誰かを好きになることは、頻繁に起こることではありません。人を好きになるとはどんなことなんでしょう。
恋する人に、君は相手のどこが好きなの、どうして好きなったの、と尋ねてもまともな答えが返ってくるとはまず期待できません。声がしびれる、横顔の頬のカーブが好き、影のある目がたまらない。
そんな答えを聞いても、本人以外には理解できないことが普通です。おそらく、これらは本人にとっても好きになった理由にはなっていないでしょう。
好きになった理由は相手のなかにあるのではなく、本人の心の状態にあるのです。好きになったと思えた瞬間に、その本人が「生きている」と感じられたとき、人は大抵恋に落ちています。
そうでなければ、悲しい話ですが、結婚詐欺なんて成り立ちません。相手によって幸せな気持ちになっていると確信できれば、間違いなく恋です。
人はなぜ、自分以外の人間をとおして自分の幸せを確認するのでしょうか。自分の安らぎや充足感の原因をなぜ他の人に見いだすのでしょうか。
それは、生まれて死なずに育った人は必ず乳児の時は誰かに守られ、一方的に保護された記憶を持っているからです。幸せは人から与えられるものだと確信しているからなのです。
人は未熟なまま生まれてくることによって、人に依存して生きることを宿命として背負っています。愛されなければ生きられない人はやがて愛がなければ生きられない存在へと成長していきます。
しかし、愛される歓びは乳幼児期に体験して知りますが、人を愛することはどのようにして知るのでしょうか。
強制力やお金で得られた愛で人は満足できるでしょうか。相手の自由な意志による愛でなければ意味がありません。しかも、それが愛されたかった人であればなおさらその歓びは深まります。
その相手が、愛されたかった人であればなおさらです。愛することとはより深く愛されることをその動機としているのです。
誰かを愛したいという欲求を強く感じ始めるのはやはり思春期です。しかし、それは必ずしも自然な性的欲求だけによっているわけではありません。
両親を男や女として意識し、家族からの疎外感を感じ始めることにより、誰かを愛したいという欲求は強くなるのだと考えられます。
誰かを愛することは、必ずしもその人から愛されることを保障するものではありません。それどころか愛されないという孤独を知ることにもつながります。
このような自意識の危機をのりこえることにより、人は自己という存在に目覚めることができるはずです。愛は孤独と背中合わせの心のうごきかもしれません。