家族で一緒にポルノ映画を見ることはあまりありません。予期せず、そのような場面がテレビに映し出されたら、居間の空気は氷つきます。少なくとも気まずい状態になってしまいます。どうして、性的なテーマと家族は相性が悪いのでしょう。
小学校の時、女の子だけが作法室に集められて、教師から話を聞く機会がありました。そこで何が話されたのか、同級生の女の子たちは男子に絶対に話してくれませんでした。「なぜ女子だけが?」男子には不思議で仕方ありませんでした。こんなことはそれまでに一度もなかったことだったからです。
しかし、当時はこれは性の問題ではなく、保健の問題として処理されていたのだと思います。
健康や衛生の問題ではなく、授業で話題が性の問題に近づくことがあります。しかし、「性」の問題の扉は開けられることなく、そのすぐそばを足早に通り過ぎてしまうことが時々ありました。生徒たちにもそれはわかり、みんな一瞬緊張し、そして安堵したものでした。
学校でも男女の問題として「性」を取り上げることにはなかなか馴染めないものです。
「雄しべと雌しべ」の比喩でなく、性器そのものを使って性教育が行われるようになりました。注意深くその授業を観察してみますと、それは多くの場合「性」についてではなく、「性器」についての授業でした。
「性」と「性器」は同じではありません。「性」とはどこまでも人間の心の問題です。
それでは、「性」を語るとはどんなことなのでしょう。こころの問題としての「性」とは自分と自分以外の人間の心と心の触れあいが中心的なテーマになります。
性器がともなう局面もそうした触れあいのひとつであっても、すべてではありません。そして、これは自分と自分以外という意味では必ずしも男女でなくても構わない世界です。
思春期になり、男女の身体的な特徴がはっきりするようになる頃、若者は異性に惹かれるようになります。それと同時に、両親という存在が男・女として意識されるようになります。
この二つは分かちがたく一緒におこりますから、身体の性的な成熟が異性に関心をもつ原因だと考えられがちですが、本当は、青年は家族のなかで居場所を失うことがその原因なのではないでしょうか。
性的な世界の定員は二名です。そこは男女二人の世界です。家族も例外ではありません。息子が男に娘が女になってくれば、彼らの居場所は家庭ではなく、それは同じ世代のなかに見いだすしかないのです。動物の世界にこれを喩えれば、子供たちも求愛を始める季節を迎えていることになるのです。
巣作りのパートナーとして誰を選ぶべきか。動物の世界なら、健康な子供が期待できる相手とか安心して子育てができる相手を選ぶことになります。
この原理は同じ動物である人間にも働いているはずですが、それ以上に、「好き・嫌い」という物語がここで重要になってきます。誰かを好きになる、とはどんなことなのでしょう。