V:「生きづらさ」について
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第六章 「自己という病」その感染の背景

環境に適応しながら命をつなぐ「しくみ」、それが生物です。しかし、人類が文明をもつようになって、その環境が急速に変化するようになってきました。

特に、二百年ほど前からその傾向は強くなる一方で、肥大するイメージの世界ライブの世界を呑みこんでしまいそうです。実は、このイメージの肥大化こそが、「自己という病」が広がる背景となっているのだと考えられます。このことについて、二・三の視点から考えてみます。

17.イメージの世界が肥大した背景

  •  まず、文字という観点からです。
  •  前述した森敦史さんは、幼い頃は手話で会話ができていたのですが、点字を習うようになって、自分は日本語を分かっていないことに気づきました。
  •  このことからも理解できるように、文字は日常生活の世界とは別の世界に広がっているようです。
  • @言葉を知ることは共生のあかし

    まず、言葉について考えてみます。

    「奇跡の人」という映画があります。見えない・聞こえない・話せないという三重の障害をもったヘレン・ケラーとその家庭教師アニー・サリバンの実話にもとづいた映画です。この三つの障害によってヘレン・ケラーは触覚と味覚・嗅覚とだけでしか外界とつながっていませんでした。そのためヘレンは世界に言葉が存在することを知らないで育ちました。

    粗暴なヘレンに手をやいていた家族は新しい家庭教師のサリバンにヘレンのしつけを期待しますが、サリバンはしつけだけでは満足しません。この世界には意味というものがあり、それは言葉によって支えられていることをヘレンに教えようとします。サリバンのさまざまな取り組みにもかかわらず、ヘレンは言葉という存在を理解できないまま映画は終盤になってしまいます。

    最後の最後でヘレンは「ウオーター」と腹の底から絞り出すように発声します。それは一歳の時に病気にかかる前にヘレンが唯一知っていた単語でした。ヘレンは言葉と意味を一度は体験していたのでした。

    その瞬間、粗暴だったヘレンが一変します。ヘレンは興奮し、さまざまな物の名前を知りたがります。また、それまでは、あたかも好き嫌いの感情だけでしかつながっていないように思われた家族やサリバンとの人間関係が人格をとおしたそれに変わります。

    サリバンがヘレンに求めていたのはこれだったのです。それを「精神」と言ってもよいでしょう。ヘレンはなぜ言葉の存在を知っただけでこれほど変化したのでしょうか。言葉とは何なんでしょう。

    ヘレンは一歳の時すでに言葉の存在を知っていました。忘れていただけなのです。ヘレン以外にも貧困、障害、差別などが原因となって言葉の存在を知らないで育ってしまった人たちがいます。そうした人びとに言葉を教えるプロジェクトがあります。(※)

    そこでも、言葉を獲得した人びとはその体験をとおして指導者と人格的な深い結びつきをつくりあげています。美しい夕陽を見て、思わず顔を見合わした二人のように感動的な瞬間です。人は言葉によって世界を再構成し、それを他の人と共有します。人は言葉によってこの世界に踏みとどまっていると言えます。

    ※「言葉のない世界に生きた男」スーザン・シャラー著 中村妙子訳(晶文社・1993)

    A音の聞こえない世界

    言葉について別の角度から考えてみます。聴覚支援の学校で聞いた話です。

    ソフトボールの試合で、ピッチャーが投げたボールがバッターにあたってしまいました。バッターの生徒はそのピッチャーの生徒に猛然と駆け寄ると、ひどく乱暴をふるってしまったそうです。なぜそんなことをしたのか、後で教師が尋ねると、プロ野球の試合をテレビで視ていて、そういう場面があったから、と答えたそうです。

    その生徒は、テレビの映像だけで、デッドボールの場合はそうするものだと、理解してしまっていたのです。音が聞こえないと、物事の強さの加減や度合いと言ったことが理解しずらいので、見えたとおりのことを自分本位で解釈し、そのまま単純化して理解してしまったのかも知れません、とのことでした。これを聴覚障害による二次障害と言うそうです。

    これと似たことは、電子メールのやり取りでもよく起きます。直接会っての会話や電話でなら感情が相手に伝わります。しかし、指先だけで打ち込み、一瞬で送信されてしまう電子メールですと、パターン化した言葉で極端な表現を選んでしまい、それが一方的に伝わって、思わぬトラブルが起きることがあります。

    音声をともなわない言葉は、ライブの世界から離れ、イメージの世界で空回りして暴走してしまう危険性をはらんでいるようです。

    B話し言葉と書き言葉

    話すときは相手が目の前にいます。ですからそれはライブの世界です。書いたり読んだりは一人でできますから、文字はイメージの世界の伝達手段です。しかし、文字には読み方があります。つまり、文字はライブの世界に根をはっているということです。

    ライブの世界での共通体験によりイメージを共有し、イメージの世界が生まれるところに言葉があります。文字はそのイメージの世界を拡大していく有力な手段となっています。

    その文字によるコミュニケーションが普及し、イメージの世界がどんどん膨張するようなことになったら、私たちはどのような世界に生きることになるのでしょうか。実は、そうした世界はもうすでに現実のものになっています。

    文字の使用は、今から約6千年ほど前にさかのぼりますが、使うのは神官や役人、僧侶や知識人といった一部の人たちだけでした。文字が一般に普及し始めたのは、印刷と製紙の技術が広がった五百年前ころからです。

    普及当初は特別の知識を求める人たちが文字を学びましたが、近代になって学校教育が始まると、別次元のスピードと規模で普及しはじめ、文字は日常生活に欠かせないものになりました。今では、文字を知らなければ、普通の社会生活ができないほどです。この変化にはどのような意味があるのでしょうか。

    C文字の向こうに見えたもの

    オランダ語で書かれた医学書に、辞書もなく挑戦した前野良沢と杉田玄白の話は、人々の学問への熱い気持ちを表す典型的なエピソードとして広く知られています。江戸時代、こうして始まった「蘭学」はたちまち志ある人々の心をとらえ、「洋学」として西洋の文物を知ろうとする大きな潮流となっていきました。

    「蘭学事始」から約百年、「富国強兵・殖産興業」のスローガンの下に、日本全国で学校教育が展開され、小学生のときから文字を学ぶようになりました。そして、それから更に百年、90%を超える若者が高校へ進学するようになりました。

    この二百年間、日本はどれだけ変わったでしょうか。士農工商の身分制度はなくなり、男女とも皆どんな職業にも就く機会が与えられるようになりました。農林水産業中心だった産業構造は、急速な工業化を経て、サービス業などの第三次産業中心の社会になりました。

    文字にはどうしてこれほどの力があったのでしょうか。実は、世界を変えたのは文字ではなく、文字をとおして見えた向こう側の世界です。端的に言えば、西洋の科学・技術が現実を変えた力でした。

    方法が正しければ誰にでも等しく得られる結果。何度でもおなじ結果が得られる手法。これこそ、科学・技術が人々を魅了した力ではないでしょうか。文字(図版も含む)が伝え広めたのはこの力への道筋だったのではないかと思います。

    D文字が普及して変わったこと

    それでは、文字が普及することによって、一番大きく変わったのは何でしょうか。まず挙げられるのは人の意識です。

    熊本地震のとき、動物園から猛獣が逃げ出したという情報が、ネットを通じて流れ、パニックが起きました。また、米国の大統領選挙で、「国外からの情報操作で選挙がゆがめられ、予想外の結果になった」と、疑惑が広がりました。

    最近の事例だけでも、挙げるのに事欠きません。何が真実なのか。どのようにそれを判断したらいいのか分からない状況になっています。世界中が瞬時につながり、映像すら自由に加工できるようになった現在、イメージの世界は収拾できないほど肥大して、コントロール不能に陥っています。もはや、イメージの世界を支え、それを更新し続けているのはイメージの世界自身で、ライブの世界は極めて私的で小さな世界に閉じ込められつつあるかのようです。

    ライブの体験によって更新されなくなったイメージの世界とそこで生成されるイメージの自己は、肥大するイメージの世界によって書き換えられ、現実から遊離していきます。そのような環境では、「自己」はもはや「超越的自己」と呼ぶしかありません。この先、どのようなことになるのでしょうか。

    E循環する自己と遊離する自己

    これまでの話は次の図のようにように整理できます。

    ライブの世界@での体験を通してイメージの世界Aが生まれ、イメージの自己Bが形成されました。自我は自己保存を最優先にイメージの自己Bを整理・統合しライブの自己@を準備します。この回路が循環(自己の循環)することによって、イメージの自己Bは更新され続け、現実に対応するライブの自己@が維持されていることになります。

    人間関係が複雑になると、これまでの直接的なイメージによる<生活世界>に加えて、他の人の体験に基づく間接的なイメージによる<客観的世界>へと思考の範囲は広がっていきます。

    飛躍的に拡大した間接的なイメージが、自己増殖すると、循環しない固定的な世界として絶対的世界が形成されるようになります。これにより、現実から遊離した更新されない自己である、超越的自己が誕生します。

    図(循環する自己と遊離する自己)

    Fクローン技術が突きつける問題

    中国で猿によるクローン実験が成功したという報道(2018年)がありました。人間を使ったクローン技術によって、再生医療に革命が起きると信じる人もいます。生まれると同時に、新生児の細胞からクローン児をつくり、一緒に成長させていく。そうすれば、何歳になっても、クローンの体から自分とまったく同じ臓器を移植することができると言う話まで出てきました。

    こうような場合、自分と一緒に成長したクローンは人間ではないのでしょうか。クローンの意志はどうなるのでしょうか。ここに、人間と自然の関係が逆転してしまった究極の姿があります。

    生き延びるために、環境(自然)に適応して自らを変化させてきたのが生物でした。そこから派生した一種である人間が、自然を改造することで生き延びる道を選び、人間自身を自然の一部として改造しようとしています。これは「自己」の絶対化です。まさに「超越的自我」にほかなりません

    この傾向は、近代になって強まるようになりました。近代社会は何を私たちにもたらしたのでしょうか。

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