『音楽之友』記事に関するノート

第3巻第02号(1943.02)


勤労戦線と音楽施設津川主一(『音楽之友』 第3巻第2号 1943年02月 p.16-21)
内容:近代の戦争は一大消耗戦であり、それは生産部門の異常な活躍によってのみ補われる。たとえ戦争が終結しても、飛躍的発展を遂げた日本の生産力は、大東亜共栄圏や世界の貿易市場における経済戦に向けられ、そのことによってのみ国力は充実されるのである。とはいえ人間の体力と意志力には限界があり、かといって単に休息すれば元気が回復するものでもない。そこで第二次大戦が勃発するや、各国ともいかにして産業戦士を遇し、科学的な方法によって能率を増進できるかについて研究を始めた。/枢機国では、まずイタリアが「ドボ・ラボーロ」という運動を開始した。直訳すると「勤労後」という意味で、休日や休憩時間中に健全な娯楽を与えようという国家的施設だった。しかしドイツは、これを一歩推し進めて1932年5月にドイツ勤労戦線を結成すると間もなく、同年の秋には「カー・ゲー・エフ」(勤労団)の設置が宣言された。これは「歓喜を通じて生きる力」とでも訳すべき言葉の頭文字を拾ったものである。ナチスの指導者は「肉体的ならびに精神的な疲労は、単なる休息によっては回復しない。精神的、知能的、生理的な与えられて、生活と仕事の喜びを取り戻す」と言っている。今日まで枢機国が、多大な資源と広大な地域とをしめている反枢機国に対し、圧倒的な勝利をおさめてきた背後には、こうした組織だった施設のあることを忘れてはならない。/日本においても着々実行されてはいるが、わずかに申し訳的な催しを行なって満足していることは許されない。いったん娯楽や教養の点になると、勤労青年が不良の仲間に入って自堕落な生活におちいるなどということは、本人の責任もさることながら、厚生娯楽施設の不足が指摘されて良いと思う。全員でひとつの歌曲を斉唱することが精神上の団結のうえからも要求される。この集団歌唱を高度に引き上げようと思えば、全然音楽の心得のない人たちに楽譜の読み方を系統的にわかりやすく教える組をいくつも作るようなことも考えられる。何事でも、仕事を始めようと思えば、まず下地を作ることが必要だ。工場や農村に合唱団や合奏団をつくるときに音楽の趣味をもっていたり、理解をしている人たちだけが集まっても意味が少ない。それらの団体に入る予備の組をたくさん作る必要がある。そうでなくとも勤労階級に、精神的にも肉体的にも更生をもたらす爽快無比な音楽を正しく鑑賞することを心の糧として、自分たちの生活の中に採りいれることができるよう、啓蒙・指導しなくてはならない。たとえ簡単な1曲を聴くにも、その演奏に先立って専門家の説明を聞くことは、音楽を一つの教養または文化と考えるものにとっては、得がたい特権である。こうして徐々に音楽に対する深い理解と愛着と感動とを増し加えていくのである。だから、音楽の鑑賞講座のようなものを、初歩から徐々にやっていくことは大切なことである。いきなり交響楽のレコードの鑑賞会などをやることは、むしろ感心しない。/ドイツでは、工場内に1000人前後を収容できる演奏場を建設することが政府によって推奨されている。わずかな時間を利用して音楽を聴くことができ、疲労を回復することができるからである。世界最古のオーケストラであるライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団は、工場の機械の空間(あきま)に陣取って、わずか15分の休憩時間を利用して素晴らしい演奏を聞かせている。日本では演奏家協会理事である大村能章らが目下産報と連絡して、音楽家を動員し、組織的に厚生音楽のために努力して、すでに相当の効果を上げている。[ドイツでは]こうした目的のために国立交響管弦楽団という、厚生団に専属のオーケストラをつくった。わが国にも、勤労者のために専ら働く厚生交響楽団の設立を津川は提唱しているが、一日も早く実現することを祈る。既成の交響楽団がたまに奉仕に行くだけでは足りないのだから。津川の考えでは、市内最大の劇場の一つか二つを産報専属の演奏場としたいと考える。こうすれば楽器運搬の手間などが大幅に省け、安価な料金で、各方面の工場の人たちに交代できてもらえる。会費は月々娯楽費として積み立てたり、それと同額を厚生補助費から援助することもできるだろう。/地方の工場や農村には巡回音楽班が出張するが、これももっと強化して、多くの専用バスを用意して楽器や人員をたやすく運べるように工夫し、東京以外に支部をいくつも置いて、この恩恵に洩れる人たちのないようにしたい。/勤労者たち自身によっても音楽が演奏されなければならない。幸い、今日は各工場や会社で続々と合唱団や合奏団が結成され、その全国的な競技会も行なわれていることはけっこうなことだ。これによって、数年間で日本の音楽文化水準は相当高く上がるであろう。日本でさいしょに有力な職場吹奏楽団を設けたのは、マツダ電気とライオン歯磨であったと思う。職場合唱団としては、日本電気と三越本店などが優秀で、前者は上野耐而、後者は大中寅二によって指導されている。しっかりした指導者が必要なことは、このことからも明らかである。ドイツでは各地に、勤労者のための音楽指導者養成機関があり、ウィーンにはフリッツ・へグラーを校長とする厚生団音楽学校さえある。指導者を養成するには、どうしてもそのための長期養成期間を設置しなければならない。/イタリアやドイツでも未だ[厚生音楽運動を]組織的に行なっていなかったとき、具体的には1921(大正10)年ころ、すでに日本で向上の勤労者のために出かけていって、音楽の演奏を試み歌唱の指導を行なった事実を書きとどめておきたい。津川らが関西学院の専門部学生であったころ、学生の有志8人で複四重唱団をつくっていた。メンバーには、のちの大阪時事新報学芸部・小田切平和、前少年世界編集主任・大崎治郎、パスカル研究者・由木康、前短距離選手権保持者・伊達宗敏などの変り種がいた。当時勃興してきた生産部門の産業戦士に音楽を聞かせようと、播磨造船所、鐘ヶ淵紡績工場などへでかけ、1時間前後のプログラムで男声合唱を演奏した。前者からはあらためて作曲依頼を受け、津川の作曲になる歌曲をもって、津川と故・木原秀夫の2名で指導に行った。ついで、先輩の後援で上京し、震災前の基督教青年会の講堂で演奏会を行なったが、このときも隅田川端のライオン歯磨工場に出かけ正午の休憩時間に合唱を聞かせた。1930(昭和5)年、すでに上京していた津川は内田栄一とともに東洋モスリン工場に行き、幾千人の女工の前で内田の独唱、津川の解説・伴奏で演奏を聞かせたが、それだけにとどまらず二人で歌唱指導をしたところ、女工たちは元気よく熱心に歌ってくれた。このとき以来、津川は勤労と音楽の固い結合を信じて疑わない。 (完)
【2003年8月6日+8月10日】
古民謡に於ける労作唄の意義小寺融吉(『音楽之友』 第3巻第2号 1943年02月 p.22-26)
内容:■個人的労作の場合■労作唄は民謡の主要な一面であり、もっとも古い姿を残したもののひとつである。便宜上、これを個人的な場合と集団的な場合とに分けて話を進める。個人的な場合とは、たとえば屋内で一人で糸車を廻しながら唄を唄うような場合である。こういう場合の労作唄は、後には労働の苦しさと緩和と解釈されてしまったが、本来は仕事の成果があがるように神に祈った唄がはじまりである。たとえば埼玉県の唄で調子は近世的だが「機が織れない、機神様へ、どうぞ此手があがるように」という内容の古い文句を持つものがある。手があがるようになれば、仕事の成果も増し、収入も増える。/戸外を牛や馬を連れて歩きながら唄うのは、集団の場合も孤独の場合もある。しかし集団といっても、男たちの距離は会話することができないくらいに離れるので、結局は孤独である。牛追唄あるいは馬方唄は、その起源は乱声と同じく悪魔の折伏である。牛追唄も馬方唄も猛獣毒蛇の害を避けるために、遠くから大きな声で唄っていくのである。夜道を行かなくてはならないときには、特にその必要がある。遠州日坂地方の雲助唄、長持唄に「小夜の中山、夜更けちゃ、およし、鹿の友呼ぶ、声がする」という文句があり、鹿が友を呼び合うのを邪魔すると禍があるという信仰があるのであろう。客や長持がたくさん行くときは、まず長持を先に立て、長持の正面にオカメの面を飾っていくのでも想像できるように、道中は魔よけが大事である。長持唄や籠をかつぎながらの唄は重い荷を肩にして歩いているのだから、立ち止まって休んだときに唄う。これも猛獣毒蛇その他の悪霊への示威行為である。しかし歌詞には変遷があって、たとえば駕篭かきが小田原から客を乗せて箱根へ近づいていく途中で宿屋の名前が入った唄を唄うと客がその宿屋につけてくれという場合が生じる。こうなると原始信仰に発した道中唄も、変わったことになる。■集団的労作の場合■これも古いものは神事と関係があって、始めに唄うべき文句、終わりに唄うべき文句が一定し、それはめでたい神まつりの文句という例が多い。たとえば東京付近の正月の餅搗がそれで、晩の8時ころから夜明けまで大勢で協力して働く。搗く役は男で、のす役は女である。夜は連夜の徹夜だし力仕事だけにそうとう疲れる。だから唄の文句も始めと終わりのご祝儀以外は、どんな文句でもよく、滑稽なもの、エロがかったものも眠気覚ましとして歓迎された。民謡に恋歌が多い、エロがかった唄が多いのもこうした理由による。また東京近郊の麦打のように、農家で近所の人が大勢で協力する作業は、ふつう始めと終わりにめでたい文句を唄うもので、これもその家の幸福を祈ることに始まっている。大勢がひとつの唄のリズムに統一されて力仕事をするとき、声の良い者が存在するということは、声の良い者がいるということは、なにものにも変えられない楽しいことで、仕事の能率もあがる。広い意味の芸術の使命がここでも果たされている。■皆が必ず唄うという不文律■労作唄の目的は、唄って聞かせることにあるのではなく、唄うべき者が全員唄うところにある。米搗も協力の作業であり、その他にいる者は順次唄いまわるのが互いの礼儀である。礼儀を欠く者がいれば少数者が過度に唄い、かえって疲れる。こうして唄い返さなければ不幸になるという原始信仰の名残の思想がもとである。そうしたものの見方が積もり積もってきたので、労作のときでも、酒宴の折でも、盆踊りのときでも、唄うべき者が唄わないという法はない。仕事と唄とがもっとも不可分なのは、酒をつくる場合である。この仕事は12月から3月までの100日にわたり、仕事によって唄も替えるが、中には唄の長さで時間を計ることがある。したがって唄の文句を増減もできず、唄のテンポも改められない。そして唄わなければ仕事は進行しない。現代の労働は昔のように唄と不可分ではない。しかし同時に唄は文学であり、文学は自由を尊ぶ(といっても時代遅れの自由ではない)のだから、あまり制約を加えてもいけない。近代の労作唄には仕事が多いとか、検査が厳しいといった、労働者が雇用主を皮肉ったものが少なくない。昔から上長を風刺する文句はあったが、それらは反語的意味があり、そうしたことがないようにとの警戒であった。民謡には、姑から嫁への注意をする文句などもあるが、明るい風刺で近代の労働者のコソコソ話の皮肉とは違う。明るい風刺は、かえって人心を明るくする。過去の日本の労働の気持ちを知るには、いまは民謡によるしかなくなった。民謡を目で味わい、耳で味わうことは、なかなか大切なことである。
【2003年9月6日】

生産力と音楽の効用久保田公平(『音楽之友』 第3巻第2号 1943年02月 p.27-32
内容:(1)音楽は婦女子の教養や趣味遊芸の域から最高の芸術として考えられるにいたったばかりでなく、その効用が作戦の重要な役割を果たす要素であるとまで言われるにいたった。音楽のもつ広範囲な伝播力、その日常生活への同化力、直接的な精神への浸透性などは、社会的・政策的な面の要求に応える武器としての音楽の特質だった。音楽のあり方は、こうして個の芸術的価値から、その効果の価値として社会から評価され要求されることとなった。要するに芸術のもつ影響力が問題視されてきたのである。すべてのものは戦争目的の実践に向かって突進しなければならない。そればかりでなく、音楽の質的向上は、さらに量的な発展に展開されなければならない時期が迫ってきたのである。聴衆に関しては、限られた教養人ではなく、良い音楽を享受する層の増大が問題であった。われわれは、国民生活に精神を与えなければならないと同時に、その中から大衆生活を音楽の中に吸収し、浄化しなければならない。こうしてこそ音楽家は国民の一員であり、その音楽は国民のものである。芸術の効用がある目的のために利用されるということは、必ずしも芸術が他のものに隷属したということには相当しない。少なくも日本の芸術的特性は、日常生活の美化、洗練に出発することをわれわれは知っている。われわれも西洋的文化を急速に吸収した今日、これを日本的伝統の上に調和し、発展させなければならない時期に来ている。音楽も西洋の楽器を駆使して世界に日本の精神を昂揚しなければならない。日本の生活の美化、日常生活の洗練は、懐古趣味的な昔への復帰ではなく、戦争目的に通じる日本的精神の芸術化でなくてはならない。こうした美の力こそ、社会が求め国家が要求している音楽の効用の本体であり、効果の価値として力説されている影響力を生む原動力なのである。音楽によって日本の精神を表現することは、即日本的美として日本人の中に、その固有の日本的精神を呼び起こすであろうし、東亜の民族には東洋的精神を、欧米人には世界史的な普遍美を想起させるであろう。こうしてわれわれの任務の重要さは、戦時下日本の生活を貫く強大な日本的美、戦うことの美の探求とその洗練によって得られるべきものであり、その精神的活動の普遍化によって果たされるべきものといえる。要求される音楽の効用を最大に高める道は、美的生活への道をあらゆる方法によって大衆のものとするという、当然過ぎる結論の変奏に過ぎない。(2)音楽の発生には3つの面がある。第一は労働の合理化であり、第二は生活感情の余剰から生まれた慰安である。そして第三は自然に対する恐れと感謝を含む宗教としての現れである。音楽の発生は、原始人の生活感情の中に示されたリズム感の表現をもって始められたのである。しかも音楽におけるリズムは、こうした単純な基礎リズムから美化され、感情表現のための変化をもつことによって生命を得、単なる反復から、根本形式としての労働そのもののリズムから区別されるのである。労働のリズムの上に生まれ、それを美化し助けるものは労働歌であり、生活そのものから発生した音楽だった。同じ仕事の反復からくる肉体的、精神的疲労は、その反復するリズム感の美化による以外に救う方法がなかったのである。現在においても、こうした反復作業を要する生産部門においては、その労働の持つリズムの音楽化は昔の作業歌と同じ効果をもち、生産の増大を助長する大きな力たりうることは同じであろう。ここで注意しなくてはいけないことは、昔の作業歌は、その労働の中から必然的に生まれ出た、自然発生的な音楽であったのに対し、今日では、そこに作曲家がその音楽を与えるということである。新しい労働の本当のリズムを自分のものにするためには、音楽家としての生活感情をそのまま作曲することはできない。生活感情を通俗的な感情一般に結びつけようとする音楽や労働の必要を説明するための音楽が、労働を助成し、能率を増大すると考えることは、勤労音楽を製作する人たちの自己満足に過ぎない。/ここに、ほかの難問題が残されている。それは近代的な労働の中心が異なるリズムによって解決できないものを示しているということである。強大な重工業や戦火のただ中にある第一線は、リズムの限界を越えた、生死と紙一重の世界である。われわれの極度に緊張した神経には、すでに音楽的なリズムは存在していないことを知らなければならない。重工業を音楽化した作品が現代の即物的作風をもってニ三発表されているが、それも一歩工場の外に立って客観した工場であり、描写された重工業であったにすぎない。/強大な緊張の後には、それを和らげる要素が必要である。音楽の効用のうち、生活の余裕から生まれる慰安としての一面ということになる。緊張が強ければ強いほど、肉体以上に精神がその生活と反対のものを要求してくる。精神的な要求には、精神的な慰安が与えられなければならない。生活に疲れた心には、ゆるやかなリズムのマッサージが必要となる。清純な美しさによって、メカニズムの中に失いかけた人間的感情を復活させることができれば、単に一日の労働による肉体的あるいは精神的疲労が回復されるばかりでなく、メカニズムの中に一個の機械としてひきづり廻された昨日を反省し、機械によって生み出すものが単なる生産物ではなく、メカニズムを駆使して生産した、戦時下日本の意志の人間的ゆとりを獲得できるのではないか。音楽は、ここにおいて最上の人間的美を日本的性格として、聴衆の心に与えなければならない。それは次の日の戦いに備える健康さをもつ必要に迫られるであろう。このような要求に応じる音楽は古典音楽であり、純粋音楽であり、ときには明るいワルツとセレナードであるはずである。慰安としての音楽には、その聴き手の年齢、性別、教育など非常な注意が必要である。要は美的生活への道を開くことであり、人間としての美しいものに対する憧憬を充たし、高めることである。
【2003年9月11日】

外交と音楽<対談>柳澤健 市河彦太郎(『音楽之友』 第3巻第2号 1943年02月 p.33-45
内容:
■対外文化工作の先駆■ 市河: 今度の戦争が起きてから誰もが対外文化政策の必要を叫び、立派な活動が行なわれている。しかし、ここまで来るには、国内においてそういう大きな仕事が行なわれていることを一人も認めなかった時代に、先輩諸氏が縁の下の力持ちのような仕事をされてきたことだ。この点において市河は柳沢さんに感謝しなければいければいけないと思っている。柳沢さんは昔外務省がこの仕事を始めたときの最初の主任で、新しい仕事を切り拓いていくのに苦労された。また来月早々タイにできる日本文化会館の館長として赴任されて大東亜共栄圏の文化工作の中心として活躍される。まず過去において非常に苦心されたエピソードを2、3聞かせていただきたい。柳沢: なるほど苦心といえばないわけではなかったが、要するに好きでやった。それが次第に好きを越えて、義務に嵩じてきただろうと思う。そうするうちに誰もが南方に対する文化事業について言い出す時代になってきた。数日前、大蔵大臣を訪問して日タイ間の文化事業に援助を要請したとき、南方への文化進出が流行のようになって、この種の文化事業に携わったことのない人たちが方々でやっていることに不安を覚える。自分はひとりの専門家として、あるモデルを作りあげたいと言ったところ、頷きながら聞いていた。市河さんあたりに後援をお願いしたいと思っている。市河: いまお話を伺っていて外務省の仕事の先駆性というものをしみじみ感じる。いまでは官制上外務省を離れて情報局に移り、大東亜共栄圏に関することは大東亜省に移ったが、最初に苦心をした先駆者としての外務省の努力は比較的国民に知られていない。柳沢: もっともだが少し留保を付けたい。というのは、この文化事業に関しては省内でも常に理解が得られるとは限らず、外務省に十全な先駆性があるとはいえなかったことだ。7、8年ほど前、タイ国政府筋から国立音楽学校の教師と生徒を日本に派遣しタイの音楽と舞踊を紹介したい、と申し出があった。良い仕事だと思って具体化しようとすると、それは興行にあたり、そういうものに外務省として責任を持つことはできない、もしどうしてもやりたいというのなら柳沢の責任においてやることとし、欠損が出ても外務省は一切補助できないという話になった。結局30数人の一団がやってきて日本から朝鮮満洲まで回って帰国したが、数千円の欠損が出て、ある特殊な人に懇願して全額負担してもらった。ところが今度タイに行ってみると、当時の副団長だった女性が外務大臣の令夫人となっており、音楽舞踊の生徒たちはプリマドンナとなって音楽学校で教鞭をとっている。当時蒔いた種が花咲いたことを知った。市河: この仕事は異なった民族、異なった宗教をもつ人たちに対する仕事で、外国語の知識も必要だし、外国人との交際に対しても苦心した人でないと、つまらないところで誤解を招いて失敗することがある。さいきんある雑誌に載った南方文化工作に関する座談会を読んだところ、フィリピンで大勢の人を集めて日本人が大東亜共栄圏の理想から八紘一宇の精神まで説き明かして、堂々文化工作をやったつもりだった。ところがその時、日本人に適役がおらずフィリピン人通訳を使った。その通訳は日本語がかなりできたが演説が抽象的な内容だったためか、「日本人は泥棒民族ではない。その証拠に三井三菱といった金持ちもいる。安心してくれ」とやったものだから大喝采となった。今回長い経験をもつ柳沢さんが、大東亜共栄圏の中心となるべきタイに出張されることは非常に心強いことと思う。
(つづく)
■新しき文化外交■ 市河:外務省で文化事業をやっている当時、日本とドイツ、日本とイタリア、日本とハンガリー、日本とブラジルとの文化協定ができた。国と国との外交関係がついに文化外交ということになってきた。そのとき柳沢さんが中心となって、大東亜共栄圏の文化工作の中心であるタイ国とのあいだに新たに日タイ文化協定ができた。これは、いままでの文化協定よりも一歩前進したかたちのように見えるが、そのあたりの話を伺いたい。柳沢:1942年12月21日に批准にいたった日タイ文化協定で特記しなければならないことは、大東亜共栄圏内において初めての文化協定であること、またそれ以前の文化協定とは比べものにならないほど詳細な規定をもっていることである。しかし、そのもっとも根本的な相違は両国の文化を互いに尊重しつつ興隆を図ると同時に、新しい東亜の文化を勃興させ創造する点にある。この点が本協定成立の真の目的といってよいと思う。音楽の問題についていえば、従来、日本の音楽はタイの認識するところになっていなかったし、日本人がタイの音楽に接する機会もほとんどなかった。それだけに本協定の実施によって、両国でそれぞれの音楽を聴ける機会がはなはだ増えるものと思う。しかし両国の音楽関係者は、それだけで役割りが終わると思わずに、さらに新しいアジアの音楽を作り上げる抱負と決心とをもたれることを切望する。市河:いまの柳沢さんの話によると、文化協定も新しいアジアの文化を創造するというところまできているわけで、非常に規模が雄大で重大な条約だと理解できる。■伝統的な音楽の型■ 柳沢:タイは仏教文化で、建築も絵画も文学も音楽も仏教から出ている。これはタイばかりでなくカンボジアから仏印全体まで類似しており、さらにジャワに渡ってバリ島などがやはりまた仏教国ということになっている。したがって仏教と音楽について、いろいろな観点から研究してくる必要があるのではないか。もし日本と南方の仏教音楽が根本において類似しているのであれば、日本の作曲家の新しい宗教音楽のようなものを南方仏教圏にもっていけるということになるであろうから、非常におもしろい運動になるだろうと思う。市河:どうも日本の古い音楽(雅楽はわからないが)は、たとえば遊興の情緒を多分にたたえたものや、一種の市井音楽としてごく狭い範囲の特定階級の男女関係のみを歌ったものが多い。もっと健康で明るく清らかな、あるいは理想主義的な面を含んだ音楽が足りなかったように思う。その伝統は比較的さいきんの音楽まで流れている。ベートーヴェン、バッハ、パレストリーナなどの音楽はキリスト教を抜きにしては考えられない。ところが日本の新しい音楽には、そうした思想的な背景がない。小手先のきれいごとという音楽である。新しい作曲家も現代の影響を受けて、近代の感覚を狙ったものが多い憾みがあったと思う。現在の文化工作に音楽は必要である。日本語の普及がなかなか困難であるときに、言葉を抜きにして相手国の人間を打っていくのには音楽が有力だと思う。
(つづく)
■音楽文化工作の現場から■ 市河:その仕事をやって一番感じることは、印刷された日本の楽譜が足りない。昔は夢二の絵が表紙についた楽譜が出版されていたが、現在はそういうものが市場から消えてしまった。実際、楽譜の足りないのが非常に困る。われわれが軽音楽のものを配って向こうのレストランやホテルで演奏させると、これはいいというので、一流の音楽家が日本の純粋音楽の音楽を求めてくる。その点では日本現代作曲家聯盟の楽譜は役立ったが、それがだんだんと進むと、オーケストラの楽譜が欲しいといってくるが、これが一つか二つしかない。このようにだいじな音楽であるから、作曲家が一定期間安心して作曲に専念できるようにしなければならない。いまこれだけ日本が広がったのに、日本の音楽外交の素材を作るのに間に合わないという事態が展開している。外国にいて世界のラジオを聞いていると、日本はニュースに関する限りうまく行って、宣伝戦では世界に負けていない。それだけにもっと音楽を利用しないかということなのだ。日本でも大日本吹奏楽聯盟ができ、工場に厚生音楽の団体ができてずいぶん普及してきたが、そういう人たちが歌うべき歌や演奏すべき音楽を作る人が、もっとさかんに出てこないと困ると思う。柳沢:南方に対する日本の音楽工作という点からいって、南方は従来欧米人の支配下にあったので、それを拭い去るといっても一息には行かない。欧米人が日本の音楽をどのように見ていたかについても考える必要がある。その問題は南方に日本の音楽を進めるという意味ばかりでなく、国内の音楽の進歩発達にとっても大事な問題ではないかと思う。たとえばジル=マルシェックスが何度か来日して一番感心した音楽は、なんと新内だった。たしかに新内は、長唄、清元、哥沢と似ているが、もっと胸に迫るものがある。また、シャリアピンが来日したときは宮内省に頼んで雅楽の試演をしてもらったところ、非常に驚嘆していた。したがって雅楽の新しい開拓も一つの問題にしていいのではないか。市河:けっきょく日本の音楽家が世界の人を感心させる音楽を作るためには、思想的に一つの世界観を持っていなければならないと思う。日本音楽の将来に課せられた問題や役割りは非常にたくさんあると思うが、一つは日本の新しい音楽を作るために、過去の伝統的なものをよほど深く見据えていかなくてはならない。同時に新しい東洋の音楽を作るという意味において、日本が先覚者としてあるいは指導者として、滅び去ろうとする東洋の各民族の古い音楽舞踊をできるだけ早く蒐集保存し、さらにそれらを再生して、次の時代の音楽を日本の世話によって作ってやらなければならないと思う。したがって、これからは日本の音楽家はみな大東亜共栄圏の各地に出張して、残っている楽器を集めたり、メロディを蒐集したり、舞踊を研究する必要だと思う。■日本を中心として全世界へ■ 市河:それは音楽におけるネオ・オリエンタリズム、新しい東洋のルネサンスになるのではないか。古代にはペルシャやエジプト、アラビアなどを中心に栄えていたものが、ギリシャ、西ヨーロッパ、アメリカと覇権が移った。それを回復して東洋のあるべき地位に戻すと言うのが今回の戦争である。さらにいえば、西洋が他国を搾取してひどく贅沢していることに一撃を加え、彼らに何が正しい生活であるかを教えること。つまり世界の正しい文明のために戦っているのだと思う。聖戦の大詔の中に「万邦共栄」という言葉があるが、音楽は単に文化工作の道具とか外交に役立つというだけでなく、世界は音楽的に組織されなければならないと思う。柳沢:要するに日本の音楽文化工作の目標は全人類であるはずであって、日本の理想を全世界に知らしめるべきだと思う。ジャズにしてもアメリカ的なものというが、アメリカ人が作り出したものではなく、アメリカとは相容れない黒人がもった遺産文化である。だからアメリカの文化というものは、ある程度黒人に征服されたと見てもいいのではないか。現今のアメリカのジャズが持っている頽廃的な空気は、われわれの今日もっている新しい性格と相容れないが、ジャズ自体そうとう多種多様でアメリカ的ないジャズもありうると思う。今のところジャズに代わるものとしては、《会津磐梯山》《小原良節》を軽音楽に直したものということになっているが、遺憾ながらジャズよりも今の日本の軽音楽のほうが人類性に乏しい。市河:世界のあらゆる文化の良い面を採り入れていくことがなければ、大東亜共栄圏を作るのは無理だ。柳沢:たとえばジャズの音楽性を利用して、日本語の歌詞を付け、その内容もニホン的なものにすることは決して不可能ではない。これは一例だが、あらゆる種類の音楽に対して同じような態度でいけると思う。市河:東洋の復興だから東洋の材料に限るというのは考え方が狭く、世界全体のいいものを自分のものにして使って東洋の復興に役立てるという精神が必要だと思う。そのとき日本人的な個性を失わず、同時に普遍的なものを得る。これが調和の精神ではないか。柳沢:天岩戸を開くとき、音楽と舞踊と笑いをもって成功したわけで、その意味でも日本人の音楽舞踊による東洋の黎明、世界の黎明というものは必然的であると感じる。
(完)
【2003年11月6日+11月10日+11月13日】

演奏著作権の課題里中彦志(『音楽之友』 第3巻第2号 1943年02月 p.46-51
内容:ちかごろ著作権という言葉がすなおに肯定されるまでに社会性をもってきたのは嬉しいことである。作家の全部が著作権の枝葉末節まで知る必要はあるまいが、ある程度の常識として知っているに越したことはあるまい。しかし案外知らないことを平気で口にし、これを安直に処理して意に介さないのは社会の一般であるが、いま一歩前進してわが国の文化建設に挺身していけるようになりたいものである。ある会合の席上聞いた話であるが、ドイツでは、文化的宣伝的に活の優れた作品については、政府自身がこれを積極的に多方面に利用させ、その著作権使用料は政府が作家に補償するという。求める者と与える者との関係が、緊密に表裏一体の相互信頼関係を形成していかなければならないとつくづく考えさせられた。わが国でも、さいきん政府ならびに各種公共団体が良い作品を広く社会に普及させようと懸賞募集なども枚挙に暇ないほどである。しかし、これは新人の登竜門の一段階にはなるかもしれぬが、それらの作品の全部を目して、わが国のあらゆる部門を動員して結集された代表的作品であるとは断言できないであろう。今日においては、大東亜の指導国としての立場から見ても、従来の懸賞募集形態はその方策について再検討を加える必要がありはしないか。著作権の問題も、作家に対してただむやみに好い作品を書けと強要しただけでは困る。芸術家といえども霞を食って生きられないことは真実である。ことに音楽の部門においては、社会は音楽家を見て道楽息子のごとくに扱ってきた傾向がある。わが国における作家(ことに音楽)は、あまりにも恵まれていないことは事実である。その原因はどこにあるのだろうか? わが国の社会があまりにも現象的な面にのみとらわれているためではないかと考える。音楽の演奏にしても、ひと頃映画館等に圧倒的に進出したアトラクションの場合など、その出演料は大部分の大衆の人気如何によって左右されていたようである。文化問題を取り上げる企業部門においては、企業のプラス面だけを追及するだけではいけない。人間の本能が真・善・美を希求するものであるからには、人間教育にこれがなんらかの形において充足されなくてはいけない。芸術は五感を通じて直接人間の感情に訴えるところに特徴があり、そこに芸術を探求するものの苦心もある。こうした芸術家に対して国家が無関心である筈がない。わが国では、著作権という法律を制定して、これらの芸術家を保護している。著作権の対象としての作品は、学術的であるか芸術的なものであり、かつそれが作家自身の独創性によって生成されたものでなければいけない。改作の場合において、新作と認められる程度の独創性を条件とする。演奏にしても、ただ喉が良いだけでは問題にならない。演奏者がどうして著作権者として保護されるべき理由を考えると、演奏者が楽譜を通じてその譜面の奥に盛り込まれている作家の真の意図を把握し、音楽の真理を追究して行き、自己の演奏を通じて作家の意志を再現するところに、その芸術性が独自のものとして云々されるものだと考えている。演奏著作権は文字どおり演奏家の演奏事態について発生する権利である。このことは著作権法第1条第1項に、演奏・歌唱とあることで疑いを挟む余地はないのだが、わが国の実情からすると演奏家が著作権の保護を受けている例ははなはだ少なく、強いて言えば蓄音機「レコード」に吹込みをしたときにのみ支払われる印税が唯一のものといえるほど情けない状態にある。
(つづく)
演奏著作権を確立せよとの声を聞いて久しい。法律の規定で保護の対象として明文化されているものが、どうして保護されないのか? これは同じ著作権法の第30条第8号の規定で、これに制限を加えているからである。
    第三十条  既ニ発行シタル著作物ヲ左ノ方法ニ依リ複製スルハ偽作ト看做サス
      第八  音ヲ機械的ニ複製スルノ用ニ供スル機器ニ著作物ノ適法ニ写調セラレタル
           モノヲ興行又ハ放送ノ用ニ供スルコト
この条文中、「音ヲ機械的ニ複製スルノ用ニ供スル機器」とは蓄音機「レコード」の類を指し、適法に吹込みをされた蓄音機「レコード」を興行や放送に使用することは偽作とみなさない、ということである。「適法」とは著作権者すなわち作詞者・作曲者・編曲者の承諾を得て吹込まれたものといことである。元来著作権者は、自己の作品が吹込まれた「レコード」を放送や興行の用に供する権利がある(著作権法第22条ノ五第1項および第22条ノ六)のだが、ただ適法に吹込まれたものは偽作とみなさない、というのが前掲の規定の趣旨であり、1934(昭和9)年の著作権法改正の折に新設された。こうした矛盾をきわめた規定が制定された理由を公表する自由をもたないのだが、政府当局は、著作物の文化財たる点を鑑み、もっぱら公益のために著作物を利用する場合の対策云々というのが入れられた。/では今日、この規定はどのような影響を及ぼしているだろうか? 第一にラジオ放送である。実情では著作権者(特に音楽関係)にとってラジオ放送は最大の顧客である。そのなかで「レコード」の占める分野は相当なもので、いくら使われても一文にもならないし、さいきんは国民歌謡など何の前触れもなく放送する場合がある。「レコード」は演奏者の最高最良のコンディションの下に演奏されたものが結集されて吹込まれているはずである。その「レコード」を乱用されると、ただでさえ機会に恵まれず勉強が足りないとされる演奏家の質的向上に重大な影響を及ぼすであろう。第二は興行である。もっとも多いのは「レコード」伴奏による舞踊会と「レコード・コンサート」がある。当然の帰結として、演奏家は自身がステージに立つか、または教育者として現実に得る収入以外には著作権法があるがために何らの恩恵もないのである。「レコード」を個人的に楽しむのは良いとして、これを公衆に対して聴かせる点に注目して考えてみよう。著作権者が自己の作品の公表権をもっていることは明らかで、いくら買った「レコード」であっても買ったのは「レコード」という物体であり、その中に吹込まれている音楽の作詞作曲編曲演奏の権利まで買いとったものではないのである。里中は、著作権第三十条八号の規定を同条七号に規定する程度にとどめる方が妥当ではないかと思われる、と指摘している。
    第七 脚本又ハ楽譜ヲ収益ヲ目的トセズ且出演者ガ報酬ヲ受ケザル興行ノ用ニ供シ又ハ其ノ興行ヲ
        放送スルコト

この規定は、現在ひじょうに有効に働いている公共的な演奏会等の場合、出演者が報酬を受けないときは、その著作権料もいらないわけで、芸術家の職域奉公のひとつである。わが国の音楽作品の資料者側は、君のものを使ってやるという調子で作家に恩を着せるような向きもある。これは本末転倒で、あなたのものを使わせてもらいましたというところまで進展しなければならない。一方、作家の方でも、使ってもらう価値のある作品を提供しなければならないことは言を待たない。
(完)
【2003年9月13日+9月16日】
文明の滋養素と毒素<随想>田邊 尚雄(『音楽之友』 第3巻第2号 1943年02月 p.52-55)
内容:文部省の国民精神文化研究所に入ってわずか1年あまりだが、日本文化の真性について教えられることがとても多い。私たちが子どものうちから教育されてきた学問の大部分が、西洋的な観方・考え方であったために、それですべてが了解・解釈されたような気がして、得々となっていたことにようやく目が覚めかけたように感じられ、日本文化に対して一条の光が見出され、灯台に向かって正しい進路を発見することができたように思われるのである。/従来私は日本文化の歴史に対して、上代において日本は未開であり音楽のごときも原始的であった、それが欽明天皇時代または推古天皇時代からアジア大陸の進歩した文化が入ってきてわが国が摂取したので、初めて世界的な文化国となり奈良町や平安朝の文化を生み出すにいたったと教えられてきた。日本は外国文化の摂取によって文明国になったとする解釈で、これはあたかも中央アジアや他の民族の文化とわが国を同一視するものである。中央アジアには古代において未開な民族が多く出たが、それが漢代から中世にかけてインドやイランの文化を摂取し、一時は高い文化を示していたが、やがて再び低文化民族と化してしまった。ところが日本は隆々として絶えずその文化を続け、発達してやまない。そこに根本からの差異があることが考えられなかったのであった。考古学上のさいきんの研究は、すでに石器時代における遺品からもわかるように、太古において日本民族の文化のきわめて高かったことを示している。いたるところから神の権化としての太陽を慕って東方に向かった各種の民族が、この日本群島に集まってここに大なる協和の精神、すなわち「大和」の心をもって協和の生活を始めたのは数万年前であった。この大和の精神が生み出した文化は、常に世界の第一位を占めていたのである。従来、神武天皇のときに作られた久米歌は、その後再度の改作を経て今日では古代の面影などは失われてしまっているというように解釈されてきた。しかしと故東儀李治も指摘したように、揚拍子の部分などは古代の面影を保っているということは田邊も考えている。これを同時代のギリシャの歌謡に比較すると、比較にならないほどわが国の方が芸術的に高いものであることを認める。東遊の中の求子歌は平安期中期に加茂の臨時祭に際して作られたものだが、駿河唄とその前の一歌や二歌は古くから伝わったもので、恐らく奈良朝以前の東歌に起こるものであろう。これを同時代のグレゴリウス聖歌やカルル大帝の歌などに比較しても著しく高雅であることが判る。要するに古代において日本民族はきわめて高い文化をもっていたと考えられる。このことが、わが国を第一に中央アジアとアジア民族との根本的な差異である。/およそ文明には常に滋養素と毒素とがあることは、世界いかなる国においても見られるところである。滋養素を摂取することは必要であるが、毒素を摂取することは恐るべきことである。したがって外部より栄養物を摂取するときは極力毒素を排除するようにしなければならない。これは食物のみならず、あらゆる文明においてみられるところである。しかるに日本は古代において世界最高の文明国であった。したがって中世の始めにアジア大陸から新文化が入ってきても、日本人はその滋養素と毒素を見極めることができた。当時の日本人は絶対に外国文化の無条件模倣ではなかった。もしそうであったならば外国文化の毒素のために滅びるべきであった。それが逆に奈良町や平安朝の文化は当時の唐やインドに劣るものではなく、むしろその上位にあったことは、絵画・彫刻・建築を見ても知られる。田邊は平安朝の音楽も、その芸術性の高さで遥かに唐に優ると信じている。その例として、笙の和音が唐のものではなく、日本で創作され、それがさいきんの西洋の和声と類似する点を挙げている。/以上述べたことは今日にも当てはまる。日本は江戸時代に低級な文化をもち、明治以降西洋の文化を摂取して初めて高い文化を持つようになったという考え方は浅薄な西洋的考え方で、誤りである。日本は芸術の幽玄性、神性に対して世界最高の文化国民であったところへ西洋から新文化が入ってきたので、その新文化の滋養素と毒素を見極めた。かくしてバッハやベートーヴェンの神性を了解することができた。この能力こそ2600年、いや数万年前から絶えず日本人がもちつづけてきた最高文化国民の誇りである。/西洋文明の毒素のため西洋自身が病んでいるこのとき、文明の滋養素と毒素をつねに判別し、さらに長い間に堆積された自らの文化の毒素をつねに排除し、世界のあらゆる部分より新文化の滋養素のみを摂取してかなくてはならない。このことを立派になしとげるには、外国文化の摂取によって文化が高等になるという西洋人的考え方ではなく、最高文化国民のみに課せられた責任であることを自覚しなくてはならない。この自覚によって初めて大東亜文化のみならず、世界新文化の建設も可能であるし、八紘為宇の大理想も実現されるものと信じる。
【2003年9月21日】
塩入亀輔とジャーナリズム黒崎義英(『音楽之友』 第3巻第2号 1943年02月 p.56-61)
内容:この文章を書くに当たって一応断っておくが、黒崎は故・塩入の門下生の一人であり塩入が主宰した雑誌『音楽世界』を編集の一員として継承した。常識的な封建論からすれば師匠先輩を批判することは不徳と見られるかもしれないが、近日、故・塩入の『音楽の世界』が日下部書店から上梓されるので、いわばそれについての走り書きである。/塩入亀輔は生前「自分は批評家ではない。ジャーナリストである」と自負しており、後年「僕は音楽批評家であるよりは文明批評かでありたい」と述懐したが、これは彼の本質を決定づける要因であるに違いない。塩入は、1925(大正14)年に読売に入り新聞人としてスタートし、1930(昭和5)年、雑誌人として『音楽世界』に拠ったが、塩入は何にでも興味をもった。読売では社会部記者として音楽美術を担当した。新聞記者にとって人を訪問して談話を筆記することは生易しいものではないが、その当時の体験がのちの雑誌編集の性格を築き上げたといえよう。『音楽世界』以前の音楽雑誌は同人雑誌の域を出ず資本的な依存関係を持たないと経営困難に陥り、音楽雑誌の興亡が常ならなかったことは事実である。堀内敬三は「音楽雑誌が単に雑然と寄稿を配列するだけの旧式編集法をすてて生きたトピックを捕へ、生きたグラフを入れ、全体を統一する方法を執ったのは塩入君が始めての事であった」と指摘した。社会現象としての一切の音楽現象は彼の対象であり、雑誌をひとつの舞台とすれば執筆者は俳優であり、音楽家と読者は観客である。彼は演出家兼俳優として常に新しいプラントアイディアを考え、ときには自らトピックを作りかねない。ではジャーナリスト、言い換えればジャーナリズムとはいかなるものか。/ジャーナルという言葉は新聞雑誌の総称だが、記事行為は選択と批判すなわち一定の世界観のもとになされなければならない。したがってジャーナリズムは、ひとつの思想行為であり、それの代行機関として時代の世論を代表するものであると同時に世論の動向を指導するものでなければならない。塩入の属した社会的環境は階級対立の思想的混乱とともに俗に言うエロ・グロ・ナンセンスの時代を経て満洲事変から日中戦争にいたる世界的不安の時代であった。日本のジャーナリズムがリベラリズムの影響下にあったことは当然であり、彼もまたそうした傾向をたどったとしても不思議ではない。雑誌『音楽世界』は時流に敏感で、ラジオの普及と同時にレコード企業が発展して音楽内容が複雑化し、トーキーの上映に続いて音楽映画がジャズを氾濫させ、新興音楽が起こり外来音楽家が次々にやってきたという音楽の流行現象はことごとく雑誌の中に盛り込まれた。/塩入はモダンでシックで渋かった。クリスチャンであると同時に仏教徒でもあり、日中戦争に応召して即日帰還となり、故人となってからも葬式を教会と仏式によって2回やった。生前は音楽・スポーツ・ダンス・写真・ゴルフと趣味人で、ゴルフを除いたものは素人の域を脱していた。対外的にその中心の基礎をなすものは武器としての音楽であり、対内的な音楽活動においては新興芸術の知識性を手段として使用した。/ではジャーナリスト塩入亀輔に一貫した思想性はなかったのか。塩入は「国民音楽確立の意義と其の方法」のなかで音楽雑誌は「音楽及び楽界に対する自発的批判機関であり、更にそれを成長せしむべき指導的地位にある」と述べたが、それはある意味で実現されたとみて差し支えない。自由主義経済機構にあってはジャーナリズムの営利性は認められてもジャーナリストの思想性は許されない。したがって塩入の指導的理念も時代思潮の大きな流れのもとに中間的なものとなり浮動的な性質を帯びたとしても仕方がない。/塩入の性情を音楽の面に移してみると、彼ははじめ浅草オペラを好み、生来義太夫、長唄に親しんだ。趣味としては古典主義者であり、愛好者としては浪漫主義者であり、性格的には日本主義者であると同時に日常的には現実主義者でもある。彼の批評態度は常にジャーナリスティックであり、多様性を示していた。その批評は絶えず先駆的で進歩的ではあるが真実性に乏しく、批評範囲は多面的であるが連関性が希薄であるとされるのはなぜか。これは一面否定しがたいものを含んでいるが、反面において若干の理解不足もともなっている。なぜなら塩入にとって音楽上の主義や傾向はひとつの流行現象でしかない。社交的で孤立的な当時の音楽と楽界の位置を社会的なものに連関させ、音楽の独自性と社会性を強調しながら音楽と他の新興芸術に対する近似性を発見、交流させるところに彼の思想的力点があったのである。音楽批評における多面的な独自性と、ラジオ・映画・舞踊などに示した局外批評の特異性はある程度まで彼の理念を実現したものといえよう。同時に彼は、種々の先駆的実証のゆえに少なからぬ謬見を犯したことも争えない。彼は音楽の古典及びロマン派の系列に対しては単なる歴史主義者であり、近代の音楽傾向を印象主義と表現主義に固定した観念論者である。また映画批評においても、映画の空間的要素を忘れて時間的芸術であると断定したのは明らかに間違いであり、さらに「ジャズは適当な今日の宗教音楽」でさえという突飛なナンセンスもある。/塩入は優れた素質と感性に恵まれた文化人であった。近時、ジャーナリズムおよびジャーナリストの質的性格の転換がなされていることは断るまでもないだろう。ジャーナリズムは、いつでも時代に対する適応性と弾力性をもつ。そして一般ジャーナリズムと専門ジャーナリズムは次第に分化していき、雑誌編集はジャーナリスト・ブレーンの方式に移行する。いまは国家目的への建設と音楽新文化創造の理念のほか何があろうか。もって『音楽の世界』におくる措辞とする。
【2003年9月26日】
楽壇戦響堀内敬三(『音楽之友』 第3巻第2号 1943年02月 p.62-65)
内容:■転向途上の音楽■音楽と人間生活とはあらゆる方面で密接に接触している。したがって音楽にはいろいろな思想や生活から生まれたものが併存している。過去の日本には自由主義・個人主義・利己主義・享楽主義・逃避主義・虚無主義など正しくない思想が横行し、われわれの生活をかなりの程度支配してきた。音楽においてもその不健全思想から産み出され、不健全生活に適合するものが珍重されてきた。しかし、いうまでもなく今はそうした思想、そうした種類の音楽も葬らなければならない。今の日本の音楽は士気を奮わせ生活を増強する光明であり栄養でなければならない。われわれは戦時日本人としての正しい音楽を研究し創造すべき責任を負っている。そしてまったく一途に日本的な思想と、勝ち抜くための生活とに合致する音楽だけを今日の音楽として国民に与えなければならない。この戦争は米英の戦力、国力、文化、思想なりを破壊するとともに、新しい大東亜を建設する戦いである。音楽においても同様の破壊戦と建設戦は徹底的に行なわなければならない。音楽のうえでは、いまなお卑俗で軽薄な米英音楽に感傷を注いだり、享楽的・逃避的な音楽に好奇の耳を傾けたりする傾向がなくなったとはいえない。文学・美術に比べて、音楽は未だ正しい方向に転じきってはいないようだ。■国民皆唱運動への参加■現在、およそ音楽に関係をもつ人々は何らかの方法で音楽を国家のために活かすことを実践しなければならないと思う。折から大政翼賛会によって「国民皆唱運動」が開始された。この運動は銃後国民の士気を作興し闘志を高めるとともに、生活に潤いと慰めを与え、唱和することによって和衷共同の精神を発揮させようとするもので、もっとも今日の情勢に適切な運動なのである。多くの場所で唱和が行なわれることになれば、一箇所に一人ずつは指導者が必要となる。この責任は音楽を知るもののうえにかかってくることになり、光栄な任務である。音楽者は言うにおよばず、学生、官吏、会社員、教員、学者など音楽に関する知識と能力をそなえていれば国民皆唱運動の指導者になれる。譜面を手にして人々の前に立てばできるご奉公である。経験を積むまでは失敗もあろうが、人々の善意と敬意の中に包まれて自己の特殊技能を国に捧げるのだから我慢もできよう。戦時下に見栄も外聞もいらない。われわれの蓄積してきた音楽上の才能を国に捧げよう。
(つづく)
■音楽文化向上の土台■国民皆唱運動は、国民の全部に健全で平易な歌曲を斉唱させる運動である。選ばれる歌曲は大衆的なもの(愛国歌やラジオの国民合唱など)であるため「そんなものばかり歌っていたら国民の音楽文化は低下してしまう」と真面目に考える人々も多かろう。しかし、そうではない。実際に大衆は満足に歌が歌えない。国民の音楽文化を高めるためには、まず全国民が《君が代》や《愛国行進曲》《海行かば》を正しく歌いこなすことが先決だ。これができるようになったら、高級な音楽に対する欲求が自然と起こってくる。たとえば江戸時代の長唄や常磐津、清元などはたいへん複雑な声楽であるが、江戸の町人たちは、あれを平気で唄いこなした。日本人は一度その道に興味をもつと、ずんずん程度を進めていく。また日露戦争のとき不慮士官が「日本の兵卒は下士官の、下士官は将校の知るべきことを知っている。だから日本軍は強い」と言ったそうだ。西洋人の合唱団はふつうの唱歌の内部合唱で満足しているが、日本人の合唱団はちょっと歌えるようになると《第九》を歌いたがる。国民全体が歌うようになっていけば、音楽文化は必ず急速に高くなっていく。■高度な音楽文化を目指して■いまの日本の音楽文化は、ひじょうな混沌の中にある。邦楽を今日の国情にあわせて活きた国民音楽にすることは、並大抵の事業ではない。洋楽の長所は充分吸っているとはいえ、全般的にみれば、未だその初歩的技法を学んだばかりである。いまの日本の楽壇人は、本舞台に足をかけないうちから大芝居を見せなければならない立場に置かれている。世間は楽壇に対して早急に何らかの成果を示すことを期待している。こういうときは、人間は間に合わせの仕事をしてしまいたくなるが、これは恐ろしいことである。精神文化は間に合わせでは通用しない。現に、実用向・大衆向音楽の需要があるとはいえ、過去の低級愚劣な通俗音楽と同列に考えることはできない。また高級な形式による音楽も要求されているが、安易な模倣的作品であってはならぬはずである。いまの日本には作曲にも演奏にも国民精神・時代精神・戦闘精神を打ち込んだ高い文化性のあるものだけが入用なのである。
(つづく)
■「五十年史」を書き終えて■『音楽五十年史』が上梓された。堀内は現今の日本のもつ多用な音楽文化がどのようにして形づくられたかを説き明かすために記述を幕末まで遡らせて、実質80年にわたる歴史を書くことになり、今までほとんど埒外に置かれていた琵琶や浪花節、巷間音楽にも手を広げ、音楽関係の産業や企業と音楽文化との関係を調べようとしたので時間がかかってしまった。同じ時代相のなかに、一国の一民族がもつ音楽文化は、いくら複雑多岐であろうともそのすべての姿を綜合してみなければならない。『音楽五十年史』は、その意味でいくらかの役に立つことと信じる。今の人は幕末から明治終期までの世相と音楽について、ほとんど知らないのである。それを簡単に調べることも難しい。そのためやむを得ず、その時期についてくだくだしい説明をすることとなった。その結果、大正以後の膨大な記録はその要点だけを記し、ほかは他日に譲らざるを得なかった。大正年代の南葵音楽図書館について書き漏らしたり、大正から昭和にわたるハーモニカ・マンドリンの極盛期を十分に書けなかったり、日本音楽文化協会創立時代における楽壇の混沌から統一への動態を写さなかったりしたのは心残りである。本号の広告欄に正誤表を付したが、あとで知ったこととして(1)中山晋平が《カチューシャ》を作曲した年齢は28歳ではなくて25歳(2)日露戦争で海軍楽長三氏のいただいた金鵄勲章のうち赤崎楽長のだけは功七級(准士官であったから)の二つを加えておく。■[ほか]■本欄を「楽友近事」と名付けてきたが、内容が当初の見込みと変わってきたので「楽壇戦響」と改めた。各雑誌の用紙割当量が4割削減されたので本誌も減ページと発行部数減を敢行して刷新を加えなければならない時である。なお本誌の発行部数は今後減少するも増加は期待できないから、読者諸氏は適宜回覧等の方法を講じていただきたい。ページ数が減るため広告収入も減るので、本誌の寄贈は行なわない。
(完)
【2003年9月29日+10月2日+10月8日】
崔承喜の舞踊江口博(『音楽之友』 第3巻第2号 1943年02月 p.83-85)
内容:かつて「半島の舞姫」と謳われた崔承喜だが、それがいつの間にか「東洋の舞姫」に変わり、さらに「世界の舞姫」という言葉まで使われている。すくなくとも人気の点では、まさに世界有数の舞踊家であるといって憚らない。彼女の人気は「崔承喜の舞踊」を解く重要な鍵である。/第一に彼女が半島出身であるの舞踊家だということである。われわれが日常接するのとは異なる、半島の舞踊から工夫した崔承喜舞踊を創案し、それを舞台で踊る。その特殊性が見る眼に愉しく映り、われわれの好奇心をそそるのである。これが広い観客層を動員しうる理由であるが、さらにその観客層をみると多くの半島人を見出すであろう。この点がまた他の舞踊家には見られない現象であり、余人の比肩することを許さない強みである。それにしても石井漠から舞踊を教わった彼女が決然と洋舞から訣別し、朝鮮舞踊に工夫した崔承喜舞踊を創案したことは一世の卓見であった。同時にこのことは、広い意味で舞踊芸術に貢献するところ大である。たとえていえば、一民族舞踊に過ぎなかったスペイン舞踊を舞台的に大成功させたアルヘンチイナの功績にも比べられよう。第二に華麗な容姿、豪華絢爛の肉体が挙げられる。舞踊においては肉体が重要な要素であり、しかもできるだけ美しくあることが必須の条件であるが、崔承喜は東洋人には稀に見る肢体をもち、観客の心を捉えている。第三に踊りの内容である。彼女の舞踊は、ほとんどいつも人間性のもっとも素朴に流露する感情の躍動や沈潜、それにともなう複雑な情緒を舞踊で表現しようとする。これは彼女がいかに劇的な題材を選んだ場合にも例外なく守られる鉄則で、観客の胸に直接通じやすいのである。なぜならば、頭で理解する必要がなく、舞台上の喜怒哀楽がそのまま観客の心に映じ、感情を刺激するからである。さらに崔承喜は、これらの感情表現にきわめて大胆な表情をもってする。要するに崔承喜の舞踊は、転生の華麗な容姿を誇示して高度の愉楽性をもつということができる。そこに比類のない大衆性があり、帝劇で17日間昼夜21公演をなしえた理由がある。/崔承喜舞踊のもつ大衆性は必ずしも低俗なものを意味しない。彼女の場合の大衆性は、主としてその普遍にある。そこに認められる彼女の非凡さは、必ずしも芸術性の高さを誇るものではない。この言い方は崔承喜の舞踊が芸術的でないという意味で誤解される怖れもあるが、彼女の芸術には知性に訴えるところがきわめて乏しい。彼女の舞踊から装飾的な属性を一切排してみると、案外もっとも素朴な舞踊であるといえるだろう。ここに、いま崔承喜が歩んでいる道と、一般の若い舞踊芸術家が精進しつつある道との間にみとめられる大きな開きがある。したがって、いかに崔承喜の舞踊が良いからといって、すぐに他の舞踊家がこれを模倣したり追随したりしないよう警告したい。しかし、崔承喜の舞踊がもつ優れた愉楽性は、それ自身立派な芸術であるともいえよう。しかもその性質がもっとも発揮されているものは、朝鮮舞踊を基礎として創案したものであって、それらの諸作は豊かな魅惑と舞踊の愉しさとがあふれ、そのうえに夥しい公演回数によって洗練を加え、旨味を増したことは注目されてよい。/さいきんの崔承喜は、東洋舞踊を主唱して、それを続々と舞台で実践している。この理念は、未だ崔承喜舞踊ほどの立派な成果を挙げていないというのが真相である。その大きな原因は、単に題材を朝鮮から広く東洋全般に広げた程度にとどまっているからである。それにしても崔承喜が率先して東洋舞踊を唱え、これを敢然と実践に移した慧眼はさすがである。彼女のことであるから、相当の成果を挙げる日も遠くはないかもしれない。ただ願わくは、西洋人が見た東洋観のようなものでなく、確固たる東洋人の自覚の下に、明確な理念によって把握された東洋の精神を舞踊によって表現してほしい。それが大成されてこそ、崔承喜の舞踊はさらに幾倍かの輝きを増すであろう。
【2003年10月11日】
時局投影唐橋勝 編(『音楽之友』 第3巻第2号 1943年02月 p.88-89)
内容:★開戦一周年を記念する大東亜戦争美術展(朝日新聞社主催)は、1942年12月3日から27日まで東京上野の府美術館で開催されたが、これに先立って29点の陸海軍作戦記録絵画が11月29日宮中千種ノ間と豊明殿で天覧ならびに台覧の栄に浴した。展示された絵画の中には藤田嗣治《シンガポール最後の日》、宮本三郎《山下、パーシパル両司令官会見図》、田中孝之介《ビルマ、ラングーン爆撃》、藤田嗣治《十二月八日の真珠湾》、中村研一《マレー沖海戦》、佐藤敬《クラークフィールド攻撃》などの洋画、山口蓬春《香港島最後の総攻撃図》、江崎孝坪《グアム島占領》などの日本画がある。★1942年11月30日夜、帝国水雷戦隊はガダルカナル島ルンガ沖で、戦艦1隻撃沈、オーガスタ型巡洋艦1隻轟沈、駆逐艦2隻爆沈、同2隻火災の戦果を挙げた。これはルンガ沖夜戦と呼称される旨大本営より発表された。★皇后陛下は1942年12月3日、横須賀海軍病院を、翌4日には臨時東京第一陸軍病院と陸軍軍医学校を行啓された。★いまやあらゆる方面で米英色を払拭しようとしているが、一般雑誌の誌名も、『スタイル』が『女性生活』に、『セルパン』が『新文化』とそれぞれ変わり、また『モダン日本』が新年号から『新太陽』と改称された。★1942年11月17日、戸田侍従は台湾に赴き、12月5日帰京した。初めて侍従を迎えたので600万島民の感情は、ひとしお深いものがあった。★大東亜戦争死没者第3回論功行賞(海軍第2回)が1942年12月7日、海軍省から発表された。★1942年12月6日付朝日新聞によれば、アメリカでは『タイム』『ライフ』『フォーチューン』などの編集関係者で組織している戦後問題研究会というところでは、神国日本の尊厳をいたく冒涜することを公然と論議している。それは米英が日本に勝ったときの降伏条件を紙上に発表しているそうで、その内容は(1)すべての残存軍艦、軍用機、戦車、大砲の引渡し(2)すべての海軍基地、日列島における防御施設の武装解除(3)陸海軍の解散(4)兵器および装備資材などの接収(5)アジア大陸ならびに太平洋における日本占領地域の米英連合国への引渡し(6)米英連合軍による日本本土、少なくとも六大都市の占領駐兵(7)陸海軍高級将校、官吏、新聞、産業の指導者層の処刑、ということが挙げられている。神国日本にアメリカの兵隊が占領駐在するなど考えるだけでも汚らわしいが、国民の総力がゆるんで戦争に勝ち抜いていく気力が萎えたならば、アメリカ兵の土足がこの清い国土を汚すのである。さらに一ふんばりすれば、そうしたことはない。
(つづく)
★敵国の俘虜を見て「おかわいそうに」と洩らした婦人の言葉が問題となった。それほど日本の軍隊は強く、日本が敗戦を知らないことを意味し、帝国臣民は勝ち戦に慣れてしまった。よく言えば余裕を示すが、きびしく言えば大決戦に対する構えが充分できていない有様である。戦争の痛手をわが身で痛感しないから「おかわいそうに」などと呑気なことを言う人には12月6日の朝日新聞に載った記事を読ませたい。それによると、日本近海で仕事をしていた漁船が敵潜水艦の魚雷を受けて沈没した。わが海軍に向かっては勝ち目のない敵艦が、無防備の漁民と見るや機銃掃射をあびせたうえ引き揚げたという。このために海中に命を落とした同胞のことを考えるならば、「おかわいそうに」どころの話ではない。★1942年12月8日、大東亜戦争一周年記念全国一斉国民大会が午後2時より各道府県庁所在地で開催された。中央大会は靖国神社の外苑で3万6千余人を動員して行なわれ、午後2時35分から15分、東条首相の全国民に対する告示があった。★戦争勃発以来一年間の国防献金は3億近い額に達した。★南方占領諸地域の地名を米英蘭等の敵国風の呼び方から大東亜本来の呼び方に改めることとなり、旧英領馬来をマライ(カナ書き)、旧英領ボルネオを北ボルネオ、旧蘭領ボルネオを南ボルネオ、バダビヤをジャカルタとそれぞれ呼称する旨情報局から発表された。★1942年12月12日、天皇陛下は神宮を親拝し皇祖神霊の加護を冀(こいねが)った。国家の重大事に当たって勅使を差し遣わすことはあったが、天皇自らが戦争のさなかに皇祖の大前にいくことは未曽有のことである。一億民草はさらに奉公の誠を尽くす決意をあらたにし、謹み、畏んで毎日を迎えなくてはならない。★情報局が中心となり全国1000の評論家を糾合して大日本言論報国会が設立され、1942年12月23日、東京の大東亜会館で創立総会を開催した。同時に旧評論家協会は解散され、ここに思想戦完遂の体制が確立されたのである。報告会会長には徳富猪一郎、専務理事には鹿子木員信、常務理事には津久井龍雄、野村重臣、井澤弘三が就任した。★インフレにならぬよう、今年は230億貯蓄ということになったが上半期の成績は芳しくなかった。そこで大政翼賛会では1942年12月一杯必勝貯蓄運動を展開した結果、予定の50億貯蓄をほぼ達成できた。あと1、2、3月の3ヵ月で年度替りになるが、それまでに何としても230億を突破しなければ前線の兵隊さんに申し訳ない。★天皇、皇后両陛下は、1943年元旦、2万キロを越える戦線の将兵を偲んで朝食に野戦兵食をきこしめしたそうである。材料はすべて前線から来たものである。献立は、小豆粥(米、ささげ小豆、岩弼)牛肉昭南焼(牛肉、味噌)野菜煮(乾海老、南瓜、玉葱)味噌汁(味噌、支那筍、甘蕗)香の物(杓子菜、沢庵、トマト)だそうだ。ありがたい極みである。★紙は一枚もおろそかにできない。これは世界共通の心得となり、イタリア、ドイツ、ロシア、そして紙がありすぎたアメリカでさえ同様だそうだ。
(完)
【2003年10月14日+10月17日】

”南へ飛ぶ”音楽映画の演出(映画紹介)渡辺邦夫(『音楽之友』 第3巻第2号 1943年02月 p.90)
内容:初の東亜共栄圏向映画『音楽大進軍』は、このほどいよいよ編集に入った。映画のうえに音楽という強力なものを溶け込ませた映画という点が、この映画の性格を形作っている。言葉の判らない東亜民族の心にこの映画がどう反映するか、この映画に流れるメロディがどのように南の人たちに受け取られるか。カメラの美しさを通じて日本楽壇の最高峰を一堂に集めて再現させようというのである。メロディのない喜劇的な進行の箇所は極力台詞をさけて動きで判断してもらうようにした。そして音楽のメロディの流れの中に劇的な進行を生かすべく、演出設計はなされた。この映画の意図を汲んで出演された藤原義江、斎田愛子、瀧田菊江、大谷冽子、木琴の平岡養一、ピアノの和田肇、提琴の辻久子、舞踊の高田せい子、東宝舞踊隊、ロッパ舞踊団、櫻井潔、灰田勝彦、三原純子の諸氏の協力には感謝に堪えない。演出の中心点は内務省に提出した製作意図で述べたが、それを書き記すと、映画と音楽が文化戦の武器として効果的なことはいうまでもなく、殊に東亜共栄圏諸国は祭礼を生活の中心とする民族である点、普遍的かつ効果的な手段である。同時にわが国の音楽が、敵性国家に比して劣ることがないことを示し、わが国の風物と美しい人情を紹介すべきを旨として、明朗で容易に理解できるストーリーとした。
【2003年10月20日】
音楽会記録唐橋勝 編(『音楽之友』 第3巻第2号 1943年02月 p.91-93)
内容:1942年12月11日〜1942年12月31日分(→ こちら へどうぞ)。
【2003年11月18日】

楽界彙報(『音楽之友』 第3巻第2号 1943年02月 p.93-94)
内容:●記録● ■造船戦士に贈る「造船の歌」決まる 造船統制会では造船戦士に贈る「造船の歌」を制定するため、その歌詞を懸賞募集中であったが、このほど当選歌および佳作歌を決定。当選歌は大村能章、佳作歌は杉山長谷夫が作曲に当たることとなった。当選:「造船の歌」(三菱重工業神戸造船所・川上正)、佳作:「瞳に燃ゆる日の御旗」(川崎重工業艦船工場・富士重太郎)。■大東亜共栄唱歌集九篇の作曲完了 南方諸方面の各民族の間に日本語を普及させ、あわせて日本の音楽を進出させるため「ウタノエホン大東亜共栄唱歌集」が編纂されることとなり、一般から募集した歌詞から5篇を当選とし、また日本少国民文化協会文学部担当の4篇の拠出を得て、計9篇の歌詞に日本音楽文化協会作曲部に作曲を委嘱していた。このほど、それらすべての作曲が完了した。作歌者、曲名、作曲者は次の通り。
▲応募入選歌
池田真澄(長野県諏訪郡和泉野国民学校)《アジアノコドモウンドウクワイ》(箕作秋吉作曲)
砂田守一(大阪生野国民学校訓導)《アイウエオノウタ》(堀内敬三作曲)
古山省三(大垣市藤江町)《ダイトウアカゾエウタ》(平岡均之作曲)
田中稔(大阪市北河内郡枚方町宇垣)《ボクラノヘイタイサン》(平尾貴四男作曲)
内永倉直(大牟田市銀水三池中学校)《コモリウタ》(弘田龍太郎作曲)
▲少国民文協担当
与田準一《日本ノコドモ》(草川信作曲)
百田宗治《お米》(中山晋平作曲)
西條八十《フネ》(下總皖一作曲)
三好達治《ヒノマル》(橋本國彦作曲)

■音楽文協大阪支部の新常務と参与 日本音楽文化協会大阪支部では、このほど新任の常務幹事として朝比奈隆、加納和夫、友田吉男、宮原禎次、参与幹事として竹内忠雄と刀原四郎が就任した。
(つづく)
●情報●■音楽文協選定の日本現代名曲集 日本音楽文化協会の選定によって「日本現代名曲集」のレコードが大東亜レコードより近く予約発売されることとなった。内容は次のとおりである。
大木正夫 交響詩《夜の瞑想》(山田和男指揮/日本交響楽団)
清瀬保二《第二ピアノ曲集》(豊増昇)
平尾貴四男《フルートとピアノの為の小奏鳴曲》(奥好寛、藤田晴子)
秋吉元作《ヴァイオリンとピアノの為の奏鳴曲》(巌本メリー・エステル、草間加寿子)
諸井三郎《絃楽六重奏曲》(加藤絃楽六重奏団)
市川都志春 歌謡曲《翡翠その他1曲》(三宅春恵、伴奏・三宅洋一郎)

■愛国百人一首を五社で音楽化 日本蓄音機レコード文化協会では愛国百人一首の音盤化を計画中のところ、各方面と打ち合わせのうえ、その大綱をを決定した。それによればレコード文協が5首を加盟5社に割り当て、さらに日本音楽文化協会から作曲者を選定してもらって5首に作曲し、計10曲を各社2曲ずつ1枚として発売することになる。発売予定日は1943年2月11日である。■2月の主要音楽会 日響、東響その他 主なものを挙げると、日響臨時演奏会(23日日比谷公会堂)、東響定期公演(9日日比谷公会堂)、東京室内交響楽団バッハ連続演奏会(16日青山会館)、ローゼンシュトックと東京四重奏団演奏会(5日日比谷公会堂)、三浦環宮城道雄独唱と筝の夕(2日日比谷公会堂)■《海ゆかば》国民歌に指定 大政翼賛会では信時潔作曲の《海ゆかば》を君が代に次ぐ国民歌に指定、常会その他各種会合において唱和するよう12月15日後藤事務総長名で通達した。同文化部では《海ゆかば》を史劇化すべく、その創作を菊池寛に委嘱した。■陸軍軍楽隊泰国で演奏 バンコック発同盟電報によれば帝国陸軍軍楽隊は大沼哲隊長指揮のもとに、タイ国で演奏を行なったが、12月22日の放送に際してはビアン首相が大沼隊長に謝辞を送った。■軍艦行進曲記念碑着工 故・瀬戸口藤吉作曲の軍艦行進曲を永く伝える記念碑の建設が計画されていたが、1943年1月8日、日比谷公園小音楽堂側の広場で鍬入れ式が行なわれた。遅くとも5月27日の海軍記念日には除幕式挙行の予定である。
●消息● 土川正浩:志賀直哉の令嬢と結婚。/桝源次郎:このほど結婚される。/寺西一郎:鎌倉市雪ノ下262へ転居。/川面情報局第五部長:このほど辞任。/内田元:渋谷区大向通27へ転居。/杵家弥七:1942年12月17日長逝された。/加田愛咲(読売報知ラジオ主任):1943年1月14日長逝された。/山田耕筰:大陸の旅行を終えて1943年1月8日帰京。/伊藤武雄:山田耕筰と旅行をともにして1943年1月8日帰京。/
(完)
【2003年10月23日+10月26日】
御挨拶大東亜交響楽団 松竹(『音楽之友』 第3巻第2号 1943年02月 p.111)
内容:松竹交響楽団は1943年2月で8回の定期公演と12回の臨時公演を数え、皆様方のご支援に感謝している。決戦第2年目にあたり、たまたま大東亜戦争勃発時を同じくして誕生した当楽団も、必勝第2年目に尽くすべく1943年2月11日を期して「大東亜交響楽団」と改名する。全団員協力一致時代の要請に適応すべく音楽報国に邁進する覚悟なので、倍旧のご支援とご指導をお願いする。
1943年2月
大東亜交響楽団
松竹株式会社
【2003年11月2日】
編集室澤田勇 黒崎義英(『音楽之友』 第3巻第2号 1943年02月 p.112)
内容:1月期から雑誌用紙の割当量が減少したため、2月号より本文を16ページ削り楽譜を4ページ増やした。量の減少を補う質の問題が考慮され、その片鱗は現れていると思うが3月号ではもっと濃厚に出てくるはずである。(澤田)/生産力の増強に、戦場精神の昂揚にと今日ほど音楽の重要性が強調されたことはなかった。大政翼賛会でも国民皆唱運動の実践を全国に展開しようとしているが、心から推奨し、ともに歌える歌曲が甚だ少ないことを痛感している。加藤は作曲家たちにいまこそ奮起すべきであると言いたい。(加藤省吾)。/ジャーナリズム一般が何らかの意味で編集方法の見直しが予知されており、本誌もその対策を練っている。3月号あたりから徐々に新しい性格を形作れるはずである。/今まで一定のページ数に慣れていた編集技法が、相当のページ減でなかなか即応できないでいる。従来一定の枚数で可能となっていた発言を、集中的に要領よく書いてもらうよう、執筆者の協力も必要となる。/ちかごろ音楽雑誌のあり方があちこちで論議されている。その一つに関清武が『音楽研究』で、音楽雑誌が楽壇の中堅をなす音楽評論家たちに協力を求めなかったのは失敗だったとか、編集者が無能であることを証明したとか、政府から彼ら[編集者のことと思われる]が専門家として意見を求められると何も出なかったなどと放言している。ばかばかしくて弁明もできない。何らかの機会に『雑誌年鑑』の音楽雑誌評とあわせて触れてみよう。(黒崎義英)
【2003年10月30日】


*2003年11月2日は、p.111の「御挨拶」を更新しました。
*2003年11月6日は、p.33からの対談を更新しました(未完)。
*2003年11月10日は、p.33からの対談を更新しました(未完)。
*2003年11月13日は、p.33からの対談を更新しました(完了)。
*2003年11月18日は、p.91からの音楽会記録を更新しました。


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