『音楽之友』記事に関するノート

第3巻第05号(1943.05)


小国民音楽のために<座談会>上田友亀 小林愛雄 園部三郎 中山晋平 弘田龍太郎 本誌記者(『音楽之友』 第3巻第5号 1943年05月 p.4-21)
内容:■童謡運動と『赤い鳥』 上田:近ごろ世間では盛んに音楽音楽と騒がれているが、少国民音楽は逆に一時より停滞しているように思う。それはなぜか、どうしたらよいかということが大事な問題だろうと思う。しかし話をうかがう前に、一時ひじょうに盛んだった童謡について、その発生から発展の時代に活躍された方がおいでなので、その頃の思い出話をしたら今後の参考になるのではないかと思う。童謡が始まったのはいつ頃か。弘田:私が童謡運動を始めて、そのあとで『赤い鳥』だ。小林:弘田氏が本郷のキリスト教青年会館で、その当時作られたものの発表会をやった。それが大正3、4年ではないか。弘田:『赤い鳥』が出たときに、こんな童謡雑誌が出たのかと思った。僕が一方でやっていて、鈴木三重吉氏が成田氏とやった。それで僕もあとであっちへ行った。上田:童謡運動の発祥は文学者の仲間から出たと考えていたが、そんなに早く弘田さんがやっていたとすると音楽方面から出たもののようだ。どちらから出たのか。小林:たとえば北原白秋が童謡を作り、それが音楽家の手に回ったではないか。上田:従来の唱歌の歌詞が子どもの生活に即さないという点が、童謡運動の起こりではないかと思っていたのだが。弘田:あの時分の童謡運動は北原白秋から出たのだ。曲の方は子どもが喜ばないということもあった。理由の一つは、あまりに外国風であった。それをなんとか日本風にしようというひとつの運動だった。小林:私ども、子ども時分は明治唱歌が中心で、曲は全部外国のものだから。上田:葛原氏と梁田氏、それから小松氏が大正少年唱歌をやっていた。結局、弘田さんが音楽方面からいうと先覚者だ。当時発表されたのはどんな曲で、曲の傾向などはどのようなものだったか。小林:青年会館で《お山のお猿は鞠が好き》というのを聴いて驚いた。子どもも狂喜した。新しい生活が創造されたと思った。上田:私がそれを聴いたのは、大正11年に東京の浅草の学校に出てきたときのことで、新しくて珍しい歌があると思った。園部:大正7、8年ころ創刊された『赤い鳥』までに、弘田さんたちのあいだで運動の初期というようなものが作られていた。その時代には、たとえば北原白秋などの文学者は子どもたちの文化という意識をもって行なっていたのだろうか。小林:それはあったと思う。弘田:『蜻蛉の眼玉』の序文に出てくるのが北原白秋の意見で、芸術の単純化という内容だった。園部:私より3、4歳下の子どもたちは『赤い鳥』を読んでいたのをよく覚えている。いまになって考えると鈴木三重吉は、ひじょうにはっきりした一種の新しい文化運動を意識して実践されて、いろいろな歴史的な仕事を残された。しかしその前の北原や弘田氏の芸術上の仕事は、いまの私たちの年輩に残っていない。こうして考えると、鈴木三重吉の『赤い鳥』が画期的な運動としての力を社会に残したのではないかと思う。『赤い鳥』に対する文学上の批判はこうだ。『赤い鳥』の時代の児童文学は一種の社会的勢力をもったという。すなわち、それまで子どもの文化というものがはっきりと意識されていなかったところへ鈴木三重吉が現れて、家庭の中へ児童文学を持ち込み、しかも一種の輸入文学のというかたちで運動を起こした。そのために、ひじょうな新鮮さをもつとともに、ことに婦人の魅力になって普及されたという話がされている。いまから考えれば模倣的とか外国依存的だといわれると思うが、当時はそれが一方で日本の童話作家などに刺激を与え、外国児童文学の摂取時代というものは等閑視できない。煎じ詰めると鈴木三重吉がのこした文化のうち一番大きなものは童謡ではなかったかというのが結論だった。となると、鈴木三重吉が現れたことと、それ以前に北原白秋や弘田氏が童謡を作られた時代の関係はどうとらえるのか。弘田:われわれが始めた仕事を鈴木三重吉がまとめて仕上げたといえる。園部:『赤い鳥』の運動は西洋くさい芸術という幹事がするが、それ以前の文化に対する対立はなかったか。つまり古い教科書的文化に対して新しい童謡運動がはじまった。『赤い鳥』の初期は成田為三で、その少し後から草川信。弘田:それから僕が入った。園部:その前に近衛、山田耕筰といた。雑誌『赤い鳥』の本質的な性質として移入文学的なものが音楽にもなかったか。(中山晋平出席)(つづく) 上田:音楽のほうで日本的なメロディにしなければいけないという機運が起こったのは、文部省の尋常小学唱歌ができてまもない頃だと思う。唱歌に対する批判として起こったのか?弘田:そういうつもりではなかった。ただ、あれだけでけでは、あまりに外国すぎたから補おうという趣旨だった。そのころは、今のように小学校で検定以外のものを使ってはいけないということが、あまりやかましくなかった。園部:『赤い鳥』以前の話が出たが、大正3、4年頃、童謡に一番魅力を感じた層はどういう人たちだったのか? 大都市に限られたものではなかったのか?弘田:『赤い鳥』以前はそうではなかった。上田:その頃は全国に広まる機関がなかった。ラジオがあるわけでもなく、楽譜が出版されても皆が読めるわけでもなく、一般に浸潤するには相当の期間がいった。中山:その時代には児童芸術運動が全般的にあった。たとえば山本鼎の自由画が盛んになったのが大正3、4年頃ではないか。園部:自由画など今日から考えると、ヨーロッパの新しい文化になんとなく憧憬を感じたということだけでなく、日本の児童の教育上の問題として、それ以前の方法に拠らないものを感じていた。いかがだろうか。上田:教育思潮の上からも、そのころは児童性の解放ということが盛んに言われて千葉師範の自由教育が天下に鳴り響いた。また成城学校の文化主義的教育が全国の小学校をリードしたが、その前にすでに綴方教育で東京高等師範の芦田惠之助などは、従来の綴り方に批判を加えて自由選題を唱えていた。そうした兆しが各方面に濃厚にあって、童謡や自由画に伸びていったと思う。園部:なんとなくあの時代の国民学校、すなわち尋常小学校の教育が型にはまって、それに対する反動としてフレッシュなものを求めるというものがあったのだろう。上田:思想界におけるデモクラシーの現われだ。園部:杉山平助の『文藝五十年史』に、鈴木三重吉の運動は自由主義的なものだったと書いている。そこだけ見ると単に自由主義的とかたづけれらるが、それ以前のものを考えると、あの時代のものにも一種の向上的な面をもってきたものと思う。特に大正3、4年から『赤い鳥』の出現する7、8年から10年を考えると簡単に片付けられないものがあったと思う。文学の方面の話だが、特に『赤い鳥』に限定して言えば、都会のインテリ階級の家庭にもてはやされたが、一般の地方都市や町村にはもてはやされないで、そちらでは『童話』という雑誌がもてはやされたという。上田:雑誌そのものはひとつの階級に偏していたかもしれないが、内容はそうとう広まっていたのではないか?小林:作歌、作曲した人は都会のものだろう。弘田氏の作品は都会のインテリ層に入った。それが全国的に行きわたるという調子になった。弘田:まだレコードもなかった。 ■童謡の流行と『金の鈴』 上田:童謡が盛んになって、ついに子どもの流行歌のようになって、それに対して批判が始まったのはいつごろからか。小林:満洲事変後ではないか。上田:教育的な立場からいって、学校唱歌がほとんど圧倒されて童謡一辺倒になった時期があったのだが、私たちがやっていた『唱歌教材』という小さな雑誌で、いっぺん文部省の歌に立ち戻れというようなことを書いたのが大正13年ころ。中山:それは、教育音楽協会というものができてからではないか。あの協会ができて、教科書みたいなものを拵えたことがあった。上田:僕はあの協会には関係しなかった。教科書は新尋常小学唱歌のことをいっていると思うが、それはずっと後だ。弘田:童謡がだんだん悪くなったのは、まじめに作曲の勉強をしないで小器用に書くということもあった。小林:それとレコードの発達によってレコード作家が会社に入り、一晩のうちに童謡を書いてしまうことから価値の下落がきた。園部:いわゆる童謡運動時代の童謡は子どもを対象に詩が書かれているが、そこには多分に大人の感情があり、あの時代に大人の世界が突きつめられないで子どもの世界に逃避し、情緒的で感傷的な童心へのあこがれがインテリ階級の家庭に入った。その前の児童のための詩や音楽は、教科書の型を出ない。それに対する批判であるとはいうものの、ついには大人の見た子どもという立場にとらわれるようになったと思う。そこで近年になって文学の方面からそれではいけない、子どもの心に立ち返ることが必要だと再び批判されるようになったのではないか。中山:童謡が起こり始めた白秋や野口雨情がもっていたのは、むしろ逆ではないか。そのころまでにあった唱歌が子どもの歌ではなかったのだ。園部:ところが『赤い鳥』の行き方は必ずしもそうではないと思う。それが昭和に至るにおよんで一種の臭みを帯びてきた。そのことの批判が、ほんらいの子どもに立ち返ることになったのではないか。『赤い鳥』に対して本居氏と野口氏が結んでやった『金の鈴』というのが・・・中山:はじめ『金の星』といい、のちに『金の鈴』と改題した。園部:それが『赤い鳥』に対する反動だと思う。中山:そうだ。園部:野口のもっている土臭さが『赤い鳥』の文化的な臭いに対するものとして出てきて、本居が歌をつけたものをみると、欧米移入的なものに対する無意識的な反発があった。弘田:それはまちがいない。上田:もう少し意識的かつ理論的裏付けがあればよかったが、それがなかったから、作曲ばかりでなく歌詞の方も、いいかげんなものがどんどん入っていった。中山:理論的裏付けはあったのだけれど、多くの作曲者たちが不勉強だった。弘田:そして、なんでも子どもが喜んで歌えばいいと、子どもに甘えることになった。小林:初期の童謡のヒントは外国から得たと思うが、たとえば白秋の『マザー・グース』は国語の美を発揮して、できあがったものは著しく日本的なものだ。園部:『赤い鳥』時代を簡単にかたづけることは疑問で、ひじょうに功績があったと思う。むしろ今日横行している童謡の方が、あの時代から摂取すべきものがたくさんあると思う。上田:そして終わりになってジャズの影響がそうとうある。これが堕落にいっそうの拍車をかけた。(8月9日、つづく) ■童謡レコードの影響 園部:『赤い鳥』から『金の鈴』の時代を過ぎて児童文化が観念的に確立された時代があった。そのときには組織はないためか、その時代のことが一番はっきりしない。あの時代と今日の童謡とでは何か変わるのだろうか。記者:さきほど上田氏が中山氏は童謡と流行歌を結びつけたと言われたが、中山氏の童謡はむしろ民謡に近づいたのではないか。一方、なにか唱歌と結びついていったものがあると思うが。園部:それはないことはない。『赤い鳥』が都会的であり、『童話』が強度的な色彩をもっていたと観念的に区別することはできないけれど、児童文化のうえにそうした傾向が2つの流れをなしていたのではないか。『金の鈴』が漫然ととらえた地方的なものを、中山氏が民族的なものとして現わしたと思う。記者:野口雨情の童謡はひじょうに民謡的で、北原白秋は西洋的なものから出発したがけっきょく日本的なものだった。山田氏の場合も同じ傾向で、西洋的手法をもっておられるけれどひじょうに日本的だ。上田:今後の日本的な国楽創造ともつながるが、童謡のすすむ方向を考えるとひじょうに重要な問題がある。園部:今日の少国民の音楽というものは一つの型があると思う。意識的に児童音楽はかくあるべしと、いろいろな人たちによって積極的に考えられていた時代があったのではないかと思うが。上田:文学方面では真剣に考えられたと思うが、音楽の方面ではなかったと思う。園部:と同時に、音楽がリズム主義になった。ジャズよりも前にそれがあったと思う。子どものもっている本能的で肉体的なものを刺激することから、リズムということに中心をおいた音楽を書こうという傾向が出てきたと思う。『赤い鳥』時代の音楽はひじょうにメロディアスだが、ここ数年はアコード主義だ。あるいは、やたらに木魚をたたいてリズムをとるような。中山:それは数年来のことではなく、レコードの童謡が始まってから、たいていそうなのだ。園部:そこでレコードの普及と新しい舞踊の出現に密接に関係があると考えられる。もう一つは子どもを再認識することが音楽では子どものもっている原始性を活かしたいということで一般に意識化されてきた。それが今日では、あまりにマンネリズムになってしまったと考えるだがどうか。上田:リズム化の原因はジャズの影響ではないか。中山:ジャズと違う。園部:ジャズと違って、いわゆるリトミーク運動の影響だろう。記者:レコードの童謡が入ってきてから、以前はピアノ伴奏が多かったものが、フルートが入ったり小編成のオーケストラになってきた。流行歌のような編曲がある。上田:ジャズの影響だろう。園部:単なるピアノ伴奏よりオーケストラ伴奏の方が家庭には売りよい。そういう点から判断して鈴木三重吉は事業家だと思う。上田:教育的な方面からいって、家庭に呼びかけることは大事だから、そういう純粋な立場から考えたものと思う。中山:企業化しても売れないのではしようがない。企業の目的に合致しなければ相手にされなくなる。そこに無理がある。園部:それを押し通しているのがここ数年だ。たとえば中山氏の歌は旋律がひじょうにおもしろいが、編曲者の伴奏がそれをこわしている時が多い。記者:レコード会社には童謡だけの編曲者がいるのか。中山:それはいない。企業目的に合致させるためには、どうしても年齢の低いところを狙うようだ。したがって童謡のレコードにはリズミカルにもっていくための囃子言葉のようなものがどうしても多くなっている。弘田:そのため品が悪くなる。教育的でなくなり、指導精神も失われる。困ったことだ。上田:資本主義の悪い結果だ。園部:童謡を聴くと幼稚園から小学校へ行けない子どもを相手にしている。そこに限定することは、児童文化という点から考えると間違いだと思う。中山:学校では検定済になっていないものは使わせてくれないだろう。幼稚園は使ってくれるので、その可能性のあるものをつくるわけだ。 ■童謡のリズム化 上田:童謡のリズム化という傾向はどうだろう。あながち否定すべきでないと思うが。園部:僕もあながち否定しない。ところがマンネリズムになって動きが取れない状態になっていると思うのだ。もう一つは、こういうことから子どもの音楽の旋律的な美しさを損ないはじめている。上田:ジャズ的な傾向は排除しなければならないが、昔の日本のすべての音楽がリズム要素を欠いていたということは、今後の日本の音楽の発展のうえでは相当考慮すべき問題だ。園部:ただそのリズム化が徹頭徹尾リズムを目的にして、一定の美しい旋律までもなくしてしまうのでは困る。上田:僕は教育方面でリズム教育の必要を主張したが、メロディとくっついたものだ。園部:それが一般には考えられていない。上田:そういう傾向はあった。さらに現代の童謡について批判すべきことを言っていただこう。 ■童謡作家と一般作家の問題 記者:童謡を専門にする作曲家と一般の作曲家が童謡をつくる場合の違いはないか。上田:弘田や山田の例はあるが、本格的な作曲家は童謡を馬鹿にして、あまり手をつけなかった。これは嘆かわしいと思う。そしていままでは、童謡専門の作曲家ということになり、その人たちは童謡は作るけれど作曲はできない・・・。園部:大人の作曲を書いているすべての人が児童のために音楽を書くのは望ましいけれど、おのずから別のジャンルだと思う。中山:違っていいと思う。子どものものだけ作っている人があっても差し支えないと思う。園部:さいきんでは深井氏が国民合唱を書いたり、平尾氏が中央公論から出ている子どもの本に出したものもある。一般に大人の曲ばかり書いている人が子どもの曲を書かなければいけないとはいえないし、逆に子どもの世界を書いている人がシンフォニーを書かなければいけないということも言えない。上田:童謡を書いているから作曲家の部類に入らないというのは、いけないと思う。弘田:私は童謡を書くときはまったく頭を切り換えるようにしている。いかに自分が子どもになるかに苦労するが、あとは雑作なく書いてしまう。しょっちゅう子どものものを書いているわけではないので、頭の転換にはひじょうに努力するが、学校で子どもと相撲をとったり幼稚園の砂場で遊んだりするのが大きな転換になる。上田:現在の要求としては、相当力のある作曲家がそういう気持ちになってもらいたいと思う。そして音楽的に正しく、いい童謡を書いてもらいたい。記者:いつか『少国民文化』誌上でも童謡や童話の専門家が書くもの以外に、一般の作家が童話文学をやっていかなければいけない。専門の作家は一種の職人的なものになってしまって、真の童心にも大人にも訴えないものになるとあった。園部:言いかえれば、いまの少国民文化があまりに国民文化一般から離されている。あくまで国民文化のうちにあって、ここから子どもの文化や大人の文化というものが本質的に考えられてくるのではないかと思う。現在の少国民音楽の欠点の一つは、子どものための音楽がひじょうに局限されていることではないか。国民学校5、6年生以上の子の音楽はない。その学年や中等学校では教科書以外に何も与えられていない。それらの少年少女に留意して方法を講じてほしい。今のところ売れないから作らないというだろうが、何らかの方法で打開できると思う。上田:しかし、音楽は幼児の世界から急に大人の世界に飛躍し得る可能性があると思う。園部:そうだ。可能性はあるが現在は極端に限定されている。
(8月12日、つづく) ■少国民音楽としての器楽 記者:少国民音楽を対象にして考える場合、童謡をさいしょの段階として問題にしたが、幼稚園から国民学校までのあいだ、童謡、唱歌、ハーモニカ音楽や鼓笛隊などいろいろあると思うが、上田氏はどのように考えるか。上田:唱歌は童謡よりもメロディが形式的ではあるはあるが両者を区別して考えるのは相応しくない。一つの童謡から大人の音楽への橋渡しとなるような、子どもの音楽性に即した器楽がもう少し考えられなければならないのではないかと思う。弘田&園部:それがひじょうに少ない。上田:ピアノやヴァイオリンを教えるにしても、一般の子どもに与える教材がない。器楽の作曲家がもう少し子どもを理解して、子どもの世界の器楽曲を作らなければいけないと思う。記者:唱歌と童謡という概念を破った、少国民の音楽が必要になる。中山:実際に童謡と唱歌の区別は破られているのだろう。上田:歌から音楽へ橋渡しするには子どもに楽器を使わせることが必要だと思う。しかし、日本の童謡や唱歌は言葉をとってしまうとほとんど生命がなくなるので、具合が悪い。園部:子どもには自分が歌って喜ぶ音楽、自分で遊戯しながら喜ぶ音楽と、ひじょうに差があると思う。たとえば小さい子どもが数十人集まって遊戯する場合、リズムを主体にした自分の肉体に合わせるものを喜ぶ。それでいて歌って聴くときには、旋律的なものを夢中に聴く。自分が遊ぶときには本能的な肉体的なものを喜ぶ。こういう二つの面に子どもの成長性があるように感じているのだけれども。上田:それは矛盾していない。子どもはひじょうに高級な音楽に浸っているように見えるけれども、子どもの受け取っているものは大人のそれとは違う。園部:受け取るものはわれわれと違うが、そういうものを聴き得る状態にあるのだから、それを一定の限度で固めてはいけないと思う。上田:子どもの世界は、これまでのように概念的に極めてしなうのはひじょうに危険だ。園部:一般的にみて、社会教育面で現われているものはやはり固定的だと思う。だから、もっと進展性をもった音楽を書き与えることが必要だと思う。上田:子どもにはリズムしかわからない。あるいは描写曲しかわからないとう固定的な観念をもってはいけない。ある地方の女子師範の先生も、シューベルトの《アヴェ・マリア》のようなものを小さな子がよけい喜んで聴く、そこで文部省の鑑賞教材などもっと考えなければならないと言っていた。それは確かにあるが、経験から言えることは、子どもの聴き得る音楽は、けっきょく子どもが歌える音楽だ。教育的な過程からいって、純音楽的な要素をもう少し織り込む必要があると思う。これまでの童謡にはそれがかなり欠けていると思う。 ■作曲家と作詞家の立場 園部:童謡を作曲される小林、弘田、中山各先生の立場から、日本の童謡の作詞家に註文はないか。中山:註文はある。あるが、それは童謡に限らない。愛国歌や軍歌でも音楽の上で在来の型を破るにはそうとう苦労がいる。七五調の歌が先にできていて、それにメロディをつけてもありきたりのものにしかなり得ない。それを破るには少し変則的だが、はじめにメロディを作ってしまう。それによくなじむ歌を詩人がつけてくれればよい。上田:純粋の歌謡論からいくと、そういうことはあり得ないが、子どもの歌は教育的に考えなければならないから、曲が先にあって歌詞があとにつくということは、ある部分必要だ。小林:それには詩と音楽の接触が足りない。中山:野口雨情氏といっしょに旅をして回ると、歌を書くのに苦労しているのがわかる。一行書くと、その前の方から一種独特のメロディをつけて読んでみる。弘田:北原氏もやはりそうだ。上田:小林先生は外国の曲に歌詞をだいぶつけたが、どのような点に苦心されたか。小林:理想的にはアクセントまで一致させたいが、それはできないのでメロディだけは考えて原曲になるべく近いように心がけている。中山:流行歌のうえでは、それは行なわれている。たとえば古賀政男氏はメロディを拵えたあと、作詞をする人と一杯飲みながら議論する。だから世間からは悪口を言われるが、ぴたっと馴染んだいいものができている。それほどの苦心をしている人は、そう沢山はいない。園部:そうすると、子守唄なら子守唄、鎮守の森なら鎮守の森という主題で作曲ができる。中山:第一連だけでも詞を先に作って、それにメロディをつけてみるのだ。そうすると、どこをどうしたらよいということが実際にでてくる。第一連の形をしっかり決めて、それに順応したものを第二連以下につくれば、いいものができる。(8月17日、つづく) 上田:そこまで作歌者が協力すれば楽になる。小林:中山氏から七五調では動きがとれないと聞いて啓発され、私が作った文部省唱歌は全部七五調ではない。園部:たとえばシューマンはシューベルトよりも誌に対して高い選定をしているが、大人の歌曲の場合は、語勢とか韻律よりも詩のもっている詩的雰囲気を音楽的に表現することが強くなる。ところが子どもの世界では、端的に表現しなければならない。そうすると「語」のもっている性格が大人の詩の場合より直接的に要求されていることから、詩人に対する要求がより積極的に出てくると思う。中山:詩人にしても子どもの歌はそのつもりで書いている。ただ、多くの詩人は音楽的な素養をそう多分にもっていないから、アクセントに無理が出たりする。園部:言い方を変えれば、日本の童謡のために書く詩人は漫然と詩情に重きを置いて、音楽化されることばの響きを度外視する傾向があると思う。上田:音楽的な考慮が充分でない歌詞を作曲する場合、あまりアクセントなどにとらわれると、かえって音楽を弱めることになってよくないと思う。《御民われ》でそういう問題が出ていたという。弘田:いまの時代だから、指導的でなければいけないし同時に面白くなければいけない。これが作曲家としてひじょうに難しいところだ。園部:一方的であってはいけなく、美しく楽しくなければいけない。 ■新しい機運への要望■ 記者:童謡は指導性と娯楽性をもたなければいけないということで、なにか新しい気運とか傾向はあるか。上田:いまは時局的な歌に圧倒されている。弘田:時局歌を純化して、指導精神の下において子どもが喜ぶ、清新なものが出なければいけない。それは歌ばかりでなく、生徒たちがやる器楽や鑑賞ものにもたくさんなければいけないと思う。園部:中山氏の作曲の中に《飛んでみろ》という歌がある。「飛行機に乗って飛んでいく」という文句があるが、子どもとしてたくまくしく伸びること、飛行機に乗って飛ぶという子どもらしい空想、しかも男らしい空想ということが考えられていてよい。上田:表面的に時局につけるばかりでなく、もう少し子どもの生活の本質に根ざして強い精神を育てるものがありがたい。戦時下の少国民の生活という面からみて、もっと広い取材が必要だと思う。園部:『赤い鳥』時代のお伽の世界だと架空の空想だ。ところが現在の子どもにもたらしている空想は、日本国民として大きく伸びていくという漫然とした空想でいいと思う。子どもに与えられている音楽の詩に、国を愛するという歌が少しもない。上田:祖国を愛せ、国を守れと直接にいうことも必要だが、子どものときの楽しい思い出と結びついて国土の美しさや楽しさを思う感情がなくては、ほんとうの愛国心にはならないと思う。小林:(国定教科書に)《日本州》とか《國の華》がある…。中山:そういう歌ばかりたくさんあったはだめだ。大人のでも子どものでも、イデオロギーを盛った歌が多い。歌われなくては意味がないのだから、楽しさがなくてはだめなのだ。園部:兵隊さんありがとうとか、鉄砲をかついでいくというものだけを子どもに与えなくてはと断定するばかりでは、狭いと思う。中山:同感だ。殺風景になってしまって。小林:器が小さい日本の作曲が南方に伸びていくという今後においては、大陸的というか、おおまかなところが盛られて良いと思う。 ■南方文化工作と童謡■ 上田:南方文化工作の一つとして、今後の日本の音楽、ことに少国民の音楽は相当考えなくてはならないと思うが、その点についてはどうか。小林:日本の童謡民謡が形をなしたのは奈良朝で、その時はインドから音楽が渡ってきて鳴ったのだ。それが、いわゆる協和楽になり、童謡になり、大衆化されて、徳川時代で民謡童謡が栄えた。それが今度、ふたたび南方へ輸出されるということは不思議だと思う。上田:ところが今度南方に流れていくものは、西洋的な洗礼を受けているわけだ。小林:西洋的な影響と東洋的な影響を渾然的ものにして、八紘一宇的な大きなものが南方に流れなければいけないと思う。上田:今度南方に伸びていく日本の少国民音楽は、ある論者によると、西洋的な要素をすっかり排除し、本来の日本に還らなければいけないという考えもある。小林:そうは思わない。やはり日本は外国文化を摂取してきているのだから。東洋的なもの、西洋的なものを吸収し、それに日本的なものが働いて渾然一体となったものができあがっており、それが南方へ流れていくことになるではないか。上田:西洋の模倣ではだめだが、それを消化したものをもっていけばいいわけだ。弘田:雅楽がすでにそうだ。中国から来たものがすっかり日本化されている。上田:南方へ行っている兵隊の士気を本当に鼓舞するものは、現在あるイデオロギッシュな愛国歌ではなく、子どもの時に歌った歌が思い出されて、それが本当に士気を鼓舞する。そういうことが、軍の報道員などでいわれている。記者:童謡はノスタルジーをもっているから。上田:そこに充分考えなければいけないことがあると思う。小林:子どもの歌から尽忠報告の精神が湧いてくる。弘田:そこが重大だ。国民学校の先生には大いに渇を入れる必要がある。まだ都会方面はいいが、地方の先生は児童教育が、音楽方面であれ何であれ重要だという認識を持ってもらいたい。僕は放送局の用事で、学校放送研究会で行って校長にいうのだが、校長だけではぴんと来ない。上田:実際、音楽関係の先生には特にそれが必要だ。それで、あの錬成大会をやったのだ。中山:国としても日本音楽文化協会としても指導を確立していけばいい。小林:小松氏が言っていたが、文部省には教学官がいて裁縫までいるのに、音楽の教学官はいない。国家として音楽の指導方針が明確になっていない。中山:文部省に一度質問しなさい。一番大事なことが確立していない以上、部分的に渇を入れてもはじまらない。上田:ところが文部省に音楽方針の根本を訊ねるところがどこにもない。国民教育局にも図書局にも教化局にも。それが現状だ。記者:ありがとうございました。(完)
【2004年8月6日+8月9日+8月12日+8月17日+8月29日】
日本海々戦の回顧河合太郎(『音楽之友』 第3巻第5号 1943年05月 p.22-28)
内容: ■序■ 日本海海戦もすでに39年前のこととなった。当時を追想すると、深く印象づけられた海戦であった。戦後ただちに書き残した記録も、その年の9月10日、乗艦三笠が佐世保停泊中に火薬庫爆発のため沈没し全部を消失して、細かい想い出もしだいに忘れ、いまでは僅かばかりのことが深く心に刻まれている。 ■三笠艦上軍楽員の戦闘配置■ 40年前は軍楽隊そのものについても認識不足な人たちが多く、戦争中でも士気を鼓舞するために上甲板で奏楽しているのかという質問は上等の部類で、芸名はあるのかと聞くものもいたくらいだ。その頃旅行していたジンタしか見たことのない連中が、海軍軍楽隊も似たようなものだろうと想像したのであろう。そんなわけで、1904(明治34)年8月10日の黄海海戦に三笠の艦橋や上甲板など、もっとも危険な場所で奮戦した軍楽隊員十数名が戦死あるいは負傷したにもかかわらず、大阪の某新聞では、激戦のこの日は楽隊でさえ下甲板に集まり短剣を用意していざという時は死ぬ覚悟でいたくらいだった、と侮辱的に書いた。日比谷公園での奏楽が始まってから軍楽隊に対する認識も深まったのは事実であったけれど、戦争中は何をしているのかわからなかったのだ。では、そのとき軍楽隊はどんな戦闘配置だったかについて、日本海海戦当時によれば、
1.前後部各主砲12インチ砲塔の伝令・・・2名
1.信号助手として艦橋にあるもの・・・4名
1.上中甲板の負傷者運搬員・・・約20名
1.無線電信助手(兼務)・・・6名
砲塔伝令の任務は砲塔内にあって艦橋からの伝令を伝達するのが第一である。ことに敵艦との距離については、もっとも大切な役目を有する最前線の戦闘配置で弾庫その他へも高声電話で命令伝達のパイプを受けもっていた。信号助手は艦橋にあって危険と機敏な重圧を有し、負傷運搬員は敵弾炸裂の上甲板敏速な手当のうえ、最下甲板の治療室にあるいは戦死体を運搬するなどもっとも危険な任務であって、1904(明治34)年8月10日には運搬員自身に多くの戦死者を出した。この戦闘では、先頃亡くなった佐藤清吉、現在も吹奏楽に活躍している近藤信一とった同級生も活躍していた。この日、後部12インチ主砲の砲隊長として奮闘していた伏見若宮殿下が敵弾にあたって負傷し、一等軍楽生の加藤肪が治療室まで背負っていった。当時、河合太郎は伝令として海戦に参加したが三等軍楽手に任官したばかりの22歳、無線助手の兼務をいいつかっていた。軍楽隊は平素耳の訓練ができているうえに鋭敏な神経、正確な発音に錬磨されているというので万事に重宝がられたものだ。当時の軍楽長は丸山愛次郎といって負けず嫌いの頑固一徹。軍楽は《君が代》と《軍艦行進曲》の儀礼曲さえ満足に吹奏できればそれでよいから、戦闘訓練に全力を注いで水兵に負けるなとけしかけられた。いまでも、水平線上に見え始めた敵艦無数の煤煙、艦橋の東郷大将、沈みゆく敵艦、敵艦の沈没と降伏など、忘れられない。(つづく) ■祖国を護れ■ 5月27日の早朝「敵の第一、第二艦隊は対馬海峡を通過せんとす。全艦直ちに出動」との命令が出た。不要なものは海へ投げ捨て艦脚を軽くして、根拠地の鎮海湾を出て対馬海峡へ向かった。旗艦三笠を先頭に、敷島、富士、朝日、日進、春日以下、帝国の艨艟[もうどう。いくさぶねの意]がズラリと並び壮観であった。日頃手慣れた軍楽器も艦底深く納めてしまった。私どもは出陣への晴着にと軍服からふんどしまで、みな新調品に取り替えた。原籍と自己の戦闘配置を書いた小形の木札を肩からかけて、少量の毛髪と爪を手箱に納め戦いにのぞむ覚悟をした。艦隊は対馬海峡を南下しつつあった正午過ぎ全員後甲板にあつめられ、伊地知艦長から次のような訓示があった。すなわち、1〜2時間後にはバルチック艦隊と雌雄を決することとなるが、この日のために訓練に訓練を重ねてきた。陸軍はすでに奉天で武勲を立てた。敵の艦隊は我艦隊に比して遥かに優勢であるが、吾等には大和魂と日本人の血潮があるから、これをもって敵の大艦隊を撃滅しなくてはならない。天皇陛下は国民また吾等を信頼するところ絶大である。いまこそ本分を尽くして安んじ奉り、国民の信頼に報うべき時である。吾等は萬々一にも不覚をとってはいけない。願わくは、一死報国只君のために、祖国のために己が本分を尽くしてもらいたい。諸士の生命は本日、本職[伊地知]がもらい受けたので承知願いたい、本職も諸士と生命をともにする、といった内容であった。感泣しないものはなかった。松村副長は一歩前へ出て、吾等一同粉骨砕身最後の一人まで戦い、決して負けないことを誓いますと答え、万歳三唱を唱えると、艦長は感激の涙を流していた。艦隊は南へ向かい、午後1時過ぎ、あの日本海海戦の幕は切って落とされた。 ■誘導艦隊来る■ 訓示が済んで戦闘までのしばらくのあいだ、われわれは訓示の時の感涙を忘れたかのように休息した。しばらくすると左舷艦首が水平線上に現れ、黒煙が糸のように見え始めた。緊張が走った。しかし黒煙は4、5本だけであとが続かない。よく見ると、敵艦誘導の任務を帯びていた主君の笠置、和泉、音羽、新高などの戦艦が全速で来るのだった。後日この戦艦の兵は、敵の大艦隊を向こうに回しての任務で、こちらの艦の大砲では歯も立たず巨砲を喰らえば保証のできないことで、やたらに近寄ることもできず、あまり遠方に離れては誘導任務を果たせず、逃げては離れ、離れては追いつく振舞いをしてきたが、敵はどうして打たなかったのかと思う、味方の主力艦隊に会ったときはホッとしたと笑っていた。 ■無敵の煤煙■ まもなく右舷艦首の方に無数の黒煙が見え始めた。そして黄金色の艦型がはっきり見えるようになった。緊張して彼方を見つめた。やがて、励まし合って各自の配置に別れた。河合は砲塔の伝声管に立った。敵艦隊は早くも打ち始めたが、一発も艦の近くに来ない。百発百中をめざすわが艦隊は、なかなか打たない。ねらいを定めて距離を測定していると、河合の伝声管に「皇国の興廃この一戦に」と響いてきた。大声で各パイプに伝令した。 (つづく) ■燦然たる旭日旗■ 戦いは最高潮に達していた。必死の伝令をしているときにハタと電話が聞こえなくなった。巨弾の響きで耳が遠くなったのか命令がはっきりしない。一番大切なときに敵艦の距離がわからないのでは何にもならない。鈴木砲台長に話して、砲台の上に立って直接艦橋からの命令を聞くことにした。行ってみると、敵艦一隻が火災を起こしながら沈みかけているのがぼんやり見えた。砲煙の中からぼけたように走る軍艦が見えた。巨砲の響きに鼓膜が破られ、強風は身体を吹き飛ばすかと思うほどで、号令を聞くことなどできない。艦橋から叱られたのを幸いに、再びもとの位置に戻った。戦争は音をもっている。リズムをもっている。まさに立派な交響楽であった。 ■自己の職責を守る■ 最下甲板の弾薬庫配置の水兵たちは釣瓶打の弾丸を砲塔へ送るばかりで激戦が見られない。弾丸供給には不足をさせないから海戦を見学したい、と言ってきた。砲台長にその旨伝えると「今日は演習じゃない」と一喝されたが同情し、敵艦沈没の都度一番に知らせるよう言われた。 ■また撃沈■ 夕刻、敵艦隊はほとんど全滅に近いころ、ただ一隻の仮装砲艦が全速力でわが主力艦隊の前路を横断しようとした。浮流水雷などを落とされないように、各艦順次に釣瓶打をした。敵艦のマストは打たれ、次いで艦尾に命中したため、しだいに艦首を持ち上げ、人も艦も海に呑まれた。海底に消えたロシア兵の心を思うとき、さすがに哀れで他人事ではないとの感をもった。艦内は裸体でもいいくらいの暑さで、晴れの姿では活躍できなかった。 ■水雷艦隊の夜襲■ 激戦も夕刻近くに落ち着いたが、残余の敵艦隊は水平線のあたりに火災を起こしながら逃げていく。わが艦隊は一時艦脚を止めて後方に控えて水雷戦隊を招いた。小さな水雷艇はひじょうな動揺である。昼間の激戦を切歯扼腕しながら見物していただけに、瀧田、宮古の両艦に引率されて日本海軍独壇場の水雷夜襲は始まった。撃沈また撃沈の無電が来た。 ■その夜の艦内■ 全艦船は暗夜の海上を全速力で浦監へと追撃をつづけた。河合は上甲板に立って、自分の艦のいたるところに弾痕が刻まれ煙突の塗料ははげている。初めて無惨な自分の艦を見た。「勝ったんだ」と思ったとたん母親のことを考えた。中下甲板に入ると、もっと悲惨で負傷者で満員となっていた。放談の負傷だから手をもぎ取られたり、足を失ったりしている。それが痛むのでウンウン唸っている。さらに下士官浴室には戦死者がまるで鰯を重ねたように折り重ねてある。真紅の血潮が浴槽の水を染めて艦の動揺に左右している。大砲を手入れし水雷を調整した。軍楽隊の健全なものは負傷者の看護に夜を徹した。艦内は温度が高いため、折り重ねた肉のあいだに臭気が生じ、早くも最期が迫ってきた。一人の水兵が死ぬ間際、蚊の鳴くような声で「テ、テ、テ」とはじまり、じっと聞いていると「天皇−陛−下」と言う。まわりの者は襟を正して起立すると、「バ−ン−ザ−イ」と言って息絶えた。もう明け方も近く、28日の戦闘が待ちかまえていた。 (完)
【2004年9月1日+9月7日+9月13日】
南の空に歌ふ(三) ― 南方音楽随想 <連載>佐藤寅雄(『音楽之友』 第3巻第5号 1943年05月 p.29-31)
内容:2.国破れて歌ありか? インドシナ半島にフランス文化が浸透するにつけて、欧米の音楽が次々と紹介されたが、安南の民謡や古典的な歌に関しては、あくまでも保守の殻を一種の誇りとして捨てずに身につけてきた。しかし、外国音楽の輸入は新しい世代を風靡し、哀愁に終始する自国音楽にないものを外国音楽に見いだし、そこに心地よいものを感じとるとともに、知らず知らずのうちに欧米化されたのだった。安南の国粋主義者たちは、今日の安南の青少年たちが祖先がかつて歌った美しい言葉をゆるがせにするばかりか、国の香りと伝統を込めた歌を嫌悪することに憤慨している。そういうわけで、今日の青少年の一部には、地方で歌われている歌などは口ずさまなくなったり、自分の国の歌を知らない者も出てきてしまった。彼らが歌うのは《北京のおじさん》であり、《不思議なタンゴ》であり、《クレオラ》や《オルセエ》である。安南の友人にフランス音楽のことを訊ねると、ティノ・ロッシのファンが成人層のあいだにも意外と多かった。暑い日の昼下がり、木陰でティノ・ロッシのシャンソンを音盤からぼんやりと聴いているさまは、一種の安南の現代的姿ではないだろうか。ここに、佐藤は文化闘争のいきさつを思い浮かべる。国が破れて、その文化も征服されてしまっては魂が逃げる。こうした文化のあり方に、感傷的になる前に、佐藤は文化闘争の厳しい現実を見せつけられたという。安南の音楽国粋論者は新しい世代を非難するならば、なぜ文化運動を活発にし、復古精神を説くとともに、新しい世代の音楽的はけ口を作って総合的な音楽啓蒙をやらないのであろうか。次に紹介する安南の歌の分類も、安南音楽国粋論者の一人マイ・ヴァン・ルオンが発表したものと推察するが、惜しむらくは曲譜がなく、充分なものでないと考えられる。しかし貴重な研究であることには変わりがない。彼は十数年にわたり安南音楽の歴史やその分類を研究してきたが、次に挙げるのはその概略とみてよいだろう。南方の音楽というと文献や著述がほとんどなく口伝によるものが多いから、こうした研究、集録はひじょうな努力を要する。まして採譜の仕事は難しいだろう。古いことや習慣などを調べるには、その土地の古老に訊ねたり、街の物知りに訊ねるのが手っ取り早いのであるが、こうした物知りが少ないところなのだ。さて、安南文学の中には良いものがある。安南第一の文学とされる『金雲翹』その他一、二の作品は大部分が韻文である。小松清がフランス語からの重訳で『金雲翹』を訳しているが、原作の音楽的効果までは翻訳では味わえない。安南人は『金雲翹』を世界屈指の文学だと誇称したがる。実際それほどでなくても、安南人の一つのモラルの基準となって生活と結びついているから、よく膾啖される。だいたい安南語はアクセントも六声で、同じような言葉でも微妙なアクセントによって、その意味がだいぶ違ってくるので、外国人にとっては苦手である。しかし、音響的にはひじょうに変化があり、むしろかしましい言葉であるようにさえ思っているが、これが歌や劇になると滑らかになって、耳障りも良くなるようだ。(つづく) 3.安南歌の分類 
1.昔の歌
A.民間から出たもの
(1)恋愛歌
a. ハット・フェ・ティエン(恋愛を主題とした二部合唱)
b. コー・ラ(蒼鷺の歌)
c. トロン・クヮン(輪唱)
d. ハット・テーム(吟遊歌手)
(2)労働歌
a. ハット・ドー・デュラ(舟歌。サンパンという、安南の小舟の船頭が歌う)
b. 漁夫その他労働者の歌
c. 農夫その他野良仕事に従事する者の歌
(3)礼儀に関するもの
  一例としてハット・ド・エム(子守歌)
(4)童謡
B.貴族階級のあいだに生まれた歌
(1)ニャム・キュウ(独唱用のいろいろなものあり)
(2)ハット・ノイ、ハット・ア・ダウ(歌姫)
2.過渡期の歌
(1)改作したもの(ハット・カイ・リヨン)
(2)際物(サマック・アン・コア)
(3)カ・ユエ(順化[ユエ]の歌)
3.現代の歌
(1)トーキーおよびフランス音楽の影響
だいたい以上がマイ・ヴァン・ルオンによる分類である。安南語による歌詞を充分に理解しないで、耳で聴いただけで哀調一点張りと理解するだけでは済まされないほど複雑で豊富なものである。分類表をみただけでも、純粋な安南歌が新しい歌や外国語の勢力に地盤を浸食され、都会から姿を消したものが少なくない。表中にある「コーラ」「ビン・バン」「ハーン・ヴァン」「リュル・テゥイ」その他は、もはや都会では歌われないが、地方へ行くとまだ歌われている。仏印ではフランス語が普及しているので、安南人はフランスの歌をフランス語のまま歌い、安南語に訳してうたうことをあまりやらない。音楽活動も不活発になり、安南人の音楽家もフランス音楽や米国音楽を模倣演奏するが、安南音楽を耕し、それに新しい伊吹きを与えるような創作活動が不活発である。安南劇場に行くと、安南音楽と洋楽バンドの両方をやっている。安南音楽は安南劇の約束や型と密接な関係をもつ重要な地位にあり、舞台のよく見える袖に陣取っている。一方、洋楽の方は舞台前面の客席近くに陣取っている。その演奏の対照はハッキリしていて、安南音楽の楽器が大いにものを言っている。せっかく、こうした特徴ある楽器があるのだから、安南の作曲家たちは大いにこれらを活かして独自の作品を作れないものかと惜しまれる。(完)
メモ:安南は現在のヴェトナム。
【2004年9月19日+9月26日】
日清戦争軍楽従軍記(完) <連載>春日嘉藤治(『音楽之友』 第3巻第5号 1943年05月 p.36-38)
内容:1895(明治27)年5月1日(水) 午後、近衛師団司令部で奏楽。/5月2日(木) 当地でも日本商品を販売する店がところどころできたが、1銭の状袋が4、5銭、3銭のたばこが6、7銭と割高である。/5月3日(金) 午後、城内行進合奏。/5月4日(土) 野津一軍司令官と大山二軍司令官の両大将は、本日旅順口より帰舎した。午後、近衛担夫による角力があり、両大将来観。夜は司令部で宴会があった。/5月5日(日) 野津一軍司令官は金州を発して復州に帰軍された。萩本楽手補と青木楽生が病気入院した。のちに病院より両人は流行病につき室内外を消毒するよう達しがあった。/5月6日(月) 本日は招魂祭日なので東門外招魂社に参拝奏楽をした。/5月7日(火) 午後、城内行進合奏。夕方、首尾よく批准が終わったと伝えるものがあった。/5月8日(水) 武田楽手補と安西楽生が病気入院した。/5月9日(木) 芝罘で批准交換をすることとなって去る7日、わが使節が入り、本日をもって完全に交換が完了した。祝杯を挙げ、万歳を唱えた。ここまでの経緯はおよそ次のとおり。北洋艦隊降伏ののち、わが第一軍は太平山を破り、牛荘営口を占領して、田庄台を攻略した。また、わが連合艦隊は運送船を護送して佐世保を出発し、難なく台湾の傍らの澎湖島はわが軍の占領に帰した。清国は連戦連敗で昨年11月26日にドイツ人テットリングという人物が李鴻章の意を受けて神戸に来たが要領を得ず引き返した。今年の1月30日、張蔭桓と圏F漉という二人が講和の使節として来たが、これも要領を得ず引き返した。こうして3月19日、李鴻章自らが彼国の全権をもってやって来た。総理大臣伊藤博文、外務大臣陸奥宗光の二人に全権を託して馬関で談判を開いた。これは3月21日より始まり4月17日に終わった。こうして批准の準備は整えられた。/5月10日(金) 大日本戦勝行進の楽譜が送られてきた。本日、これを講習した。かねて入院中の萩本楽手補が不帰の客となった。/5月11日(土) 午前、病院に赴き入院中の患者を見舞った。[われわれも]昨年来の戦いに非常な身体衰弱をきたしているので、本日より鶏卵2個ずつ配られるようになった。/5月12日(日) 午後、室内を掃除し南京虫の害を防ぐ。/5月13日(月) 午前10時、在旅順口大総督小松宮殿下がわが軍司令部に出張され、大山司令官と面談したあと宴会があった。[小松宮殿下は]それが終わるとすぐ出発された。/5月14日(火) 午後、司令部で奏楽。来る17日、大連湾を出帆し帰国するとの知らせがきた。楽器と被服品の手入れをしてそれぞれ準備につく。/5月15日(水) 午後、東門外梨園で総督邸の宴会があり奏楽。/5月16日(木) 本日出発のところ、都合により延期。/5月17日(金) 11時頃急に命令が下り、3時までに大連湾に到着しろという。さっそく出発。目的につき、陸を離れる。途中にわかに暴風が起こり、九死に一生をえた。先に出発した馬船は沈没したが人命に異常は無かったとのこと。夕食を済ませて長門丸に移った。/5月18日(土) 午後1時、奏楽の声洋々として萬歳が響き、大連湾を出帆した。/5月19日(日) 甲板上で奏楽。/5月20日(月) 長門丸は対馬、壱岐を過ぎ、内地に近づいた。馬関に到着。旅順大総督部の一行横浜丸も投擲。夜9時出帆、神戸へ向かった。/5月21日(火) 午後3時半、凱歌を奏しつつ神戸に入港した。/5月22日(水) 午前11時より湊川辺で軍司令部一般の祝宴会が催され、大山司令官はじめ臨場された。/5月23日(木) 午前1時頃古矢舎長が夜行列車でわが第二軍軍楽隊を訪問され、午前6時京都に帰られた。ここにわが隊は第二軍附きを解かれ、午後9時神戸を出発して東京に向かった。/5月24日(金) 午後5時40分新橋に着く。6時半、戸山学校軍楽学舎に到着。凱歌を奏して凱旋した。ここに戦務を終わり解散させられて宿舎に帰る。身体の疲労を覚えた。[その後、]わが大元帥陛下は5月30日をもって東京凱旋をされた。陛下が凱旋されるや、沿道の人々は歓呼喝采し、特に東京市民は絶大な緑門を造って迎えた。(完)
【2004年10月2日】
時局投影唐端勝(『音楽之友』 第3巻第5号 1943年05月 p.40-41)
内容:1943年2月22日の衆議院大蔵省関係の委員会で、氏家国民貯蓄局長が貯蓄強化の一方策として50銭と25銭の貯蓄證券を発行する旨言明した。これは割引発行や割増金などはなく、額面どおりの価格で各種の預金や債券の購入に際してのみ使用しうるものである。文部省が、南方諸地域の民族に対する日本語教師を募集したところ、1943年2月4日の締切日までに1109名の応募があった。審査の結果、2月22日、562名の合格者を決定し、ちかく講習会と錬成を行ったうえで続々南方へ派遣される予定である。ニューヨークのガラッピ世論調査所が、さいきん米国の第一の敵はどこかという題目で全米にわたって調査したところ、日本5割、ドイツ3割5分、未定1割5分という結果が出たそうである。昨年6月の調査ではドイツ5割、日本2割5分、未定2割5分だったのに比べると、日本の強さが身にしみてきたようである。アメリカもそれだけ必死になってきた様子なので、皇軍の華々しい戦果に酔って気を許してはならない。議会における政府答弁によれば、米英その他の敵国に残っているほうじんは56万6000名、うち抑留されているものは1万3000名であるという。政府は帝国の真意を理解するインド人に対しては敵国人扱いをしないで、敵産管理法、資金凍結令などの適用から除外することに決定した。長野県北佐久郡岩村田町に住む剣道6段の森泉朝一という人について。氏は日中戦争勃発と同時に満洲国警察官練習所に勤務し、1941年暮れに帰国。剣道の大道場の開設を計画中に右半身の神経を犯され、長野県北佐久郡春日温泉の和泉館で療養しつつ、1年を費やして興亜武道史を脱稿したが、武道への再起不能を自覚し、1943年1月13日朝遺書をしたため端座割腹、妻千代子さんも小刀で左頸部を切断し絶命した。その遺産1万7000円は遺言によって武徳会岩村田支部および同郡下関係中学校の剣道振興費として寄付された。誌して読者諸氏に伝えるとともに合掌。日中戦争勃発以後1943年2月20日までに海軍へ寄せられた献金品の額は次のとおり。国防献金約1億6206万円、恤兵金約6486万円、学芸技術奨励金1123万円、恤兵品約2550万点、軍需品約52万点、金額にして合計2億5000万円を超える。1943年2月27日13時より歌舞伎座において大政翼賛会、興亜同盟、朝日、毎日、讀賣の各新聞社共同主催で、印度救援国民大会が開催された。当日は「我等はマハトマ・ガンジー畢生の念願成就を熱望し、印度独立に協力して凶暴米英の撃滅を期す。右決議す」という決議をあげ、大東亜各方面に通電した。物品税、遊興飲食税、入場税等の間接税の引き上げが1943年3月1日より実施された。これは消費力を徹底的に押さえたもので、要らないものを買わないという内容ではなく、要るものも買わずに工夫して間に合わせる、これからの国民生活を意味している。長野県南安曇郡翼賛会支部山岳関係者が会合をもち、日本アルプスを中部山岳と改称することを決定した。女の長袖と絹靴下、型変わりの帽子、男のダブル洋服、夏羽織の一掃が提唱されている。不意の空襲、不断の用意である。大日本体育会ラグビー部会では理事振興合同委員会を開き、ラグビーを闘球と改めることとした。なおホッケーは杖球、ゴルフは打球とそれぞれ改称する。(つづく) 1943年3月4日、第6回大東亜戦争死歿者行賞(陸軍第4回)、第62回支那事変死歿者行賞(陸軍第45回)、第52回支那事変生存者行賞(陸軍第39回)が発表された。うち金鵄勲章を授与されたのは1522名、殊勲甲は73名だった。ドイツでは、さきごろ電気ガスの節約令を出した。これによると前年同月比で電気、ガスともに一般家庭で1割、10室以上の家庭で2割、官庁では3割の節約を規定している。また、この8月末日まで10ワット以上の電球を売らないことにし、節電を計っている。平和産業から軍需産業に転じ増産戦士として活躍する優秀な転業者の表彰式が1943年3月8日、清澄庭園内の大正館で行われ、152名に対し岸本市長から表彰状と記念品が贈られた。日本文学報国会小説部会では部員450名を動員して、原稿用紙1枚の辻小説を作成。これに対して日本挿絵画家協会の会員が挿絵を描いて、ちかく街頭飾り窓などに展示されることになった。その一例として、谷崎潤一郎の「莫妄想」が紹介されている。戦争勃発2度目の陸軍記念日を期して、米英撃滅の合い言葉は「撃ちてし止まむ」であった。この言葉は神武天皇の御製「みつみつし、久米の子等が、垣本に、粟生には、韮一董、其のが本、其芽繋ぎて、撃ちてし止まむ」また「みつみつし、久米の子等が、垣本に、植えし薑、口ひびく、我は忘れじ、撃ちてし止まむ」からいただいた。この合言葉はポスターに、写真に、あらゆる機会を通して一億国民に徹底され、米英を撃滅しなければならない。また、米国の旗を踏みつけて突撃しようとする兵士を写しだした百畳敷の大写真が東京と大阪の2箇所に掲示された。東京では日本劇場の面に掲げられたが、この日、陸軍軍楽隊が市民を前に軍楽を演奏した。陸軍記念日の昼過ぎ陸軍省献納御神輿の長旆をひるがえして、荒川区町屋4丁目の町会が陸軍省へ御神輿をかついで来た。ほかに中野区栄町町会からも大小2基の御神輿が献納された。さきに撰定された愛国百人一首につづいて、大東亜文化学院で日本百人一詩が撰定された。菅原道真から乃木希典にいたる百人の愛国詩が集められている。埼玉県北埼玉郡岩瀬村上岩瀬に住む故矢島稲太郎氏の長女静江さん(22)は、兄二人を戦野に送り父母を助けて農事に励んでいたところ両親が急死し、妹二人を抱えて一時は途方にくれたが、出征遺家族の名誉にかけても供出米の責任高はやりとげる覚悟で、末の妹を国民学校に通わせながら食糧増産に黙々と励んでいるという便りが1943年3月13日の東京新聞に載っている。(完)
【2004年10月8日+10月11日】
◇楽壇戦響堀内敬三(『音楽之友』 第3巻第5号 1943年05月 p.42-44)
内容:■師弟道と取引関係 日本人は明治初期には米英人から、明治中期以後はユダヤ人から音楽技術を学んだ。その結果、彼らを洋楽のわが師と考えたり、日本の洋楽は米・英・ユダヤのものを引き継いだと考える人々がいるが、どちらも誤りである。米人、英人、ユダヤ人は欧州音楽をわれわれに取り次いだだけであって、われわれが学んだものは現今の枢軸盟邦の音楽であった。日本人ほど高級な欧州音楽を摂取し消化した民族は西洋においても少ないが、日本人は米・英・ユダヤ人に充分な報酬を与え、その技術を購った。彼らは満足するだけの利益を日本から得た。高度の精神文化を摂取したのはひとえに日本人自身の力であった。この「売り込み」を日本の師弟道と混同してはならない。日本では昔から師匠に対する月謝は、はなはだ少額で、それにもかかわらず師弟道が麗しく保たれているのは、これが取引関係ではなく、学術技芸を伝えよう、習おうという双方の誠意を師弟間の全人格的な接触から生じたものだからである。米・英・ユダヤ人らの考え方は、これとは違い、教授者は自己の生計のため学問や技芸を売る商売人であり、弟子はそれを買う顧客と見て差し支えない。ことに日本における外人音楽家は、その傾向が激しかった。しかも日本人は、その切り売り屋に対して礼を恭しく尽くしたので、彼らは始め驚き、やがて馴れて、日本人を軽蔑し、感心しない品行上の事件さえ起こったという。恩のないところに恩を感じるなと言いたい。■楽壇のユダヤ問題 現にユダヤ禍排撃の声が上がっており、楽壇でも「ユダヤ的な音楽を斥けろ」と叫んでいる人たちがいる。米英の背後にある政治的経済的勢力はユダヤ人であり、枢軸国盟邦各国が芸術面からもユダヤ的なものを放逐し去ったのだかた、日本の楽壇が今日のように公然とユダヤ人万能であることは好ましくない。たとえ日本にいるユダヤ系指揮者や演奏者に優秀な伎倆をもつ人々がいても、その人々を尊重することが国民思想に悪影響を及ぼすならば考え直さなくてはならない。ユダヤ人ばかりでなく、今までの日本はあまりに外人音楽家を尊重しすぎたと思う。攘夷論を強いるわけではないが、ユダヤ人問題が起こっている今日、日本の楽壇はもっと慎重にものを考えるべきだと考える。 (つづく) ■音楽家のご奉公 1943年4月9日、東京軍人会館で大政翼賛会主催の「芸術報国大会」が催され文芸・美術・音楽・演劇・映画・言論・書道などから約250名の芸術家が出席し、米英撃滅に関して意見を述べ決意を披瀝した。音楽関係者も約50名出席、意見を発表したのは山田耕筰(日本音楽文化協会)、有馬大五郎(日本交響楽団)、弘田龍太郎(レコード文化協会)、竹越和夫(同)、観世鐵之丞(能楽会)、杵屋佐吉(長唄聯盟)、堀内敬三(芸能文化協会)で、いずれも芸能報国の実践について現状を報告し将来に対する決意を表明した。菊池寛の提案には注目すべき点があった。すなわち音楽家や美術家の中には直接戦争に関係のない芸術内容の創造を行っている人々もある。それはそれでかまわないが、その人々も直接戦争に貢献するために財的な奉公をしてもらいたいというもので、前号の本欄で堀内が書いたことと同じであった。軍隊または産業戦士のためにする無報酬の演奏や作曲をしている人々もいるが、楽壇全体で見ればまだ少ない。「音楽を通じての御奉公」もよいが、もっと直接的なご奉公もしよう。■第2回巡回大演奏会 日本音楽文化協会は1943年3月下旬、浜松・豊橋・名古屋・岐阜・四日市の5都市に産業戦士のための「第二回音楽報国運動巡回大演奏会」を催し、山田耕筰・金子登・四家文子・早川彌左衛門・江木理一・牛山充の諸氏と東京交響楽団が演奏・指導および講演を行い、内閣委員京極高鋭子爵、情報局5部3課長井上司朗、産業企画局長三輪壽壮、日本音楽文化協会理事長中山晋平らが同行した。この演奏にあたっての実費は情報局が大部分を補助したが、汽車はすべて三等、出演者はわずかの日当を受けただけで挺身的なご奉公だった。この演奏会の直前、堀内は山田耕筰とともに陸軍落下傘部隊見学のため約1週間にわたって行動をともにしたが、山田は今回の演奏会で指揮すべきベートーヴェンの第5交響曲の譜面を手にして、余暇のすべてを利用して勉強していた。前回の東北地方巡演と同様に、今回も例外なく非常な感激を与えた演奏に終わったという。■2つの歌劇 1943年3月28日に歌舞伎座で「国民歌劇大伴家持」が上演された。劇に描かれているものは詩人・武人・官人であった大伴家持を扱ったもので(里見ク、舟橋聖一作)、大伴家持(長唄家の稀音家子交)と合唱(日本合唱団)だけが和歌をうたい、あとの役(舞踊家花柳壽美とその門下たち、汐見洋その他の新劇俳優・松竹移動劇団員)は歌わず、音楽(作曲と指揮渡邊浦人、大東亜交響楽団)は和歌独唱と合唱のほかには前奏曲と舞曲だけ。曲は力作で俳優の演技も良かったが、作品自体が芝居の中に歌と舞踊を盛り込んだだけのもので、歌劇として見るべき作品ではなく、劇としても貧弱空疎なものであったのは遺憾であった。つづいて、4月上旬東京歌舞伎座で藤原義江歌劇団の《ボエーム》が上演された。筋はただの人情劇にすぎないが、何といっても名作だ。このくらいの音楽作品がなぜ日本人に作れないのだろうと残念に思う。(完)
【2004年10月14日+10月17日】
◇満洲音楽情報鈴木正(『音楽之友』 第3巻第5号 1943年05月 p.45-46)
内容:満洲には日本でも知られる交響管絃楽団として新京交響管絃楽団、哈爾濱交響管絃楽団の2つがある。/新京交響管絃楽団のほうは建国10周年を契機として、国都にある代表楽団としての質的向上と量的拡充を計り、日本人音楽家の援助を得て新国家の発表、親邦日本および盟邦独伊よりの建国10周年慶祝献呈曲演奏を成功裡に終了し、来満音楽家の一部残留で得た新鋭の気にあふれてきた。さいきんの活動中注目に値するものは関東軍報道演習作品発表に協力したことである。先般、最酷寒期の北満で挙行された関東軍報道隊演習は日本にも前例のない企画であったが、そのなかで放送録音班の紀行三部作「国龍を往く」においては、同隊員である伊藤宣二の作曲指導により録音、解説、音楽をもって報道芸術の創始に新京交響管絃楽団も出演し成功した。本作品は東京より全東亜に放送されたから聴かれた方も多いであろうが、伊藤のおおらかで美しい音楽がみごとに再現されていた。伊藤は本作品に使用した音楽を中軸としてさらに想を練り、大管弦楽用の作品を発表するとのこと。かつて紙恭輔の《ホロンバイル》が、自身が音楽を担当した満洲映画協会の文化映画《逞しき草原》を母体にしたことを思い合わせると、ともすれば自己の殻に閉じこもっていた日本内地音楽家の視野拡大の刺激となるであろう。/一方、哈爾濱交響管絃楽団のほうは、世界唯一の白系ロシア人による交響管絃楽団で異色ではあるが、3万前後の哈爾濱在住白系ロシア人を中心とするものだけに発展性が乏しく、従来の名声維持がようやくであった。哈爾濱響の不活発は、ほかにいろいろ原因もあろうが創作能力の欠如も要因である。/新京交響管絃楽団のほうは作曲部が健在で、雑務多忙に悩みながらも地味な研究を続け演奏会あるいは放送に成果を発表してきた。在満作曲家相互の親睦啓発連絡機関の設置と教育機関の創設完備が望まれていたが、前者は去る1943年3月10日広報處長(情報局総裁に該当)、協和会(大政翼賛会に該当)、放送局、藝文聯盟、楽壇協会等各方面有力者の出席を得て設立要項案を審議決定し、正式に成立をみるとともに各役員を決定した。/満洲楽界はやっと萌芽期に達して時局の波に会い楽器、楽譜、音楽家の不足に直面している。こうした状況下で満洲国民音楽創造のために在満作曲家が決起し、関係各方面もこれに援助を惜しまないことは新興国家の伸展性のあらわれというべきである。満洲作曲家協会設立要項の一部と同協会の役員は次のとおりである。
1.目的 藝文指導要綱の趣旨に則り会員相互切磋琢磨し我国国民音楽の創造を旺盛ならしむるを目的とす。
2.会員 会員は満洲に在住する作曲家にして実績を有し日常活動をなしつつあるものにして委員会の承認を得たる者
3.事業 イ.作曲の研究及実践活動 ロ.作曲の受嘱並に発表の仲介斡旋 ハ.作品の編纂出版及それに対する援護 ニ.後進の指導 ホ.会員の相互扶助 ヘ.国外同種団体との交流
4.役員 
委員長:野口五郎 
委員:市場幸助(新京)、ニコライ・イワニツキー(哈爾濱)、陳其分(新京)、丸山和雄(新京)、松浦和雄(撫順)、安藤清彦(奉天)、佐和輝禧(新京)、宮原康郎(新京)、杉本秀治(吉林) 
顧問:甘粕正彦、藤山一雄、大塚淳、金澤覚太郎、セルゲイ・シュワイコフスキー、高津敏、高橋忠之、園山民平、
参与:板垣守正、伊奈文夫、石丸五郎、林幸光、劉盛源、小野崎仁、加藤重兵衛、武本正義、小林絹太郎、坂巻辰男、
事務局長:村松道彌
事務所:新京特別市永楽町4−1 藝文会館内
なお、満洲作曲家協会の活躍に協力する者として財満詩人歌人の統合機関・満洲歌謡研究会がある。これで器楽声楽ともに前進する態勢は完了した。
【2004年10月23日】
◇音楽会記録唐端勝編(『音楽之友』 第3巻第5号 1943年05月 p.47-48)
内容:■三曲新作コンクール入選決定 日本文化中央聯盟、大日本三曲協会主催の第2回三曲新作コンクールは応募20曲につき審査の結果、次のとおり入選を決定した。商品授与式を兼ねた発表会は1943年4月24日軍人会館で行われた。【入選】1等 米川敏子《御羽車》/2等 衛藤公雄《勝利への曲》/3等 富山清琴《日本の雨》、吉田純三《箏独奏小組曲》/選外佳作 鈴木清壽《秋の夜曲》、中田博之《故山の月》、佐藤貴久子《誉の戦士に捧ぐ》、渡邊浩風《萬葉唱和》■九州北海道の国民皆唱運動 翼賛会提唱の国民皆唱運動は、大分県では1943年3月9日より18日まで、佐賀県では3月14日より23日まで、北海道函館では3月20日より29日まで、室蘭では3月21日より29日まで、釧路では3月23日から30日まで行われた。4月2日には札幌で出征遺家族慰安を兼ねた合同演奏会を開催し、藤原義江、佐藤美子が出演した。■音楽文協の巡回演奏会 日本音楽文化協会、朝日新聞社共同主催、大日本産業報国会協賛による音楽報国運動第2回巡回演奏会が1943年3月下旬に行われた。巡回都市は浜松(20日)、豊橋(21日)、名古屋(22、23日)、岐阜(24日)、四日市(25日)の各地、東京交響楽団の管弦楽、山田耕筰、早川彌左衛門、金子登の指揮、独唱と歌唱指導は四家文子、講演は牛山充、音楽体操指導は江木理一。演奏曲目は深海善次の行進曲《皇軍讃歌》、タイケの行進曲《旧友》、ベートーヴェン《交響曲第5番》、瀧廉太郎《荒城の月》、橋本國彦《田上唄》、信時潔《日本の母の歌》、山田耕筰《わが背子は》、シュトラウス《碧きドナウ》、歌唱指導曲は《海ゆかば》と《楽しい奉仕》などであった。■新作長唄入選発表 日本文化中央聯盟主催の第2回長唄新作の入選決定が1943年3月20日発表された。発表演奏会は1943年5月25日夜日比谷公会堂で行われる予定。【入選】1等 杵屋勝一次《萬葉唱和》/2等 杵屋六眞次《落下傘》/3等 稀音家四郎吉《朝の唄》、稀音家四郎葉《萬葉唱和》■ビクターの第2回軽音楽作品入選作 ビクターでは健全な軽音楽作品を一般から募集中だったが、さきごろ次のとおり入選作を決定した。【入選】1等 該当者なし/2等 鈴木弘《潮の幻想》、東敏雄《憧れ》、露木安乃《おもちゃ遊び》、石川皓也《杜の都》/佳作 小井戸代次郎《月夜の舞》、高木惟郎《楽しき集ひ》、小澤直輿志《南海を航く》(つづく) ●情報● ■情報局の改組強化 情報局では啓発宣伝機能の充実強化を期して1943年4月1日より機構改組を行った。音楽関係は第4部芸能課(映画、演劇、音楽)となり、課長には井上清一が任命された。なお、従来の音楽関係の課長であった井上司朗は第4部文芸(文学、美術)課長となった。■安南に音楽の製作会社設立 1943年3月19日サイゴン発の同盟電報によると今般、安南のショロンに日安合弁の音盤製作会社が設立されることになったそうだ。ショロンには以前、アジアレコードと称する音盤製作会社があって安南人向きの音盤を製作していたが、プレス機械8台を有する南方唯一の音盤製作所であるため、同社資本20万円の半額を日本側から出資することで仏印と諒解成立。来る5月頃より製作を開始する予定である。日本の技術指導によって従来の月産1500枚は少なくとも倍加が可能とされているが、原料の豊富なところであるから今後の活躍が期待される。■増産音頭の作曲成る 朝日新聞社、大日本産業報国会共同主催の懸賞募集によって決定した《増産音頭》の作曲は中山晋平に委嘱中であったが、このほど完成し、ビクターレコードおよび五條珠實振付により普及されることとなった。■米英撃滅行進曲の作曲懸賞募集 日本放送協会では情報局後援、日本音楽文化協会協賛のもとに敵国民の意気を沮喪させ、皇国の威力を挙揚するために用いる「対敵放送用行進曲」を懸賞募集することとなった。楽曲は管弦楽曲、演奏時間は4分以内、締切は1943年5月末日、入選発表は7月1日、入選作には1等(1名)情報局総裁賞と放送協会賞、副賞2千円、二等(1名)放送協会賞、副賞1千円、選外佳作(数名)賞金300円の賞が贈られる。■楽器配給の協議会 現在、鋼鉄を使用する楽器は僅かに業者の手持ちによって、特免という方法で製作されている状態である。このほど情報局が中心となって、商工省、企画院、文部省などとの連携のもとに楽器配給協議会を設け、全国楽器業者の組合とも協力して楽器製造材料の最低限の確保をめざすこととなり、1943年3月12日の次官会議において奥村情報局次長より協議会設置に関する発言があり、異議なく可決された。●消息● ■松本絃楽四重奏団 松本善三、桑原雪子、喜安三郎、井上頼豊の4名は日本交響楽団を退団し、日本絃楽四重奏団と改称、事務所を東京市大森区池上洗足町309井上方に置く。■佐野敷定 中野区宮園通5−36へ転居。■渋澤一雄 大森区田園調布2−35(電話 田園調布2016)へ研究所移転。■弘田龍太郎 ニッチク専属作曲家となる。■高木東六 テイチク専属作曲家となる。■ラフマニノフ死す ロシアの作曲家セルゲー・ラフマニノフは1943年3月27日、米国カルフォルニアで長逝、享年69。 (完)
【2004年10月29日+11月4日】
◇編輯室(『音楽之友』 第3巻第5号 1943年05月 p.47-48)
内容:雑誌用紙の配給量が再び4割減となって、昨年末からみると3分の1しか紙が使えないことになった。雑誌の厚さをもとの3分の1にするか、発行部数を減らして厚さを幾分かでも食い止めるかするしかない。本誌は量の減少を質の向上で補うつもりにしているが、多少の手持ち用紙を使い尽くして良い雑誌を作る努力をしている。(堀内敬三)/少国民の音楽という問題はひじょうに重要な意義をもっているはずなのに、従来ほとんど関心が払われていない。そこで本誌ではこれら少国民音楽の方向に一示唆を与えるために斯界の権威による座談会を催し、本号の特集とした。これが一つの動機となって今後検討が行われることになれば喜ばしい。(加藤省吾)/ひところ音楽家や音楽学生は読書をしないといわれたことがある。この現象の原因は、一つには音楽雑誌が『キング』ほどに面白くなかったのと、いま一つは音楽家や音楽学生が音楽技術ばかりを音楽だと思いこみ、音楽精神を夢にも考えなかったせいではないだろうか。ともあれ音楽雑誌は面白くなくても読んでほしい。(澤田周久)/朝日新聞社によると日本音楽文化協会選定の大東亜共栄圏向童謡「ウタノエホン」を6曲掲載した。あと4曲は翌月回しとなったが本号ではこれを機会に「少国民音楽のため」の座談会を取り上げた。音楽の外面的盛況を一歩突き抜けると、あらゆる音楽事象の間に緊急にして焦眉の重要課題が山積している。これは、いまに始まったことではない。強力にして現実に即応した文化政策の再確認が要請されてくる。音楽の一時的な効用や示威をいう前に、音楽の恒常的な組織や機関の再整備がいわれるゆえんであろう。(黒崎義英)/紙面の圧縮によって本文紙数が多少割愛されたが、編輯内容は従来どおりである。われわれは近来の雑誌・出版の傾向や特質を知るものとして、日本出版会今次の措置を諒承せざるをえない。当局の真意が戦争完遂の線に沿ってなされ、結果として旧態依然の雑誌・出版界に対する粛正的志向となることを疑わない。「紙」もまた軍需品であり弾丸である。(黒崎義英)
【2004年11月7日】


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