V:「生きづらさ」について
自己という病
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10.母親以外の人との関係

  •  全面的に誰かに依存しなければ生きられないほど未熟な姿で生まれてくるからこそ、生まれてからの可能性が広がるということは、つまり、依存度が高ければ高いほど、質の高い自立が期待できることを意味します。
  •  しかし、依存と自立ではまるで正反対の意味です。この相反する二つのテーマはどのように両立するのでしょう。
  • @「視覚障害者と美術館へ行く」

    強い依存状態からの自立はどのように可能か。このことについては、なかなか巧く説明できないでいたのですが、ふと気づくことがありました。きっかけは、伊藤亜沙氏の著書「目が見えない人は世界をどう見ているのか」に出てくる「自立とは、依存する相手を増やすこと」という言葉に出会ったことでした。この言葉で、それまでの考え方がまったく逆だったことに気づきました。

    伊藤氏のこの本には、目が見えない人と一緒に美術館で絵画鑑賞する話が紹介されています。絵画を前にして、見える人が見えない人に説明するのですが、ある時、湖だと思い込んでいたのが、実は野原だったことに気づきます。湖と思っていた部分に、黄色い斑点があることに気づいたからです。点描法によって光りが表現されていたのです。これは印象派特有の描き方ですが、見えない人の質問によって、目が見える人たちは初めてそれに気づくことができたのです。

    このような鑑賞の仕方を「ソシアル・ビュー」と言うのだそうですが、互いに助け合う、補い合うという意味で、これは依存のひとつの形だとも考えられます。

    自立とは、母親以外の人の助けも借りて生きられるようになることだ、と考える方が現実の姿に近いと思われます。

    ※『目の見えない人は世界をどうみているのか』伊藤亜紗・著(光文社・2015)

    A自立とは、依存する相手を増やすこと

    「自立とは、依存する相手を増やすこと」。このことに気づけなかったのは、自立のイメージを「個人」中心に考えすぎていて、自立を依存と対立的にとらえてしまっていたからだと思います。伊藤亜沙氏はそのことに気づかせてくれたのでした。

    自立のイメージを個人中心に考えてしまう背景には、近代社会の仕組みがあるように思います。母親の手を離れ、学校に通い、就職して結婚するまでの過程を自立と考えると、その一つひとつの段階は、個人として生きられるようになるために経なければならないステップのように見えてしまいます。そして、子どもの成長は発達のためにあるという逆転した発想につながってしまいがちです。

    しかし、保育園・幼稚園、学校、就職、結婚、子育てなど人生のほとんどは、常に人に助けられたり助けたりの関係によって成りたっています。日常生活を含むすべての経済活動も助け合いによって成りたっているのが社会の実態です。

    そう考えると、自立とはこうした多くの人との助け合いの関係に入っていくことだとも考えられます。発達とは、目標ではなく、結果と考えた方が現実に合っているように思えます。

    B人見知り

    自立をこのようにとらえると、赤ちゃんは意外と早くから自立へと向かい始めていることに気づきます。

    乳幼児の一時期、慣れていない人に接すると、泣きだしたりして怖がる様子を赤ちゃんが見せることがあります。それまでは見せることのなかったこの反応は、赤ちゃんが母親(及び家族)と他の人をはっきりと区別できるようになったことを示しています。

    言い替えれば、母親(家族)を大切な存在として他と区別できているということになります。このことは、母親(家族)以外の人の存在も認知できていることを示しています。

    やがて「人見知り」もしなくなり、赤ちゃんは母親(家族)以外の人とも安定して接することができるようになります。この過程で赤ちゃんに何がおきているのでしょう。

    Cライブの自己

    自分が見ている<物>を母親も見ていることが分かるようになり、赤ちゃんの世界がライブの世界イメージの世界に分裂し始めると、赤ちゃんはこの二つの世界を往き来できるようになっていきます。

    そうした前提があってはじめて、赤ちゃんは母親以外の人との関係を受け入れられるようになっていきます。なぜなら、母親もこの母親以外の人もそして赤ちゃん自身も同じ世界にいることを感覚的に確信できているからです。(世界は母親との体験によって支えられている!)

    その都度消え去っていくライブの世界にはライブの自己がいます。そのライブの自己もその都度消えてしまいますが、その体験はイメージの世界での体験として記憶され、イメージの自己がその体験の数だけ生成されます。そして、以後おなじ相手には以前のイメージの自己が呼び出され、それは新しい体験によって更新されていくことになります。

    相手によって次々と生成される「自己」。さらに更新され続ける「自己」。こうして、複雑に絡み合う「自己」に一貫性を持たせる必要がでてきます。「自我」とは、この「自己」について一貫性を維持しようとする「はたらき」ではないでしょうか。

    図(自我と自己)



    D自我と人格、自己と自分

    ここで、自我と人格、自己と自分の使い分けについて確認しておきます。

    自己紹介のとき、「私は○○です」と切り出します。これを「自分は○○です」と言い替えることはできますが、「自己は○○です」とは言いません。「自己」という言葉は「自己分析」とか「自己紹介」などと使ったりします。

    つまり、「自分」は他の人に対して自身を表すときに使い、「自己」は自分自身について第三者の立場から表現する場合に使ったりするようです。

    「自我」を「自己」の一貫性を保つ「はたらき」だと考えれば、「自我」によって一貫性を与えられたその「内容」つまり、他の人から見た「その人の人柄」といった意味合いが「人格」にはあると思います。したがって、「多重人格」とは一貫性が保てなくなって、複数の人格がその人の中に存在するように見える状態だということになります。

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