愛されるために人を愛するのなら、それはなぜ「特定の人」でなければならないのでしょうか。それは、食べ物の好き嫌いと同じなのでしょうか。
食べ物や人についての好き嫌いに影響する原因として、次のことが考えられます。遺伝による身体的な要素、胎児期・出生後の体験、育った家庭・社会・時代。遺伝による身体的な特徴も受胎後の体験をとおして現実となるのですから、体験と考えられます。
存在しないものを好きになったり嫌いになったりできないのですから、これは当然なことでもあります。
相手のどこが好きなのか、なぜ好きなのかは説明できないものです。もちろん体験をとおしてそれが推測できることはありますが、それも一種の体験ですから、好き嫌いは体験をとおしてしか確認できないと考えるべきです。
見たことのないものを理解することはできません。初めての体験することはそれを過去の体験と比較し、評価されて初めて自分の体験として受け入れられるのです。
好きだと感じる人も、おそらく過去の幸福な体験との比較により、肯定的なものとして受けいれられるのだと思います。
過去の体験が好き嫌いの基になっているとすれば、「この人しかだめ」とか「特定の人」しか好きにならないことは考えにくいことです。少なくともそこには幅があってもよさそうです。
もし、「特定の人」しか好きになれないとしたら、それはその人自身のなかの心理的な要因つまり物語がそうさせているはずです。
気づかないうちに自分のこころの奥底に埋め込まれた「幸福体験」のプログラムが、ある人との出会いによって自動的に作動したとしたら、それを運命と感じてしまうことは十分ありうることです。
しかも、その「特別の人」は、その人自身の欲求に駆られて、自分(私)のなかのプログラムをonにして、「幸福体験ワールド」に自分(私)を連れ出してくれたら、それは夢のような話です。
しかし、その「幸福体験」のプログラムの内容は本人には知らされていません。それ以後どのような展開になるのかも分かりません。
相手の人も同じように別の「幸福体験」プログラムを持っていたとしたら、その二つのプログラムは破綻することなくかみ合っていくのか、何の保証もありません。体験してみるしかないのです。恋も一寸先は闇の世界です。失敗をくり返して、破綻を回避する智慧を身につけていくしかありません。