「つきあってみるしかない。」「だめなら、別れればいい。」これが人間関係における基本です。これは男女に限らず言えることです。
しかし、この当然のことが成り立たないことがあります。どんな場合でしょう。
「つきあってみるしかない。」「だめなら、別れればいい。」親子にはこれはあてはまりません。親子の関係はなかったことにはできない関係です。
このことに、人間関係におけるドラマや悲劇のすべてがあります。
自分の中に比較する過去を持たない、評価する基準もない状態を人は胎児期に経験します。母親が胎児に準備した環境だけが胎児にとっての世界のすべてです。そこでの体験が人の精神世界をかたちづくる土台となります。
出生し、立って歩いたり、乳以外の食べ物を摂取できるようになるまでは、やはり人は母親(又はその代理人)を頼って生きるしかありません。人にとって、胎児期と乳児期に体験したことが対人関係の基本となるのです。
この時期の体験に基づきそれ以後のさまざまな体験が比較され、評価され、受け入れられて行きます。
この時期に母親と安定して豊かな時間を持つことができなければ、その人の「幸福体験」は歪んだものにならざるえません。
それ以後にきづかれる人間関係やさまざまな体験は歪んだ「もの差し」によって混乱し、苦しい人生を余儀なくされます。人を愛したり、愛されたりすることが難しくなることもしばしばです。
幸い胎児期や乳児期に母親と安定した幸せな時間を持つことができたとしても、思春期にうまく親から自立できなることが多くあります。
例えば、虐待を受けてきたとか、親の強いコントロールの下に置かれていたとか、アルコール依存症で親としての役割を十分はたせていなかったとか、そうした生い立ちを経験した人の中には、安定した人間関係が形成できなかったり、豊かな体験をとおして拓かれていくはずの世界が貧しい内容で終わってしまうことがあります。
このように考えると、親になることが怖くなります。しかし、完璧な生育環境などはだれもに望めません。誰もがなにがしかの困難さを背負って生きています。
ですから、どんな人も多かれ少なかれ、生育の過程で親との間にストレスを体験し、「幸福体験」に傷やゆがみを抱えることになるわけです。すべての家族は特殊な存在です。
誰もが過去を背負って生きています。そうするしかありません。「こうあるはずであったこと」より、まず「こうである」今の自分を受け入れ、「こうしたい」ことに目を向けていくしかないと思われます。事態を今以上に悪くしないためにも。
そして、自分がそうなら、他の人も事情は同じだと考えるのが自然です。今の自分を受け入れれば、そういう自分を誰かに認めてほしくなります。それは、その相手を無条件に認めることから始めるしかありません。