適性や好き嫌いで職業を選んでもいいですが、社会的な評価も気になります。
職業に上下関係はあるのでしょうか。
余りにも有名すぎて忘れ去られてしまったような福沢諭吉のこの言葉は、明治維新を経て近代社会へと歩み始めた当時の日本の課題をスバリ言い当てていました。
身分から契約の時代に入ったのだから、人は平等でなければなりません。契約が重視されるべきなら、その契約の元となる個人は自由に物事が決められなければならないからです。
しかし、職業には本当に貴賤はないのでしょうか。やはり、人前で堂々と言える職業と、胸を張っては言えない職業はあります。少なくともそう感じさせてしまう何かが私たちの心の中にはありそうです。
例えば、飛行機のパイロットは、バスの運転手と同じ公共の乗り物を操作して乗客を運ぶ仕事ですが、パイロットの方が給料も社会的な地位も高いと誰もが感じています。なぜでしょう。
飛行機に乗るとき私たちは、危険をある程度覚悟します。つまり、パイロットに大きな期待を寄せて、搭乗するのです。そのパイロットはバスの運転手よりは特殊な訓練を受け、おそらくより多くの試練を乗りこえてその仕事についているはずです。さらに、失敗した時の影響は甚大です。
このことを言い換えると、社会的な責任や期待が大きい仕事ほど地位が高いと、誰もが信じているのだと思います。
職業は社会的な期待にこたえる責任を背負っているようです。給料をもらうし、お客からは代金を取るのだから、責任があるのは当然でもあります。しかし、契約だから責任を果たす、対価を得ているので責任があるという論理だけでなく、職業は人びとの期待を背負って成り立っていることに注目してみてはどうでしょう。
人びとの期待は分業から生まれます。社会全体がうまく動いていくようにと配慮されて配分された仕事が職業なのですから、自然に生まれた分業であっても、仕事を分担された人びとは当然、きちんと義務を果たすように期待されます。
この期待し合う人びとのつながりを社会的な連帯と見ることはできないでしょうか。
資本主義のイメージは一人一人が自分の利益を求めて競争している社会の姿です。しかし、そのバラバラの一人一人を結びつけているのは、分業を成りたたせている社会全体のつながりや連帯です。この視点から見れば、職業は社会参加(=連帯)のきずなと考えられます。
若者が「就活」の厳しい現実のまえに、社会への信頼や人生への希望を失っているとすれば、それはこの社会的な連帯を感じることが難しくなっているからではないでしょうか。