『音楽之友』記事に関するノート

第3巻第04号(1943.04)


決戦下楽壇の責任山田耕筰(『音楽之友』 第3巻第4号 1943年04月 p.12-13)
内容:楽壇は音楽のために存在するのではなく、皇国のために存在する。楽壇という共同団体は、音楽者一人一人のもっている芸術を互いの力で高く正しく逞しいものにし、それを皇国最高の目的に捧げるための基地であるといってよいであろう。/これまで楽壇とは、音楽者からある不統一な、そして不規律な群集であるかのように誤解されていたかもしれないが、今日、決戦下の楽壇は音楽者からある自立的で有機的な組織体であって、音楽を通じて激しい力強い皇民精神を顕現するものでなければならないと思う。楽壇に負わされた任務を自覚し、楽壇を内部から築き固める義務がある。しかし山田は、過去において日本の楽壇が示した功績を決して否定するものではない。/ただ1校の官立音楽学校と純芸術以外の任務を持つ軍楽隊だけが公的機関として音楽者を育成し、貧弱なあるいは低級な民間企業が多少の足跡を音楽普及の上に残したのを外部からの援助と見るだけで、あとは音楽者個々の修養と楽壇有志の自発的な音楽振興運動とがじりじりと楽壇を育て上げた。/美術界や能楽界に対するような有力な後援者の大群は楽壇にばなかった。演劇や映画や園芸に対するような大衆の支持も楽壇にはなかった。文壇の100分の1の宣伝力ももたなかった。楽壇は不屈の孤児のように独りで生活の道を切り開いてきた。/しかし今や情勢は変化している。楽壇は孤立無援ではなくなった。政府は音楽が国家目的遂行のうえに有効であることを認め、社団法人日本音楽文化協会をその指導斡旋の下につくり、その運営を援助してくれる。/軍は日中戦争以来、軍楽隊以外に民間音楽者を前線あるいは占領地に派遣し、文化工作の一部面を担当させてくれる。洋楽界は音楽が生産拡充のうえに必要であるとみなして厚生音楽の普及向上に尽力してくれる。軍・官・民を通じて、どの方面にも音楽の発展を希望し援助してくれる誠意が認められる。強い感激を覚えずにはいられない。しかし音楽者の責任はそのために倍加したのである。これまでに自然発生的な楽壇では音楽者自身が修養し、音楽だけを振興すれば使命は果たせたけれど、いまは外部に向かっては国家目的に答え時局の要求に応じて活発に働きかけ、また内部に対しては音楽上の修養とともに皇民的練成に努めなければならない。外部から高く認められるようになったというのは、楽壇がようやく少年期を脱した証拠であろう。うかうかと有頂天になって入られないのである。
【2004年4月1日】
フィリッピン音楽私考寺下辰夫(『音楽之友』 第3巻第4号 1943年04月 p.14-22)
内容:南方民族が音楽を愛好することは各方面から論及されている。この点を、現地で親しく観察すると、愛好するというよりも「音楽」と「生活」が互いに溶け合い、交流しているといった方が適当であるかもしれない。寺西はフィリッピンの音楽に多大の興味をもって、それらの音楽を聴くように勉めた。現代のフィリッピン音楽は欧米の影響と、スペイン統治時代の約400年にわたるスペイン楽曲の影響を受けたものであるが、たとえば《クンデマン》のごときは、そこに多分にスペイン調があるにせよ、フィリッピン人の音楽として消化してしまったといえないことはない。/かつて寺西は自著である『南方感覚』(三友社版)でインドネシア民族の音楽について、次のように主張したことがある。すなわち、インドネシアの音楽を度外視して彼らの民族思想心理も、生活も、宗教心の形態さえも想像することは許されないであろう。もしわれわれが、彼らの楽器の歴史と変遷経路を研究するならば、彼らの踏み来たった生活と文化の断面を仔細に図解することが可能であるはずだ。皆、南方民族と音楽について一応の理解をもっている表情はするが、しかし格別に忠実な資料を求めないのはなぜだろうか。つまり、彼らの文化程度は低いが、音楽的には多少の天分をもっていると簡単にけりをつけ、その問題の歴史的考察や歴史的民族的な必然経過を検討する努力を億劫がっているのであろうか。いろいろな理由名あろうが、今までは南方民族を世界が低調な人種として極端に軽蔑していた旧秩序的な考え方が、この結果を示した大きな原因であると考えられる、と述べたのだった。/さて、近代の世界音楽が、この南方民族から多分の音楽(音楽的)示唆を受けたにもかかわらず、それを考えずに、猿が人真似をしているような原始的な音楽であるというような感じ方で、南方音楽を観察しているところに大いなる誤謬の根本がある。たとえば今日、アメリカの音楽などの主流は、「から騒ぎ」をして、その場その場の刹那的感応をごまかしているが、そのジャズ音楽でさえ今日存在しえているのは、大半、南方民族の音楽的韻律の暗示を受けた一つの変形の賜物といっても過言ではない。/こうした意味からしても、南方音楽の生誕からその歴史的経緯をつぶさに考証しなおす必要があると信じる。寺西は、そうした関心もあってフィリッピンの音楽的歴史とその韻律の底に流れる彼らの民族心理、民族文化を探求してみたかったのである。フィリッピン音楽については、台湾放送局から出張してきた、陸軍報道部に所属する放送部の篠原耀夫も短時日ではあるが、熱心に調査した意見がある。寺西も篠原の意見にだいたい賛成であるので、ここにその研究報告の一端を引用する。むろんわれわれが聴いたり研究したものが絶対的なものであると断定して結論づけることは、未だ冒険といわなければならない。
■比律賓音楽について■
新フィリピン島の誕生をみた今日、フィリピンの音楽を知るということも、フィリピンの人々が音楽愛好家であるだけに急を要することではなかろうか。そして待っていられない気持ちに迫られ、フィリピン音楽の録音に手を染めたのであった。/さて、スペイン統治時代を中心にして、フィリッピンの音楽について記していきたい。スペイン統治前のフィリッピンの音楽について、フェリップ・パディラ・デ・レオン(Felijpe Padilla de Leon)のフィリッピン音楽の誕生という記録の中に次のようなことが記されている。すなわち、スペイン人の来航数十年前において、すでにフィリッピン人自身の音楽を進歩させてきている。鉄器時代の初期におけるフィリピン島への移民の波に乗って、異国民であるマライ人が来た。これらの移民民族は、粗野な文化を持ってきた。と同時に「戦の歌」や「恋愛歌」ももってきて、比島民の性格にぴたりと迎えられるものであった。しかし形式において単純で、自然に発生しただけに梢出まかせ的ではあったが、その中に永久の美しさと島民の心のなかから生まれたピッタリしたものとが含まれた。昔のフィリッピンの歌は旋律よりも調子に力が払われ、形式よりも内容に重きを置かれた。フィリッピンの音楽は甘やかで暗く哀愁を含んでいる、という記述である。ノベルト・ロマルデス(Noberto Romaldez)は次のようなことを記している。すなわち、フィリッピンにはスペイン人が来る以前から音楽があった。さらにインドネシア族やマライ族が来る以前にもネグリト族の音楽があった。その後、日本人や中国人の商人が来て、その楽譜を残していった。だから、外国の音楽がフィリッピンの音楽に入り込んだのは、白人の来る以前であった。これらの音楽を「昔の音楽」と呼んでいたが、厳密な意味からいえば、フィリッピンにはフィリッピン人独創の音楽がなかったということである、と述べている。フィリッピン島先住民族の音楽にさいしょの変化を与えたのは、日本人や中国人であったということも歴史のうえから見て想像される。しかし、その後フィリッピンは約400年のあいだスペインの統治下に置かれ、スペイン音楽の影響を受けたのであった。
(つづく)
スペイン統治時代におけるフィリッピン音楽の変遷について、フェリップ・パディラ・デ・レオンは音楽形式の変遷から次のように分類している。すなわち、スペイン統治時代には、しばしばキリスト受難史の歌を朗読調で読み、キリストの死を悲しむパバサ(Pabasa)という行事が行なわれた(昼夜兼行で3、4日継続される)。また一方で恋歌と農民歌もあった。それらが母胎となって6つのフィリッピン音楽の形式が生まれることになった。その6つとは、タグライライ(Tagulaylay)、ラメンタション(Lamentacion)、クンディマン(Kundiman)、バリタウ(Balitaw)、ダンサ(Dansa)、パンダンゴ(Pandango)である。パバサは種々な形で行なわれたが、節をつけて歌われるようになった。その後、この即興的な楽譜を持たない歌がタグライライと呼ばれるようになった。キリストの死を悲しみ、さらにその悲しみを持続するというような意味が含まれている。ラメンタションもパバサが変化したものだが、こちらはより多くスペインの影響を受けている。タグライライが斉唱されたものであるのに対し、[ラメンタションは]二部合唱であった。恋愛歌と農民歌からは他の4つの形式が生まれたが、クンデマンはフィリッピンの歌の中で最も代表的で、さいしょはタガログ語が使用される地方から発生したが、訴えるような旋律が受け入れられて、たちまち広大な地域に流布していった。甘やかで、暗く、哀愁を含んでいる点が特徴的である。中には、愛国的なものや諧謔的なものもある。次にバリタウはタガログ族のものとビサヤ族のものとがあり、両者はたいへん異なっている。タガログ族のバリタウはクンディマンと比較して朗らかで、軽快で楽しいのが特徴で、ダンスが付随している。また、ある事件を述べた短い物語を歌ったものである。それは非常に諧謔に飛んだ子どもの歌である。これに比べてビサヤ族のバリタウはクンディマン同様恋愛歌である。バリタウの語源はタガログ語からきたバリタが起こりで、叙述、ニュースといった意味である。次にダンサであるが、スペイン音楽の影響を受けたタンゴ、ハバネラの進歩したものである。華麗で朗らかなスペインのタンゴと違って、ダンサは転調に乏しくテンポは遅い。語源はダンス(Dance)から来ているが、本来の意味を失ってセレナードといった意味に使われている。さいごの一つはパンダンゴである。これは普通舞踊に用いられる音楽であるが、たまに歌われるものがある。その後アメリカ統治時代に移って、アメリカの里謡やジャズ、フォックストロット、ワンステップ、ツーステップ、ブルース、コンガ、ルンバその他が入り込んできた。しかし、スペインの影響のようにこの土地に入り込んで新たなものが生まれるまでにはいたらなかった。レオンは、フィリッピン音楽の特徴をフィリッピン人の古来音楽とスペイン人から受けた音楽的影響とによって織りなされた点にあるといい、フィリッピンが他の東洋諸国と違って音楽に東洋的な香りが少ない点でもあるといっている(寺下は異論があると述べている)。フィリッピンには東洋人による音楽が、スペイン人の来航に先立ってあったことは事実のようであるが、厳密な意味でフィリッピン独特の古来音楽として現在までそのまま存続しているものがきわめて少ないこともまた言えるであろう。/寺下たちはフィリッピンの音楽録音に当たって、スペインの音楽形式の変遷によるフィリッピン音楽の分類によらず、十二種族の人種別分類によって録音を行なった。そして非カトリック信者族だとされるモロ、イグロット、イフガオ、カリンガの4種族の音楽の中に、スペイン音楽の影響が少なく、東洋的なものが残されていることを発見しえた。これらの音楽から、はるかに遠いスペイン統治以前のフィリッピン島の音楽をかすかに想像することができた。このフィリッピンの音楽が今日、新フィリッピンの誕生とともに新たな息吹をもつことによって、アメリカ音楽の不健全さと置き換えられることとなり、健全なフィリッピン島建設面へのひとつの役割を果たしてくれればいいという点にも、先の録音の目的があったのである。
(つづく)
寺下は、フィリッピン人も、インドネシア民族も、タイ国人も、ビルマ人も、マライ人も、要するに南方共栄圏に住む民族が、昔から音楽を自分たちの生活圏内にまで取り入れていたという一点については、異論がないはずであると主張する。また、そのことを大いに認識して「よき指導と提携」を図ることが南方政策の一項に重要なものとして加えられなければならないとも強調している。いまや南方諸民族には日本の音楽が良きも悪しきも取り混ぜて流れ込んでおり、南方民族は、その日本音楽に触れてみようとしている。しかし、殊に精神の痴愚を誘導するごとき過去の日本の流行歌のごときは、はなはだ困る障壁になるのである。また日本人的島国根性の独善に堕ちることなく、双方の国民性の差異をみきわめ、相手を喜ばせる音楽か否かについても充分考慮しなければならない。楽しくない音楽、理屈だけの音楽などというものは、すでに存在性を喪失し、その発達を見ないことはわれわれの等しく認めるところである。ここに音楽の芸術価値の問題が生じてくる。さらに半月か一月、少しだけ南方の音楽を聴いてこれを論じ、あるいはその安っぽいイミテーションの音楽を内地に持ち帰ってそれらしく紹介することも絶対いけない。誤謬の一因をもたらすからである。われわれはフィリッピンや南方に「与える音楽」と「輸入する音楽」を区別して考察する必要があろうかと思う。寺下は作曲の歌詞の方面の仕事に関係しているため、南方の民族が快く、愉しい心持ちで受け取ってくれる歌詞の制作に精進したいと考えている。これには音楽家、作曲家、レコード会社といっそう緊密な連携を保って、できるならば「南方歌謡研究会」なり「拓南音楽協会」といったものを設立して、南方音楽新運動を展開したい。現在のフィリッピン人が、いかなる性質の韻律や歌詞を愛好するかという私見を一言で述べるならば、軽快明朗であって、そこに哀愁的韻律をもつ内容のものが傾向としてみられる。勇壮な行進曲風なものや感傷的のみに終始したものは悦ばれない。次に音楽会での演奏なり独唱では、派手な技巧的なものを努めて演奏する傾向が強い。こうした技巧的な曲の演奏は、なかなか堂に入っており度肝を抜かれる。これはマニラとか都市を中心に見た場合の一般傾向であるが、未開の種族の音楽や楽器については、大きな差異があることを指摘しておきたい。ことにカトリック非信者であった前述4種族の楽器のごときは、東洋的楽器の特徴を具備していることが理解できる。要するにフィリッピン音楽を研究し、そのうえ、よりよきフィリッピン音楽を育て上げることについては、将来の我が国の大なる課題ではあるが、彼らが音楽を自己の生活にまで浸潤させることを、無上の悦びと感じるところにわれわれの明日への希望と仕事甲斐のあることが、充分に持ち得ることを報告して終わる。
(完)
【2004年4月26日+4月29日+5月7日】
南の空に歌ふ(ニ) ― 南方音楽随想 <連載>佐藤寅雄(『音楽之友』 第3巻第4号 1943年04月 p.23-27)
内容:安南音楽断片(二)
安来節そっくりの歌が仏印にあるということを聞かされて驚いた。安南人の友人に安来節をうたってみせると、ほとんど同じものが確か北部仏印で歌われているという。安来節は日本では出雲の民謡であるが、潮流の関係で輸入したものと考えられる。ジャワや南洋にも安来節と同じものがあるというから、その伝播は興味ある問題である。仏印はかつて蒙古勢力に入った歴史があり、それでいまもって蒙古の歌が残っているにもなるが、さらに南下してジャワその他にも影響を及ぼした形跡は次第に明らかにされると思う。北部仏印からは潮流の関係で出雲や新潟などの日本海東南岸に漂着するといわれる。安南人には安来節のように激しい、リズムのはっきりした音楽はほとんどないので、よほど以前に外来したもので、その分布も局部的なのではないかという気がする。/1942年の11月頃、陸軍報道班がサイゴンでレコード・コンサートを行なった。その夜、係りのものが興奮して帰ってきて、安来節のレコードをかけたら仏印にも同じ節があるといって非常に受けた、というのだった。その正体をつきつめて採譜もしてもらえばいいのだが、いざそれを専門に研究でもしようとすると必ず前進を阻まれた。安南には学者がいない。サイゴンも日本でいえば大阪のように経済、産業の中心で学問にはあまり重きを置かず、ハノイでも大差ないように思われる。出版物などは、どちらかというとハノイが中心のようだが、日本の出版・印刷文化には比較にならないほど劣っている。紙がなく、よい印刷機械もない。だから楽譜の出版などほとんどなく、あるのは外国製か何十年かまえのものである。/大毎と東日派遣の慰問団がサイゴンに来たときのことだった。昭南の帰途、サイゴンに寄って演奏会をやってもらったらどうかという意向だったものを、議論のすえ「明後日の夜」にした。仏印は占領地ではなく、れっきとした第三国である。そのためかえって軍政下にある占領地の文化工作や、日本からの積極的働きかけが行き届かない状態にある。そうしたところに、仁木他喜男や斎田愛子、江口隆哉、宮操夫妻などが来たのだから、初めて糸口を見つけたかたちで爆発した。慰問団の人たちにとっては強行軍で迷惑だったかもしれない。そして、この慰問団はよく頑張ってくれた。あくまで入場料は取らない建前だという申し入れで無料公演となった。準備に1日しかなかったので多忙を極めた。公開でもあるし、仏領でもあるからオペラ・アリアを斎田に頼んだが、純日本を掲げてどこへでも行くつもりだがら、外国人であろうと日本物を聴かせて感心させるのだという意気込みだった。
(つづく)
折衝の結果、斎田に《ハバネラ》を歌ってもらうことにしたが楽譜がない。あちこち探し、放送局にあった恐らくはサイゴンに1枚しかないものを借りた。サイゴン市内ではギターの楽譜がもっともよく売れるとみえる。次いでマンドリン、それに安南の琴。[琴は]印刷した楽譜がないから書写してくる。そういうわけで、さしあたり日本の音楽を紹介するにも、日本音楽の楽譜をたくさん送ってやることが大切だ。彼らは勘もよく音楽が大好きで、小中学校を出た者ならば楽譜が読めるから、それを送ってやれば相当こなせると思う。安南人の作曲家もいるにはいる。また、たしかベニトといったフィリッピン人の主宰する軽音楽団もある。この楽団はなかなか達者で多忙な日々を送っている。サイゴン放送局には専属の管弦楽団があり、サンサーンスの記念祭の音楽会とケルメス(見本市)の時の音楽・舞踊公演に行ったが感心できなかった。記念祭音楽会の会場は市立劇場だったが、小さな扇風機が客席の天井やギャラリーの下にたくさん取り付けてあるのも南国風情だが、開演中でも楽屋にはコウモリ、客席には燕が飛び交う。ケルメスの音楽会は、サイゴンの代表的音楽会と見てよいであろう。シャッスルー・ローパ通りに面した中央公園の一隅で行われたが、野外で仮天井を覆わないため、客席へは反響が悪かった。内容は、フランスもののオペラで収穫の祭りを仕組んだものだったが、リヨンの音楽学校を出たというプリマドンナは、声量もなくヴィブラートの激しい歌い方だった。むしろ脇役の老役を演った夫人のできは相当なものと思われる。入場者は、ほとんどがきれいに装ったフランス人たちで占められている。何万、何十万と押しかけたケルメスの華やかな宵に、ここばかりは大衆的興味から孤立した一隅だった。そこで披露された舞踊が他愛ないもので、ひどかった。サイゴンにはパリから来た踊りの先生がただ一人いる(ロシア亡命の老婦人)。安南人も混血の女性もフランス人の少女もここに習いに行く。/仏印にはカンボジアに舞踊があるだけで、安南には本来のものはない。志那劇の剣劇に似たものが見られるくらいのもの。カンボジア人は男女とも骨格がガッチリして、婦人の腰部など安南婦人の折れそうな腰と違って、発達している。こうした体格の相違から、踊れる民族と踊れない民族の相違があるのではないかとも思った。佐藤は、安南音楽がほとんど哀調を帯びたものだと言ったが、安来節のような賑やかなものもある。また案南独立運動の革命歌に、ひじょうに激しい調子のものがあることがわかったが、今日一般には歌われないので聴くよしもない。(以下、次号)
(完)
【2004年5月13日+5月16日】
ソロモン群島と海兵の歌宮澤縦一(『音楽之友』 第3巻第4号 1943年04月 p.28-31)
内容:ソロモン群島とはニュー・アイルランド島の南部とニュー・ブリテン島の北部あたりから南東方に向かい点々と走っている南太平洋の諸島をいう。その大部分は未開未墾の土地である。それら諸島の主要なものは、ブーゲンビル、ショアズール(チヨイセウル)、イサベル、マライタ、コロンバンガラ、ニュージョージャ、ガダルカナル、サンクリストバル等であるが、その他多くの小島をあわせた総計44の島嶼がこの群島に包含されている。その外郭をなすサンタクルーズの諸島を合わせるならば、その面積総計はおよそ375000平方メートルで、ニュー・ギニアとオーストラリアの東方の外壁をなしているので軍事的にきわめて重要である。/英国政府のソロモン政庁はツラギ島に置かれているが、この島はマライタ島とガダルカナル島の間にあるフロリダ島の南西部に所属する周囲わずかに1里の小島で、シューラーク水道を隔ててガダルカナル島に対している上に天然の良湾を有しているので水上基地としても大いに利用されていたものである。戦前は裁判所、刑務所、病院、ホテル、中華人街をはじめ競技場、ゴルフリンクなどの施設があり、群島の文化の最高標準を示し、無線電信所さえ設置されていたくらいである。ソロモン群島が初めて歴史に現れたのは西暦1568年、スペイン貴族のドン・アルバアロ・デ・メンダニアが指揮官となった遠征隊により発見されたのである。メンダニハは彼の妻をとってイサベルと名付け、これを中心にその付近を探るうちに数多くの島々を発見し、それらをソロモン大王にまつわる伝説で耳にした南方大陸の一部と誤信して、ソロモン群島と命名したのであった。彼は、その後20年を経て再びこの方面にやってきて、ついにサンタ・クルーズの一小島の土となった。彼以外にこの方面を訪れた主な白人は、英人トレース、仏人ブーゲンビル、英人ショートランドなどがあり、さいきんでは女流飛行士イヤハート女史がこの付近にその骨を埋めた。しかし、気候不順と目ぼしいものもないことから、遂にはほとんど誰も見向きをしなくなってしまった。/しかし18世紀の中葉になるとこの忘れられた群島が捕鯨船の寄港地として再び世に現れて、19世紀には英独両国の勢力争いとなり、1900年に英独協定ができた。第一次大戦の結果、独領地域は豪州の委任統治地域と定められた。そして今次大戦においてはこの南海の群島も重大な戦略的価値を帯びるにいたったのである。すなわちこちらからすれば対日反抗の足場であり、日本内地と南方を切断する唯一の遮断線であるので、ここにこの群島における史上まれに見る大激戦の理由が存在したのである。/太平洋戦争勃発後、皇軍はアドミラリティ諸島の占領およびニューギニアの西部征定の余勢をもって1942年5月、一挙にソロモンを襲い、要衝ツラギその他に上陸し、たちまちにしてこれを掃蕩した。わが陸戦隊の攻略後も敵は種々反撃を試みたのであるが、遂にわが軍に屈し、ただ反抗の機会を窺うに過ぎなくなったのである。1942年8月6日夜艦隊をもって多数の輸送船を護衛しながら、わが占領地のツラギおよびガダルカナル島などの奪還を目指して進撃してきたのであった。この敵は目的とするソロモン群島の一角に上陸した。このとき輸送船から揚陸された敵の海兵隊の数は1万を超え、きわめて装備の優秀なものであり、飛行機との連絡作戦にも秀で、また土木部隊とも緊密に連絡し、飛行場などを設置するという陸上において働き得る最精鋭の海軍第一線部隊であったのである。この上陸がその後の決戦の連続として世間の耳目を引いたソロモン戦闘の発端となったのである。/その後ガダルカナルは戦闘によって有名になったところであるから、少しく詳しく述べよう。ガダルカナル島は西北東南向きの長さが160kmで東北西南向きの幅が40kmで四国の半分くらいであり、面積からいってもソロモン群島中もっとも重要なものの一つである。1892年に英船によって発見されたというが、全島はほとんど火山性の高原と山岳からなっており、その山も丘も平地も密林で蔽われ食物もほとんどとれない。 (つづく) 島の中央から西南にかけて通っている山岳はイエロスカー、ライオンヘッド、ラムマスなどで、いずれも1600メートル以上あり、ポポマナシウ山などは2400メートルにも達している。西北の方にある代表的な高山はガレゴ山で1085メートルある。東南方面も1500メートルを越える山がいくつかあるが、さして高くはないがマラウ峰がもっとも有名である。河川としては北にコロンブス河、南にイティナ河がある。高い峰は南岸に多くシュラーク水道に面した北方はおおむね平原であるため密林の斜面は北にのびて広平原となっていて、アウステン山は西北方のルンガ付近は椰子園となっている。なお、インデスペンサブル海峡に面した東北方の属島ルアス島にも椰子樹の栽培地がある。住民の多くはメラネシア人のカナカ族で、顔は一見男女の判別がつきにくいほど怪異で計数の観念がなく、自分の年齢すらわからないほど知能程度が低い。その数は約1万人くらいと想定されている。風光明媚なこの島も一歩足を踏み込めば湿地帯の多いうえにハエがすこぶる多く、周辺の海には恐ろしいサメや海豚が出没しているのであって、赤道からニュー・ブリテン島付近は鮪や鰹が豊富に獲れるが、この島の周辺ではそれらの魚類もほとんど姿を見せない。/このようなガダルカナル島において皇軍は、米軍を相手に暑熱豪雨をものともせず、また原始的密林の中で陽の目さえみず、不充分な食料で悪病と戦い勇敢に激戦を続けた。この島で戦ったことでその存在を知られた海兵とは、平時は艦内で衛兵をつとめ艦内の軍紀風紀の取締りをしたり、儀礼的な行事などに関しても役をつとめ、また上陸してからは陸戦隊と同じような役目を果たすものである。すなわち海上でも陸上でも働けるという特徴を持った部隊で、アメリカの原名でマリンと言われているもののことである。戦前に上海や天津に駐屯して米国の居留民保護に当たっていたのも、この種の海兵であり、またグアム島とかサモアとかの小規模な根拠地の警備に当たっていたのもこの部隊である。/こうした海兵を謳った歌曲は少なくなく、戦前わが国に紹介されたものの2、3あったように記憶しているが、そのなかでもっとも有名なものを次に紹介しよう。かつてわが国でも上映されたアメリカ映画で『陸戦隊の歌』というのがあったが、その主題歌の《海兵の歌》がそれである。
海兵の歌(歌詞意訳)
1.戦う海兵、強い海兵を
  腹一杯にさせ肥らせるのには
  豚肉も要るし豆も要る。
  おれ達はちっぽけな、罐の中に
  ビタミンをみんな詰めて行く
  支那や日本では
  コーンビーフが御馳走だから。
  それでどこへでも俺達は
  すぐさま立って行けるし
  行くときは準備万端大丈夫だ。
  敵を恐れさせる為に
  陸上ではいつも女っ気を絶やさぬが
  ラッパを聞いたら何処へ行く?
2.さあみんな海へ行こう、
  すぐさま飛び出す、また飛び出す。
  何時どこへ行くかは誰も知らないが
  すぐさま飛び出す、また飛び出す。
  上海へ行くのかもしれない。
  さらばよさらば
  サリー(女の名)よスー(同)よ
  嘆くなよ
  おれ達は幾年も幾年も留守になるが
  やがて故郷へとんでかえるぞ
西南太平洋作戦に従軍しガダルカナル市までこの海兵部隊と起居をともにした米記者によれば、日本軍の偽装戦術について「日本軍はこの種の戦法をいろいろと用い、ことに夜戦において巧みに敵を唆かしてはその所在を確かめ、自らの位置を敵に錯覚させる。アメリカの信号ラッパや海兵の歌などをやりながら米陣地にうまく近づいてくる」などと言っているが、従来から耳が悪いとか音痴だと言われがちだった日本人にしてこの芸ありと、これを読んでうれしく、また頼もしく感じられた。上の従軍談にもあるような特殊な戦法が音楽に利用され敵の撃滅作戦に重大な役目をつとめつつあることも忘れてはならないと思う。
(完)
【2004年4月8日+4月11日】
日本軽音楽の方向佐藤邦夫(『音楽之友』 第3巻第4号 1943年04月 p.32-34)
内容:1943年3月9日、日比谷公会堂で演奏家協会第三金曜会主催の(敵性米英的ジャズを撲滅し、健全なる日本軽音楽樹立のための)軽音楽新作発表会が開かれた。その趣旨には大賛成である。佐藤は先日、ある楽団を率いて陸軍○○部隊の慰問に行った。そのとき当番将校は、兵隊は連日猛訓練で休日や外出ができないので、こうした慰問を受けると明日から元気が出てすばらしく効率が上がる、と謝辞を述べた。その日の曲目は主としてレコードなどでおなじみの、いわゆる軽音楽的なものだった。こういう種類の音楽が産業戦士の憩いにどれだけ力を発揮しているか知っている。/軽音楽がラジオ番組の8割を占めるというドイツの例は他山の石である。刻下のわれわれの任務は、まずいかに(良い、正しい、美しい)日本軽音楽を創るかということだけである。その点から考えると、3月9日の企画の成果をみると、主催者はあまりに準備なしにこの会を開きすぎたと断ぜざるを得ない。多くの作曲家たちが新作を提供するといわれていた前宣伝に反して、実際は、高木東六が1曲、佐野鋤が2曲、服部了一が3曲を提供しているに過ぎなかったし、アメリカ的な演奏を平然とする楽壇が現れたりして、看板との食い違いにむしろ呆れたのである。/主催者側はマイクロフォンによって、その食い違いの言い訳ばかりしていた。しかも演奏家協会の名において主催し、会長としての山田耕筰の挨拶まであったこの会が言い訳に終始するとは無責任もはなはだしいし、こういう姿勢からは期待するような仕事は実を結ばないのではないかと危惧する。/作曲の方面から言うと、南方みやげの2曲を出した佐野鋤はまじめな編曲をする人で地味な曲を書く。そのため舞台演奏などでは色気がなく映えない。今回発表された《ペナンの辻音楽師》《スコール》をはじめ、ラジオやレコードでよく聴く佐野の作品もそうであるようだが、こうして地道に勉強してゆくうちにまとまったものを書くのではないかと期待している。《ピアノ練習曲より》《愉快なセレナーデ》《大空の思ひ出》を提供した服部良一は、つねに飽くことなき仕事への意欲には敬服するが、水の江瀧子一座の『春の祭典』の作演出などの仕事をせずに、その時間を本筋の方へ使ってほしいと思う。服部の作品が大衆受けするのは、メロディに「あまさ」と「わかりやすさ」、それにどこかで聴いたことのあるような「なつかしさ」があるからであろう。服部が、ただ才気で押し切らないで自分の仕事のあり方をしっかりつかむことを切望する。《海の若人》を発表した高木東六もまた才人である。主としてタンゴ形式のものをつくり、ワルツやボレロなども書く。フランスのシャンソン的なものが基調になっているようだ。幾年か前、日比谷公会堂で高木の作品発表会があり、その軽音楽曲創作への熱意に敬意を評して以来、その仕事には注意を忘れていない。願わくは、日本的な雰囲気のある曲を書いてほしい。/この会に作品を発表しなかったが、鈴木静一も相当量の作品があるし、仁木他喜雄の編曲のうまさ、古賀政男のねばり、山田栄一の派手さなどについて論じたいが、他の機会に譲る。第三金曜会は、この際、もっと他の分野の作曲家も軽音楽を書くように働きかけるべきだと考える。朝鮮、満洲や中支方面に適当な人がいるのを知っている。大東亜的に手を伸ばして曲を集めたら、きっといいものが揃うに違いない。今日の大日本国の広がりから見て、日本軽音楽の確立にはそれくらいの幅をもった計画がなければ普及力も生まないであろう。/演奏団体としては、灰田晴彦と南の楽団、松竹軽音楽団、櫻井潔室内楽団、笠置シヅ子と其の楽団、日蓄楽団が出演した。堅実さの点では佐藤は櫻井室内楽団を推し、日蓄楽団に適当な企画を与えれば相当の発展性があるとみた。しかし《未完成交響楽》や《碧きドナウ》をスィング形式で演奏した笠置の楽団などは、たいへんな方向違いであり知性もない。笠置には猛省を促したい。それから軽音楽団の楽器編成が決まり切ったものであるのは、どうしたことか。たとえば弦楽四重奏団があってもいいし、日本楽器を主にしたものが考えられてもよい。ちかごろ流行の軽音楽大会へ行くと、いつも同じ顔ぶれが同じ編成で同じ曲目をやっている感じで、くたびれるし意義がない。きっといまに取締当局の整理にあうこと必定である。そろそろ「軽音楽全廃」などという説が飛び出してきそうな情勢である。そういう世論を生むことは当事者自身にも責任のあることであり、演奏家協会は着実な仕事をしてもらいたい。いっぺんに日比谷公会堂などという大会場で発表会を開かずとも、小さな会合の堆積により作品なり演奏を練っていく方法が肝要であろう。そして選ばれた楽曲をいかに出版し、配給するかを考究してもらいたい。今の場合だと、「生産−配給−消費」の3段階が一線につながらず、おのおのが宙に浮いてしまっている。これを解決する一方法として映画配給会社と提携して、よい歌曲を全国映画館のプログラムに載せ、幕間に演奏することも考えられる。/特に南方方面へは、映配が発行するプレスブックに楽譜を掲載し、これを複写して用いるよう指示を与えておけば効果はきわめて大きいであろう。また、この機構を逆用して現地の楽曲採集も考えられる。演奏家協会なり日本音楽文化協会が大東亜的な組織の整備をすぐに望めない現在、既成の力を借りることが賢明な策であると思う。また、作品文庫が設けられ、自由に写譜できるような設備もほしい。これは、議論している時機ではない。その実践のみが各々に課せられた今日の任務である。
2004年4月14日
古典的な独逸愛国歌覚書(一) <連載>津川主一(『音楽之友』 第3巻第4号 1943年04月 p.35-37)
内容:独逸民族は集団的な歌唱を愛する。近代国家の形態を整えるにいたった約100年のあいだに愛国的精神が燃え上がり、またツェルターなどによる民族的歌唱運動が盛んになった。したがって、100余年のあいだに歌われてきた民謡のなかには、愛国的な歌曲がある。祖国愛に燃える古典的な歌曲よって、どのくらい士気の高揚を覚えているかしれない。以下、覚書風にその旋律を記しつつ、簡単な解説をつけてみる。
小関注:雑誌本文には楽譜の「歌いだし」部分が印刷されているが、この要約では割愛する。
(1)奉献歌(Weihelied)
この作詞者は古典詩人マッティアス・クラウディウス(1740−1815)で、1772年に書いた《わが新年の歌》によったもの。作曲者はアルバート・ゴットリープ・メトフェッセル(1786−1869)。チューリンゲン生まれで、ブルンスヴィックの宮廷作曲家をつとめ、何冊もの歌曲集を刊行した。この曲は1881年に発表した。8小節に終わりを延長して、わずか9小節の歌曲となっているが、いかにも力強く、荘厳な祖国への献歌である。
(2)神よ、鉄器を発達せしめ(Der Gott, der eisen wachsen Lieb)
これもアルバート・ゴットリープ・メトフェッセル(1786−1869)の作曲で1816年に発表されたもの。男性的な愛国詩はエルンスト・モーリツ・アルント(1769−1860)が1812年に書いたもの。曲調は頑張で、ドイツ魂を遺憾なく発揮しており、ここ100年余り代表的な愛国歌曲として歌われている。
(3)自由(Freiheit)
マックス・フォン・シェンケンドルフ(1783−1817)によって1813年に作詞され、1818年に当時宗務委員であったカール・アウグストグロース(1789−1860)によって作曲された。今日でもエドワルド・クレムゼールなどの編曲で盛んに謳われている。
(4)祖国独逸(Des Deutschen Vaterland)
歌詞はエルンスト・モーリッツァルント(1769−1860)が1813年に発表したものに、1825年、ベルリンの初等リーダーターフェル合唱団の指揮者をつとめていたグスタフ・ライハルト(1797−1884)が行進曲調の愛国歌曲として作曲した。これは作品7−3であるが、多数の大衆歌曲を残したこの作曲者の代表作とされる。これまで掲げた歌曲に比してやや現代に近づいている分、ずっと新鮮味が加わってくる。
(5)戦中の祈り(Gebet wahrend der Schlacht)
テオドール・ケルナー(1791−1813)によって1813年に作詞され、同年フリードリッヒ・ハインリッヒ・ヒムメル(1765−1814)によって作曲された。作曲者はブランデンブルク生まれのピアニストで、ベルリンの宮廷楽長をつとめ、器楽、声楽両方面にわたって多数の作品があり、ことに過激は相当の評判をかち得た。この歌曲はブレスラウで上梓された《独逸戦争歌曲集》にさいしょ現れ、現代ではベルリン・ジングアカデミーの老指揮者ゲオルグ・シューマンの男声合唱用編曲が愛用されている。
(6)ラインの歌(Das Lied von Rhein)
マックス・フォン・シェンケンドルフ(1783−1817)による作詞、作曲はハンス・ゲオルク・ネーゲリ(1773−1836)で、作曲年代は1815または16年。この作曲者はスイスのペスタロッチの思想に共鳴し、ベートーヴェンと縁の深い教育音楽家として有名である。この曲は、さいしょにプファイツァー、ネーゲリ共編の『歌曲作曲法』の中に現れた。帝政時代の国歌《ラインの見張り》に40年ほど先駆けて作曲されているから、この旋律からその国歌が暗示を受けた可能性もある。今日でも歌われるが、独創性に乏しい。
(7)祖国への春の挨拶(Fruhlingsgrub an das Vaterland)
マックス・フォン・シェンケンドルフ(1783−1817)が1814年に作詞した。ベルンハルト・クライン(1793−1832)によって1817年に作曲された純然たる行進曲で、翌18年にベルリンで刊行された『独逸歌曲集』に収められた。作曲者は、ケルンの大寺院の楽長だった人である。今日ではヴィルヘルム・ベルガーなどの編曲で男声合唱にされている。
(8)われらの祖国(Unser Vaterland)
パウル・ヴィガント(1786−1866)が1814年に詩を発表し、ハンス・ゲオルク・ネーゲリ(1773−1836)が作曲し、同時に発表したと考えられる。先の《ラインの歌》より、この方がずっといい。
【2004年4月20日】
資料 貴族院に於ける音楽協議の要旨(発言者 京極高鋭 奥村喜和男 水野伊太郎)(『音楽之友』 第3巻第4号 1943年04月 p.38-42)
内容:●その1●国民運動と吹奏楽 
京極 昭和17(1942)年度一般会計第二予備金支出の中の大東亜戦争一周年の国民運動補助費の内容とその実行に関して情報局当局にお尋ねする。1942年12月8日の大東亜戦争一周年にあたり、情報局指導の下に国民的行事を行なわれたことは時宜に適したことと思うが、この行事の一つとして民間の吹奏楽団が吹奏楽の行進を計画したところ、次官会議で吹奏楽の行進は一種のお祭り騒ぎ的な催しであるといって中止されたと聞く。情報局がこの解釈をとられたとすればはなはだ遺憾で、吹奏楽は陸海軍の軍楽隊でもこれを用いて、あるいは前線で士気を鼓舞して戦果の一助をなしており、あるいは治安工作に、それから宣撫工作に用いられ、銃後国民の精神を作興することに寄与している。民間の吹奏楽団にしても果たす役割は同様だと思う。吹奏楽の行進を単にお祭り騒ぎであると解釈することには同意できないのである。今後このような国民運動に際しては吹奏楽の行進も奨励して、国民精神作興に力を入れていただきたい。有効適切な手段に留意して国民的行事に効果あらしめていただきたいが、情報局当局の見解はどうか。
奥村 第二予備金を支出していただいて、これは政府が直接使ったのではなくて、大政翼賛会が国民運動の中核体として活動しているが、その中にただいまご指摘のような国民運動と吹奏楽の関係が生じてくるわけである。ついては当時の情勢から判断されて、政府の意思の決定が次官会議であった。その過程で吹奏楽の案もあったが、1942年12月8日、一周年記念行事の根本目標は、宣戦の大詔をを拝した当日の感激を国民に再び喚起すること、そして今後戦争は相当長期にわたるのだから、安易な戦勝気分に陥ることなく拳固な決意を浸透させることが二大眼目である。そうした関係から吹奏楽を吹き鳴らして街を行進することは、戦勝的気分が横溢しすぎていた当時の情勢としては、妥当ではないであろうという意見が出てきたわけである。当時は皇軍の南太平洋作戦が凄愴な場面を呈していた時期でもあった。子爵が言われるように、吹奏楽が国民精神の作興にひじょうに重要なものであるということは同感であるし、今後吹奏楽を使う考えで、将来にわたって禁止する意思はないことを了解願いたい。
南方文化工作と音楽
京極 次に南方啓発宣伝特別施設費に関する質問だが、南方占領地の諸民族に対して大東亜建設の理念を普及徹底させることは、東亜の盟主であるわが国の責務である信ずる。そのために音楽を用いることは一番有効適切であると信じる。音楽を通じての文化啓発宣伝に関して、南方各占領地においては計画を立てていることと思うが、その計画を実行するについてわが国においてこれを統一した文化啓発の方策を立てることが急務だと信じる。特に情報局ではこの計算方法についてどのように意を用いているのか伺いたい。
奥村 南方諸民族に対して大東亜建設の理念を普及徹底させるため、認めていただいた予備金によって、あるいは映画を送るとか、幻燈を送るとか、立派な雑誌を送るとか、『グラフ』を送るなどいろいろやっている。その中に音楽の点も入ってくる。音楽による啓発はひじょうに重大であるという点は、情報局でも認識を持っていて、軍当局、陸海軍当局、さいきんは大東亜省その他とも連絡をとってやっている。いままでのところは応急対策なので、あるいはレコードを送り、あるいは民間音楽を送った程度である。しかし思うに、ただ南方民族の好むとおりの音楽を送っても仕方ないし、特にフィリピンのごとくアメリカのジャズ音楽が一般的になっているところで、そのままジャズを流行らせておくわけにもいかない。一方、極端にこれをいっぺんに一掃するようなことは行き過ぎであり、現地当局では細心に考えているが、その辺の兼ね合いを勘案して適当な音楽のレコードその他を送っているが、これまでのところ特に誇るべきものはない。先般、ひとつの例として軍楽隊が昭南島に行った。あるいはジャカルタに行ったときの効果が想像以上に大きく、ひじょうに大きな影響を与えて日本にもこれだけ大きなオーケストラがあるか、こういう音楽があるかということで、印象を与えたことがわかっている。今後は日本が組織している交響楽団や音楽団を派遣して、南方に出したい。根本的にはよく民族の特性や伝統、歴史などを調べて、英米が支配するものを払拭するよう、ある程度の基礎的調査をしているのが現状である。今後はいろいろな専門家の助言を得て、積極的に努力していきたい。
(つづく)
音楽関係の団体に関して
京極 国内の啓発宣伝に関しても伺いたい。現在は国内の啓発宣伝、文化指導をする役所が、たとえば音楽に関しても情報局、文部省、警視庁、あるいは警保局とたくさんある。そしてそれぞれに委員会がある。その監督下に文化団体が属して、これがおのおの対立している状態であるし、ますます[団体が]増加の傾向にある。少なくも音楽関係の団体はひじょうに増加している。このため文化政策の指導において統一を欠き、民間ではたいへん困る。現在のようなときにあっては、情報局がそれらの団体を一元化して大所高所から国内の文化政策を一つにするよう指導すべきと思うが、いかがか。
奥村 ご意見のような弊害、錯雑した関係は認めざるを得ない。しかし官制上、内務省は警察的見地から、文部省は教化的見地から、情報局は国民精神の作興のためと分けられている。たしかに今日の実情は、いくつもの役所の下に各々団体ができたりすることが現在もないとはいえない。理想的には一箇所に、たとえば情報局に集中するのも立派な意見だと思うが、内務省や文部省の役割もまったく否認するわけに行かないので、いまの仕組みは止むを得ないと思う。しかし、権限は多岐にわたっても運用方針についてはなるべく綜合的に協調的にする建前から、三省四省協議をして努めている。確かにさいきんもまた、いろいろと違った団体ができたが、そうしたものはあるいは理事の人選について、その他指導方針についての打ち合わせをし、なるべく矛盾したり行き違いのないようにしたいと考えている。
●その二●文化工作の一元化
京極 南方啓発宣伝特別施設であるが、南方に対する文化宣伝工作に関して質問する。南方に対する文化の指導、中国に対する指導、そういうものを国内の役所が統一総合して方針を立て、計画を立てているのか。それを行なうのは大東亜省か、情報局か。もうひとつ、大東亜省には文化の指導をする文化課が各局に分属しているように思われるが、総務局にはない。そういう場合に、各事務局の文化課では事務的なことの指導のみになっているように思われる。どうにかして文化工作の指導を大東亜省のいずれかでする必要があると思い、意見を伺いたい。
水野 第一に大東亜共栄圏全体に対する文化工作がばらばらに行なわれているのではないかというご質問については、大東亜省ができる前は各方面でいろいろやっていたが、大東亜省ができた以上は、軍政地域を除き大東亜地域全体に対するあらゆる文化の施策ないし立案をしていきたいとの希望をもっている。また官制その他もそうなっているのであるが、文化事業とは各方面に関係があり、たとえば日本語の普及の問題を考えてもそのための教師を養成し、あるいは教科書を編纂するということは文部省の協力なしにはできない。映画や出版物を送るにも情報局その他と協力しなければできない。したがって大東亜省だけで全部立案や施策をやることがなかなかできないのである。ただ大東亜省が中心になって南方各地あるいは中国その他の状況を考えて、幹事役のようになって、各省の意見をまとめてそれを実行に移す考えでやっている。軍政地域に関しては大東亜省自身が施策できず、これは軍と協力すると同時に、文部省や情報局などの官庁と協力して大東亜省が幹事役をし、軍の系統から軍政地域に命令していくようにしている。第二のご質問は大東亜省には文化課が各局にあって総務局にない、この統合をどうして図るかということだが、たしかに分課規定はそうなっていて、この点に関してはどうも全体の文化工作の施策の一元化に欠けるところがあるということに気づき、さいきん省内に文化委員会を設け、従来興亜院の文化部長をされた松村参事官を幹事長にして、毎月2回ないし3回定期に幹事会を開いて、さまざまな問題を協議立案している。委員長は大東亜大臣だが、委員会では全体に共通する問題に対する施策に齟齬がないよう充分注意をしている。
(完了)
【2004年5月19日+5月26日】
時局投影唐橋勝(『音楽之友』 第3巻第4号 1943年04月 p.43-44)
内容:第81議会は東條首相の風邪のため、1943年1月28に再開された。冒頭に行なわれた首相の施政演説の模様は、ラジオによって承知したが、陸上航空基地の増強を含む戦略的優位が確保され、物的人的の資源も手中に収めたことを述べ、遅くとも本年中にはビルマ国の建設を認め、またフィリピンの独立がなるべく速い時期に実現することを期待する、と大胆率直に言明した。★1943年1月29日〜30日にわたってレンネル島沖海戦が行なわれた。戦艦2隻撃沈、巡洋艦3席撃沈、戦艦1隻中破、巡洋艦1隻中破、戦闘機3隻撃沈。わが攻撃隊の指揮官機は敵戦艦めがけて自爆した。2月1日の議会で島田海相の戦況報告があった。★高村光太郎、佐藤春夫、三好達治、西條八十、大木惇夫、百田宗治、尾崎喜八の諸氏は1943年2月3日、東京新聞社、くろがね会、大日本文学報国会の肝いりで某造船所を見学し、それぞれ詩嚢を肥やし、その成果を東京新聞紙上に発表した。★アメリカ政府の発表がでたらめであることは世界の常識となり、イギリスのイヴニング・スタンダード紙が次のようにからかっているそうだ。ソロモン群島からワシントンに飛んでいる伝書鳩に追いついたもう1羽の伝書鳩が、あなたの運んでいる通信を公式に打ち消す通信を私が運んでいるのだから、早く行けと言ったというのである。★1943年2月6日、木内専売局長官は、増産戦士に[たばこの]「きんし」および「はぎ」40億本を値上げ前の値段で配給すると言明した。さらに人里遠い山奥で炭焼きにいそしむ人々に対して「きんし」が民間各方面の感謝を込めて寄贈された。★1943年2月9日の衆議院予算総会で加賀屋蔵相は、1943年3月まで230億であった貯蓄目標を、この4月から1944年3月までの貯蓄目標は270億にすると言明した。その理由は、まず国民所得を500億と見ると昨年に比べて50倍増となり、その中から税金として100億収める。次に公債に210億、生産拡充資金として60億、この合計が270億の貯蓄目標となる。すなわち所得500億から税金100億、貯蓄270億を差し引き130億で国民は生活を立てることになる。この額は昨年より20億少ないが、戦争は決戦また決戦の段階に入ってくるので、国民一人一人は自分の生活を切りつめて貯蓄に回すべきである。貯蓄目標の270億も漫然と貯蓄しようというのではいけないので、あらかじめ各府県都市に割当を行って貯めようという計画になっている。6大府県の割当を見ると、東京府市85億、大阪府35億(うち大阪市28億)、京都府8億(うち京都市7億)、愛知県14億(うち名古屋市9億)、神奈川県9億(うち横浜市5億)、兵庫県17億(うち神戸市8億5千万円)となっている。★津田英塾学は1943年4月より津田塾専門学校と改称、修学年限4年の理科を新設することとなった。
(つづく)
★1943年2月9日大本営発表によれば、昨夏以来ニューギニア島のブナおよびソロモン群島のガダルカナル島に挺身して敵の反撃を撃退し、あるいは優勢な敵を島の一角に圧迫しつつあった部隊は、新作戦遂行の基礎を確立したことをもって、ブナは1月下旬に、ガダルカナル方面は2月上旬に陣地を撤収して他に転進された。同発表によれば敵に与えた損害のうち人員2万5千以上とあるが、それに対し我方も1万6千を超える人員損害があった。この1万6千余柱の神々のことを思い出せば、戦時下のどんな苦しい日常もしのげるはずである。★1943年2月1日より7日までイサベル島南東方面で挙げた戦果は、巡洋艦1隻轟沈、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻、魚雷艇10隻撃沈、飛行機86機撃墜。★天皇陛下は、わが造船界において木造船建造の緊急なことを思し召され、特に帆柱用材10本を下賜する旨、1943年2月12日寺島逓信大臣に対し伝えた。★国鉄では戦時重要物資の輸送を確保するため、旅客車の一部を廃止することとなった。これによって「かもめ」をはじめ数列車が1943年2月15日より運転取りやめとなったほか、近く実施する事項に機関車、電気車両、貨車の戦時設計、現在車両の活用や改造、客車の貨車への改造、特殊車の産業戦士通勤用客車への改造、電車の座席撤去などがある。★愛国百人一首が文学報国会の手で、独・仏・英・中国語の4ヵ国語に翻訳され外国に配布されることとなった。訳者はドイツ語は茅野蕭々慶応義塾大学教授、フランス語はピエール・アンベルクロード東大講師、英語は尾島庄太郎早稲田大学教授、中国語は前川研堂で、おそらく今秋までに翻訳を終え、情報局、国際文化振興会と協議のうえ各国各層に配布するはずである。★ガンジーは、1943年2月10日より3週間を期して断食に入った。そして2度絶望を伝えられながら、3月3日早朝無事断食を完遂した。かりに英国がその暴挙を改めない限り、何度でも反英断食を繰り返す意気込みを示している。★今年から、豊年を祈る2月17日の新年祭は全国一斉に国旗を掲げてお祈りすることになった。この祈りを「としごひ」というが、天皇陛下は三殿に御親拝にいき、伊勢神宮へは勅使屋尾板掌典を参向奉幣させたほか、全国の官国弊社にも奉幣させたが、全国各地に翼賛会が中心となって豊穣祈願祭が挙行された。★東條首相は議会再開前に風邪をひいたが、招集以来、1943年2月10日までの18日間に発言した数は、本会議で6回(1756字)、委員会で148回(77904字)で、新聞5ページベタ組に相当する量である。★基督教では鋭意日本かを心かげているが、讃美歌より英米色を一掃しようと、まず日曜学校の讃美歌を新たに日本キリスト教団日曜学校局で編纂することになった。全部で120曲が収められるが、健全な数曲を除いて英米人の作品は姿を消し、それに代わり日本人作品が入る。津川主一の30曲をはじめ、大中寅二らが作曲、作詞では山本康、斎藤潔ほか多数の新人お作が収められることになった。★米国の海軍次官補ラルフ・バートは1943年2月20日ボルティモアで「日本本土に対して規則的で大規模な空襲を行い、日本軍を太平洋の各基地から逐次駆逐すべく、さらに日本の補給路を断って降伏の余儀なきにいたらしめるであろう」と、いい気な演説をやったそうだ。
(完)
【2004年5月29日+6月1日】
楽壇戦響/堀内敬三(『音楽之友』 第3巻第4号 1943年04月 p.45-47)
内容:銅鉄を用いて造られた楽器の一般販売は、1943年4月6日をもって停止される。米英でさえ戦争の初期に、すでにこの禁止をやったのだからわが国がこの挙に出るのも当然である。戦争の徹底的勝利のためには一塊の銅鉄といえども軍需資材として差し出すべきである。この犠牲を払うだけの熱誠は楽壇にみなぎっていると思う。しかも特殊な用途を持ち、弾丸と同じ働きをするような楽器の製造に対してならば、政府は相当の考慮を払ってくれるようにさえ聞いている。新しい楽器を手に入れることができなくなろうとも、民間にはおびただしい数の銅鉄でできた楽器が保有されている。政府はそれにはぜんぜん手を触れない。それほど政府は楽器の効用を認めてくれている。保有する楽器には、国家として重要な銅鉄を使っているのだから、われわれはこの楽器を国家のために有用な目的に使い、地金としての用途以上の効用を楽器から生み出す義務がある。すべての楽器はなんらかの意味で米英撃滅の役に立たせなければならない。失われた一隻の戦艦に代わるべき戦艦を、民間の力で献納しようという運動が芸術界から湧き上がっているのは快心事である。日響は献艦演奏会を行ない、音楽雑誌協議会は献金を集めた。音楽之友社の従業員たちも貧者の一燈を捧げようと申し出た。これらは自発的な動きをとっているが、志がある楽壇人は日本音楽文化協会を通じて献金するのが便利であろう。かつて日中戦争が起きてすぐに大日本音楽協会の会員から恤兵献金508円と慰問袋66個が献納されたことがあるが、それ以後、楽壇ではまとまった献金の企てが起こらなかった。これは、正直なところ、楽壇人が他の芸術家たちと比べて収入に恵まれない結果とも思うが、まったくできないとはいえまい。奉仕演奏を行なわない人たちもわずかな金でもいいから献金するようにして、この運動を全楽壇の自発的な愛国心の発露としたい。音楽家の多くは、はなはだ収入に恵まれていない。一流の音楽家は美術や文芸の一流大家とは比べ物にならないほど低い収入に甘んじている。それでも音楽家には俸給とか月謝などの定収入を得ているものが多く、その生活はだいたい安定している。音楽家はあまり生活苦を知らず、そのため多少呑気で小さな浪費癖が生じて、収入と支出とが同じになるくらい遣ってしまいがちである。決戦下の今、すこしの金もすこしの物も、挙げて英米撃滅に使うべきだ。音楽家の生活を思い切って切り下げることは可能だ。そして献金や貯蓄を行おうではないか。収支の平衡状態を変えれば必ず金は余る。金が余ったのを見たうえで、などと言っていてはダメで、見込みをたてて国債なり献金なりに振り当ててしまうべきである。楽壇人は「芸術上の奉公」のほかに「財的奉公」もしなければならないと思う。
(つづく)
日本音楽文化協会では中山晋平、野村光一、山根銀二、園部三郎らが毎日本業をよそに楽壇のために働いている。国民音楽協会の吉田永晴、演奏家協会の杉山長谷夫、大村能章、福井巌、吹奏楽聯盟の伊藤隆一、廣岡九一、作歌者協会の小林愛雄、みな慣れない事務を無報酬でつづけている。奉仕演奏の機会が増えたが、山田耕筰、三浦環、藤原義江というような、ひじょうに忙しい人たちでさえ時間を作って銃後産業陣へ慰問に乗り出すなど演奏家はよくやっているし、音楽挺身隊その他の篤志家たちが奉仕演奏に飛んでいっている。このほか、日本音楽文化協会作曲部の人たちが献納した作曲の数も相当に上るし、評論家たちが音楽講演を奉仕した回数もだいぶになっているだろう。楽壇人の奉仕的な働きは、それが日常化されているといってよいくらいだ。こうした人々は「余力をもって」やっているのではなく、少し大げさに言えば「身の皮を剥いでも」やっているのだ。しかし音楽家といえども収入なしでは生活ができない。奉仕がなお強化されていると必然的に楽壇の働きが鈍るであろうことをおそれる。海軍省に「くろがね會」という外郭団体があり、これまで文芸家と美術家によって組織されていたが、今回音楽部が設けられ、すでに450人の会員申し込みがあった。くろがね會音楽部は海軍に対して音楽上奉公をするとともに、国民に対して音楽によって海事思想宣伝を行なうのが目的である。軍国歌謡について考えても、海軍を歌った歌ははなはだ少ない。芸術的歌曲にも管弦楽曲にも合唱曲にも、海とか海軍とか船舶に関係あるものはほとんど作られていない。どこへ行くにも竿舵を借りて進む国に住んでいる割には海への関心が足りなすぎる。くろがね會音楽部の創設を機会として海国的音楽をさかんに創り出すことを広く楽壇に向かって慫慂したい。厚生音楽としての吹奏楽や合唱曲、健全音楽としての軽音楽、こうした大衆向きの実用的音楽に新しい作曲がもっとも要請されているにもかかわらず、使えるような曲があまり出ていない。吹奏楽や合唱曲は楽譜出版してもあまり売れないので印税は微々たるものであろうし、軽音楽は出演者に多額の報酬を払うので作曲料にたいした予算を取れないのが実情であろうが、だから作曲家がこの方に熱中しないとばかりは言い切れず、むしろ実用的音楽にはいろいろ作曲上の拘束があるが作曲家がそれに習熟してないので作りにくいと見てもよいのではないだろうか。作曲家が本格的な勉強をしてくれることを大いに希望するが、実用的な音楽も必要なのだから、その方面の勉強もして、じっさいに使える曲を世に送ってもらいたい。
(完)
【2004年6月6日+6月13日】
日清戦争軍楽従軍記(6) <連載>春日嘉藤治(『音楽之友』 第3巻第4号 1943年04月 p.53-55)
内容:1895(明治28)年3月14日(木)夜来より降雪、寒気が烈しかった。3月15日(金)先般来、悪病が流行しているため、(1)生水は決して飲まない(2)市中で販売されている食物を猥りに摂取しない(3)すべて一旦煮沸した食物のみを食べること(4)腹部の保温に注意する(5)吐潟または下痢をしたらただちに治療をうけること、を内容とする軍医部からの通達が出された。3月17日(日)早朝、永井次長は在柳樹屯第一軍軍楽隊を訪問した。楽器の手入れや室内外の整頓をした。3月18日(月)午前、楽器を自習。3月19日(火)午前、楽器を自習。朝鮮国慰問使軍務大臣趙義淵一行が軍司令部に来たので、出張奏楽をした。将校集会所内で宴会。軍司令官二師団長以下数十名の来賓があった。午後4時解散。3月20日(水)午前、楽器を自習。3月21日(木)午前、楽器を自習。3月22日(金)工藤隊長が在第一軍軍楽隊を訪問された。次長より達示があった。その内容は、七里庄に滞在する軍隊で2名の虎列拉病が発生し、一名は即死し一名は治療中である。そこでその流行を予防するため衛生面をもっとも注意するようにというものだった。午後1時より楽器を自習。3月23日(土)第一軍軍楽隊を訪問するため、楽手補以上は行軍した。午後7時30分、露営した。3月24日(日)午前、楽器を自習。午後1時30分より司令部で奏楽。華族慰問使総代より酒肴料として金30銭、配与される。3月25日(月)午前、楽器を自習。午後、病院で奏楽。3月27日(水)午前、楽器を自習。3月28日(木)午前、楽器を自習。午後1時より30分間営内で演習をし、司令部で奏楽。3月29日(金)午前、楽器を自習。午後3時、第一軍に楽隊が行き着いた。3月30日(土)午後0時30分より二楽隊司令部で奏楽し、また城壁上を行進合奏した。終わって営内で宴会。3月31日(日)午前9時第一軍軍楽隊は柳樹屯に帰る。横浜恤兵団より寄贈された搗餅を5個ずつ配与される。4月1日(月)午前、楽器を自習。講和使として李鴻章が来て交渉が成立したとか、凶漢の妨害にあったなど風聞まちまち。4月2日(火)午前、楽器を自習。午後、舎営裏に埋めてあった火薬より出火。火薬は古く少量だったため消防作業で鎮火した。4月3日(水)神武天皇祭。午前、演習があった。午後4時より司令部で祝宴会が催されたので出張奏楽をした。盛会で午後9時解散。4月4日(木)午前、楽器を自習。4月5日(金)午前、楽器を自習。午後1時30分より病院で奏楽。4月6日(土)午前、楽器を自習。4月7日(日)午前、楽器を自習。本日、戸山学校軍楽学舎より被服品が到着した。先に威海衝攻撃の頃より服が裂け、靴は破れ、ほとんどその形があるのみで行軍等には草履を用いるほどだったので、さっそくこれと着替える。学舎下士官一同より手ぬぐい一筋ずる寄贈された。4月8日(月)神道派より神官2名渡清して城外招魂社で招魂祭を行なった。よって出張奏楽。4月9日(火)午前、楽器を自習。4月10日(水)午前、楽器を自習。4月11日(木)午前、楽器を自習。午後、司令部で奏楽。4月12日(金)午前、楽器を自習。午後、城外東方梨園で兵站監部の宴会があり出張奏楽。藤井楽手補は二等楽手に、篠原二等楽手は一等楽手にそれぞれ昇進した。4月13日(土)午前、楽器を自習。4月14日(日)近衛師団長北白川宮殿下が軍司令部においでになったので出張奏楽。近衛師団はすべて上陸したもののようだ。恤兵部より巻煙草分与される。4月15日(月)恤兵下着1枚給与される。4月16日(火)一同、七里壮に行軍した。急に進軍の模様だ。私物などは残らず東京に送り、その[進軍の]準備にかかった。4月17日(水)恤兵部より缶詰配与される。この日午後、3週間休職の命令があった。[理由については]さまざまな憶測がとんだ。この夜、賊が入り、わが隊長の金時計を盗んで行った。4月18日(木)午後、城内行進合奏をした。4月19日(金)午後、司令部で合奏。4月20日(土)午後、永井次長作曲の《征清記念行進大和尚山》を演習した。中に、雪の進軍と称する歌詞があるので掲載しておく。
【歌詞】雪の進軍氷をふんで。どれが川やら道さへ知れず。馬はたほれる捨てても置けず。此処はいづくぞ皆敵の国。ままよ大胆一ぷくやれば。頼みすくなや煙草が二本。焼かぬ乾魚と半煮飯に。なまじ命のあるそのうちは。怺へきれない寒さの焚火。烟い筈だよ生木がいぶる。しぶい顔して功名ばなし。粋といふのは梅干ひとつ。着のみ着のまま気楽な伏戸。背嚢枕に外套かぶりや。背なのぬくみで雪とけかかる。夜具の黍穀しつぽり濡れて。結びかねたる露営の夢を。月は冷たく顔のぞきこむ。命ささげて出て来た身ゆゑ。死ぬる覚悟で吶喊すれば。武運つたなく討死せねば。義理に搦めた恤兵真綿。そろりそろりと首しめかかる。どうせ生かしてかへさぬつもり。
4月21日(日)軍司令官は旅順口大総部に何かの用で出向された。4月23日(火)午後、司令部で奏楽。4月25日(木)午後、軍司令部付一般の宴会。4月26日(金)午後、監督部総員の宴会。4月27日(土)午前9時より城外招魂社で祭り。第一軍司令官野津対象には金大山大将と対面されたので出張奏楽。
【2004年6月22日】
北京あれこれ網代栄三(『音楽之友』 第3巻第4号 1943年04月 p.56-61)
内容:★空 空の色と光に誘われて網代は再び大陸に渡り、北京に来た。江[文也]が出した詩集『北京銘』は、どのページを開いても北京礼讃に満ち、この地の空、光、土を謳っている。網代が空に憧れるのには、晴々しないもの、すっきりしないものへの嫌悪も含まれている。空と光のほかに北京には色がある。天壇や紫禁城を訪れる人は、その色調と線をたたえる。それも空と光があってこそである。北京の良さは古都北京の良さである。北京はすべてを歴史の中に溶かし込む。★北京−満洲 在満中から満洲は中国の田舎だ、北京は本場で文化程度が高いと聞かされていた。北京にはハルピンの虚無と退廃もなく、新京や奉天の躍動する新興団の意気も感じられない。北京には日本人の打ちたてようとする文化を考えるより先に、中国人のきわめて強い自国文化に対する誇りと自身とが大きく感じられる。古都北京もさいきんあらゆる面で変貌しつつある。華北は、まだ戦争の現地なのである。したがって政府と公共団体に一貫した指導原理があり、それにしたがって文化運動に多額の金額を出すというまでには至らない。それでも今年は新民會から北京音楽文化協会に補助が出るらしいし、北京交響楽団にもさる機関からいくらか助成金が出たと聞く。各レコード会社、放送局、華北電影などでオーケストラを持ちたいという意向もあるし、いろいろ考え合わせると将来の発展性は大いにあると断定して差し支えない。★吃飯太貴 北京の交通は、いつも満員でのろく不便な電車を除くと、ほとんど洋車(ヤンチョ、人力車のこと)による。朝家を出てこれに乗り、帰宅するまで、乗るたびに「吃飯太貴」(日本語に直すとメシメシタカイ)ということばを聞かされる。飯が高いからもっと金をくれ、というのである。網代が北京についた日、ある友人が「北京には詩がない」と言っていたが、それは、この「吃飯太貴」のことであった。つまりすべて金、金と耳に入り、経済生活が生活感情の前面に押し出されて不愉快だという意味だったのだ。重慶側が日本人が入ってきたから物価が高くなったという宣伝をしているのと思い合わせて、このことばは耳障りである。しかし北京に詩がないことはない。江文也など北京へ来てから盛んに詩を書いている。「吃飯」すなわち飯を喰うことは中国人にとってはわれわれより遥かに意味が重い。それほど昔から飢餓も多く人も多すぎ、喰うのに苦労したのであるが、喰うことが一日中の楽しみであり重大事なのである。日本人は仕事をするために飯を喰うが、彼らは美味いものを喰うために働く。中国人の3つの理想というのがある。第一は日本人を妻にすることであり、第二は中国料理を喰い、第三は西洋式の家に住まうことである。北京在住の日本人で中流以上の人たちは彼らのいう理想をすでに達成しているのだから、もっと働かなければもったいない。ある程度内地の犠牲において恵まれた物資生活を送れるのだから、よほどしっかりしないと罰が当たる。
(つづく)
★過渡期 北京は京劇の本場である。華北電影の京劇映画『御碑亭』は満洲においてもすばらしい受け方であったし、北京における戯院の多いこと、子どもから大人まで京劇中の歌を吟じている。中国文化研究において芝居の研究は欠かせない。しかし、伝統の形式が尊重されてきた京劇にも「物真似」が入ってきたりして、大衆の嗜好もしだいに現代化してたり、従来のスター制度の欠陥が意識されつつあって、京劇も過渡期を迎えている。また、中国の流行歌は上海で作られ流行したものが全国に広がるのだが、華北とくに北京は従来そうではなかった。ところが近時、上海の流行歌が眼に見えて売れ出したのである。これらの変貌をどう解釈しどう導くかがわれわれの課題である。どうやら中国人は五音音階以上の音楽はピンと来ないらしい。身近な中国人もそれを肯定している。江[文也]も「北京にいると五音音階以外の音楽を感じない。北京で書く音楽にはファやシは用事がない」と言っている。★音楽界 北京の音楽界の指導的地位には日本人がついている。実力と進歩においてはるかに抜きんでているわれわれが彼らを導き、大東亜音楽文化を建設しなければならないことは他と同様である。公の機関としてはもっともまとまっている師範大学音楽系がある。ここにバリトンの寶井とピアノの田中がいる。また日本中学にいた井上がさいきん講師になった。いずれも上野の出身で、卒業年度も大差なく、みな30代の青年である。寶井はマーラーの愛好者で東京でも2回リサイタルを開き、北京でも1回開いた。中国側の教育界を指導する立場にある。井上はトランペットで卒業し日本中学に赴任したが、その時分から北京交響楽団の結成を企て、1943年2月18日の演奏会で第9回を数える。メンバーはハルピンと似て白系ロシア人を中心に日本人、中国人が若干参加している。編成は2管であるがファゴットがないのでサキソフォンで代用したり、ホルンが2本よりないこと、オーボエが1本でクラリネット3本で代用していることを除けば、まずまず2管というところである。技術はハルピンといい勝負といえば少し褒めすぎかもしれぬが、井上の熱意は大いに多としなくてはなるまい。ついさいきん放送局の葭村専務がこの楽団の会長を受諾されたから、経営の苦労も報われ、これから軌道に乗ると思う。師範大学の音楽科の内容は、まず日本の首都の私立の音楽学校よりいくらか低いと思ってもらえればよい。設備は悪くない。同じく上野出身の、日本高女の荒井がいて北京合唱団を組織している。団員は在留日本人の愛好者で、素人の集まりとしては相当のものである。上野出身者では、ほかに柯政和と網代栄三、女の方は大学の藤村博士の奥さんを始め、6〜7人いる。中には師範大学で教えている人もいるし、女学校の先生もいる。次に放送局には袴田がいて、日本語の方の音楽と演芸を担当している。合唱団や吹奏楽団の指導などもときどきしているようである。若手ではピアノの三浦宙一、歌の一瀬克己の2人がいる。いずれも武蔵野出身と聞いたが詳しくは知らない。放送局には、合唱団が日本側と中国側とに一つずつある。次に江文也がいる。彼の立場は独特のもので、北京を愛し、その雰囲気の中で暮らし作曲に励んでいる。最近作のなかには孔子廟の音楽と北京交響楽(未完成)があり先日舞踊音楽《香妃傳》を上演した。それから北京に二十数年いる柯政和がいる。北京楽界の先輩であり、中国側の音楽教科書の編集、歌曲の作曲その他の功績は大である。ほかに市の警察隊の吹奏楽団、中国学生の音楽隊、華北交通および華北運輸の吹奏楽団、キリスト教青年団の合唱団、それにわが陸軍軍楽隊がある。先日、北京特務機関の肝いりでできた北京音楽塾の落成記念には、北京の全楽団が出演したが、そう馬鹿にしたものでもなかった。それでも今年は新民會から北京音楽文化協会にいくぶんの補助が出るようで、北京交響楽団にさる機関がいくらか助成金を出たと聞く。各レコード会社、放送局、華北電影などでオーケストラをもちたいという意向もあるし、将来性は大いにあると断定して差し支えないようである。
(つづく)
●表裏一体●表裏一体という言葉は日本では陰ひなたがないことを意味するが、中国では一枚の紙にあると同様に、およそ世の中のものに裏と表のないものはないという意味になる。すなわち人間にも表も裏もあってもいいということになり、官吏が法に触れない範囲で職権を私に用いることは昔から諒解されていた。これが裏である。日本人が自分たちの潔癖さで性急に工作し得ない所以である。日本人は何かをしていないと気が済まない。あの支那風呂で一日中大の字になって悠々と寝ころんでいる中国人のまねはわれわれには到底できない。われわれのせっかちで小賢しい論理が空回りするように思われるときがある。考えて良い主題である。中国が参戦してからも、いまのところちっとも変わっていない。新民會(日本の翼賛会、満洲の協和會に相当)が民心の動向を調査したところ、2つの結果が出た。一つは日本は経済的に米英に負けるであろうという見方であり、他の一つは日本と米英が戦争しているのでわれわれには関係ないという態度である。彼らにとっては聖戦の意義などは問題にならず、全然無関心のようである。知り合いの、相当インテリの中国人でも「早く戦争をやめて欲しい、こう物価が高くなっては困る」という。昔から中国では民衆と政治とは対立したものであった。国民政府が参戦と同時に参戦意識の高揚を第一に取り上げたのももっともである。いまは専ら南方に世の視聴が向けられているが、音楽文化工作も文化工作の一環である以上、南方ばかりでなく、もっとも大切な隣国の中国と満洲を忘れてはならない。●北京−東京●東京は雑音が多く、聞くまいとしても聞こえるうるさいところだ。音楽家ほどお互いの悪口を言う人種は少ないと言われる。明日死んでもいいくらいの、厳しい生活をしている人が幾人いるだろうか。一人一人が自分の生活に打ち込まなければだ東亜を率いていくことはできない。一方北京では雑音を聞かなくてもすむ。東京では得られぬ静謐の瞬間がある。生のままの自分が見つめられる。北京で思うものは永遠の命であり歴史であり皇国の姿である。北京は作品が書けるところだ。自己を凝視し自己に忠実になれるところだ。古都北京であっても、時代や社会からの逃避は許されず、また時代の要求する厚生音楽への方向と背馳するものではない。自分を捨てた人は崇高であり、かつ高い。私利私欲に動かされるのは常に小我にとらわれているからである。そうではなく戦線に立つ兵隊さんの新交響楽団に少しでもあやかりたいと思う。
(完)
【2004年6月28日+7月1日+7月4日】
音楽会記録唐橋勝 編(『音楽之友』 第3巻第4号 1943年04月 p.62-63)
内容:1943年2月1日〜1943年2月28日分(→ こちら へどうぞ)。
【2004年7月31日】

楽界彙報(『音楽之友』 第3巻第4号 1943年04月 p.63-64)
内容:=記録= ■大日本音楽振興会役員評議員 旧臘[昨年の暮、の意]設立された財団法人大日本音楽振興会では第1回評議員会を開催、設立発起人中より顧問として伊澤多喜男、福井菊三郎、清水登之を推したほか、次のように役員を決定した。
【会長】藤山愛一郎
【常務理事】福井巌、白井保男、山田耕筰
【理事】市河彦太郎、橋本情報局第五部長、堀丈夫陸軍中将、阿原文部省教化局長、川上嘉一、坂野常善海軍中将、永井文部省専門学務局長、三井高維、乗杉嘉壽
【監事】大村兼次、佐渡卓
【評議員】穂積重遠、黒田清、田中正平、安田一、武富邦茂海軍少尉、古河従純、武藤與市、小森七郎、信時潔、菊地文部次官、大久保利腎、京極高鋭、大倉喜七郎、澁澤敬三、奥村情報局次長、森村市左衛門
【18[1943]年度委員】井上情報局五部三課長、堀内敬三、細川碧、中山晋平、黒澤隆朝、小山門文部省教化局文化施設課長、遠藤宏、清水文部省大臣官房文書課長
■文部大臣賞の音盤7種 文部省では1942年度文部省推薦音盤の中から、とくに優秀で国民文化の向上に資するものとして次の7種に対し文部大臣賞を交付することになり、1943年3月16日、文部大臣官邸で授賞式が行なわれ賞金300円ないし500円が授与されたが、特に《元寇》に対しては特賞1000円が授与された。 長唄《元寇》(ニッチク) 管絃楽《満洲国大行進曲》(ビクター)  三部輪唱《山の子供》(ニッチク)  歌曲《土に生きる》(ニッチク)  国民歌《子寶の歌》(ビクター)  《働くこころ》(ビクター)  歌曲《そばの花咲く道》(富士)■諏訪根自子嬢名提琴を受く ベルリン来電によれば、1942年12月ベルリンに初登場したヴァイオリニスト諏訪根自子に対し、1943年2月22日、ゲッペルス宣伝相みずから17世紀の名ヴァイオリンであるストラディヴァリウスを贈呈したとのことである。諏訪はドイツで傷兵慰問の演奏をしばしば行ない、日独親善のために活躍するところ甚大だった。現在、世界を通じてわずかしか残っていない名器のヴァイオリンであるが、贈呈式には大島駐独大使も参列した。■埼玉県吹奏楽聯盟結成される 埼玉県下の吹奏楽団、喇叭隊、鼓笛隊、合計120団体を打って一丸とする埼玉県吹奏楽聯盟が1943年2月13日、浦和市埼玉会館で結成された。この式には大日本吹奏楽聯盟から常任理事近藤真一が出席したが、会長には大政翼賛会埼玉県支部事務局長綾川武治、副会長に埼玉県翼賛文化聯盟音楽部鈴木孫三郎、理事長には岡本末蔵が就任した。なお1943年4月3日には結成記念大演奏会が開かれる予定。
=情報=■4月の日響と東響 日響は定期公演が2回ある。9、10日は尾高尚忠の指揮でベートーヴェンの《第2交響曲》、諸井三郎、ワグナー、メンデルスゾーンなどを、21、22日にはローゼンシュトックの指揮でベートーヴェンの《第7交響曲》ほか伊福部昭、ブラームスなどを演奏する。東響は定期でベートーヴェンのミサ曲を出すほか、ベートーヴェン連演で《フィデリオ序曲》、《ピアノ協奏曲第3番》を演奏する。
=消息=
松竹交響楽団 大東亜交響楽団と改称
平野主水 元陸軍軍楽隊長軍楽特務大尉。1943年2月11日死去。享年67
コロムビアレコード ニッチクレコードと改称
キングレコード 富士レコードと改称
筑波高 下谷区上野桜木町38竹内方へ転居
文學準 荏原区平塚8−1207へ転居
弘田龍太郎 ニッチクレコード専属となる
【2004年7月13日】
編集室澤田周久 加藤省吾 黒崎義英(『音楽之友』 第3巻第4号 1943年04月 p.80)
内容:★1943年3月11日、早稲田大学大隈会館で日本出版會の創立総会ならびに日本出版文化協会臨時総会が開催され、ここにわが国出版界の画期的な戦時体制が確立された。すなわち、2年有半にわたり難問題を解決してきた社団法人日本出版文化協会が発展的解消をとげ、その財産をすべて日本出版會に寄贈、1943年2月18日の出版事業令による統制団体として発足するに至ったわけである。★『音楽之友』も必然的に日本出版會の傘下に統率され、国家の要請に即応する出版文化のために挺身する。★音楽之友社創立以来の願望であった出版部が、このほど文協の承認を得て誕生した。近く厳選を重ねた第一書、第二書が出版されるはずである。(以上、澤田周久)/★前号から従来8ページだった楽譜ページを32ページに増やした。これは当初の予定を早めての実施だったので、まだまだ検討の余地もあろうが、それにもかかわらず好評を得たのは喜びであった。★春のシーズンを迎えた楽壇は、このところ数多くの演奏会が開催されている。しかし、その演奏曲目は必ずしも当を得たものではない。また演奏態度においても一考を要する点があるのではないか(以上、加藤省吾)/★印刷ならびに製本能力の関係上、雑誌の発行が毎月多少遅れるので、それを取り戻すために本号は応急措置をとった。その結果、本文の重要内容が多少希薄になったが、楽譜面が充実してきたことは認めていただけると思う。雑誌を通しての楽曲の生産組織方法は確立の見透しがついたので、今後は楽譜の「特集号」を出すはずである。読者各位には書店に購読予約をするか、本社に直接購読を申し込むかしてほしい。★澤田も述べているとおり本社に出版部が許可された。本誌の編集内容が、従来の群小楽譜楽書出版社における過去の傾向に対する批判であることを知ってほしい。本誌はあくまでも楽界の中核体としての推進力を失わないであろう(以上、黒崎義英)。
【2004年7月31日】


*2004年5月7日はp.14-の「フィリッピン音楽私考」をまとめました(完)。
*2004年5月13日はp.23−「南の空に歌ふ(二)」をまとめました(未完)。
*2004年5月16日はp.23−「南の空に歌ふ(二)」をまとめました(完)。


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