V:「生きづらさ」について
自己という病
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18.フィクションとしての近代社会

  •  近代社会は身分制の社会を否定して生まれました。つまり、近代社会は国王や貴族らとの戦いの中でつくられたのです。
  •  ですから、どんな社会にするのか、あらかじめ設計図があったわけではありませんでした。
  •  その理念は、国王や貴族との戦いの中で、いわば「売り言葉に買い言葉」の勢いで、吐き出されたものなのです。(王権神授説VS社会契約論)
  •  つまり、それは社会の現実を説明すると言うよりも、「俺たちはこう考える」といったイメージでしかありませんでした。
  •  市民革命によって近代社会が実現したのだと思い込みがちですが、近代社会とは、言わばフィクションだったのです。そのへんの事情について考えてみます。
  • @イメージが優先する近代社会

    「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。日本国憲法にはそう書かれています。「だから、外国が攻めてくれば、それを追い払い、政府はその義務を果たさなければならない」。これは正論です。

    そこで、仮定の話ですが、実際に外国の軍隊が攻めてきたとします。敵を追い払うためには、少しでも自国の軍隊が有利に戦えるようにしなければなりません。そのような場合、政府は国民より軍隊の方を優先します。勝つためにはそうするしかありません。その結果、国民に犠牲がでることは十分ありえます。

    実際、太平洋戦争のとき、そのような悲劇が多数起きました。国民の生命・財産を守るために、多くの国民が生命・財産を失う結果となったのです。この矛盾をどう考えればいいのでしょうか。その責任はだれがとることになるのでしょうか。国際法に則った戦争ならば、単なる政策の失敗ですから政府は総辞職するだけなのです。

    政府が守るのは、フィクションとしての国民であり、それはイメージの世界の話です。ですから、政府の政策が手続きにおいて合法的なら、国民が負う被害について政府が負うのは政治責任だけです。それ以上責任は問われません。そうでなければ、怖くてだれも政治家にはなりません。

    しかし、そのような体制において、個人の人権はきちんと守られるのでしょうか。

    フィクションだった「個人」

    「公民」の授業で自然権という言葉を耳にしたことがあると思います。「何人(なんぴと)も侵すことのできない、人が生まれながらにもっている権利」です。生命・自由・財産・幸福を追求する自由などがその内容として掲げられています。

    しかし、「生まれながらにもっているはずの権利」、そのどれもが侵されている現実があります。自然権を宣言する意味ってあるのでしょうか。いつも不思議な気がしていました。

    そして気づきました。これは国王の横暴に怒った人々が言っただけの言葉なのだ、と。気づいて納得できました。二百年くらいさかのぼって素直に歴史を読めば、当然のことなのです。しかし、これを文章にして憲法として発表すると、意味が違ってきます。

    憲法とは、政府は人権を守って政策を実行する、と宣言しているだけなのですが、その人権の根拠を、「人が生まれながらの、侵すことのできない権利(自然権)」とすると、違和感があります。どういうことか考えてみます。

    「生まれたとき、あなたは自由でしたか」と尋ねられても、私たちは答えようがありません。私たちは生まれてから、「自己」が形づくられ、自分を意識するようになり、自由だとか平等だとかを問うようになったわけで、生まれながらに自由・平等であったとすれば、それは自由・平等な存在として受け入れてもらっただけだったはずです。

    つまり、人権とはイメージの世界での議論であって、そこでの「個人」とはフィクションに過ぎないのです。そうあってほしいという願望と言ってもいいでしょう。

    B契約を守ることが最優先

    その「個人」を単位に近代社会の骨格が組み立てられています。分かりやすい例が、「契約自由の原則」です。「契約は、互いに対等な人格の意志に基づき、自由に行うことができ、正当な契約は守らなければならない」。これは近代社会の根幹をなす基本原則です。結婚から会社経営まで人間関係のすべてがこの「契約自由の原則」に基づいて行われることになっています。

    しかし、「対等な人格の、自由な意志」と言っても、現実ではそのようなことは稀です。働かなくても生活に困らない人と、住む家もなく食物にも困っている人とが対等に契約できるでしょうか。大企業と中小企業とではどうでしょうか。男女の間ではどうでしょうか。

    つまり、「対等な人格の、自由な意志」も法律の世界だけの、つまりイメージの世界の話なのです。つまり、これもやはり願望です。

    C婚姻は対等な男女の意志だけに基づく?

    さらに、他の例です。かつては、結婚と言えば家と家の間で行われるものでした。その名残か、いまでも、結婚式場には「○○家と□□家」と、標識が立てられます。しかし、戦後、「婚姻は両性の合意にのみもとづく」と、これもまた憲法に明記されました。そのためか、夫婦と子どもだけの核家族が世の中の主流となりました。

    多くの女性は恋愛結婚に憧れ、夫が妻と子供を養い、妻は夫を支え、子育てに専念する形の「専業主婦」が女性の生き方のスタンダードな形となりました。政府のさまざまな統計にも、それを前提として夫婦と子ども二人の四人家族が「標準世帯」とされ、それが政策決定にも反映されてきました。(マンガもドラマもそれをモデルにつくられていました)

    しかし、そこには矛盾がありました。夫の収入で四人分の生活費がまかなえるならそれは可能ですが、現実はそれとは異なりました。安い賃金のパートで妻は不足分を補わなければなりませんでした。

    一方、男女の格差がなければ、夫婦で働けば4人分×2人で八人分の生活費をまかなえる額になります。扶養家族手当や減税など「標準世帯」への配慮はありますが、仕事が同じなら、「共稼ぎ」と「専業主婦」の世帯とでは圧倒的な格差です。

    しかし、二人で働くと、育児や家事の負担はどうなるのでしょう。保育所は子どもを預けて働けるだけの状態になっているでしょうか。家事を分担できるほど勤務時間は配慮されているのでしょうか。

    現実は、給料は安く、雇用は不安定です。正規・非正規の格差は広がり、非正規雇用の社員が増えれば、正社員の負担は増え、責任は重くなるばかりです。保育や育児のサポートもなく、ゆとりある生活のための労働環境がなければ、とても結婚したり、子供を育てたりはできません。

    「婚姻は両性の合意にのみもとづく」という憲法の原則も、とても現実には成り立たないイメージの世界だけの話のように思えます。

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