「自己という病」をめぐって、「自己」とは何か考えてきました。これまでの議論をふまえ、「自己」が関わる範囲をひろげて、「自己」は「世界」とどのような関係にあるのか、考えてみたいと思います。
これまでの議論で明らかになったのは、次のようなことでした。私たちが他の人びとと共にこの世界に生きていると確信できるのは、下の図のような循環が乱されることなく維持されているからでした。
図(自己の循環)
この循環(@〜D〜@)が乱されたとき、どのようなことが起きるのでしょう。それはどのような場合でしょうか。まず、そこから考えていきます。
本人の意志にかかわらず、人はさまざまな集団や組織に関わって生きていきます。幼児期、学童期、青年期をとおして、親族、学校などの集団・組織、職場、私的な集団、国家などと、さまざまな集団への所属が次々に迫られます。
集団・組織といっても、具体的にはそこでの人々とさまざまな体験をするだけの日々でしかありません。その体験に応じて、ライブの世界、イメージの世界が形成されます。それは、おおよそ次の図(増える自我)のようになるはずです。ポイントは次の二点です。
図(増える自我)
自我が増えてしまったかのようにふるまうのは、普通のことです。たとえば、友人との集まりでのふるまい方と、職場での態度は異なるのが自然です。だれもが普通にやっていることです。しかし、この自我がさらに増え、場合によっては相矛盾するようになってくると、どうでしょうか。
関係する人が次々に増えると、その度にライブの自己は緊張しながらライブ体験をこなしていくことになります。それにともないイメージの世界とイメージの自己が次々に生成されるわけですから、自我は調整しきれません。
そこで、行われるのがイメージの世界の整理・統合です。たとえば、職場での人間関係については一括して「イメージの世界(職場用)」、友人関係は「イメージの世界(友人用)」と整理してしまえば、イメージの自己も少なくてすみます。つまり、オーバーワークになっている自我の仕事を合理化して負担を軽減するわけです。
こうして、イメージの世界の整理・統合が進むと、イメージの世界には階層ができ、上位と下位のイメージの世界ができます。しかし、イメージの世界は他の人と共同のライブ体験にもとづいて生成されたものでしたから、それを、自我の負担を軽減するために、つまり自己都合で整理・統合してしまって、何か不都合が生じないのでしょうか。
図(階層化されるイメージの世界)
まったくの自己都合で勝手にイメージの世界が加工・修正されてしまっては、それに基づいて生成されるイメージの自己にも影響がでます。最終的にはそれは新たなライブ体験へとつながっていきますから、他の人との共同体験に影響が出てしまうのは当然です。予期しない行動に、「どうしちゃったんだ?」と戸惑う人もあるかもしれません。そうなれば、イメージの自己を再修正しなければなりません。このように、イメージの世界は常に検証を受け更新され続けなければならないのです。
イメージの世界とライブの世界の循環がうまくいっていれば、バランスのとれた人間関係が維持できるわけですが、そこに支障がでるようになると、新たなライブ体験にもさまざまな支障がでてきます。それはどんな場合でしょうか。
イメージの世界とライブの世界との間の循環がうまくいかなくなるのは、この循環以外のところから力が加わる場合です。たとえば、危険が迫っているなど生存が脅かされるような場合です。そのような事態では脳の中心部にある領域が素早く反応して、自己保存の行動をとります。
この緊急制御装置のような仕組みは、人間に限らず多くの動物にみられます。怒りや不安などの感情や記憶などにも、同じように脳の中心部が関与しています。
したがって、ネグレクトや虐待を受けた辛い記憶があるとか、親の過干渉によって自我が巧くはたらかない場合は、自己保全を最優先させる自我が作動してしまいます。その結果、恐怖心とか不安感とか生存を脅かすような事態に対応したモードでイメージの自己が調整されてしまうのだと考えられます。過剰反応です。
と言っても、どこかに自我という装置があるわけではありません。ライブ体験→イメージの世界→イメージの自己→ライブの自己の順で更新される過程で、イメージが修正されたり、古いイメージの自己や上位のイメージの自己が取って代わったりするのです。