V:「生きづらさ」について
自己という病
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16.絶対的世界と超越的自己

  •  私たちが体験する現実とは別に存在するイメージの世界とはどのような世界なのでしょうか。
  •  それによって「自己」はどのような影響を受けるのでしょうか。
  • @「自己という病」と超越的自己

    話は続きます。これまでの議論では、「生活世界」から独立して「客観的世界」が存在することはないとしてきました。存在するのはライブ体験の果てしない積み重ねと、ライブの世界イメージの世界との間の絶えざる更新だけでした。

    もし、「生活世界」とは別に「客観的世界」が存在するとすれば、それは滅多に更新されることのない絶対的な世界であり、そこで生成される「自己」とは、ライブの世界イメージの世界を超越した超越的自己とでも言うべき存在だということになります。(次ページ図「絶対的世界と超越的自己」参照)

    この存在しないはずの絶対的な世界が、あるかのごとく感じるのは、「自己という病」に感染した証拠なのではないでしょうか。どういうことか説明します。

    人間関係がひろがり、体験する内容も増え複雑になると、「間接的」なイメージの世界が形成されるようになりました。自我は、この「間接的」なイメージの世界をも活用しながら、イメージの自己を整理・統合し、ライブの自己としてそれを再編成することになります。

    この過程で、「間接的」なイメージの世界のひとつとして、「絶対的世界」、つまり何にも影響を受けない絶対基準のようなものが、大きな力をもって立ち現れてきたらどうでしょう。と言っても、どこかから現れるのではありません。あくまでもそれが存在するという確信です。

    自分の活動をとおして常に更新され続けている「自己」なら、ライブの世界での体験によって検証することができます。しかし、この「絶対的世界」にもとづいて「自己」を調整してしまえば、もうライブの世界での体験などに振り回されなくてもよくなります。「間接的」なイメージを考慮する必要もなくなります。まさに「超越的自己」です。

    それでは、「生活世界」とは別に存在する「客観的世界」、つまり更新されることのない不変の「絶対的世界」が存在するのだと、「自己」はなぜ確信できるのでしょうか。

    図(絶対的世界と超越的自己)



  • ●@→A→B・C→D→@ (循環する自己):@からDを経て@へと循環して、新しいライブ体験により常に更新される。
  • ●X→B・S→C・D (循環しない自己):ライブ体験によって更新されない絶対的なイメージにより支配され、現実から遊離する超越的自己が成立する。
  • A入れ替わった手段と目的

    科学は「生活世界」での問題を解決しようとして、積みあげられてきた考え方の手順であり、方法でした。つまり、人間にとっては手段だったのです。研究すべき対象は、あくまでも「生活世界」での諸事象であり、その延長上に広がる世界でした。科学は人間にとって、言わば、暗い夜道の少し先を照らし出す灯りでした。

    しかし、研究が深まり知識が増えることによって、科学は、人間とは独立して存在する「客観的世界」を研究する学問として体系化され、それを研究すること自体が目的になっていきました。

    そうすると、人間も「客観的世界」の一部になり、それを眺めている視線がだれのものなのか分からなくなります。研究の主体であったはずの人間が、その体も心も自然の一部として研究の対象となってしまったのです。この先、研究が進み、もし人間の心が一般法則に従うだけの存在だと結論づけられてしまったら、私たちにはどのような自由が残されるのでしょうか。科学は何を目的に研究することになるのでしょう。人間は何を望んで生きたらよいのでしょうか。

    自然観に関する、そして人間と自然との関係に関するこの逆転はどのように起きたのでしょうか。実は、この手段と目的の逆転現象は、近代社会全般にみられる現象なのです。このことについて次章で考えてみたいと思います。

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