『音楽之友』記事に関するノート

第2巻第12号(1942.12)


楽界の参戦を要望す(大東亜戦争一周年)宮澤縦一(『音楽之友』 第2巻第12号 1942年12月 p.14-17
内容:戦争勃発以来1年が経つが、この間、北はアリューシャンから南はオーストラリアのシドニー、東は米本土西海岸から西はマダガスカルから大西洋まで、いたるところで連戦連勝であった。幸いにして緒戦は大いに有利に展開したが、敵も世界の大国米英であるから、ここで気を許してはならない。米国では平時産業を戦時体制に切り替えたり、男子は18歳から64歳まで、女子は45歳まで一人残らずいつでも徴用できるように登録制を完了したり、あらゆる部門の統制が図られたり、戦争に起因する財政の膨張に対しては国債の発行限度を650万ドルから1200万ドルまで引き上げることまで考慮している。また日本を打てという世論に押され、アリューシャンにおける反攻やソロモンの海戦など、アメリカは反攻気勢を挙げつつある。イギリスもビルマを奪取し、オーストラリアは軍備の充実を図り、ニュージーランドまで米国軍の傘下に加わり抗日の気構えを示している。また、重慶では抗戦士気を高揚する目的で1942年8月以来、文化動員運動を全国的に展開し、移動図書館、慰問演劇、慰問歌謡隊を組織し軍隊慰問を行なうとともに、各種雑誌や軍隊ニュースを刊行し、主要18文化団体と全新聞社を総動員して歌にラジオに新聞雑誌に戦時色を織り込み、全国民を対日戦に引きずっていこうとしている点は見逃せない。/敵側の現状を正視するならば、われわれは緒戦の勝利に酔うことなく、音楽に関係する人たちは平出大佐の「音楽は軍需品なり」の言を文字通り実現するよう努力研究してもらいたい。音楽部門は他の文化部門に比べて、現に大戦争が行われているという戦時意識がきわめて薄弱であるとの声が多い。また遺憾ながらわれわれも、この言を肯定しなければならないような事実を今日なお見聞している。それは例えば、作曲部門で戦前と大差ない芸術至上主義的なものや独りよがり楽曲が相変わらず出ているし、レコード歌謡にしても歌詞ばかりがもっともらしく旋律は低調なものが多い。『土と兵隊』のような戦争文学の向こうを張るような音楽は生まれていない。評論部門にしても個々の演奏批評やレコード批評が多いようである。演奏については、戦時下の音楽演奏にふさわしくないものが多々見受けられる。すなわち純音楽の面においては、戦前と変わらない芸術至上主義の夢を追ったのんびりしたものが多い。また独りよがりの発表会は弟子を並べた学芸会的なのようなものもあるが、われわれはそんな会を無理をしてもつ必要を認めない。プログラムの紙も模様も曲目も戦前と変わらないが、こんなことは音楽会だけではないだろうか。われわれの周囲はすべて何かしら戦争の影響を受けているのだ。万事につけ戦時下であるとの認識をもってほしい。/軽音楽部門も同様、いや一層ひどいといっても過言ではない。たとえば、こうした演奏はレコードでは検閲ではねられると前置きして演奏するようなもの、曲名を南の風というようにつけ歌詞も適当な文句を並べて曲はハワイのフラ調のものなど悪質なものがやられている。/戦いが長期化すればするほど音楽は一層切実に要求されること疑いない。楽壇の皆様に呼びかけたいことは、今日の日本をじっと見つめ、国家総力戦に音楽を以って挺身参戦していただきたい。
【2002年12月20日】
国に捧げよう我等の音楽を(大東亜戦争一周年)堀内敬三(『音楽之友』 第2巻第12号 1942年12月 p.18
内容:
米英は打ち続く敗戦にも懲りず、陣容の建て直しに焦燥している。陸海軍の戦果に酔って銃後国民が米英与しやすしとのんきに考えてはいけない。「音楽は軍需品だ」といわれる。軍用においては、将兵の士気を高め傷痍軍人を慰め現地住民を宣撫し、銃後においては、国民を激励し戦時生活に潤いと余裕を与えて奉公精神・団結力・生産能率の増大などに貢献すること大である。しかし、これは音楽をその目的に合うように用いた場合の話であり、たとえば米英の音楽や遊蕩生活を讃美するような音楽は許容してはいけない。戦時下、有害な種類の音楽を叩き潰すことはもちろんだが、さらに有用な音楽の普及徹底を図ることはわれわれに課せられた大きな任務である。高級な音楽は都市に偏在している。ラジオやレコードは充分に活用されているかといえば甚だ疑わしい。良き音楽を普及したり、音楽を正しく利用したりすることは「音楽を知る人々」が先に立たなければならない。われわれは音楽を国に捧げることについて、もっと真剣にならなければならない。本誌の読者は一人残らず音楽奉公をなしうる人々である。音楽の指導や普及運動に挺身する人々はいくらあっても足りない。最寄最寄で「音楽を知る人々」が協力して行なう必要がある。そうして皆歩調を合わせてわれらの音楽を国に捧げようではないか。
【2002年12月24日】
批評活動と作家活動守田正義(『音楽之友』 第2巻第12号 1942年12月 p.19-24)
内容:
■1■日本では批評が独立のジャンルであることの理解が不足しており、音楽家や好事家の中には音楽批評の重要性も存在理由も認めず、無視しがちの人が多いようである。音楽批評が独立のジャンルとして存立の様相を呈するようになったのは19世紀中葉以後のことである。すなわち音楽が他の芸術諸ジャンルとともに芸術上の一部門として独立して以後、音楽批評も成立したのである。こうして音楽が批評を生み出した以上、批評と音楽は対立的に考えられるものではない。さらに個々の音楽批評は一定の条件の下でのみ成立する。今日においては音楽の思想内容およびその表現様式の高度化に準じて、感性を極度に拡大し、論理によって一定のものに形態化するようになってきている。このようなわけで、予備知識と一つの批評形態を造り上げる技術とが必要とされ、特定の専門家とならざるを得なくなった。/音楽がその時代に生きその時代を呼吸していることの証拠を、われわれは、その時代における音楽批評に発見できる。このことから音楽と批評との並存理由を認めなければならないことになる。こう考えてくると音楽批評の特質も音楽批評家の役割も明らかになると思う。問題はわが国の現状で批評活動が理想的な姿をとって充分に行なわれつつあるかどうかにかかってくるのだが、あまり好ましい状態とはいい得ない。わが国において欠けているものは、批評活動がおこなわれる地盤の弱さということになる。なんとかして批評活動を作曲や演奏の活動と並べて盛んにし、強力なものにすることがこれからの日本の音楽の発展のためにたいせつなことなのである。■2■これまで、ごく少数の人々の批評が迎えられ、いくらかの権威をもたされていたようであるが、こうしたことは考え直さなくてはいけない。音楽批評が一つのジャンルとしての独立性を備える必要からも、できる限り多面的で同時に独特の様式を有する多様化が望まれる。しかもその個々の批評は創意に満ちたものでなければならない。この点、文芸批評は進んでいる。しかし、わが国の現状のように過渡的な段階においては、むしろ作家批評は尊重されてよい。しかしここで、音楽批評家の本来的な性質をはっきりと見極める必要がある。なぜなら、批評家は理論家と、あるいはジャーナリストと混同しやすいからである。むしろそれぞれに活動を盛んにすることこそ望ましい。批評はあくまでも個々の音楽活動の所産なのである。したがって批評家の主体となるものは日常的な音楽生活や経験そのものである。作家批評は、よきにつけ悪しきにつけ今日の日本の楽壇には歓迎されてよいが、のぞましい作家批評が少なすぎるようである。作家批評が特殊な効果を挙げると期待される理由は、作曲家であるがゆえに、常識人としての批評家よりも豊富に持つ独特の音楽的センスの醗酵に期待されているからである。今日の音楽批評家は、その独自な構想力において甚だ微弱なものを感じさせられる。現実に動いている批評家の色彩が一律化しすぎているのである。
【2002年12月27日】
詩歌の律美大江満雄(『音楽之友』 第2巻第12号 1942年12月 p.25-32
内容:■1 リズムについて■リズムと言う言葉は、しばしば曖昧な印象を与えた。リズムという言葉は、われわれを悩ます。/員や律の外的形式を排する考えでは、真の詩(または現代詩)は内的形式に従わなくてはならないとする主張が、自由詩以後に支配した。韻律を規定する不自由を否定する思想は、新体詩の当初から持続してきたが、律[リズム]の問題は自由詩のも場合でも種々なかたちで示された。音律の自由を求めて散文化したものの、詩である限り音律上の伝統のすべてから逃れることはできなかった。■2 音律数のこと■詩歌のうえでリズムという言葉は「感動」と「表現」の両方にかかって、混同した言い方がされる。なぜかといえば、西洋詩の感化により新形式の衝動が始まってから、音数にも詩語にも変化をきたしたからである。すなわち、新生活の表現としての詩が、思想的になればなるほど音数律の規範から逃れてようとしたからである。岩野泡鳴が明治40(1907)年に書いた『音律總論』は、後身に暗示を与えたが、音律にとらわれすぎて表現、形式全体の問題からいって不備な点が多い。さまざまな例を検討してみると、音律とは「数律」が基本的ではあるが、律美は種々の要素によって成立するもので、音韻論と結びついて律美の諸要素が科学的に論議されなければならないし、押韻の成立やその歴史的変化をもっと究明しなければならない。自由詩の批判期にある今日、現代詩における押韻の価値は増大されているが、まだまだ詩歌の歴史は若いのだから詩情に生彩が必要である。■3 文字数律■短歌の律美は「音数律から生じたるもの」を主としていうが、技巧に属することを別とすれば、私たちがとらわれるのは「字余り」の歌である。万葉集に特に多いこと、字余りの句に思想的重点があることなどがいわれる。一音、二音は気にならないばかりかむしろ魅力になっている。かなと漢字の組合せから視覚的諒解性に速度が生じ、ただ諒解の速度だけでなく、言葉に意味律とでもいうべき律感が生じる。私たちは、まず鮮明な文構造、単純な言葉を燃焼させて、表現的に「白の美」を作りたいと思う。
【2003年1月6日】
音楽のリズム岡正(『音楽之友』 第2巻第12号 1942年12月 p.32-35
内容:音楽は、運動が迅速であろうが、緩慢であろうが、活発であろうが、柔和であろうが、また上昇的なものであれ下降的なものであれ、みなその表現範囲にあるといえる。したがって、ゆりかごが揺れる運動も、ボートの滑走も、馬の疾駆するさまも描くことができるし、こうした卑近な例を挙げていけばきりがない。運動について考えていくには、音楽のもっとも不可欠な要素であるリズムの問題を研究していくことが重要だと思われる。音楽は運動を直接的に表そうとし、運動は必ず制限されている。音楽におけるこの制限力こそ研究しなければならないものである。静かな快音の流れの周期的な強調をわれわれは知覚するが、これがリズムである。リズムに対するわれわれの感覚は、ひじょうに深くわれわれの性質の中に滲み込んでいるので、その多くの表示を受け入れるように見えるが、ある生命力が人体の有機的活動を制限するものであるという事実を意識するものは、きわめて少ないと思われる。言い換えると、生命の始まるときは一つの制御力が連合されていて、律動的な機動を採った器官がなくては姓名の継続は不可能となるのである。生命はすべて運動であり、リズムはこの運動を、生命の連続を等距離の時間で横断することによって制御し、またそうしたことによって期間を等しい長さの時間の組に分ける内的な表示なのである。音楽のリズムは音楽的な音によって充たされた、整えられた一連の時間を創造する。音楽のリズムは内的生命の表現であり、機械的なリズムと混合されるべきでない。また、呼吸運動に関係した時間単位の継続は歌唱や朗読を例にとると容易に理解される。いかなるメロディーでも、その小節の数を同じ長さの単位に区分すれば、そのリズムの組織を見出すことは困難なことではない。
メモ:筆者は日本出版文化協会学芸課員。
【2003年3月27日】
映画音楽の検討<座談会>(特集・映画音楽の諸問題)津村秀夫、津川主一、掛下慶吉、園部三郎、深井史郎、吉村公三郎、伊奈情報官、宮澤情報官、堀内敬三(『音楽之友』 第2巻第12号 1942年12月 p.44-67
内容:
■映画音楽改善の方途■
 堀内:きょうは映画と音楽に関する諸問題について意見を伺う。映画音楽に現にかかわる音楽家は多いし、将来かかわるであろう人々もいるので、そういう人々に対してなるべく役立つ意見を言って欲しい。映画の音楽というと、映画と音楽の結びついたものであるため非常な大衆性があり、同時にわが国の文化向上という点について、映画音楽は考慮しなければならない点が多いと考える。では、まず今の映画音楽についてもっとも改善を必要とする問題から意見を聞かせてほしい。津川:いちばん日本の映画音楽の発達の邪魔になっているのは、発声映画を製作していくうえで、どことなく音楽がつけたりになっていることだ。[映画]全体を演出していく時に、さほど問題になっているとも思えず、音楽はできあがった画の伴奏としてのみ利用されているかたちがある。だから、映画の全体を作製していくうえで、音楽がはじめから割り込んでいかなければならないと考える。■欧米映画音楽の比較と自然音の開拓■ 津村:日本の映画音楽は、どちらかというと欧州ではなく、アメリカの映画音楽の流れをまねた傾向がある。アメリカ映画の音楽でいちばん不愉快なのは、自然音の使い方など苦心を払わずに音楽でごまかす傾向が多い。自然音のトーキーとしての芸術的な扱いは、案外発達しなかったが、理由の一つには音楽に頼りすぎていたからだ。日本映画の場合を考えると、少し劇的な流れが高揚してくるとすぐに音楽を奏ではじめるが、画面が変わるとそれがぱったりとやんでしまう。煽情的な効果を狙うなら、音楽をセーヴして、むしろ会話の力をトーキーの中心において、自然音を開拓するほうがよいだろう。映画『希望音楽会』で豊富に使われた音楽は、映画音楽ではなく、自然音としての音楽である。こういう場合は、むしろそういう音楽を開拓してもらいたいと考えた。日本の国民生活にはラジオが浸潤してきて、その意味では西洋音楽と国民生活の関係が深くなってきた。日本の映画ではラジオはほとんど扱われない。人間風俗に及ぼす音の方面からの影響を仮に日本映画で扱うとすれば、ラジオは恰好のテーマであるとみている。しかし、いまの日本の映画を例にとると音楽によって映画を鑑賞する気持ちを破られているという現状である。第一に録音技術からいって会話を妨げる。それに対してアメリカの映画音楽では画面の鑑賞を妨げない。いまの日本の映画界のようにだらだら調の音楽をやっているならば自然音のほうを開拓してもらいたいし、映画音楽を使うならば津川がいうように、はじめから創造に参画してもらいたいと思う。■映画音楽と日本音楽の関係■ 掛下:映画音楽がつまらないならば現実音や台詞を開拓しようという考えには反対で、いいものがあれば音楽をどんどん取り入れたいという考えが常にある。これからは欧米に負けない映画音楽をもった日本映画を南方へどんどん出さなければならない。今後は、いままで以上に積極的に映画音楽に力を入れたいと思っている。そのためには、作曲家が企画的な面に早くタッチすること、さらに今後の映画における日本音楽としてどういうものが生まれなければならないかということが考えられる。現在までの映画における日本音楽というと、アメリカのジャズの影響を受けた軽音楽的なものと欧州風の音楽の2種類がある。いずれも日本の音楽は及ばないと思う。それら2つの要素を打ち破るには、どういう日本音楽が今後作曲されなければならないか、そしてそれを映画の上でいかに生かしていくべきかということが一番大事なことだと考えている。■音楽に対する認識と製作機構の欠陥■ 宮澤:映画の音楽については、積極的に音楽を使っていいものを作る方向へ行ってもらいたい。映画制作者の上層部は音楽を、サイレント時代と同じように、伴奏的な雰囲気をかもし出すような面にだけ考えていて、明日やるというその晩になって、急に音楽をつけろということがあったのだと思う。上層部の音楽に対する認識が変われば、日本の映画音楽のいいものができるのではないかと思う。園部:現在の映画音楽の遅れ方は事実だ。これは映画音楽を離れても、音楽を書ける人が少ないということだと思う。しかし、もう一つ根本的に考えれば、映画の企業家が音楽の重要性を認めているかどうかに帰着すると思う。外国の映画には実在音楽を巧みに使った例がある。日本では、実在的な音楽の使い方もまずいが、音楽が日常化していないという弱みもあると思う。同時に、音楽に与えられている責任の度合いが非常に小さい。こうした映画音楽の弱さをどう打開するかということになると、密着した音楽を映画に付けていく方法を考えることだと思う。日本の映画音楽が成功していない理由は、音楽を書ける作曲家が限定されてきたうえに、そういう人を動員する関心を持っていない。くわえて、せっかく書いた音楽を充分効果があるものとして録音する技術がない。けっきょく、なんとかして[映画の]企画構成にまで干興ができるだけの方針を立ててほしい。日本の作曲家は映画に対するセンスをもっていないときくが、それだけで済むかといえば済まない。またニュース映画の10分の枠には、いろいろな項目が詰まっているが、そのすべてに音楽をつけるというのも間違い。劇映画、文化映画にも同様のことがいえる。津村:ニュース映画で、たとえば戦勝祝賀行進の場面では音楽ではなく、群衆の歓喜の声を入れたほうがよい。劇映画も同時録音の自然音が希薄だから、音楽がなければもたないということになる。■商業主義と音楽の氾濫■ 深井:いろいろ伺ってきたが、いまは前よりもましな段階に来ている。映画音楽の仕事をやり始めて十数年経つが、トーキーになったとき監督たちは音楽を歌舞伎の下座のように考えていた。その次に監督たちはアメリカ映画の影響を受け、ついには、たくさん音楽を要求するようになってきた。たとえば、台詞のやりとりのうまく行かないところや、録音機材を持っていけないロケーション現場を音楽でごまかしたいと考え、音楽が氾濫してきた。実に無意味に使っている。さいきんは、やっといろいろ考えていると思う。それから一番重大なのはコマーシャリズムの問題だ。トーキーの初期に音楽の世界でどういうおもしろいことができるかという、皆がもった希望がなくなってきた。それは一種の商業主義的な機構の具合の悪さから来ているのではないかと思う。商業主義は自分たちのやっているものを商品として売るために、いかなる犠牲を払ってもその商品価値を高めようとする。宮澤:レコード会社と映画会社がタイアップして宣伝効果に使う、主題歌映画がずいぶん音楽を氾濫させたが、とってつけたような主題歌ならば必要がない。深井:この辺で、どうしたら映画音楽が改善されるかを具体的に考えてみてはどうだろうか。■録音機構と製作日数の関係■ 掛下:実際的な現場のことで録音上のことを一言いうと、現在の録音設備のうちで、録音機構がほとんど改善進歩発達していないと思う。録音室は、どこの撮影所もこれを広げて反響その他もよくしたいと思っているが、建築のスペースの許可で現在以上に増やせない。それを造るには他の建物を壊さなければならないが、そういうわけにはいかない。そこで掛下は、反響も音色も良い一番大きなステージをダビング専門に使わせてほしいといっている。さもなければ劇場(日比谷公会堂とか宝塚劇場とか)でダビングをするようにしたいと考えている。作曲の日数に関しては、こんど配給会社が別にできて、完成から封切りまで割りに日にちがある。それに製作本数も月2本になっているので、作曲家もうんと日数をもらえると思う。津村:映画制作の最初から作曲家が参画するのが理想だが、とてもそこまでいかない。まず作曲日数の現状が改められるといいと思う。深井:ところが『マレー戦記』では重大な誤算があった。作曲は徹夜で頑張ってある程度できるが、写譜が間に合わない。吉村:こちら[映画製作者]も台本ができてから撮影日数が限られているので、できるだけ早く打合せをしている。[フィルムの]フィート数も打ち合わせて作曲してもらっている。画を見るときは、一応作曲ができていて画を見てから直してもらうようにしているが、やはり日にちがないことと、どういう作曲家に頼んでいいのか分からないのだ。凡そ音楽家は仲が悪くてお互いの悪口ばかり言って醜い。だから音楽界から直してもらわないと映画音楽は良くならないと思う。むしろ映画音楽をやっている方は熱心でよくやっていると思う。園部:映画音楽界に偏った職人性があることは充分批判されなければならず、一方、芸術音楽だけを書く作曲家には映画音楽を書く職人性が要求されなければいけないと思う。音楽家の仲が悪いのは困ったことだが、吉村氏が言った程度のことは、一般の作曲家にあるとは思えない。一般の作曲界では映画音楽にかなり関心をもっている。津村:日にちがなくなるということを考えてみたらどうか。吉村:映画製作全体の問題だ。音楽にそれだけの時間をかけるならば、演出にもっと日にちがほしい。音楽だけでなく全部に時間がないのだ。深井:ラッシュを見たのは録音の4日前だ。それから書いた。伊奈:完成したシナリオを読んで音楽のイメージが出てくるか?
吉村:監督によって撮り方もテンポも違う。どういうセットでやるかもわからない。できあがったラッシュを見て作るほかない。津村:映画製作全体の中で音楽は特に虐待されている。■映画音楽改善委員会に就いて■ 津村:名をなした音楽家を映画音楽にひきずりこむ具体的な方法を日本音楽文化協会でやっているか。映画音楽を誰に頼んでいいかわからない時、日本音楽文化協会が相談所を設けて、シナリオを読んで、これならこの人がいいだろうという斡旋でもしてもらわないと不便だ。園部:その点については、日本音楽文化協会で映画音楽改善委員会を作る案が出ている。これは近日中に具体化すると思うが、公平無比な一種の人材配給所になるだろう。吉村:音楽的センスを持った新人であれば映画音楽をやってもらいたいが、園部君は[そういう人たちが]あるという。あるかどうかが大問題だ。園部:あえて希望は失わない。慣れていないから書けないだけなのだ。総体的に見て、これまでやってきた人たちはあまりに経験主義に傾いている。津村:会社側にしてみれば新人は冒険になるので、チャンスを与える作品はよほどの日数が要る。深井:自分の作品として自身のあるものを書くためには、時間は無限にいる。これからは音楽に携わる期間は短くなるであろうから、その対策を考えておく必要がある。『マレー戦記』以後考えたことは、何人かの作曲家をおき、さらに責任者をおいて、それがまとめるような方法もあるということだ。津川:たっぷりの時間とともに、シナリオとは別の撮影基本[つまりコンテ]を作ってもらえれば、だいたいの内容もわかる。吉村:それは出せる監督と僕のようにできない監督がいる。映画音楽は、映画のアクションに合わせるべきなのだろうか? 津村:それは記録映画だろう。園部:必ずしも合わせなくて良い。津川:アクションに合わせるのは一応の原則だ。深井:何度か書いていると合わせて書きたくなる。しかし時と場合によって使用すべきで濫用すべきではない。さっきの日本音楽文化協会でやるという話だが、撮影所側では、そういうものにどういう態度をもつだろうか。具体性はあるのか。園部:わからない。さきほど述べたのは私個人の意見で日本音楽文化協会とはいえない。映画の企業が、どういう希望を持っているかも懇談してみないとわからない。深井:そういうものを作るより、いいプランを実際に行なわせることに充分配慮してほしい。園部:もちろんそうだ。人を推薦する話が出たが、抽象的に言えば、映画界に全然わかっていない事情を音楽側にわかってもらうだけでも、円滑になると思う。津村:問題は、しかるべき人をもってきた場合、その人がある程度満足できるような待遇(物質的、時間的)が与えてもらえるかが心配だ。そうした方面だけ改善してもらえれば、日本音楽文化協会の相談所は見込みがあるだろう。深井:そういうものがもっとも有効に働くには、映画各社ごとに音楽のわかる人を一人ずつおいておかないと具合が悪い。いまのところ、そうした会社は芸術映画社だけで、あそこは澁谷修がいて大村氏に理解がある。記者:園部氏に聞きたい。日本の作曲家で、映画音楽を書きたがっている人や書ける人が多いのではないかと思うが、劇音楽が書ける人と、純粋の音楽はかけても劇音楽は書けない人と、音楽の場合は2種類あるように思うがいかがか。園部:日本の創作界の不振が映画音楽の不振になるとすれば、ある程度の作品を書いている人を動員することが非常に重大だと思う。池内、深井、大木、諸井も書いているが、まだいると思う。そういう人を動員することだ。そのあとで篩にかけられて落とされて、残った人たちが本当に映画音楽の作曲家になると思う。深井:映画界は責任の問題をやかましく言うところなので、責任がどういうところへくるかということを一応は考えておく必要がある。■南方共栄圏映画対策■ 堀内:今後は南方や外国へ映画を出すことになるが、そうすると日本語や日本の習慣が相手にわかりにくい。したがって音楽の受けもつ役割りが大きくなると思うが、会社のほうでも、そのように計画しているのだろうか。掛下:しているが、具体的にどういう傾向の音楽が正しいかということになるとわからない。いまのうちの社では、『コレヒドール最後の日』という共栄圏全部に出す映画をやろうとしている。この場合の音楽は、相当力強い壮大な新しい日本を象徴するようなものでありたい。この作曲は誰が適当であるかわからないので、私案では、新人の作曲家にコンクールをして、コレヒドール攻略を主題にした交響詩か交響曲を書いてもらって、その当選者を音楽監督にしようかとも考えている。その場合、どのくらい応募してくるかが少し心細い。津村:南方または外国へ出す音楽を、特にいままでの日本映画とは別の趣向を考えなければならないとは考えない。いまの日本映画の状態では南方向けの特別の映画を作るのは不可能だ。それは労力や資材の関係もあるが、やはり内地でも上映し、外国にも出すものを作らなければならない。音楽を特に重視しなければいけないという点は痛感する。同時に日本の生活を描いた映画を出すならば、欧米化されない面も出てくる。また[映画音楽の]楽器の編成や楽器の選択について音楽の専門家から意見を聞いたら収穫があるだろうと期待している。けっきょく現代の日本を音の世界で表現する場合に、やはり西洋音楽の技法をもって表現しなければならないと考えている。ただ、楽器はなんとかそこに日本楽器を溶け込ませて活用することを考えれば、西洋楽器だけでは表現できないものが出てこないかと思う。深井:その点は疑問に思う。園部:日本の作曲家が時代劇のオペラを書くときに、様式が違うから全部音楽を変えて書くかというと、決してそうではない、そういうことと似ていると思う。要は内地の音楽に対して要求されたことが充分行なわれれ
ば解決されると思う。特に南方向けの音楽を構想するということは、いろいろな点で疑問がある。津村:向こうに出す映画が日本内地で上映されても充分通用するという原則が必要だと思う。伊奈:南方の人に聞いたわけではないが、欧州人は三味線の音を耐えられないという。ちょうどわれわれが、中国の胡弓を聴いてちょっと耐えられないのと同じ感じではないかと思う。深井:日本の音楽の特徴は、純粋になればなるほど内面的になるので、プロパガンダには具合が悪いものになる。伊奈:西洋の楽器で十中八九まで日本人の感情が表せると思うが、どうか。深井:現わせる。吉村:われわれが音楽を入れようと思ってイメージを浮かべる場合は、日本音楽ではない。心理描写のようなものは、たいがい西洋音楽のイメージでやる。津村:外国といっても東洋人を目当てに見せるのだから、[日本や]東洋の楽器を使って西洋音楽の技法で扱うといいと思う。日本音楽を使えという意味ではない。『川中島合戦』で山田耕筰が筝曲を使った。山田が出馬したにもかかわらず、結局、あの音楽は大失敗だったと思うが、使われた筝曲は一つの暗示を与えてくれた。ただ、その筝曲は、日本人が聴くからわかるのであって、異国人の場合は疑問だ。日本映画である限りは、畳の上の生活も出てくるし、純粋な日本的な面が出てくると思う。そういう場合に、日本の楽器をなんとかうまく使うことが必要になってくると思う。また、諸井三郎と会ったときに話したのだが、文化映画の『大和』を見て諸井の作曲が画面の効果としてうまくいかなかった原因の一つとして、歌手の発声法が挙げられる。それを直さなければ、いくら作曲家が苦心しても無理だと思う。どうしてああいう発声になったか諸井氏に尋ねたところ、音楽学校の責任だと思うと言っていた。文化映画の場合、独唱合唱が必要だ。ヘルバート・ヴィントの『勝利の歴史』でも合唱をうまく使っていた。そこで歌手の発声法がなんとかならないかと思う。伊奈:話は違うかもしれないが、ワルツは日本の男の合唱で聴くと女の合唱のように聴こえる。深井:ファルセットを使うからだ。園部:日本人の声は、レコードの場合、マイクに人間の声が適用される。だから感覚だけになる。本来の日本人の声が練れていないために、そこに現れたものが女性的になる。しっかりしたスタジオで、しっかりしたコーラスがやれば、そういうことはない。諸井氏の映画の場合、発声の問題もあるが、吉野山が出てくるのに実在性がない。そういう扱い方にも問題があるのだ。そこまでいかないと、発声法だけでは解決できない。津川:日本の歌手の不愉快なのはヴィヴラートだ。ソロのときならいいが、合唱でやられると、線がふやけて不愉快なものになる。つまり雑音の連続にきこえる。堀内:それでは、この辺で。
【2003年3月13日+3月16日+3月17日+3月19日+3月21日+3月23日】
文化映画に於ける音楽の諸問題(特集・映画音楽の諸問題)澁谷修(『音楽之友』 第2巻第12号 1942年12月 p.69-73
内容:今日の文化映画は、映画のなかで独自な分野と表現技術を確立しつつある。これは劇映画に対立させて考えるのではなく、文化映画という映画形式と文化映画の持っている可能性(生きた現実に直接触れ、生きた生活をこのジャンルに充たし得るというそれ)に、このジャンルの特質をみる。したがって文化映画における音楽も、この綜合的なものの一分野である限り、音楽において独自の表現形式をもっている。文化映画とその音楽は、それぞれの部門が種々雑多な寄せ集めである状態から一歩抜け出た現状だが、それだけ悪さとなって現われている傾向もあるようだ。ここに、文化映画の音楽の問題を摘出してゆく。/4、5年前まで文化映画は大部分説明的な表現方法をとっていた。その音楽も画面にあわせた伴奏の時代にあった。したがって創作音楽というより、けっこうレコードで間に合うところから抜け出すことができなかったのである。それが次の段階になると、文化映画に流れる、眼に見えない大事な筋の意識過程の底流が強調された。このことは音楽においても、その場その場をつなぎ合わせるレコードでは役割をはだし得ず、感性的なもののなかへ一つの論理的なものをにじみ出させる芸術的形象として文化映画の音楽を描くことの努力がなされなければならない。こうした困難な仕事を日本の作曲家は安易に考えている。そして、この発展は一時に飛躍的になされたのではない。そこにいくつかの問題が提起されている。/一つは映画の構成を中心として、そのまとまりというものが当面の中心であり、それが形式だけの追求に変わったように思う。こうして形式主義的傾向が出てくるため、音楽もそのような追従をせざるを得ない場合が多い。これはニュース的な編集をする時にもっとも甚だしく現われてくる。こうしたところからは音楽は自己分裂せざるを得ない。もう一つは形式的な傾向に対して、音楽家に何らの主張もなく、映画製作の機構に従っていく便利主義である。この特徴は雰囲気中心主義であろう。ここにおける音楽表現は、あなうめ式方法を脱し得ない。この両者は、今日個々の傾向としてはないようだ。むしろ両者が混乱した状態に置かれている。それは、音楽家に論理の発見がないこととその発表的芸術基準の喪失にある。/日常的な音楽の研ぎ澄ましを持続させるものは、自己の性格形成過程の科学的検討である。形式主義的にもつ「あの手この手」が商品に通用するといったところから、それらを漫然と文化映画音楽に使う場合は、その特質はいつまでたっても肉体化しないであろう。/文化映画音楽の問題は伴奏音楽の抜け出し方にあり、それは音楽家が生きた現実によりふれあう生活を必要とする。しかし作曲技巧という隠れみのにかくれて、音楽家はそうした生活を追及する意欲を失っている。文化映画音楽は、今日のような便利主義や形式主義を排撃すること、つまり卑俗な音楽を排撃するところに作曲家自身が身を挺さなければならない。
【2003年1月8日】
劇映画音楽緒言(特集・映画音楽の諸問題)横田昌久(『音楽之友』 第2巻第12号 1942年12月 p.73-76)
内容:わが国の映画がトーキーとなったのは約13年前である。この間、映画音楽は相当の進歩を遂げた。しかるに現在の映画音楽の状態は全般的に『貧困なる能力』しか発揮していない。トーキー初期の音楽監督は、すべて無声映画時代に映画館の伴奏楽団の楽長だった人ばかりで、まったく作曲能力のない人たちも少なくなかった。このもっとも低劣な時代が約5年続いた。その間に映画監督もトーキーならではの演出を根本から勉強した。また、音楽家の中からも正式に作曲を学び、映画への熱情によって仕事にかかわる人も現われるようになった。こうした時期から、映画音楽が進歩し始めた。/新しく出現した能力ある作曲家たちは、映画の仕事への真摯さのみならず、つねに映画音楽の理論的研究へも邁進していった。そして過去の時代に属する音楽の無能力者を一応、映画界から駆逐したのである。しかしその後、純粋音楽への自己の能力がないことを自覚して映画音楽へ転向してくる者が多くなり、再び沈滞を呼び戻した。また映画会社の打算から、レコードの流行作曲家らに作曲を依頼することからも、現在の沈滞は起因している。映画に関する知識が皆無では優秀な映画音楽は生まれない。/以上のことがらを一括すると、3つの時期に分けられる。第一は黎明時代で無進歩の時期、第二は開拓の時代で躍進時代、第三は沈滞する現在である。こうした沈滞期において映画音楽の貧困が叫ばれるのは当然である。映画音楽の向上を望むための指摘は次のとおりである。(1)映画会社の覚醒: 予算の問題で映画一本に対し数十万円を投じている現在、その音楽の費用に5千〜1万円程度の予算をとることはさして困難ではないであろう。また、前述したように映画の本質を知らない一流作曲家や能力の少ない作曲家にもかまわず依頼することは是正を望む。(2)作曲家に望むもの: 純音楽の作曲に失敗した人たちの逃避場所として撮影所を選ぶことは絶対に避けなければならない。映画音楽の作曲家の力量は、少なくとも交響曲を書きうる程度の能力が必要である。また、管弦楽に対しても精通していなければならない。才能ある音楽家といえども、いきなり映画の仕事をしたのではほとんど失敗する。映画音楽の仕事をする者は、演出を知らなければならない。そのほか、演技者の個性、カメラの画調・位置・アングル、劇が演じられる地方の色、季節等の考察も充分考慮しなければならない。
メモ:筆者は大映音楽部所属。
【2003年1月9日】
現場音楽手帖(特集・映画音楽の諸問題)/宮淳三(『音楽之友』 第2巻第12号 1942年12月 p.77-80)
内容:宮が音楽評論社をやめて映画の世界に入ってから5年経つ。無声映画の時代には、弁士がいて楽隊が音楽を奏でていた。その音楽は、不用意に聞こえてくる音から聴覚を守り、心理的な統一を得ることに成功した。そのため、音楽は複雑なものであってはならなかったが、当時は音楽家も演奏家も単純な音楽しか演奏できなかったという偶然の結果がもたらしたものである。今日のように映画が発達して映画の音も複雑になると、映画音楽も可能な技術をすべて使って自己表現をするようになった。これに応えるものが今日の文化映画であり、劇映画の音楽と文化映画のそれとは区別して考えられなければならない。目的と表現手段が違うからである。/映画は綜合芸術であるというが、表現手段としての素材を充分に使いこなせる映画作家がいれば、音楽家はより生きいきとした表現を提供する。映画音楽は、音楽という素材が映画作品のなかで映画的に構成された時に初めて成立する。大きなオーケストラや合唱を使って映画音楽をといわれることがあるが、画を見ると少しもその必要がない時がある。音楽は思いつきで用いるにはもったいなさすぎる。また、やたらに現実音を付けてリアリスティックだと思い込んでいる人たちがいるが、われわれの感覚を無視したリアリズムなどありえない。作曲家にコンテを渡し、音楽ができあがったあとでフィルムをカットする人もいる。こういう連中にかかると音楽は映画の製作とは別なものらしい。何日までにプリントを仕上げなくてはならないとか、何日に封切りだといって日をきられるのは辛い。そのくせ画の編集が遅れる一方である。せめて作曲家に念を入れて作曲するだけの時間を与えて欲しい。できるなら録音前に、音楽のピアノテストを行ない、音楽家は作ったものの効果を見るようにし、演出家は作曲が自分の意図とあっているか確かめるような機会をもちたい。映画においては、音楽は素材であるから単独で芸術的完成をみることはない。不思議なことに専門的といえる映画音楽家よりも、内職的に映画音楽をやる音楽家のほうが良心的であることが多い。前者は要領を得てソツはないが、何かで使った曲を2度使うようなことがある。
メモ: 筆者は横浜シネマ音楽部所属。
【2003年1月13日】
発声映画の音楽上演権に就いて(特集・映画音楽の諸問題)安土正夫(『音楽之友』 第2巻第12号 1942年12月 p.81-87)
内容:発声映画は1929年中ごろ、アメリカにおいて実現されヨーロッパに伝播した。今日では無声映画は過去のもので、映画といえば発声映画を指すほどになった。しかし国際条約には、これに関する明文がないために、種々の問題は紛糾して帰一するところをもたない。ポール・マロットは発声映画を活動写真的著作物と劇的著作物の中間に置き、どちらでもない単一個性的著作物であると言った。その根拠は発声映画の制作過程に置いている。すなわち、情景を捉える装置はマイクロフォンに結び付けられていて、マイクロフォンによって送られた音の振動を光煮の振動に変じ、フィルムの乳状液は光の波動を映画の影像と薄膜の誘導に用いる一方の窄孔の間に残された狭い線の上に写調するからである。射影の任に当たる部位には、フィルムを横切る電光供給箱がある。このようにマロットは、発声映画の単一個性的制す津を、その内容と装置の両面から説明している。しかし現行「ベルヌ」条約では、発生映画も依然として映画にほかならないから、新しい様式を規定すべき条文はなく条約第14条の適用を受ける。/しかし発声映画が著作権法上もっとも問題となるのは、これに写調された音楽である。発声映画は、単に「ベルヌ」条約第14条の適用を受けるのみだとすれば、その結果、音楽的著作物の著作者はその著作物を発生映画に複製、翻案して上映することを許可する特権を有することとなる。しかし仮に、音楽については同条約第13条の適用を受けるとすれば、発声映画はその音楽に関して音楽的著作物を機械的に複製するの用に供する機器とみなされ、そうなれば音楽的著作物の著作者は制限を受ける可能性が生じてくる。この点をめぐっては、国際的にも国内的にも定説がなく、実際に紛争が絶えないので、なお一層の研究を要する。/ここでドイツにおける事件を例として見ていく。1933年4月5日、ある映画会社が著作物権をもつ協会に承諾を要せずして、その音楽的もしくは文学的著作者を発声映画により演奏しうるかという訴訟が提起された。原告(協会)は、その著作物を発声映画によって公に利用する特権を有すると主張し、被告(映画会社)は原告の主張を否定した。けっきょく、第一審判決、第二審判決ともに原告の主張を認めている。控訴院も音楽著作者の特権は発声映画の演奏(あるいは上演)に及ぶと言う判決が下り、原告の勝訴が決定した。/国際著作協会[ママ]の特別委員会は、フィルム音楽を写調することが文学的著作物をスクリーンに翻案することと同視することはできまいと思料している。そして、活動写真的著作物に附際する音楽的著作物の権利は一切の場合において[ベルヌ条約]第13条の規定に準拠して定められるべしと提案した。この提案については二つの批判が生じる。第一に、この提案は活動写真的著作物のために特に書かれた連合楽譜が、はなはだ前記著作物と結合して法律上不可分の一体をなすにもかかわらず、音楽著作物をフィルムに写調することをもって、すべて活動写真的著作物の付随物とみなしている。しかし、フィルムに写調された音楽について強制許諾の適用範囲を拡大すべきでないと考えており、協会の提案に反対する。/では、わが国の著作権法上、トーキー音楽をいかに理解したらよいか。トーキーフィルムは活動写真に関する規定に服すとするか、あるいはその音楽については別に、音を機械的に複製する用に供する機器に規定に服すとするかが問題となる。われわれは発生映画が単一個性的著作物であって、法律上これを一著作物として取り扱うことを至当と考える。射影装置と発生装置とが分離している場合であっても、二者を分離して取り扱うことは不当である。発声映画の音楽的要素と射影的要素に対して、同一の取り扱いをなすか否かは、二つの要素が一つの装置によって扱われるかどうかではなく、それらの要素が映画制作者の唯一の意図の下に結合しているか否かに存する。かりに発声映画が影像を除いて上映演奏された場合を考えると、そういう場合でも、理論上より、機械的楽器ではないと思料する。それは本来不可分の影像が一時除外されたに過ぎないのであって、そうした特殊事情をもって本来の法律上の取り扱いを変更する必要はない。
【2003年1月17日+1月19日】
楽友近事/堀内敬三(『音楽之友』 第2巻第12号 1942年12月 p.88-92)
内容:■神宮大会を陪観して■1942年11月2日、両陛下行幸を仰いでの明治神宮国民練成大会特別演連に、日本音楽文化協会役員は情報局の尽力により、玉座に近い席を与えられた。嬉しかったことは、全国から集まった何千人の選士が入場するときの行進が、軍楽隊が演奏する行進曲に合っていたことだ(4、5年前には、よくバラバラのことがあった)。情報局第五部第三課長井上司郎は、選士として行軍に加わり4貫目の荷を背負って60kmの徹夜で歩いた。9月に国民音楽協会が練成会をやった時、井上課長は病を押して指導に当たった。情報局においては音楽・美術・文芸を統括する主任官吏であり、個人としては著名な歌人であるこの人の克己力行の実践をわれわれは学ぶべきだろう。/この日、5万人の参列者に厚生体操を指導したのは江木理一だった。江木の光栄は江木を生んだ陸軍軍楽隊の光栄であり、江木を仲間としてもつ楽壇の光栄であると思う。■5万人の合唱■1942年11月6日、神宮外苑で女子音楽体育大会が音楽体錬協会の主催で行なわれ、大日本婦人会総裁東久邇宮妃殿下のご台輪があった。なお皇族6名が女子学習院生の資格で参加した。参加校は女子学習院をはじめ東京の公私立女学校63校・3万余名、一般観覧者を加えると約5万人が集まった。この会は全員の合唱、合同体操、鼓笛隊行進、東京音楽学校生徒(澤崎教授指導)による特別合唱等があり、岸本楽長指揮の海軍軍楽隊が全曲目を合唱とともに演奏し、また軍楽行進も行なった。この会は、新体運動と発声によって行動的な精神を強めるものである。乗杉嘉壽会長は健康を害していたにもかかわらず陣頭に立って指揮をし、委員長井出茂太、理事吉田辰雄・杉山長谷雄・白井保男らの関係者も非常な努力を捧げていた。■音楽巡回大演奏会■日本音楽文化協会・朝日新聞社の共同主催により、情報局の実質的援助の下に第1回音楽巡回大演奏会が行なわれ、日立・仙台・盛岡・青森・秋田の5市で講演(情報局井上課長、野村光一、桂近乎)管弦楽(山田耕筰・山本直忠指揮、東京交響楽団)歌唱指導(伊藤武雄、辻輝子)からなる演奏会が産業戦士に無料で提供された。低級な音楽は氾濫しているが、低い方へ妥協してしまわぬように戒めなければならない。そして良い音楽は開放されなければならない。産業戦士はラジオやレコードで高級な音楽を味わう力を養っており、欲求をもっているのだ。その意味で、この巡回演奏会は良い企画であった。■素人音楽の落とし穴■素人の音楽は直接自分が楽しむ以外に、音楽を聴く力を養ってくれる。しかし、これには2つの落とし穴があるように思う。ひとつは積極的なもので、本職のまねをして人前で演奏して喝采を受けたがるものである。もう一つは消極的な「個人的道楽主義」である。素人の音楽道は、(1)非職業であること。演奏は奉仕のために行い、報酬を求めないこと。(2)気品を高く保つこと。(3)素人として可能な範囲で技術を練磨し、力いっぱいの演奏をすることにある。これらの点をあわせて考えると、素人の音楽は合唱や合奏など他人といっしょにやるものが、技術も常に磨き、規律に服して一致協力する好週間が得られて良い。ただ、合唱や合奏をやっても芸人主義や道楽主義に陥っている団体があるのを残念に思う。■専門が分かれ過ぎはせぬか■音楽関係の各方面で指導者が少ないと聞く。もともと音楽家の数は少ないが、ほかに日本人は専門を分けすぎる癖があるのではないかと思う。初歩の教育くらいは一人の先生がいろいろできないと困るであろう。東京音楽学校の師範科を出た人は、いろいろできて便利である。明治時代に日本にいたエッケルトは、たいていの管楽器をこなしたうえに弦楽器も作曲も教え、軍楽隊の技術を大いに進歩させた。今は、そういう人が要求されているのである。■秋の音楽競演■音楽コンクールの器楽は、ひじょうな好成績を示し、ピアノに文部大臣賞、ヴァイオリンに情報局総裁が出て二人とも17歳の男子だったが、声楽の方は振るわなかった。参報の厚生音楽コンクールでは合唱と吹奏楽が驚くほどよかったが、ハーモニカの合奏だけはダメだった。全日本ハーモニカ聯盟のハーモニカ独奏コンクールを聴くと、こちらは躍進的に進んでいる。なぜ産業人の合奏だけがまずいのかわからない。女子中等学校の合唱競演会も好成績だった。■最初の海軍軍楽少佐■1942年11月1日、海軍軍楽隊の内藤楽長と藤咲楽長が、海軍軍楽少佐に昇進した。軍楽隊はじまって以来初めてのことである。海軍における軍楽隊の地位がいちじるしく向上したことを感じるし、それだけの手柄も立てている。今もわれわれの知らない遠いところで、軍楽隊は音楽を奏するだけでなく、さまざまな仕事をしている。そうした人々にもやがて厚遇をと思うが、両楽長の功労を認められたことを嬉しく思う。■ぜひとも協力■楽壇ほど互いの悪口を言うところはないそうだ。演奏家協会の音楽挺身隊がよく団結して楽壇のために奉公精神を発揮しているのは嬉しいが、その他の楽壇各部門では協力しようとする熱意がほとんど見られない。小さな楽壇の中でいがみあっていて、国家目的への協力を忘れているようでは、日本人とはいえない。戦いに勝つために全国楽壇は一つになり、国家のために音楽と身を捧げなくてはならない。すべての楽壇人は大乗的見地に立って協力しようではないか。■北原白秋氏逝く■北原白秋は1942年11月2日、死去した。58歳。白秋の詩集『思ひ出』から堀内は大きな衝撃を受けた。白秋の詩は内容が優れているだけでなく、音韻的にも良い長所があったので、作曲家が優秀な声楽曲を書いた例は多い。詩壇のみならず楽壇にとっても大きな貢献をした。■佐藤清吉楽長逝去さる■今秋来、腎臓炎のため築地の海軍病院で療養中の佐藤楽長は、1942年[11月]24日午前4時20分死去。氏は明治43(1910)年横須賀海兵団軍楽生として入隊、大正13(1924)年11月東京分遣隊長に就任し昭和5(1930)年12月1日退職。その後、大勝館、松竹少女歌劇団の楽長を経て大日本吹奏楽聯盟常務理事ならびに日本音楽文化協会理事として活躍していた。
【2003年1月21日+1月26日】
東北巡回演奏日誌 ― 第一回音楽報国運動大演奏会/松尾要治岡正(『音楽之友』 第2巻第12号 1942年12月 p.93-98
内容:■日立■1942年10月19日。上野駅から日立駅へ移動。宿で早めの夕食を済ませ、一同、製作所特別仕立てのバスで、この日の会場である日立製作所武徳殿前の桐木田グランドへ向かった。会場には、舞台に20Wの電球が10個ばかりあるだけで、ほかは真っ暗だ。電球の半数ほど60Wにしてもらった。開会前、約15000人が集まってきて、一同感激した。日立製作所牧野田部長より開会の辞があり、続いて主催者代表して日本音楽文化協会副会長・山田耕筰、情報局より井上第5部第3課長、日立製作所より厚生部長(技術部長)の今井恒三郎がそれぞれ挨拶。東京交響楽団の桂幹事の楽曲解説があり演奏に移った。曲目は、
  1.歌劇《ウィリアム・テル》序曲(ロッシーニ作曲)  山本直忠指揮
  2.《野人》(渡邊浦人作曲)  山田耕筰指揮
  3.独唱  (バリトン)伊藤武雄  山田耕筰指揮
    (イ)《荒城の月》(土井晩翠作詞、瀧廉太郎作曲)
    (ロ)《戦線詩情》(佐藤春夫作詞、池内友次郎作曲)
      −A.半壁山奪取の日(朝)司令官の呟きけるは
      −B.半壁山奪取の日(夕)参謀の言へる
    (ハ)《本荘追分》(露木次男編曲)
    (二)歌劇《カルメン》より<闘牛士の歌>(ビゼー作曲)
    −−独唱  (ソプラノ)辻輝子  山田耕筰指揮
    (ホ)《長持唄》(山田耕筰編曲)
    (ヘ)《からたちの花》(北原白秋作詞、山田耕筰作曲)
    (ト)《松島音頭》(北原白秋作詞、山田耕筰作曲)
  4.歌唱指導《楽しい奉仕》  伊藤武雄
  5.交響曲《未完成》(シューベルト作曲)  山田耕筰指揮
  6.会衆合唱《愛国行進曲》  早川彌左衛門指揮
夜が更けるにつれて、なかなか冷えたが、演奏修了後は製作所側の歓迎慰労会に揃って出席した。翌朝、汽車に乗る前の1時間を利用して日立製作所を見学した。■仙台■10月20日。会場の仙台座は駅に近い定員2000名の木造の芝居小屋だが、目に余るボロ小屋だった。約5000人の人たちが来て、中に入れない2000人の人たちが、外につけたスピーカーでは物足りず、何とかして聴くだけでも聴こうと押し合い、ガラスは破れ、戸は壊れ、警官の出動を要請した。場内も床が2ヵ所抜け、小屋から相当の損害を請求された。戸もガタガタで満足に閉まらないうえに入口がいくつもあって、群衆の整理に追われた。仙台でも日立同様、《ウィリアム・テル》序曲を山本直忠が、他のプログラムは山田耕筰が、会衆合唱の《愛国行進曲》は早川彌左衛門が指揮した。仙台では聴衆の半分ほどが婦人で、学生も多かったが、産業戦士があまり見えなかったのが残念である。■盛岡■10月21日。仙台で、山田耕筰と辻輝子は東京へ帰った。曲目の一部も変更された。
  1.歌劇《ウィリアム・テル》序曲(ロッシーニ作曲)  山本直忠指揮
  2.《野人》(渡邊浦人作曲)  山本直忠指揮
  3.独唱  (バリトン)伊藤武雄  山本直忠指揮
    (イ)《荒城の月》(土井晩翠作詞、瀧廉太郎作曲)
    (ロ)《戦線詩情》(佐藤春夫作詞、池内友次郎作曲)
      −A.半壁山奪取の日(朝)司令官の呟きけるは
      −B.半壁山奪取の日(夕)参謀の言へる
    (ハ)《本荘追分》(露木次男編曲)
    (二)歌劇《カルメン》より<闘牛士の歌>(ビゼー作曲)
    (ホ)《松島音頭》(北原白秋作詞、山田耕筰作曲)
  4.歌唱指導《楽しい奉仕》  伊藤武雄
  5.《交響曲第5番 運命》(ベートーヴェン作曲)  山本直忠指揮
  6.会衆合唱《愛国行進曲》
会場は収容人員1500の県公会堂。仙台以後は、情報局から第5部第3課の齋藤國夫が各会場で挨拶を受けもつことになった。岩手県では釜石で演奏したかったのだが、汽車の便が悪いためできなかった。■青森■10月22日。一同だいぶ疲労してきたようだ。青森での会場は長嶋国民学校講堂である。1500名は無理な講堂であるが、そのくらい入った。そして入りきれない人たちがあふれて、窓ガラス、児童の机、教壇などを壊し若干の損害を払う。演奏中、入れなかった人が屋根に上がりミシリミシリと音がするほどだった。東響メンバーは疲労のため、最初の《ウィリアム・テル》序曲と最後のベートーヴェン《交響曲第5番》を入れ替え、ベートーヴェンを最初に演奏した。東響の金子は会場準備のほかに夜遅くまで楽器運搬の仕事に当たっていた。■秋田■10月23日。移動の最中に振り出した雨がどしゃぶりになる。そのため駅から宿へはハイヤー、厚生車、人力車などで、宿から会場へは3台のハイヤーに往復してもらって、思わぬ費用がかさんだ。会場は3000人入れる県公会堂である。会場がいいのと最後というためか、挨拶と講演に正味1時間かかった。終了後、メンバーの慰労会を開く予定だったが、夜9時過ぎに会合をやらせてくれるところは秋田にはなく中止となった。今回の旅行は文字通り音楽報国運動であって、勤労奉仕である。われわれは深く感謝にたえない。今回の旅行には野村、桂両氏が用心深くも傘を持参した。今日、1週間以上の旅行には傘は必要なようだ。また、弁当は売っていてもお茶のぜんぜんない駅がほとんどだったので、水筒か魔法瓶も必要である。松尾は、さいごに『週報』308号所載の「娯楽と移動演劇」から引用し、移動文化こそは国民文化建設のための大切な分野であり、こうした移動文化を盛り立てていこうと結んでいる。
【2003年1月27日】
日清戦争軍楽従軍記(5)春日嘉藤治(『音楽之友』 第2巻第12号 1942年12月 p.99-101
内容:本号の日誌に掲載されたのは1895(明治28)年2月4日(月)から1895(明治28)年3月3日(日)まで。1895年2月4日(月)晴。この夜、わが水雷艇9艘は、初めて威海衛湾内に入る。うち第2艦隊の5艘を藤田海軍少佐が率い、第3艦隊の4艘は今井海軍大尉が率いた。1艇の水雷が相手艦に命中したが、相手の発射した大砲が日本の艦に命中し、死傷者を出した。その後3発の水雷が相手に命中し、わが艦隊は首尾よくことをし遂げた。2月5日(火)晴。この日も5艇を湾内に入らせたが、2艇故障を生じ、残る3艇で7発の水雷を発射し敵の砲艦1隻に命中した。1月7日(木)晴。暁天より砲声轟然とする。わが陸の砲台より発射した1発、月島に命中。軍司令部で奏楽した。1月9日(土)晴。本日の海戦で敵艦靖遠が沈没した。軍司令部で奏楽をした。また、歩兵13隊に出張奏楽をした。2月11日(月)晴。紀元節なので司令部に出張、君が代を奏して拝賀の式を行なう。夜は管理部で祝宴会を催す。2月12日(火)晴。敵艦・廣丙艦長、白旗を翻す。伊東艦隊司令長官は廣丙艦長より送られた書を読んで、憐れみ、シャンパン、ウィスキー、葡萄酒を送るが、廣丙艦長はこれを受け取らず、自殺を遂げる。部下も同様に自害した。2月16日(土)晴。午後、軍司令部で奏楽をする。2月17日(日)晴。明日、出発の命令が出る。2月18日(月)晴。威海衛に達する。2月19日(火)晴。午後1時より孔子廟大威殿で戦勝祝宴会が行なわれた。2月21日(木)晴。城内行進合奏をする。2月24日(日)晴。午後、威海衛を出発し馬頭衛に着く。2月25日(月)晴。わが軍司令部を乗せた横濱丸が出帆。甲板上で奏楽。2月26日(火)晴。大連湾に着き、柳樹屯に上陸、金州に復帰した。1895年3月2日(土)晴。午後、楽器を自習した。午後7時、突然の公報で第二軍附軍楽隊軍学生徒は2月21日卒業のうえ、楽生を命ぜられる。3月3日(日)晴。受書を差し出す。午後、行進合奏をする。
【2003年1月31日】
レコード界 <百年戦争だ! 音楽はこれでこれでよいか!>丸山鉄雄(『音楽之友』 第2巻第12号 1942年12月 p.105
内容:〜特にレコード歌謡を中心として〜 戦争が始まった当時、今度こそは、われわれの胸の底からほとばしり出るような愛国歌や軍歌や、あるいは戦時下の人心を和らげ慰めてくれるような本当の意味の大衆歌が生まれるものと思った。しかし開戦から一年が経って、レコード界とレコード歌謡は、変わることなく低調を続け、時局便乗歌謡の氾濫があるのみだった。社会が長期戦の段階に入り、大衆は説教を並べた時局便乗的な歌謡を尻目に、《別れのブルース》や《湖畔の宿》を口づさんだ。そしてレコード会社が競って作った国策歌謡は巷から消え、レコード歌謡は再び暗中模索の状態に戻りつつある。これが歌謡報国の道であろうか? レコード歌謡が大衆のものである以上、大衆のよって立つ社会的地盤を把握し、世相の動き、大衆心理の動向を正確機敏に捉えることが必要である。次に安易は時局便乗的企画をやめること。国策的歌謡とは、大衆に国策を押し付けたり、説教する歌謡という意味ではない。《忘れちゃ嫌よ》とか《ああそれなのに》というような歌が時局柄作れなくなったからといって、《進め一億》とか《さうだその意気》というような国策を盛り込んだ歌に鞍替えし、「陸軍省撰定」「海軍省撰定」「情報局撰定」というレッテルを後生大事にふりかざす。こんなことでは、大衆の中に食い入ることはできない。レコード界は猛省せよ。
【2003年2月4日】
吹奏楽運動 <百年戦争だ! 音楽はこれでこれでよいか!>松村淳(『音楽之友』 第2巻第12号 1942年12月 p.105-107
内容:吹奏楽運動の歴史は満州事変以来で、まだ10年を出ないであろう。この間、恐らく日本全国で5000〜6000の吹奏楽団が組織され、軍国的な吹奏楽が民間の各層に浸潤してきた。しかし、解散した団体も多かろうし、青少年団が改組したこともあって、楽器の所属が不明瞭になったり、青少年団の音楽部の活動が低迷している。ちかごろは資材不足であるから、遊休楽器の回収運動を始めたらどうかという意見も聞こえてくるが、逆にそうした楽器があるなら有効に働かせるようにするのが、大戦下の青少年団運動を活発にする秘訣だ。青少年団本部では喇叭鼓隊の指導者講習会を藤湖畔で1週間にわたって行なったが、こんな手ぬるいことではダメだ。/吹奏楽が組織されている層を分類してみると、青少年団、学校、産業団体の3部門に大別できる。このなかで学校を統括する文部省が吹奏楽に関する教育方針をまったく持っていないのは不思議だ。参報本部の吹奏楽に対する文化政策もパッとしない。厚生局文化部があまり仕事をしなかったため、今春の改組で縮小され、文化係という存在になった。この係が行なう文化指導は、演劇、茶の湯、生花、詩吟、合唱、ハーモニカ、レコードとたくさんある。参報の吹奏楽関係の仕事は、昨年から放送協会と共催で勤労者音楽大会(競演会)を始めたことと、今年から吹奏楽聯盟と共催で吹奏楽指導者講習会に乗り出したことの二つを数えるのみである。/吹奏楽運動を活発にしてきたのは吹奏楽聯盟である。1936(昭和11)年に結成されてから多彩な活動を行ない、日本放送協会の助成金を得て全国的に講習会を開催したり、朝日新聞社と共催で全国的競演会を行なったりして、技能を前進させた功績は大きい。しかし今後、戦時下の吹奏楽運動を有効適切に指導展開できるかという疑問が残る。吹奏楽の統制団体として大日本吹奏楽聯盟があり、これに対立するものに大日本吹奏楽報国会がある。両者が今もって統合できないでいるのは理解に苦しむところであり、吹奏楽運動の担当者としての資格に欠けると言い得る。両者は統合して新しい皮袋を造ることだ。そのためには少々の若返りを必要とする。
【2003年2月6日】
ハーモニカ界<百年戦争だ! 音楽はこれでこれでよいか!>西宮森太郎(『音楽之友』 第2巻第12号 1942年12月 p.107
内容:銅製品製造禁止令の若干の手心によって、楽器は、1943年4月6日までの余命を得た。張りのある音色をもったハーモニカは、もはや市場には見出せない。すべては代用品時代と歩調を合わせざるを得ない。しかも需要はほとんど無限である。合奏楽器の製作率低下は、アマチュア・バンドの成長を阻むかにみえるが、製造家に言わせればすべての要求を満たせないということになる。/勤労者音楽放送コンクールに今年から参加したハーモニカ部門を聴いたが、あまりにも惨めな結果であった。吹奏楽や合唱は、下手は下手なりに一貫した行き方をもっていて、残された問題は演奏技術の練磨だけである。ハーモニカ合奏は、よい指導者をもつ僅少のバンドを除いては、よい編曲に恵まれていないものが大多数で、《軍艦行進曲》演奏の混乱はこの点に起因する。課題曲についてさらに一言すれば、合奏楽器(主に中・低音楽器)を充分にもてない職場のバンドは、マーチのようなもので充分な演奏効果を挙げられないため、次回からは2曲出題して選択させるなどの方法を当事者に望みたい。
【2003年2月7日】
合唱運動 <百年戦争だ! 音楽はこれでこれでよいか!>吉田永靖(『音楽之友』 第2巻第12号 1942年12月 p.107-108
内容:元来合唱は非職業的に発生し成長してきたが、そのなかで職業化されたものがあることはやむを得ない。現在職業合唱団として挙げられるのはレコード会社、劇場付きの小合唱団と放送合唱団である。職業と非職業の区別は、現在は、報酬が生活的であるかどうかという点と、その主目的が舞台にあるか訓練にあるかという点にあるといえるだろう。現在のように職業と非職業が混然としていることは、合唱の行く道を阻むものであると思う。/さて、楽曲については、どの合唱団に聞いても曲に困っている。合唱曲は合唱団の糧であるから、作曲家を煩わさなくてはなるまい。また、たいていの合唱団は一度演奏した曲目を再びあるいは幾度も演奏することを好まないようであるが、一度ものにしたものは永久にレパートリーの一部として保存すべきである。/演奏については、さいきん管弦楽と大合唱の演奏が盛んである。たいてい合唱団は、音楽学校のほか、きまった学校(あるいは学園)の子どもである。しかし、あれは子どもの声である。聴衆も指揮者も、はたして満足しているのであろうか。
【2003年2月9日】
出版界 <百年戦争だ! 音楽はこれでこれでよいか!>杉本三郎(『音楽之友』 第2巻第12号 1942年12月 p.108-109
内容:世間では音楽が盛んになって楽譜の需要が増えると見られている今日、ある音楽出版社の責任者は、さいきんの楽譜出版は停頓状態だと言う。大東亜の音楽文化工作に必要とされる時に、その供給の源である出版が萎縮し無気力では戦線勇士に申し訳ない。もちろん用紙の激減、資材の不足、製版印刷製本上の不円滑から製品販売の遅延につながることはあり得ようが、これは辛抱しなければならない。他の出版部門に比較して、音楽はあまりにも意気消沈の度が過ぎているが、それはなぜかを考えてみる。/1941年夏、日本出版文化協会が誕生し音楽出版社も漏れなくその会員になった。そして用紙の統制と同時に出版物の内容審査を受けることになった。その審査が漸次強化され、さいきん日本音楽文化協会から中山晋平、野村光一、小松耕輔、堀内敬三、増澤健美、井口基成、諸井三郎が選ばれて「音譜の浄化」運動が起こり、音楽そのものから印刷製本にいたるまで審査の眼が光るようになった。つまり、最少量の用紙で最優良の音楽を最大量に出版させようというわけである。自由主義の夢を追う出版社は狼狽しているという。正々堂々企画書と原稿で勝負する熱意のない出版社は、この際、転業すべきだ。/しかし、出版文協はいま少し親切であっても良いのではないか。すなわち切捨て御免にするよりも、悪いところを指摘し改訂するよう導くことが必要だと思う。業者には独特の選曲眼があるのだから、これを活用しなければならない。前出版文協文化局長松本博士は「楽譜は学術書だ」と言って出版社を喜ばせたというが、至言であると思う。楽譜出版界が一刻も早く立ち直り、健全な歩みを踏み出すよう切望する。
【2003年2月12日】
軽音楽界 <百年戦争だ! 音楽はこれでこれでよいか!>水木穣治(『音楽之友』 第2巻第12号 1942年12月 p.109-110
内容:大東亜戦争を勝ち抜くために文学も、美術も、演劇も、映画もこれに呼応しているが、楽壇ばかりは旧態依然たるものがある。日本音楽文化協会あり、演奏家協会ありで、指導は一元化されず、純音楽部門の音楽家や評論家は、いたずらに芸術至上を叫んで軽音楽のみを敵性視し、軽音楽は形式のみの自粛で、依然自由主義的低徊趣味を脱していない。こうした節操の薄い楽壇に厄介者あつかいされながら、ただ大衆の人気獲得に事故の良心までも欺きながら育った戦時下の異常発育児童が軽音楽なのである。その現状に眼を向けると、さいきん帝都の中央の劇場で、ある軽音楽団は敵国音楽を平気で上演し、その演奏態度もダンスホール時代のそれと異なるところがなく、当局が注意しなければやめようとしなかった。また、ある軽音楽団の人気歌手は当局から禁止されているにもかかわらず、楽屋に若い女性を入れて、そうした女性が殺到して問題を起こした。今年の夏、帝都中央のある劇場で上演したアトラクションでは、敵国の行進曲に作詞して約1ヵ月唄ったこともある。一方、時局に呼応した軽音楽団の演奏曲目は《木曽節》《八木節》といった日本民謡を低俗にジャズ化したものに過ぎず、これでは軽音楽は国民の生活文化に貢献するところがないのはないか。今日の軽音楽団の演奏には、確固たる目的がないのだ。なぜなら、これには取締当局の楽曲の指導方針が定まっていないことも挙げられよう。戦時下の軽音楽は、現在のままでは害になる場合がないともいえない。これを健全な大衆音楽たらしめるには音楽家自身の自粛が第一であるが、演奏家協会が当局と協力して、敵性音楽を演奏した音楽家の「技芸者證」を取り上げることも必要であろう。その一面、新しい時代の日本精神による作曲の発表等を推奨し、強制上演させる方法も考えられて良い。
【2003年2月14日】
演奏活動 <百年戦争だ! 音楽はこれでこれでよいか!>吉本明光(『音楽之友』 第2巻第12号 1942年12月 p.110)
内容:日米の海戦は現にソロモン群島を中心に続けられている。敵米英を撃滅するまでは、戦争は戦い抜かなければならない。そのために大政翼賛会を中心に、敵愾心の奮起、生産力の増強、戦争生活の強化を目標に一大国民運動が12月8日を中心に来年3月まで全国的に展開される。また文化においても戦争に勝つための文化、米英を撃滅するための音楽、これ以外の文化・芸術・音楽は今日あり得ないことを銘記しなくてはならない。/ところで今日の演奏会はどういう目的で開催され、そこに集まる聴衆は何を得ようとしているのか? それは音楽を単に芸術的観点から、しかも西欧文化的、米英世界観的視野から規定し、そこに日本的性格の世界観も戦争に勝つための音楽という基準もうかがえないのである。演奏会の曲目編成だけを見ると、そのまま西欧の大都市に通用するものであるし、このことをして日本楽壇も世界水準への到達と誇っているし、聴衆もこれを支持している。こうして演奏会は戦争生活から完全に遊離してしまい、また戦場精神昂揚とまったく背馳した現実を呈している。戦争に勝つためのみの音楽、つまり演奏会もまた戦場でなければならない。作曲者も演奏者も音楽を武器として米英と戦う戦士なのであるし、聴衆もその音楽を聴くことによって戦場精神を昂揚し明日からの生産力を増産させるためだけに音楽を楽しむべきなのである。ここで早急に解決すべきことは、作曲が日本的性格の世界観に立脚し、戦争に勝つための優秀な作品を大量に創作することである。同時に楽壇の指導者も聴衆も、こうした作品をベートーヴェン的尺度で判断してはいけない。ひとえに作曲家の音楽報国精進の挺身にかかっている。
【2003年2月14日】
ラジオ界 <百年戦争だ! 音楽はこれでこれでよいか!>吉本明光(『音楽之友』 第2巻第12号 1942年12月 p.111
内容:1942年秋、国家の庇護の下に財団法人化された日本交響楽団の第1回演奏会に、久しぶりにローゼンストックが登場した。その姿を見るなり満員の聴衆は、熱狂的な拍手を送った。敵米英とその背後で糸を操るユダヤ謀略を打ち破ろうと、この戦争を続けている折も折、ドイツを追われたこのユダヤ人を単にきわめてすぐれた音楽的技術の所有者であるというだけで、絶大な拍手を送った3000人聴衆の心理は理解しがたかった。自分たちがすぐれた音楽を聴けさえすれば敵性人種でも歓迎して良心に恥じないのであろうか。くわえて日本交響楽団の第1回公演に選ばれた曲目は、キリスト教の経文とでも言うべき「鎮魂曲」であった。おめでたい門出の演奏にこうした選曲をしたことは、日本人には諒承できかねることである。さらに演奏会評にローゼンストックの出演によって日響の演奏は飛躍的に進歩したという内容のものが発表されたことである。音楽がよくなりさえすれば敵性人といえども歓迎するという思想が、今日平然と発表されてよいものであろうか。さらに驚いたことは、日響の演奏が日比谷公会堂から全国に中継放送されたことだ。ラジオの聴取大衆は日響定期会員のように文化についての価値判断をもっていない。だからラジオで放送されれば、きわめてすぐれた者と盲信してしまう。ラジオに出るのだからユダヤは敵性ではないと感じないだろうか? ひいては音楽を通じ外国崇拝観念が培養されないだろうか? 危険を感じる。[今後、]日本放送協会では革新的選曲のもとに放送を行なうということである。戦争に勝つための放送を徹底し、文化も日本自力で戦い抜く決意を表現するために適当な期間を選んで、その間は、レコード音楽といえども日本人の作品以外は一切音波に乗せないという。音楽を通じての外国崇拝の払拭であり、喜ぶべきことである。その第一声は1942年12月5日から11日まで実施するという。これに対して枢軸国家の音楽まで放送しないことに多くの反論が寄せられたという。しかしよくよく静視してみると、この反対論こそ戦争に勝つための放送を否定し、自分自身の好みによって勝手な音楽を聴きたいという個人主義的な観点で、米英謀略のワナに好んで飛び込んでいく危険な文化の火遊びである。
【2003年2月17日】
作曲界 <百年戦争だ! 音楽はこれでこれでよいか!>山中競(『音楽之友』 第2巻第12号 1942年12月 p.111-112
内容:先日、わが作曲界にも演奏分野のように、いわゆる天才少年が続出したらどうだろうかと想いうかべた。これは不可能ではない(モーツァルトやメンデルスゾーンなど音楽の歴史には事例が多くある)。この場合、もしも環境が問題になるとすれば、音感教育を切り離して考えても、トーキー・ラジオ・レコードその他による音楽の量的隆盛が質的現状に転換されることも不可能ではない。それは近年の演奏分野における天才少年少女群の進出が何よりも証明するところである。いまの日本の作曲界では「何をいかに書くか」という問題が未解決なまま残されている。作曲家が日本的世界観の把握を怠っていることは、彼らの作品内容がもっとも雄弁に語っているではないか。現代日本の作曲界では子どもと大人の世界の区別がないと言ったら、怒るであろうか? 蛇足をくわえれば、山中も技術と芸術は違うという意見であるが、作曲の技術偏重主義はたいてい芸術至上主義に通ずる。いま動転する世界の現実に芸術至上精神が自由主義の所産であり、米英的精神の残滓であるといったらどう答えるのであろうか? さいきん「演奏家作曲論」とでもいうべきものを唱えた人がいるが、自分の専門とするところの楽曲の一つや二つくらい作曲できないようでは、ろくな演奏もできない。音楽をするということは作曲をする同義語として、音楽を充満させなくてはならない。そうすれば、いまの日本の作曲も演奏も高度な段階に達するであろう。天才少年少女の作曲論のように、また演奏家兼作曲家であった東西音楽史の故事をもちだすまでもなく、これも不可能なことではない。しかし、本稿は可能不可能にその論点があるのではなく、現代日本作曲界の幼稚にして職人的な動向に対して放たれた逆説の背後に問題の本質があることを理解してもらいたい。
【2003年2月19日】
満洲音楽情報村松道弥(『音楽之友』 第2巻第12号 1942年12月 p.113-115
◇満洲音楽情報(『音楽之友』 2巻12号 1942年12月 p.113-115)
内容:■満洲国新国歌制定さる■新国歌は委員の一人が候補の曲を作り、これを日本の満洲国歌制定顧問である山田、信時、小松、橋本の四氏の校閲を経て8月31日の委員会において最後案を決定、裁可を仰ぎ8月5日[ママ]に正式発表された。この国歌の特徴は日満両語で同時に奉唱しうることである。制定の責任者である武藤弘報處長は、5日の放送で制定までの報告と国歌の謹解を発表し、同日結成された国歌放送団によって日満両語の国歌が歌われた。翌日より奉唱指導が放送で行なわれ、全国各地より指導者を集めての講習会を開催、そして10日後の建国10周年記念式典には全員が新国家を奉唱した。/国歌奉唱団について:従来、満洲の声楽家は小数分立していたが、新国歌の制定は音楽奉公の絶好の機会と捉え、放送局が中心となって新京在住の声楽関係者のベストメンバーを集めて組織したものである。日系、満系各25名よりなり、国歌発表と同時に放送局で結団式が行なわれた。村松道彌が結成までの経過報告を行ない、役員として、団長に武本放送局副局長、副団長に細田透と金玉精、書記長に石川甫が任命され、武藤弘報處長と渡満中の山田耕筰から祝辞があった。同団は放送に、演奏に、レコード吹込みに、映画撮影に、奉唱指導にと活躍した。10日後の式典で全満において新国歌が歌われたのには同団の功績が大きかったと思われる。この団は、およそ3ヵ月に渡って全国に国歌を普及させるよう努力して解散することになっているが、何らかの方法で続けたいと全員が思っている。/伊等武雄、辻輝子について:両氏が急に国歌の奉唱指導のためにやってきた。伊藤は9月2日に到着すると同時に日満両語の歌詞を勉強し、5日には満洲語の奉唱指導と模範唱を行なった。国家に奉公しようとする音楽家はかくもあるべきかと思った。■音楽奉祝使節■日本より派遣された建国十周年慶祝使節として、音楽学校の一行(団長・乗杉校長)130余名が、9月13日新京に到着した。14日は一同あいさつ回りをし、15日夜公式発表会を記念公会堂で催し、続く16日朝大同公演[ママ]野外音楽堂で学生の招待演奏会、同日の昼・夜と翌17日の昼・夜と4回の一般公演を行なった。主な演奏曲目は満日国歌、《建国十周年慶祝歌》、《海行かば》、《愛国行進曲》などのほかに、日本の建国十周年慶祝会、満日文化協会の制定になる東京音楽学校作曲の《満洲大行進曲》、橋本國彦の《交響曲ニ調》、信時潔の《海道東征》など。演奏者には千葉静子、山内秀子、酒井弘などの独唱、伊達純、馬煕純などの独奏などである。19日、20日には哈爾濱の厚生会館で、21日、22日には奉天の大劇場において開催した。《満洲大行進曲》のトリオの部分は大好評で、10月1日に催された全満の学校児童唱歌コンクールで課題曲として歌われ、目下満洲で大流行である。■日独伊慶祝楽曲発表会■建国10周年慶祝のために日独伊より贈られた慶祝楽曲の演奏会が発表された。さいきんの戦果の拡大にともない、独・伊との交通が不可能となり、作曲されても送る方法がないという事情から、東亜に在住の独・伊の作曲家に依頼することとなり、ドイツは東京音楽学校のフェルマーに、イタリアは上海在住のベレガツライのものが献納された。祝典事務局は、その発表方法を考慮していたところ、日本から山田耕筰と日本演奏家協会の約40名を迎えて新京音楽団と合同で、新京、哈爾濱、奉天で演奏を行なうことになっていたので、これと合わせて慶祝楽曲の発表演奏会を催すこととした。1942年9月21日昼と夜および22日昼と夜は新京で、23日昼と24日は大同公園野外音楽堂で演奏会が行なわれ、公式招待日だけフェルマーの作品を作曲者がし、その他は山田耕筰と大塚淳が指揮をした。満洲では、かつてないほど優秀な音楽家がやってきて、斎藤秀雄の約2ヵ月に渡る猛練習の結果、初めてオーケストラらしい演奏を聴くことができた。しかし演奏会じたいは成功とはいえず、やっと奉天の演奏会で盛大になった。今後の満洲の音楽文化運動に対し、その中枢的な地位にある新京音楽団に猛省を促すものである。この音楽団の主観的・自慰的な音楽運動は危険で、国家や国民の要求、客観的現実と時代を凝視した音楽運動を進めていかなければ、国民生活に紐帯をかけられない。管弦楽運動にのみ膨大な経費と人力を費やそうとしている新京音楽団の方針は一大転換をしなければならないと思う。■新京音楽団のその後■新京音楽団は、満洲国唯一の国家的専門演奏団体として生まれた。それを名実ともに強化するには、日本の優秀な音楽家が来満することが必要で、そのためには住宅の問題、経済的基礎の確立、待遇の改善および旧体制的残滓の清算を指摘してきた。それらの問題が全体的に解決しないうちに日本の優秀な音楽家の来漫が実現した。満洲楽壇はいささか茫然自失したかの感がある。来満した主な演奏家は、黒柳守綱、寺田豊次、田中秀雄、橘常定、斎藤秀雄、宮田清蔵、上田仁、橋本?三郎、杉山長谷夫、深海善次、大中寅二ら。しかし、黒柳らの四重奏1回と斎藤指揮の小管弦楽団しか放送できなかったのは残念であった。■作曲研究会第1回試演会■満洲作曲研究会は1942年10月28日夜、第一ホテル地階ホールで約80名を招待して第1回試演会を催した。終演後、同ホテルグリルで茶話会をし、多数の文化人が参加した。当日のプログラムは、
   中村義夫《絃楽四重奏3回》
   富村潔《メヌエット》
   佐和輝禧 合唱曲および歌曲2曲
   金東振《郷愁》
   金東振《舟夫の歌》
   佐和輝禧《はたをり虫》
   佐和輝禧《もろこし畑》
   市場幸助《よきひと》
   市場幸助《湯岡子の春》
   柴田すゑ《春の雲》
   市場幸助《國育ち來ぬ》
   市場幸助《お母さま》
   市場幸助《3絃楽四重奏曲》
   檜哲二《情熱》
   吉田義英《神殿》
   佐和輝禧《野馬浚跳》
などであった。
【2003年2月24日+2月27日+3月1日】
音楽会記録唐端勝編(『音楽之友』 第2巻第12号 1942年12月 p.116-119
内容:1942年10月11日〜1942年11月10日分(→ こちら へどうぞ)。
【2003年3月6日】
楽界彙報(『音楽之友』 第2巻第12号 1942年12月 p.119-120
内容:記録■第11回音楽コンクール■第11回音楽コンクール(東日大毎主催)は1942年11月2日、4日の夜、日比谷公会堂で本選会が開かれ、受賞者を決定した。=ピアノ=(第1位)伊藤裕、(第2位)畑川美津子、(第3位)望月勝世。=提琴=(第1位)増門祥二、(第2位)宮下敬司、(第3位)植野豊子。=声楽=(第3位)石川幸、(次席)馬金喜。=文部大臣賞=伊藤裕(ピアノ、17歳)。=情報局総裁賞=増門祥二(提琴、17歳)。■日本音楽文化協会の第1回巡回大演奏会■日本音楽文化協会は朝日新聞社と共同主催で、第1回音楽報国巡回演奏会を開催した。開催日および都市は、1942年10月19日・日立市、20日・仙台市、21日・盛岡市、22日・青森市、23日・秋田市であった。日立市、仙台市では山田耕筰の指揮による東京交響楽団の管弦楽、辻輝子、伊藤武雄の独唱、伊藤武雄の歌唱指導があり、盛岡市、青森市、秋田市では山本直忠指揮による東京交響楽団の管弦楽、伊藤武雄の独唱および歌唱指導があった。■音楽体錬協会の女子音楽体育大会■音楽体錬協会主催の第7回女子音楽体育大会は1942年11月6日午前10時より明治神宮外苑競技場で、大日本婦人会総裁東久邇宮妃殿下の肇臨を仰いで開催された。都下63校・30,000名の女学生が出場、岸本楽長指揮の海軍軍楽隊の奏楽によって《海ゆかば》を合唱、つづいて皇后宮御歌《あめつちの》《やすらかに》の奉唱を行ない、東京音楽学校生徒の特別合唱《日本の母の歌》があり、ほかに大日本女子青年体操、鼓笛行進を行なって午後4時閉会した。■文部省推薦レコード■文部省推薦レコード第9回および第10回の内容は次のとおり。=第9回=歌曲《子寶の歌》(須磨洋朔作曲、服部正編曲、四家文子、日本ビクター女声合唱団。ビクター)/軽音楽《荒鷲は征く》(鈴木博作曲、深海善次編曲、日本ビクター管弦団。ビクター)/=第10回=奉唱歌《やすらかに》《あめつちの》(松[ママ]山長谷雄作曲、永田絃次郎、長門美保。キング合唱団。キング)/《少国民愛国歌》(星野尚夫作詞、橋本國彦作曲、平山美代子。ビクター)/《満洲國大行進曲》(東京音楽学校作曲、橋本國彦編曲、東京音楽学校。ビクター)/歌曲《大日本航空青少年隊歌》(大日本飛行協会撰定、帝國陸海軍軍楽隊作曲、東聲会、帝國陸海軍軍楽隊。大東亜)。■大阪音楽文化協会役員改選■日本音楽文化協会大阪府支部である大阪音楽文化協会役員は次のように改選された。[幹事長]水野康孝[幹事]宮原禎次、斎藤登(以上、作曲部)水野康孝、阿部幸次、林唯一郎、朝比奈隆(以上、演奏部)吉村一夫、近江屋清兵衛(以上、評論部)北橋忠男、長井實、富田勇吉、友田吉男(以上、国民部)。■躍進鉄道歌当選決定す■鉄道省、朝日新聞社共同募集で懸賞募集した歌詞の入選発表にひきつづき、テイチク関係の作曲家20数名によって作曲の審査が行なわれ《海の底さへ汽車はゆく》(大久保徳二郎作曲)、《みくにの汽車》(山本芳樹作曲)と決定された。 情報■財団法人大日本楽[ママ]振興会設立■銃後音楽文化事業の助成機関として財団法人大日本音楽振興会が設立許可された。同会の任務は楽壇の諸事業遂行のための経済的援助を行なうもので、将来音楽会館、音楽博物館の設立、優秀音楽家の養成その他を行ない、楽壇の発展に寄与しようとするものである。さしあたって音楽教育、わが国独特の国民性に即した音楽文化の綜合的研究、優秀な音楽家や音楽企画に対する奨励金の交付などが計画されている。同会は原則として直接事業を行なわないらしい。この振興会の設立当初の役員は次のとおり。[会長]藤山愛一郎[理事]市河彦太郎、堀文夫、川上嘉市、永井遥、乗松嘉郎、山田耕筰、福井厳、三井高雄、白井保男[監事]大村兼次。 
消息

内藤清五 海軍軍楽少佐に昇進
藤咲源司 海軍軍楽少佐に昇進
北原白秋 1942年11月2日死去。
佐藤清吉 1942年11月24日死去。享年58。
原善一郎 渋谷区代々木初台町700へ転居。
【2003年3月6日+3月9日】
編集室青木栄、黒崎義英(『音楽之友』 第2巻第12号 1942年12月 p.128
内容:さいきん中央論壇では「近代の終焉」が叫ばれているが楽壇ではどうか。否である。これで良いはずはない。評論における正しい指導性の問題、創作における文化的生産の成果、演奏における時代的発顕の効果、これらが全面的に組織され実践されつつあることは認めなければならないが、楽壇人が各自の任務を忘れたり、かえってこれを非難するようなことがあるとすれば、日本の文化戦士である資格において恥じるべきである。新しい建設への積極的、意識的な協力が即時実行されなければならない。宮澤情報官の「楽界の参戦を要望す」は、厳粛な参戦命令である(青木)。/戦争は長期の段階に入り、世界情勢も深刻な様相を呈してきた。文化建設の一翼を担う本誌も、ここに一周年、堀内主幹の善謀勇戦にもかかわらず、われわれの努力が足らなかったことを痛感する。だが戦いはこれからである。/本号の特集は「映画音楽の諸問題」である。トーキー映画が出現して以来、映画と音楽の問題は各ジャンルで論及されてきた。近来、映画音楽が再び重要な課題となってきた。このことは一面において映画音楽に対する徹底的な究明がなされなかったことと、日本映画の音楽的現状のマンネリズムを意味する。(黒崎)
【2003年3月10日】


2003年3月13日は、p.44-67の座談会をまとめました(つづく)。
2003年3月16日は、p.44-67の座談会をまとめました(つづく)。
2003年3月17日は、p.44-67の座談会をまとめました(つづく)。
2003年3月19日は、p.44-67の座談会をまとめました(つづく)。
2003年3月21日は、p.44-67の座談会をまとめました(つづく)。
2003年3月23日は、p.44-67の座談会をまとめました(完了)。
2003年3月27日は、p.32-35の記事をまとめました(完了)。


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