ネグレクト・虐待と比較して、過干渉の特徴を考えてみます。
【 過干渉にみられる特徴 】
親などによるネグレクトや虐待では、乳幼児は安定した保護・養育が得られず、親と乳幼児との共感的なライブ体験そのものが成立しづらい環境にありました。
一方、過干渉では保護・養育という点では子どもは十分すぎるほどの環境にあり、過保護と混同されることもあるほどです。ですから、子どもに過剰な干渉をしている母親には、その自覚がないことがしばしばあります。「あなたのことを思って、こんなによくしてあげているのに、何が不満なの?」と、成長した子どもに向かって母親が詰問するようなことになってしまいます。
それでは、過干渉のどこに問題があるのでしょうか。
(十分な保護・養育)→(母子一体の安定した環境)→(ライブの世界の成立)→(イメージの世界の形成)、と順にたどっていっても、特に問題はなさそうに思えます。しかし、この過程にすでに問題は芽を出しているのですが、それがはっきりしてくるのは、母親以外の人との関係が増え始める頃からです。
母親との共同体験(ライブ体験)によって形成されたイメージの世界。そこに生まれたイメージの自己。イメージの自己を整理・統合してライブの自己を準備する自我。この循環が母親以外の人との間でも成立すれば、自立という課題は達せられるわけですが、過干渉を受けて育った場合、どのような支障が生じるのでしょうか。
ライブ体験→イメージの世界→イメージの自己→(自我)→ライブの自己。この「自己の循環」に支障が生じるとすれば、考えられるのは自我の部分以外にありえません。なぜなら、この過程だけは、他が直接関与できない自己防衛の仕組みですから、かえって支配されやすいのです。支配されても本人はそれに気づかず、自己修正されることがないからです。そこには次のようなメカニズムがはたらきます。
まず、母親の存在が強く影響するイメージの世界でイメージの自己が形成されます。そうすると、自我によって整理・統合されるライブの自己もその影響を受けます。これでは、新しいライブ体験をしても、それによって更新されるイメージの世界は常に母親の影響を受けたものとなってしまい、母親以外の人との間では「自己の循環」が成立しづらくなります。つまり、人間関係がうまくきずけなくなるのです。
例えれば、製造工程(自我)は正常であっても、原料(イメージの世界)に問題があれば、不良品(ライブの自己)しかできません。
母親に依存するしかなかった乳幼児にとって、母親との関係こそ唯一絶対の生存条件であったはずだからですから、このような人格支配も可能となってしまうわけです。
ライブの世界での体験によってイメージの世界が更新されても、イメージの自己が整理・統合される過程でそれが編集されず、ライブの自己に反映されなかったら、現実に起きていることの意味が理解できず、食い違った行動になってしまいます。
たとえば、ある人から親切にされても、「お母さんはあの人は嫌いだ」とすりこまれていれば、子どもはその人の好意を正しく受けとめられなくなります。親切にされた体験は、不可解な体験になってしまうことでしょう。(余談ですが、差別はこのようにして広がっていくのかもしれません)
イメージの世界は、ライブの世界での他の人との共同体験にもとづく<確信>によって成りたっていました。それが「生きている」という現実感の基盤になっていました。ですから、ライブの世界とイメージの世界が結びつかなくなったら、現実感の乏しい不安定な世界に放置されてしまうことになります。
そのような状態にある人が「自己」の存在を肯定し、人間関係をきずいていくことができるでしょうか。自分の生き方に、自分なりの物語を構築していくことができるでしょうか。
過干渉を受けた子どもと母親の関係は、生涯にわたって対等ではなくなります。どういうことか、下の@からBの図で説明します。三つの図をよく比較してみてください。
図@とAでは、子供と母親は共同体験することで豊かなライブの世界を持ち得ているのですが、Bの図では母親は子どもと同じ体験をしていると決めつけてしまっています。つまり、それによって形成されるイメージの世界でも、自分(母親自身)は子どもと同じ世界を共有していると思いこんでしまっているのです。
子どものうちは、母親のこの優越的なふるまいが、何を意味するのか子どもには理解できません。乳幼児期からこのような立場で母親が子どもに接したら、子どももそれが自然なことだと思ってしまいます。
母親も悪意でそうしているわけではありません。「危ないよ」、「こうした方がいいよ」と愛情ゆえに干渉しているだけです。何がいけないのでしょうか。
過干渉を受けて育った子どもにとって決定的なのは、「人と共にこの世界に生きている」という共生感が弱いことです。普通なら、ライブの世界での共同体験をとおして、イメージの世界がつくられ、そこでのイメージが自分の行動の指針となって自己決定していくのですが、親の干渉が強いと、子どもは自己保全の意識から自己規制してしまい、親の意志を優先させてしまいます。
なぜ、自分の満足より、親の満足の方を優先させるようになるのでしょう。乳幼児期からずっと、母親との世界が最優先されてきたのですから、それは当然の結果です。親が困惑した表情をすれば、子どもは不安になります。悲しんだり失望したりする親の姿を見るのが子どもにとって何よりもつらく、親を喜ばせられなかった自分に罪悪感すらもつようになっていきます。そんな自分に内心では苦しみながら、親からの過干渉を生涯自覚できない場合もあります。
そのため、「自分の人生の外でしか生きられない」という空虚感がつよくなってしまいます。過干渉は子どもから人生を奪ってしまうと言っても言い過ぎではないでしょう。
近年、親による過干渉をテーマにしたテレビドラマがさかんに放映されます。そのためか、普通の会話でも「過干渉」という言葉が使われるようになりました。
しかし、ドラマでは過干渉の母親は異常に自己愛の強い「毒親」として描かれ、その父親は家族に無関心な「仕事中毒」か「浮気男」として登場します。つまり、過干渉の親は「悪い人」か「変な人」として描かれているため、不幸な過去を背負った特殊な存在にされてしまいがちです。
視聴率に過敏なテレビでは、過度な毒性は嫌いますから、「特別な人間」としておく方が無難です。視聴者に不安を与えないようにするためです。
業界の事情でそのような描かれ方になりますが、実際には、過干渉の「毒親」たちは、どこにもいる親です。軽重を問わなければ、過干渉はいたるところで普通に行われ、その影響は多くの人に及んでいると思われます。
これは極論ではありません。感染しても発病する人としない人がいるように、過干渉によって生きづらくなる人とならない人がいるだけで、過干渉の影響はいまや社会現象になりつつあるように思われます。そこにはどのような背景があるのでしょうか。
過保護と過干渉が混同されることがあります。その違いは微妙ですが、過干渉では子どもの判断や意志決定に親が介入し、親の意志に子どもを従わせてしまいます。しかも、外から強制的にそうするのではなく、それが子ども自身の意志であるかのように操作してしまうのです。親はそれが子どもへの愛情と信じていますから、親も子どももそれに気づくことが難しくなります。なぜそのようなことになるのでしょうか。
そうなるには、いろいろなケースがあると思われますが、共通するのは「他者性の否認」ということです。くだいて言えば、子どもを自分とは別の人格であると思えず、その結果子どもの人格を否定することになってしまう親の姿勢です。(母子の無理心中などもその根っこは同じですが、その背景については章を改めて論じたいと思います)
図(イメージへの母親の影響)
過干渉を受けて育った場合、ライブ体験そのものが自分の体験として実感されにくく、その結果ライブの世界によってイメージの世界がうまく更新されなくなります。自分の体験とは直接つながらない「イメージの自己」が自分をコントロールするようになり、やがて、自分の身体すら影のように感じられるようになってしまいます。