『音楽之友』記事に関するノート
第3巻第01号(1943.01)
◇南方音楽共栄圏確立の要領/石井文雄(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.14-22)
内容:ここでは南方音楽共栄圏の確立について論述したい。日本人は政治というものを不道徳的なものとして嫌うが、その反面、政治と道徳との一致を念願している。アジア人種は、こうした情感を人間生活基本の条件として堅守している。南方諸民族もまた、その人間性にそうした性命を宿している。過去に栄えた東洋文化がこの道義や道徳を基調として、今日その共栄の華を復活すべき機会に恵まれたのも歴史の常といえる。今日の動乱こそは、大東亜死活の機会であることを自覚して、その試練に耐えなければならない。戦争の第一年は大戦果を挙げたが、第二年は文化問題を焦眉の急として、対策の確立とその具現に着手しなければならない。しかし、文化行政は日本人の不得手とするところである。とすれば、われわれはどういうことを心得ておかなければならないだろうか? 第一に、文化と政治は必ずしも矛盾するべきものではないことを心がけること。第二に、細大兼ね備えるということである。細といえどもおろそかにせず、同時に度量を大にするのである。ここにおいてこそ、指導改革性と抱擁協力性とが実現される。大東亜はこれまで欧米文化、特に英米文化の全盛時代を示してきた。日本においてさえ欧米文化が専横を極めていた。道義を基調とする大東亜民族文化が大東亜文化となり、延いては世界文化をも一色化し、指導文化として復興されるべき運命にある。/文化を変化、くり返しと見ることは決して失当とはいえない。しかし人智はこの世界に理想を認めて、これに到達しようと努力している。そうだとすれば文化には変化とともに進展を織り込まなくてはならない。進化が文化だというのはここから来ている。では、もし文化を進化とすれば、この戦争によって一時的に改造されうることを期待できる。しかし、そうなれば道義が強調される理由はなくなる。道義に基づく大東亜文化の興隆は、やがて非道義的な物質文化を撃墜することにもなってくる。南方音楽文化共栄圏を確立するに当たっても、こうした実情を露呈してくるに違いない。いま西洋文化が世界文化となっている事実を思い起こせば、この戦争と契機として東洋文化をもって世界を牛耳ることが可能とされてくる。ここに世界新秩序の日本的意義と使命とがあるのであり、その前提としての大東亜新秩序が建設されなければならないのである。しかしながら、もう一つの真理がある。それは東西両洋を正し、そのいずれをも立てることで、日本が大東亜に洋楽を認めるならば、欧州は欧米に邦楽を認めることである。もし欧米で邦楽や東洋音楽を認めないならば、大東亜は欧米の音楽を認容しないことも考えられる方法である。しかし、ここに述べた対策は、この際ほとんど認められないであろう。南方音楽共栄圏の確立も、結局は万政の根本が定まれば、それも自ずから定まってくるからその要綱について述べてみよう。南方共栄圏の建設も世界新秩序という焦点に帰着しなければならないから、その指導原理の発見は、もっとも慎重を要することとなる。今日までの世界文化理論には人類は厭忌しているから、これを正し、そして広く深く正しいものがもたらされなければ、世界はもちろん大東亜も追従してこないだろう。ここに知としての理性と、行としての感情とを満足させられるものが発見されなければならない。日本は道義と功利を並採し、もって大東洋、大東亜の共栄圏を確立することに止めておくほうが賢策かと思う。仮に、南方圏の敵国洋楽や欧米の洋楽を厳しく全廃しようとすれば、これが徹底するまでにいったい何年かかるるであろうか。その前に、わが国内の洋楽について反省し解決する方が焦眉の急である。洋楽あっての音楽界であったわが国の昨今の実情をかんがみても、洋楽を全廃して音楽の更生ができ得るものでなく、さらに名は洋楽形式を借りてその実は邦楽あるいは東洋音楽であるものも少なくない。南方圏といえども例外ではなかろう。ここに、特にわが国における洋楽壇の改革を提言したい。/南方音楽圏に新秩序を施すべきことはいうまでもないが、その音楽についての実際に基づく全貌を、はたしてわが国の何人が知っているだろうか。また音楽文化の行政家が何人南方に行っているだろうか。音楽共栄圏の確立ないし音楽新秩序の建設は必ずしも音楽家を必要としない。音楽家は使われる方に属するからだが、しかもなお、その前に使う側の人物のほしいことを要請しておく。南方音楽の新秩序建設には、こうした人たちを各方面に派遣し、思う存分調査と研究をさせ、その後対策をたてて行政を施すべきである。政治を音楽に関係させることは音楽を冒涜するもののように見られがちだが、なんらその両立を妨げるものではない。この意味からすれば、南方に派遣する音楽人はけっして音楽を食いものにするものであってはならない。レコード会社や放送局に使われるものより大物にして、しかも音楽行政ないし音楽文化に堪能な士を派遣することが急務と考える。南方においては並採されたものが特に未開の地方に多いという実情があり、これを日本国内に紹介するにはトーキー映画か、その楽人・舞人を内地へ招来するかの方法がもっとも時宜を得た方法と考えられ、その実現を期することが南方音楽の実情認識にもっとも効果的かと思われる。音楽が直接的統一的平等的融和的であるところから、教化教育や宣伝親善のために政策として用いられることは、平時においてはもちろん、戦時においてはこの意義は極めて深い。武力行使後に音楽を政策として用いることはいうまでもないが、この場合における音楽政策とは必ずしも平時のときは内容が一致しない。すなわち、その民族がもっとも愛好し、もっとも享楽する音楽を与え、あるいはその民族意識や反抗意識や、文化自尊の意識を滅殺するために彼らを教化指導する。あるいは、その民族の意識を昂揚させるために求める音楽を与えて、これを鼓舞鼓吹することが可能とされる。南方圏は東亜圏とちがって独立国と属領とがあり、特に属領の多い現状からすれば、音楽政策も多角的多面的であることを要する。しかしながら、この多種多様であるべき政策もまた統一的でなければならない。/さいごに米英洋楽の浸透していた南方圏に、いま直ちに日本の音楽をもっていくことは、かなりの慎重さを要する。日本の音楽とは、単に邦楽のみを指すのではなく、ひろく日本の過去および現在に持っている、あるいは行なわれてきた音楽を意味し、かなり多種多様な音楽が含まれる。こうした音楽は自重し、南方圏の民俗音楽を宣揚してやり、これを保護、助成、指導、改善することが望ましい。さらに洋楽においては、その性質を確かめ、これを是正して、その正善なるものを採択することの方が、功が多いと思う。/要するに対南音楽文化工作の要領は、時と所に応じて指導すべきものは指導し、協力すべきものは協力し、その特性を認めるべきは認めて、そのいずれかに偏ることなく中央と現地との不一致を払拭して、この一体化に心がけることが緊要だと思う。
【2003年3月31日+4月2日+4月4日】
◇音楽文化における米英との戦ひ/守田正義(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.23-26)
内容:さいきん楽壇の内部でも「どうも音楽家はなっていない」という旨の発言をしたり書いたりする人がいるようであるが、それが何をさすのか具体的に指摘される機会は少ないようである。問題は恐らく、音楽家は国民的自覚のうえにたって、さらに音楽のうえで米英と闘争しなければならない、にもかかわらずその闘争が実践として充分に示されているとはいい得ない状態にあることが指摘されなければならない。明治以来の外国音楽の移植は、西欧先進諸国の音楽ではあるが、この間にも、見えざるかたちで米英主義が付着し侵入してこなかったとは言えない。軍楽や教育音楽にはあまりみられないが、なかでもキリスト教新教による賛美歌音楽や劇音楽、活動音楽等々は米英的音楽の侵入を知らぬ間に許してきたと見なさないわけにはいかない。そうなったにはそれ相応の文化的事情が考えられるとしても、今日にいたっては排撃一掃しなければならない。それらは日本における音楽文化の正当かつ健全な発展を少なからず阻害し歪めたからである。邦楽が文明開化後までももちこされ得なかったために、西欧音楽の形式様式を移植する必要に迫られたという余儀ない事情があったが、それは言い換えれば、わが国における音楽性の伝統を新時代における社会的地盤の上に正しく発展させる手段でもあったのである。その萌芽は明治初期の唱歌や明治中期における瀧廉太郎の歌曲のうちにみることができるにもかかわらず、その後の成長は途絶の観を呈した。そこに米英主義の賛美歌等が登場し、ついにはジャズ音楽あるいは流行歌から一般的な歌謡調にまで浸潤してきたのである。省みれば、アメリカ的音楽の扶植は国民がこれまであまり意識しなかったうちに、相当長い期間にわたっており、今日にいたっているといえる。われわれが音楽をもって米英と戦うには米英よりもはるかに強力な音楽文化力をもたなければならない。わが国の音楽文化は急速に強化されなければならないのである。そのためには敵をも己をもよく知らなければならない。/だいたいにおいて米英は音楽一流国ではない。そういうところから音楽の領域においてもまた彼らは侵略者なのである。彼らは誇るべき自分たちの音楽をもちあわせていないことが共通しており、どこかの土地の音楽をもってきていいかげんに作り上げたという点においてほとんど同様である。ドイツやイタリアなどの音楽の強国は、古来もっとも音楽的な民族であると同時に、豊かな音楽的伝統を今日まで保持してきているうえに、その成長までも担ってきている。米国のごときは、ただ資本主義的無政府的消費欲の貪欲にまかせて、ヨーロッパ音楽の無秩序な輸入力の旺盛さにおいてさまざまな歪曲の試みに身を擁していたかの観がある。そうした米英と戦うとき、幸いにしてわが国民性のうちには音楽性の伝統が充分にひそんでいる。ただ問題なのは、誇るべき音楽性がいまだ近代化されていないことである。そこでわれわれの音楽は、彼らの音楽に対して充分な戦闘力をもって応戦ができないうらみがある。われわれの音楽に少しでもアメリカ的な方法や色彩が加わっていてはならないのである。この意味で、さいきん作曲されている軍国歌謡や軍歌の編曲等の中にはトニカやドミナントを拙劣に使用しただけのものが氾濫しているが、これらはアメリカニズムに浸蝕された姿とみなすことができる。また同じような意味で、ラジオでよく聴かされる和田肇のピアノによる何々名曲集といったごときは、そのもっとも顕著な例といえ、急激にどうにかされる必要がある。われわれの音楽創造が西欧先進諸国の楽器をも含む音楽的方法の移植を必要とした以上、生半可で粗悪な米英音楽ではなく、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンを生んだドイツの音楽文化と等しく現代日本の健全な音楽文化をうちたて強化していくことこそが、真に米英音楽を敗戦に導く道である。
【2003年4月8日】
◇各国コンクールの与ふる示唆(特集・欧洲の音楽祭と競技)/津川主一(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.27-36)
内容:■1■欧州のコンクールの起源はギリシャ時代にさかのぼり、オリンピアの平原で、運動競技や美術、詩、音楽の競技・競演が行なわれ、ゼウスをはじめとしたギリシャの神々に捧げられた。このほかギリシャ時代にはスパルタ、エリス、デルフィ、アルゴリス、コリントで宗教的な祭典と結びついた音楽競技が行なわれた。■2■中世紀末や近世初期の音楽ファンは低級で、音楽の作曲の形式や内容よりも、むしろ名人肌の演奏振りにより多く興味を覚えていたらしく、また作曲家が多くの場合演奏家でもあったので「立会演奏」すなわちコンクールに引っ張り出された。1364年、ヴェネツィアで数日間にわたって市民祭が行なわれた際、盲人同士のオルガン・コンクールが開催されランディーノが月桂冠を獲たという記録がある。おそらく、これが欧州最初の器楽コンクールではないか。1708年の春か夏には、ローマでヘンデルとドメニコ・スカルラッティとがチェンバロとオルガンの競技を行なった。チェンバロはヘンデルが旗色が悪かったが、オルガンは断然ヘンデル優勢だった。バッハは、ドレスデンの宮廷で華やかなフランス風の奏法をもったマルシャンと争うこととなったが、当日の朝早くマルシャンが逃げ出した。やむなくバッハは単独で演奏した。■3■ドイツでの古い声楽のコンクールとして代表的なものは、ミンネゼンガーとマイスタージンガーとのあいだに行なわれた。ミンネゼンガーはときどき歌謡の競演を行なった。ワーグナーがとりあげたのは1207年に行なわれたものである。マイスタージンガーのほうは1300年ごろ始まり、17世紀にいたってこの歌の組合は衰微した。これは社会情勢の変化と進歩してきた音楽文化のゆえであったと考えられる。ことに有名なマイスタージンガーはニュルンベルクのハンス・ザックスで、その古ぼけた靴屋の店は、いまでもナチス政府の手で保存されている。18世紀初葉のイギリスでは、対位法的なマドリガルに厭きた連中が単旋律的でリズムやテンポに変化があるグリーという合唱曲を考案し、これを合唱するグリー・クラブというものが1783年にできた。この世界最初のグリー・クラブは1857年に解散してしまい、所蔵の楽譜や文献は売却されたが、このクラブは毎年、グリーやキャッチやキャノンを募集し、その最優秀な作品に賞を懸けた。■4■近代にいたって音楽の演奏を勝負事と混同するような馬鹿者は文明国にはいなくなった。しかし、依然としてコンクールは内容を変えて存続し、各国とも競って若い世代に対して奮起を促した。次代を担うにふさわしい音楽的才能を備えた若者を見出し、これに適当な保護をくわえようというように、コンクールの理念が確立した。ことにわれわれが羨ましく思うことは、楽壇の先輩の寄附金や遺産によって、若い音楽家たちのために奨学金を遺していることである。欧州でもっとも目立ったコンクール的奨学金制度をもっていたのはフランスであろう。その中でも「ローマ大賞」は、すでにわれわれにも耳新しいものではない。ほかにもフランスには、「パリ市賞」「クレサン賞」「ヴェルレイ賞」「ブリュメンタル賞」「モンビーヌ賞」「シャルティエー賞」「ルボール賞」「ハルファン賞」「ロッシーニ賞」「トーマ賞」「ブーランヂュー賞」「ボルダニ賞」「カストネー・ブールソール賞」「シャルル・ブラン賞」「ヴァイス賞」など多数の音楽賞が設定されている。ベルギーの音楽院にはフランスをまねて「ローマ賞」を設定している。デンマークには「アンケル奨学金」がある。またイギリスには「メンデルソゾーン奨学金」がある。■5■ドイツにも夥しい数の音楽賞がある。「モーツァルト賞」「マイエルベール賞」、それとナチス治下になっていったん廃止されたと察せられる「メンデルスゾーン賞」。オーストリアの代表的なものは「楽友協会賞」で、これは作曲に対して半年ごとに与えられる。新体制樹立以後、ドイツでは国民音楽の勃興が叫ばれるとともに、作曲奨励のための音楽賞は毎年各地で設けられている。ちなみに、1941年の調査によれば、最上の成績を示したドイツの青年ヴァイオリニストならびに青年ピアニストに贈与される「国民音楽賞」は各1万マルクであり、「国民作曲賞」は第一位が同じく1万マルク、第二位が5千マルクとなっている。これも青年音楽家の将来の研究のために資する奨学金にほかならない。また、ソヴィエト通の友人から聞いた話では、さいきんショスタコーヴィチの第7交響曲が初演され、これが賞を獲得し、スターリンから数万ルーヴルを贈られたそうだ。■6■わが国の各種の音楽コンクールも、この際、その理念と方策とが再検討されて然るべきだろう。第一に、今日こそ宗教的精神と国家理念との結び合せが要求されるべきだろう。こうしてコンクールを勝敗の争奪場から精神的ないしは国家的芸術的祝典とするのである。第二に、今日これを私的機関が経営し運用するのは適当でない。某野球大会も無条件に国家に返上された。第三に、国家の経営する権威あるコンクールを出現させ、新進作家のみならず全音楽家の参画すべきものとすることで、国民音楽の興起が期待され、実現されるに違いない。第四に、それぞれの専門権威者のみに審査させ、審査そのものに最高の権威を置くようにすること。第五に、賞金を今日の少なくとも10倍に引き上げなければ、未完成の若い才能は朽ち果ててしまう。これは当事者としても国家としても無責任であり、かえって不経済である。第六に、幾多の賞金制度を設定するために、富豪や先輩音楽家たちは、覚醒して方策をとるべきである。
【2003年4月13日+4月14日】
◇イタリヤの音楽コンクール(特集・欧洲の音楽祭と競技)/下位春吉(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.37-40)
内容:1915年、初めてイタリアに赴任するとき学友葛原シゲルとイタリアの小学校で教える唱歌の歌詞や楽譜を集めて送る約束をした。ナポリ市役所の学務課に頼みに行くと「話がよくわからない」と言われ、くり返し依頼すると「日本の小学校では唱歌を教えるのか」と逆に質問された。カルーソーは決して音楽学校の声楽科を出たのではなく、ナポリの田舎の鍛冶屋だった。タマーニョは北村の農村を流して回っている洋傘直しの職人だった。このように、日本でやっていることを標準としてイタリアの音楽界でやっていることを比較して考えてみようとすることは、真の姿をつかみ得ない惧れがあるということを知っておくべきである。/歌劇《カバレリヤ・ルスティカーナ》も《パリアッチ》もコンクールの作品である。ローマの歌劇場その他で、ときどき新作品の懸賞募集があることも事実である。しかし、それらは定期に一定の行事として行なわれるのではなく、飛びぬけて優秀な作品が現れることもあれば言うべきほどのものがなく終わることもある。ただし「民謡コンクール」のピエヂグロッタ祭だけは世界に類例のないイタリア国民の誇りとなっている。カトリック教では数百の聖徒にそれぞれ霊験の担任があり、ナポリ市西方にあるピエヂグロッタのトンネルの口に祀られている聖母マリアは「ピエヂグロッタの聖母」という名称で知られ、民謡の守護聖徒である。情緒あふれるイタリアの民謡は、この聖母の加護のもとに毎年9月に生まれる。ピエヂグロッタの祭礼には特殊な楽器が使用される。一番多いのはトロンペッタという喇叭であり、ほかにトリッキトラック、シャタバヤース、プチプなど、いずれもこの祭礼の日に限って使用される。そしてイタリアの詩人や作曲家たちは、9月13日のナポリのピエヂグロッタ祭に備えて日頃から裂くし、作曲しておいたものも、その祭礼のときにいっせいに発表するのである。しかも、それが戸外の街頭で演奏されるのだ。歌手が新作を歌い上げる。よければ拍手や喝采の声が爆発するが、駄作だと口笛や軽侮の叫びが埋め尽くす。こうして祭礼の山車はピエヂグロッタの寺院にたどりつくが、聖母の寺院の前の広場には、壇が設けてあって審査員席が用意されている。そこで最後の演奏となる。歌詞と作曲の二つの方面から考査して賞が決定され、翌日の新聞が発表する。しかし新作の普及のために当局が演奏会を開いたり、蓄音機の音盤をこしらえさせて、さあ覚えろ、さあ歌えと民衆を引きずるようなことはない。
メモ:筆者は日本放送協会国際部イタリア課主任。
【2003年4月16日】
◇ロシヤに於ける音楽オリムピヤァドとコンクウル(特集・欧洲の音楽祭と競技)/津川主一(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.41-46)
内容:本稿では帝政ロシア時代のではなく、今日のソ連における音楽コンクールおよびそれに類似する催しについて記す。1918年以後の、新しい時代の音楽生活の発展にともなって示された顕著な現象は、古い時代においては芸術としての音楽が主としてペテルスブルクやモスクワ、キエフなどの主要都市においてのみ成長・発展したのに対し、近年は主要都市ばかりでなく、遠い畢竟や草原地帯の少数民族が住む都会にまで及んだことである。そうした街には、新しい音楽学校が開設され、専門の演奏家や作曲家が養成されるとともに、美しい合唱や純芸術的な交響曲、民族的な歌劇を聴けるようになった。こうした音楽の広汎な地方的発展は、決して一朝一夕にできるものではない。その達成のためには、音楽コンクールおよびそれに類似した催しがもっとも重要な役割を果たしてきた。/1920年ころから、この国の文教当局は“音楽の大衆化”を目標とする計画を立てて運動を開始した。ここでいう音楽の大衆化とは、中央に開華した音楽芸術の水準を低めてそれを大衆化するというのではなく、広汎な大衆の生活の中に正しい音楽の種子をまいて、それを耕作し、高い水準にまで引き上げることをいう。講演あるいは解説付で標準的な曲目を盛った音楽界を頻繁に開催し、その実行機関として音楽家の諸団体を国庫の補助で強化し、1922年には在来の音楽出版会社を国立出版所に統合し、音楽出版部として音楽書や楽譜の出版を積極的に開始した。また音楽教育機関の改組と拡張に着手し、最高の音楽院および音楽技術学校を一般に開放し、勤労者のために夜間および日曜クラスを開設し、手風琴のクラスさえ設けた。演奏会では交響曲の演奏にもっとも力を注ぎ、別に労働者のための定期演奏会を開いてグラズノフやイッポリート・イワノフが率先して指揮台に立って活動した。また地方に対しては音楽放送を積極的に行ない、中央の一流音楽団や演奏家の演奏旅行を頻繁に実現し、地方における教育機関の増設のためには中央から専門家を指導者として派遣し、各地方における音楽専門家の養成が開始された。こうして1926〜27年ころまでには、各地方に音楽愛好家による合唱団や吹奏楽団、手風琴やバラライカの合奏団、さらに中には立派な合唱団や管弦団が組織されてハイドン、モーツァルト、シューベルトを演奏する団体さえ現れるようになった。/以上の基礎的な準備時代を経て、3つの大規模な全連邦的な年中行事的な催しの時代へと移っていった。それは第一に音楽オリムピアード、第二に音楽コンクール、第三に芸術祭である。音楽オリムピアードは、非職業的な愛好家の音楽団体に対する全連邦的かつ祝祭的な一大競技会として、第1回は1927年7月13日、レニングラードで開催された。これは、この国のスポーツのオリンピック大会と呼応して行なわれ、演劇や映画その他の部門においても別個に挙行された。音楽オリンピアードは、ひきつづき毎年6月か7月にレニングラードで開催されたが、徐々に盛大になるとともに、内容も新進の音楽専門家の団体や地方に新設された職業的楽団を加えて、競演が行なわれるように変化していった。素人が専門家の間に伍して出演したり競演したりすることは、ひじょうな奨励と刺激になって、その進歩と向上に大きな効果をもたらした。最優秀の素人の団体に対しては、中央から専門大家の指導者を派遣し、職業的団体に転向させた。そのもっとも著しい例は赤衛軍交響楽団と合唱団である。一方、モスクワでも音楽オリムピアードが開催された。ここでは全連邦吹奏楽団オリムピアードとか全連邦合唱団オリムピアードというように、次第に競演の形式がコンクールのそれに近づけられていった。また職業別のオリムピアードも別個に開催された。また1937年7月1日から6日まで、モスクワ音楽院大講堂で、全連邦合唱オリムピアードが開催されたが、これは事実上、全連邦から選出された職業団体のコンクールといっても差し支えない高度なものだった。こうして、どんな田舎の町でもそれぞれの合唱団をもち得る状態となった。1930年代からさいきんにかけてソ連の作曲家の新作に合唱付き交響曲やオラトリオ風のものが非常に多かったことを考えると、まことに興味深い。音楽オリムピアードの曲目についてみると、政治的な制約はほとんど見受けられず、各楽団のもっとも得意とするものが自発的に奏され、歌われている。/音楽コンクールは、演奏の場合ならば専門の教育を完了してすでに一定の高い技術を獲得した少壮新進音楽家の芸術的達成を目標とし、創作の場合は新進・大家を問わず最高の芸術的作品の選出に目標をおいて行なわれる。大規模な音楽コンクールは1933年から各地方別に毎年行なわれてきた。そして全連邦的なものは、だいたいにおいて3年ごとに行なわれている。これは演奏を主とするもので各種独奏楽器と声楽に中心が置かれていることは外国の例と変わりない。これら音楽コンクールの中で、もっとも大規模に挙行され、もっとも輝かしい成果を挙げた最初のものは、1933年5月の全連邦音楽演奏コンクールであろう。洋琴のギレリス、アプテカレエフ、提琴のフィッシマン、チェロのツォムイク、声楽のクルグリイコワ嬢等が最優秀者となり、提琴のオイストラフ、フウレル、フィフテンゴリフその他の入賞者は15、16歳から24、25歳の天才的な少壮音楽家で、彼らの大部分は、その後外国の国際コンクールで抜群の成績を示した。なお作曲の方面では、新作オペラとバレエのコンクール、少年団歌曲コンクール、戦線行進曲コンクール、青年大衆歌コンクールなどいろいろ行なわれているが、紙数も尽きたので省略する。
【2003年4月18日】
◇仏蘭西のコンクール(特集・欧洲の音楽祭と競技)/松本太郎(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.47-51)
内容:フランス人の特性の一つは個人主義である。したがって個性の深さ、高さ、強さが尊重され、天才に対する強い要求となって現われる。フランス人はまた現実主義者であるがゆえに、明確な結果において評価しようとする。すなわち実力主義者ということになる。フランスにおける音楽コンクールは、すでに16世紀に行なわれた。王室オルガにスト兼作曲家であったコストレーは、1570年「サント・セシール協会」を作って翌年第一首領に選ばれたが、この団体は1575年以来作曲コンクールを開催した。このコンクールは当時のすぐれた音楽家から非難されたにもかかわらず1625年まで毎年開かれた。現代においてもっともよく知られているのは、作曲の大ローマ賞コンクールとパリ音楽院の演奏コンクールとであろう。前者は政府の費用で3年間自由に作曲の練磨のためにローマのヴィラ・メディチにあるフランス・アカデミーに留学する資格を獲得するための試験であって、作曲家としての優秀さを明らかにするものではない。しかし事実として、コンクール優勝者から多くの優れた作曲家を輩出しているところからみれば、このコンクールは作曲家にとっての登竜門であろう。このコンクールでは予備試験通過者約12名がフォンテンブロー宮に2週間閉居し、全然楽器をもちいることなく課題曲のカンタータを作曲し優勝が決定される。そして1803年以来1938年度まで欧州大戦中を除いて年々行なわれた。一方後者は、単なる技能のコンクールではなく、実際はパリ音楽院の卒業能力を決定する卒業試験の一種であって、1・2等賞、1・2等褒状の受賞者の数に制限はなく、また1等賞受賞者はその科を卒業し、2年連続2等以下の賞に止まる者は続いて同じ科に在籍することはできない。さらに注意すべきことは受験者は在学年限5年の本科生ならば技量優秀な者はクラスの上下を問わず、師事する教授の認定と推薦によってコンクールに参加できる。事実、本科1、2年生で1等賞をとる者がはなはだ多く、3年以上在学する者は多くの場合劣等性である。本科生に対するコンクールは同校校長を審査員長とし、同校教授ならびに優れた演奏家からなる18名以内の審査員立会いのもとに公開演奏で行なわれる。このコンクールの試験制度は、すべてのフランスの音楽学校に共通している。/以上二つのコンクールは学生に対する資格試験の性格をもっているが、純粋にその才能を表彰し、天才を発揮させるためのコンクールも種々行なわれている。作曲の方面でもっとも知られているものはパリ市が3年ごとにフランス作曲家に対して開催する作曲コンクールであろう。曲の種類は独唱、合唱とオーケストラのための曲もしくはオペラであって、1877年以来の歴史をもっている。受賞者にはデュボワ、ダンディなどがいる。美術アカデミーのコンクールにはクレッサン賞が与えられる。それは賞金2万フランのほかに写譜料、交響楽演奏会で演奏させるための費用を含む。曲はオペラ、オペラコミック、音楽喜劇のいずれを問わず合唱と序曲を含んだものもしくは交響的作品と定められている。作曲家協会はオーケストラと声のための聖詩(アムブロワース・トーマ賞、3千フラン)、弦楽四重奏曲(マルモンテル賞、3千フラン)、無伴奏四重唱曲(アルバ賞、500フラン)に対してコンクールを開き、自由職業婦人後援者はピアノとオーケストラの幻想曲に2千フランを、オルガン友の会は隔年に賞金5千フランのオルガン曲作曲コンクールを開いている。レオポール・ブラン協会は毎年シャンソン作曲コンクールを開き、歌詞と作曲は別々に募集されいずれも一等500フラン、以下300フラン、250フラン、150フラン、賞碑、褒状が与えられる。/こうした定期的なコンクールのほかに、臨時に開かれるコンクールも少なくない。1931年、ジャンヌ・ダルク死後500年祭にルアン市が開催した記念曲コンクールではポール・バレーがミサ曲で当選し、マルセイユ室内楽協会が催した弦楽四重奏曲コンクールではジャン・フランセーが当選した。フランス音楽宣伝国民委員会は小児用連弾ピアノ曲を懸賞募集したことがあるし、酒業組合が「酒を讃える歌」を、雑誌『パロール・エ・ミュジック』がシャンドン・ダ・ムール(もっとも美しい愛の歌)を募集した。楽譜出版社ウージェル、楽器製造者プレイエルの開くコンクールもある。また、かつてヴラディミル・ゴルシュマン(現在セントルイス交響楽団指揮者)がパリでコンセール・ゴルュシュマンを連続開催していた際、同楽団で初演された優秀な近代的オーケストラ曲ならびにオーケストラ伴奏歌曲に対しヴェルレー賞が与えられ、オネガーが《夏の牧歌》で当選したが、このコンクールのその後は明らかでない。演奏のコンクールは盛んで枚挙に暇がない。主要なものを挙げると、ナドー賞、ルイ・ディエメ賞、クレール・パージュ賞、パリ音楽院提琴一等受賞者協会コンクール、パリ音楽院ピアノ一等賞受賞者協会コンクール、ベルト・デュラントン賞などがある。/特殊なコンクールには1936年から隔年に開かれたフォーレ作品演奏コンクールがある。第3回まで行なわれたこのコンクールは、大戦のため中止されたらしい。合奏では、パリのバンドコンクールがある。1934年には作曲家マリエス・カサドゥシュスが若い提琴家、ピアニスト、声楽家のために各500フランと100フランの賞を設けてコンクールを開いた。通俗音楽のコンクールはフランス各地を通じて夏の始めにさかんに行なわれる。種目は合唱、吹奏楽、ファンファーレ、トランペット独奏、合奏、狩猟用トロムプ、タムブールとクレーロン、マンドリン・オーケストラ、アコーディオン合奏、オーケストラなど多種多様である。/臨時的なコンクールもかなりある。近年のもっとも有名な例は1937年にルアンで行なわれたフランツ・リストピアノコンクールである。1934年と35年にはパリで国際声楽コンクールが開かれ、男あるいは女の独唱、滑稽歌謡曲、二重唱などの種目があった。さいごに1933年から1938年まで毎年週間新聞『キャンディッド』によって開催されたディスク大賞コンクールを挙げなければならない。これと平行して1934年以来、『オペラコミックの友』によって催されたオペラコミックのディスクのコンクール、それより後にはじまったジャズ音楽ディスクのコンクールも毎年開催された。コンクールは作曲、演奏の両方面でさかんであるがフランスでは、より広い方面にも行なわれている。たとえば交響楽団のメンバーや、ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団のメンバーもコンクールによって採用される。さらに地方の音楽学校の教授や校長の任命もコンクールを経て行なわれるのみならず、パリ音楽院教授の任命さえコンクールによって行なわれることがある。フランスのコンクール制度は少なくとも音楽においてはきわめて好結果をもたらしていると考えられる。言いかえれば、天才主義実力主義はフランス音楽にとって大いなる貢献をなしつつあるというべきであろう。
【2003年4月21日+4月23日】
◇音楽コンクール側面史(特集・日本の音楽競技史)/大澤良雄(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.52-55)
内容:音楽が今日ほど重要と考えられていなかった時代に、時事新報が左前の世帯で、音楽コンクールをさいごまでもちこたえたことは、当時の幹部はほめられて良い。今日でもコンクールは営利的な事業ではない。しかしコンクールは、わが国楽界のもっとも意義深い行事として聴衆を集められるようになった。/大澤が[時事新報の]音楽コンクール係になったのは1934(昭和9)年の第3回からであった。前任者に連れられて数十人の役員諸氏の家を回ったが、この人たちの顔と名前を覚えなくてはならないのには困った。前任者が相手と話しているあいだにノートにその顔を写生した。第3回の本選会も迫り、前任者から新響の練習日を聞かれて、初めて作曲の本選会に新響を頼んでおかなければならないことを知った。驚いて新響の事務所に行きわけを話すと、原善一郎が新聞広告を見て本選会の日時を知り、スケジュールを押さえてくれていた。審査員中の外国人も今日では日本語でことがすむようになったが、3回、4回あたりはそうはいかなかった。故ウェルクマイステルに、その年の審査員を依頼に行き予定者リストを見せると承諾していないのになぜ自分の名前がリストに挙がっているのかと怒った。和英辞典をたよりに予定だと伝えたら笑いながら承諾してくれた。コンクールを受けるほうも、売れっ子になろうとする流行歌手志願者が現れ、その対応にも当たった。実際には、よくご覧くださいと規則書を同封して送るという。第4回のときだったか、予選の演奏順を申込順から抽選順に替えて行なった。役員からの申し出をうけてのことだったが、審査にかかるとバスの次にソプラノが出るなどして審査に困ると役員から文句が出た。そこで大澤が控え室に行き、自分の無学からできたことで申し訳ないがと事情を話し、改めて音域順で予選を行なったこともあった。また、かつて控室にチェロをかかえた奏者が出番を待っているところへ、東京日日の担当だった某氏が「チェロの人はいませんか?」とやってきて、チェロ奏者が自分だと答えると担当は「これがチェロですか」といったエピソードが残っている。一方大阪では、コンクール受賞者の演奏会があったとき、ステージに松隈陽子が現れることになった。大阪毎日の担当者は松隈がピアノを弾くというのに伴奏者がいないではないか、早く探せと言ったという。日本の音楽は他の文化に比してことさら急激な進展をしたといわれているが、コンクールの珍談だけをみてもそれがしみじみとわかるような気がする
【2003年4月25日】
◇児童唱歌コンクールの沿革(特集・日本の音楽競技史)/吉田辰雄(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.56-61)
内容:1932(昭和7)年以来毎年実施されている児童唱歌コンクールの発達と変遷の跡を回顧する。
■第1回=1932(昭和7)年■
この年の11月、日本教育音楽協会10周年記念行事の一つとして挙行された。このコンクールは児童音楽に対する趣味を養い音楽教育の進展に資するために計画され、全国各地方の参加児童は尋常科第5学年男児および女児各15名ということに決定した。種目は課題曲2曲、随意曲1曲とし、課題曲は男児が《冬景色》(文部省尋常小学唱歌)および《スキー》(日本教育音楽協会編新尋常小学唱歌)、女児は《海》(文部省)および《田舎の冬》(新尋)であった。随意曲は5年程度の単音唱歌で2分以内に歌い終えるものとした。各地方の予選ではその地方の師範学校の音楽科担任教官が審査に当たった。第1回児童唱歌コンクールには男児校82校、女児120校の計145校が1道2府19県から参加出場した。各地の予選に通過した学校は、東京、大阪、名古屋、広島、熊本、仙台、札幌の各中央放送局から順次ラジオで放送し、中央審査委員が審査に当たった。コンクールの当日は、会場の東京音楽学校に唱歌教育研究会員、市内の小中学校長や唱歌担任教師、音楽批評家および東京音楽学校の職員生と200余名の聴衆者が参集した。審査員としては、乗杉委員長を始め、澤崎定之、草川宣雄、島崎赤太郎、岡野貞一、小林つや江、玉村なみ、田村虎蔵、小松耕輔、福井直秋、鈴木米次郎、伊庭孝、堀内敬三、青柳善吾であった。すなわち本コンクールの審査員としては東京音楽学校教官、高等師範学校訓導、東京視学、私立音楽学校長、音楽批評家がそれぞれ担当した。各地で選抜された各代表校は、各中央放送局から放送し、男児では東京市杉並第一尋常高等小学校、女児では仙台市東二番町尋常小学校が栄冠を得た。そのほかに東京府女子師範学校が特に成績優秀なものとして表彰された。
■第2回=1933(昭和8)年■
小学校唱歌教育研究会が開催された折に全国的に音楽週間を挙行する提案がされて、それから1年後に、非常時局下における国民精神作興をめざして音楽週間が実施されることとなった。具体的には1日本教育音楽協会主催、文部省・東京府・東京市後援で1933年11月11日から11月17日まで、全国の音楽関係者を総動員して各学校は音楽会、コンクール、講演会、講習会等を催した。音楽に関する週間はこれが最初である。こうして児童唱歌コンクールは、この後毎年音楽週間の一行事として行なわれることとなった。課題曲は男児が《進水式》(新訂)および《太平洋》(新尋)、女児は《朝日は昇りぬ》(新訂)および《夕の星》(新尋)とし、その他はだいたい前回と同様である。ただ審査方法は変わった。放送技術や設備等の関係で前年の方法に疑問が出されたためで、今回は中央審査員を各中央放送局所在地に出張させて、現場において生のままを順次審査した。今回の中央審査委員は澤崎教授(東京音楽学校声楽担任)、青柳善吾(小学校唱歌教授経験者)、須永克己(音楽批評家で民間代表)であった。しかし、この方法でも審査員の経験によりラジオを通して聴いても、生で聴いてもたいして相違ないことがわかり、第1回の方法に戻すこととした。参加校は前回よりもやや数が減って90校であった。各地方予選を通過した代表校はラジオを通じて審査し、男児は東京市碑尋常高等小学校、女児では仙台市東二番町尋常小学校が最優秀と決定した。男子の実力は伯仲し優劣の差は少なかったが、女子は成績に開きがあるばかりでなく、男子に比して一段と優っていた。
■第3回=1934(昭和9)年■
音楽週間の主催者として東京音楽学校同声会、東京音楽協会、国民音楽協会が加わり、また後援者としては日本放送協会が加わった。種目はだいたい前回同様であるが、1000人の合唱が新たに追加された。課題曲は男児が《いてふ》(新訂)および《軍艦》(新尋)、女児は《秋の山》(新訂)および《水兵の母》(新尋)であった。109校が参加し、各地方の代表校が選抜された後に順次、各中央放送局から放送された。その結果男児では東京市碑尋常高等小学校、女児では仙台市南材木町尋常小学校が優勝した。全般的に各学校の成績が接近してきたことは、全体としての水準が高まってきたことを示すといえよう。審査方法は、再び第1回のラジオによる方法に帰り、今後はこの方法によることとなった。地方審査と中央審査を判然とさせるために、中央では地方審査委員を避けたことは当然である。
■第4回=1935(昭和10)年■
音楽週間の主催者にさらに音楽会館が、後援者には内務省・海軍省・各府県が加わった。音楽行進は、すでに第1回から行なわれていたが、今回わが国で最初の吹奏楽コンクールが行なわれた。また児童唱歌コンクールには朝日新聞社が絶大な援助を与え、今後毎回、優勝校男女各一校に優勝楯が贈られることとなった。課題曲は男児が《山に登りて》(新訂)および《剛健》(日本教育音楽協会編児童唱歌)、女児が《忍耐》(新訂)および《萩》(児童唱歌)であった。審査方法は多少改まり、前回までは中央放送局所在地すなわち札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、熊本のみで予選を行なったが、今回はさらに右中央放送局管下の各放送局所在地で第一次予選を行ない、その選抜校がさらに各中央放送局所在地で第二次予選を行なって男女各一校あての代表校を選定し、これが各中央放送局から順次ラジオによって放送した。こうした機構の拡充にともない参加校も200校ちかくに倍増した。しかし最後は中央放送局から放送する関係上、地理的に遠隔の地にあるものは容易に参加し得ない実情にあった。すでに3回にわたって毎年全県下のコンクールが行なわれている滋賀県や、県内の一部においてコンクールが実施された岩手、山形、大分、長崎各県の実績は銘記すべきであろう。第4回の結果は男子では熊本の碩台校が、女子では仙台の南材木町校が優勝した。男子の一位は抜群の成績であったが、全体としては女子の方が成績が良かった。また参加校は多数になったが、男子の数は女子に比べて半分にも満たないありさまである。
■第5回=1936(昭和11)年■
音楽週間に機構および種目の多少の変更がほどこされた。在来の主催者たちが今回あらたに音楽週間理事会を組織し、乗杉東京音楽学校長を理事会[ママ]に推薦し、東京音楽学校内に事務所を置いた。この年は、わが国最初の女子聯合音楽体育大会(50000人の合唱)が神宮外苑競技場で行なわれた。児童唱歌コンクールも今回から、音楽週間理事会主催の下に行なわれ、課題曲も従来男女各2曲であったのを1曲に改めた。男子課題曲は《入営を送る》(新訂)、女子は《富士の山》(児童唱歌)と決定した。参加校は230校にのぼった。数のうえで多数参加しただけでなく、成績も数段の進歩をみせた。優秀校は男子が熊本の碩台校、女子が仙台の南材木町校だった。
■第6回=1937(昭和12)年■
この回から、府県別、地方・中央の各コンクールに分けて実施された。課題曲は男子が《白帆》(児童唱歌)、女子が《菅公》(新訂)だった。参加校は254校で、このうち入選した106校が地方コンクールに出場し、最後の栄冠は男女ともに熊本の碩台校に帰した。
■第7回=1938(昭和13)年■
この年の第6回音楽週間は、全関東吹奏楽聯盟、大日本作曲家協会、日本演奏家聯盟、大日本音楽協会、日本現代作曲家聯盟があらたに音楽週間理事会に加わった。また後援者としては、厚生省、内務省、教育総監部、日本文化中央聯盟が加わった。第7回児童唱歌コンクールの課題曲は男女とも共通で、音楽週間理事会撰の《空の荒鷲》であった。これは全国子供の歌として広く唱和させようとあらたに撰定されたものであった。参加校は男児110校、女児225校の計335校で、満洲や朝鮮の参加を得たことを銘記したい。優勝は男子が仙台の南材木町、女子は熊本の碩台であった。このところコンクールは仙台と熊本の独壇場というべき観がある。
■第8回=1939(昭和14)年■
第8回児童唱歌コンクールも、音楽週間理事会が全国子供の歌としてあらたに撰定した《日本の秋》を男女共通の課題曲として発表した。参加校は男児147校、女児243校の計400校で満洲、朝鮮からの参加も得た。最優秀校は男子が愛媛師範の附属小学、女子が仙台の南材木町であった。また満洲では、全満児童唱歌コンクールが組織立った方法で実施され、本コンクールに全満代表校を出場させ、全満代表の児童が若々しく力強い姿を現したことは感激の極みであった。
■紀元2600年奉祝児童唱歌大会=1940(昭和15)年■
児童唱歌コンクールもようやくその基礎を固め、組織や機構も整備されて、一応所期の目的を達成しうる段階にまで到達した。しかもこの事業は日本放送協会と不即不離の間柄であった。たまたま日本放送協会で紀元2600年奉祝児童唱歌大会の計画があり、本コンクールも、今後いよいよあらゆる放送機能を動員させる時期にきていたので、音楽週間理事会と日本放送協会とは児童唱歌コンクールの事業を日本放送協会主催に委譲することとなった。こうして紀元2600年奉祝児童唱歌大会が誕生した。日本、朝鮮、台湾、満洲の代表も参加して課題曲である紀元二千六百年奉祝小国民歌を歌い、よき年を祝った。そして今後は日本放送協会主催の下に児童唱歌大会が行なわれることとなった。児童唱歌コンクールは前年度[第8回]をもって一応終焉を告げたが、このコンクールの精神は姿を変えてさらに成長していくであろう。そしてやがては、日満南方諸民族を含む大東亜共栄圏児童唱歌大会の名の下に、あるいはその技術を練磨し、あるいはその成果を披露しあう日も近いことであろう。
【2003年5月3日+5月6日+5月7日+5月11日】
◇ハーモニカ独奏コンクール発展史(特集・日本の音楽競技史)/宮田東峰(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.61-64)
内容:戦時下、生産拡充にともなう勤労者の構成運動が重要視されるにしたがって、ハーモニカ音楽が厚生音楽の重要部門として注目されるにいたった。昨秋開催された全日本ハーモニカ独奏競演会は、ハーモニカ音楽の水準を高めるうえからも、厚生音楽としての意義を知らしめるうえからも効果的な企画だった。だが、こうしたコンクールが開催されるようになってから、すでに12年の歴史をもっている。/最初に開催されたハーモニカ・コンクールは1931(昭和6)年7月15日で、大日本ハーモニカ音楽協会が主催した「第一回全国都市対抗独奏選手権大会」である。これは『音楽新聞』社主であった村松道彌が企画したものだった。この時は15都市23名が出演し、課題曲は《イル・ロトバトール》抜粋曲で、審査員は堀内敬三、平野主水、川口省吾、春柳振作、上原秋雄、松原千加士に宮田東峰だった。成績は、優勝が栗原重太郎(東京)、二等が佐藤章二(八王子)、三等が櫻井陽一(東京)、四等が荘司孝(東京)、五等が齋藤金次郎(福島)だった。次は1932(昭和7)年で前年と同じ協会の主催で「第二回全日本ハーモニカ独奏選手権大会」の名称で、7月10日午後1時から市政講堂で結晶大会を行ない、午後6時30分から日比谷公会堂で当選者発表演奏会を開催した。当日は全国から17名が参加して、名誉審査員に堀内敬三、平野主水の2名、審査員は春柳振作、川口省吾、上原秋雄、松原千加士、宮田東峰だった。この時の当選者には、現在作曲界の新鋭として活躍している早坂文夫や陶野重雄などの名がある。このときの課題曲は堀内敬三作曲の《エチュード》で、東京地方代表の第一位が櫻井陽一、第二位が保坂實、第三位が陶野重雄、西日本代表の第一位が篠崎幸蔵(九州)、第二位が梶又一郎(神戸)、第三位が吉田豊(九州)、東日本代表の第一位が山下多慶一(金沢)、第二位が早坂文夫(北海道)、第三位が原田武次だった。/その後一時中断をしたが、全日本ハーモニカ聯盟がこれまでの独奏選手権大会を引き継ぎ「全日本ハーモニカ聯盟独奏コンクール」の名称で挙行することになった。こちらの最初は、東京市の主催で1935(昭和10)年8月10日に開催される予定が雨天のため13日に実施された。決勝大会には堀内敬三、(故)伊庭孝、深井史郎、菅原明朗、(故)鹽入亀輔を審査員に依頼した。この時からその演奏者の技術的水準によりA級とB級に分け、A級には《庭の千草変奏曲》を、B級には《蛍の光変奏曲》を課題曲とした。A級第一位は吉本修太郎(和歌山)、第二位が橘正春(茨城)、第三位が小野尚太郎(神奈川)、B級は第一位が八幡修一(東京)、第二位が関口重雄(東京)、第三位が鈴木泰俊(神奈川)であった。第二回は一年置いて1937(昭和12)年6月1日に決勝大会を開催した。この回は全日本ハーモニカ聯盟主催で、堀内敬三、鹽入亀輔、深井史郎にくわえて門馬直衛、牛山充を審査員に迎えた(伊庭孝はこの年の春に死去)。A級は古関雄而の《風の中の漂泊人》が、B級は陶野重雄の《プレリュード》が課題曲で、A級第一位は齋藤翠(東京)、第二位が八幡修一(東京)、第三位が中村正美であった。B級は第一位が江波戸栄一(千葉)、第二位が豊田精太郎(東京)であった。この年、日中戦争が起こりコンクールも一時中断のやむなきにいたった。/しかし1941(昭和16)年12月に戦争が勃発し、厚生音楽として、また国民の健全娯楽としてハーモニカ音楽の使命が重大なとき、1942(昭和17)年、5年ぶりで第三回の「ハーモニカ独奏競演会」が開催された。これは情報局と東京市の後援、日本音楽文化協会と全日本ハーモニカ聯盟が主催し、10月31日午後、丸ノ内産業中央会館で決勝大会が開かれ、翌11月1日午後6時から日比谷公会堂で優勝者発表大会が開かれた。第三回は時局下の生産拡充に邁進する厚生音楽としてのハーモニカ音楽の重要性にかんがみ、青年部A級、B級とし、ほかに産業部、少年部をもうけて国民大衆の健全娯楽としてのハーモニカ音楽の普及徹底を期した。審査員には全日本ハーモニカ聯盟の役員13名が担当するほか、名誉審査員として情報局情報官・藍澤重遠、同・宮澤縦一、東京市の村松竹太郎、日本放送協会から有坂愛彦、同・大塚正則、日本音楽文化協会から大木正夫、同・山本直忠、さらに小松耕輔、堀内敬三、増澤健美が参加し、情報局第五部第三課長・井上司朗、京極高鋭子爵、山田耕筰、中山晋平を顧問として開催された。課題曲は、青年部A級が《課題曲》、B級が《前奏曲》でいずれも全日本ハーモニカ聯盟制定曲であった。結果はA級第一位が森本惠夫、第二位が松原朝雄、第三位が小住明だった。一方、梶又一郎等を中心として組織した関西の日本リード音楽協会が、1940(昭和15)年までに3回の独奏コンクールを関西で行ない優秀な成績を上げた。これらのコンクールによってハーモニカ音楽の音楽的価値が高められたといえる。しかし、これからはハーモニカの楽器としての性能を活かした音楽の確立が重要な問題である。ハーモニカ音楽は日本が一番発達している点から考えても、南方共栄圏の文化工作に欠くべからざるものであり、独奏コンクールの将来はさらに注目されるものがあると信じる。
【2003年5月13日+5月15日】
◇ギター・マンドリン・コンクールの史実(特集・日本の音楽競技史)/相馬千里(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.64-67)
内容:1923(大正12)年1月21日、武井守成男爵を会長とするシンフォニア・マンドリニ・オルケストラ(現在の武井楽団)の主催のもとに、「第一回全国マンドリン合奏団競演会」が帝国ホテル演芸場で開催された。審査員はグリエルモ・ヅブラウォッチ、瀬戸口藤吉、大沼哲、松本太郎で、課題曲はブラッコ作曲の《無言詩》だった。参加団体は東京帝大マンドリン倶楽部、マニマ・マンドリンクラブ、慶応義塾マンドリン倶楽部、ソチエタ・マンドリニスティカ・ディ・ヨコハマ、東京プレクトラムソサィティ、オルケストル・「エトワール」、同志社大学マンドリンクラブと盛大であった。優勝候補として目されていた慶応義塾を押さえ、同志社大学が栄冠を勝ち得たが、その中には先年亡くなった大田黒養ニが一奏者として活躍していた。「第二回全国マンドリン合奏団競演会」は関東大震災があったにもかかわらず、翌1924(大正13)年11月31日[ママ]午後1時より帝国ホテル演芸場で開催された。主催はオルケストラ・シンフォニカタケイ、コンクール会長に武井守成、審査員は武井守成、ヴィブラウィッチ、瀬戸口藤吉、大沼哲、田中常彦、菅原明朗、課題曲はファンタウィッシィ作曲の《ソレントの女》だった。参加団体はアニマ・マンドリンクラブ、東京プレクトラムソサィティ、法政マンドリン倶楽部、同志社マンドリン倶楽部、明治大学マンドリン倶楽部、東京帝国大学マンドリン倶楽部、ニァポリタンマンドリンクラブ、オルケストル「エトワール」、東京マンドリン協会、早稲田大学音楽会マンドリン部、オルケストラ・シンフォニカタケイの10団体で、優勝は同志社大学マンドリン倶楽部とオルケストル「エトワール」だった。今回は前回に比して格段の技術の向上が認められた。こうしてマンドリン合奏は短時日のあいだに盛大さを得ることとなった。課題曲の選定には表現技術のもっとも一般的なもの、解釈の自由性をもつもの、いわば個性的発現の多くあるものを考慮した。したがって審査方法も楽曲の解釈と演奏技術の的確に均整のとれた表出を俟ち、アンサンブルの総体的融和統合の整った有機的演奏を要望し、音色、音性の透明な美しさを期待した。そして課題曲と随意曲とでは、課題曲に審査の重点がより多くおかれた。主催者は一部の審査員に対しては、参加団体の随意曲を全般にわたって演奏して楽曲の概観を認知させ、一部の審査員にはまったく白紙で審査に臨めるような方法をとった。参加団体はあらかじめ3ヵ月前に課題曲を与えられた。/作曲コンクールは演奏コンクールとほとんど期を同じくして、武井によって意図された。これは日本人の創作によるギター・マンドリンのレパートリーの形成をもとめたのである。その経過発表は『マンドリン・ギター研究』大正13年12月号に詳述されている。それによれば、マンドリン及びギター独奏曲コンクール入選曲及び入選者として、マンドリン曲が井上秀治、宮田政夫、ギター曲が堀清隆で、ともに一等なしの二等であった。応募は約50曲あった。1927(昭和2)年8月発表のマンドリンオーケストラ曲コンクールでは12曲の応募があり、堀清隆《陽炎》、鈴木静一《空》、井上繁隆《セレナード》が入選者ならびに入選曲であった。1928(昭和3)年7月発表のマンドリン・ギター二重奏曲コンクールは標題が《夏》で、入選者は北村卓二と宮田政夫だった。1928(昭和3)年9月発表のマンドリンオーケストラ曲コンクールは応募総数14曲で、鈴木静一《北夷》、堀清隆《十の変奏曲》が一等なしの二等入選、選外佳作として木下邦吉《ミヌエット》があった。1929(昭和4)年のマンドリンオーケストラ曲コンクールは入選曲がなかったため中止となった。以上のコンクールの審査委員には武井守成、大沼哲、菅原明朗の諸氏がその任に当たっている。表彰としては奨励金として一等に100円、二等に50円が与えられた。なお後年、澤口忠左衛門の『アルモニア』誌がギター・マンドリン・コンクールを主催している。以上、作曲コンクールの創始として武井楽団主催によるものを挙げ得るのだが、これは作曲種目が特定の楽器(マンドリンとギター)に限られていたためやむをえなかったのであろう。しかし一方、日本人の創作活動を促し、その紹介につとめたことは特筆に価する。マンドリン合奏は職業的な専門楽団の結成にはいたらず、しだいに管弦楽に席を譲り音楽運動の本流から遠ざかった。そのなかにあって武井楽団のみはマンドリン合奏の正当な演奏を行なっている。これは世界にも類例のない正統的マンドリン合奏団であるといって過言ではない。 (完)
【2003年5月16日+5月19日】
◇吹奏楽コンクール裏面史(特集・日本の音楽競技史)/目黒三策(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.68-73)
内容:民間の吹奏楽団は学校、会社、向上、青少年団等にそれぞれその団体の要求で生まれたものであるから、技術を競う必要がどこにあるかと非難攻撃を受けたものだ。吹奏楽界では、コンクールは嫌われものだった。東京では、1935(昭和10)年に第1回「吹奏楽コンクール」が「音楽週間」の行事としてはじめられた。あいだに1年、日中戦争がはじまったときはコンクールでもあるまいと日独伊三国協定祝賀の記念行進を行なった。その後コンクールは中止どころか、ますます盛大になってきた。/音楽週間というのは東京音楽学校の日本教育音楽協会が主体になって、当時のあらゆる音楽団体に呼びかけて盛りだくさんの行事を行なった。6、7年続いたが政府から「何々週間」は一切いけないという方針が出され中止したが、五万人の合唱(女子音楽体育大会)、児童唱歌コンクールのように、今日まで継続されているものもいくつかあるが、吹奏楽コンクールも、そして続いて開始された「吹奏楽器個人コンクール」もその立派なものの一つと言い得るだろう。/1936(昭和11)年、全関東吹奏楽聯盟が結成され、その翌年から吹奏楽コンクールは聯盟と音楽週間理事会との共同主催のかたちとなった。1940(昭和15)年から聯盟が単独で主催して「吹奏楽競演会」と名称変更された。音楽週間理事会が吹奏楽競演会を始めたのは不思議に思われるかもしれないが、「音楽週間」の同案者が楽壇のプランメーカーである白井保男で、それに日本管楽器の中島惣策が相談相手になっていたから不思議なことではないのである。この人たちが無理に押し付けてきたから吹奏楽界で嫌われていたコンクールができたのだと思う。音楽週間のコンクールは東京で始めた1年前に名古屋で先鞭をつけている(連盟を結成したのも東海が関東や関西よりも早い)。全国的統合団体として大日本吹奏楽聯盟を主唱したのも名古屋だと、神納照美などは言っている。大日本吹奏楽聯盟ができて、全国的な競演会を行なうようになってから、地方の競演会はその予選として一段格下げされたが、関東は歴史を継続したいとして「第○回全関東吹奏楽競演会」という名称のままで行ない、ここで優勝した団体を大日本競演会に派遣するというしくみで、予選会を兼ねている。この大日本吹奏楽競演会も、1942(昭和17)年の第3回から「大日本吹奏楽大会」と名称を変更した。やることは従前どおりだが、それにならって、関東は全関東吹奏楽大会、名古屋は全東海吹奏楽大会となった。吹奏楽の団体コンクールは、この大日本吹奏楽大会のほかに、産報と日本放送協会共同主催の「勤労者音楽大会」がある。これも放送による競演以外の何物でもないが、音楽大会であって競演会ではない。産報の前身、産業報国聯盟の当時にも一度同種の競演会が行なわれたが、いまの「勤労者音楽大会」はその歴史を継承していないようだ。/■全関東吹奏楽大会■各回の優勝団体を記す。
学生の部 | |||
吹奏楽学生部 | 喇叭鼓隊学生部 | ||
第1回 | 1935(昭和10)年 | 府立第一商業学校 | 専修商業学校 |
第2回 | 1936(昭和11)年 | 府立第一商業学校 | 専修商業学校 |
第3回 | 1938(昭和13)年 | 府立第一商業学校 | 専修商業学校 |
第4回 | 1939(昭和14)年 | 第四峡田小学校 | 専修商業学校 |
第5回 | 1940(昭和15)年 | 府立第一商業学校 | 川越商業学校 |
第6回 | 1941(昭和16)年 | 府立化学工業学校 | 川越商業学校 |
第7回 | 1942(昭和17)年 | 府立化学工業学校 | 川越商業学校 |
一般の部 | |||
吹奏楽一般部 | 喇叭鼓隊一般部 | ||
第1回 | 1935(昭和10)年 | 東京電気マツダ音楽団 | 記載なし |
第2回 | 1936(昭和11)年 | 石川島造船所 | 神戸喇叭修得団 |
第3回 | 1938(昭和13)年 | 石川島造船所 | 神戸喇叭修得団 |
第4回 | 1939(昭和14)年 | 石川島造船所 | 神戸喇叭修得団 |
第5回 | 1940(昭和15)年 | 日本管楽器株式会社 | 記載なし |
第6回 | 1941(昭和16)年 | 日本管楽器株式会社 | 記載なし |
第7回 | 1942(昭和17)年 | 鉄道省大宮工機部 | 記載なし |
学生の部では、吹奏楽の第4回に国民学校の第四峡田が優勝した。この回は第二位が大阪東商業、第三位が東京府立一商であったのだから、相手が不足だったわけではなく指導者の熱と団員の結束力が結実したのだ。一般の部では、石川島の全盛時代はアマチュアの吹奏楽団の最高水準を行くものだと評されたが、1939(昭和14)年をさいごに競演場から引退したことは惜しまれる。神戸喇叭修得団の実力は驚嘆すべきもので、民間の喇叭吹奏の技術がここまで達したかと賛嘆されることとなり、競争相手がなくなってしまった。なんらかの対策を講じなければならないと考えていたが、1940(昭和15)年から大日本聯盟が全国的な競演会を主催することになったので、この問題は自然解消となった。/■大日本吹奏楽大会■大日本吹奏楽聯盟の第1回の全国的競技会は、1940(昭和15)年すなわち紀元2600年の記念行事として大阪市で、第2回は名古屋市で、どちらも「大日本吹奏楽競演会並大行進」という名称であったが、第3回は前述のように「大日本吹奏楽大会」と名称を変更して福岡市で行なわれた(大会の優勝団体は表のとおり)。
大日本吹奏楽大会優勝団体一覧 部門 第1回=1940年 第2回=1941年 第3回=1942年 (大阪) (名古屋) (福岡) 吹奏楽 学生部 大阪東商業学校(関西) 東邦商業学校(東海) 東邦商業学校(東海) 同 一般部 金光教玉水青年会(関西) 日本管楽器株式会社(関東) 岡本工業株式会社(東海) 喇叭鼓笛 学生部 川越商業学校(関東) 川越商業学校(関東) 専修商業学校(関東) 同 一般部 神戸喇叭修得団(関西) 神戸喇叭修得団(関西) ナシ 鼓笛隊 学生部 門司高等女学校(九州) 東京商業実践女学校(関東) 同 一般部 日東紡績名古屋工場(東海) 荒川ノーシン会社(東海) 喇叭隊 学生部 愛知県一宮中学校(東海) 浪華商業学校(大阪) 同 一般部 神戸塚本六(関西) 神戸塚本六(関西)
なお開催された月日は、すべて11月23日の新嘗祭の日が選ばれた。また、競争の弊を避けるために、第3回大会から2ヵ年連続の優勝団体は大会に招待して模範演奏を行なうことにしたので、川越商業学校と神戸喇叭修得団は、第3回大会に特別団体として招かれた。団体競技に優勝するのは平素の訓練と指導者の優劣がものをいう。こうした条件が整っていれば、一つの団体が相当の期間連勝することになって競技会の意義が薄くなるので、「特選」の制度を設けたことはよかったと思われる。しかし審査員の見方の相違や、その日のでき・ふできで意外な結果が現れるからおもしろい。日本放送協会と参報が主催した「勤労者音楽大会」の吹奏楽の競演が10月17日に行なわれたが、これには日本管楽器株式会社の吹奏楽団が優勝をかちえた。同日行なわれた聯盟の関東予選大会には、すでに勤労者大会の予選で失格した鉄道省大宮工機部が優勝し、第3回大会に出場した結果は吹奏楽一般部で第3位であった。/
■吹奏楽器個人競技会■この競演会の第1回と第2回は音楽週間理事会と全関東吹奏楽団聯盟が主催し、第3回以後は聯盟の単独主催になった。個々人の技術の向上が団体の技術を向上させることになるため、この競演会が吹奏楽に寄与した功績は大きい。
部門 | 第1回=1938(昭和13)年 | |
優勝者 | 所属 | |
吹奏楽器 学生部 | 古城泰之(コルネット) | 府立第一商業学校 |
同 一般部 | 久保田専次(小バス) | 茨城県日立鉱山 |
喇叭隊楽器 学生部 | 宮本栄治(小喇叭) | 専修商業学校 |
同 一般部 | 諸田義雄(小喇叭) | 神戸喇叭修得団 |
打楽器 学生部 | 飯田周作(小太鼓) | 専修商業学校 |
一般部 | 岡本晴男(小太鼓) | 神戸喇叭修得団 |
部門 | 第2回=1939(昭和14)年 | |
優勝者 | 所属 | |
木管楽器 学生部 | 森重良精(サクソフォン) | 府立第一商業学校 |
同 一般部 | 大森晃夫(クラリネット) | 茨城県日立鉱山 |
金管楽器 学生部 | 大石清(バス) | 府立第一商業学校 |
同 一般部 | 高橋鐵之助(コルネット) | 日本管楽器会社 |
喇叭 学生部 | 宮本栄治(小喇叭) | 専修商業学校 |
同 一般部 | 濱口正一(小喇叭) | 神戸喇叭修得団 |
打楽器 一般部 | 高野保男(小太鼓) | 神戸喇叭修得団 |
部門 | 第3回=1940(昭和15)年 | |
優勝者 | 所属 | |
木管楽器 学生部 | 鬼俊武(クラリネット) | 逗子開成中学校 |
同 一般部 | 森孝彦(サクソフォン) | 福岡市菊屋百貨店 |
金管高音楽器 学生部 | 内田富美彌(コルネット) | 京北実業学校 |
金管低音楽器 学生部 | 土屋宏(トロンボーン) | 化学工業学校 |
同 一般部 | 高橋義隆(バス) | 日本フェルト会社 |
喇叭 学生部 | 下前田明(小喇叭) | 専修商業学校 |
同 一般部 | 諸田義雄(小喇叭) | 神戸喇叭修得団 |
打楽器 学生部 | 大田黒渉(小太鼓) | 専修商業学校 |
同 一般部 | 岡本晴男(小太鼓) | 岡本晴男 |
部門 | 第4回=1941(昭和16)年 | |
優勝者 | 所属 | |
木管楽器 一般部 | 中尾正(クラリネット) | 日本管楽器会社 |
金管高音楽器 一般部 | 長原良一(コルネット) | 大阪Y・M・C・A |
金管低音楽器 学生部 | 飯塚経吉(トロンボーン) | 逗子開成中学校 |
同 一般部 | 森田信治(バス) | 日本管楽器会社 |
喇叭 学生部 | 伊藤康哉(小喇叭) | 専修商業学校 |
同 一般部 | 徳永清 | 神戸喇叭修得団 |
打楽器 学生部 | 秋山彌一郎(小太鼓) | 専修商業学校 |
同 一般部 | 大石隆(小太鼓) | 日本管楽器会社 |
別表の優勝者の中で、第1回小太鼓の飯田周作は新響の団員になったり、第2回バスの大石清が東京音楽学校に入って専門家に転向するという副産物も生まれた。吹奏楽に関していうならば、民間の吹奏楽が今日の技量に達して、どうにか聴けるようになったのは、コンクールの効果にその半分は帰すると言っても過言ではなかろう。
【2003年5月20日+5月22日+5月27日】
◇勤労者音楽大会記録(特集・日本の音楽競技史)/安藤贋(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.73-76)
内容:「勤労者音楽大会」といわゆる競演会とは、いささか趣を異にしている。簡単にその趣旨を述べ、大会要綱と成果を記す。■1■「競演会」の目的は、その種目の普及と水準の向上と、覇者を決めて未知の専門家を求めることが挙げられる。これらは密接な関係にあるが、競演会には後者に重きが置かれているものが多い。「勤労者音楽大会」の本来の趣旨には「争覇」は含まれておらず、厚生運動の一つとしての音楽普及向上に重点を唯一の目的としている。大会の実施方法として府県予選、地方大会、全国大会の競演的三段階に分けられたのは、この大会を全国的な大運動とするための形態をととのえる一つの手段に過ぎない。したがって、本大会は府県予選を重視し、技量の上下を問わず職場楽団の出場を促すために諸制限をできるだけ緩やかにしてある。■2■「第二回勤労者音楽大会」の要綱を見ていく。
1.日時:略[本文のまま] |
2.主催:日本放送協会、大日本産業報国会 |
3.種目:(イ)合唱(ロ)吹奏楽(ハ)ハーモニカ合奏[第1回には含まれず] |
4.参加資格: (イ)工場鉱山会社商店等に属する音楽団体で合唱20名以上、吹奏楽15名以上、およびハーモニカ合奏15名以上の団員を有するものであること。ただし、ハーモニカ合奏においてはハーモニカ以外の楽器の演奏人員は総員の5分の1を越えてはならない。 (ロ)各団体は事業主の認可を得たもので団員は音楽の特技によって雇われた者を除く。ただし指揮者と伴奏者はこの限りでない。 |
5.曲目:課題曲、随意曲ともに予選から最終選まで変更しないものとする。随意曲は敵性国家の作品を除く。 (イ)合唱:課題曲は国民合唱《世界の果までも》(相馬御風作詞、弘田龍太郎作曲)。随意曲は演奏時間5分以内の曲で、斉唱合唱のいずれでもよい。歌詞は日本語に限る。 (ロ)吹奏楽:課題曲は《愛国行進曲》(帝国陸軍軍編曲)。随意曲は演奏時間5分以内の曲。 (ハ)ハーモニカ合奏:課題曲は《愛国行進曲》(瀬戸口藤吉作曲)。随意曲は演奏時間5分以内の曲。 |
6.実施方法:(1)府県大会(2)地方大会(3)全国大会の3段階に分けて行なう。府県予選は公開で行ない、地方大会は各府県代表によって各中央放送局の管轄中継放送を行ない、各局一種目一団体を選出して、これを地方代表とする。全国大会では地方代表団体を全国中継放送で審査し、各種目の第3位までを決定する。会期は明記されていない。 |
7.審査:略[本文のまま] |
8.賞: 略[本文のまま] |
■3■第1回および第2回勤労者音楽大会全国大会に出場した各地方代表団体名を挙げる。( )内は発局名。●第1回大会: (1)合唱の部 北海道地方代表(函館)株式会社捧に森尾産業報国会合唱団、東北地方代表(仙台)東北金属工業株式会社合唱団、関東地方代表(東京)東京芝浦電気株式会社マツダ支社産業報国会混声合唱団・・・第1位、中部地方代表(名古屋)東邦電力株式会社名古屋支店合唱団、関西地方代表(大阪)阪神急行電鉄株式会社産業報国会合唱団・・・第2位、中国地方代表(広島)大和紡績広島人絹工場女声合唱団、九州地方代表(長崎)三菱重工業株式会社長崎造船所合唱団・・・第3位 // (2)吹奏楽の部 北海道地方代表(札幌)日本製鉄株式会社輪西製鉄所吹奏楽団・・・第2位、東北地方代表(福島)日本紡績株式会社福島工場吹奏楽団・・・第3位、関東地方代表(東京)日本ビクター産業報国会吹奏楽団・・・第1位、中部地方代表(名古屋)大同製鋼株式会社熱田工場吹奏楽団、関西地方代表(大阪)松下電器産業報国会歩一会音楽団、中国地方代表(岡山)玉造船所産業報国会ブラスバンド、九州地方代表(小倉)株式会社日立製作所戸畑工場吹奏楽団 ●第2回大会: (1)合唱の部 北海道地方代表(東京)三越札幌支店女声合唱団・・・第2位、九州地方代表(大阪)三菱重工業長崎造船所合唱団・・・第3位、東北地方代表(東京)東北金属工業産合唱報団、中国地方代表(大阪)大和紡績広島人絹工場合唱団、中部地方代表(名古屋)中部配電参報合唱団、関西地方代表(大阪)阪神急行電鉄産報合唱団・・・第1位、関東地方代表(東京)三越本店参報合唱団 // (2)吹奏楽の部 北海道地方代表(東京)日本製鉄輪西製鉄所吹奏楽団・・・第2位、九州地方代表(大阪)三井化学工業三池染料工業所吹奏楽団、東北地方代表(東京)日東紡績福島工場参報吹奏楽団、中国地方代表(大阪)広島鉄道局奉公会本部吹奏楽団、中部地方代表(名古屋)大同製鋼参吹奏楽団・・・第3位、関西地方代表(大阪)松下電器産報歩一会音楽部、関東地方代表(東京)日本管楽器吹奏楽団・・・第1位 // (3)ハーモニカの部 九州地方代表(大阪)日立製作所若松工場青年学校ハーモニカ合奏団・・・第3位、関東地方代表(東京)中島飛行機東京製作所ハーモニカ合奏団・・・第1位、中国地方代表(大阪)日本曹達米子製鋼所ハーモニカ合奏団、中部地方代表(名古屋)三菱重工業名古屋航空機製作所正風寮音楽部、関西地方代表(大阪)全川崎参報聯盟リード楽団・・・第2位 ■4■以上がラジオ体操、国民合唱、すべての厚生時間のあるいは職場向放送その他と同様、日本放送協会が関心をもっている厚生運動への一つの現れである「勤労者音楽大会」の概略である。 (完)
【2003年5月28日+5月30日】
◇合唱コンクールの概観(特集・日本の音楽競技史)/吉田永靖(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.77-82)
内容:日本でコンクールが一つの型として現れたのは、1926(昭和2)年秋から競演合唱祭の名で催された国民音楽協会の合唱コンクールが最初である。われわれはこれをコンコルソと呼んだが、このコンコルソが国民音楽協会を形づけたといったもよい。16年前[小関注・・・1926(昭和2)年のこと]ドイツから帰ったピアノ製作者の齋藤喜一郎が友人の小松清を訪ね、ピアノを1台寄贈するから有意義に使ってもらいたいと申し出た。小松は、兄の平五郎とも相談のうえ評論家・三瀦末松のところへ話を持ち込んだ。そこで合唱が一番振るわないからコンクールをやって一等にこのピアノを与えたらいいと話がまとまった。そこで主催団体を作る必要が生じ、フランスにもある国民音楽協会という名称の団体を作り、理事長に小松耕輔、ほかに白井俊一、加藤長江、牛山充、大和田愛羅、堀内敬三、増澤健美、鹽入亀輔、照井栄三、吉田正らの協力を得て、1926(昭和2)年11月23日に日本青年館で第1回の合唱コンクールが行なわれた。当時は音楽に等級をつけるのはいけない、第一できないだろう、たとえできても出演するものがなかろう、などといろいろな説が出た。その間、出演団体をくどいて回ったり作らせたりたいへんな骨折りがあった。一方、賞品はピアノだけではだめだと楽器店、レコード会社、新聞社を佐野常雄がかけ回った。初回の出演団体は11で、聴衆もいっぱいだった。第1回で一等を獲得したのは、青山学院にいたゲーリーが指揮をした半分外人の、内外オラトリオ協会合唱団だった。以来、コンクールは16年のあいだ健やかに生長して、現在は立派な事業の一つとなった。国民音楽協会は現在わが国合唱会の元締めとなっている。■コンクールの生長■やがて会場が手狭に感じられるようになり、日比谷公会堂で行なうようになった。東京市の村松竹太郎がいろいろと便宜を計ってくれた。東京市主催の名義が1936(昭和11)年まで続いた(その翌年、協会が改組)。現在では、主催は国民音楽協会、文部省・情報局・東京府・東京市の後援、日本文化中央聯盟と日本音楽文化協会の協賛ということになっている。最初、協会はコンクールが唯一の仕事だったが、1936(昭和11)年秋に大日本合唱聯盟と合併して国民音楽協会が改組となり、合唱全般の仕事をするようになって各々委員会ができた。その一つとして大日本合唱競演会ができ、1937(昭和12)年度から名称を競演合唱祭から大日本合唱競演会と改めた。委員長は堀内敬三だったが、のちに矢田部勁吉に代わった。1939(昭和14)年に女学校の合唱コンクールを行なうこととなり、女声部から女学校を抜いて、女子中等学校合唱競演会(委員長・大和田愛羅)ができた。さらに1942(昭和17)年夏からは男子学校合唱競演会(委員長・外山国彦)ができた。こうして充実してきた合唱コンクールは、6月に男子学校、10月に女子中等学校、そして11月に一般と一年中コンクールに追われるようになってしまった。■曲目■ここ10年ほど、課題曲は日本人作品をとる方針になっているようであるが、適当なものがなく、やむなく盟邦のものもでる始末。さいきんのものを挙げると、男声は特に日本人作品がなく、リーデルシャッツ物が多い。シュルツ曲井上武士詞《野路の夕べ》、メンデルスゾーン曲近藤朔風詞《船路》、同小林愛雄詞《靈泉》、クロイツァー曲飯田忠純詞《祖国に寄する歌》、同《三月の夜》、メンデルスゾーン曲飯田忠純詞《よろこばしき逍遥の人》、同《トルコの酒唄》、ステウンツ曲飯田忠純詞《林の賦》などで、日本人作品は藤井清水作曲の《水夫の唄》と本年度の成田為三曲の《不盡山を望みて》に過ぎない。女声と混声は日本人作品も多く、女声の近衛秀麿曲《新興日本少女のうた》、同《日章旗讃歌》、藤井清水曲《ちどり》、平井保喜《忘れな草》、成田為三《蝉の声》などのほか外国物のウィルソン、ベンダル、ブラームスなどがある。混声では信時潔《白銀の目貫の太刀を》《春の彌生》《クンスト、デル、フーゲ》《太寺の》のほか、新人の大井辰夫《子等を憶ふ歌》、平岡均之《湖》、岡本敏明《緋絨の》、長妻完至《早春》などがある。■審査と賞■審査は公平だったが、出演者がみな自信たっぷりであったから審査上の質問があとを絶たなかった。はじめは、20名足らずで10点満点法、その後20点満点法、200点満点法と研究され、いつも三瀦が銀行から算盤手を3、4人連れてきて大汗をかいていた。その後、増澤健美が審査委員長になって増澤式順位投票による採点法を採用するに及んで順位決定法の不服がなくなり、また時間も早くなった。1940(昭和15)年まで入賞は全体を通じて4位までで、協会としては前述のように金、銀、白銅、銅の賞碑を与えたが、ほかに副賞の盃や碑がたくさんあった。さいきんは時節柄、盃や碑は献納ということになり賞状に変わった。また入賞を合理化するように、各声部ごとに3位までを入賞とし、全体を通じて一つだけ特賞を贈るというのが今年度の試みである。■指導者と合唱団■第1回のころ華やかだったのは鏑木欽作で、横浜混声をひきいて優勝したり、美術学校の指揮をしたり、東京混声をつくったりしていた。のちには名進行係として内部で働いた。そのころ酒井悌がいて、成蹊高校の生徒を指揮して連続2回優勝し、その後は吉原規に譲られた。混声合唱のオリオンコールが初出場したときは、まちまちの服装で登場したが、そのためにとても悪い点数を付けられた。そこで翌年からタキシードで登場して4位を獲得し、わが国でも合唱団の男声はタキシードと相場が決まってきた。オリオンコールは、その後一度優勝したら、出るのをやめてしまった。次いで関西学院グリークラブが出るなりいきなり優勝旗をもっていった。当時の指導者は林雄一郎で、現在も関西合唱界で活躍しているようだ。次の時代は玉川学園で、岡本敏明はここの合唱団を3回連続優勝させた。その次が東京リーダーターフェルフェラインである。この合唱団を創ったのは山口隆俊で、のちに秋山日出夫を指揮者に迎え、自分は工場主になってしまった。この合唱団を玄人のようにおもっている人もいるであろうが、正規の音楽教育を受けた人が一人もいないことと、ビールが好きでなければならないことが自慢となっている。いつも女声では第1位で全体の優勝を譲っているホワイト(白葉会)は、リーダーターフェルの次に古いので年配の人も多い。この団体がいないと女声部が成り立たないほど大きな存在である。ユーフォニック(東京合唱団)もポリヒムニア(青年日本合唱団)も惜しいところで優勝を逃しているが、これからを期待している。地方からは、関西大学、仙台音楽協会、広島からワコルド合唱団というように、かなり遠くから参加している。近年は厚生音楽、すなわち参報系統の合唱団が多く、続々参加が増してきて、今年あたり東京電気や安田貯蓄などはちょっと古顔になってきた。■入賞合唱団ならびに順位■
順位 | 第1回 | 第2回 | 第3回 |
1 | 内外混声オラトリオ協会 | 横浜混声合唱団 | 成蹊高等学校合唱団 |
2 | 東京リーダーフェルフェライン | 東京美術学校合唱団 | 調布高等女学校合唱団 |
3 | 横浜混声合唱団 | 東京リーダーフェルフェライン | 銅羅合唱団 |
4 | 東京高等学校合唱団 | ジュンヌ・セシリエンヌ女声合唱団 | オリオン・コール |
順位 | 第4回 | 第5回 | 第6回 |
1 | 成蹊高等学校合唱団 | 芙蓉合唱団 | オリオン・コール |
2 | オリオン・コール | オリオン・コール | プリヒムニア・コール |
3 | ヴォーカルフォア合唱団 | バルメン・メンネル・コール | 成蹊高等学校合唱団 |
4 | 東京リーダーフェルフェライン | ポリヒムニア・コール | 帝都男声合唱団 |
順位 | 第7回 | 第8回 | 第9回 |
1 | 関西学院グリークラブ | 関西学院グリークラブ | 関西学院グリークラブ |
2 | ホワイト合唱団 | 東京リーダーフェルフェライン | 玉川学園混声合唱団 |
3 | 成蹊高等学校合唱団 | ホワイト合唱団 | ECクラブ |
4 | 成城高等女学校合唱団 | 玉川学園混声合唱団 | 東京リーダーフェルフェライン |
順位 | 第10回 | 第11回 | 第12回 |
1 | 玉川学園混声合唱団 | 玉川学園混声合唱団 | 玉川学園混声合唱団 |
2 | 東京リーダーフェルフェライン | 東京リーダーフェルフェライン | 東京リーダーフェルフェライン |
3 | 君が代合唱団 | 君が代合唱団 | ユーフォニック・コーラス |
4 | 東京市教員合唱団 | ユーフォニック・コーラス | ブラームス・コール |
順位 | 第13回 | 第14回 | 第15回 |
1 | 東京リーダーフェルフェライン | 東京リーダーフェルフェライン | 東京リーダーフェルフェライン |
2 | ユーフォニック・コーラス | ポリヒムニア・コール | ホワイト合唱団(白葉会) |
3 | ブラームス・コール | ホワイト合唱団 | 仙台音楽協会合唱団 |
4 | アイラ・コール | 仙台音楽協会合唱団 | 安田貯蓄合唱尾段 |
第16回 | |||
順位 | 男声 | 女声 | 混声 |
1 | 青山学院楽友会合唱団(特賞) | 白葉会合唱団 | 横浜木曜会 |
2 | 東京慈恵会医科大学賛正報国団音楽部合唱団 | ワカバ合唱団 | 仙台音楽協会合唱団 |
3 | 立教大学報国音楽部合唱団 | 青年日本合唱男女声部 | 日本電気合唱団 |
【2003年6月2日+6月4日+6月6日】
◇楽友近事/堀内敬三(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.83-85)
内容:■ハワイ音楽・ブルースなど■ときどき映画館やその他の興行場へ軽音楽を見に行くが、いまもって軽音楽をやる人々の一部が米英の楽曲を平気で演奏していて憤慨に堪えない。ずるい人になると題名を時局的に変え(たとえば《南の風》など)、作曲者名を削除して自分の名を編曲者として入れてハワイ音楽やブルースをそのままやっている。われわれは大正中期から昭和初期にかけてアメリカ的生活やアメリカ的思想に親しみ、アメリカ映画やアメリカ型レヴューを見、アメリカ音楽を聴いた。したがって、いままで慣れ親しんできた米英楽曲には親しみがあり、旧体制的・享楽的な米英楽曲を一般大衆が好むことを必ずしも咎められない。しかし、そうだからといって音楽家がその好みに媚びることは許されない。聴衆が好むものでも、有害なものは棄てなければならない。米英文化は有害であり、反国民的である。米英音楽を捨て去るように聴衆を導かなければならない。■敵国の曲を追い出そう■ジャズやブルースを演奏する人は少数だが、もっと多数の人たちは米英音楽でも良いものならやってよいと思っているのではないだろうか。さて、敵の発明でも利用できるものは利用してよい。それは「道具」だからだ。しかし音楽は精神文化の圏内に入る。敵の音楽を愛する者は敵国人の精神的影響の下に立つのだ。そんなことで戦えるだろうか。《蛍の光》も《埴生の宿》も《庭の千草》も《幾年ふるさと》も《更けゆく秋の夜》も《夕空はれて》も、われわれに永年親しまれたとはいえ、敵の曲だ。そんなものに恋々としては戦争はできない。家庭からも学校からも演奏会からも、あらゆる米英の曲を追い出してしまう。それが音楽者としての戦争の手始めだ。■楽譜・楽書の出版企画■日本出版文化協会の委嘱によって、私たちは各出版業者から出る楽譜及び楽書出版の企画を調べて用紙の割当について意見を述べている。驚いたことに出される企画には敵国の曲も多く入っているし、旧体制的な退廃的流行歌も入っている。無知から出てくるのであろうが、そんな出版に戦時下の大切な紙を浪費することは許されないと思う。重複出版も国民歌や軍歌などは数多く必要だから各社から大同小異の出版が認められて良いが、そうでない場合は良いものだけにとどめて、幾種類も出す必要はないと思う。■「海行かば」と国民皆唱運動■日本音楽文化協会から《海行かば》を国民必唱の曲として公的に選定なり推奨なりしたいという意見が出ている。実際に《海行かば》は《愛国行進曲》につづく準国歌のような扱いを受け、広く用いられている。大政翼賛会が国民皆唱運動を開始するという噂がある。ちょうどその時期にこれを始めて、歌によって儀式を荘厳にし、会合を溌剌とさせ、歌を通じて会衆の気持ちをひとつに昂揚させ、かつ協力団結の精神を養うことは当を得たことであろう。ただし、この場合に流行歌めいた妙な節を教訓的な歌詞に無理やり押し付けたような宣伝歌を歌わせることは絶対に避けたい。■ローエングリン■藤原義江歌劇団では永年の宿願がかなって、1942(昭和17)年11月末、東京の歌舞伎座で《ローエングリン》を上演した。夜6回、昼2回と合計8回行ない、だいたい満員で通すことができた。これを上演するために歌手も合唱も管弦楽も数ヶ月の練習をつみ、いまの段階では、これ以上は望めないところまで稽古した。ただ正直のところ、従来から、うっかり手を動かすだけで1拍遅れたり5〜6歩歩くだけで1小節出損なったりすることが多かったために演技の方で犠牲を払わなければならなかった。歌劇としての思想的内容が高く、単に娯楽的でないので戦時下の文化活動にふさわしいものであった。■追悼演奏会など■英霊追悼の演奏会はなるべく差し控えたほうがよい。また、この戦時下に英霊をさしおいてワインガルトナーの追悼やオネガーの祝賀といった演奏会をやる必要がどこにあろうか。■佐藤清吉楽長逝く■1942年11月24日、海軍軍楽大尉・佐藤清吉は腎臓病のため死去。享年58歳。佐藤は1885(明治18)年6月仙台に生まれ、1901(明治34)年6月海軍軍楽隊に入り、クラリネット担当。日露戦役には三笠に乗り込んで出征。1908(明治41)年海軍で管弦楽を創設したときには東京音楽学校委託学生第1期生としてヴァイオリンを専攻。1924(大正13)年海軍軍楽隊東京派遣所楽長となり、海軍に30年勤務して1930(昭和5)年12月、予備役に編入された。その後民間で活躍したが、晩年は大日本吹奏楽聯盟常務理事、日本音楽文化協会理事(国民部担当)として吹奏楽界全般の指導的地位にあった。この急にして惜しむべき佐藤の死は、過労の結果であったと思う。 (完)
【2003年6月8日+6月10日】
◇故・佐藤清吉を語る/河合太郎(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.86-88)
内容:1942年10月はじめ、佐藤が電話で眼がかすみすぐに疲れて困ると言ってきた。その月の末から11月中旬にかけて広島から呉の方を旅していたが、平常から健康だったため、その間に佐藤が入院していたとは知らなかった。11月18〜19日になって佐藤が海軍病院に入院していることを知らされ、22日の日曜日に病院へ駆けつけた。見舞いの言葉をかけ手を握ったところ、力のない痩せた手で握り返してきた。また佐藤は小さい声で話したが、判りにくくたいへん苦しそうだったので、後日治ったらゆっくり話そうと言ったところ、お前が以前腎臓を患ったときはどんな具合だったかと聞かれ、自分は肝臓だったと話したら「なんだ、肝臓か」と、とても落胆していた。いま思うとかわいそうなことをした。11月24日の朝、佐藤が死んだと電話があった。/佐藤は北海道の出身で1901(明治34)年、河合や近藤とともに海軍に入った。日露戦争に出かけ、軍楽隊員にも10数名の死傷者を出した激戦のときも、かすり傷ひとつせずに奮戦した。その後、日本沿岸巡航に加わったり、派米艦隊として欧米16ヵ国の華やかな大航海にも参加した。帰国後、第1期の軍楽練習生として東京音楽学校に入学し、優秀な成績で卒業した。1913(大正2)年には軍楽師に、しばらくして練習艦隊楽長として豪州方面へ航海した。この頃の佐藤は、いたる所で歓迎された。帰国して再び南清防備艦隊の軍楽長としてタイ国からいまの激戦地南洋諸島を巡航した。そして田中軍楽長の引退後、佐藤は東京派遣所軍楽隊長として名楽長の名を欲しいままにした。1930(昭和5)年退役となるや松竹の楽長となり、さらに吹奏楽聯盟の理事、文化協会の理事もしてこれからを期待されていたところ病魔に犯され、58歳で逝った。佐藤は温厚な紳士であった。また清楚な服装もいつも気持ちが良かった。
【2003年6月12日】
◇日本の発声と西洋の発声 <座談会>/田口?三郎 菅原明朗 湯浅永年 四家文子 佐藤美子 中能島欣一 櫻間道雄 町田嘉章 堀内敬三 本誌記者(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.90-108)
内容: 町田:今回司会をつとめることとなった。西洋と日本の発声法を漫然とならべて話すより、洋楽研究の方に発声に関する一般的な話を伺い、邦楽研究家からは各自の専門的な立場からいろいろ具体的な話を伺いたい。そのうえで相互の相違点や一致点についてついて話し合うようにしたい。まず菅原さんから口火を切っていただきたい。
■発声法とは何か■ 菅原:日本語の発声という言葉が、フランス語のヴォアやイタリア語のヴォチェなどの声をいっているのか、声楽的な唱法としてのヴォカリザシオンをいっているのか、それとも詞の発音法をそれに加えたデクラメをいっているのかわからない。声楽では咽喉がどうなっているか当人にも見えない。主観の主張というのが客観的にもどうかということも疑問ではないかと思う。湯浅:人間の咽喉をひとつの楽器とみて、声帯から出てきた声を共鳴させるとき、共鳴器のほうに人種的な特徴が出てきたり、それから個人的に音色の変化が出てくるが、声帯の使い方を発声法とするならば、人類すべて同じ方法で声を出す。ところが、そこに出てきた音色をいいとか悪いとか言って分けるので、日本人の声と西洋人の声は違うし、同じ西洋でも南北で異なってくる。それでは西洋音楽ではどういう発声法を一番いいと考えるかといえば、声帯をもっとも自然な状態に置いて、音の高低が揃い、5つの母音の変化も出せるというのがいい。そうするとドイツ式発生とかイタリアのベルカントとかいって区別するのは科学的ではない(菅原、同意)。西洋のメロディを歌うときは、話し声と同じ声で歌うのが一番いい。言葉がはっきり聞きとれないようになったのは悪い発声だというが、不ぞろいの声が出る。日本音楽のほうは平生話しているときより人工的なところがあるのではないかと思う。日本人が西洋の歌を歌う場合、西洋式の発生を真似すると必ず楽器に無理が起こってくる。だから日本の楽器として100パーセントの共鳴を得たものが一番いい。日本人と西洋人とでは骨格が違っている点から、西洋と日本とは違う声があるはずだ。町田:たしかに神楽とか大和歌など日本固有の歌を歌うときは自然な声の出し方をしている。技巧的な歌になると地下声(じげごえ)といって昔は軽蔑されていたが、それにも特色が出てきて後世に及ぶと別の音楽の形をかたちづくることとなった。菅原:現代各流派の邦楽の名人の声は自然だと思う。町田:ところ哥澤や薗八の声の出し方などには非常に違うものがある。櫻間先生から能の発生についてお願いしたい。
■謡曲の発声■
櫻間:能は舞と謡が半々、あるいは七分三分という場合さえあるので、とにかく力の入った声で舞の舞台効果を強調しなければだめだという考え方が強い。謡は流儀によって声の出し方が違う。狂言の名人だった小早川精太郎によれば金春流の発声は唇を噛みしめて奥歯をあけるようにするため目を見張ったようにみえる、一方喜多流の発声は奥歯をしめるため目が細くなり目が据わったようにみえる、と。堀内:佐藤さんは義太夫も西洋の歌もやるが声の出し方は違うのか?佐藤:今はときどき余興的に語るだけだ。普通のところは良いのだが高くなってくると苦しくなり西洋式の発声をする。その後1ヵ月は西洋の歌が歌えなくなる。フォルテは大丈夫だがピアニシモがが全然きかなくなって。文楽の語り手は非常に老年になるまで立派に語っているが、あれはどうしてか? 科学的に知りたい。櫻間:謡の名人といわれる人は高さが上がったり下がったりするのが非常に均整がとれていて、波形が揃っている。広瀬さんという人がそういう写真を撮っている。
■声帯の科学的研究■
田口:僕は今のように一定不変であるのが名人かどうか一概に言えないと思う。音波の形の問題と時間的変化の二つは別の要素なので。菅原:どのようにして写真を撮るのか? 田口:オシログラフとかトーキーの波形とかだ。人間の声からとる時はマイクロフォンで。菅原:声帯の声でなく共鳴した結果というわけだ。声帯の音は撮れないわけですね。田口:声帯の振動であって音ではない。声帯の研究にはなるが音楽の音として範疇に入らないものだ。いま言った一定不変というのは、ある瞬間の波形と次の瞬間の波形が同じであるかどうかということだ。訓練をすればするほど一定にすることができるともいえると思う。湯浅:われわれのほうから言うと、哀れっぽい声というのは共鳴を細くさせる。堀内:というと盲人の声はそれに入るか? 湯浅:盲人の声はそれに入るだろう。
■盲人の発声■
湯浅:骨格からくるというか、筋肉だ。われわれの声は筋肉を変えれば変わる。菅原:どういうわけか盲人は平生の声が変わらない人もあるが、変わる人もある。中能島:音楽的に伝統的なものがあったのではないか。湯浅:盲人の声が出るまではだめだと昔から言っていたのだ。町田:そうした声は非難の的になっているが、ご当人たちはそういう説に屈服していないだろう。筝曲は明治時代になってから尺八と合奏するために調子を高く合わせる。盲人はそれで裏声や苦しい声を使うことがあるではないか。無理な声を出してうまく逃げるという技巧を賞美する。そういうのを味わうのが聴き巧者ということになった。それで技巧的な方面だけやって、一種専門的な芸になった。中能島:地歌などが使ってきた発声法が盲人と結びついたものだから、あれが盲人声ということになったので、盲人本質の声ではないのではないか。菅原:尺八が入る前はもっと低かったのか? 町田:それがわからないのだ。堀内:地唄の高さは低いのだろう?中能島:いまは高くなっている。湯浅:誰も彼も同じ調子で歌うようだが、語って人に伝えなければならない時に苦しい声では伝わるわけはないし、聴くほうも面白くない。自分の声に合うかどうかに関係なく合わせるというのは非科学的だ。中能島:琵琶で調子を変えるのは、いいほうに変わるのですね。町田:そうだ。菅原:ほかの日本の曲でもみんなやっている。湯浅:尺八のために高くなったと・・・。町田:尺八は穴を変えて移調できないから。長唄では能管という笛がどんな高い調子でも同じことを奏している。しかし篠笛の合わせものになると調子が合わないとおかしいので、いろいろな高さの笛を使う。そこに特色がある。
(つづく)
■発声と言語■
四家:日本語を歌うと声が出しにくい。外国の歌が基本になっているから日本語の勉強が足りないといえる。菅原:極端に言うと十のものが六ぐらいになる。日本語で歌ったらみんな下手になる。湯浅:日本語を話す習慣が骨格からきていて、60パーセントより響かない声で話しているからいけない。全体的に気がついたのは、前歯の噛み方が足りない。それだけの努力をしなければならない。佐藤:唇の動きが足りないのではないかと思う。ここの筋肉の動きをもう少し考えたら日本語はもっとはっきり発音できるのではないか。湯浅:小学校では口の形だけが書いてある。そんなことをしたら3分か5分でくたびれてしまって、ろくに共鳴しなくなる。だから西洋音楽でやっているように、われわれの楽器を100パーセントにして、いつも日本語を話すように話したら、それが一番いい。堀内:四家さん、日本語の歌を歌うとき技術として気をつけることは何か。四家:あまり口をあけすぎないほうがいいらしいがそれでは声が出づらい。口をあけて声を出しながら日本語をはっきり聴かせるところに苦心がある。菅原:聴いているほうでもそれは感じる。古代の日本語は、もっと広母音が多かったと思う。それが室内生活が増えたために減ったのではないかと思う。堀内:いまでも謡の発音の仕方には、ふつうの言葉と違う発音をしているのがずいぶんある。櫻間:面をかけるという事情もある。菅原:オペラで使っているイタリア語は特別なものでないかと思う。どうしてもわからない。イタリア人に聞くと、これはオペラの歌い方だという。日本人が歌舞伎や能や義太夫を聴いて納得するように、イタリア人はオペラをあれでいいと納得しているのだろう。
■発声と劇場の関係■
湯浅:中世の西洋では、後のオペラほど大きな声は出さなかった。独唱する必要がなかったからだ。イタリア・オペラの発音には人工的な発音が入っているとみなければならない。菅原:近代音楽の発声は大劇場の結果といわれているが、近代の熱演の声も、オーケストラと劇場からきたといわれている。堀内:長唄も江戸の劇場が大きくなってから声が大きくなったのだね。町田:三味線の糸も太くなり、調子が少し低くなった。それから江戸時代には掛け合いがはっきりできた。長唄は上調子、清元浄瑠璃は低い調子で歌う。それがだんだん劇場が大きくなり糸が太くなって、清元が高くなり、長唄は低くなったので、両者は合奏に具合が悪くなった。湯浅:話を西洋に移すと、モーツァルトの時代にはバスでもコロラトゥールを歌わなければいけないので、音域を広く使った。そうすると100パーセント声が使えないから、声がそれほどでなかった。それを片方から言うと、声が立派だったという証拠になる。櫻間:能は調子を変えようと相談しても変わらないが、時間は正確に行く。逆に時間を詰めろといわれてもなかなかできない。湯浅:日本音楽の発音は人工的なものを作っている。これは場内で聴かす必要があった点からきたのではないか。町田:昔はいまのような完成された立派な劇場はない。江戸初期の金平浄瑠璃は劇場でできなかったので、仕方なく野外でやった。それが野外でなくなり、舞台芸術になった。昔からの劇場なので大きくないが、音楽も節も発達し、形式も整ってきたということになる。不思議なのは大阪でできた蘭八という芸だ。芝居でやっていたものらしいが大きな声で語れないようになっているのか、それはどういう訳なのか解釈がつかない。菅原:デュパルクの歌は大きな声を出せない音楽の形だ。町田:日本の野外のものは浪花節だが、これもいまは大劇場でやっている。昔は大道でやっていたのだ。
■発声と発音■
田口:日本語では江戸弁と大阪あたりの言葉とは、ほとんど正反対の発声法をする。関西は唇を非常に使うが、江戸弁は唇を使わないでとても明瞭な声を出す。西洋の歌だと継続音の間の母音が変えられるから非常に楽だろう。日本語は母音の数が決まっている。堀内:フランス人はわれわれがどんなフランス語を使ってもわかるが、イギリス人はどんな英語を使ってもわからない。菅原:アクセントと母音の違いだね。イタリア人にはどんなイタリア語を使ってもわかる。英語で「ビクトリア・ステーション」といってもわからなかったが、癪にさわって「トウリヤ」と言ったら「オー・イエス」と返ってきた。田口:日本語はどういってもわかるが、それは仮名教育のためではないか。大人で小学校の仮名教育を受けていない人は、明瞭でない二重母音や混合母音を使う。堀内:「うま」と「んま」との違いが《愛馬行進曲》を作ったときに問題になった。陸軍が愛馬を出すのだから、本当の発音にしなければいけないというので、軍人と作曲家が集まって「んま」と「うま」のどちらが本当の発音か、ずいぶんやったがあまりはっきりしなかった。櫻間:謡では「んま」だ。堀内:われわれとしても「んま」が本当らしい。
(つづく)
■歌劇の邦訳と発音■
堀内:歌劇の邦訳歌詞は非常に難しい。限られた字数の中でその意味を絶対に伝えなければならないし、言葉の長さや字の息を切るところが音楽的な息の切り方と合っていなければならない。しかし、理屈ではこうすべしといえるけれど、実際はできないものだ。菅原:長年苦労をしているね。レシタティーヴォがないといいだろう。堀内:アリアだけならしめたものだ(笑)。佐藤:せっかくお書きになっても、歌い手の方から変えてくださいとずいぶん注文を出す。それがとてもたいへん。菅原:歌い手の方から言ってきたのをきいて替えるといいものになることがある。楽に歌えるように書き換えれば、歌う人がいい気持ちになり、結果がよくなる。湯浅:健全な歌い手なら、どれも楽に歌える。堀内:そういう神様はいない。田口:「ア」という声は能率がよく、音量が自然に大きく出る。堀内:イタリア語の歌詞を調べると、高い音で「ア」を伸ばしているのが一番多い。田口:「イ」「ウ」は音量にすると「ア」の三分の一に減る。
■歌詞が判るということ■
記者:ラジオとかレコードで西洋的発声や歌い回しが、ちかごろだいぶ問題になっているが。町田:西洋音楽が非難されて日本音楽で非難がないのは、日本の声楽ははっきりわかるからではないのか。堀内:義太夫はわかる。謡曲は発音はわかるが言葉としてわからないところがある。長唄のことばはなかなかわからない。町田:昔はわからなくてもいいというのだったのだろう。堀内:筝、地唄はどうか。町田:地唄はいくぶんわからなくてもよいということが残っている。山田流は特に。日本語はあまり口を開けないほうがいいということがあって、あまり大きな口をあけない。それで言葉を出すことが影響しているのではないか。櫻間:それはある。絶対に歯を見せてはいけない。そういうだらしのないことではいけないと、櫻間家ではそう言っている。堀内:殿様の前で歌うようなものだから失礼に当たるというわけだね。湯浅:科学的にいえば、口を開けるときには、前歯の間を空けるとか奥歯の間をあけるとかいった条件をつけなければならない。口を開けるというと、声帯まで開けて空気が洩れるが、そういうあけ方は正しくない。僕がいつも説明しているのは、共鳴響を作るときの口の開け方と発音するときは違うということだ。発音するときに共鳴響まで動かして出すのだから、共鳴器がヴァイオリンのC音がのびたようになる。裏の板が開いたようになって、なかなか響かない。だから口というものが非常に危ない。日本人の骨格に適応した口の開け方でなければだめだと思う。西洋人にああしろこうしろと言われても、こちらは骨格が違うのだから言うとおりにできない。堀内:日本人が日本人を相手にして科学的に研究するほかないということだね。
(つづく)
■日本的なものと西洋的なもの■
記者:発声法は生理的な技術上の問題だが、西洋と日本の相違を問題にすれば当然性格の相違まで関連していかなければならないと思う。湯浅:それは表現法に入るものではないか。その楽器を演奏する場合に、弱い強いとか、大きな音とか小さな音とか、ピアノとかフォルテとか、出すのはもっと純粋な科学的なものではないか。中能島:たとえば「ア」をあからさまに「ア」といわないで、歪めて「ア」というように考えているのではないか。記者:そうでもない。田中正平が西洋の声楽は一種の体操である、リズムである。日本の発声というものは口中の舞である。同じ音量を出すにしても舌が舞をやっている。そこに微妙な性格と品位が日本にある、ということをいっておられる。湯浅:恐らく主観的なことを仰っているのではないのか。町田:日本では品を良くすることが第一条件になっていることはある。菅原:それがないものは芸術ではない。発声は人間の声の楽器である。ただその美しい声を100パーセント使うことが芸術かというと疑問ではないか。たとえばヴェルディの《オテルロ》を見ると、主役のオテルロがテノールの声を全部見せないことがある。フォーレやデュパルクも人間の声の最善を生かしているとはいえない。100パーセント生かすことを知っていて、それをどう生かすかという問題になると、絶対100パーセントに使うことが健全な芸術とはいえないと思う。湯浅:発声は科学的な問題で、芸術的な問題ではない。記者:それを結びつけてお願いしたい。菅原:結びつくなら目的は芸術だ。それを100パーセント出すことはない。湯浅:それは表現上の問題になると思う。堀内:声のいろいろな使い方と社会的なものとの関連が出てくる。それを国家的に考えると、品位のある芸は私利追求的なものでなく、もっと程度の高い精神的に高いものであるという気持ちは一致する。
湯浅:軍隊で号令をかける。精神的にかけるのだが、それが楽器が悪いために伝わらないという場合はどうするのか。菅原:それはわかるが発声を獲得していい声を持つことは、一生に匹敵する努力だ。それは声楽家から見ると主観的な喜びにちがいない。いい声をもつということは喜びであり誇りである。そこにまた、えてして危険もあるのだが。発声ということは東洋も西洋もプリンシプルにおいて変わりはない。あとは国語の問題があり、それから音楽に対する手法、その辺に対して複雑な問題が起きてくる。それに民族なり個性なり音楽の流派が生まれると思う。湯浅:日本人の骨格に適する楽器を作り上げて100パーセントに共鳴する楽器を作った。その結果が西洋人の有名な歌い方と違うからダメだ、ということは御免こうむりたい。日本人が日本人のちゃんとした楽器を作って、それの生理的研究をしないで、変に努力しているのが間違いだと思う。発声に対しては科学の協力をもっと得なければいけない。町田:品位というものは科学的にいうとどういうものか。田口:まだ解決されていないと思う。オルガンの荘重な音色を分析すると、それのハーモニクスが高次まで続いている。高次倍音の強さは高いものほど段々に音が小さくなっていく個性を持っていて、そのときに荘重な音色があるということがわかっている。ある共鳴音を100パーセントつかったならば、どういう音色が生まれるかということを考えている。そうすると、それは共鳴を100パーセントにさせれば、ある振動音の割合にハーモニクスの少ない音が出るくるはずだ。それで、さっき声を殺すといわれたは、ある共鳴器に物理的な抑制作用を与えると、そのハーモニクスの中に特色のある部分音がある。ある特定の振動数に限られないで広く行き渡ることが考えられる。だから、いろいろなハーモニクスをある特定の割合でもっているものが荘重であるから重い音であるということがいえる。単純な音に近い共鳴のよくきいた音がその反対のまるい音であるという場合が多いのではないかと思う。菅原:品位という言葉に、そうやすやすと定義はできないだろう。ことに科学的に定義することは難しいだろう。田口:非常に難しいと思う。記者:日本で、現在の発声法で歌うのを聴いたときに非常に不自然を感じる。堀内:内田栄一の歌が言葉がはっきりわかる。ああわかりすぎては困るという意見も出ているくらいだ。では、どうしたらよいのかということになる。町田:言葉に重きをおかない歌があってもいいだろう。菅原:表現されたものも隠されたものも表現だ。佐藤:いま私たち歌い手がいい発音で日本語の歌を歌っているとは思わない。堀内:だんだんと進んでいく。田口:悪い歌い方を盛んにやって、それがだんだん直ってきて全部が麻痺するか、ほかのものがすっかり慣れてしまうかして、そのうちに日本風の西洋音楽がでてきてもいいのではないか。菅原:歌を歌って何といわれても驚くに当たらない。日本語の歌を歌えばそれでいい。湯浅:多くの人がこれでいいという一つの標準語を作り出すのは、全部の責任だ。記者:それではこの辺で。ありがとうございました。
(完)
【2003年8月21日+8月23日+8月25日+8月27日】
◇ローエングリン評/野村光一(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.109)
内容:今回の《ローエングリン》では全体としてまとまった演奏、演出で予期以上のものがあった。しかし外国のワグナーものと比べるとスケールの小さいことは否めない。演奏ではグルリットがワグナーものに精通していた。独唱は良い歌いぶりだったが、イタリア風のの残滓が抜けきっていない。合唱は量的に不足だった。歌詞は邦訳をもちいたが、その発音が不自然になるのはやむを得ず、その結果不明瞭になったのは遺憾だった。各歌手についていえば、藤原義江(ローエングリン)は熱演だったがイタリア風の癖が残っていた。長門美保(エルザ)は充分舞台栄えがした。笹田和子(エルザ)は初舞台なのだろう、経験不足で充分な効果が出せなかったが、将来有望である。下八川(国王)は日本の低音歌手としては珍しい、麗しい声をきかせた。井崎嘉代子(オルトルウト)は特に当たっていた。ともかく今般の公演は、われわれのオペラ運動に大いなる躍進の跡を見せた顕著な仕事だった。
【2003年6月14日】
◇ワグナーの上演評/黒崎義英(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.109-111)
内容:近来ドイツではワグナー精神の復興がいわれているが、恐らくそれは歌劇において理想世界の実現を期したワグナーの浪漫精神の復興を意味するものと思われる。今日のわれわれは思想的にも音楽的にもワグナーに学ぶ多くのものを持っている。ワグナーの作品で厳密な意味で楽劇という冠がつけられるのは《トリスタンとイゾルデ》《パルジファル》《指輪》四部作だけだが、《小仙女》や《恋愛禁制》のような試作品を除くすべてのワグナーの作品を楽劇とみても差し支えない。なぜなら《トリスタン》と《指輪》にみられる音楽的改革は、それ以前の作品にも内包されており、しかもワグナー歌劇の本質を決定づけているからである。《ローエングリン》は第一期の成功した作品である。今回、藤原歌劇団によって歌舞伎座でいかに上演されたか、簡単に感想を記す。/結論から言えば、歌手の歌詞が不明瞭で、合唱が貧弱、劇的厚生の不備などが数えられたが、全体としては成功した。少なくとも歌劇という綜合芸術に対するワグナーの方法と困難を、これまでイタリア・オペラに慣れてきた歌手や聴衆一般に知らしめたということは、非常な功績であるに違いない。たとえば楽劇《トリスタン》と《指輪》でもっとも効果を発揮したとされるライトモチーフや無限旋律、多声的和声の使用などは、この《ローエングリン》にも発芽を見てとれる。/第1幕の<白鳥の歌>は藤原義江の美しいピアニシモが印象的だった。3人のエルザでは長門美保が一番良く、最終日の2幕目ではオルトルウトの佐藤美子と組んで舞台を締めた。磯村澄子はエルザの性根を掴んでいないため生彩を欠き、同じ役の笹山和子は新人で歌に気を取られていた。下八川圭祐と佐藤美子は特異な発声のため発音の癖が目立ったが、舞台上の貫禄と達者さで相殺した。現段階では合唱には多くを望めないが、コーラスがもっと歌えるようになれば必然的に所作が付随することは確かである。第3幕第1場は序曲につづく<結婚行進曲>の合唱で幕が開く。このあたりは完全に歌劇的な様式である。しかし、ここをオペラのクライマックスとしてではなく、不吉な暗示を与える第2幕と対比させ、さらに次の第二を第1幕に返して全体の統一を企画したワグナーの構成上の力量を買いたい。グルリットの指揮と東響の努力に敬意を表したい。
【2003年6月16日】
◇希望プログラム<誌上希望音楽会>/太田黒元雄(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.112-113)
内容: シューベルト《何処へ》《泉のほとりの若者》《死と少女》《詩人》《鳩の便り》/ブラームス《夜鶯に寄す》《野の静寂》《小夜曲》《五月の夜》《わが恋は緑なり》/ウォルフ《緑の露台の上に》《アナクレオンの墓》《われ死なば》《鸛の便り》《郷愁》/フォーレ《競演》/ドビュッシー《マンドリン》《月のひかり》/ドビュッシー《パンの笛》《髪》《家なき子らのクリスマスの歌》。仮に大田黒がソプラノならば、こういう歌を歌ってみたいという。シューベルトの代わりにはシューマンでもよく、その場合は《蓮の花》《月夜》の2曲はぜひ加えたい。ブラームスの《わが恋は緑なり》はたいして好きではないが、速くて強い曲がブラームスには少ないので、とりあえず加えた。フォーレとドビュッシーは、どれも特色のある傑作である。アンコールが必要ならば、シューベルト《鱒》、ブラームス《甲斐なき小夜曲》、ウォルフ《園丁》、ドビュッシー《マンドリン》などが適当であろう。それでも一回の曲目として短すぎるとすれば、何かの詠唱を加えればよい。ドイツものが得意ならばワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》から<愛と死>が良く、フランスものが得意ならばシャルパンティエの《ルイーズ》から<あの日から>が良さそうである。
メモ:誌上希望音楽会というのはドイツ映画「希望音楽会」とは何の関係もない。現下に必要で、希望される音楽会プログラムを編成していただき、一般の参考に供しようという仕組みである(編集部の企画意図)。
【2003年6月18日】
◇希望プログラムについて<誌上希望音楽会>/関清武(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.113-114)
内容:プログラムの単一化を希望する。すなわち多くの演奏会にみられるように、バッハから現代のミヨー、オネガーにいたるまでのあらゆる曲を一夜に集めることは、音楽を嫌悪させる役にしか立たない。プログラムのヴァラエティというものは、商業的な目的から出ている。バッハを好むものもあればオネガーなどを好むものもいるから、両方を演奏するのがいいように思うだろうが、実際には両方の客が両方とも満足しないという結果になる。大戦下の日本にふさわしい立派な文化戦を戦うためには、演奏会は商業第一主義を脱却して本当に音楽を聴かせるための会になるべきである。たとえばベートーヴェンの《第六交響曲》を聴かせる演奏会では、その前にドビュッシーやラヴェルの作品は、なくもがなであろう。といって同一作曲者の曲をずらりと並べるプログラムにも無条件には賛成しかねる。たとえばブラームスの作品を3つも一度に聴かされたら、歌曲ででもない限り、相当ブラームス嫌いになれそうである。ブラームスの交響曲を前に、シューマンの歌曲かピアノ曲を一つ入れるなど考えてもらいたい。日本人の作品の取り扱い方も一工夫ほしい。だがこれは、ずばぬけた作品が出てきて演奏会の最後に演奏されても、みんなで感心できるような時代になるまで問題を預けておこう。演奏家にむやみに曲目が多いと、最初の曲で得た感動を次の曲目が打ち消し、そしてまた別な方向へとその感動を変える。そして最後の曲にいたると「ああ我何を信ずべきぞ」とペトラルカの詩句を叫びたくなる。
【2003年6月20日】
◇マンドリン・オーケストラ伴奏にて伊太利民謡を歌ふ<誌上希望音楽会>/岩井眞吾(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.114-115)
内容:時局にふさわしくない退廃的な流行歌やジャズが影をひそめつつあるのは結構なことだが、といってただちにリートとか歌劇、交響楽などの愛好者になることは難しい。選んだ曲目はプログラムとして立派な音楽的価値を持っていると思うが、大衆に愛されている歌を歌うということ、また自分のものとして親しみやすく楽しめるという点において、時局下健全な娯楽として音楽の持つ使命を果たすことができうる演奏会であると信じる。/マンドリン・オーケストラの編成は、おおよそ
第1マンドリン | 5 | マンドセロ | 2 | フルート | 1 |
第2マンドリン | 4-5 | ギター | 5 | オーボエ | 1 |
マンドラ | 4-5 | マンドローネ | 2 | 打楽器 | 1 |
リュート | 2 | コントラバス | 1 |
といった具合である。/曲目は、(1)サンタルチア(2)私の太陽(3)帰れソレントへ(4)遥かなるサンタルチア(5)さらばナポリ(6)麦打ちなどで、これらは解説の必要もないほど良く知られた民謡の数曲である。また、多少専門的になるが(7)星の歌(8)マンドリナータ・ア・ナプーレ(9)プシリコの漁夫(10)南の哀愁(以上4曲、タリアフェリ曲)(11)ニーナ(タナラ曲)(12)ガッパリア(ファルボ曲)など実に美しい。(7)〜(10)はスキーパが歌ってビクターから出ているが、残念ながら日本では発売されていない。(2)と(9)はロマントの歌ったものがコロムビアから発売されている(5642)。(3)と(11)はマルティネリが歌ったものがビクターから出ている(1100)。また(8)〜(10)はキープラ主演の映画『南の哀愁』の中でキープラが歌っている。
【2003年6月23日】
◇戦時下の曲目に就て<誌上希望音楽会>/湯浅永年(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.115)
内容:戦前と戦争開始後では標題音楽の演奏と作曲については変化すべきものであろうが、純粋音楽の場合は何ら変化を必要としない。国民の意識は、すべて戦争目的に捧げなければならないが、単なる熱意ではだめで、合理化して運用されなければならない。音楽作品についていえば、音でできた材料を巧妙に合理的に背馳した名曲を聴き、それに感激し、その芸術的法則を戦時生活に応用すべきである。戦争を芸術化する具体的な法則は、優れた芸術品の演奏から教えられる。これこそ音楽芸術を戦争目的に捧げる最高級の方法である。この意味で優れた純粋音楽が盛んに演奏され、国民がそれを聴き、その教訓に感激するようになってもらいたい。/次に演奏様式からいうと、戦時には何といっても全国民の職域奉公を一つに集めた、合奏の運用から来る協力のいろいろな方法を教えられなければならない。管弦楽が完全な職域方向でなければならないことは知られているが、同じように勤労者の合唱も専門家のとの協力による一層進んだ芸術的成功を目的とする、独唱入りの合唱曲やカンタータ類を演奏するとよい。厚生音楽といっても素人向きの合唱曲や吹奏楽曲を作ることだけでは不十分だ。素人と専門家の合唱合奏を目的とする曲を作ってこそ、専門家も厚生音楽方面に進出し、そこに立派な芸術を植えつける任務を果たすことができる。
【2003年6月25日】
◇希望音楽会について<誌上希望音楽会>/加古三枝子(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.116)
内容:いまわが国では、すべての部門において日本的ということが強調されている。たとえば音楽会のプログラムにおいても邦人の作品を入れること、音楽学校で日本歌曲を教えることなど、まことにけっこうであるが、もっと以前から考えられていてもいい問題である。ここではなはだ遺憾に思うのは邦人作品に対する一般聴衆の態度である。西欧諸国の巨匠に比べればやむを得ないとはいえ、もう少し自分たちの音楽を育むという気持ちがあってほしい。同時に作曲家の奮起を望む。デビューの時期を過ぎたら、ある一つの行き方を定めたプログラムが好ましい。この意味で木下先生のリサイタルのプログラムはもっとも尊敬している。しかし現代日本の一般大衆と音楽について考えると、これはいささか特殊である。戦争前に一世を風靡した流行歌やいまから思えば亡国的退廃音楽なるものは影をひそめたとはいえ、わが国では純粋芸術に対する一般民衆の理解は前途遼遠の感、浅くない。歌曲は言葉をもつゆえに器楽、交響曲などに比べれば民衆の実生活にもっとも関係が深い。さいきんのような情勢下にあって、音楽会の聴衆は盛況を呈しているという事実をもってしても、日本歌曲に課せられた問題は並々ならぬものがある。希望するところは、一つに最高芸術を目指す純粋音楽プロ、他方に民衆ともっとも関連の深い音楽の芸術的、良心的なものの演、この二つが併行することである。オペラも、できればわれわれの手になったオペラをわれわれで上演したいものである。希望音楽会について、抽象的には以上のように考えている。
【2003年6月30日】
◇「希望音楽会」プログラム考<誌上希望音楽会>/掛下慶吉(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.116-117)
現在、敵性国家でない西欧諸国の健康的で芸術的香気の高い名曲、および日本はもちろん大東亜共栄圏諸国より創作される民族的自覚を有する音楽諸作品を、いずれのプログラムにおいても必ず相半ばするようにしたいと思う。/すなわち声楽のプログラムのうち、西欧諸国のものとしてはシューベルト、シューマン、フォーレなどが歓迎されるであろうし、できれば一人で歌うよりもソプラノ、アルト、テノール、バリトンなど色彩の違った人の同時出演が望ましく、また必ず合唱曲も入れてほしい。一方、創作曲目には現代日本の作曲家の作品、または民謡を芸術的作品まで高めたものなどを発表してもらいたい。器楽においても、一人が一楽器の独奏会を催すよりも、ピアノ、ヴァイオリン、チェロなどの第一人者を各自のもっとも得意とする楽曲を演奏されたく、場合によっては年代的に分けて順次演奏されるのもよい方法と思う。ソナタ、トリオ、クヮルテットなどの室内楽曲演奏会もまた必要だ。創作的作品もぜんつじゅの趣旨により演奏してほしい。歌劇もヴェルディ、ビゼー、プッチーニ、ワーグナーなどの適当なもの以外に、将来ドビュッシー、ムソルグスキー(わが国に適するもの)、R.シュトラウスの諸作も望ましく、それらと交互に必ず邦人の創作歌劇(作曲運動を活発にして)も上演してほしい。また、オペレッタ、バレエの公演ももちたいものだ。交響楽もベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキーの交響曲がもっともよく、それと大東亜文化を主題とする創作曲を必ず同一プログラム内に含有させること。邦人作品だけでは吸引力がないと考える。地方向けプログラムは、ギター、マンドリン、アコーディオン独奏などによる軽音楽、日本の行進曲を演奏する吹奏楽、およびヨハン・シュトラウスの楽曲やわかりやすい標題音楽によるポピュラーな名曲の演奏、そして声楽には独唱、合唱による民謡集や国民歌謡など。ほかに解説つき名曲レコード・コンサートなど、どしどしやるべきである。
【2003年7月2日】
◇希望プログラム<誌上希望音楽会>/金子登(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.117-119)
内容:いろいろと考えた結果、次のような国民音楽祭ともいうべきものとなった。不可能に近いが、まったく可能性がないというわけでもない。■第一夜 コリオラン序曲とミサ・ソレムニス(ベートーヴェン)■ いま戦争中であり、多数戦死している同胞の冥福を祈るためである。演奏上、精神的にも技術的にも至難とされているミサ曲は、指揮者をよく選ぶ必要がある。そして合唱には東京音楽学校の合唱を使いたい。■第二夜 5人の一流ピアニストの会■ もちろん日本人の一流5人の意味で、その5人が一人1曲ずつ弾く演奏会である。決して競演という意味ではなく、もっとも得意とする曲を弾く。こうしたら変化に富み、真に国民的な音楽祭に相応しい演奏会ができると信じる。■第三夜 第二交響曲(マーラー)■長い難しい曲であるが、約9年前に上野で初演したころと比べると現今の状態ははるかに演奏がされ得るし、もっとよく受け入れられると思う。その特異な管弦楽法においても日本の作曲者たちに必ず良い影響を与え得ると思う。■第四夜 フィンランディア(シベリウス)■ 広く一般に祖国に寄せる讃歌と題して、歌曲、器楽曲、管弦楽曲を問わず自由な作曲を募集し、当選したものをシベリウスの《フィンランディア》といっしょに演奏することとする。この曲に対抗し得ると作者が自信をもてる曲を応募するようにとすれば良い作品ができはしないだろうか。■第五夜 ボリス・ゴドノフ(ムソルグスキー)■ ぜひ上演したい。演出も人を集めることも大難事であろうが、ムソルグスキー自身によって管弦楽化され、かつ完成をみた唯一の作品である《ボリス》を上演することは、日本の音楽界のために有意義であると思う。■第六夜 バレーの夜■ 1.《兵士の物語》(ストラヴィンスキー)2.《恋は魔術師》(ファリャ) この夜はローゼンシュトックに指揮してほしい。《兵士》の朗読は日本語に訳して上演したら実に面白かろうと思う。■第七夜 第九交響曲(ベートーヴェン)■ 終わりはいろいろな意味をもって、この曲でなくてはならない。以上、大衆的娯楽性には乏しいかもしれないが、音楽文化的に大いに意味があると信じるプログラムを書いてみた。この音楽祭は指定してある以外は、全部日本人でなければならず、どんな音楽家も希望されたら拒絶してはならない。室内楽を割愛したのは大衆性の多少によるものであることを付記する。
【2003年7月4日】
◇希望音楽会<誌上希望音楽会>/藁科雅美(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.119)
内容:1.ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲演奏会。批判的な解説をつけて松本と東京四重奏団が交互に出演する。それから室内楽の歴史的連続演奏。先日のビクターのよりも音楽をもっと豊富に聴かせる。/2.ローゼンシュトックの指揮で歌劇。管弦楽は日響、優秀な演奏会歌手もすべて動員する。ただし藤原歌劇団と対立的にならぬように、むしろ同歌劇団の組織拡張という形式をとる。/3.日響の定期を三分して(1)はローゼンシュトック(またはグルリットと山田耕筰)、(2)(3)は全部日本の指揮者とし、(3)は山田、尾高が中心となって一層若々しいプログラムを盛る。たとえば邦人作品の場合(1)はある程度評価の定まった旧作、(2)は未発表の新作、(3)は年3回くらいでよいから青少年向けの通俗音楽会とする。予約券も当然各シリーズに分けて売られるが興行的なバランスは独奏者の顔ぶれと入場料の高低で按配する。ベルリン・フィルハーモニーのやり方は、たしかこうであった。
【2003年7月8日】
◇勤労者に送る音楽会プログラム<誌上希望音楽会>/廣岡九一(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.119-120)
内容:工場の昼食後30分のあいだにその広場か講堂で行なうプログラムの一例を示す。
1.吹奏楽
行進曲《大東亜戦争海軍の歌》(海軍軍楽隊作曲)
行進曲《進め荒鷲》(深海善次作曲)
2.合唱
混声合唱《白金の目貫の太刀》(古歌 信時潔作曲)
混声合唱《秋田おばこ》(秋田民謡 成田為三作曲)
3.会衆総合唱
《大東亜決戦の歌》(伊藤豊太作詞 海軍軍楽隊作曲)
30分といっても演奏の準備に相当の時間を要するので、上の曲でもようやく時間に終わるくらいである。演奏者は、その会社の吹奏楽団と合唱団で、ほかに移動音楽団がこの時間か終業後1時間をこれにあてて少なくとも1ヵ月に1回くらい、こうした時間を勤労者に贈ると良い。しかしアマチュア音楽班では1ヵ月に1回は、なかなかの勉強である。/吹奏楽は勤労者の気持ちを引きたたせ、へたな管弦楽より良い。曲目も会衆の好みを心配して軟弱な歌謡曲のようなもの演奏するよりも、充分に練習して真剣の意がみなぎっている方が良い。合唱曲は先に掲げたのは程度が高いかもしれないが、あまり程度が低いのや斉唱ばかりではなく、しっかりした和音の響きをおくりたい。同じ会社に吹奏楽団と合唱団があっても合唱団の方が高級だからと考えて両団が協調していないところが多いようであるが、たがいに協力して昼間演奏会にとどまらず会社の厚生音楽会などには、より立派な音楽会をもちたいものである。そのために先の3.に挙げた会衆総合唱はその合唱団が先頭に立ち、吹奏楽団はその伴奏をつとめ、会衆は一丸となって戦時下協力の興奮を燃え立たせたい。現にこんな音楽会を催して好結果を得ているところもあると聞く。こうして厚生の意義が明らかにされ、勤労者文化が向上する音楽会であり、団結の心が勤労者の世界に流れるであろう。
【2003年7月12日】
◇希望プログラム<誌上希望音楽会>/坂本良隆(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.120-121)
内容:演奏を希望する曲目は演奏者または演奏団体を考慮に入れて成立するものだが、演奏しうる条件を具備するものと仮定して次のプログラムを希望する。△合唱 バッハ以前のパレストリーナ、ラッソー、ガブリエーリ、シュッツなど、および同時代の宗教曲と世俗曲。以上の作品の多くは難しい無伴奏合唱曲で、いままであまり多く演奏されなかった。[希望の理由は]一つにはわが国合唱団の健全な進歩のため、もう一つは将来の国楽樹立に資するためである。△器楽 重奏とくに吹奏楽器の重奏作品。たとえばモーツァルトの《七重奏曲》《八重奏曲》《十三吹奏楽器のための夜曲》、ベートーヴェンの《七重奏曲》《八重奏曲》、シューベルトの《八重奏曲》、シュポアの《九重奏曲》など。交響管弦楽の重要な部分としての木管、特殊の金管演奏者の演奏技術の向上とわが国で演奏にあまり恵まれないこれらの作品の紹介を理由とする。なお楽譜は坂本所持のものもあり、演奏希望者には貸し出しも辞さない。△交響楽 もっとクリスティアン・バッハ、ハイドン、モーツァルトなどの古典交響曲とヘンデル、コレッリなどの弦楽曲が望ましい。ベートーヴェン以後から現代までの音楽は演奏の機会が多いが、前述のようなものはあまりに演奏されない。△歌劇 モーツァルト《魔笛》。
【2003年7月14日】
◇希望プログラム<誌上希望音楽会>/薗田誠一(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.121)
内容:よい合唱演奏会がきわめて少ない現今、次のような大作品を本格的に優れた演奏をした場合、すべての条件を超越して人の心を打つものがあると信じて選んだ。
1.雅楽《越天楽》(近衛秀麿、近衛直麿編)
2.ミサ曲《パペ・マルチェリ》(パレストリーナ)
3.《テ・デウム》(ブルックナー)
1.は、17世紀のきわめて古典的な西欧の序曲、あるいはそれに類するものに換えることも可能。単にパレストリーナに対する準備的なものとして扱われて良いが、この場合《越天楽》はとても相応しいと思う。2.は全曲無伴奏であること、二重合唱で少なくとも200人以上を要することなどの理由から、練習に長時間を要するため、よほど統率の取れた合唱団でなければ不可能と思われる。3.は大規模な合唱(少なくとも300人以上)と管弦楽、4人の独唱者を必要とする。壮大なブルックナーの合唱曲を聴く機会がないので、ぜひ実現させたいと希望する。
【2003年7月16日】
◇ベートーヴェンの夕<誌上希望音楽会>/牛山充(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.121-122)
内容:
1.《プロメテウス》序曲 作品43
2.ピアノ協奏曲第5番変ホ長調<皇帝>
3.交響曲第5番ハ短調<運命>
演奏はローゼンシュトックの指揮、レオ・シロタのピアノ独奏、日本交響管弦楽団。
これらの曲を希望した理由は、勝抜かなければならない戦争2年目の新春に、1億国民が奮起するような力を感じられる剛壮、雄大な音楽の演奏を聴きたいと思ったからである。《プロメテウス》序曲は、主人公の英雄的創造の精神と気概を表している。次の協奏曲は数あるピアノ協奏曲の中でも、帝王のような感銘を与える豪放、雄渾の構想の下に書き上げられていることと、この曲をベートーヴェンが作曲した時は砲声を身近に感じながらであったこともあって、わが愛国心に燃えているはずの作曲家たちに、この曲に劣らないものを書いてほしいと考えてのことでもある。第5交響曲は「運命」などに連想することなく、超人的な英雄の戦いを表している音楽と思う。日本民族の大東亜戦の未来を表していると思う。
【2003年7月20日】
◇音楽会記録/唐橋勝編(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.123-125)
内容:1942年11月11日〜1942年12月10日分(→ こちら へどうぞ)。
【2003年7月28日】
◇楽界彙報(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.125-127)
内容:◇記録◇ ■陸軍軍楽隊で騎乗隊を創立■陸軍軍楽隊では騎乗軍楽隊を組織して訓練中であったが、1942年11月20日、初の騎乗軍楽行進演習を行なった。山口常光隊長指揮の約60名は、午前10時から約1時間にわたって《われらの軍隊》《暁に祈る》《愛馬行進曲》などを演奏しながら、早稲田、牛込方面を行進し、市民に感銘を与えた。■日本音楽文化協会のシューベルト研究会■日本音楽文化協会は東京日日新聞社との共同主催によって、音楽文化講座第4回としてレコードによるシューベルト研究会を以下のスケジュールで行なった(いずれも東日講堂)。
1942年11月25日夜(講演:有坂愛彦 解説:藁科雅美)
内容:《白鳥の歌》
初期から後期にいたる歌曲
11月27日夜(講演:森本覚丹 解説:桂近乎)
内容:《未完成交響曲》
《ハ長調交響曲》
11月30日夜(講演:門馬直衛 解説:園部三郎)
内容:ピアノ曲
12月2日夜(講演:片山敏 解説:久保田公平)
内容:《美しき水車小屋の乙女》
12月4日夜(講演:野村良雄 解説:土田貞夫)
内容:弦楽四重奏曲 《死と乙女》
洋琴五重奏曲 《鱒》
■日本ビクター主催連続室内楽研究会■日本ビクターでは日本音楽文化協会の後援を得て、松本絃楽四重奏団の出演による連続室内楽研究会を電気倶楽部で行なった。
1942年10月23日(講師:園部三郎)
内容:ハイドン《弦楽四重奏曲 セレナード》
モーツァルト《弦楽四重奏曲 ロ長調》
11月2日夜(講師:佐藤謙三)
内容:ベートーヴェン《弦楽四重奏曲 作品135》
11月30日夜(講師:野村光一)
内容:シューマン《弦楽四重奏曲イ長調》
■大東亜戦争一周年記念音楽諸業[ママ]事■[1942年]12月5日午後、大政翼賛会と日本音楽文化協会の共同主催により日比谷公会堂で戦場精神昂揚大音楽会を開き、献納詩に作曲された新作が発表された。12月7日には朝日新聞社主催の国民士気昂揚大音楽会がやはり日比谷公会堂で開かれ、東京音楽校[ママ]が《海道東征》を演奏した。同じ日に共立講堂で、東京日日新聞社と日本音楽文化協会の共同主催により大行進曲発表会が開かれ、山口隊長指揮の陸軍軍楽隊が《行軍讃歌》《勝利の誓》を、早川彌左衛門指揮の東京交響楽団が《国民総進軍》を演奏した。翌12月8日には東京市主催の大東亜戦争一周年記念軍楽大演奏会が日比谷大音楽堂で開催され、内藤隊長指揮の海軍軍楽隊、早川彌左衛門指揮の海洋吹奏楽団、藤原義江、歌上艶子らが出演した。■東京産報行進曲を海軍軍楽隊で作曲■《東京産報行進曲》は作曲を海軍軍楽隊に、編曲を橋本國彦に委嘱中だったが完成し、1942年12月2日夜、日本青年館で発表された。歌詞は産報会員から募集して選ばれた。■独逸大使より我海軍に献曲■オット独逸大使はハワイ攻撃の九軍神を讃える楽曲《勇士の調べ》(ヘルデンクレンゲ)を12月8日、海軍に献呈した。この曲は、大使が東京音楽学校で教えるヘルムート・フェルマーに作曲を委嘱していたものである。■第3回大日本吹奏楽大会■大日本吹奏楽聯盟と朝日新聞社の共同主催により、1942年11月23日福岡市で第3回大日本吹奏楽大会が開催され、次の結果をみた。(優勝団体)大阪浪華商業学校報国団喇叭班、神戸塚本六喇叭隊、東京商業実践女学校鼓笛隊、荒川ノーシン千種工場鼓笛隊、東邦商業学校吹奏楽団、岡本興行株式会社吹奏楽団、専修商業学校喇叭鼓隊。(特選)埼玉県川越商業学校喇叭鼓隊、神戸喇叭修得団。■第16回大日本合唱競演会■国民音楽協会主催第16回大日本合唱競演会は1942年11月23日正午より日比谷公会堂で行なわれた。(男声合唱)第1位 青山学院学友会合唱団、第2位 東京慈恵会医科大学合唱団、第3位 立教大学合唱団(女声合唱)第1位 白華会合唱団、第2位 ワカバ合唱団、第3位 青年日本合唱団女声部(混声合唱)第1位 横浜木曜会、第2位 仙台音楽協会合唱団、第3位 日本電気合唱団。 ◇情報◇ ■南方音楽研究所の開設■この度、南方音楽の研究家・桝源次郎、黒澤隆朝、日本ビクター文芸部長・密田善次郎を発起人として南方音楽研究所が開設され、南方音楽文化の究明と南方音楽文化対策の確立を期して活動を開始することとなった。事務局は日本ビクター築地事務所内に置く。■藤原歌劇団今年の予定■1943年5月26日より4日間《西浦の神》を上演するほか、《カヴァレリア・ルスティカーナ》《ラ・ボエーム》《フィデリオ》を上演する予定である。■18年度軍楽生徒を召募■陸軍戸山学校軍楽隊では1943年12月に採用すべき陸軍戸山学校を召募することとなり、1942年12月1日付陸軍省告示を以って公示された。
陸軍省告示第43号
昭和十八年十二月採用スベキ陸軍戸山学校軍楽隊生徒ヲ左ノ各號ニ依リ召募ス
細部ニ付テハ陸軍諸学校生徒採用規則ニ依ル、但シ本告示中同規則ト異ナル事項ニ付テハ本告示ニ依ルモノトス
昭和十七年十二月一日
陸軍大臣 東條英樹
一.採用人員 約六十名
ニ.志願者年齢 大正十二年四月ニ日ヨリ昭和二年四月一日迄ニ出生ノ者
三.願書類ノ差出期日及差出先 告示ノ日ヨル[ママ]昭和十八年二月末日迄ニ到着スル如ク本人ノ希望スル身體検査地、所管聯隊区司令官(朝鮮、臺湾、関東洲、満洲國又ハ支那ニ在リテハ陸軍兵事部長)
四.其ノ他、志願票用紙ハ本人ノ請求ニ依リ教育總監部、陸軍戸山学校又ハ聯隊区司令部(朝鮮、臺湾、関東洲、満洲國又ハ支那ニ在リテハ陸軍兵事部長)ニ於テ之ヲ交附ス
◇消息◇ 山田耕筰 1942年11月15日中華民国へ出発。/佐藤清吉 1942年11月24日永眠。享年58。/松尾要治 足立区西新井町909番地へ転居。
【2003年7月28日+7月30日+8月1日 完】
◇編集室/堀内敬三・唐端勝・澤田勇・青木栄・加藤省吾・黒崎義英(『音楽之友』 第3巻第1号 1943年01月 p.144)
内容:勝ち抜くための決意をさらにあらたにして『音楽之友』は第3巻第1号を世に送る。音楽之友社の事務所には、『吹奏楽』『音楽文化新聞』の編集室も同居しているので、3誌協力して働いている。この小さな事務所も総力戦である。(堀内敬三)/コレヒドール戦記の記録映画を見ているとき、画面に「天長節」と出て君が代が奏された。大きな映画館で見ていたが、そのとき観客のたたずまいをただす気配が館内に期せずして立ち上った。戦前にはなかったことである(唐端勝)/「さあ二年目も勝ち抜くぞ」の標語はさいきんびっくりしたものである。「欲しがりません勝つまでは」は涙ぐましい気がする。雑誌でも用紙が削減されて、編集技術のうえでなお一層の努力が要請されてきた。われわれはあらゆる悪条件に抗して戦わなければならない。そのためには寄稿家と読者諸賢の協力を切に望む。堀内社長以下、編集陣はあらたな構想の下に戦争第二年目を勝ち抜くべくはりきっていることをお知らせする。(澤田勇)/「楽壇の協調即ち楽人の協力に俟つのみ」ということを年頭の所感として述べさせていtだく。このためにこそ厳密な自己批判にもとづく自己退却と王位返上を決行し、さらに大東亜民族の盟主たる矜持と度量において虚心坦懐にして謙虚かつ誠実をもって一致協力、厳正な指導性の下寛大な包容力を発揮し、ここに初めて楽壇の弊風を打破し新しい建設による新しい音楽文化創造への使命を果たすべきである。(青木栄)/戦争も第二年目に入り勝ち抜くために戦わなければならない。音楽もこの目的のために総力を挙げて力を発揮すべき秋ではあるが、ひるがえって楽壇の現状を見るとその態勢は整っていないのではないか。われわれは、この際あらゆる行きがかりを捨てて、日本音楽文化協会を中心に大同団結、必勝態勢の確立に向けて邁進すべきである。(加藤省吾)/紙面の関係上重点主義の編集方法を取らざるを得ない。このことは今後ますます予想されることであり、編集方針の思い切った転換も考慮されているから、読者におかれては直接購読か予約の方法で本誌を確保するようにしていただきたい。(黒崎義英)/
2003年8月21日はp.90からの座談会をまとめました(途中)。
2003年8月23日はp.90からの座談会をまとめました(2回め、途中)。
2003年8月25日はp.90からの座談会をまとめました(3回め、途中)。
2003年8月27日はp.90からの座談会をまとめました(4回め、完)。
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