V:「生きづらさ」について
自己という病
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11.自我とは何か

  •  成長するにつれ、新しい人との出会いが増え、イメージの世界は広がっていきますが、それはただ量だけの問題なのでしょうか。
  •  数が増えるだけで、それ以外はなにも変わらないのでしょうか。
  • @増え続ける「自己」

    母親以外の人との新しい関係も、当初は母親との関係を軸にして広がっていきますが、やがて、幼児との直接的な関係が増えていき、幼児も自分自身の関係として母親以外の人と関わりをもつようになります。

    その関係も、始めはライブの世界でのその場限りのものであっても、関わりのチャンスが増えて過去のイメージの記憶が呼び起こされたり、さらに他の人物を交えての関わりになったりと、その関係は複雑になっていきます。

    こうなると、自我が中心となって「交通整理」の役割をはたす必要がでてきます。その結果、出来てくるのが人格です。端的に言えば、仮面です。「あの人にはこの仮面」とばかりにそれをかぶれば、「交通整理」も巧くこなせそうです。古代ギリシアでは演劇の仮面をペルソナと呼び、それはパーソナリティの語源となったと言いますから、このことはあながち比喩だけの話ではなさそうです。

    演劇の仮面→役柄→人格。この連鎖は何を意味しているのでしょうか。そうです。仮面の内側にいる役者です。観客の期待に応えようとして演技に余念のない役者の姿です。

    なぜ、観客の期待に応えなくてはならないのでしょうか。

    A役割を演じて、ドラマに参加

    相手の期待に応えて役割を演じるのは、まさに始まろうとしているライブの世界でのドラマに自ら参加することを意味しています。それは取りも直さず、相手からの承認を得るための行為でもあります。つまり、相手の承認を得ることによって自身が存在する確証をえようとしているのです。これが、ライブ体験のエッセンスです。

    この過程をひと言で言ってしまえば、自己保全です。目の前の人からの承認を得ることで、ひとまず安心を得ようとしているわけです。

    理屈っぽくなってしまいましたが、初めての教室に立った転校生を想像してみてください。まずは、自己紹介をして、「どうぞ、よろしく」とクラスの生徒たちに頭をさげます。教室に拍手が湧けば、「転校生の演技」は立派に終了です。自分の席に腰掛けている転校生の少しほっとした顔がうかびます。クラスの生徒たちからも緊張の色が消えています。

    やっと自立を始めたばかりの幼児でも事情はおなじです。このようにして、私たちは、自分を取り巻く人との関係に馴染んでいくわけです。

    B自我は万能なのか

    ここに新たに疑問が湧きます。絶えず増え続けるイメージの世界の複雑な人間関係を整理しきれるほど、私たちの自我の処理能力は万能なのでしょうか。

    幼児の場合、いろいろな人たちとの人間関係が母親を軸としたものであったとしも、それはライブの世界でのことです。そこには予期せぬ出来事が満ちています。幼児の「処理」能力の限界をこえています。

    実際の話、幼児にとって、ライブの世界の大半は処理しきれない体験として忘れ去られるか、「奇異」な体験としてイメージの世界の片隅に置き去りにされてしまいます。

    幼児にとって大切なのは、「安心できるのか、できないのか」といった自己保全につながる情報です。ライブの世界での行動指針となるのは、イメージの自己です。そのイメージの自己を整理し、ライブの自己の行動を決めているのが自我です。その自我は自己保全を最優先してそれを行っています。

    この流れを図にすると、次のようになります。

    C更新され続けるイメージの世界

    回りくどい言い方になってしまいました。ひと言で言えば、幼児にとってライブの世界イメージの世界も不安定なものだということです。だからこそ、ライブの世界での新たな体験をとおして、既存のイメージが妥当なものなのか確認する必要があるのです。イメージの世界は更新し続けられなければ、すぐに古びてしまいます。

    ライブの世界とは、母親(又は他の人)と同じ世界に生きているという<確信>にもとづいていたことを思い出してください。<確信>だからこそ、それは絶えず確認されなければなりません。イメージの世界もそれにもとづいて更新し続けられるのです。

    したがって、いくら正しく見えようと、それは幾たびも更新されて残り続けた結果であって、絶対的に正しい普遍的なイメージではありません。

    ということは、ライブの世界での体験は、私たちにとって欠かせない体験であり、その体験をともにする相手との関係は不可欠なものであるということになります。

    D欠かせないライブの世界

    「自己という病」について最初に提起した三つのポイント(自己コントロール不全・関係不全・自己肯定感の欠如)に、話は戻ってきたような気がします。

    自己を形づくっているライブの世界イメージの世界がバランスよくはたらき続けるには、生身の人間関係が必要でした。その関係によって体感することのできるライブの世界における<確信>こそ、私たちに意味をもたらしてくれるイメージの源泉でした。そして、このイメージの世界をとおして、私たちは自身の存在が他によって承認されているのだと<確信>して、自分を新たな行動へと駆り立てていくことができているのでした。

    ということは、「自己という病」における三つの症状である「自己コントロール不全」・「関係不全」・「自己肯定感の欠如」は、このライブの世界イメージの世界の歪みやアンバランスが原因となって起きているということになります。少なくとも、そう考えることが可能です。

    次の課題は、この仮説の検証ということになります。それを、次章で自立の問題として考えていくことにします。


    浜田寿美男氏の著作の一部を紹介します。
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