「言葉を知らないで話していた!?」森敦史さんの講演を聴き終わって受けたときの衝撃をひとことで言うとこうなります。平成二十九年八月、神奈川県の久里浜で行われた「全国盲ろう教育協議会」でのことです。
「盲ろう」とは視覚と聴覚の両方に障害があるという意味です。その障害の程度は人によって様々ですが、「奇跡の人」でよく知られるヘレン・ケラーも同じような状態にありました。
視覚に障害をもって生まれた森さんは、二歳のときに聴覚にも障害のあることがわかりました。その後、家庭での手厚い養育の後、はじめて公の教育機関で教育を受けたとき、手話はできるが日本語が分からない自分に気がついたそうです。
家族とは手話での会話で日常生活ができていたのですが、それは日本語とはまったく別の言葉だったのです。いわば、ボディー・ランゲイジ(ジェスアー)のようなものだったのです。言語によって意思疎通ができることを知った森さんは、その後、学校で点字を習い、日本語の理解を深めていったそうです。また、空想と現実の区別が難しく、空想の物語もほんとうに存在していると思っていたとも話されていました。(講演は補助者による手話通訳を通して行われました)
以後、森敦史さんは勉学に励み、盲ろうのハンディ・キャップをのりこえ大学進学をはたし、大学院を経て、社会福祉学科で勉学を続けているとのことです。
森さんの話を、これまでの話の流れに沿って整理すると、次のようになります。
幼いころの森さんが家族との間で意思疎通できていたのは、ライブの世界での実際の体験と直接結びついた「直接的」なイメージだったと考えることができます。私たちの日常生活はこの世界で展開されているという意味で、これを「生活世界」と言うことにします。
それに対して、森さんが学校で初めてその存在を知った日本語は「間接的」なイメージによる意思疎通だったということになります。図にすると下のようになります。
図(生活世界と客観的世界)
ここで重要なのは、その「間接的」なイメージは実際のライブ体験を通さなくても、他の人のライブ体験をイメージの世界をとおして間接的に共有できるということです。勿論、そう確信されているだけですが、多くの人が同じようにそう確信すれば、その「間接的」なイメージの世界は「生活世界」と同じように現実に近いものになります。この「間接的」なイメージの世界によって構成される世界を「客観的世界」と言うことにします。
さて、本題にもどります。ライブの世界での体験によってイメージの世界が更新されなくなったら、過去のイメージや上位のイメージがそれを補うことになります。
学校教育などでは、直接的な体験を経なくても、疑似体験したかのように教材を配列し、効率よくイメージの世界を広げていくように工夫しています。ですから、たとえば全世界を旅行しなくても世界のあらましを地理で学ぶことができるわけです。このようにして、数学、物理、歴史と「客観的世界」はどんどん広がっていきます。
さて、ここにひとつの問題が生じます。「客観的世界」とはどこにあるのでしょうか。これまでの議論では、それは「間接的」なイメージによって形成されたはずです。
このことについて、話題を科学にしぼって考えてみます。分かり易いように、よく知られた天動説と地動説を例にします。
かつては大地(地球)を中心に世界が動いていると考えられていましたが(天動説)、いまでは逆の理解で地動説が主流になっています。しかも、中心のはずの太陽も動き、宇宙も動いていることになっています。
問題の確信はここからです。この地動説を確かめるには、それなりの知識と観測が必要です。宇宙の動向に至っては一般の人には観測すら困難です。つまり、多くの人は地動説が正しいのだとただ信じているだけなのです。そう信じた方が、いろいろなことが首尾よく進むからです。面倒なことがパスできるのです。たとえば、「惑星の軌道」理論が理解できなくても、とりあえず学者の権威だけは認めておこうといった気持ちなどです。つまり、「生活世界」になんの支障もなければ、どちらでもよいことなのです。
しかし、科学者たちはそれでは納得しません。彼らは主張します。実験や観察にもとづき、その事実に反しない論理的な説明ができてはじめて、それを「客観的真実」と言うことができるのだと。
では、実験や観察がなぜそれほど重要なのでしょうか。それは自然の一部だからです。自然とは、私たちをとりまき、実際に向きあい、共有していると確信する「世界」のことです。つまり、「生活世界」です。と言うことは、「客観的世界」とは「生活世界」となんら変わらない、私たちがライブ体験を積み重ねているこの「世界」のことになります。
整理すると、私たちが直接体験する世界が「生活世界」であり、多くの人の体験をとおして吟味され、共有されていると納得できる「世界」が「客観的世界」だと言うことになります。ですから、人間から独立して「客観的世界」があるのではなく、「客観的世界」は「生活世界」での体験に基づいているということになります。
しかし、ここに問題が生じます。私たち一人一人の「生活世界」を超えて、つまり私たち一人一人の死後も「客観的世界」は存在し続けるのかという問題です。
「世界」は神が創造したと考える神話や宗教が、かつて世界各地にありました。現在もそう信じているいる人は多くいます。そう信じられれば、「世界の始まり」や「世界の果て」について思いをめぐらすこともありません。なぜなら、「世界」を創造した神の存在は確かめることはできず、信じるしかないことだからです。つまり、かつては「世界」の存在はその理由を問うことなく受け入れることができていたのです。
しかし、神が「世界」を創造したと信じない人々が増え、「世界」がどのようにしてできたのか、説明する必要が生じました。人間も「世界」の一部なのですから、人間とは無関係に存在する「世界」をどのように説明したらいいのでしょうか。
「客観的世界」は、人間とは無関係に存在するのか。それとも、それは、「生活世界」の延長に私たちがイメージする「世界」なのか。どちらが正しいのでしょうか。
こうした問題が生じてきたのは、神が「世界」を創造したのだと信じられなくなったためです。だから、神に代わる存在が必要になってしまうのです。しかし、根拠なく神以外の理由を想定するのは、新しい「神」をつくることと同じです。
いずれにしても、「生活世界」とは別に「客観的世界」を想定するには、ライブの世界での体験を根拠にしない、固定されたイメージの世界を別に前提にする必要があります。現実的な体験から遊離したイメージの世界とはどのような世界なのでしょうか。