の高校生は、学んでいる自分が、どっちに向かって何を学んでいるのかつかめないまま、教室に座っていることになります。
中学生の段階では、受験する高校が決まればそれで済んでしまいますから、人生設計や適性について深刻に考えることもなく、結論は先延ばしの形になります。
しかし、高校での進路決定ではより具体的な選択が迫られます。とりあえずは、合格可能な進学先を決めれば、進路問題の結論はさらに先延ばしにできますが、ここで、「自分は何に向いているのか」とか、「後悔しない人生の選択とは」とか問い始めると、正解のない問いだけに事態は厄介なことになっていきます。
さらに、高校生は職業の選択ができるほど社会の実情を知りません。自分の適性を判断できるほど、経験もつんでいません。つまり、高校生に進路選択を求めるのは、社会の制度上やむを得ない事情のためで、その決定を高校生に迫るのは、大人の責任転嫁です。
大方の高校生は、納得のいかない中途半端な状態に置かれたまま、なるように身を任せるしかないのが実態ではないでしょうか。
地域に根付き、気心も知れた少年少女の世界であった義務教育の教室から、人生で初めて「自己責任」で選択した高校の校門。そこで大人の世界の代理人として、そして、専門的な知のトレーナーとして立ち現れる教師たち。少なくともそのような立場にある大人から、権威ある体系として学問が強いられたとしたら、十五・六歳の若者たちには、真実が既に確立されて疑うこともできない客観的な体系として見えてしまうのは至極当然のことです。そこに主体的な学びの姿を期待するのは難しいことです。
「もしも、こうだったら」と仮定の姿を示すことで、中学・高校の教育がかかえる問題点を明らかにしてみたいと思います。
まず、中学と高校の間にある「壁」についてです。中学二・三年頃になったら、生徒を学校教育の枠から「外の世界」に出し、さまざまな体験ができるようにしたらどうでしょうか。国内留学(海外も可)の形をとって、生まれ育ったのとは異なった環境で生活体験するとか、職場や生産現場を実体験するとか、社会活動に参加するとか、希望する分野の専門教育を一定期間体験するなどが考えられます。
そこでの体験を踏まえて、学ぶ必要性を感じたり、興味や関心が湧いた分野の学習を、選択的に学習する仕組みを準備します。高校・大学・生涯教育の境界を取り払い、必要に応じて学びたいときに学ぶことができるよう、企業や行政の仕組みを変える必要もあります。教室と実社会の垣根を低くするということです。
自分の適性や進路を考える年齢になったとき、このような環境にあったら、孤立して悩んだり劣等感を深めたりせず、親や教師以外の大人や違う環境にある人とのつながりの中で、生きる道筋を探すことができます。当然、学びの質も変わることでしょう。そうすれば、思春期のイメージも一変します。つまり、思春期特有の問題の多くは、社会が若者たちに強いることによって生じていると考えられます。
進路選択が現代人にとっての「代謝」の問題なら、もう一つは「生殖」の問題です。小学5年から高校3年までの八年間の折り返し点は中学二年の十四歳です。ちょうど、男女の身体的特徴がはっきりし、異性を強く意識し始めるころです。進路選択と並ぶ思春期の二大テーマのひとつです。
恋愛、結婚、家族といった問題は個人差が大きいテーマです。人によって感じ方や考え方に違いがありますから、できるだけ「縛り」をなくしたら、どうなるか考えてみたいと思います。
妻が「専業主婦」の核家族という「標準家族」では、所有と生活と生殖が一体となっています。しかし、この形を「標準」とするには、現在の日本社会はかなり無理な状況にあります。実際はもはや崩壊同然の夫婦や家族でも、他に選択肢がないために、「仮面夫婦」のように形だけが維持されているケースは珍しくありません。
したがって、この三セットをバラバラにして「縛り」を軽くしてしまえば、無理がなくなり、それぞれの実情に合わせた人間関係や生活スタイルが選択できるようになるのではないでしょうか。
そのため、まず世帯単位で設計されている現在の社会保障と税金の制度を、個人単位に組み替える必要があります。そして、家族に任せている子育てや介護を公的な扶助(お金やサービス)に移行させます。
さらに、婚外子を制度的に認めて、子どもの養育義務と夫婦の関係を切り離して多様な家族の形を選択できるようにします。これにより、無理のない生活スタイルが可能になるように思います。
そんなことをしたら、いくら税金を徴収しても足らない、という反論も予想できますが、無駄と無理によって生かされていない人々の力が解放されれば、予期できない社会的なエネルギーが引き出せる可能性は多分にあると思います。
「思春期」にも終わりはあります。そのゴールとはどのようなものなのでしょうか。
いつ頃からか、「勝ち組」という言葉を耳にするようになりました。どんな意味か勝手にイメージしてみました。
ア)自己実現:自分の個性を伸ばし、自分に合った職業に就いて、自己実現できる人生 をおくる。
イ)「幸せな結婚」:心から愛しあえる異性と出会って、経済的に安定した生活をきず く。
ウ)存在肯定:自分たちと同じような人生を歩めるように、子どもを育てる。
おそらく、この三条件が揃えば勝ち組となり、男性であれば(ア)の自己実現、女性であれば(イ)の恋愛結婚が欠ければ、「負け組」となります。
自己実現と「幸せな結婚」に加えて、自分たちの生き方を肯定する象徴として、「自分たちと同じような人生を歩く」子どもの存在が、「勝ち組」の条件としては欠かせません。
三条件揃って勝ち組となった家族には問題はないのでしょうか。
たとえば、こんな家族がいたとします。「専業主婦」の母親は、自分の子どもが将来、夫のように安定した職業に就き、充実した人生がおくられるようにと、教育に余念がありません。夫は、住宅ローンの返済と子どもの教育費の重圧、さらに職場での激しい競争にすり切れそうになって働いています。
そんな中、自身の「過干渉」に気づかない母親の存在に、思春期の子どもはイライラしながら、進路や異性への片思いに悩み、学習に身が入りません。父親や母親のような生き方がほんとうに生きるにふさわしい人生なのかと自問自答しながらも、目標のもてない自分に自信を失うばかりです。テレビドラマによくある設定です。
このような場合、前述した「もしも、こうだったら(学校編)」でイメージした世の中が当たり前の姿になっていたらどうでしょう。この若者は、両親と子どもだけの息が詰まりそうな家族とは異なる外の空気に触れることができるはずです。そこで、生き生きとした現実に触れながら、自分の進むべき道を模索できる可能性は高いはずです。
また、「もしも、こうだったら(家族編)」のように、家族のかたちを自由に選べたなら、夫は責任を背負いすぎたり、妻も自分の「役割(妻や母)」だけに追い込まれることもなく、もっと自由に互いの気持ちを交わしあえるはずだと思います。
そんな環境に少しでも近づくことができれば、「自己という病」に苦しむ人を減らすこともできるにちがいありません。 (了)
山田昌弘氏が『「婚活」時代』(山田昌弘・白河桃子共著2008年)で「婚活」という言葉を使って以来、「○活」なる造語が盛んです。「就活」の語源の「就職活動」は以前から使われていましたが、それにならって結婚を「婚活」としたのには時代の風潮を表す新鮮さがあり、この「婚活」も定着したかのような感があります。
就職と結婚は、かつては親から独立して大人として生きていくための人生の二大テーマでした。当然のこととして、そう考えられてきました。しかし、それに「活」の字をつけるのには、「やるしかないから、やっています」といった突き放したスタンスを感じます。既存の職業観(転職)や結婚観(恋愛結婚)、つまり人生観や価値観が変わりつつあるのかもしれません。
生物学の用語で例えれば、生活の糧を得るための就職は「代謝」で、結婚は「生殖」です。このふたつはすべての生物の基本的な活動で、その形態は多種多様です。
時代によって、就職や結婚のかたちが変わっていくのは当然のことのように思います。