『音楽之友』記事に関するノート

第3巻第03号(1943.03)


◇戦時下の娯楽政策特集・戦力と娯楽)/石井文雄(『音楽之友』 第3巻第3号 1943年03月 p.44-47)
内容:国家の憂いに遅れて憂い国家の楽しみに先立って楽しむということは、常人にありがちなことであるが、これでは真に国家を憂い国家を楽しむものとはいえない。と同時に、常時に非常時への構えを忘れ、非常時に常時への構えを忘れがちになるのも、真に国家を憂い、その維持と発展を願うものの態度ではない。備えは常に先立つべきもので、それなくして、その時におよんで有効な効果を期待することは難しい。非常時を特に国難と称するのは、これを乗り切れればここに勝利躍進がもたらされ、克服できなければ敗退衰亡がもたらされる。ここに非常時の「難」の性格がある。しかし国難にも有利な場合の国難と不利な場合の国難とがある。/昨今、戦時下における娯楽政策について語られている。「娯」の字が女扁であることからわかるように、女がいっさいの安楽の基礎になっていたことを示している。「楽」は木の上に絃をおいた琴などの楽器の形象を意味している。今日言う娯楽を考えると、原義より多少の変転を示して来ていることは争えないが、大東亜新秩序建設の聖戦下においては、娯楽と道義がその基調となるべきことは言うまでもない。娯楽について併せ考えなければならないことは種々あるが、まず文芸が第一に挙がってくる。文芸には、小説、文学、絵画、彫刻、建築、映画、音楽、舞踊、演劇、遊戯、競技などが数えられる。文芸の非常時における使命には、平時と同様、教養と娯楽、あるいは指導性と流行性とに分けて考えることができる。文芸における指導性教養性とは、理論理性から説かれることで、ここには道徳性または善性が主たる性命となってくる。一方、文芸における流行性娯楽性は俗行感性のうえから説かれることで、これには逐情性すなわち美性が主たる性命となる。こうして正しく善い文芸と面白く楽しむ文芸とが樹立されてくる。強いて分ければ善と美であるが、善である文芸が面白くなく、美である文芸がためにならないと断言することは早計であろう。文芸のもとは精神や生命にあるのであって、かたちにあるのではない。しかし、だからといって心や精神の生命にのみこだわって、その形的表現性を忘れることもまた反動的である。心とかたちとを帰一させることが文芸創造本来の姿である。東洋本来の文芸は心をとうとび、善を主とする。これに対して西洋本来の文芸はかたちをとうとび、美を主とする。東洋と西洋とが心とものにおいて食い違うように、娯楽的文芸と教養的文芸とが交互に繰り返されて行なわれているのを見る。/世の中は陰陽の二つから生成している。明の善としての活動は暗の美としての慰安となる。文芸においても同様で、教養的文芸は明ならば、娯楽的文芸は暗である。明が男声ならば暗は女性である。したがって娯楽は女性となる。しかし、この上にこの世の中は一元から出ているという哲学がある。ここに人智の絶えず追求する真理がある。善もまた美となり、美もまた善となる。ほんとうにためになる文芸はほんとうに面白い文芸であり、ほんとうに面白い文芸はほんとうにためになる音楽となるのである。戦時における娯楽対策というのも、こうした必然性を求めなければならない。常時における文芸対策としての娯楽と教養、および非常時におけるそれの帰一を求め、今次における戦時娯楽対策を樹立し、その具現を計るようにすることがもっとも緊要と考える。
【2003年11月27日】
生活体勢と娯楽特集・戦力と娯楽)/新居格(『音楽之友』 第3巻第3号 1943年03月 p.48-50)
内容:事変以来、歌も作曲も映画もいいものが出ている。しかし近ごろラジオの演芸放送は面白くないという。出かけていって観たり聴いたりする娯楽が、あるいは超満員であったり、往復の乗り物が混雑して思うに任せないことに比べると、ラジオは聴取者の広い範囲を持つ。1943年2月3日の夜、山岸重孝の「戦ふドイツ国民」という講演を聴いた。ドイツでは演劇でもオペラでも音楽でも、時局ものは少ないという。もちろん国情の相違もあろうが、こうした点を娯楽のうえから取り上げて一考する必要があると思われた。/雑誌『旅』で、戦地の部隊長が今ごろ故国では紅葉が美しいだろうと感慨に耽っていたという櫻井忠温の記事があった。ある夜ラジオ放送された杵屋佐吉作曲自演の《霜ふる夜》などは季節と相俟って味わいがあったのだが、この曲なども戦地の兵士たちに故国の冬の情緒を味わわせるに足りるだろう。杵屋のしんみりとした三絃音楽は政策的にもひじょうに好いものだといわねばなるまい。母国に住むわれわれも日本の冬のなつかしさを再認識した。それは祖国愛の昂揚である。娯楽と戦力との関係は、そんなところにもあることを感じた。古くからある民謡なども、戦いとは直接関係なくとも、われわれの生活感情の貫流するものであるから、日本人である意識とその感情を満たしてくれる。/では、どういうものがまずいのか? それは退廃的なもの、自棄的感情を盛った音楽であろう。ジャズ音楽がその際たるものであった。今日ではジャズ音楽が全面禁止になったが、よくみると、まだ余調があるのではないか。もしそうだとすれば、どこまでも追求し駆逐し去らなければならないのではないか。/夥しい数のすぐれた歌ができている。それらは国民の心を腹の底からゆすぶる。それらを皆唱すれば意識はさらに強化されるであろう。国民皆唱運動があるのは故ありと思う。続々とたくさんできるものをいちいち覚えるわけにはいかないが、代表的なものだけは大人の誰でもが知っていてもいい。精神に活力を持たせるために、老人たちも広場で大きな声で合唱するのもよいではないかと時に思う。発声運動として心気が高らかになるうえに戦時意識を強める。/戦力と娯楽の問題を音楽に限定しないで考えてみよう。現在の実際問題としては、第一に国民は戦時下の必要から超人的な勤労を責務としている。第二に生活を極度に節約すべきと心がけている。一晩の観劇は相当の観覧税を加算して非常な出費となる。したがって娯楽ではあるが、多数の娯楽としては近寄りづらいものとなった。音楽会、舞踊会もまた同様である。比較的近寄りやすいのは映画くらいであるが、大都会では交通機関の混雑、場内の超満員などの理由で乖離しがちになる。そうなると、わずかにラジオの娯楽放送演芸によって渇を癒しているのが大多数の現況だろうと思う。今日ラジオは娯楽面に限っても、その重要性は絶対的だといえる。同時にわれわれは娯楽というものを、生活環境の下に新しい考え方をするようになった。既存の諸娯楽が近寄りがたくなったとすれば、生活の手近なとことでそれに代わるものを見出そうとする。問題は、そうして娯楽の代用ないし新娯楽を見出していくか、既存の娯楽にいかにして近づきうるかだが、まず後者を詮めて前者に就くのではないだろうか。新居は野菜の栽培などに娯楽的興味をかけるにいたり、既存の娯楽はラジオに求めるだけである。若い人たちはスポーツなどもっと活気あることに娯楽的興味を移していくのではないか。そうした転位的傾向こそ、芸能に関係する人々が一考すべき課題ではないかと思われるのである。娯楽も、その生活体勢にあって娯楽として親近しうるものでなくてはならない。戦力昂揚の機能はラジオを通じてもっとも発揮されると見るほかないのではあるまいか。音楽も演芸演劇もその線を通じて戦力と娯楽の相関関係をもっとも強く見ようとするものである。
【2003年12月6日】
国民皆唱運動の実践特集・戦力と娯楽)/高橋健二(『音楽之友』 第3巻第3号 1943年03月 p.51-52)
内容:ギリシャ時代には音楽は芸術の一つだった。音楽はすべて調和から成り立つわけであるから、歌を歌ったり聴いたりすることによって身体の失われた調和が取り戻せる。歌を歌うことは精神的にばかりでなく、身体的にもいい働きをするし、娯楽であると同時に士気の昂揚にもなるし、休養の機会にさえなれば、生産の増強にすらなるなら、これにこしたことはない。これからは、娯楽は受ける娯楽ではなく、自分で歌い自分で行なう娯楽が本道になっていかねばならないと思う。こう前提して国民皆唱運動について述べる。/大政翼賛会が1942年11月末から新たに国民運動を展開した。その運動は、国民皆働運動、必勝貯蓄運動、重点輸送力運動、勤皇護国の烈士先駆者顕彰運動などがあるが、国民に厳粛な感じを与えたり、犠牲を求めたりする性質のものが多い。そこで国民の心を明るくのびのびとさせるような運動もほしいという意見が起こった。それで実践局が国民運動の企画立案に当たる関係上、文化部が何か明るい案を出すことになり国民皆唱運動を提唱した。これが今回展開することになったものである。最初の趣旨は愛国歌を声高らかに歌おうというごく単純なものだった。実践の具体案については宣伝部が中心となって決めた。選定された歌曲は70曲であるが、さらにいいものがあれば選定していきたい考えである。もっとも国民皆唱運動に先立って、翼賛会では《海行かば》の皆唱運動を始めている。あらゆる会合の解散前に《海行かば》を歌うよう翼賛会の関係団体に通牒を出し、相当程度歌われている。敵性音楽を一掃するという消極的な面と同時に、積極的にどういう歌をどのように歌うかの方途も示さなければならないので、こういう方法をとった。派遣する歌手はだいたい一流を動員することになっており、1943年1月30日に神奈川を出発する。これは全国を8地区に分けて歌手1、2名と伴奏者より成っている。地区ごとの日割もすでに決定されている。/なお、皆唱という言葉が面白くないという説があるが同感である。もっと良いものがあれば個人的には変えたいと思う。
【2003年12月9日】
国民娯楽としての音楽特集・戦力と娯楽)/清水脩(『音楽之友』 第3巻第3号 1943年03月 p.53-55)
内容:国民生活は年々急速度で切り下げを要求され、国民一人一人は生活費を極度に切りつめ、貯蓄を第一義に考えるときは到来している。国民すべてが最低の生活に耐えてゆかねばならないのは当然であり、このような事態に直面して、音楽に携わっている者は日本の音楽が今後どういう役割りを占め、それを遂げていくかということを考える。総力戦という言葉が数年前あるいはそれ以前から盛んに使われているが、この理念からすると文学、美術、音楽、あるいはもっと低い芸能文化を一本一本別々の樹とするのは、すでに大きな誤りといえよう。ではなぜこのような分派の現象が起こったのかを考えてみると、これらの文化が国民の生活から遊離していたからである。つまり各々の文化宣揚者が一つの群れをつくり、他人の入門者を許さなかったからである。国民の大部分は専門家の群れの中で、いかなることが行なわれ、どんな論議がされているか知ることができなかった。戦争開始と同時に国の理想が宣揚され、楽壇は閉ざされた場から廻り舞台に乗せられ、舞台裏を観客の前にさらけ出されたようである。/では、どうすればよいか。[楽壇を]国民の前に解散し批判を受けることである。同時にわかりやすい言葉で自分たちの仕事を説明することだが、わかりやすい言葉というのはどのあたりに基準を置くかが問題になる。ここに音楽の生活化という難問題がある。そこで音楽専門家は、しばらくの間国民の音楽理解力を把むべく勉強すべきであるが、そのためには国民の間にじかに飛び込んでゆくほかない。国民の中へ飛び込む勇気もなく、そうすることを恥と心得、芸術家の自尊心の放棄だとさえ思い込んでいるような音楽家は、国民の音楽、いいかえれば国民慰楽を口にする資格はないであろう。/国民慰楽としての音楽を今後いかにすべきかについてはまだ分明でない。しかし、さいきん各種の公共団体で巡回演奏や指導隊派遣を行なうようになったため、ここに音楽を国民に与えるべき緒口となったかのよう観を呈している。しかし音楽専門家は地方の音楽文化についてほとんど知識がなく、したがって彼らの運動はまだ試みの域を出ていないのである。すべてが戦争目的に集中され、その完遂のためには衣食住さえ最大限の犠牲を要求されている今日、音楽が最低国民生活へのもっとも簡便な、そしてもっとも浸透力のある糧として、格好の財宝であることはいうまでもない。生計の上で慰楽費がさいしょに削除されなければならないとしても、歌うという慰楽の方法はそのことによって何ら痛痒を感じない。人の心を刺激し、ゆたかにし、和やかにし、明るくすることこそ音楽のもつ最大の武器である。この武器がさびるか切れるかは、音楽専門家が百八十度の転向をするか否かにある。さいきん大政翼賛会が国民皆唱運動を始めたのは時宜に適っているが、この機会に音楽専門家が地方の人たちの言葉に耳を傾け、現状を判断し、あわせて各自の芸術観や社会観を反省するよう熱望する。至高至純の芸術作品が国民の血肉となるためには、国民全般が芸術作品を摂取しうるだけの地盤を必要とする。音楽家諸氏の奮起を促したいのはこの意味である。そしてもっと下へ降りてきてほしい。音楽家の貯蓄が俎上にのせられていることを黙って見過ごすことはできない。なお低俗な歌謡曲や温情的な歌い方、ジャズ風な軽音楽などについては書けなかったが、機会があったら述べてみたい。
【2003年12月15日】
音楽娯楽の軍需性特集・戦力と娯楽)/佐藤邦雄(『音楽之友』 第3巻第3号 1943年03月 p.56-57)
内容:カーク・パトリックの「娯楽は、今日の労役によって失われた心身の均衡を回復して、明日への活動のために自己を再創造する効用を有する」という言葉は、ナチのKDFの理論とも共通な思想があり、娯楽が直接生産力と結びついている点を明確に定義したといえよう。特に音楽が果たす役割については論をあらためるまでもない。大政翼賛会の国民皆唱運動といい、日本音楽文化協会の協力といい当然の企画であるが、その実行方法をみると、あまりに東京中心的でありすぎる。/さいきん朝鮮楽劇団の仕事を引き受けて痛感したことは、一般大衆が歌える良い歌が少なすぎることであり、内地から送られてくる音楽といえばレコード中心のものであり、あとはわずかな楽譜をたよりにしているという事実からみて、内地民皆唱すらおぼつかない現運動の微力にたよっていては、大東亜の諸民族を再組織し、その有する労力を米英撃滅の生産力へふりむける大運動における音楽娯楽政策の活用は難しく、もっとやり方を変えなければいけない。/ではどうするか。日本音楽文化協会、演奏家協会会員を中心に、そこに加入していない音楽家の中から優秀な者を選び、美術における陸軍美術協会のようなものを音楽の分野にも組織することを提案したい。会員の数はいたずらに多くは要らない。中央本部は他の文化機関と結んで、楽曲の作詞、作編曲、出版などすべての企画と事務を行ない、できあがったものは、本省より飛行機や船で各地の軍報道部に送付し、各報道部には会員より音楽指導者をあらかじめ駐在させ、現住民より音楽的才能のあるものを選びこれを組織して、受け取った楽曲を与え大衆に普及させるようにする。この仕事には総花的な役員や大きな会組織は不要であり、優秀な才能をもった同志的な結合さえあれば充分である。あとは軍当局が最高度にその機能を発揮する機会を与えられることは必定であるから、全力を挙げてその任務を遂行すればいい。軍が映画と同様音楽を必要とする時代になったことを認識して音楽家の奮起を要望したい。
【2003年12月18日】
1.国民に与える音楽は? 2.どんな曲目がよいか ― 葉書回答(到着順)(『音楽之友』 第3巻第3号 1943年03月 p.58-60)
内容:増澤健美 (1)平易で明朗な軽音楽の創出を望む。ここにいう軽音楽とはレコード会社が使用するような狭い意味のものではない。(2)まず国民大衆がみずから音楽し得る楽曲を与えるべき。
門馬直衛 (1)米英的でもなく、その他の外国的でもない純日本的で一般的な音楽。ただし観賞用の場合は別で、できるだけ芸術的で高級で、健全で、力強いもの。(2)行進曲風のもの、踊りの曲のようなもの。ただし、時には強烈で時には血を湧かすようなもの、また時にはユーモラスなもの。観賞用は世界的な名曲。
牛山充 (1)国民大衆が自身で歌いもし、聴いて楽しめる点で、たとえば中山晋平の《出舟の港》や《上州小唄》、山田耕筰の《松島音頭》、宮城道雄の《うはさ》や《せきれい》のような平易で健全明朗な民謡風のものがよいと思う。国民皆唱運動には、軍歌調や唱歌調のものばかりでは効果が上るまいと考える。
相島敏夫 (1)音楽も超重点主義を取るべきで、単なる娯楽の域から国民の士気の昂揚や敵愾心の発揚、増産促進への協力に直接効果があるような音楽を与えるべきである。(2)《海ゆかば》をはじめ、翼賛会宣伝部の国民皆唱運動に選ばれている曲など、いずれも適当と思う。
守田正義 (1)真の日本精神は熱育、智徳ならびに徳育の均衡のとれた練磨の上においてのみよく発揮される。このような意味で、スッキリしたもっとも古典的な先進国の小曲と、これと同様の新曲をどしどし創って国民に与えるべきである。(2)西洋ならばリュリやラモーの、日本ならば瀧廉太郎のメヌエットやロンドのような曲。
尾崎宏次 (1)(2)ともに一口には言えない。音楽こそ今日の芸術の中でもっとも純粋な立場にあると思う。知識人も勤労者も、ともにこの純粋性を渇望しているのではないか。そこに娯楽としても標準をおくことが一番大事だと思う。
青砥道雄 (1)現在の音楽は単なる娯楽や楽しみであってはならない。戦争完遂のための精神力を養うもの、または明日の活動にとって新しい、あるいは活力の素となるようなものでなくてはならない。(2)国民皆唱運動によって誰でも口をついて歌いたくなるようなものでなくてはならない。たとえば日清戦争前の《敵は幾万》や《四百余州》といった情熱的なものがほしい。音楽のための音楽などはここしばらくは不必要だ。国敗れて音楽はありえないということを銘記すべきである。
宮田東峰 (1)国民各自の趣好によって違ってくるので一律に定義づけるわけにはいくまい。しかし誰でもいかなる場合にも誦えられるという理由から歌曲などがよいのではないか。(2)具体的な曲名は挙げられないが、いま国民が要求しているのは作曲家が国民大衆の心となって作曲した平易なよい曲で、それらがたくさん創られることではないか。
伊藤昇 (1)国民がこの場合一般大衆を指すのなら、ごく軽い曲や日本的な感じの曲がよいと思う。軽い曲とは序曲とか円舞曲とか行進曲などだろう。(2)目下7時40分に放送しているような国民合唱。聴いて楽しく、皆で歌って楽しめるようなものを多く出す必要がある。
古澤武夫 (1)娯楽の観念もさいきんは従来と違ってきて、戦時生活に張り詰めた国民の精神をやわらげ、同時に明日の活力素たり得るものでなければならなくなった。音楽なら何でもいいというわけにはいかず、まず健全性が必要であるが難しい理屈っぽいものでは困る。さらりと聴き流すことができ、聴けば必ず唱和したくなるほどのものでなければダメだ。(2)日本民族の伝統の中に生まれた古謡を基調とした音楽を与えるに優るものはない。古謡の中には日本精神に立脚した、愉しめるメロディがいくらもあり、これに現代の感覚を付与することによって新しい曲が生み出せるのではないか。
宅孝二 (1)弟が勤めている軍事工場では職工たちが合唱をしていて、10人中9人までは音楽好きである。音楽をやるようになってからは能率もよく、お互いに親しみあうようになったそうだ。そして上品で美しい極を一様に好むという。そうした曲を与えるとよい。(2)偉大な音楽家が作った名曲がよいと思う。こうした曲を聴いては必ず利己心などは消えてしまうだろう。また素直な美しい曲や、力強く崇高な曲なら何でもよいと思う。純真な学生などは橋本國彦の合唱曲《川》などをたいへん喜んで歌っているのを見たことをお知らせする。
近藤孝太郎 (1)ひじょうに西欧化された教育を受けた人が自分の好みを押していくことが個人主義時代の芸術精進の方法とされ、世俗を顧慮しないほど純粋だとされていた。そして自分が100人中一番目の人であろうとしたため、他の99人が何を欲しているかは蹂躙していた。日本の大部分を占める工場労働者や農村の人たちやその家族たちが、西洋の猫の声のようなソプラノのようなものに決して親しみも好感ももっていないことを、もっと判然と知らせるべきである。そして異常な自分を捨て「国民的なもの」へ向うべきである。まず音楽家諸君の「服装」や「発声法」から日本人になること。そうすると、どんなものを作ったらよいかおのずとわかってくると思う。
清瀬保二 (1)娯楽を特に低く考える必要はないと思う。また邦楽、洋楽のいずれかしか楽しめない人が錯綜しているのが現状であろうが、そこに深い意味があり、困難でありながら解決しなければならない問題があると思う。(2)ジャズ音楽が禁止されたことは賛成であるが、一方形式的な愛国調であるだけでは満足されないであろう。現在は指導性が何より必要で、まず国民皆唱歌曲は全国に普及されるべきだ。こうした作品数がより多くなり、質もよりよくなり、たとえ自分では演奏できないまでも聴いて楽しめる曲が純音楽にまで及ばなくてはならないと思う。この純音楽も歌唱同様すべて日本人作品であらしめたいものだ。
【2003年12月28日】
◇音楽新著対談/野村光一 堀内敬三(『音楽之友』 第3巻第3号 1943年03月 p.61-72)
内容:
■一般的な教養について■
堀内:音楽を勉強するとか、教養のために音楽を味わう人のために役立つような本について話し合いたい。今のところ音楽家あるいは音楽研究者にいちばん欠けているのは知的教養ではないだろうか。
野村:音楽家全般に教養が欠けている。コンバリウの『音楽の法則と進化』(園部三郎訳)の序文に「音楽は音を通じて考へる藝術だ」ということがいわれているが、非常に名言だと思う。「音を通じて考へる」ということは、その背景に多くの音楽以外の教養を必要とする。往々音楽家や音楽を鑑賞する人たちは、音楽以外の本に手を出さないということになりがちになる。しかし普通人である以上は、一般の本を読むことによって知的教養を深め、そうして音楽自体を音を通じて考えることにしなければならない。
堀内:音楽家の方が、他の分野の人たちよりもよけいに勉強しなければならいと思うね。野村:けれども、広く読んであらゆるものから音楽の方へ知的教養を還元するということは、なかなか難しいと思う。しかし音楽家として間口の広い音楽を作ろうとするならば、あらゆる方面の教養を身につける必要があると思う。
堀内:いま話に出たコンバリウの『音楽の法則と進化』は、音楽を知的に掴んでいこうという人には有益だ。音楽という芸術から遊離しないで、そして非常に科学的態度で書いている。さて、音楽についてはいろいろ入門書的な本がたくさん出ているが、いいものは少ない。
野村:入門書となると、どうも楽典とか簡単な音楽史とか評伝という具合になってしまう。そうした卑近なことがらを知ることが、どうして音楽の神髄に触れることに役立つのかいぶかしく思う。だから簡単な本で音楽の内容にふれた本があれば非常にいいと思う。さいきん読んだ本で、カルヴォコレシの『音楽教養論』(柿沼太郎訳)は一般の素人に対して音楽の鑑賞法を説いたもので、しかもそれが初歩的な知識や概念の集積に陥らずに、音楽の精髄や内容を掴んでうまく書かれている。感心した本の一つだ。
■音響科学と音楽芸術■
堀内:科学の面では、小幡重一、田邊尚雄、田口●三郎、栗原嘉名芽など音響学の人たちが書いた本がある。この1年間では田口●三郎の『音と生活』、栗原嘉名芽の『音の四季』を読んだが、どちらも音響学を学術的というより、学問を砕いて、実生活と結びつけてあるので面白かった。ただ音楽家がこれによって直接に芸術の創作とか表現に関するなにものかを掴むというのは、ちょっとお門違いかもしれない。
野村:音響学によって音に関する科学的知識を得て、それから音楽家が音を音楽的に考えるときに、その音に対する科学的知識が、そこに芸術的に考えられ感じられたものに対して働きかけるようでないと、音に関する科学の書物が直接音楽家に影響を与えない。その連関を科学者ももっとつけてもらいたと思うのだが。
堀内:そうだ。その方面では田邊尚雄がごく平易な通俗的な書き方をとって、音響学と音楽とを結びつけ、民衆の音楽生活と結びつけたという意味で、非常にいい働きをしたが、いまではもう少し学術的な書き方をしても読者はあると思うから、それをやってくれる人がもっと出てほしい。
■標準的音楽書の翻訳について■
堀内:外国の標準的な音楽書の翻訳がいま盛んで、リスト原著の『ショパンの芸術と生活』(蕗澤忠村訳)、ロマン・ロランの『ゲーテとベートーヴェン』(新庄嘉章訳)、セーヤーの『ベートーヴェン』(相良末雄・訳)、サンフォアの『若きモーツァルト』(服部龍太郎訳)、リーゼマンの『ムウソルグスキー』(服部龍太郎訳)、オビエンスキーの『ショパンの心』(原田光子訳)、キュルゾンの『モーツァルトの手紙』(吉川淡水訳)などが出ているが、非常にいいことだと思うが。
野村:翻訳について一言いいたい。近来、外国の音楽著述の中で名著とされるものが翻訳されてきた。日本の翻訳界の非常な進歩だ。だが、そうした権威ある書物の翻訳がどうかというと、非常に疑問を感じる。たとえばセイヤーの『ベートーヴェン』だが、これはアメリカ版からの重訳で、もとの本が3冊なのを翻訳では6冊になるのだそうだ。これだけの翻訳をやるのならば斯界の本当の権威に手をつけてもらいたかったが、この訳者は、いままで音楽文献界に全然関係ない人で、この訳書を読むと本格的な述語の翻訳が悪い。この人は音楽を十分に知らないで単に語学ができるというので、この翻訳を手がけたことになる。そう考えると、この翻訳が音楽書としては不完全なものであるということが感じられて、名著の翻訳としては好ましくない。一度こういう本が出たら、2度、3度と出すのは容易でないので、本屋さんが自分の営業のためだけに考えるようなやり方は絶対避けてもらいたい。
堀内:まったくだ。通俗書はその場限りで後に残らないけれども、標準的名著の翻訳がそのように誤訳が多くては困る。
野村:それから翻訳者として相当名のある人が無責任なことをやった例も見受けられる。立派な本を翻訳する以上は重訳によらないで原著からやってもらいたい。これも大きな責任だと思う。名著は非常に分厚いものであるから2分冊にしてもよいが、そのときは2冊同時に出してほしい。大きな本の5分の1くらいのものをちょっと出して、次の巻がいつ出るかわからないというようなことは非常に無責任だ。
堀内:そういう意味で小笠原稔が訳した『ワーグナー全集』(ワーグナーの全集から歌劇と楽劇だけを翻訳したもの)は、6冊が後から後から矢継ぎ早に出た。以前、楠山正雄がやったワーグナーの楽劇の翻訳もずいぶんよかったが、今度の小笠原訳は非常に良心的で感心している。ワーグナー全集の中には劇の台本以外に重要な論文があるのだが・・・。
野村:ワーグナーの散文の全集は7冊か8冊くらいになっている。翻訳する以上は、まとめてみんなしてもらいたい。ずいぶん酷評をしたが、いま出ている翻訳には良心的なものもたくさんある。たとえばヴァンサン・ダンディの『作曲法講義』(池内友次郎訳)。翻訳者も発行者も良心的でたいへん良い。原著は読んでいないが、流麗な翻訳だと思ったのはロマン・ロランの『ゲーテとベートーヴェン』(新庄嘉章訳)だ。内容も良いし、推奨に値すると思う。それからオビエンスキーの『ショパンの心』(原田光子訳)もいい翻訳だと思う。しかもこの翻訳は、年代順に並べられた手紙ばかり訳したのではわからないという懸念から、年代を追ってショパンの経歴を入れるという訳者の暖かい配慮がなされている。この図書にはニークスの『ショパン伝』以後に発見された手紙が盛んに出ているので、文献的価値においても有意義だ。
堀内:書簡集ではキュルゾンの『モーツァルトの手紙』(吉川淡水訳)もいい。
野村:この図書を翻訳した吉川淡水はフランス語がうまくて、綿密に訳しているので非常によい。しかし、3分の1しか訳されていないのは惜しい。原著は2冊なのだから、2冊分の本にしてみんな訳してもらいたい。いかに紙がない時代であっても、文献的意味においては、いいことでない。同じことは吉田秀和が訳したシューマンの『音楽と音楽家』にもいえる。これはレクラム版を底本としてその中から抜粋してある。
(つづく)
■音楽理論の書■
堀内:デュボアの『和聲學』を平尾貴四男が訳したものや、その前にはリムスキーコルサコフの『管絃樂法』を小松清が訳したものがある。さらにそれ以前にはクルールの『樂式論』や『和聲學』を片山穎太郎と信時潔が翻訳した。これらはみな信頼に足るものだ。特にデュボアの本は、フランスでは標準的な著述なのだけれど、日本で紹介されていなかったものだから良い仕事をしてくれた。書き下ろしの本では下總皖一が書いたものがある。もう一つ諸井三郎の『機能和聲學』が非常な名著だ。なお日本の和声については田中正平の『日本和聲の基礎』、下總皖一の『日本音階の話』、坊田壽眞の『日本旋律と和聲』という本が出ている。田中の著作は理路整然と組み立てられて、研究としては非常に画期的な仕事をしたと思う。下總は日本の旋律の本体を掴もうとして、非常に多くの例から帰納的に研究しているので良書として推薦できる。これらの音楽家は、自分の創作に精進するとともに、様式とか方法を発見するという意味で、こういう研究を学術的にやっていってもらいたい。また、昨年武田忠一郎の採譜によって『東北民謠岩手縣の巻』が仙台の中央放送局から出されたが、これは実に立派なものだと思う。この民謡採譜は今後つづけて出版されるそうで、各地で音楽家がそれぞれ勉強してやってくれたら、ずいぶん完全なものができると思う。
野村:西洋音楽の理論体系が一応われわれの頭の中に裏付けられている。それをもって科学的な理論体系を持っていなかった日本の音楽にいろいろ適用して、日本の音楽論を出したり日本の民謡を採譜したりすることは、新しい国楽を創成なければならない現在、非常に有意義だと思う。もちろん西洋の理論体系を日本の音楽に当てはめようとすると無理も出てくると思うし、民謡の採譜も人が違えば異なる結果が現れることも起こるだろう。しかし現れた結果について非難されることを恐れて消極的な態度をとってはいけない。そういう点では、さいきん出た日本の理論家諸氏の書かれた本にいろいろ議論があったようだが、それでよい。武田忠一郎の研究も非常に立派な功績だと思う。
■民謡と古典譜の採譜■
堀内:明治時代から行なわれてきた民謡の採譜は、今では桁違いに学術的になったと感じる。採譜をする人たちがいつでも民俗学者と提携してやっているのは、ことに良い。その方面の仕事について、武田忠一郎、町田嘉章、藤井清水などの態度を見ていると、慎重さにおいても努力においても決してバルトークのやったハンガリー民謡蒐集の仕事などに劣らない。
野村:こういう仕事は、日本の作曲家が進歩してきたのと併行して文献界のほうで行なわれてきたひとつの仕事だ。音楽文化全体として進んできたのだ。
堀内:実に残念に思うのは、田中正平が採譜した非常にたくさんの邦楽の楽譜がそのままになっていることだ。200〜300はあるのだが、明治時代の大家がやった能楽、長唄、義太夫、端唄などだ。田邊が一部分世に出しただけになっている。
野村:それと同時に思い出すのは、近衛直麿の雅楽の譜だ。あれは近衛家でごく小部数だけ特別に印刷されただけで市中に出回らなかったが、さいきんの日本の作曲において相当が学的な色調が採り入れられているのだから、あれは多くの人に見られるように願いたいと思う。
堀内:南葵音楽図書館で雅楽の譜を兼常清佐の採譜で出したことがある。1冊だけだが、続けて出してほしかった。中国関係でちかごろ出たのは、朱謙という人の『支那音楽史』(中村嗣次訳)というものだがあまり感心しなかった。むしろ石井文雄や瀧遼一あたりの研究のほうが本格的な気がする。また江文也の『上代支那正楽者』という本があって、研究書というより随筆だが面白い。江は向こうで中国の音楽をたくさん採譜しているそうだし、丸山和雄が満洲の雅楽を、石川義一が朝鮮の李王家の雅楽を、また任東赫が朝鮮の民楽を集めているそうだ。仕事をしている人はたくさんいるが、どうも学術的に過ぎるせいか発行されていないのが残念だ。何とかして後世に残すものを出すようにしないと、日本の音楽文化が貧弱なような気がしてならない。
野村:財政的に補助金など出して奨励しなければだめだ。
堀内:民謡のほうは放送協会が多少力を入れている。
野村:例の財団法人の音楽振興会など、そういうことを大いにやってもらいたいと思う。
■体験を通じて■
堀内:日本の書き下ろしの音楽鑑賞に関する書物の方面に入ろう。君[野村光一]のレコードに関する本『名曲に聴く』と『レコード音樂讀本』がよく売れた。それから、あらえびすの『名曲決定盤』『樂聖物語』『バッハからシューベルト』などが出ている。主観的に自分の感情を率直に現わしているという点が特色で、そのうえにレコードの主要なものは悉く網羅して紹介しているという実用的な長所もあり、良いものだと思っている。日本では大田黒元雄が昔書いた『バッハよりシェーンベルヒ』以後、ほんとうの気持ちを通じて書いた音楽鑑賞の書は非常に少なかった。君とあらえびすの仕事は文献史のうえで非常に有意義になってくると思う。
野村:ほめてくださって恐縮するけれども、やはり音楽を鑑賞したその瞬間的体験というものを現わした音楽随想式なものは好楽家の音楽趣味が向上すれば、必ず出るのが当たり前だ。これは音楽がわれわれ日本人の心の中で消化されているというひとつの現象だと思う。音楽関係者の随筆に注意を向けるならば、君(堀内)が書いた『ヂンタ以来』[本文には『ジンタ以後』とあるが誤り・・・小関]は非常に面白い。大田黒もよいものをたくさん書いている。宮城道雄の随筆「雨の念佛」「騒音」「垣隣り」などは人生体験がたいへん面白いし、眼の見えない方の外界に対する印象がわれわれとは別種の感覚や考え方をしめして名作だと思う。
堀内:宮城の感じ方にはなにか深いものがある。雨だれの音を聴いても、鳥の声を聴いても、そのなかに人生の奥底に触れたものを発見しようとする気持ちが働いているのではないか。
野村:同感だ。宮城の音楽に対する感覚が鋭く、天才的で、純粋なものだと感じさせる。また人生経験には昔からの伝統的な流れも通っているけれども、現代人的な感覚がある。そこが宮城の随筆に現代味をもたせているのではないか。
堀内:それから徳山lの随筆集が楽しい。音楽を本当に身につけて勉強もしていたし、楽しんでいたことがよく現れている。絵描きには随筆のうまい人が多い。この前新聞に出た橋本関雪の従軍記事など驚いてしまった。
野村:鏑木清方もうまいものだ。
堀内:中川一政、中川紀元、中村研一、みな名文だ。
野村:ところが絵描きの随筆は絵描きの感覚で、線の美しさや色彩の絢爛たるものがよく描かれている。一方音楽家の随筆は、やはり音が思い出される。そういう点で宮城のは音だ。多忠龍の『雅楽』は、生活体験のうちに雅楽についていろいろ書き、しかも雅楽の現代精神を説いているところがよい。音楽についての新しい研究体験を発表したもののなかで非常に有益だと思うのは、堀内敬三の『音楽五十年史』で、まず堀内の博覧強記、ものの詮索症、体系づけることの巧さに非常に感心した。明治以来今日にいたるまでの日本の音楽の変遷史をあれだけの材料を手際よく片付けている人もいなかったし、資料としての新発見がたくさんある。これは一面立派な明治以後の日本の音楽文化史だと思う。堀内の名著だ。
堀内:今度はこちらが恐縮する番だ。しかし堀内の前に田邊尚雄、牛山充、三浦俊三郎が材料を集めていたこと、邦楽のほうでも町田嘉章や渥美清太郎がいい仕事をしていたことのおかげだ。それとあの本の書き方について非常に影響を受けたのは、三宅周太郎の『文楽の研究』だ。年代史的に言うと、間の人を落としてあったり、年代が明瞭に書いていなくてだいぶ困ったが、あの書き方は文楽が生きて動いてきた経路をよく語っていると思う。いい示唆を受けた。
野村:同感だ。これまでにあった日本の音楽史の著述は、多くは材料倒れになっている。ただ材料が羅列してある本を読んでつまらない思いをしたことがある。三宅の研究書は材料をもちいて主観を述べたものだと思う。その点『音楽五十年史』は史実に忠実な点が異なると思う。夕べ中山[晋平]と会って偶然『音楽五十年史』の話が出たのだが、『カチューシャ』で芸術座が堕落したとこの本に書かれたと中山は言っていた。1行ばかりの記述だが、そこに堀内の文化的考察が徹底している。
堀内:中山その他の親しい人々に対してだいぶ済まないことを書いている。
(つづく)
■音楽と国民生活の書■
堀内:近頃の音楽書としては津川主一の『独逸國民と音楽生活』を読んだが、これは力作だと思った。非常にたくさんの材料を自分で集めて書いている。いまの日本の国民の音楽生活を指導していく人々にとって非常に有益だと思う。
野村:同感だ。本当に材料がいい。特殊の便宜があったのでのではないか。
堀内:あれは大使館で材料を与えてもらったのだ。だけど、あそこまでまとめたのは津川自身だ。それから新興出版社から『厚生音楽全集』が出ている。こちらはもう少し整理すべきではないかと思った。
野村:同感だ。現下の情勢からすると厚生音楽について著述をするということは必要なことだ。これは出版業からいえば一種の際物だが、際物的態度を露骨に出すと、厚生音楽が必要なことに対して考えを誤らせることになる。
堀内:厚生音楽関係の本は少ない。警視庁の中野完が書いた『産業體育と厚生産業音楽』は非常にまじめに書かれていて、資料としても生きたものが集まっていいと思う。しかしほかにどんな本がまとまって出ているかというと、まるで出ない。
野村:厚生音楽については体験を深く持っている人が少ないので、単なる音楽の経験を多少粉飾して書かれている傾向がなくはない。いままでは純音楽をやってきた人が、時代が急にこうなったというので厚生音楽に関する本を書き出すというのでは、かえって逆効果を及ぼすことになる。
堀内:現在の日本人の音楽生活について書かれた書物も実に少ない。そういう点で園部三郎の『音楽と生活』は、その面に触れている。
野村:園部の本は、音楽がこういう新体制に即応して変化しなければならないときに当たって、日本人の、しかも在来から続いている音楽界をいかにしなければならないかということについて、園部の音楽評論家としての体験を書こうとしているところに特色がある。それから感心することは、こういう時代になっても音楽家は音楽で働くべきものであるという、その心情を吐露している。そういう点にあの本のレゾンデートルがあると思う。
■音楽出版界の病弊■
堀内:それでは結論的に音楽出版界全般を見渡してみよう。
野村:音楽界がこれだけ大きくなり、社会全面をだんだん蔽うようになって音楽に関するものを読もうとする読者層が増えたことは事実だ。それにともなって音楽の著述が盛んになった。また各種の読者層が順応して、いろいろなものが出てくる。ところが、その間良書ばかりでなくて相当ぶざまなもので読者の購読心を刺激するものがあると思う。いまの時代は本を作ればどんなものでも2000から3000は売れてしまう。このときに本を出さなければ損だというので短期日の間に本をしつらえて、その本を売らん哉という傾向が非常に目立ってきた。だから出版されるものは、読んでみると同じような傾向なもの、なかは同じか非常に粗雑なものが頻々としてある。これは非常に嘆かわしいことである。
堀内:音楽出版等が自由競争に委ねられているので私利追求が第一になり、実績を取りっこしている傾向がある。
野村:これは出版業者ばかりでなく著述家も悪い。いくらか金になるからといって、出版屋さんから注文されたままを出すということは、著述家が良心を持っていればできることではないと思う。
堀内:そういう傾向を改めるという点で、音楽所に対しては統制とか指導を強化しなくてはいけない。
野村:その結果として日本音楽文化協会から出版文化協会に8人の委員が出て行って、出版文化教会の音楽図書の企画届けを審査して、これをいい方向に持っていこうということになっている。音楽著述の方向を正しくすること、それにともなって類書雑書を整理して紙をもっとも有効に使うために、審査会の責任はこの際ますます重大になる。それにいまのところ翻訳が多すぎる。過去の立派な図書の翻訳は致し方ないし、そうした名著の翻訳は推奨すべきだと思うが、同時に西洋の音楽に関しても日本人の立派な著述が必要ではないかと思う。たとえば、音楽理論・音楽科学に対する創意のある著述も必要である。また音楽史の著述や伝記に関する著述も日本人独特の見地に立って書くべき必要があると思う。ところが音楽に関して独創的な著述となると、日本の作曲界が振るわない以上に振るわない。日本の音楽学者や音楽家が大いに刻苦して独創的な著述をやってもらいたいと思う。
堀内:そのとおりだ。では、どうもありがとう。
(完)
【2004年3月23日+3月26日+3月29日】

邦楽界の革新気運と現状藤田鈴朗(『音楽之友』 第3巻第3号 1943年03月 p.73-76)
内容:■緩慢であるがそうとう動いている■日本の楽壇で邦楽に関する論議が少ないということじたい恥ずかしいことだと思っている。洋楽関係からも常に刺激をもらって相提携して日本音楽文化面に貢献する意図のもとにこの稿を書く。その前に、まず邦楽家の反省を求め時代に目覚めた革新気運の醸成を濃化する方策をとるのが順当であるが、それは鈍い事情にあることを告白しておく。邦楽畠には伝統の因習がはびこっていて功利的独善主義がのさばっているともいえる。しかし核心の気運は常に動いている。研究を進めている人は相当あるが地味であったり、潜行していたり、情実の綱渡りをしているものもある。種々の部門がある邦楽だが、中では三曲がもっとも活発に動いている。邦楽といえば三味線音楽と理解している人々に三曲の存在を強調したい。三曲は日本国中に行き渡り、外地領地において盛んであるということについても、邦楽の将来と微妙な関係にあることや、力強い日本調器楽としての豊醇さがあることなどの認識を深めておいてほしい。 ■三曲の特異性とその進展路■三曲は明治末期から大正昭和にかけて発展した邦楽分野のひとつである。はじめ三曲合奏の名において台頭したのは、日清戦争で清楽器合奏が払拭されてからのことであるが、日露戦争後の国粋音楽として実を結んだ。三曲の三味線は地唄あるいは琴三味線として筝曲家の必修科目。したがって筝と三味線との両刀使いで合奏編成に融通性があり、三曲合奏の場合も二楽器合奏の場合もあり、これらすべてを三曲に含むものである。義太夫の三味線はほかのいずれの三味線よりも大ぶりで音色もけばけばしくない。邦楽の中で三曲が特立しているのには理由がある。江戸時代は声楽万能で、器楽は民間から姿を消したかたちになっていた。しかし役300年も前に純器楽としてできた《六段》などが消えることは考えられない。筝は歌ものも相当あるが、江戸時代の退歩と商品としての楽器の進歩と弾く本位の訓練とで、歌が負けるのは当然だった。 ■革新気運はみなぎっている■若い人の中には洋楽の理論を研究して新しい方面へ乗り出そうという人々もある。長いあいだ盲人の手にあった筝三絃が晴眼者に広がり、それに男性の尺八が加わり、楽譜が参加して大管絃合奏まで進んでいる。若い気鋭の士に革新気運がみなぎり、老大家に見送り組みが多いのは当然であろう。こうして三曲界からは毎楽季に新しいものを世に送っているが、試作や模倣が多いことは争われない。これに対する刺激は洋楽から多くを受ける。三曲から生まれた新日本音楽も当初とちがい相当に進んだ境地を拓いている。三曲家の研究が洋楽に向って進み、これが成就して充分に消化されれば、立派な音楽が樹立されるであろうことは期待してよい。一方、洋楽家の邦楽に対する研究はまことに心細い。これが完成されれば日本音楽は立派なものになるであろう。 ■革新の風当たりも相当ある■日本の楽壇を三階建て家屋にたとえると、1階には家主然とした和楽の長唄清元その他が、2階には三曲が、3階には洋楽がくる。これは格式や芸品で高低をつけたのではなく単なる仮定である。3階はアパート式に近代的な明るさをもって日本でできたものや世界各国の音楽が雑居している。3階の人々は2階の住人と顔なじみもあるし、たがいに握手することもあって仲がいいが、3階から1階へは手を差し伸べない。2階では3階の真似をするものあれば1階とも親類づきあいをしているものもある。1階では3階まで上って行くより2階の兄弟分と遊んだほうが面白いといった風で、各階たがいに独善主義を隠して体裁よくやっている。3回で生産されるのは日本人の作品だから日本音楽だが、中にはずいぶん西洋音楽もある。2階から生まれる新日本音楽も明日の旧日本音楽となるものが多い。1階では河東一中などの余命僅かなものを介抱したり、下座音楽でその命脈をつないだりしている。むしろ全国に呼びかけて古典と新味に働いているのは2階の三曲で、さらにすべての機関を備え多くの識者に擁護されているのが3階の洋楽といえよう。これらすべての総元締として権威ある中心機関がほしい。右の仮定から考えても、楽界革新の風当たりがもっとも強いのは3階、2階であり、三曲界にその気運が旺盛なのも自然である。 ■時勢に応じて企画性がほしい■三曲の伝統や因習はなかなか固い。それは日本精神と芸術的美とが合わされた強靭な綱で、この持ち味が伝統とされている。だから慌てて手軽な娯楽を求めようとする人々にはわかってもらえないかもしれない。新日本音楽にしても楽器の編成に自由があるのを有効にするには企画がいる。放送局あたりが目標を大衆において一流どころの奏者を二十何人と並べたとしても、企画も何もなしに並べるなど感心しない。もっとも久しいあいだ放縦に育ったお家芸であるから、未だ家元制度の脱皮が容易でないことがうかがわれる。若い人でも少し知られてくると同じような道理をたどる傾向がある。それにしても新進は各社中にもあることで、革新の気運は表裏に動いている。三曲人のほとんどがこのままではだめだと称えているところをみても心強く感じる。三曲の現状がここまできているということだけは、はっきり言える。
【2004年1月7日】
伊太利に於ける音楽国際主義(ニ) ― 伊太利の音楽政策(6) <国際音楽情報>松本太郎(『音楽之友』 第3巻第3号 1943年03月 p.77-82)
内容:■ヴェネツィア国際音楽祭(続)■1930年代のヴェネツィア国際音楽祭は、さいしょ永続的なものとして開かれたのではなく、同市に隔年に開催されつつあった国際立体芸術(彫刻、建築)展覧会の同年度の付随的催しとして開催されたのであった。しかし同市に永続的な音楽祭を開こうとする気運は以前から胚胎しつつあったので、第1回音楽祭の会長アドリーノ・ルアルディは職能代表として当時音楽家中唯一の議会人であった資格と、その積極的な実行力に富む手腕によって音楽祭を永続的なものにすることに成功した。こうして1932年、国際音楽祭も隔年に開かれることとなった。第2回ヴェネツィア国際音楽祭は、こうして1932年9月3日から15日に亘って開かれたが、ムッソリーニの指令に従い、その内容は室内楽曲ならびに室内オーケストラのための音楽等室楽的性質をもつものと定められ、かつこの指令の精神は歌劇に適用されて新たに室内オペラの上演が付加された。次に決定されたことはイタリアの作曲家は演奏されていない作品を提出し、イタリア音楽家組合がその中から選曲すること、さらにこの音楽祭には3ヵ国または4ヵ国の外国音楽作品が招待され、各国に対し1回の演奏会が充てられるなどのことであった。同時にラジオのために書かれた音楽が曲目に入れられたことは、新しい試みとして注目に値する。この年招待された外国はドイツ、フランス、ベルギー[本文では白耳義]、米国および南米諸国で、フランスとベルギーおよび南米諸国が各1回の演奏会にまとめられ、外国作品演奏会は4回、イタリア作曲演奏会2回、ラジオ音楽演奏会1回、室内オペラ上演3回のほかに交響的作品を含む演奏会をあわせて11回の演奏会ならびに上演が以下のとおり開催された。

●発会演奏会 アントニオ・グヮルニエリ指揮
ロッシーニ 歌劇《絹の梯子》序曲
ザンドナイ フルートとオーケストラのための詩曲《夜のフラウト》
ストラヴィンスキー ソプラノ、フルート、イングリッシュホルン、クラリネット、バスーンのための《パストラル》
ロガルスキー《2つのルーマニア舞曲》
エルネスト・ブロッホ《4つのエピソード》
●フランス・ベルギーの作品
ルッセル 6つの管楽器とピアノのための《喜遊曲》
アンリ・トマジ《コルシカの歌》
プーランク《2台のピアノのための協奏曲》(初演)
ドランノワ《動く動物の姿》
イベール《組曲》
ジョゼフ・ジョンゲン《美しき絵画》
●米国の作品 フリッツ・ライナー指揮
レオ・サワビー《狂詩曲》
アイクハイム《東洋の印象》
サミンスキー《婦人の連祷》
ジョセフ・アクロン《ゴレム》
ガーシュウィン《ピアノ協奏曲》
●南米の作品
プチャルド《カッレテラのカンシオン》
ホゼ・アンドレ カンタータ《リマのサンタ・ローザ》
(以上、アルゼンチン)
ヴィラ=ロボス ピアノとオーケストラのための《4つのブラジルの歌》
そのほか
●ドイツの作品 フリッツ・ブッシュ指揮ドレスデン・フィルハーモニー
エルンスト・トッホ《序曲》
ヒンデミット《シュピールムジーク》
ゴットフリート・ミュラー《変奏曲とフーガ》
グレーナー《サンスーシーの笛吹き》
アドルフ・ブッシュ:《カプリッチォ》
●イタリアの作品 第1回 
メツィオ・アゴスティーニ《弦楽四重奏曲》
ギド・ビアンキーニ 歌曲
モンテメッツィ《挽歌》
ピック=マンジアガッリ《3つのピアノ小曲》
トマッシーニ《間奏曲》
ラブローカ:《弦楽四重奏曲第2番》
●イタリアの作品 第2回
カステルヌオーヴォ=テデスコ《ピアノ五重奏曲》
ヴォルフ=フェラーリ オーボエ協奏曲
ダヴィコ《エウリディーチェ》
ピラーティ《4つのイタリアの歌》
ほかにシュガリア、ペドロッロの作品
●ラジオのための作品
グァリーニ、ペドロッティ、ゴリーニ《仮面舞踏会》
マルツォルロ《小夜曲》
ロンゴ《協奏曲》
ダッラピッコラ、ニノ・ロータ、ソンツォーニョの曲
●室内オペラ 第1回
フランチェスコ・カサヴォラ バレエ《ドン・ジョヴァンニの黎明》
マリピエロ 交響的身振り劇《パンチリ》(1917年作曲)
カゼッラ《オルフェオの愛人》
●室内オペラ 第2回
レスピーギ 神秘劇《埃及の女マリア》
ルアディ オペラ・ブッファ《ラ・グランチェオーラ》
デ・ファリャ《ペドロ師の祭壇》
●室内オペラ 第3回
バッハ《コーヒー・カンタータ》
13世紀の受難劇(リウッツィー博士編)
モンテヴィルディ《タンクレディとクロリンダの争い》(アントニオ・ヴォット指導)
(つづく)

1934年の第3回同音楽祭は第2回とは異なり、音楽祭前半に3回のオーケストラ演奏会を行ない、後半に室内オペラ、ヴェルディのレクィエムおよびウィーンオペラの上演に充てられた。オーケストラ曲演奏会のためにはイタリア、外国の作曲家とも新しい作品を提出もしくは作曲することを要請された。そしてドイツの作曲家はまったく招待されなかった。3回の演奏会は「若き作曲家と指揮者」「北方の音楽」「作曲家兼指揮者の演奏会」に分けられ、次のようなプログラムだった。

●若き作曲家と指揮者
ダッラピッコラ ソプラノとオーケストラのための《ローランの歌による狂詩曲》
リカルド・ニールセン ピアノとオーケストラのための《カプリッチョ》
ルドヴィコ・ロッカ バリトン、合唱、11の木管楽器、ピアノ、打楽器のための《詩篇》
モルターリ チェロとオーケストラのための《サラバンドとアレグロ》
ウジーリ 交響詩《戦いの夜の花の歌》
(以上、イタリア)
マルティヌー(チェコ) オーケストラのための《インヴェンション》
カドーザ(ハンガリー)《喜遊曲》
●北方の音楽
キルピーネン(フィンランド)《高山の歌》(バリトン独唱 ゲルハルト・ヒュッシュ)
ピャルネ・ブルスタード(ノルウェー) 提琴とオーケストラのための《狂詩曲》
ルドヴィッヒ・エンゼン(ノルウェー)《パッサカリア》
ヴラディーミル・フォーゲル(ソ連)《トリパルティータ》
レフ・クニッペル(ソ連)《ヴァンチュ》
●作曲家兼指揮者
アルバン・ベルク(オーストリア) 歌曲《酒》
(詩・ボードレール ヘルマン・シェルヘン指揮代理)
ピツェッティ《チェロ協奏曲》
ストラヴィンスキー《ピアノ協奏曲》
ミヨー 歌劇《マクシミリアン》組曲
●室内オペラ(新作 指揮シェルヘン)
ヴェレッティ《小さいマッチ売り娘》
リエーティー《森のテレサ》
クシェネック《チェファロとプロクリス》
●ウィーン・オペラ上演(指揮クレメンス・クラウス)
モーツァルト《コジ・ファン・トゥッテ》
R.シュトラウス《影なき女》
(この公演にはオペラ好きのムッソリーニが来場した)
●ヴェルディ《レクイエム》(サン・マルコ広場にて)
指揮トゥリオ・セラフィン、独唱はカニーリア、スティニアーニ、ヂーリ、ピンツァ

この音楽祭を機会に”作曲家の道徳的権利を維持するため”前年ウィーンで発会式を挙げた国際的な音楽協会の第2回協議会が開かれ、会長R.シュトラウス、副会長ルッセルら多くの作曲家が出席した。

1936年の第4回音楽祭のカタログの序文に、会長ルアルディは過去3回の統計を発表した。それによれば30回の演奏会と上演が行なわれ、オーケストラ曲、室内楽曲、オペラを合計して108人の作曲家の123の作品が上演・演奏された。うち50人がイタリア人であった。第4回音楽祭は現代音楽を主とする点で前3回と同様だが、今回は16世紀[ママ実際には主として1600年代から1700年代前半を生きた作曲家が取り上げられているようだ。・・・小関]イタリア音楽を加えるという特色があった。

●発会演奏会(サン・マルコ広場 グァルニエリ指揮)
ベートーヴェン《交響曲第5番》
ジュゼッペ・ムーレ《シチリア地方の印象》
R.シュトラウス《ドン・キホーテ》
ヴォルフ=フェラーリ《聖母の首飾り》序曲
レスピーギ《ローマの松》
16[ママ]世紀のイタリア音楽
ヴィヴァルディ《チェロと弦楽オーケストラのための協奏曲》
ロッティ 式典音楽
ドナータ
ジョヴァンニ・クローチェ
モンテヴェルディ 合唱曲と合奏曲
ほかにマルチェッロの《アドリアーナ》(近代編曲)の歌劇としての上演が行なわれた。
●現代の作品 外国の作品
ルッセル《三重奏曲》(フルート、ヴィオラ、チェロのための)
オネガー《弦楽四重奏曲第2番》(初演)
バルトーク《弦楽四重奏曲第5番》
ヒンデミット ヴィオラとオーケストラのための《デア・シュワーネンドレーヤー》
ベルク《抒情組曲》
フェルルー《弦楽四重奏曲》
ショスタコーヴィチ《チェロ・ソナタ》
●現代の作品 イタリアの作品(フェルディナンド・ブレヴィターリ指揮 室内オーケストラ)
カゼルラ ピアノ曲《シンフォニア・アリオーゾ・トッカータ》(新曲)
ペトラッシ 歌曲
フランコ・モルゴーラ《三重奏曲》
ニノ・ロータ オーケストラのための《カンツォーナ》
エレーナ・デュランナ 9つの楽器のための《協奏的アレグ》
レリーノ・リヴィアベッラ ソプラノとオーケストラのための三部作《海》
トマッシーニ オーケストラのための《組曲》
ポッリーノ 独唱とオーケストラのための《四季の歌》

第4回までは遇数年に隔年で開催されてきたが、第5回音楽祭は1937年に開催された。立体芸術展覧会とは独立に開催する価値を認められ人気が出たためとも考えられ、また国際映画祭が毎年行なわれるようになったのに呼応したためとも考えられる。6回の演奏会からなり、うち1回は16、17世紀のヴェネツィア楽派の音楽、他の5回は現代作曲家の作品という内容であった。

▲初演曲 外国の作品
ストラヴィンスキー《カルタ遊び》
ミヨー《プロヴァンス組曲》
マルケヴィッチ バレー曲《イカルスの飛翔》
(以上、オーケストラ曲)
ロイ・ハリス(米)《ピアノ三重奏曲》
フォン・ボルク(独)《六重奏曲》(フルートと弦楽五重奏)
▲初演曲 イタリア作品
ピツェッティ《デ・プロフィンデス》(無伴奏七重唱曲)
マリピエロ《デ・アロフンディーヌ》(独唱、ヴィオラ、ピアノ、グロス・ケース)
カステルヌオーヴォ=テデスコ《ハープ、弦のための四重奏》
カステルヌオーヴォ=テデスコ《クラリネット三重奏のための小協奏曲》
カルロ・ヤキーノ(ナポリ音楽院教授)《オーケストラ変奏曲》
ラブローカ《2つの歌曲》(ソプラノとピアノ)
ヴェレッティ《ダフニの死と神化》(独唱と11の楽器)
ゴリーニ《インヴェンシオン》(ピアノと小オーケストラ)
モルターリ《弦楽四重奏と小オーケストラのための協奏曲》
ダッラピッコラ《3つのダウデ》(独唱と小オーケストラ)
ガヴァッツェーニ《ロムバルディア労働者の歌》
サルヴィヌッチ《9つの楽器のための小夜曲》
▲イタリア初演 外国の作品
バルトーク《弦、チェレスタ、打楽器のための協奏曲》
ファリャ《ペティカ幻想曲》
プロコフィエフ《キージェ中尉》
シェーンベルク《7つの楽器のための組曲》
シマノフスキー《ピアノ・ソナタ》
ラルセン《喜遊曲》
フランセ《ピアノ協奏曲》
ロイ・ハリス(米)《ピアノ三重奏曲》
▲イタリア初演 イタリアの作品
マッサラーニ《ピアノとヴァイオリンのためのソナティナ》
ロッカ《ビリブー》(バリトンと四重奏)
カスタニョーネ《2つの歌曲》

16、17世紀ヴェネツィア楽派の音楽は合唱曲と器楽曲で編成されバッサーニ、ダナ、プレゼンティ、ドナト、モンテヴェルディ、ヴィヴァルディ、ガブリエリなどの作曲家が選ばれたが曲目は不詳である。
(つづく)

1938年の第6回国際音楽祭には33人の作曲家の作品が1曲宛演奏された。内訳はイタリアが15、フランスが4、ドイツと日本が2、スイス[本文は瑞西]、ロシア[本文は露西亜]、ユーゴスラヴィア、チェコ、ポーランド、ルーマニア、オランダ[本文は和蘭]、英国、米国が各1曲だった。2つの特色ある演奏会が開かれたが、ひとつは「最近30年の音楽回顧演奏会」、もうひとつは作曲家の自作自演演奏会である。これらを含む4回の交響的演奏会のほかに室内楽曲演奏会が催された。
●回顧演奏会
ブゾーニ《ファウスト博士》のための2つの習作曲
ラヴェル《ダフニスとクロエ》第2組曲
レスピーギ《ローマの松》
ストラヴィンスキー《春の祭典》
●自作指揮演奏会
ルアルディ《組曲》
オネガー《夜曲》
ウォルトン《ヴィオラ協奏曲》
マリヌッティ 独唱とオーケストラのための《2つの詩》
ヒンデミット バレー組曲《最も高貴なる幻影》(聖フランシスを題材としたバレー曲)
●その他の作品 外国の作品(主なもの)
伊福部昭 舞曲《春》
高文也[江文也の誤りと思われる] 作品名不詳
(以上2曲ピアノ曲)
マルティヌー《3つのリチェルカーレ》(オーケストラ曲)
フォルトナー《弦楽四重奏曲》
ヴィラ=ロボス《南米の民謡》
サワビー(米)《ピアノ協奏曲》
サロウスキー《クラリネットとピアノのためのソナティナ》
イベール《カプリッチォ》(10の楽器のための)
プーランク 歌曲《斯かる日、斯かる夜》
コンラッド・ベッカ(スイス) ソプラノ、弦楽合奏、フルート、ピアノのための《カンタータ》
●その他の作品 イタリアの作品
ゲディーニ 独唱と重奏のための《2つのカンタータ》
エットーレ・デスデリ バリトンとオーケストラのための《詩篇87番》
フラッツィ《エルデガルデの花》(オーケストラ曲)
サルヴェヌッツィ《導入曲、パッサカリア、終曲》(オーケストラ曲)
ジュゼッペ・ロザーテ オーケストラのための《ソナタ》
トマッシノニ《ハープ・ソナタ》
セガッレラ《ヴァイオリン、チェロとピアノのためのソナタ》
ほかにジャンルカ・トッキ、ガブリエリ・ビアンキ、エンツォ・マソッティ、ピラーティの作品。

このほかにストラの皇室ヴィラで17、18世紀の音楽ならびに舞踊の会が余興的に行なわれ、ヴィヴァルディの《パストラルと狩猟の踊り》、ダラバコの《サラバンド、ガヴォット》が踊られ、グリッロ、ペザンティ、ピッキ、ザネッティの曲が演奏された。

1939年にヨーロッパ大戦が勃発し、ヴェネツィア国際音楽祭は第6回をもって中断された。これら6回の音楽祭の特色は、第一に現代音楽を中心にしていることである。すなわちイタリアがいかに過去の音楽的資産が豊かであっても、それに甘んずることなく時代の進展とともに新しい道へ進む積極的意図をもっていることを明らかにしている。第二に音楽祭のプログラムが首脳者によって組み立てられ、作曲家が選ばれたり作曲の委嘱が行なわれたことである。したがって、この音楽祭の外国曲目は国際現代音楽協会のそれより遥かにすぐれた作品が揃っている。そして内容ある作品が定期的にイタリアで演奏されることはイタリア音楽家のみならず、広くイタリア好楽家に比較的容易に欧米の作品に接することを可能にした。第三にイタリアの現代音楽に多くのパーセンテージが与えられている。とりわけ比較的若い作曲家、すなわりアルファーノ、レスピーギ、ピツェッティ、トマッシーニ、マリピエロ、ピック=マンジアガッリ、カゼッラ、サントリキード、ザンドナイなどの近代イタリア音楽復興の第一陣のジェネレーションに属する作曲家たち。さらにその後につづくルアルディ、ゲディーニ、デスデーリ、カステルヌオーヴォ=テデスコ、ソブローカ、マッサラーニ、リエーティ、ヴェレッティ、モルターリ、ピラーティらが活躍し、さらに若いロッカ、ペトラッシ、ゴリーニ、ダッラピッコラ、サルヴィヌッツィ、ニノ・ロータなどが機会を与えられている。くわえてイタリア作曲界が全体的に各国の人々に紹介されている点で音楽祭の意義がある。9月中旬の、紀行がきわめて快適な時期に、世界中の展覧会のうちでもっとも大規模な立体美術展覧会が隔年に開かれ多くの人士を集めていたが、1932年に国際映画祭が同時に開催されるにいたって、より多くの芸術家ならびに芸術愛好家が国の内外から集まってきた。こうして音楽祭開催地が固定しているだけ、イタリアならびに外国から来る多数の人々に特色あるプログラムに接する機会を与えるうえに特別の便宜をもっている。第四に現代音楽とともに過去の価値ある作品をプログラムに加えて、曲目に変化を与えると同時にイタリアの伝統的な美を明らかにすることを忘れなかったことも注目すべき特所といわねばならない。しかし、以上のすべてよりも重要なことは、この音楽祭に対するイタリア皇室、政府ならびにファシスト党の熱心な精神的、物質的後援である。毎回の音楽祭には常に皇太子もしくは皇太子妃が臨場され、多忙なムッソリーニすらやってきた。そして音楽祭の直接の主催者であるファシスト音楽家組合自身ならびに組合を通しての政府、すなわちファシスト政権の積極的で熱心な態度を見るとき、この音楽祭が音楽国際主義に対するファシスト政権の認識、態度、意図を明らかにすることがおのずから理解されるのである。
(完)
【2004年1月16日+1月25日+1月28日】
◇時局投影/唐橋勝(『音楽之友』 第3巻第3号 1943年03月 p.83-84)
内容:★1943年1月9日、中華民国国民政府は米英に対し宣戦布告をし、日華共同宣言が次のように発表された。「大日本帝國政府及び中華民國國民政府は両國緊密に協力して米英両國に對する共同の戦争を完遂し大東亜に於て道義に基く新秩序を建設し惹て世界全般の公正なる新秩序の招来に貢献せんことを希望し左の通宣言す。大日本帝国及び中華民国は米國及英國に對する共同の戦争を完遂する為不動の決意と信念とを以て軍事上、政治上及経済上完全なる協力を為す」。こうして日華両国は一体となって進軍することとなった。さらに帝国は在支租界を還付し、治外法権の撤廃を行なった。これをきいて慌てた英国は重慶政府に対し租界返還の意志表示をしたそうだが、その土地はすでに英国の実力から離れている。★豪奢を誇る米国も大戦争のおかげで、だんだん物が乏しくなってきた。同盟報によると威張り散らしているルーズベルト大統領の家ではバターは朝だけ、コーヒーは1日一杯という有様らしい。米国人にしてみると、なかなかの悩みらしい。★遊んでいる別荘を役に立てる運動が着々実行されている。湘南地方は別荘地帯と言われていて、鎌倉などこの頃は東京や横浜とほとんど変わらない町の姿になってきたが、市内に150軒以上の遊休別荘があることがわかった。そのうちすでに、海軍勇士の憩いの家として活用されているものもあったが、さらに多くの活用を図るべく1943年1月14日同市市役所に横須賀海軍人事部や海軍工廟などからの隣席を得て、懇談会を開き、その結果活用方法が立案された。★奥村情報局次長は1943年1月11日の定例次官会議の席上、大東亜戦争の長期化にともない、思想戦が激烈になってくる実情を指摘し、アメリカの宣伝戦が活動を開始していること、したがって国内のデマは直ちに敵国側の謀略に利用されるのであるから、国民は等しくこの思想戦にも勝ち抜くため腰を据えてかからなければいけない旨が強調された。同次長によれば、アメリカではエルマ・デヴィスという者を戦時情報局長にすえ、局員2500、経費年額1億ドルを計上して必死の思想反攻を策しているそうだ。帝国軍の戦果に気を緩めてはいけない。★1943年1月17日、たばこの値段が上った。「金鵄」が10銭から15銭に、「暁」が20銭から30銭に、「鵬翼」10本入りが15銭から25銭に、「光」が18銭から30銭に、「櫻」が25銭から45銭にという具合だ。國に納める税金がそれだけ多くなったと思えばよいのである。参戦列国に比して、わが国一人当たりの税率は段違いに少ないそうだから、まだまだ税金を負担する力は残っているわけである。たばこ値上げに続いて、今春から間接税が各方面にわたって引き上げられる。みな、戦争に勝つためである。★修業年限の短縮、大学院の更生、専門学校となる師範学校等幾多の画期的な学制改革が断行され、この4月から実施される。とりわけ英語の扱いに注目すべきものがある。中学では1、2年が必須で3年以上自由選択、女学校では全部自由選択で、華々しい刷新ではないが自由選択科目にしたことが画期的なことである。今までは英語を知ることが方便から転じて絶対必要なものであるかの程度にまでなっていた。鉄道といわず街路といわず、日常生活に英語が必須のものになっており、日本が米英の植民地であるかのごとき観を呈していた。一般の日常生活に英語などちっとも要らないのである。1週間に何時間も英語に苦労してきた学校生活を思い出して、馬鹿げたことだったと思わない人は少ないだろう。(つづく)
★医療切符が平均2割5分引き上げられ、新たに数品目が切符入用品として追加された。全国を通じて切符の使い残しが相当多いそうであるから、このくらいの引き上げは国民生活をおびやかすものではない。日本人は世界一の衣裳もちであるから心配ない。あわてて切符を使い果たそうとする者は、獅子身中の虫である。★愛知県政務調査会内政部委員会では米国の競技である野球をはじめ、米英的運動競技を全県下から排撃しろという決議をしたそうである。これに関し山田内政部長は野球をやっていては敵愾心の昂揚はできないと説明している。それならばやらなくてもよいのである。野球だけが運動ではないし団体的訓練もほかのことで充分訓練できる。アメリカあたりでは、日本で一番普及したスポーツのベースボールはアメリカが教えてやったんだ、くらいのことを言いふらしているかもしれない。そのようなことを言わせておく手はない。要は敵愾心の問題であるが、伊豆の下田では唐人お吉やハリスの銅像を取り払い、米国を「ギャング」、英国を「海賊」と呼ぶことにしたそうである。★電話を戦時下にもっとも必要とする方面へ振り向けるため、不急の遊休電話の供出運動が展開されている。供出された電話は標準価格が東京=1100円、名古屋=850円、大阪=1000円、京都=700円、神戸=650円、横浜=800円、福岡=900円で買い取り、必要方面へ振り向けられる。東京だけでも遊休電話は5000個を超すだろうと報じられている。★電気とガスをもっと節約しなければならない。10燈以下は今まで25キロだったものが20キロになり、10キロ以上1燈ごとに今まで1キロだったものが0.8キロになるなど、電気の消費規制も改正された。渇水期であるからただでさえ電力が大切になっている。ガスの節約は京都だけが好成績で東京も大阪も落第だそうである。国民は今こそ決戦下にあることを考えてみなければなるまい。★ソロモン方面で帝国の戦艦が失われたとの発表に即応して、戦艦献納運動が全国で起こっているが、帝国芸術院でも1943年1月26日、東京の帝国ホテルでその対策協議会が開かれ、横山大観、川合玉堂ほか美術界の代表写30名が参加し案を練った。★1943年1月20日、日独伊間の経済協定が締結され、また日仏印間の決済は「円」で行なわれることになった。日独、日伊の経済協定は両国間の経済金融関係をいっそう緊密にし、大東亜共栄圏建設の建設の基礎をさらに強固にしたものである。日仏印の円決済は東亜より米ドル、英ポンドなどの敵国金融武力を完全に駆逐したものである。両々相俟ってドル、ポンドの世界支配や某を粉砕しようとするものである。★北ボルネオ軍政監部では管下地名を次のように改めた。
東海岸州 → 東岸州
西海岸州 → 西岸州
久鎮州、久鎮 → 漢字を当てる
美里州、美里 → 漢字を当てる
志布州、志布 → 漢字を当てる
ラプアン島 → 前田島
(↑ 蘭ボルネオ方面最高指揮官故前田大将の奇跡であるがゆえに)
その他はカタカナを当てる。(完)
【2004年2月3日+2月6日】
楽壇戦響堀内敬三(『音楽之友』 第3巻第3号 1943年03月 p.85-87)
内容:●時局は音楽を要求する 戦争が激化するにつれて、音楽の国家に対する効用はますます重大になる。多数の者の注意をひきつけ、万人の心に呼びかける音楽は、その種類によって、あるいは勇猛心を倍化し、あるいは心身の疲労をとり、あるいは愛国心を沸きたたせ、あるいは敬虔の念を深めるであろう。もとより、われわれが何故に戦闘し、生産し、節約する課などは言語によって、または文字によって知らされなければならないが、「知」と「行」のあいだにある感情の働きを国家的・国民的な方向に向けていくことが戦時下の芸術の任務である。長いあいだ音楽は主として個人的な趣味嗜好であった。戦争によって個人主義は国民生活のあらゆる面から追いのけられたが、日本の音楽は果たして個人主義を脱し、戦時下の芸術として恥じない役目をしているであろうか。音楽家はいままでどおりに音楽をやったのでは足りない。曲目は時局精神と一致するように改めなければならない。演奏家は奉仕演奏や大衆指導に乗り出さなければならない。作曲家も評論かも国家目的のためにその活動を集中しなければならない。音楽を専門としない人々でも、なんらかの音楽技能をもつ限り、演奏、指導、啓蒙に挺身してもらいたい。●撃ちてし止まむ 「撃ちてし止まむ」の一句をもって、われわれ楽壇人は産業戦士の慰安をも考えるべきであるし、大東亜諸民族への音楽工作をも考えるべきである。また銃後の家庭に美しい音楽を贈ることも考えるべきである。しかし、もっとも緊要なことは「撃ちてし止まむ」の闘志を、音楽を通じて全国民の中に高めることである。国民皆唱運動は、この月にもっとも広範囲にわたって展開されることになっている。日本人はこういう場合、歌うべき歌、すなわち軍歌をたくさんもっている。もちろん軍歌ばかりを歌えというわけではないが、いまの場合、もう少し軍歌を歌うべきだと思う。3月10日は大山元帥の25万の精鋭が敵軍32万を撃破し、この日奉天を占領して日露戦争の勝利を導き出した記念日である。この月、われわれは軍歌を全国的に歌わせたいものである。●「海ゆかば」に朝日賞 歌曲《海ゆかば》を作曲した功により信時潔が朝日賞を受賞した。音楽関係者の受賞では田中正平、山田耕筰につづき3人目であるが、今回は戦争に関する芸術上の傑作を出した美術家・文芸家たちと並んで表彰された。《海ゆかば》は、ほかの国民歌とちがって、国民歌謡の一つとして日本放送協会が一般の国民歌謡と同様に時々放送したに過ぎない。それが5年のあいだにじりじりと普及して、いまでは各種の会合でももっとも多く歌われるものとなり、大政翼賛会がさいきんこれを儀式用として推薦するようになった。過去久しく、はやる歌は低俗な流行歌に決まっていた。こうした荘厳な歌曲が自然と普及したことは異例である。この歌曲を作った信時潔と、普及させた全国民とに心から感謝する。
(つづく)
音楽学生に望む言葉 今月、各音楽学校の入学試験が行なわれる。音楽学生になることは一生の職業として音楽を選んだことになるが、学校を中途でやめたり、卒業しても消えてしまった人たちを大勢知っている。これら消えうせた人々は天分があっても努力が足りなかったのである。音楽は一生の勉強である。昔と違って、音楽学校の卒業免状があれば世間は音楽家としてみてくれるほど甘くない。努力する人だけが音楽家として立っていける。音楽はますます必要とされているので、努力する人にとって力を伸ばす場所は充分にある。工場でも農村でも人手が足りなくなって困っているときに、音楽学校が無用な人間を送り出してはいけない。音楽学生は生死を賭して音楽にぶつかってもらいたい。●音楽中等教員の養成 武蔵野音楽学校本科卒業生に対し中等学校音楽科教員無試験検定取扱の許可が文部省から与えられた。文部省は無試験認定の許可をするのに慎重であるから同校が実力をもってこの資格を獲得したことは明白である。中等学校の音楽科教員は現実に全国各地で音楽文化の指導者として働き、世間は教室における仕事以上のものを期待しているのだが、その有資格者ははなはだ少ない。官立学校(東京音楽学校と東京女高師)のほかに私立2校(国立と武蔵野)が音楽中等教員の有資格者を生むようになったのは喜ばしいが、他の私立音楽学校も国民の音楽を全面的に指導する人材を輩出させてもらいたい。その程度にまで進むのは決して不可能ではないと思う。●平野楽長を悼む 陸軍軍楽大尉平野主水は1943年2月11日午前7時半、67歳をもって東京市中野区上高田1-248の自宅で亡くなった。30年以上前、E♭クラリネットの独奏を担当していた楽手時代から、楽長補時代を経て、春日楽長を継ぎ1925(大正14)年3月戸山学校軍楽隊長となり、1927(昭和2)年5月に現役満期をもって軍戦を退き、日本交響楽協会の指揮者として活躍した時代などが思い浮かぶ。福々しい温容と飾り気のない親切な態度で、ひじょうに刻苦励精したが高ぶらない人であった。交際家肌ではなかったが、神経の行き届いた優しさの中に豪傑的な明朗闊達さがあった。 (完)
【2004年2月12日+2月18日】
歌唱指導に就いて(袖珍音楽指導者講座)秋山日出夫(『音楽之友』 第3巻第3号 1943年03月 p.88-89)
内容:△序詞 [1943年の]新春を迎えるに当たって皇軍将兵の血みどろな奮闘に対して感謝し、銃後の決意はこぞって増産へ邁進し、第一線に劣らぬ力闘が繰り返されている。今国民皆唱運動が提唱される所以も、この1億の人々が元気明朗に5年、10年、百年と勝ちぬくための志気昂揚にほかならないのであって、勝ち抜いた暁にこそ10億のアジア民族が手に手をとって声高らかに歌える日が来るのである。ここに音楽が一部の人のいう有閑人の暇つぶしではなく「音楽は軍需品なり」との認識に改められ、第一線に動員されてきたのである。老若男女を問わず一つになって歌い、毎日元気で増産へと一直線に進もうというわけである。全国民皆唱に当たって指導の責任がいかに重いかは言をまたない。指導者の挺身こそ皆唱運動の鍵である。以下、指導に当たる皆さまにお願いをする。△歌に対する理解 歌う人々がどれだけ歌うための知識をもっているかということを考えると、残念ながらほとんどの人々がその知識がないといってよいであろう。こうした人たちの誰にでも歌うことの楽しいことを味わってもらえるようにし、さらに歌いたいという気持ちを根付かせていかなければならない。では、いかにして導いていったらよいだろうか? △歌う機会を多く与えて 生まれながらにして歌うことが嫌いだという人は、まずいないだろう。嫌いだといっている人たちでも歌う機会さえたびたび与えてあげれば必ず親しんでくるものである。皆が大声で歌ってみて、初めてその良さがわかる。食わず嫌いの人たちがいかに多いかを考えてもらいたい。その人たちを歌が不向きだと考えることがすでに間違いであり、絶対歌えると考えて指導に当たってもらいたいと思う。秋山が体験した一例を挙げておくと、ある工場で従業員に歌わせたいというので張り切って出かけたら、60名ほどの人たちが40歳から50歳くらいの男子ばかりで頼りない顔がずらりと並んでいた。それが5分、10分と指導すると、この人たちには遠慮や飾り気がなく、実に心のそこから大きな声で歌いまくり、わずか20分で《今年の燕》を覚えてくれた。その後は毎月うかがっているが、この工場はますます元気に増産へと邁進している。とにかく歌う機会を与えることの必要を痛感している。
【2004年2月21日】
吹奏楽指導の順序(袖珍音楽指導者講座)中村政夫(『音楽之友』 第3巻第3号 1943年03月 p.89-90)
内容:決戦下の今日、多くの資材で作られた楽器が倉庫の中で眠っていることはないだろうか。日中戦争当初、兵士の歓送に青少年団の吹奏楽隊が活躍したが、今日町を歩いても青少年の意気と熱のあるラッパの音が聴けなくなった。いろいろ原因はあるだろうが、日中戦争当初、楽器さえ買って与えればすぐにでも吹奏ができると思った町の長老がいたことと、習得する部員も吹奏も音程もわからぬまま耳覚えのユニゾンでやっていたこと、指導者も一日も早く実用にといった調子で、なかには楽譜の読み方も教えず、書いた歌詞の下に運指法を記して吹かせるという具合で教えるものだから習った曲以外は演奏できない例があったことなどが挙げられる。こうして運指法のむずかしいクラリネットなどは何の使命も果たさずに倉庫行きとなった。もしも当初指導で間に合わせ主義をやめて、充分に基本訓練してあったら現在ほどみじめな結果には終わらなかったろうと思っている。国民は誰も今年が決戦と考えているが、吹奏楽こそ重大な使命を果たすものであると信じている。いま倉庫にある楽器を出して楽器本来の使命の発揮に努力されるよう願いたい。/さて、これから楽器を出して再編成する団体も多いと思うが、指導に当たる人は当事者に迎合することなく、各個に基本訓練を充分にやることが肝要である。各楽器については、現在わが国に使用されている吹奏楽器の調子や運指法に精通する必要がある。打楽器は主として大太鼓や小太鼓およびシンパルであるが、難物は小太鼓であってトレモロが完全にできるまで根気よく指導すべきである。指導することは習う以上に難しいのであるから自らもよく努力すべきである。わが国吹奏楽は軍隊が先祖であるから、これから先も軍楽を吹奏するという気持ちであってほしい。だから練習時はきわめて厳格に規律正しく行なうべきである。
【2004年2月24日】
音楽鑑賞指導の心得(一)(袖珍音楽指導者講座)久保田公平(『音楽之友』 第3巻第3号 1943年03月 p.90-91)
内容:これまでの久保田による各種の音楽鑑賞指導の体験から、どのように戦場の鑑賞に当たるべきかの試案をまとめて、これからそうした仕事に当たる人々の参考にしたい。まず肉体的な、そして精神的な熱情を持つべきことがあげられる。次にいかなる場合にも、戦う日本の現実から出発し、われわれが現在もつ生活感情に出発の第一歩を置くことが絶対に必要である。その意味で、講演や解説が過去の常識や曲のもつ言い伝ええられた内容と違う場合、それを一向に気にする必要はない。たとえば夫が戦場に行くのを悲しんで死んだ妻の気持ちを描いた音楽など、当然、いまの日本では中止すべきであるし、もし日本人の感覚を通じて聴く場合、それが貞節な妻の心として感じられるならば、話はどう変更されても一向に不思議はない。われわれは外国人が書いた解説の受け売りをするのではなく、日本人として聴いたその感じを説明するのである。第三にできるかぎり楽しくすること。楽しくない講演は、工員を悪所通いから健全な生活に引き戻そうとする厚生文化の敵である。工員は疲れているのだから、楽しくわからせるための解説であることを指導者は忘れてはならない。何も知らない白紙の聴衆には、もっと基本的な楽しさが必要である。造船所では船を例にとり、銀行ではそろばんを例にとるなどの機智が講演者の準備の中に含まれなければならない。と同時に、その楽しい集まりの中に一つだけ皆でその音楽を通じて考えるべき中心の問題、特に戦時下日本の生活に結びついた問題を提起することもまた必要である。第四に聴くものと一体となる親しさを獲得し、一段高い舞台から物を教える態度を清算すること。久保田は鑑賞を始める前に、必ず皆といっしょに歌を歌うことにしているが、ひじょうに効果が高い。こうした親しさが会場を充たしたとき、いよいよ音楽の鑑賞を始めるので、いきなりレコードを演奏して内容はどうだと説明しても、音楽は彼らの生活に入っていかない。歌うことの中によりよき音楽を展開していく方法は、いままで常に成功してきたと信じる。次号から10回くらいの予定で連続鑑賞会のプログラムについて、簡単な指導の体験を紹介したい。
【2004年2月27日】
音楽会記録唐橋勝 編(『音楽之友』 第3巻第3号 1943年03月 p.92)
内容:1943年1月1日〜1943年1月31日分(→ こちら へどうぞ)。
【2004年3月7日】

楽界彙報(『音楽之友』 第3巻第3号 1943年03月 p.93-95)
内容:●記録●「元寇」文部省推薦となる コロムビア・レコードの長唄「元寇」(北原白秋作詞、稀音家浄觀作曲、松永和風その他演奏)は文部省の第12回推薦レコードとして1943年1月14日発表された。 退廃音楽を一斉に追放 決戦下の日本にいまだにジャズのレコードがバーや喫茶店で演奏されている現状にかんがみ、内務省と情報局で協議の結果、ジャズ・レコードを中心とする約1000種のレコードを演奏不適当のものとして発表、各方面の自発的演奏停止を要望した。情報局第5部の井上第三課長は、禁止の対象はジャズと外国語で歌われている輸入レコードが主眼であって、日本語で歌われ充分に消化されている《蛍の光》《埴生の宿》《庭の千草》などは禁止するわけではないとの談話を発表した。 陸軍軍楽隊の雪中耐寒行軍 陸軍戸山学校の全校生徒を挙げて、1943年1月14日から16日にかけて奥日光踏破を敢行したが、これに水島少尉の指揮する軍楽小隊が楽器を携帯して参加した。一行は14日に上野から日光に移動し、2日目の15日午前4時にスキー小隊を先頭に行軍を開始、同日群馬県にはいり東小川で宿営、3日目は沼田町まで行軍して帰京した。軍楽隊は終始行をともにし、軍楽隊がこの種の行軍に参加するという列国にその比をみない壮挙を敢行したのである。指揮の水島少尉は、軍楽隊の参加は無理だろうという大方の予想を裏切って全員使命を果たしたが、軍楽隊員は他と同じ装備をしたうえに大切な楽器を各自がもっていかなければならない、そのうえ休憩中に演奏する重大責務があること、軍楽隊は初参加だったのでひじょうに感謝されたとの談話を発表した。 信時潔氏に朝日賞 1942(昭和17)年度朝日賞は、「戦時下士気昂揚」の項目のもとに《海ゆかば》の作曲者・信時潔に、その他藤田嗣治、中村研一、小説の岩田豊雄、映画の日本映画社に贈られた。これ以外の受賞者は文学座の吉田栄三、吉田文五郎、仁科存、長谷川秀治、酒井由夫、蓼沼憲二、楊徳であった。 全国音楽教育者練成大会 日本音楽文化協会は全国師範学校、中等学校、青年学校、国民学校の音楽教育を担当する教職員に対し大東亜戦争必勝の国策に挺身奉公するとともに、国民音楽確立を促進する音楽教育に邁進する決意を固めさせるため、1943年1月29日、30日の両日東京女子高等師範学校講堂で全国音楽教育者練成大会を開催した。受講者は600名にのぼり、文部省教化局長阿原謙蔵のあいさつ、乗松東京音楽学校長、井上情報局第5部第3課長、三橋文部省教学官の講演、井上武士の国民学校初等科5,6年音楽教科書についての講習、奥田良三の大東亜共栄唱歌『ウタノエホン』による実習、「音楽教育者の職域奉公の具体策」ほかをテーマとする協議会、音楽鑑賞、児童歌唱発表が行なわれた。 文部省のレコード推薦委員を追加 文部省の音盤推薦は今後、音楽に限らず浪曲、朗読をもくわえ推薦対象を一般向け、青年向け、児童向け三部門に分けることとなり、次の7名を新たに委員に委嘱した。
矢川徳光(大日本青少年団教養部長)
有坂愛彦(日本放送協会音楽部長代理)
竹越和夫(日本蓄音機レコード文化協会常務理事)
園部三郎(日本蓄音機レコード文化協会理事兼日本音楽文化協会理事)
野村光一(日本音楽文化協会理事)
堀内敬三(日本音楽文化協会理事)
柴田知常(日本音楽文化協会理事)
吹奏楽器演練大会 全関東吹奏楽団聯盟主催の吹奏楽器個人競演会は今年第5回を迎えるが、今回よりその名称を「吹奏楽器演練大会」と改め、1943年1月24日午前9時より東京本郷の昭和第一商業学校で開催された。技量優秀として評されたのは次の人々である。
【学生の部】
コルネット:木村尚蔵(大阪浪華商業学校報国団音楽班)
トロンボーン:加藤恒夫[?](浦和商業学校報国団音楽版)
小喇叭:小路竹治(専修商業学校喇叭鼓隊)
中喇叭:田邊好一(専修商業学校喇叭鼓隊)
大喇叭:小松潤次郎(専修商業学校喇叭鼓隊)
小太鼓:秋山源一郎(専修商業学校喇叭鼓隊)
【一般の部】
クラリネット:中尾正(日管吹奏楽団)
トロンボーン:山本幸一(日管吹奏楽団)
バス:斎藤彌六(日管吹奏楽団)
(つづく)
●情報●大政翼賛会の国民皆唱運動 大政翼賛会の提唱により、日本音楽文化協会、音楽挺身隊、日本蓄音器レコード文化協会、日本放送協会などが実践することになった「国民皆唱運動」は、その第一回として1943年1月30日より3月にかけて全国的に展開されることになった。この運動は全国を8地域に分かち、各地域とも声楽家1名または2名に伴奏者を以て組織する指導隊を2班ないし3班、10日ずつ派遣する。使用される歌曲は次のとおりである。
海行かば、愛国行進曲、大政翼賛の歌、大詔奉戴日の歌、靖国神社の歌、産報青 年隊歌、大日本青少年団歌、大日本婦人会歌、世紀の若人、国民進軍歌、少国民 進軍歌、軍艦行進曲、敵は幾萬、来たれや来たれ、雪の進軍、太平洋行進曲、興 亜行進曲、愛馬進軍歌、この決意、進め一億火の玉だ、戦ひ抜かう大東亜戦、必 勝の歌、アジヤの歌、アジヤの青雲、大日本の歌、大東亜決戦の歌、大東亜戦争 陸軍の歌、月月火水木金金、英東洋艦隊撃滅の歌、空の勇士、燃ゆる大空、荒鷲 の歌、空征く日本、航空決死兵、空襲なんぞ恐るべき、露営の歌、暁に祈る、護 れ太平洋、南に進む日の御旗、南進男児の歌、婦人従軍歌、白百合、忠魂碑の歌 、出征兵士を送る歌、十億の進軍、兵隊さんよ有難う、さうだその意気、めんこ い仔馬、進め小国民、くろがねの力、朝だ元気で、今年の燕、箱根八里、胸を張 って、愛国の花、楽しい奉仕、元気で皆勤、子を頌ふ、日本の母の歌、ありがた うさん、利鎌の光、日本のあしおと、僕等の団結、村は土から、朝、椰子の実、 門出の歌、世界の果まで、若い力、われらをみなは、日の出島、娘田草船、山は呼ぶ野は呼ぶ海は呼ぶ
映画音楽のコンクール 東宝映画では陸軍省、情報局後援、日本音楽文化協会協賛の下にコレヒドール攻略戦を題材とする「あの旗を射て」を製作することになった。そして、この映画に用いる音楽の作曲家を一般より起用する方針を固めた。その決定に資すべく次の要項によりどう映画の主題を盛り込んだ交響曲を懸賞募集することとなった。
(主題)東亜にその魔手を広げ、暴挙きわまりない米国が東洋における最後の拠点と頼みにしているコレヒドール島の攻略は、我々の感激の記憶を呼び起こす。皇軍の鉄槌がこの地に下るや、たちまちこれを粉砕、米勢力を一掃し、日章旗が翻る。
(課題)上の趣旨を主題とする二管編成(60名前後の楽員で演奏可能なもの)による交響詩または交響組曲(合唱付きも可)。演奏時間は20分〜30分。
(入賞)当選作品は最優秀作1篇とし賞金1000円およびコレヒドール総攻撃を主題とする東宝映画製作劇映画「あの旗を射て」の音楽監督を担当する。
(締切)1943年4月15日までに応募管弦楽総譜を提出のこと。
(送付先)東京京橋銀座7ノ1 東宝映画株式会社内映画音楽コンクール係
(発表)1943年5月末日
●消息●
松竹交響楽団 大東亜交響楽団と改称
小野賢一郎(日本放送協会事務局次長兼企画部長) 1943年2月1日午前2時40分死去。
服部良一 電話:吉祥寺814番開通
(完)
【2004年3月7日+3月17日】
編輯室/加藤省吾 青木栄 黒崎義英(『音楽之友』 第3巻第3号 1943年03月 p.108)
内容:☆1943年1月から全雑誌に断行された用紙の割当減少は、編集当事者にとってひじょうに手痛いことであった。これは当然ページ数の減少となって現れてくる。それを補うための質の向上が与えられた課題であった。しかし幸いにも大東亜全体を包含しての音楽活動、同時に直接国民音楽の創造にも寄与する道を今後の方針にすえて、ひたむきに前進しつづけるであろう。ここで強調したいのは、従来ほとんど問題とされなかった少国民のための音楽を積極的に取り上げていこうと考えている。新しい国民音楽はまず、このあたりから検討すべきことを痛感していた。この問題については読者からも意見を聞かせてほしい(加藤省吾)。☆今月から本誌の付録楽譜に同盟中華人の手になる楽譜が加わってきた。これは音楽雑誌の大陸進出を促進し、雑誌使命の一大飛躍と言うべきであろう。雑誌協議会では音楽雑誌を毎月出征音楽関係者に贈呈することになったが、これこそ前線へのわれわれの微衷である。音楽が銃後において厚生的意義を果たすことにより、ひいては生産力の発展向上に大いに力をふるうことは一般に周知のことである。今や厚生音楽の問題は一部関係者のものではなく、すべての音楽関係者があげて音楽の厚生的使命の遂行に協力すべき時である。さらに一歩前進して、大東亜共栄圏文化工作にわれわれの手になる雑誌が尽くし得ることは矜恃の念に燃え、同時に責任の重大さを痛感する次第である(青木繁)。☆音楽雑誌を編集していて困惑するのは「音楽は聴くものであり聴かせるものである」という実感が先に来ることである。今やこの悩みが解消されようとしている。従来の楽譜8ページを32ページに増ページにしたからである。この断行が音楽雑誌社としていかに果断であるか。営利を超絶して名利を追うと言っても過言ではあるまい。堀内主幹と首脳スタッフの明断に敬意を払いたい。/長い間音楽雑誌は国内に限定された読者範囲を対象としていたが、いまこそ国民大衆はもとより大陸、南方、外地諸地域にも解放しなければならない。楽譜を青少年国民部門から大陸南方の前線部門にまで充満させよう。そして専門部門に対する国楽創成の機運を爆発させよう。楽譜にページを割かれても本文にはいささかの痛痒を感じない。あらゆる雑誌が紙数を切り下げたのである。110ページの内容で可能であった発言と意志が70ページの紙数で不可能であるわけがない。編集方針の革新を図っても楽界への大衆性と指導性は失われないだろう。ただ本号は急遽断行されたために楽譜の編集が不十分であったことを諒とされたい(黒崎義英)。
【2004年3月20日】


* 2004年3月23日はp.61からの対談をまとめました(未完)。
* 2004年3月26日はp.61からの対談をまとめました(2回目=未完)。
* 2004年3月29日はp.61からの対談をまとめました(3回目=完)。


トップページへ
昭和戦中期の音楽雑誌を読むへ
第3巻第2号へ
第3巻第4号へ