『音楽之友』記事に関するノート

第2巻第11号(1942.11)


近代の超克/諸井三郎(『音楽之友』 第2巻第11号 1942年11月 p.16-23
内容:1942年夏、文芸雑誌『文学界』の発案で、文化各方面の人間を集め、日本文化の当面している重要課題の一つとしての「近代の超克」というテーマで、いわば会議をおこなった。この会議は従来の即興的座談会と異なり、会議の約2ヵ月前に出席者に論題が通知され、これに関して各自が論文または覚書を提出、これを印刷に附して配布し、予め研究してから討論会に移ったのである。『音楽之友』編集部からは、この会議の模様を伝え、取り上げられた問題の中で特にわれわれにとって興味のあることについて意見を述べて欲しいと依頼を受けた。/討論会で取り上げられた論題を項目的に挙げると、「ルネッサンスの近代的意味」「科学に於ける近代性」「科学と神との繋がり」「われわれと近代」「近代日本の音楽」「歴史―移りゆくものと易らぬもの」「文明と専門化の問題」「明治の文明開化の本質」「我々の中にある西洋」「アメリカニズムとモダニズム」「現代日本人の可能性」というように、相当広い範囲に及んでいる。/討論は、まず真の意味における近代は、ルネサンスよりむしろ18世紀の啓蒙以降で、近代性と封建性の錯綜した社会構造は18世紀末のフランス革命によって解決され、ここに近代が初めて完全になったという点で全体は意見の一致を見た。また近代文化を特徴づけるものとして科学的方法をもった学問の存在がある。科学は自然に対する人間の挑戦、探求あるいは征服であるが、その根底には実証精神である。/音楽で18世紀末というとハイドン、モーツァルトの時代で、近代を広い意味にとれば先の解釈は当てはまる。そして実証精神が生み出した合理主義は、18・19世紀音楽の音節構造や形式原理に現われている。問題はヨーロッパ的意味における近代が、われわれ日本にとってどのような意味をもち、いかなる近代を超克するかということである。/近代はヨーロッパの世界支配の華やかな時代で、世界はそのあいだヨーロッパ的秩序によって支配され、動かされてきた。その間、大局的に見て東洋は圧迫され搾取されていた。日本は鎖国していたので、ヨーロッパ的近代文化に初めて接したのは幕末であり、明治になって急激な日本の近代化が始められた。当時の日本人が威圧されたのは「黒船」に象徴される、ヨーロッパの物質文明であった。日本も少しでも早くこれに対抗できるだけの武力や経済力、機械力を作らなければならなかった。そしてそのような文明を生み出したヨーロッパの近代精神には、ごく少数の先駆者以外は無関心であった。したがってヨーロッパ人にとっては自己の精神的所産である近代は、日本人にとっては借物であり、間接的なものであり、すなわち日本人の精神的産物ではない。/そこで同じく近代の超克を問題にするにしてもヨーロッパにおけるそれと、日本におけるそれとのあいだには根本的に相違があることは当然である。現在、日本が実行しつつある世界新秩序の建設という世界政策は、第一段階では大東亜共栄圏確立であるが、そのことは今日の世界戦争が示しているように、深くヨーロッパ的新秩序の問題と関連している。日欧両者の内容の相違をはっきり認識し、そのうえで欧米との関係を考えていくことが大切である。/わが国における近代は、現在わが国民生活の中で比較的よく消化された部分と、そうでない部分とになっていて、文化的混乱を惹起しているのであろう。これを克服していくことがわれわれの意味する近代の超克であるが、それは単に西洋文化を否定するというようなことでは達成されないし、これまでのようにヨーロッパ文化を軽信してもいけない。今後はますます深く、体系的に西洋文化を研究すべきで、その研究における深さが本物であるためには、自分自身の力によることが絶対に必要である。これは既に立派な西洋文化の超克である。かつてわれわれの祖先は、中国や朝鮮その他の東洋文化に対して同様のことを行ない、これを超克してわが国独特の文化を形成してきた。いまやその同じ行程が西洋文化に対して行なっていかなくてはならない。/明治以後に急速に近代化した日本は、特に知識階級において近代精神の崩壊、分裂という問題に打ち当たりつつあり、これをどう解決していくかが重要な問題となっている(諸井は仮に近代主義の超克と呼んでいる)。/音楽上の近代主義は浪漫主義への反動として起こったのであるが、その本質は浪漫主義の最先端に位置するものである。浪漫主義の理念は人間中心の世界把握を本質とする近代精神の強烈な現われである。浪漫主義における主観性の高揚と個性の尊重は、個性の自由と独立を要求し、そして現実と矛盾してくる。その点から浪漫主義は幻想に重きを置く観念性や懐疑性を示してくる。それまでの音楽がもっていた有機的関連性や形式的均衡が破壊されて、すべては部分部分に分裂し、感覚の対象としての音楽の要素が中心的なものになってくる。このような傾向が19世紀後半から20世紀にかけての深刻な社会不安に根ざしている。この社会不安はヨーロッパのみならず日本でも免れることができなかった。/音楽上の近代主義は印象主義、表現主義、原始主義または野蛮主義の3つの潮流を根幹とし、さらにジャズのような退廃的なものも含んでいる。これらのうち表現主義と原始主義の影響は強く、ジャズは低俗な文化主義と結合して根を下ろしている。われわれが近代音楽に多くの興味を寄せるのは当然だが、近代主義の本質を知るときには、そのあまりに深い影響について鋭く反省する必要がある。ヨーロッパにおいて現われている新古典的傾向は、ヨーロッパとして浪漫主義を超克する努力の現われなのであろう。しかしわれわれとしては新古典的傾向を追うことが正しいかどうかを考えてみる必要がある。いずれにせよ近代主義の超克という面では、われわれとヨーロッパとが触れ合ってくる点が多々あるのは明らかである。/日本における近代の超克が借物のヨーロッパ文化の超克をその基本としており、他方近代主義の超克という面からヨーロッパにおける諸問題と深く触れ合う特徴をも示している。これをもう一層高い立場から見れば、わが国の独自の文化を創り出すことにほかならない。要するにわが国の優れた文化を創り出すために近代の超克ということが論ぜられ、研究されなければならない。
【2002年10月30日+10月31日】
大東亜音楽建設の第一歩(満洲国建国十周年慶祝演奏より帰りて)/山田耕筰(『音楽之友』 第2巻第11号 1942年11月 p.24-28
内容:■日満音楽文化の交流■満洲には5年前から大塚淳を首班とする新京音楽院があるが、建国早々のことで政治・経済面の強化により多くの力を費やさなければならなったので、音楽院の業績は所期の目的に届かなかったようだ。しかも建国十周年の慶祝演奏が問題となってきて、この春新京音楽院を解消し財団法人新京音楽団を創設することになった。そして1942年5月、山田は新京音楽団の今後の運営に関する相談と、建国十周年慶祝演奏に対する方策の相談を受けた。同楽団の甘粕理事長からの要請を受けて内省してみると、世界新秩序運動の烽火となった満洲国の音楽を省みないで、共栄圏の音楽を論じることはできないとの結論に達し、山田は同楽団の参与に就任した。慶祝演奏について率直に言えば、新京音楽団の技術ではその責任に耐え得なかった。山田が日本で交響楽運動を起こした20年前はロシア人音楽家を招聘し、日本における交響楽運動を啓発した。今回、満洲楽団の相談を受け、その楽団の今後の発展を期そうとするとき日本人のみによってその事業ができるようになっていた。■慶祝派遣楽団の活動■山田は1942年6月に満洲から帰国し、日本音楽文化協会および演奏家協会に諮り慶祝楽団派遣のことを決めた。そして8月初めには40人近い音楽家を満州に送り、8月下旬には総計50余名の優秀な音楽家を送り出せた。この仕事の事務的担当者である演奏家協会書記長米林は、渡満の途中倒れ、現在も半年あまりの静養を医師から命じられているほどの激務にあたった。/新京における仕事は順調に進んだ。第1ヴァイオリン黒柳、第2ヴァイオリン寺田、ヴィオラ田中、チェロ橘というように各部の責任者を定めパート練習を開始し、その後おこなわれた綜合練習では始め斎藤秀雄の手によって固められたあと、初めて山田に手渡された。9月8日から12日まで綜合練習があったが、不完全な箇所は斎藤が吟味の練習を続けた。その後練習ができない日もあったが、19、20日とさいごの練習がおこなわれた。派遣楽団はほとんど挺身隊の制服を着用していた。演奏のスケジュールは次のとおりであった。
  9月21日 新京公会堂 14時、19時 政府招待
  9月22日 新京公会堂 15時、19時 一般公開
  9月23日 大同公園野外演奏 15時 日本側の軍人学生招待
  9月24日 大同公園野外演奏 15時 満洲側の軍人学生招待/19時 一般公開
  9月26日 ハルピン厚生会館 14時、18時30分 一般公開
  9月27日 ハルピン厚生会館 15時 一般公開
  9月29日、30日 奉天平安座 15時、19時 一般公開
■新秩序運動は先ず満洲から■2ヵ月の音楽運動を果たし、日本人の熱意と在満音楽家の正しいものとよきものを求める心が合致して和気藹々のうちにおこなわれたということは、仕事を託され統率した者として満足である。新京音楽団と演奏家協会に定められた当初の予算はおびただしく膨張したが、甘粕を首班とする新京側の度量は高く評価されなければならない。/満洲にはたくさんの民族が居住している。それだけに芸術のうちでもっとも歓迎されるのは、言語を絶した音楽である。新京音楽団の使命は、寒い冬と暑い夏があるのみ(空気が乾燥しているので日本よりも凌ぎやすい)の満洲の家庭に、妙なる室内楽や和やかな合唱の楽しみを作り上げていくことである。しかし新京で一番困るのは住居不足であるが、これを克服するために新京音楽団は予算を組んだ。山田も、ここ5、6年すなわち満洲音楽団確立までは1年に6回くらいは渡満するであろう。/しかし、これは今後も日本楽壇の総意をもって決行されなくてはならない。満洲楽壇確立のためには日本音楽文化協会と演奏家協会が一体となって運動に当たるのである。あるいは演奏家協会としては理事の一人を新京に常駐させるかもしれない。ここでの音楽運動が軌道にのれば、それはそのまま共栄圏内の音楽運動のよい指針となる。
メモ:『同盟通信』より、とある。
【2002年11月5日】
詩と音楽について大島博光(『音楽之友』 第2巻第11号 1942年11月 p.29-32
内容:遠い芸術発生の時代には、詩と音楽と舞踊とは三位一体の姉妹芸術だった。これらの芸術が高度に分化した後も、詩はことばの音楽として音楽の状態を憧れ、音楽は旋律、和音のすべてをもって詩を表現しようとする。しかし、詩と音楽とはもはや表面的なかたちではあまり協力しあっていない。むしろ対立しているようにさえ思われる。しかもなお詩と音楽とは互いに説明しあっている。この詩には音楽がないという場合、それは悪い詩か散文的であることを意味する。また、この音楽には詩がないという場合、その音楽が何ものかを叙述し物語ることによって不純になっていることを指すのである。/詩と歌との幸福な出会いであるような歌曲は、決して滅びることはないだろう。人間の喜びと悲しみをもっとも直接的に託しうるのは歌曲であろう。詩と歌曲とが美しく協力することは稀である。美しい歌曲はしばしば詩を忘却させる。また歌曲ほど人間と地上に結びついていながら、救いとなるような形式もない。しかし、人間はもうあまり真の祈りを歌わなくなったようである。/詩も音楽も精神の内部的律動を普遍的律動にまで高め、それぞれ言葉の宇宙。音響の宇宙を創造するが、この創造こそが精神に喜びを与え、精神を高め清めるのである。自然の模倣は決して創造とはなりえない。だからたとえば、音楽の中に出てくる嵐の音、波の音、鳥の鳴き声などの模倣は、聴衆を音楽から現実へとひきもどして、夢から醒ましてしまう。/詩人の運命は言葉の選択に、また音楽家の運命は音の選択にかけられる。しかし、言葉と音とはまったく異なる歴史と生命をもち、しかも絶えず使用され、眼に見えず変化している。言葉は雑然と存在していて、そこから詩の語を選択するのは容易でない。ところが楽音と雑音の区別はほとんど正確になされ、しかも場所と時間によって異なるようなことはない。音楽はよく世界語であるといわれるが、さらに永遠の言語であるともいえよう。また音楽は何らの再現も、いかなる言語をも必要としないで、虚無と否定のうえに打ち立てられる。美しい音楽は、いかなる思想をも語ることなく、しかも全能の魅惑によって原型の思想を表現しうるのみならず、一挙にあらゆる精神の状態を現出しうる。/恐らく音楽にも社会性というものがあるのかもしれないが、大島は音楽に普遍性と永遠性のみを望みたい。偉大な音楽は人間的なものの限界をのりこえており、これによって時代と国境を越えて存在しうる。音楽ほど宇宙秩序を模倣し、自ら宇宙秩序の表現となりうるものはない。
【2002年11月6日】
技術と方法について澁谷修(『音楽之友』 第2巻第11号 1942年11月 p.33-36
内容:作家が技術というものをどう意識し、それをどう発展させようとしているかということは、今日わかりきったことのようでもあるが、具体的に当面すると矛盾に満ちた複雑な世界に陥る。あの人には技術があるが作品は面白くないが、この人は技術は不充分だが作品は良いなどといわれる。しかし、常に「なに」を「いかに」描くか作品を作る行為から切り離した技術は、あるように見えて実はそのようなことはありえないし、論じることじたい意味を持たないと考える。技術は、あくまでも人間化された技術でなければならないという意味で、つまり作品の主題の積極性、表現の的確性ということとの深い結びつきがなくては、理解がされないと考える。/技術と方法が、どのような関係にあるかを考えてみる。まず、主題と表現の高さを望めば望むほど技術への追求はますます鋭くならなければならないという基本的なテーマから出発すれば、方法は技術に対して常に優位な位置にある。技術を無視しては方法が成立しない。つまり、方法は技術を生かしも殺しもするが、技術は方法をいつも制約している。/音楽は、ひじょうに複雑な表現手段を通じてできあがっているため、学ぶには長い時間を要する。こうしたことによって、作品の形象を達成する手段を、現実の深い掘り下げからくみとり、それを克服していかなければ技術は充分に駆使できないのである。/方法の貧困を、よく技術の貧困だとか技能が幼稚だとかいうが、主題の積極的な設定やその表現力のたくましさなどの前進的なものを問題にせず、職人的な考えに慣らされた世界から今日のような時期において技術を磨き身につけるのだと言う人をよくみる。しかし、いくら技能を身につけても、決して技術は高まらない。すでに技術をものする以前に、主題に対する熱情を失ったものが、技術を学ぶとはどういうことであろうか? 技術に対する探求の力弱さは、現実にある素材から学びとる積極性にかけているからだと思う。真に日本的な、民族的なものは机上からは生まれない。また作家の理念の高まりは、もっと今日の社会事象に対して深く食い入って、作家としての観察と真実の把握の仕方を学ぶことが前提である。/技術は作品において初めて生きるものでありながら、一般的な技術の水準というものが形成されている。この特性は私有することのできない一つの財源である。この点は、ここでは省略したい。ただ、よく作家の能力の差異を取り上げて、カンや腕のよさという職人的考えは、もう卒業してよい時期ではないか。技術は宙に浮いたもので、取ればいつでも取れるといった観念も反省されて良い。/さいごに、作家として卑俗な世界を排撃し、それと葛藤することを忘れたくない。
【2002年11月10日】
日本指揮者の座談会坂四輝信、山田和男、尾高尚忠、坂本良隆、服部正、金子登、小船幸次郎、山本直忠、菅原明朗、堀内敬三(『音楽之友』 第2巻第11号 1942年11月 p.37-58
内容:■1■堀内: これから日本において強力に展開されるべき交響楽運動の方向をどうもっていくか、あるいは日本の現在の国情と交響楽運動をどのように結び付けていくか、あるいは大東亜に向かっての文化工作に交響楽がどのように貢献するか、そのほか管弦楽全般に関する感想をききたい。山本直忠: 去年から今年にかけて交響楽運動は盛んになり、新人が起用されるようになってきたが、それまでの建設時代にオーケストラのを導き、大衆をここまで引き上げた先輩たちには感謝しなくてはいけない。大東亜建設時代を迎えて、従来の音楽家のようにお互いを落としあうのではなく、協力しあわなくてはいけない。さいきん南方において日本人指揮者の数が足りないようで、そういう場合は誰かに任せきるのではなく、一つの文化建設として交代で行くようにしたいと思う。山田和男: これかの交響楽運動を考えるには、まず現在の運動を批判すること。つまり現在の交響楽団の数が多すぎると言われること、または日本人指揮者が少ないと言われること、そういうことを逐一検討していけば現在の交響楽運動の実証がいくぶんでもはっきりしてくるだろう。堀内: 日本に指揮者が出なかったのは交響楽をやる団体が非常に少なかったからだ。昔は指揮者に対する認識はまるでなかったのだろう。坂西輝信: [指揮者は]邪魔になるからいらないということを聞いたことがある。指揮者の養成を考えなかったことも事実だ。また指揮者のほうから言えば、あまり勇敢でなかったということもいえる。山本: 勉強するには、オーケストラがなくてもある程度まではできるが、[その先は]オーケストラがいてくれなければダメだ。新響やほかの交響楽団が日本人の指揮者を予約的に依頼していくかたちは、とてもいいと思う。そうすれば、ある曲をひとつやったら次はこの曲をやろうということができる。それが、いきなりあさってこの曲を放送しろとなってくると、どうしても充分なことはできない。尾高尚忠: 機会が少ないということでは未だに少ない。スコアを勉強したうえで、オーケストラの前で棒を振らなければ見当がつかない。服部正: オーケストラは経験の問題だ。■2■堀内: ウィーンの音楽学校では、どういうふうに指揮者を訓練するのか? 尾高: 指揮科(カペルマイスター・クラス)というのがある。だいたい有名な指揮者がやってきて、普通はピアノを2台置いて、そこには8手で弾くためのピアノ・スコアがある。それを4人で弾いて、勉強してきたものを生徒たちが振る。その振り方を先生がいろいろと言う。時に2度か3度くらい、実際に学生オーケストラの前に立たされて、それを練習する。ただ生徒が多いから、そんなにたびたび番が回ってこない。オーケストラとの練習では、オーケストラがとんでもないことをやる。小船幸次郎: ローマのサンタ・チェチーリア音楽院に行き、指揮の勉強をした。そして、市のオーケストラが学校のオーケストラになっている。生徒は卒業の前にそれを使って練習する。オーケストラを使って5回くらいやらせてくれる。オーケストラが嫌がることもあるが、どもかく若い指揮者を生もうとしている。向こうの奏者が演奏するのを聴くと、モーツァルトやベートーヴェンの吹き方の型があるように感じる。それは日本の奏者も指揮者も知らないので、勉強しなければならないと思う。坂本良隆: ドイツ人は、よくベートーヴェンはわれわれでなければわからないと言う。菅原明朗: 反対にイタリアのある指揮者は、ベートーヴェンの交響曲の一番わからないのはドイツだ。伝統などいろいろあって、指揮者個人の考えがドイツにはないというのだ。■3■記者: 日本ではよく演奏会の指揮者と交響楽団を養成する指揮者と分けて考えられる。外国でも同様か? 小船: 立派な指揮者なら教育も、演奏も立派にできると思う。記者: 質問をもう一つ。日本の作曲を指揮した感想を聞かせてほしい。小船: 新響を振り出したのは、さいしょは日本人の作曲で、いままで振っていないのは諸井の作品くらいだろう。そうした経験からいえば、日本人の作品は技巧的にはとても難しいと思う。リズムが一番難しいと思う。ただコクがなく、のびのびしているところも少ないし、内容的に大きさが足りないと思う。これから日本の曲が多く演奏されるようになれば、作曲家もいままでよりもずっといい曲が書けるようになるのだと思う。■4■坂西: 日本の指揮者が世界一になり、世界のあらゆる楽壇へ日本から指揮者が行くというようになり、世界の音楽界をリードするようになりたい。短時日にはできないが、これを高い目標として精進していきたい。堀内: 指揮者を養成する機関、指揮者が経験を積んでいける方法を充分講じていかなければならない。いまのところ新進の指揮者は二の次扱いにされているが、これをどうしていけばいいか? 坂本: 各交響楽団が日本人指揮者を起用する回数を増やして、指揮者の働き場所を多くしてもらうことだ。山田: 5つか6つか交響楽団があるが、それらがあるレゼン・デートルがない。金子登: それは東京ばかり考えるからではないのか? もっと地方を開拓する必要があるのでは? 坂本: 地方では放送局が骨を折っても楽人が集まらない。菅原: 管弦楽団以外に仕事が少ないゆえもある。不思議なのは交響吹奏楽団という、シンフォニーとしての吹奏楽の運動も盛んにしなければならないのに、それがないことだ。地方に音楽を育てていくことを考えると芸術運動というよりも文化的運動として、コンサート用の吹奏楽があるということが必要だ。山本: 上野の音楽学校ではオーケストラを指揮するようなクラスがあるのか? 金子: あるにはあるが研究科の作曲の一部門として。本当からいったら、あれはいけないと思う。山本: 指揮のコンクールがあってもいいと思う。■5■記者: 演奏する指揮者と養成する指揮者の問題についてふれてほしい。堀内: たとえばヴァイオリンの弓の使い方にしても教えてもらわないとできない場合がある。金子: 実際オーケストラの奏者は、何を出されても必ず上手にできなければならないが、日本ではそこまで行っていない。結局、指揮者が先生でなければならない。菅原: さいきんNBCが豪華なメンバーを集めたが、2人教育者をおいて管楽器の音色を一定するとか、訓練をやって指揮者に渡すようなこともやっていた。山田: 日本の現状では指揮者と教育者とを兼ねることでなければ「指揮者」と呼ばれない。そうした例を数々知っている。堀内: 放送が始まってやってきたケーニヒという指揮者は実によく教えた。近衛は、そのおかげで随分助かっている。いまはオーケストラの程度がだいぶ上がっている。その分、やる曲が難しくなった。山本: いまの東響が名古屋で中響といっていた時分に一度行ったことがあるが、その時は、ほとんご音合せを重要視していなかった。それで始めに音合せをし、途中で合わなくなるとまた音合せをやり、ずいぶん違ったように思う。それからしばらく経って東京に出てきてずいぶん変わった。山田: 現在の東響は、ひじょうににいいと思う。さいきん振ったときには、指揮者が考えるアトモスフィアを敏感につかんでもらえた。欲をいえば、全体にイントネーションがもう少しよくなると、ひじょうに立派になると思う。菅原: 松竹交響楽団は練習日がたっぷりとれる。定期以外には、ほとんど仕事がない。トーキーの仕事はしていて忙しいようだが、この仕事は現場で稽古をするだけだ。トーキーが1ヵ月4回あるとすると、2回しかない。全員がいっぺんに行くことがないから。それで練習の時間がたっぷりとれる。■6■記者: 聴衆についてお願いしたい。山本: ずいぶん程度も上がったのではないか。もっと自分の感情を大胆に出してほしい気がする。尾高: 僕は日本の聴衆にもっと音楽を楽しんでもらいたい。そのように直さなければならない。山本: [そうなっていないのは]2つ原因があると思う。自分でオーケストラを弾いた経験があれば違うのではないか。もう一つは、ベートーヴェンの第5を、尾高の第5だ、ローゼンの第5だと始めから批判的に聴く指導を批評家がしてきたことだ。服部: それはそうだな。菅原: ベートーヴェンなど、ひじょうに早くから演奏されたせいもあって、割合楽しんで聴いているのではないか? 尾高: 中では一番・・・。われわれは、そのように掘り下げていく勉強をしなくてはならないが、聴衆が音楽を聴くのに勉強と同じように入ったら、とてもやりにくい。山田: 日本にも楽しみたいという聴衆の層はあると思うが、それが日比谷公会堂に入ってきてくれないのだ。尾高: それが果たしてわかるかどうか。堀内: ラジオのオーケストラやレコードなど沢山の人が聴いている。川崎の工場街で映画館をたくさんもっている館主が、公共的事業としてレコードを無料で聴かせる場所を一館つくったところ、シンフォニーのようなものを職工が聴いて楽しんで帰る。そういう人たちに対する働きかけが、オーケストラとしては鈍い。残念だ。■7■山本: 日本人の作曲をやると人が入らないという問題だが、日本人作品ばかりをやるからではないか。日本人作曲家といえば現代作家で、現代作家をやるのは特殊な音楽会だ。それではだめで、定期の中に1曲入れるようにしなければいけないと思う。入らないのはやり方に欠陥がある。山田: 日響は、その方法を秋からやりだした。名曲と並べて作曲家に恥をかかせれば、もっとうまい曲を書くというわけだ。堀内: 私は東響でも、中響時代にそれを主張したが行なわれない。坂本: 外国ではもっと入らない。日本の作曲家は、その点恵まれている。坂西: さきほどの話だが、交響曲を大衆に浸潤させる方法はあるだろうか? 堀内: 場所を日比谷に固定しないで、いろいろなところに進出することだ。たとえば工場の中でやったらどうだろう。参報でもやっているが、それがはかばかしくできないのは経費がかかる。山本: 日本音楽文化協会が東北にオーケストラを持っていくのは、その一つの現われだと思う。いろいろな方面でやると来る人たちが違ってくる。もっと各オーケストラが特性を持つようになれば、来る人も自然と違ってくると思う。服部: 入場料が高いこともあって、無料の演奏会が一杯になる。金子: 産業戦士の場合、時間的に暇がないことも考えられる。尾高:[だから]K・D・F式にやらなければならない。浪花節でなければ聴きたくないというのは困る。坂西: それを盛り立てて引っ張り込んで音楽を楽しませるようにする。堀内: いま管弦楽なら聴衆は絶対聴く。そのくらいみんな音楽に飢えている。交響楽に関する限り、日本のやり方がみんな間違っているような気がする。■8■堀内: 皆さんは日本人作曲家の曲をよく扱うと思う。そうした立場から日本の作曲に対して意見や注文を述べてもらいたい。山田: 日本人のものはやりたいと思うが、事実はやりりたくない。日本人の作品は技術的興味がありすぎて、技術に凝る。その作品の一貫したアイディアを伝えたいのが指揮者の仕事であるのに、技術に凝ると、指揮者として良い演奏をしたいという良心をくるしめることになる。また、日本人はオーケストレーションがうまいなどと言われるが、それ以前に楽器学の知識が皆無といってよいくらいで、わかっているのは日本で2人ほどだ。各楽器を生かして書かなければオーケストラは決してふくよかないい響きは出てこない。この勉強は、今の作曲家に願いしたい。もう一つ、一般に楽曲の構成に対して入念な努力がない。そういう人の作品は、とても嫌だ。菅原: 僕が日本人作品を弾きはじめたのは山田がそういう考えを抱くもっと前からで、いいも悪いもなくやるという時期だった。テクニックを知らずに難しい曲を書く作曲家もいた。しかしオーケストラのメンバーが書いた人の気持ちを思い、とにかく全力を尽くしてみようとしてやった。だから欠陥は解決されつつある。やりたくない気持ちは克服しなければならないし、同時にやりたくない曲が生まれないようにしなければならないと思う。坂本: 演奏できないようなものではなく、楽しめるものを書いてほしい。金子: 知っている作曲家にはオーケストラの作品がない。どんどん書いてもらいたいということもある。尾高: インストルメンタチオンとして、管弦楽法はうまいが内容がそれほどではない。オーケストラ作品をピアノで弾いても感激するような作品を作ってもらいたい。はっきりいえば、はったりのオーケストレーションがうまい。山本: 演奏家は日本人の作品をそのままやっていけばいいと思う。ただ、そういう新曲をやるとき練習が一人当たり30分ではだめだ。そういうところで指揮者に無理を要求している。山田: その無理に指揮者が黙っていてはいけない。演奏家の方にも日本人の初演ものなら、時間をたくさんとらなければという観念を植え付けなければならない。山本: 賛成だ。それと作曲家が締切までにできない。平尾貴四男にそれをやられた。二日前に持ってくるようなことは、演奏家の両親を作曲家が理解していない。山田: 異議なし。指揮者と作曲家が日常から交流して仲良くしないといけない。山本: それは大切だ。また日本人作品の演奏は1回やるだけだ。それでは、その曲がなかなかわからない。堀内: 私は何回もやれと言っているのだが、どうもいやがる。菅原: 不思議なことに、自分の場合でも繰り返しやってほしいと思うものは演奏されず、やってほしくないものがやけに演奏される。私は実は作曲をやりたいが、いまの状態では両方やりたい。それで自分の作品は他人に指揮してもらった方がいい。自作を指揮するときに、他人の作品を指揮するときのようにこのメロディがいいからこうしろ、ここを盛り上げればよくなるからというようなことは言えない。また指揮は作品を批判的に準備してやるが、自作は静かに批判してということができない。私は自作を人に振ってもらうときに注文は出さない。坂本: 作曲家が書き下して指揮者に渡せば、いわゆる演出家に[脚本を]渡したのと同じになるではないか? 堀内: 同じことだ。坂西: 練習が過ぎてから、作曲家がああしてくれ、こうしてくれというのは困る。指揮者の職分は、演奏家だから作曲家を生かすのが職である。曲を生かすことを重点においてやっていれば、作曲家と仲が悪くなるということはない。菅原: 作曲家は自分の作品が演奏される機会が少ないから客観的になれない。たくさん演奏されて、あの指揮者はこうした、別の指揮者は違うようにやったというようになれば、客観的になれる。尾高: といって、たくさんやることがすぐに実現はできない。そこに難しさがある。金子: 演奏家の立場としては、1回やった曲は、もう1回やってみたい。菅原: 指揮としては新しい曲よりも何回もやったものがいい。それ以前にやった以上にしたいということがある。金子: しかし、わからないのが出てくる。初めてぶつかったようなものがある。尾高: リズムの難しいのがあって、数学者のように考える。堀内: では、この辺で。ありがとうございました。
【2002年12月10日+12月13日+12月15日】
伊太利に於ける音楽国際主義 ― 伊太利の音楽政策(6) <国際音楽情報>/松本太郎(『音楽之友』 第2巻第11号 1942年11月 p.59-64
内容:国民主義と国際主義は対立する観念のようにみえる。しかし、この2つの主義は、時には盾の両面の形をとることもあり、芸術の場合はほとんどこの形をとる。音楽は美術とともに、いわゆるもっとも理解しやすい国際語の性質をもつのみならず、古来国際間の交通関係が密接で、交流の門戸が開かれていた。くわえて現代生活の機構は、便宜でスピーディな旅行方法やラジオ、レコードの存立や楽譜入手方法の容易なことがあり、音楽をいよいよ国際的な性質をもたせている。かつ音楽における国民主義は、孤立主義や排他主義を意味せず、国際主義から刺激を受けたり良い栄養を受けたりする。イタリアは音楽における国民主義意識の発展ならびにそれを目的とする施設、政策の整備とともに国際主義的傾向がいよいよ顕著となったことは、音楽におけるおける国民主義と国際聯盟の必然の関係に対するファシスト政権の認識を明らかにするものといわなければならない。/すでに1925年、イタリアが国際現代音楽協会の音楽祭をヴェネツィアに招待したことは、イタリアの国際主義への第一歩として注目に値する。なぜなら、その音楽祭は毎年国を変えて開かれるが、ヨーロッパで行なわれる音楽祭中もっとも国際的で進歩的な内容をもっている。/国際現代音楽協会第3回音楽祭に当たるヴェネツィアにおけるそれは次のような曲目が演奏された。フォーレ《架空の地平線》、ルッセル《フルート吹く人々》、ラヴェル《ツィガーヌ》、イベール《フルート、クラリネット、バッソンのための2つのムーヴマン》、オネガー《チェロ・ソナタ》、シェーンベルク《1つの声、7つの楽器のための小夜曲》、ヒンデミット《小オーケストラのための協奏曲》、アルトゥール・シュナーベル《ピアノ・ソナタ》、プッティング《弦楽四重奏小曲》、ヤナーチェク《弦楽四重奏曲》、エルウィン・シュルホフ《弦楽四重奏曲》、ストラヴィンスキー《ピアノ・ソナタ》、ヴィラロボスの歌曲、シマノウスキー《弦楽四重奏曲》、ヴォーン・ウィリアムス 合唱曲《無慈》、グリュンバーグ《ダニエルヂャブ》、ラッグルスの嬰ヘのトラムペットのための小曲、アイクハイム《支那の印象》、ファインベルク《ピアノ・ソナタ》(以上、外国人) マリピエロ 歌曲集《イタリアの時》、リエーティ《ピアノ、フルート、オーボエ、バッソンのためのソナタ》、ラプローカ《弦楽四重奏曲》(以上、イタリア人)。この音楽祭にはクロワザ夫人、ルイ・フルーリー(フランスのフルーティスト)、エドアルド・エルドマン(ドイツのピアニスト)、ツィカ弦楽四重奏団が出演し、ストラヴィンスキーが自作曲を演奏した。/続いて1928年、シエナで行なわれた第6回音楽祭の演奏曲目。デ・ファリャ《クラヴサン協奏曲》、ラヴェル《マダガスタルの歌》、ラヴェル《ヴァイオリン・ソナタ》、ストラヴィンスキー《結婚》、ウェーベルン《弦楽三重奏曲》、カレル・ハバ《フルート・ソナチネ》、マルティヌー《弦楽四重奏曲第2番》、ブリアン 小合唱曲《ヴォイス・バンド》、エルネスト・ブロッホ《五重奏曲》、ウォルトン《ファサード》(以上、外国人) カゼルラ《チェロ・ソナタ》、アルクァーノ《チェロ・ソナタ》、ハマッシーニ《弦楽四重奏曲第2番》、カステルヌオーヴォテデスコ 歌曲《トスカナのバッカス》(以上、イタリア人)。主催者はこの機会にイタリア16世紀の宗教曲の演奏会も開催した。/さらに1934年、国際現代音楽協会第12回音楽祭をフィレンツェに招待した。主な曲目は、ラヴェル《左手のためのピアノ協奏曲》、フランセ《三重奏曲》、アンリ・マルテリ《弦楽四重奏曲》、オネガー《交響的ムーヴマン 第3》、アルバン・ベルク《叙情組曲》、ベルク 歌劇《ヴォツェック》の一部分、バルトーク《ヴァイオリンとオーケストラのためのハンガリー狂詩曲 第1》、マルケヴィッチ《聖詩》(ソプラノとオーケストラ)、ヒンデミット《ヘッケルホルン、ヴィオラ、ピアノの三重奏曲》、アロイス・ハバ《幻想曲風のトッカータ》、ブリテン《オーボエ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための幻想曲》(以上、外国人)。 マリピエロ《交響曲》、アルファーノ《交響曲第2番》、カステルノーヴォテデスコ《スペインの歌》、ダルラピッコラ バレー曲《パルティータ》、カゼルラ《導入曲、アリアとトッカータ》、ピツェッティ、ラプローカ、ムーレ、ゴリーエ、ニールゼニの曲(以上、イタリア人)。/作曲における国際主義はファシスト政権安定後まもなく上のように実行し始めた。演奏における国際主義、外国演奏家のイタリアへの紹介とイタリア演奏家の外国派遣は営利主義的なマネージャーによって無秩序に行なわれ、そのためイタリア演奏界が外国演奏家の圧迫を受ける弊害を生じた。ファシスト政権がマネージャーの営業を禁止し、国立雇用局を設立した理由の一つはそこにあった。1933年、現代音楽家のアカデミーが設立され、一方においては一定の比率をもって交換的に外国演奏家の来演を承認することとなった。/イタリアの演奏家や演奏団体が国外にどの程度盛んに進出したか、資料がないが、オペラ歌手やオペラ指揮者は盛んな国外活動をしている。指揮者ではトゥルリオ・セラフィン[ママ]、エットーレ・パニッツァ、ヴイットーレ・グイ、ヴィンチェンツォ・ペラッツァ、フランチェスコ・サルフィらが、歌手ではラウリーヴォルビ、エチオ・ピンツァ、ベニアミーニ、ジーリ、ジョヴァンニ・マルティネリ、ニノ・マルティーニ、アウレリオ・ベルティレ、チェザレ・フオルミーキ、トティ・ダル・モンテ、ジーナ・チニア、ローザ・ライーザ・ブルーナ・カスターニャ、マファルダ・ファヴェロ、エーベ・スティジアーニほかが挙げられる。オペラ以外では、モリナーリがニューヨーク・フィルとBBCオーケストラなどに毎シーズン登場することがよく知られている。またローマ弦楽四重奏団、ポルトニエリ弦楽四重奏団あたりがヨーロッパ諸国に登場している。独奏では、チェロのマンリコ・マイナルディ、クラヴサンのコルラディーナ・モーラの活動が著しい。/反対に外国人演奏家、演奏団体のイタリアにおける活動は、ひじょうに盛んで主なものを概観すると、演奏団体では、ベルリン・フィル(フルトヴェングラーあるいはハンス・フォン・ベンダ指揮)、デレスデン・フィル(フリッツ・ブッシュ)、ベルリン・ランデス・オーケストラ、ブダペスト・フィル(ドナニー指揮)、ウィーンのムジカ・ヴィヴァ(ヘルマン・シェルヘン指揮)、ベルリン婦人オーケストラ、ベルリン国王オペラ、ミュンヘン国王オペラ、ドレスデン国王オペラ、ウィーン国王オペラ、フランクフルト国王オペラ、パリ・オペラと同バレエ団、パリ・オペラ・コミック(アルベール・ヴォルク指揮)、ブダペスト国王オペラ、モンテカルロのロシア・バレエ、パリのロシア・オペラ、ウィーンの合唱団「シューバート・ブント」、ブダペストの「パレストリーナ合唱団」、日市々主合唱団、レーナー弦楽四重奏団、ブッシュ弦楽四重奏団、コリシュ弦楽四重奏団、ロート弦楽四重奏団などが挙げられる。これらは特にヴェネツィアとフィレンツェで行なわれた国際的な音楽祭に招聘された場合が多い。指揮者では、メンゲルベルク、ミトゥロプーロス、モントゥー、ドブロウエン、ブルーノ・ワルター、フリッツ・ライナー、クライバー、リヒャルト・シュトラウス、ストラヴィンスキー、シェルヘンが特に頻繁に出演している。ピアノでは、コルトー、シュナーベル、パデレウスキー、ギーゼキング、バックハウス、フリードマン、ホロヴィッツ、ヨゼフ・ホフマン、ローゼンタール、ボロヴスキー、ブライロフスキー、ルービンシュタイン、オルロフ、リリー・クラウス、エドウィン・フィッシャー、プロコフィエフ、シマノフスキー、プーランクら。ヴァイオリンでは、アドルフ・ブッシュ、ハイフェッツ、メニューヒン、エルマン、エリカ・モリーニ、プンホダ[ママ]、ミルスタイン、フーバーマン、フォン・ヴェチェイら。歌手では、シャリアピン、ゲルハルト・ヒュッシュ、ラウリッツ・メルヒオール、リヒャルト・タウバー、レートベルク、マドレーヌ・グレー、ジャーヌ、バトリー、ピエル・ベルナックら。こうした現象は欧米各国音楽界において共通の現象に属する。/イタリアにおける音楽国際主義にもっとも特色を与えているのは、1930年以来、遇数年にはヴェネツィア国際音楽祭が、奇数年にはフィレンツェ国際音楽祭が開催されることである。前者は管楽および室内オーケストラ曲演奏会を主とし、後者ではより大掛かりな音楽祭となることがムッソリーニによって決定され、同時に政府当局と音楽家が熱心に協力している。/ヴェネツィア国際音楽祭の内容は国際的であるが、主催者はムッソリーニの精神的、財政的な保護の下にあるファシスト音楽家組合が主催し、曲目編成もすべてイタリア人のみからなつ音楽祭委員によってなされる。第一回の会長はアドリアーノ・ルアルディ、副会長はカゼルラであった。演奏された曲目の詳細は不明だが、取り上げられた作曲家は、ドビュッシー、ルッセル、ミロー[=ミヨー]、オネガー、ストラヴィンスキー、デ・ファリャ、トゥリナ、スクリアビン、プロコフィエフ、ヒンデミット、クシェネック、ブロッホ、バルトーク、シマノウスキー、タンスマン、コダーイ、ハルサニー、ウォルトン(以上、外国人)、ブゾーニ、ピツェッティ、レスピーギ、カゼルラ、マリピエロ、ザンドナイ、アルファーノ、ピツクマニジャガルリ、蚊捨てるぬ尾ヴぉ手です故、ムーレ、市にガリア、マッサラーニ、トマッシーニ、あられオーナ、ルアルディ、ヴェレッティ、マルツォルロ、フェルロ・ビアンキ(以上、イタリア人)らである。この音楽祭は、さいしょ永続的なものとする予定ではなかったが、第1回音楽祭の成功と1925年に同市で開かれた国際現代音楽協会音楽祭の成功が定期的開催への気運を醸成した。
【2002年11月14日+11月17日】
日清戦争軍楽従軍記(4)春日嘉藤治(『音楽之友』 第2巻第11号 1942年11月 p.73-75
内容:本号の日誌に掲載されたのは1895(明治28)年1月30日(水)から1895(明治28)年2月3日(日)まで。1895年1月30日(水)晴。右縦隊の第6師団は右翼、左翼、予備の3隊に分かれ、午前3時に集合し身軽に打ち扮して各々部署する方面へ向かった。午前6時にはいずれの軍も各方面に到着した。この時、左翼隊は敵に攻め入ろうとしたが、地形的に敵からわが軍の人馬が明らかに見え透く所なので、一つの小山に陣を布き砲撃を開始した。激しく大砲を放ちたたかうこと、およそ1時間に及んだ。やがて敵に突入し、これを追い捲った。正午ころ砲弾が敵の火薬庫に命中、敵は散々となって逃げ出した。右翼の砲兵も陣地を進めて敗兵を砲撃した。右縦隊の左翼を指揮した大寺少尉は、飛んできた弾がその場に破裂し、それがもとで深手を負い落命した。1月31日(木)引きつづき滞在。2月1日(金)11時40分出発、虎山に進む。2月2日(土)威海衛城を占領した。2月3日(日)湾内に碇泊する軍艦と水雷艇は少しも屈した様子を見せていない。31日より暴風飛雲が海上を覆っているので、敵を攻撃する手を緩めている。
【2002年11月19日】
楽友近事堀内敬三(『音楽之友』 第2巻第11号 1942年11月 p.79-81
内容:■遊休楽器を徴用したらどうか■1942年10月6日、管楽器の製造販売が禁止されたが、在庫品をだけ販売を許可する手続きがとられるらしい。また、教育用および厚生用の楽器については今後ある程度の配給が期待できる。戦争下の重要資材を少しでも音楽に廻してくれたのは情報局・企画院・商工省が音楽の国策的意義を認めてくれたからである。銅と鉄は、武器・弾薬・船舶・製造機械を作るのにいくらあっても足りないのである。われわれは足りない楽器をもっとも有効に繰り回すことにしたい。それには第一に楽器を大事にすること、第二に遊休楽器を供出することである。供出はへたにやると悪ブローカーの食いものになるので、早急に官民の協力による楽器徴用制度をつくることを提唱する。■米英と戦わない者がある■米英の享楽的楽曲や日本の旧体制時代の退廃的流行歌が、日本でまだ演奏されている。音楽における米英主義の撲滅に向かって楽壇人も鑑賞人も全力を注がなければならない。日本出版文化協会に提出される楽譜発行の企画届の中には、いまなおジャズや退廃的流行歌を発行しようという計画が後を絶たないが、こういう人は一体何を考えているのだろうか? 米英とは国民の全力で戦うのだ。こんな分りきったことを言わなくてはならないのは情けない話だ。■練成会の好結果■1942年9月23、24日、楽壇さいしょの練成会が東京市蔦平野営場において国民音楽協会主催で行なわれた。指導者は情報局五部三課長・井上司郎(講演と行事全般の指導)、大政翼賛会文化部長代理・日本文学報国会理事・白鳥省吾(講演)、日本山岳聯盟理事・志馬寛ほか5名(登山、行軍、野営、炊事、営火)、日本体育聯盟理事・江木理一(体操)、国民音楽協会理事・外山国彦ほか5名(合唱)で、参加者は合唱関係者100余名であった。この練成会は礼儀、秩序、努力を重視し、すべての動作が整然と、また明快に行なわれたので、あとには浄化された心身と良い習慣と正しい心構えとが残った。/10月上旬には音楽雑誌協議会員(音楽雑誌の経営と編集の幹部員)が奥日光で練成行軍をやり、さらに10月末には芸能文化聯盟の練成会と忠魂塔建設勤労奉仕が行なわれるので演奏家協会員が多数これに参加することになっている。楽壇人にかけている協力一致の精神、献身努力の精神は練成によらずして築かれない。■芸能行政の一元化■渋澤秀雄は、大政翼賛会中央協力会議の席上で芸能行政の一元的中央機関の設置を提案した。現在、芸能行政は情報局・内務省・文部省その他で分割しているが、関係官庁が分かれていると相互の連絡に手間取ったり、重複や譲りあいが起こったりしがちなので、1箇所にまとめてもらいたい。同時に民間の各芸能関係団体も一元的に統一したい。現状では、いろいろな団体が同じようなことを各方面で行なったり、あるいは必要な仕事もしないでいることもあり、これでは芸能界の協力方向が鈍らざるを得ない。■宣戦一周年を音楽で記念しよう■来る1942年12月8日は、国民全体が開戦から一周年の記念日を銘記しなければならない。そのためには音楽を用れば、過去1年間の栄光を思い出させるとともに、あらたな勇猛心を奮い起こさせるであろう。東京と大阪では、日本音楽文化協会・府・市・新聞社の協同による演奏行進が計画されている。他の都市もやってもらいたい。また、この行事を「お祭り騒ぎ」にしてはならない。■音楽家に望むこと■いま足りないのは美しくて力強い歌曲である。レコードや放送に出る歌曲はほとんど決まったものばかりである。純音楽に精進する人が大管弦楽曲を作る実力をもって小歌曲・小合唱曲を作ってほしい。レコードの作曲家に望むことは、もっと明るい歌曲を作ってほしいことである。どうも涙っぽく哀れっぽい泣き節か、米英の尻馬に乗ったダンス調があとをたたないようだ。■ローエングリンが上演される■藤原義江歌劇団は、1942年11月23日から11月26日まで東京の歌舞伎座で《ローエングリン》を上演する。初めてワーグナーの歌劇が日本で上演されることとなった。ワーグナーの歌劇は、これまで1921(大正10)年に《タンホイザー》の一部を、帝劇で山田耕筰の日本楽劇協会によって上演されたことがある。あとは、演奏会形式による《ローエングリン》全曲と、放送による《タンホイザー》抄演が聴かれたくらいである。■鈴川家潤逝く■松竹の音楽主任・鈴川家潤(本名・家臣)は1942年9月30日、胃潰瘍で死去した(55歳)。鈴川は海軍軍楽隊出身、1917(大正6)年、予備役となり松竹入り。東京市内各有力館の楽長、大船撮影所音楽主任を歴任、本社詰めに転じてからは松竹交響楽団の組織に全力を注いだが、過労がもとで倒れた。
【2002年11月22日+11月25日】
海外音楽事情平岡養一 渋沢一雄(『音楽之友』 第2巻第11号 1942年11月 p.82-90
内容:■1■渋澤 一昨年ニューヨークを発つ前に、ロスでアコーディオンの教習所を開いていたが、移民局がこれを探知して追い出された。そこでパリで仕事をしようと思って目鼻が付いたと思ったら、欧州大戦が勃発した。そうなるとパリでの仕事はないし、ベルリン、ブダペスト、ウィーンとのコンタクトも無効になった。それでフランス映画『ペペ・ル・コモ』の作曲者イゲル・ブッシュと二人でパリから逃げ出した。そしてスペインに入ろうと思って調べたが、どうしても入国許可が下りない。それで仕方なくふたたびパリに戻った。記者 作曲を勉強していた倉地録郎に会わなかったか?渋澤 会った。初めて会ったのは画家の猪熊弦一郎宅だった。ほかに倉田高などもいた。話を戻すがマルセーユからロンドンに入り、もう一度ニューヨークに生きたいという希望があったのでロンドンで許可を取り、運良く無事ニューヨークに着いた。以前のように移民局から探知されないように骨を折って仕事を探したところ、アメリカにはユニオンがあり、このメンバーには市民権がないとなれないので移民局のリストに載っている者はなかなか仕事が得られなかったが、ごく短期間の仕事はちょくちょくした。そしてますます空気が悪化する一方だったので、南米へ行く決心をした。日本から送金は来ないし、生まれて初めて経済的な苦労をした。■2■記者 南米はどうだったか? 渋澤 向こうではバンドネオンが盛んで、ピアノ、アコーディオンの本格的な弾き手がいなかった。そんな関係とCBSからの紹介で、ラジオ・ベルクツードという局との仕事の契約をし、またアルゼンチンの日本文化協会から頼まれて、音楽会を開く準備にかかったところ盲腸炎にかかり、手術をしたが重体になった。そのため仕事ができなくなってしまい、貨物船をつかまえて帰ってきた。気候が年中春と秋みたいなところだから、欧米の音楽家がたくさん来る。セゴヴィアにも会った。■3■記者 日米開戦前後の感想を。平岡 平岡の仕事は1941年12月7日(むこうでは開戦が7日になる)でお終いになった。音楽の契約もすべて中止、放送局の仕事もあの日に終わり。いつFBIが来るかといやな思いをしたが、さいごまで来なかった。そのうち1942年2月に日本に出る船があるらしいときき、働きかけをして帰れるようになった。記者 現在でも向こうに残っている芸術家はどういう人たちか? 平岡 ソプラノの小池壽子、ダンスの新村英一、伊藤テイコ、伊藤祐司。伊藤道郎は捕まっている。小池のバタフライも戦争勃発と同時にお終いになった。新村は、この2年ほどニューヨークでは公開の舞踊会もできない。平岡も1941年の正月に音楽会をやるはずだったが、危なそうなので中止した。1942年12月7日(日本の8日)、NBCの放送局で音楽会をやり、表へ出てから新聞で知った。■4■記者 アメリカに集まっていた音楽家は、どういう活動をしていたか? 平岡 一流の芸術家たちは、ほとんどアメリカにいるだろう。いなかったのは、ティボー、コルトー、カザルスくらいか。クライスラーはトラック事故にあったが全快して、たしかボストン交響楽団に出演した。平岡が米国を発つ少し前にフォイアマンが死んだ。渋澤 ニューヨークにいるとき、ストコフスキーがディズニーと組んで『ファンタジア』を作っていた。平岡 オットー・クレンペラーがアメリカへ来て精神が病んだ。戦争前の話だが、パデレフスキーはアメリカで無理にコンサートをやらされて過労で倒れ、ヨーロッパへ帰って死んだ。メニューインは二人の子どもがいる。そして妹と組んでソナタをやるのが名物の音楽会となっていた。そしてヴァイオリンの最高峰はハイフェッツ、ピアノはホロヴィッツとシュナーベル。渋澤 ホフマンの弟子のチャカスキー[チェルカスキーのことか?−−小関]はどうか? 平岡 知らない。それから以前はアメリカからヨーロッパに勉強に行ったが、ヨーロッパの人をアメリカに呼んだことと、戦争が始まったため、欧州に行く意義がなくなった。アメリカの音楽シーズンが終わって、夏の間にどこか行くところはないかということで南米が流行った。■5■平岡 (1941年12月8日以来)アメリカでは、まだ音楽会などはいままでと同じようにやっていた。(国民の士気を鼓舞するための)ぴんとした歌が出てこない。ことに通俗の方では、安っぽいヘンてこな歌が出きて、長くもって3週間で潰れてしまう。さいきんはクラシックをジャズに直したものが流行っている。やはり種がなくなってきたのだろう。渋澤 アコーディオンの名手をNBCオーケストラに入れてやるのは何年くらい前からなのか? 平岡 ごくさいきんだろう。そういうことをやる人も少なかったし。それに特殊楽器のために書いた曲がない。渋澤 クロード・ラッファムというおもしろい爺さんはどうしたか? 平岡 どうしたか知りません。戦争前は日本を主として東洋音楽紹介をやっていたが、戦争が始まってからは日本ものをやめて中国に転向したという話がある。アメリカ人だからお金で動くのだろう。私は、渋澤さんがかわいそうにアルゼンチンに止められているのだろうと思って横浜に帰ってきたら、「おーい」と言って現われたのにはびっくりした。平岡は1942年の4月から、ニューヨークとロチェスター、ボストンとクリーヴランドの4つの交響楽団にソロイストとして出演する約束になっていた。 
【2002年11月27日+12月1日】
東洋舞踊に就いて ― 崔承喜論石川清(『音楽之友』 第2巻第11号 1942年11月 p.111-114
内容:崔承喜が東洋だけでなく、欧米においても日本の生んだ世界の舞姫として圧倒的成功を勝ちえ、舞踊家として最高の地位と絶賛を博すことができたことは、彼女が、きわめて貧しかった朝鮮の舞踊から一つの優れた舞踊芸術を創造し「崔承喜舞踊」に完成させたことによって、彼女の創造力と肉体的表現力のもたらす舞踊の偉大な芸術性をしめしたからである。世界に数多くある民俗舞踊を土台として、真に世界の舞踊たらしめたのは、わずかにアルヘンティナと崔承喜しかいなかった。これは民俗舞踊の貧困ではなく舞踊家側の「天才」の貧困を物語る。わが[日本の]多くの舞踊家が西欧舞踊にに対する無批判的追従に忙しく、日本的東洋的な伝統とその優位性を没却し、自己独自の舞踊創造を忘れていいたとき、崔承喜は、すでに数年前から西欧舞踊の摂取影響から抜け出て、自己の芸術的生命を埋もれた朝鮮舞踊の再生と新しい東洋舞踊の創造という方向に向けた。それとともに一方においては、崔承喜は朝鮮舞踊の伝統をそのまま固定したものとして踊ったのではなく、それを基礎として絶えず創造的生命を付与しながら、彼女独特の東洋的舞踊を築き上げている。日本舞踊の舞踊家たちが伝統の中にのみ閉じこもっていることに対して、創造的生命の尊さを再認させるための重要な契機を作ったものと見なければならない。/過去の世界舞踊史は西欧中心のもので、西欧の評論家は東洋舞踊を芸術として低い段階にあるものと見なしていた。しかし日本の躍進を中心とする東洋の躍進と東洋文化ないし芸術の新しい復興に対し、西欧の評論家はその無関心を許されなくなってきたのである。東洋舞踊を世界の舞踊たらしめたのは、インドのシャンカと朝鮮舞踊の崔承喜の二人であったろう。/崔承喜が1938年から1940年末までの満3年、世界を相手にもっとも大きな国際的活躍をなしえたのは、シャンカのインド・バレー、モンテカルロ、バレエ・ルス、ヨース・バレー、崔承喜、クロイツベルク、アルヘンティニーナであり、サハロフ、テレジーナなどはすでに中心的な活躍から離れていた。その中で独舞公演をもって活躍したのは崔承喜とクロイツベルクであった。崔承喜が海外に渡ったときは無名であったが、3年という短い期間で西欧舞踊家に優る活躍を成し遂げ、アルヘンティナ以後の最大の独舞芸術家としての地位を築き上げたことは、彼女の不屈な精進と高度な芸術性のためでもあったろう。/彼女の芸術を語るときに、すばらしい肉体はわずかな部分で、独特なスタイルの完成と彼女に著しい東洋のにおいとが、多彩なレパートリーと溶け合っていることによって、感涙と恍惚を呼び起こしたり芸術的興奮を創造したりするのだ。/崔承喜は帰国後も、欧米講演のときと同じように独舞公演のみを持って活躍している。このやり方で鑑賞者をさいごまで芸術的感銘を引っ張っていくことは絶賛されるべきものである。彼女は今日、ソロ舞踊家として世界に比類をみない。彼女は「東洋バレー」の創造を計画していると聞くが、むしろ日本でただ一人のソロ舞踊家として独舞公演に専心してもらいたい。今日崔承喜は、あたらしい段階として今までの朝鮮民謡のみならず日本舞踊の素材と中国舞踊の素材を研究し、彼女独自の解釈によってそれをあたらしく創造している。かくして彼女の舞踊には“日本のカラー(色)、中国のフォーム(形)、朝鮮のライン(線”が溶け合ってあたらしい東洋舞踊を築き上げなければなるまい。あたらしい日本的東洋的な舞踊の創造がいかなる時代よりも必要であり、可能とされる今日において崔承喜の踏んできた東洋舞踊の創造の道は、その一つの輝かしき方向ではなかろうか? 崔承喜のような多くの「新人」が日本の舞踊において現われることを希望したい。
【2002年12月2日】
音楽会記録/唐橋勝編(『音楽之友』 第2巻第11号 1942年11月 p.115-116
内容:1942年9月11日〜1942年10月10日分(→ こちら へどうぞ)。
【2002年12月6日】
楽界彙報(『音楽之友』 第2巻第11号 1942年11月 p.116-117
内容:●記録● 音楽コンクール第二予選終了 東日大毎主催第11回音楽コンクール第二予選会は、1942年9月26、27日の両日、参組講堂(ピアノ、弦楽)と村山音楽研究所(声楽)に分かれて挙行された。次の諸氏が1942年11月2日、4日の夜日比谷公会堂で行なわれる本選に臨むこととなった。洋琴(7名): 石岡和子、伊藤祐、畑川美津子、堀昭子、増井敬二、南千枝子、望月勝世 声楽(8名): 神須美子、馬金喜、三好百合子、石川幸、宮本絢子、矢島信子、富田正牧、石塚靖 提琴(4名): 植野豊子、大津日出、増門祥二、宮下敬下 第7回全関東吹奏楽大会 過去6回、全関東吹奏楽団聯盟によって主催された全関東吹奏楽競演会が今年度より全関東吹奏楽大会と名称を改め、1942年10月17日午前9時より日比谷公園新音楽堂において挙行された。この大会は1942年11月23日に福岡において開催される大日本吹奏楽大会に出場する関東代表5団体を選出するためのもので、次の表彰団体が決定された。このうち、特選・優勝の5団体が福岡に行く。〈特選〉川越商業学校喇叭鼓隊 〈優勝〉東京商業実践女学校鼓笛隊、東京市第二日野国民学校吹奏楽団、東京府立化学工業学校音楽班、専修商業学校喇叭鼓隊、東京鉄道局大宮工機部吹奏楽団 〈表彰〉大宮工業学校報国団音楽班、東京府立第一商業学校吹奏楽団、日本管楽器吹奏楽団 第4回女子中等学校合唱競演会 国民音楽協会主催の第4回女子中等学校合唱競演会は1942年10月17日正午より日比谷公会堂で行なわれた。入賞校は、府立第十高女(第1席=文部大臣賞、市長賞、日本音楽文化協会賞を授与された)、府立第一高女、上野高女、私立横浜高女であった。 埼玉県下へ巡回音楽会 大政翼賛会および大政翼賛会埼玉県支部主催の「大東亜戦争完遂埼玉県民士気高揚運動」の一部として、1942年9月21日より30日まで県下各地の工場で巡回音楽会を挙行することとなり、日本音楽文化協会はこれを協賛、奥田良三、佐藤美子、奥田照親(ピアノ)の3氏を派遣し、演奏会および歌唱指導が行なわれた。 音楽文協京都支部 日本音楽文化協会京都府支部は1942年10月11日京都朝日会館で発会式を行なった。●情報● 第3回大日本吹奏楽大会 大日本吹奏楽聯盟の吹奏楽競演及行進は、今回より大日本吹奏楽大会と名称を変更し、今年度は朝日新聞との協同主催によって第3回大日本吹奏楽大会を1942年11月23日、福岡市で行なうこととなった。大会には、北海道吹奏楽団聯盟、全東北吹奏楽団聯盟より各1、全関東吹奏楽団聯盟、全倒壊吹奏楽団聯盟より各5、全関西吹奏楽団聯盟、全吸収吹奏楽団聯盟より各8、全中国吹奏楽団聯盟より3、合計31団体が参加することになっている。●消息● 二見孝平 日本音楽文化協会を辞す。 水野康孝 大阪音楽文化協会(日本音楽文化協会大阪府支部)幹事長に就任。 諸井三郎 中野区千光前町20へ転居。 松本善三 大森区南千束208大島方(電話 荏原2874)へ転居。 村松竹太郎 東京市の慰安掛長として10年在籍したが、このたび市長室総務部情報課へ栄転する。
メモ: 第7回全関東吹奏楽大会の特選・優勝の5団体が福岡の大日本吹奏楽大会に出場するとある。しかし特選・優勝の団体は、あわせて6団体あり、この記事からはどの5団体が福岡に行ったかわからない。 
【2002年12月6日+12月7日】
編集室堀内敬三、加藤省吾、青木栄、黒崎義英(『音楽之友』 第2巻第11号 1942年11月 p.128
内容:本誌の使命は他の雑誌と違って、いろいろなことがらを報じたり読書の教養に資することに止まることなく、戦時日本の音楽文化を打ちたてようと努める人々や音楽報国に邁進する人々のために資料を提供する機関であらねばならない。「戦争に勝つための音楽雑誌」を作っているつもりである。(堀内)/このたびビクター文芸部が一新された。さいきん歌謡曲について鋭い批判が加えられているが、文芸部の側が旧態的なものであっては何にもならない。(加藤)/『吹奏楽』の仕事をしてちょうど1周年、このたび『音楽之友』の仕事に転じた。従来と変わりなくご指導とご鞭撻をお願いする。(青木)/「近代の超克」は容易ならざる問題である。ちかごろ音楽界でも転換期が言われ、新文化の創造と新しいモデルの確立が要望されているが、まずヨーロッパ的意味における近代の超克から問題にされなければならない。/指揮者の座談会は、主に邦人作曲の問題と交響楽の大衆化運動に力点をおいたにもかかわらず、音楽界が当面する現代的課題がほとんど浮かび上がっている。(黒崎)
【2002年12月18日】


2002年12月10日は、p.37からの座談会をまとめました(途中まで)。
2002年12月13日は、p.37からの座談会をまとめました(途中まで)。
2002年12月15日は、p.37からの座談会をまとめました(おわりまで)。



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