『音楽之友』記事に関するノート

第2巻第10号(1942.10)


音楽に於ける新東洋主義石井文雄(『音楽之友』 第2巻第10号 1942年10月 p.18-24
内容:今次戦争の目的は大東亜共栄圏の確立にあるが、その発端は日中戦争における東亜共栄圏の確立に基づいている。東亜新秩序の建設についで大東亜新秩序の建設が要請され、また大東亜新秩序の建設が世界新秩序の建設を招来すべきこと論を待たない。しかし現実の大東亜新秩序建設の本質を考えると、東亜共栄圏確立をその基調としている。しかし、東亜にしても大東亜にしても、いずれも日本の特性が基調となって、その上に共存と共栄とが求められなければならない。/われわれが文化というとき2つの場合を考えなければならない。その1つは普通に文化という場合で政治や経済と区別される。もう一つは広義の文化で、いわゆる政治や経済をも綜合した内容をもっている。いま非常時に遭遇して、広義の文化の新建設が必要となっている。音楽もそうした運命のもとに再吟味と新建設が招来されてこなければならない。/いま要望されている新体制とは必ずしも体内的な新体制に限られたものではない。新体制とは非常時局即応の新しい体制を本意とするものではない。同時に非常時と不即不離の関係にある。常時対応の真体制をも慫慂してやまない。しかし、こうした新体制は必ずしも政治の上にのみ要請されるものではない。文化の方面における新体制が急速に進展すべきこと論を待たない。なかでも音楽の分野における新体制の確立と活用とは、その部門が他の文化面に比して著しい遜色を認められる今日、一段の努力が必要とされる。/石井は日本の特性を道義において発見できると思っている。道義とは「道」である。「道」は形而上的意味を持つようになっている。このようにして「道」とは東洋においては一つの哲学的思想をもつようになっている。この理法や道理を人間生活、社会生活の基準としている日本人東洋人にとっては、これを神意に基づき、天意に発するものとして、これに背反することを最大の罪悪とし最大の不義として、これを嫌悪し敬遠している。したがって道義は、きわめて高遠なところから出発している。それゆえ、その性格として理論ともつかず、行動ともつかぬ情理未分の情態におかれている。しかしながら、真の知が行なくしてありえず、また真の行が知なくして存し得ないのだから、この知・行両性は2つのごとくして1であり、文化と武化の相互的関係と一致する。したがって真の理と実も1つのものの両面にすぎない。この理と実との核心を「真」と呼ぶことができ、「真」は1つあってしかも唯一である。ここに音楽の理想も見出されなければならない。/今次事変[日中戦争のこと]の特性が東亜本来の文化に基づいていることは、いわゆる「近衛の三原則」の処理をみればわかる。ここに東洋文化の復興がいわれてくる。由来、日本のみならず、東洋においては復古的性格が顕著なことはいうまでもない。東洋音楽が復古的であり、また保守的であるのは本性のようにも思われる。しかし、真の音楽の理想は決して復古や復興にのみ止まるべきではない。創意をもつことは必要であり尊いことであるが、そのことのために復古と復興を忘れ、またこれをおろそかにするものは意のために目的を忘れるものである。真の創意は、復古復興を経て創作され、創造される。/音楽の本質は善と美から成り立っている。ここにいう善とは狭義のものではなく、哲学的にみて絶対善(仏教で言う「無」)とみてゆきたい。しかもこの善は習性から成り立っていて、決して盲目的になったり、感動的であったりすることはない。ここに善の本性がある。これに対して美は芸術的美のことで、感性的直感に訴えるものである。しかしここにいう「美」は哲学的美(これを仏教では「無」という)であり、この美は直観に訴えて感性に基づくものであるから、決して間接的になったり複雑性をもったりしない。ここに美の本性がある。/しかし、この実質的善と外形的美とは決して2つのものではなく、この両者が合体して音楽を作り出すことになる。ここにおいて、ためになる音楽と面白い音楽とは合致することになる。道徳的な音楽と芸術的な音楽とが別に存在するように思われ、また善的教養音楽と美的娯楽音楽とが別種のもののように考えられたりするのは、音楽の絶対性をわきまえないものの偏党的見解である。/東洋においては、主として求道的善が叫ばれるため、徳というものが主眼とされ、形式や技術という表現よりも動機や本体が中心として求められる。ここに東洋音楽の単一性や自然性が特性として現れる。これに対して西洋音楽においては、動機よりも結果に、内容よりも形式や技術に、その特性があるようである。しかし、音楽の本然からいえば、動機と結果が一致することをもって本体とする。発意と結果、内容と形式、またその方法と目的とが一致することこそ音楽の本意でなければならない。東洋主義的音楽は、そうした意味における新東洋主義にまで発展しなければならない。
【2002年9月7日】
南方音楽調査に関して/津川主一(『音楽之友』 第2巻第10号 1942年10月 p.33-37)
内容:■調査の必要■南方についてさまざまな角度から正しく認識する必要から、音楽においても、ある点までまとまった報告書を手にする必要がある。コロンビア、ビクターなどの南方音楽の音盤の発売や、各新聞紙上に断片的に伝えられる音楽的南方の消息は役立っているが、全南方に関する音楽の全分野にわたっての、事実に即した系統的調査報告書が必要である。これによってこそ、南方に対する適切な音楽時代が可及的速やかに講じられる。■調査の目的■宣撫工作の資料としての調査報告は、各地方の民族、風俗、文化の程度に応じて、いかなる音楽を与えるべきかを考究する程度のものである。これは戦火がおさまると同時に行なわれる調査報告であるため、急を要し、多少科学的に不満足な点があっても許される。もう一つの調査は、相当の年月を費やしても、あくまで科学的に正確を期した民俗音楽的報告書である。各国とも音楽を季節と一年の祭典に準拠して演奏するため、一地方1年を費やすことを覚悟すべきだろう。この研究は米英蘭にかわってわれわれ日本人が行なうべき文化的使命の一部でなくてはならない。今次の戦争は、大陸および南方の諸民族の文化との新しい交流を生じさせる機会である。同時にわれわれは南方民族の人事と自然を、科学的に分析、解剖比較研究し、その学的成果により世界の学会に寄与すべきである。■調査の方法■南方音楽の方面に関心があり学的良心を有する人士で、幾組かの音楽調査団を組織し、これを幾月かの予定で派遣することが考えられる。その地に長年居住している人物に委嘱して音楽調査を行なうのがもっとも便利な方法である。調査本部を内地に置くならば、調査カードを送り、これを収集して統計風な調査票が作成できよう。現地の調査役としては現役軍人として出征している多くの音楽家や、軍嘱託として派遣されている音楽に理解のある官吏、技師、実業家などの助力を得ることがよいだろう。バッハ同好会の2人のオルガニスト、伊藤完夫と奥田耕天は揃って南方に行っているが、伊藤からは「7列のパイプを有するオルガンを調査して、軍当局に報告を提出した」と来信があった。徹底的な調査のためには、携帯用の録音機と映画撮影もして、それを記録・研究する必要がある。それぞれの民族の音楽の特性とともに、他民族の音楽との共通性が示され、思わぬ方面に新たな光明を投げぬとも限らない。■調査の範囲■地理的には仏・印・タイ・ビルマ・マレー(大陸つづき)、スマトラ・ジャバ・ボルネオ・セレベス・ニューギニアなどが考えられる。これらの諸地方の民族を人種学的に、また文化や風俗の流れに従って分類し、それぞれの音楽の分布状態を調査しなければならない。これとともに彼らの宗教的儀式や演劇と結びついた組織的音楽や、どのていど欧米音楽が浸潤しているかを調査することは肝要である。南方にはキリスト教の勢力がはなはだ強力でパイプオルガンを備えているところも少なくない。娯楽的な興行的な音楽も、いかなる傾向のものが迎えられるかということと、日本がいかなるものを与えるべきかを考慮しなければなるまい。マニラには交響楽団があり、その楽手がほとんどフィリピン人だったということは注目に値する。これがモーツァルトなどの音楽祭を挙行していた。欧州音楽の中に少なくとも1曲の邦人作品を加えて、彼地の最高のインテリ階級を捉えることは真に重要である。この点で、ドイツが占領地帯へ国内最高の指導者、演奏家を派遣していることは文化工作の核心を捉えたものである。そして、彼らはいかなる指導者や演奏家を求めているか、あmた必要とする楽器や楽譜を調査することは急務であり、外務省ではすでに着手しているらしい。■調査の項目■フィジー・ラハミンの『印度音楽』(1925年)、サルヴァドール・ダニエル『アラビア音楽』(1863年)、アンドレア・エッカルト博士の『朝鮮音楽』(1930年)、ラルワー(1910年)、アールスト・クーラントらの中国音楽関係、ピゴット(1891年)、ノット(1891年)、ビーヴァン(1901年)、ヴェスタルプ(1911年)らの日本音楽に関する調査などがなんらかの示唆を与えないこともない。■調査の結果■調査後、南方民族の有する芸術的素質の再認識をなすべきことである。それらの伝統的音楽の保護政策を案出し、実施に当たるべきである。一方、進歩した現代音楽や欧州の古典音楽の九州に助成を与えるべきである。また、いかなる方法で、いかなる傾向の日本的音楽を南方に移植すべきかも重大な課題である。音楽教育機関の設置、音楽映画や音盤の製作などについても考慮されるべきで、無限の仕事がわれわれの眼前にある。
【2002年9月10日】
田中正平博士縦横談<対談>/田中正平・堀内敬三(『音楽之友』 第2巻第10号 1942年10月 p.38-49)
内容:■大東亜建設に際して■堀内:日本では、まだ音楽が十分に社会的にも芸術的にも機能を発揮しているとはいえないような状態にありながら、音楽家は全大東亜に向けてどのように音楽を指導していくべきかをについて考えている。この際、できる限りの努力を傾けていくよりないと思うが、いったいに大東亜民族は音楽が好きなようだから、日本人としての親しみが音楽を通じてできたり、日本の文化が音楽を通じて浸潤していく、そうなることが望ましい。そこでまず、指導していく、あるいは建設していくことの根本をどういうふうにたてていったらいいか、お話ねがいしたい。田中:東亜共栄圏に対してしかけるべき音楽的な事業については同感である。実は、こう早く今日の状況になるとは予想外のできごとで、それに応じる準備がなかったのはもちろん、心構えさえなかった。ともかくも日本が南方の共栄圏の音楽を導いていくだけの資格を持っているか、またそれだけの修養や芸術的な資材や人材が揃っているかを自省しつつ、刻下の問題にしなくてはいけない。この任務を果たすにはわが音楽界が彼らより数倍の努力をしていかなくてはならない。その一二を挙げるならばまず西洋音楽の善導である。従来から洋楽を盛んに行なっているところもあるそうで、わが国において、以後西洋音楽の修養をずっと進めていく覚悟がなければならないと考えている。また、音楽に日本趣味を注入しようという問題になると、ある意味において自然に行なわれるであろう。だから当分は日本にある音楽状態の一種の縮図になるようなことは止むを得ないことだ。邦楽を現在のままであちらに移行するということは、日本を紹介するうえではいいかもしれないが、これをもって彼らを心服させ彼らの音楽生活に影響を及ぼすまでには当分行かないだろう。なぜなら各民族は、みなそれぞれ固有の伝統をもち、音楽趣味を固めているからだ。どうしても早急にわが国の音楽それ自身を向上させる必要がある。■我音楽界の現状■堀内:わが国の音楽界の現状は、西洋の音楽がほとんど主流のように考えられているが、洋楽畑に育った人たちも、だんだん日本的な音律の研究に志しているし、また邦楽畑に育った人たちも洋楽の技法を応用することを考えて研究しているので、将来そうとう期待すべき成果が挙がるのではないかと思う。極端に言うと、いまのところ洋楽は外国の借りもの、邦楽は江戸時代からの残滓であるが、いかがなものか? 田中:一応もっともだ。日本に西洋音楽を採り入れて以来、わが国には立派な演奏家もたくさんでき、洋楽愛好者の層が広まって、異常な盛況に進んでいることは喜ばしい。西洋音楽は健全な素質をもっていて、われわれの参考としてもっとも貴重な材料をとりだせる。またわれわれが西洋音楽を行ない、理解し、これを楽しむということはわれわれの一種の能力発揮である。西洋人に中国や日本の音楽をやってみろといってもできる芸当ではない。こうして考えると、西洋音楽をありのまま純粋に採りいれるほうが大事で、これを東洋化するとか、いろいろ変えていくようなことになると西洋音楽が不純になってくる。ただ西洋音楽をありのまま受け入れるにしても、そこに考えうる事項がいろいろあろう。西洋音楽には伝統が積まれているが、その伝統組織にからんで欠点を改変できないような点もありはしないか、われわれが西洋音楽を新規に修得するときは、改修すべきところは西洋人に遠慮せず思い切ってすべきである。たとえば平均律の濁った音調を純正調に是正したり、鍵盤楽器を日本人の手に合わせて弾きやすいように改造するなど、工夫を凝らすのが良い。オペラも原語で聴かしてもらいたいが、それでは経済が成り立たないなら日本語に訳して演出させるのもやむを得ない。オペラは外国人を迎える社会施設としてもなくてはならないものとされる。わが国においても、これを西洋におけるのと同様高度なところまでもっていかなくてはならないだろう。日本の将来の音楽の創造に西洋音楽を加味していこうという努力がおこなわれている。そしてことにオーケストラ曲に日本の民謡調の旋律が採りいれられ、特色を発揮するということがしばしば見受けられる。しかし、それを西洋人からみればエキゾチックな音楽とされる。これをどう考えたらよいかという問題になってくる。率直に言えば、こうした音楽は、西洋音楽の台の上におかれた日本の置物である。ちかごろ室内楽や管弦楽に簡単な日本的メロディを織り込もうとしている傾向があるが、たいていは童謡か学校唱歌風のもの、あるいは田舎の古謡か近世の低俗な端ものを安易に折り合わせたものに過ぎず、このことを作曲家たちが心得ているかどうか疑問である。こうした楽曲は驚きをもって聴いてもらえても歓喜をもって迎えるには隔たりがあろう。その克服には大きな忍耐と努力が必要であろう。オペラでも日本語の台本で近代オペラを作り、それを日本のオペラと銘打って出す人もある。しかし、その節からいっても歌の声づかいからみても、西洋ものとしてしか受け取れない。これについてもエキゾチズムと呼ばなければなるまい。30年ほど前坪内逍遥が脚本も書き、節付けや振付などもして、大掛かりに世に示したことがある。しかし西洋音楽をやっている人間の協賛を得られなかった。その理由は、坪内の主張は古来の伝統によって、新楽劇は物語式、叙事式[ママ]、すなわち浄瑠璃式でなければならないというものだったが、それをオペラと照らし合わせてみると形式、台詞の組立て方、声楽様式が異なるためであった。また日本の声づかいは、情のこもった静かな曲節となると口中の諸機関の雑多な操縦方法による装飾がつく。ベルカントで鍛え上げた声が、まだ多くの日本人を悩殺するまでに至らないという点も純日本式オペラ創設の前途に横たわる苦悶の一つであろう。それにしても、日本の若い作曲家たちが日本の趣味を加味して、日本の音楽を創造なければならないと言い出したのは良いことだと思う。■洋楽家の邦楽趣味■堀内:なんとかして洋楽家が本当の邦楽の高い趣味を最小の努力で獲得できることを考えなくてはならないと思うが、何か指示をいただけないか。田中:指示しろといわれても困るが、若干の忠言を呈してみよう。若い作曲家といえども各自の社会的関係からして余暇が得にくい。一方、いま言うところの高級日本音楽の習得といったことになると一朝一夕にはいかない。そこでまず自分で古来の小唄を1、2蓄音盤より採譜してみることだ。それから修養のための暇な時間を作ることである。暇な時間が得られたならば、伝統的な音楽趣味にひたり、しかも音楽の語彙や形式等を自分で駆使するくらいの能力を養うべきである。よほど勉強しなければ体得できないものがあるし、そこなで進んでくれなければ、日本の音楽の真髄を捉えたといえないことを承知してもらわなければいけない。洋楽家がこの修養に適切な方法はどうかというお尋ねには、まず既刊の日本の音楽の良い譜を手に入れて根気強く自習することである。この方法でやると、そう長く苦心しなくとも比較的速やかに、ある程度まで達せられる。邦楽家が旧式の方法、すなわち7つ8つの子どもを仕立てると同じように、記憶により初歩の曲からはじめ、だんだん口授的に進んでいく教育法は、すこぶる非合理的である。日本の音楽には楽譜が充分に残っていないが、これからは在来の曲を一つ一つ採譜して、どしどし刊行することが肝要な条件となる。完全な楽譜にして、現代および後世の音楽家によって各々の特色が楽譜から再生されるようにしなければならない。それを基礎にして、日本音楽の教育方法の根本的改良に着手するという事業開始の端緒になるであろう。どうか洋楽界の有力者がこの事業に翼賛してやってほしい。堀内:まったくお説のとおりで、日本の音楽家が矢面に立って努力しなければならないことだと思う。■大東亜音楽発展■堀内:大東亜の音楽の発展について、その方法などについて話していただきたい。田中:まだ決まった考えは持っていないが、大体から考えると、まず共栄圏の音楽を理解し、またそれを操るくらいの人が大勢出てこないといけない。大東亜の諸国に何が積極的に役立つかといえば、さしあたり理論の方面においてであろう。その手段として、われわれも大東亜の音楽を正当に認識しよう。少なくとも若い者に学ぶ便利を与えることが必要であろう。なお共栄圏の音楽家たちが自分で音楽を進めていこうとするときに、技能的、学理的諸般の援助をわれわれに請うこともあろうから、いまから相当の準備をしておけばよいであろう。堀内:ありがとうございました。
2002年10月27日+10月28日
民謡資料の拡充の音楽上の新発見(特集・日本民謡の特質)/町田嘉章(『音楽之友』 第2巻第10号 1942年10月 p.50-56)
内容:■放送協会の民謡資料採集■1941年5月に日本放送協会内に民俗資料室が設けられ、柳田國男の指導の下に主として現存古民謡の調査と録音盤の調整および楽譜化に当たっており、歌詞の整理には小寺融吉が、採譜には藤井清水が主として分担させられ、放送協会の理解によって軌道に乗ってきている。そして今度、さらに日本全土にわたる民謡の楽譜集を出版することとなり、第1篇として関東篇を上梓し、第2篇北海道奥羽篇、第3篇中部篇、第4篇近畿篇、第5篇四国篇、第6篇九州篇、第7篇朝鮮、沖縄、台湾篇、またできることなら南洋篇と手を伸ばしたい考えである。これらは単なる五線譜の集成にとどめず、できるだけ歌詞も収録し、発生、移動、分布などの民俗学的、地理風土誌的、風俗史的方面にも触れていきたい。資料は町田がかつて採集したものを基礎にし、さらに不足分を日本放送協会の手によって補充拡充しつつある。資料が拡充されるにしたがって色々の発見がある。そのいくつかを紹介してみる。■田植唄と古流行歌との関係■福島県の南部白河地方に伝わる七七七五型の田植唄(「この田千石とれらるならば」)、栃木県那須郡鳥山町に伝わる白河と同系の田植唄(「那須与市は坂東一の、男美男で旗頭」)では、どちらが先なのかわからなかった。その後、栃木県那須郡下江川村、河内郡篠井村、下都賀郡壬生町、上都賀郡鹿沼町の鳥山系の節回しの田植唄があること、また茨城県久慈郡大子町、結城郡結城町、西茨城郡笠間町一帯に田植唄が分布しており、しかも那須与市の歌詞が出てくることなどから、いったんは本場は栃木県でそれが福島県や茨城県にも移されたものと考えられた。ところがその後、茨城県新治郡三村に《八重霞》《潮来》《五尺手拭》という3つの珍重な田植唄を発見した。どれが一番古いか、またいつごろから謳われだしたかは不明だが、これらはいずれも七五調の反復で節は同じ、歌詞だけが異なる。《五尺手拭》は元禄初年に歌われた流行歌で、歌詞は『落葉集』にある。《潮来出島》は寛文ころの上梓であるといわれる『山家鳥蟲歌』の常陸の部に記されているものと同一。また《八重霞》は笠間や結城や真壁郡大村地方で謳う田植唄と同一歌詞である。3曲の曲節がそれぞれ違えば面白いのだが、これが同一曲想である。このように、この地方の田植唄が《五尺手拭》や《潮来出島》の古歌となんらかの関係があることがわかっただけでも大きな発見である。そして、これら3種の田植唄の曲節と栃木県下の那須与市型の田植唄の曲節とが同じものであるとわかると、むしろ茨城県の三村あたりのものが移動して栃木県に行き、七五七五型から七七七五型に変化したものと解しうる。また、この田植唄と対蹠して群馬県から神奈川方面にかけて面白い田植唄が分布している。群馬県の赤城山の南麓から利根の流域にかけての村落で、五七五七五型が本態であるが、三の句の五音を反復することで五七五五七五としている。これは神楽歌の唱法に倣ったもので日本民謡の字音形態としては相当古く、徳川時代以前のものと考えられる。町田は今度国際文化振興会から出る海外紹介用レコード日本音楽集の民謡の選抜曲の中に、群馬県の田植唄と広島県の比婆郡比和町の田植唄とを推薦した。■磯節の元祖らしきものの発見■《磯節》は磯浜、那珂湊、平磯のいわゆる三浜地方海岸で謳われていた舟歌がお座敷唄となったのだというくらいしかわかっていなかった。さいきん放送局は千葉県山武郡の片貝というところで《櫓囃子》という唄を録音したが、そのモチーフの取り扱いに磯節を思わせる調子があり、これが原作ではないかとの考えがひらめいた。この《櫓囃子》は昔は九十九里沿岸はもちろん、鹿島浦、三浜地方にまで広く分布していたらしい。楽譜を並べてみると、なんとうまく《櫓囃子》の特徴をとらえて《磯節》に俗曲化したものかと感心する。■潮来節の衰勢と変遷■天明寛政時代に潮来に発生した《潮来節》という唄が江戸ばかりか京阪地方にも流行し、イタコということばは地名としてではなく流行唄の異名のように扱われた。それは現在では亡失して今の潮来で行なわれている「あやめ踊」で用いる音頭や甚句とどういう関係にあるかわからなかった。ところが文政5年当時のションガイ節と同じであるらしい節が鹿島郡矢田部村に盆踊唄として残っていることを発見した。採集してみると、これがお座敷化して今の音頭になったことがわかった。■八木節は越後の瞽女唄の変化■《八木節》は越後の《新保廣大寺くづし》という瞽女節が上州化してできたものであることがわかった。<八木>は現在ではなくなったが、栃木県足利郡御厨町が藩政時代に八木宿というところがあり、この付近に行なわれた盆踊唄がすなわち《八木節》である。この八木に近い山辺村堀込の渡邊源太が改良して諸国へ持ち回り宣伝されるにいたった。しかし、この盆踊唄は実は八木が発祥の地ではなく、群馬県新田郡太田町からさらに西寄りの木崎という宿から生まれたものである。この地には越後生まれのたいへん唄のうまい女郎がいて、廣大寺のくどき節を謳ったのがもとで土地の盆踊唄となり、これが南上州一円に広がっていった。木崎宿には堀込源太のような傑物が出なかったので、結局《八木節》として知られるようになった。■機織唄が化けて草津の湯もみ唄■草津の湯もみ唄の発生についてもわからなかったが、1918(大正7年)から謳われ始めたという証言を得た(大島タミという草津生えぬきの元老妓)。この年、埼玉県の方から湯治に来ていた客が何かの唄を謳ったところ、これが湯もみの動作にあい、節もやさしかったので浴客中に唱和されるようになった。そして芸妓連は、この節を三味線にのせようと苦心したという。そこで、埼玉県方面の民謡に注目して元唄をさがしたところ、青梅方面で謳われている機織唄であることが突き止められた。
【2002年9月12日+9月14日】
作曲素材としての民謡(特集・日本民謡の特質)/藤井清水(『音楽之友』 第2巻第10号 1942年10月 p.57-63)
内容:作曲界も近来活発な動きを見せている。いよいよ西洋楽の受け売り的作曲ではどうにもならぬ時代が来たのである。では、どうしたら日本的ないし東洋的な作品を産み出しうるという問題に苦悩している作曲者も少ないであろう。苦悩するところを挙げれば、恐らく次の2点であろう。〈1〉いわゆる日本的作曲の素材として求めるべき日本古来の民俗音楽の収集ないし鑑賞の方便の得がたいこと。〈2〉仮にそれらの素材が入手できても、いかにして自分の作曲技術で処理するかの点で困難があること。もとより西洋音楽とはまったくその組成を異にする日本旋法によった曲節を、わたしたち持ち合わせの音楽理論的知識や作曲技法でとりあつかうことは、はなはだ無茶な話である。さて民謡を材料とした音楽創作は、およそ次の3種類であろう。<1>ある民謡を編曲して伴奏つきの独唱曲、合唱曲、器楽とする場合。<2>ある民謡の旋律を自分の作曲に取り込んで扱う場合。<3>自分の民謡研究の蓄積から民謡的な楽想を醗酵させ、新たな作品を出す場合。いずれの場合も、民謡精神の骨の髄まで体得してからでなくては価値深い作品は生まれ難いであろう。/日本旋法の研究文献として知られる『俗楽旋律考』(上原六四郎著)には「上行音」「下行音」について触れられいている。いわく、
俗樂旋法は陰旋(都節)陽旋(田舎節)共に音階の上行の際には上行音を取りその下行の際には下行音を取るのを原則とするが、時には上行の際に下行音を用ひることがある。しかし下行の際に上行音を用ひることは無い。
とあるが、民謡にはこの説は当たらない。下行の際に上行音を使ったものは、はなはだ多く存在する。また、民謡に用いられている旋法を統計的に観察すると、大多数は陽旋であって陰旋のものはとても少ない。民謡を素材とした楽曲の和声的組織は、通俗的な用途に置かれているか純芸術的な立場にあるかによって複雑にも簡単にもできる。陰旋の民謡に短和音を配することは、大して不調和な感じを与えないと考えるが属和音を使うことは藤井の経験からいえば極力避けたい。陽旋の民謡を洋楽器で扱ったり、いわゆる民謡作曲をする場合にもっとも悩まされるのは「嬰羽」型である。「嬰羽」は旋律の上行下行にかかわらず常に下行音のみを使ったものをいうが、下行的旋律のこれが現われるときには始末に困る。こうしたことから民謡の編作または民謡的作曲には「正羽」型が扱いやすいと結論が出る。「正羽」型は、旋律の上行下行にかかわらず常に上行音のみを使ったものをいう。/作曲(特に器楽曲)の素材として貴重なものと考えたいのは神楽、獅子舞などのもっぱら笛と太鼓その他の打楽器類をつかった音楽である。それらの唄には民謡の旋律とは曲趣の違った典雅素朴なものである。/指導階級の中にすら「民謡俗謡の如き低級なものを」と考える人士がいるのは情けない。祖先が残してくれた尊い遺産によって、その精神生活を受け継ぎ後裔に民族精神の脈搏を伝えるべきところを、無反省に唾棄し伝統の神秘性に風馬牛であって何が音楽であろうか。一口に民謡といってもその一つ一つについて検討すれば千差万別な様相を呈する。座敷唄化された郷土唄は厳格な意味では民謡と考えていないが、藤井が採譜した日本民俗音楽は役1500に達し、その大多数は民謡である。中には驚嘆するような逸品が少なくない。
【2002年9月16日】
日本文学に現れた民謡(特集・日本民謡の特質)/藤田徳太郎(『音楽之友』 第2巻第10号 1942年10月 p.64-71)
内容:日本文学に表れた民謡といっても、たいていは流行唄として民謡が行なわれる程度であるから、その弁別は曖昧なものがある。/平安時代の民謡の記事として有名なものは2件ある。その一つは『土佐日記』で舟唄と舟唄のような調子の民謡の記事がある。もう一つは『枕草紙』に田植唄が見出せる。当時の民謡は形式が不備であって、江戸時代のそれのように一定した形式をもっていなかった。/江戸時代の近世文学になると、歌謡の記載は相当豊富だが、民謡そのものについては少ない。また流行唄との限界が明確でない。洒落本では軽井沢の宿場を扱った『道中雙語録』に馬子唄が出てくる。旅行を題材にした文学でも馬子唄は多いが、もっとも耳にする機会があったためであろう。『田舎芝居』(天明7年刊)は越後国大沼郡(魚沼郡)南鐙坂村のことを書いたものである。その中に「殿さ、殿さ」と謳う一名殿さ節のことが出てくるほか、田舎の踊りや唄について書かれているが歌詞はわからない。『田舎談義』(寛政2年刊)は葛飾のことを書いたものだが、この中に「東金の茂右ェ門が春戸せどで烏が鳴く」という千葉県の民謡が出てくる。/さて一九の『東海道中膝栗毛』を見ていこう。『膝栗毛』は滑稽本の中でも、もっとも多く民謡を取り扱った作品である。長持人足の唄、馬子唄、恐らく都々逸の原型と思われるはやり唄、比丘尼唄、伊勢音頭などが出てくる。ほかにも長崎と越後と大阪の人が土地の唄をうたう箇所があるし、西国の侍のお国踊りも出てくる。次に『続膝栗毛』には遊女の唄、唐人唄、舟唄に数えているが御舟唄といわれる大名の船旅の音頭唄、下女の謳う唄、草刈唄などが挿入されている。
【2002年9月19日】
民謡と祭礼囃子その他(特集・日本民謡の特質)/小寺融吉(『音楽之友』 第2巻第10号 1942年10月 p.72-74)
内容:■祭囃子の新作■武田忠一郎著『東北の民謡』第1編岩手県の巻には、民謡とともに器楽曲(舞踊の伴奏や祭礼囃子)も含まれている。民謡は音楽家よりもむしろ文学者に注意されたが、囃子は歌詞を伴わないため、文学者の注意を受ける機会を持たなかったのであろう。しかし近ごろは音楽家が民謡を研究するようになり、囃子の方も盛んに議論されるようになった。囃子の旋律や曲の名称も各地に異同がある。録音し採譜して分布状態を知り得たならば、面白いだろう。/囃子を何とかして現代に生かす方法はないかと考える。心ある作曲家が農村に入って農民とともに数ヵ月を過し、その囃子を体得して新曲を作り、これを指導したら大したものができあがるだろう。元来こういう研究や指導は国家が行なうべきであって、個人の篤志家が犠牲を払ってすることではない。/祭礼の囃子にも歴史がある。それには過去において、改作が行なわれたり新作が行なわれたりする発展があった。近年は、そうしたことがあるべからざるような状態にある。■音頭の発展■民謡の中の「音頭」の発展について述べる。この言葉は雅楽のオントウがオンドと短くなったのだが、江戸時代には、をどりくどきというものが起こり、これが一方において音頭の別名になった。この種の中、あるものは無伴奏であり、あるものは大太鼓が入る。これが音頭の一方の発展である。他方、宇治山田の妓楼で行なわれた三味線入りの伊勢音頭は、三味線の手を基調とし、これが発展した。このオンドの近世化として有名なものには端唄の潮来出島があり、さらに進歩したものに上方の端唄の京の四季がある。この曲にいたるまでの経路は具体的に指摘しうる。こうした研究は一つの日本音楽史であって、オンドだけの問題ではない。■都会の盆踊りと音楽■東京音頭以来、レコード会社は何々音頭というものをしきりに作る。それは都会的民謡といえば言えるが、こうしたものに振りを付けられたのを見ると、東京音頭以来たいした進歩はない。次に農村の盆踊りを見ると、芸術的で複雑な踊りになっている。これは振付けおよび振付けの普及方法についても考えなければならないことだが、都会の民謡はどうしたらよいのか作曲の面からも考える必要がある。都会の民謡などないと答える人もあるかもしれないが、人が存在する限り民謡は永久に行なわれる。ただし都会の民謡でないものを誤って民謡と見なす危険性は専門家のあいだにも起こりうる。
【2002年9月22日】
民謡採譜に就いて(特集・日本民謡の特質)/武田忠一郎(『音楽之友』 第2巻第10号 1942年10月 p.75-79)
内容:民謡採集についての苦心談をという依頼だが、とりたてて言うことはない。嘲笑や陥窕は不思議なことに、お互い当然こうした仕事をやらなければならない立場にある人がそうなので悲観させられるが、諦めてきた。一番困ったことは金と時間がないこと、もう一つは学問のないことだった。薄給といえども程度があり、家族8人で家賃を払った後は一人当たり5、6円で1ヵ月の糊口をしのぐのだ。家族は一言も不平を言わず、子どもたちは父親とは土産を買ってこないもの、晴れ着を着る子は不良と心得ている。武田は武田を啓蒙してくれた先輩や高く評価してくれた人たちの厚意に対して合掌するとともに家族に対しては心中つねに詫びている。/一つの唄を楽譜に書いてみると短い何行かに片付いてしまうこともある。採譜などちょっとで書けるものだという考えもあるが、武田は今では、そのような態度はいけないと考えるようになっている。同じ曲であっても大勢の人たちから何遍も聴くほうが良い。/よく管弦楽の伴奏では民謡の味が出ないといわれるが、その原因の一つは採譜が悪いため、もう一つは唄い手の発声法の研究ができていないためと思う。武田は民謡、俗謡、舞曲など、みな一緒にして聴いてあるくという。お互い色々な連絡と関係を持っている。もし楽器の伴奏がつくなら、楽器の種類や寸法、材料、持ち方、使い方等を見るし、舞踊されるものなら、その足どり、手拍子の数とその速度、振りの手、廻り方、舞の形式、人数等を見る。次に唄い手や踊り子の服装と持ち物にも注意する。/民謡の歌詞は七七七五型と限ったものではないし、囃子言葉の研究も欠くべからざるものだと思う。また当然出てくる方言は、その聴き分け方が相当困難なものがあり、意味のわからないものも多い。/そしてリズムの割り方、音符の細分、宮音の位置が決まれば旋法が明らかになる。また唄によっては一定の高度を必要とするもがある。しかし現在多くの学者のあいだでは調子記号なしに書くほうが良いとされているため、このような特殊なものは念のため実際の高度を記入すべきだろう。/採譜にあたっては「採る」「後はどうでも」という態度はいけないと思う。唄う人たちから教えてもらう気持ちがあって然るべきではないか。さいごに著作権の問題だが、武田は意見はないという。
【2002年9月25日】
楽友近事/堀内敬三(『音楽之友』 第2巻第10号 1942年10月 p.91-93)
内容:■楽器製造禁止問題■1942年10月初旬から楽器の製造と販売が禁止されるらしいという話が出て、日本音楽文化協会は、ある程度の楽器製造資材を確保し、それを適当な方面に配給しうるように当局に陳情している。当局側も戦時下の音楽の必要な充分認めているが、実際に軍事上の資材配給を第一とする立場からすれば、楽器の方へ多くの資材が廻ってこないのも仕方ない。廻り得るだけの資材を廻してほしいと願う。とはいえ、軍用資材が第一なので楽器はそう多くは作れまい。音楽関係者はこれを耐え忍び、足りない資材を十二分に活用して戦時下国民の士気を昂揚し、長期戦への耐久力を養うようなもっとも良い音楽を多量に供給すべき責任を自覚しなければならない。/■楽器を愛護せよ■日本音楽文化協会が楽器製造問題について関係官庁および業界の首脳者たちと懇談した際、企画院の内山調査官から楽壇人に対して次のような提案があった。皆さんの楽器は鋼や銅が使われるので今後大量に作ることは難しいだろう。皆さんの中には楽器を粗末に扱っている人が多いようだが、愛護し、痛まぬように使い、修理の面倒を厭わないようにしてほしいというものだった。楽壇全体で実行しようではないか。■軍艦行進曲記念碑■高橋三吉大将を名誉会長とし、武富邦茂少将を会長とする「軍艦行進曲記念碑建設会」は着々と仕事を進め、近く日比谷公園に記念碑が建設される運びとなった。/費用は12万円が予定され、この大部分は海軍関係の会社や団体、篤志家が自発的に醵金しているので一般寄付の必要はないらしい。演奏協会[本文のママ]も1942年10月10日に日比谷で建碑献金演奏会を挙行し、日本音楽文化協会もこの事業を援助することとなった。事務所は日本楽器会社が東京支店の一室を改造して無料で提供している。■南方へのレコード■新聞は、南方へ向けて送られたレコードに日本では演奏が許されないような退廃的な楽曲があったために選曲をやり直したと伝えている。堀内は、南方向けレコードが日本で売られているものと同じ標準であるべきか否かについて意見が分かれるであろうと認めつつ、日本における場合とあまり異なってはいけないと述べている。音楽は娯楽的であってよいが、しかしあまり迎合的であってはならない。米英音楽を叩き出して日本的な音楽で指導していかなくてはならない時に、米英模倣のジャズ曲や、米英的享楽思想を多量に盛り込んだ軽佻な音楽を南方へ送り出すのは好ましくない。■厚生音楽の指導者■大日本産業報国会と日本放送協会との共同主催になる厚生音楽コンクール(合唱・吹奏楽・ハーモニカ合奏)の東京予選を聴いて、厚生音楽に指導者が足りないことを実感した。指導者の中には一人前の指導者もいるのだが、一人前の音楽家が必ずしもよい指導者といえない者がいることを残念に思う。いままでの音楽家の中には実力が足りなくてもそのまま通用している人が少なくないが、いまでは時勢が許すまい。音楽の指導は素人にはできず、既成音楽家を除外して音楽指導者を求めることは困難であるから、音楽家は新しい活動のために新しい修養を考えてもらいたい。
【2002年9月29日+9月30日】
ニコライ堂聖歌発表(『音楽之友』 第2巻第10号 1942年10月 p.93)
内容:1942年10月25日(日)午前11時−11時30分、神田駿河台・神田ニコライ堂において、聖歌発表の形式で、18世紀ロシアが生んだ作曲家デミトリー・スペノウイッチ、ボルトニアンスキーの合唱曲2曲を演奏する。指揮はニコライ堂聖歌指揮者の高井壽雄。
【2002年9月30日】
山口常光<楽壇人物素描>/老楽手(『音楽之友』 第2巻第10号 1942年10月 p.94)
内容:山口楽長は丸々と太って動作も快活なため30歳前後とも思われようが、50男の分別もあり、人と交わって円満、表裏もなく言行の矛盾もない。ただ外見と少し違うのは山口がひじょうな頑張り屋の勉強家である点である。/山口楽長は軍楽生徒時代には全級の首席であった。楽手時代には小クラリネットの独奏手で兼ねてヴァイオリンをよくした。そのうえ、音楽理論とフランス語の研究を倦まずに続けた。こういう点は大沼楽長の美点をそっくり受け継いだ。大沼学長は楽長補時代にフランスでヴァンサン・ダンディの薫陶を受け指揮法の公開試験で抜群の成績を上げた。次に選ばれて留学した山口楽長(こちらも楽長補時代)は学校で優秀な成績を残しただけでなく、各地を視察して得意の語学を生かして日本軍楽隊の実情を認識させた。/日中戦争が始まってから山口楽長は、しばらく外山学校軍楽隊長をやり、その後大沼楽長と入れ替わりで中支に赴いて総軍司令部軍楽隊長を4年つとめ、席の暖まる暇もないほどの努力を続けた。その後、再び現地第一線に赴いた大沼楽長の後を受け、山口は外山学校軍楽隊長に返り咲いた。/山口楽長の著作は理論を根拠としながら実際上の体験を充分生かした平易な書き方になっている点に特色がある。海軍の名楽長内藤清五と並んで陸軍の山口常光が中央における指導的地位に就いたことを歓迎する。
【2002年10月4日】
作曲精進道<告知板>小泉洽(『音楽之友』 第2巻第10号 1942年10月 p.95)
内容:1942年7月初旬、国立高等音楽院作曲科出身の若い人たちが集まって、作品の試演会が催された。試演会をしたすぐ後で会衆一同の忌憚のない批評を聞くということで行ってきた。こうした真剣な作曲精進道も、もっともっといたる所で試みられていい。そうした公然の批判に耐えうるだけの作曲家でない連中がつくると、天下の悪曲や鼻持ちならない駄曲が氾濫するのではないか。/各音楽雑誌にも誰でもできるような演奏会の無責任な印象批評ばかり載せないで、新しい作曲についても指導的批評蘭が設けられてもよい時期に来ている。欧米の一流音楽雑誌には、みな作品批評欄がある。大東亜共栄圏に属する大家族のために示しうる作品は、基本的技術から検討されるところにのみ生まれると信じる。そこで望みたいのは、いいかげんな作曲技術しか持ち合わせていない者は、生意気な作曲など試みないことだ。身の毛のよだつような切音や退屈な顎音、回音程度の飾音知識のない人の旋律には、もう飽き飽きした。/作品を批評する側も、ロマンティク時代の音楽美学しか知らないような旧式の批評家ではダメだ。新しい国家意識に目ざめ、新たな世界創造の主体者である心構えとヴァーグナー以後の発達した作曲理論一般を研究しつくした人である必要がある。/再び最初にあげた試演会に戻ると、その時の批評は、参集した人々が素人なので、小泉の要求から遠いものであった。それにしても、そこの批評はすべてお世辞か、またはなくもがなの贅言であった。ただ、その中で二人の批評には光があり、一人は誰か知らないが、もう一人は守田正義だった。さすがに専門家の意見は違うと感心した。
【2002年10月5日】
日清戦争軍楽従軍記(3)<連載>春日嘉藤治(『音楽之友』 第2巻第10号 1942年10月 p.96-99)
内容:本号の日誌に掲載されたのは1895(明治28)年1月13日(日)から1895(明治28)年1月30日(水)まで。1895年1月13日(日)、午後司令部で奏楽。楽手補加藤鎹吾も官立病院から大連湾にむかった。14日(月)、恤兵部より物品が配給される。16日(火)、12時より軍司令部で奏楽。19日(土)、午後諸荷物を悉く皆管理部に納めた。近日中に進軍があるのか。20日(日)、午後7時頃にいたり明日9時進軍する旨達せられた。21日(月)、早朝に武装を整え9時に整列。大連湾に向かう。11時30分柳樹屯に着き、午後1時すぎ大連湾の運送船横浜丸に着いた。22日(火)、午後1時出帆。24日(木)、午前11時30分龍雲島に上陸した。25日(金)、午前8時30分頃栄城県に向けて出発、午後に到着。この地は水に乏しく雪を溶かして飲料に充てた。夜10時頃になっても夕食をとれず。26日(土)、引きつづき滞在。本日は光緒21年正月元日なので、六師師団は堂々と行進合奏しながら士気を鼓舞した。27日(日)、威海衛に向かって進発。埠柳村に到着。28日(月)、午前埠柳村を出発。道路は峻険で人馬の通行が自在にならない。橋頭集に着く。29日(火)、威海衛攻撃のため進むべきところまで進み、機の熟すのを見て、夜10時に軍司令部より命令が下る。30日(水)、午前5時30分温泉南方から虎山に向かい、午前7時頃より敵と戦う。8時、勝ちに乗ずる我軍は張方塞、竹島村などまで行ってさらに戦った。敵の艦隊は、陸兵のふがいなさを嘆き、我軍が海岸に出たのを見て大砲ではげしく打ちかけてきた。それによって我軍の死傷者は40〜50人におよんだ。我軍は少し退き、様子を見て敵の海岸砲台である龍嘴廟とそのかたわらにある水雷営、鞏軍前営、鞏軍中営を占拠した。この戦いで我軍に死者28名、傷喪50余名があった。
【2002年10月8日】
民衆音楽の時代を語る波多野鞫セ郎(『音楽之友』 第2巻第10号 1942年10月 p.100-105)
内容:■東洋汽船の音楽時代■1942年7月7日、両国国技館で「支那事変5周年記念楽壇総動員大演奏会」に行き、山田耕筰指揮の音楽を聴いているうち昔を思い出した。1909(明治42)年頃、波多野は神田一橋の音楽学校で山井基秀についてヴァイオリンを習っていた。その時分、裏猿若町の東洋音楽学校にいたユンケル、ウェルバー両氏の下に東洋音楽学校オーケストラが組織され、そこに入った。そして日露戦争旅順陥落記念として両国国技館で横浜港外大観艦式を行なったときに、先輩田中平三郎、奥山貞吉ら10名ばかりで演奏した。これが民間における最初のオーケストラではないかと思う。東洋音楽学校の故鈴木米次郎は、東洋汽船の海外航路に音楽を最初に持ち込んだ人で、民間オーケストラの組織者としてのみならず音楽事業の開拓者である。/東洋汽船に音楽部が設けられると、東洋音楽学校から指名されて波多野らがアメリカ航路の春洋丸に楽員として乗船した。ピアニスト澤田柳吉も乗船した。横浜を出向して観音崎を過ぎたあたりで楽員全員船酔いし、ハワイへ着く1日前まで演奏できなかった。ハワイから6日かかってサンフランシスコに到着した。そこで活動写真館に入り、グランド・オペラなどを見て日本に帰ることとなった。/2年くらい経って再びアメリカに向かった。1915年のパナマ運河開通博覧会がサンフランシスコで行なわれた当時で、ボストン・シンフォニーなども聴くことができた。またブラスバンドのコンクールが行なわれた。その翌年ではないかと記憶するが、やはりサンフランシスコでクライスラーの演奏に接し感激した。/■金春館から東洋キネマ■6年ほど海上生活をしたあと、自分もオーケストラを組織したいと思って下船した。友人から銀座の金春館に一団を組織してほしいと頼まれ引き受けたが、それが活動写真に第一歩を踏み出すそもそもだった。その当時の管弦楽団には、いま放送局にいる前田環、浅井健三郎、加藤福太郎らがいて、張り切って演奏していた。そのうち、金春館の持ち主三橋清松が株で失敗し、金春館を松竹に渡す羽目になった。金春館を辞めたところ、神田神保町の東洋キネマから呼ばれ、音楽を引き受けることとなった。その頃は浅草オペラが華やかな頃で、篠原正雄、奥山貞吉などが活躍していた。伴奏音楽は説明者の徳川夢声と波多野が相談しながらやっていた。その楽団の主なメンバーは、前田環、阿部万次郎、宮田清蔵、岡本末蔵、大津三郎その他14名ばかりの編成だった。サンデーコンサートをやったのだが、いま思うと日劇その他でやっていたアトラクションに相当するかもしれない。その時には楽員も30名ほどになっていて、ドヴォルザークの《新世界》やモーツァルト、スッペなどを演奏した。/■東京シンフォニーと帝国ホテル■1922(大正11)年、帝国ホテルで東京シンフォニー・オーケストラというものが組織された。この時、横須賀薫三と波多野が呼ばれ、その編成の任務に当たった。当時ロシア人にオーストリア人やアメリカ人も加わったオーケストラが帝国ホテルで演奏していたが、これに東京キネマのメンバーも加わって東京シンフォニー・オーケストラが編成され、第1回の演奏は帝国ホテルの大宴会場で催された。メンバーはコンサート・マスターにロシア人のステンペウスキー、ヴィオラはオーストリア人のワーレ、チェロはロシア人のバッフロメフ、第2ヴァイオリンはアメリカ人のラフレーで、ほかに外国人が20数名いた。日本人メンバーは、前田環、岡村雅雄、宮田清蔵、岡本末蔵、福田宗吉、日響にいる寺尾誠一、寺田日嵯蔵などがいた。第1回のプログラムはリムスキー=コルサコフの《キャプリース》、チャイコフスキーのチェロ独奏、ベートーヴェンの《レオノーレ》の3曲だった。当日の聴衆の中にはクライスラーがいた。また2ヵ月も前に来ていたチェロのホルマン、さらにブルメスターも聴きに来ていた。コンサートマスターのステンペウスキーは、これは大変だと演奏前にバーでビールを飲んで気を落ち着けて演奏に望んだ。《キャプリース》のフィナーレの箇所でコンサートマスターが波多野の前に倒れた。演奏が終わって聴衆がやってきて、クライスラーがホテルの時分の寝室にかついで行った。それから間もなくし元に戻った。このように劇的なシーンがあったので、いまだに思い出す。第2回は帝劇で、第3回は神田の青年会館(YMCA)でやってシーズンが過ぎ、また帝国ホテルの大宴会場でやることになった。1923(大正12)年秋からのシーズンになる前、8月にドイツからクロッケルという有名なフルート奏者を呼んで、いかにうまいかを知った。9月1日に震災にあい、その後来日していた外国人演奏家は本国に帰った。大倉会長は時分でフルートや尺八を吹く人なので、東京シンフォニー・オーケストラにいかに貢献していたかうなずかれると思う。/話は前後するが、歌舞伎座で開かれた「日露交歓大演奏会」で《シェヘラザード》のヴァイオリン・ソロを弾いたシフェルブラット、チェロのベッケルやヴァイオリンのケーニッヒなどの四重奏など、山田耕筰と近衛秀麿が新響を組織した頃ケーニッヒが焼き芋に感心した話、山田耕筰がドイツから帰国して赤坂の溜池で練習を始めた話などは他の人が詳しく書いているだろうから割愛する。/当時のコンサートマスターは佐藤謙三で、東儀哲三郎、原田潤、末吉雄二ら約60名から成っていた。第一回の演奏会は帝劇でワルツ・コンサートを開き、シュトラウス、クルトトッフェル[ママ]、レハールなどを演奏した。ともかく震災後1年経つかたたないうちに大倉会長、現在常務取締役の犬丸徹三の好意で波多野が帝国ホテルの管弦楽団指揮者として指名され、その後引き続いてやっている。ホテルのメンバーとして働いてくれた人には、いま優秀な楽人として夜に認められている黒柳守綱、宮田清蔵、阿部万次郎、高桑慶照、奥山貞吉、和田肇、寺田日嵯蔵らがいる。
【2002年10月12日】
満州音楽情報村松道弥(『音楽之友』 第2巻第10号 1942年10月 p.106-109)
内容:■民族芸文祭■現在、満洲国では30余種の民族がいる。建国10周年記念の慶祝行事は、1942年9月15日の式典を中心に最高潮に達するのであるが、各種慶祝行事の最後を飾るべく、今回満洲芸文聯盟は10周年祝典事務局の委嘱によって「民族芸文祭」を9月下旬に催すべく準備をすすめている。これは、国内各民族固有の芸術文化を代表的に選出し、これを国都に集めて慶祝芸文祭を催し、一方でその代表者を通じて各民族に歓喜表現の機会を与えるとともに、他方でこれを記録し国の内外に紹介してわが民族協和の実相を示すという方針に基づいている。プログラムは、第一部、(満系)雅楽とサマン《吉林族人》、筝《奉天》、(蒙系)ラマ踊りと音楽と吟遊詩人《王府》民謡《王爺●》、(露系)タタール、ウクライナ、コーカサスの民謡、民謡《海拉爾地方》、コサックの民謡と舞踊《三河》、日系朝鮮農楽と古典舞踊、間島省開拓地民謡、各開拓地舞楽《祭祀廟》および原始民族としてソロン、オロチョン、ゴルチダタホールなどの民謡、民踊。第二部、(満系)満洲楽、武枝三曲、古典舞踊と長唄、ほかに第一部より一般公開可能なもの。/第一部は一般公開にふさしくないものを特別招待で公開する。また単に各民族の芸文を公開するだけでなく、映画や写真、レコード、写生、採譜、文献に記録し、また放送する。期日は1942年9月23日から28日までの予定。■東亜厚生大会■10周年慶祝の催しとして1942年8月18日から21日まで奉天で東亜厚生大会が盛大に催されるが、2日目の夜は厚生の夕として音楽会が新設相撲場で催される。これは楽団協会奉天支部が中心で計画が進められた。■音楽使節の演奏会■建国10周年慶祝の芸能使節として日本より「尾上菊五郎一座」の歌舞伎が来たが、8月には音楽使節として音楽学校の先生と生徒による合唱と管弦楽団がやってくることになっていて、それも50銭で聴かれる。8月9日に大連到着、その後22日まで各地を回り、帰りに京城によって帰国する。■市民厚生演奏会■1941年より新京音楽団と満洲新聞社が共同主催して市民厚生野外演奏会が始まった。今年も6月6日を皮切りに大同公園の野外音楽堂で毎土曜日行なわれているが、毎回、少なくとも2000人から多いときで5000〜6000人を集めている。今年初の試みは会の前に歌唱指導をおこなうことであるが、その方法と選曲のまずさによって予期していた効果が上がっていないのは遺憾である。■新響/ハルピン合同演奏■1942年8月5日夜新京で、同じく7日ハルピンで、新京音楽団と哈爾賓交響楽団の合同演奏が催されるが、今度も10周年慶祝と銘打ちながらも企画に何ら新鮮味がなく、チャイコフスキーの《5番》、高木東六の《新京みやげ》、シベリウスの《フィンランディア》等のやりふるされたものばかり並べている。■作品研究会作品発表■既報のごとく満洲作曲協会ができたが、その第1回作品発表が1942年6月20日に行なわれた。プログラムは金東振の歌曲3曲(作曲者が独唱)、《弦楽四重奏曲》、中村美夫(大倉商事)の《神殿》、吉田英蔵(理研)の《―歌曲》、檜哲二(関東軍)の《情熱》が収選され、来満していた信時潔も聴きにきた。弦楽四重奏曲を演奏した新京音楽団メンバーの拙演は作曲者の努力に対して気の毒であった。第2回は7月30日に放送されたが、佐和輝禧の歌曲4曲と弦楽四重奏曲、柴田すゑ(中央銀行)の《行進曲》、富村潔(シーメンス会社)の《メヌエット》が演奏された。なお金東振は、日本音楽学校出身で新京音楽団の第1ヴァイオリン奏者、テノール歌手としても美声の持ち主で作曲も相当行なっている。■丸山と市場について■前記作曲協会のメンバーで作曲の専門家といえるのは、放送局の音楽班長佐和輝禧、電々事業課調査班の丸山和雄、新京音楽団の市場幸介の3人だろう。佐和についてはしばしば書いたので、丸山と市場について紹介したい。丸山は数年前の上野の作曲家の卒業生で、当時音楽コンクールの作曲の部にも通っている。その後こちらの電々会社にあって民族音楽の研究に専心し、数週間を費やし奥地を踏破して録音と採譜を行ない、それら民族音楽研究の成果がいまから期待されている。市場は大阪音楽学校に学び宝塚の一楽員となったかたわら、作曲を勉強した。一昨年、新京音楽院に迎えられてチェロを受け持つと同時に作曲部に席を置き、満映の映画音楽の作曲を手がけたが病に倒れて楽員を辞めた。しかし音楽院が楽員養成所を開設するや学藍として生徒を指導した。音楽院が音楽団に発展的解消をするや、作曲部長にも就任した。■満洲歌謡研究会■満洲に健全明朗な歌謡を作るためには作詞家との協力が必要で作詞の同好者の会を作ることになったが、作曲家も入れて満洲歌謡研究会を作ることとなった。本年度は開拓団共通の歌、開拓精神を讃える歌、義勇隊移行開拓団の歌、子どもの歌、音頭などを作ることになり、開拓総局、拓殖委員会、満拓、楽団協会などで協議を進めているが、制作については歌謡研究会に一任することとなった。また7月25日の郵政記念日には発起人有志の斎藤一正、鳥羽亮吉、村松静光が作詞した郵便やさん感謝の歌に佐和輝禧、市場幸介が作曲して、同日大同公園音楽堂で発表会を催した。■国歌の作曲すすむ■満洲国の新国家は慎重を期して歌詞を制定したため[満洲]国内約30人、日本は大日本音楽文化協会[ママ]、音楽学校、軍楽隊に国歌の献納方を依頼した。7月31日をもって締め切り、規定に合致した26篇を審議し、それによってできた作曲を日本にいる顧問に見せたうえで制定され、9月15日の建国10周年記念式典で発表される。
【2002年10月15日+10月16日】
音楽会記録唐橋勝編(『音楽之友』 第2巻第10号 1942年10月 p.110)
内容:1942年8月24日〜1942年9月10日分(→ こちら へどうぞ)。
【2002年10月18日】
楽界彙報(『音楽之友』 第2巻第10号 1942年10月 p.110-112)
内容:●記録● ■満洲国へ両慶祝音楽団■満洲国へ2つの慶祝音楽団が渡満した。一つは東京音楽学校の一団で、乗杉校長以下140名。1942年8月5日に東京発、8月15日より新京をはじめ各地で演奏会を開き、同月30日帰京。他の一団は山田耕筰以下45名の管弦楽団で、8月9日東京発、満洲の楽団と合同練習をし、慶祝式典終了後、新京ほかで演奏会を開いた。渡満楽士のうち一部は満洲に留まり活躍することになっている。■満洲国新国歌制定さる■満洲国では1941年9月以来国務総理張景惠を委員長として国歌制定委員会を組織、歌詞・曲の審議をすすめ、このほど決定を見、1942年9月5日国務院布告をもって公布された。この国歌は1942年9月15日の建国10周年慶祝式典で奉唱されるが、日本語と満洲語の歌詞による。日本語歌詞は

  おほみひかりあめつちにみち、帝徳はたかくたふとく
  とよさかの萬壽ことほぎ、あまつみわざあふぎまつらん

である。なお、従来の《人民三千万》は今後建国歌と呼ばれる。■国民音楽協会の合唱練成会■国民音楽協会では東京市の後援によって1942年9月23日、24日に鳶平市民野営場で合唱練成会を開催、精神訓練、合唱訓練、国民体操、講演、大合唱などを行なった。■ビクターの作曲競作■日本ビクター普及部の「管弦楽コンクール」は応募作品の中より次の3佳作を決定した(当選作はない)。李建雨 交響詩《青年》、市川都市春 交響的組曲《沃野》、須賀田磯太郎《交響曲ハ短調》。■大日本興亜同盟で「興亜唱歌」発表■大日本興亜同盟では、このほど《興亜唱歌》の完成をみたので1942年9月12日1時、日比谷公会堂で発表演奏を行なった。曲は《アジアの青雲》(北原白秋詞、信時潔曲)、《アジアの友》(勝承夫詞、堀内敬三曲)。出演者は藤原義江ほかであった。■日本蓄音機商会、日蓄工業と改称■日本蓄音機商会は、このほど日蓄工業と社名を変更し、代表取締役に吉岡不二彦が就任した。発売レコード名は従前通り。■AK国際部、局に昇格■日本放送協会国際部は国際局に昇格することとなり1942年9月1日付で発表されたが、初代局長は業務局長関正雄の兼任である。
●情報●■音楽コンクール作曲部門募集■東日大毎主催の第12回音楽コンクール作曲部門の作品募集の要領が発表された。=規定= ・参加資格 日本人、満洲国人、中華民国人であること ・参加料 1曲につき金10円 ・申込締切 1943年1月末日 ・入選発表 1943年6月末日(予定) ・申込場所 東京日日新聞社事業部 ・表彰 音楽コンクール入選賞→賞状と記念章、音楽コンクール賞(第一部) 受賞第1位→賞状と奨励金500円、同2位→賞状と奨励金250円、(第二部) 受賞第1位→賞状と奨励金300円、同2位→賞状と奨励金150円、情報局総裁賞→銓衝のうえ授与するが、同賞に値しない場合は授与しないこともある。=課題= <第一部>所要時間約10分の管弦楽曲。楽曲の形式は自由とする。管弦楽総譜とピアノ用スケッチを提出すること。<第二部>所要時間約5分のピアノ独奏曲。独立した単一楽曲で、形式は自由とする。=応募注意=・応募作品は第一部、第二部各一人一曲限りとする。・楽譜はすべてペン書きとし、演奏所要時間の概算を付記すること。・楽譜にはできる限りメトロノームによる速度表示を付すこと。・作曲者氏名は表紙以外に書き込まないこと。■少女5千人の鼓笛隊大行進■音楽練成協会では1942年11月3日から開かれる軍人援護強調週間に際し、軍事保護院と共同主催で、11月3日正午より少女5000人を動員し、鼓笛隊の大行進をおこなうことになった。■第4回女子中等学校合唱競演会■国民音楽協会では、1942年10月17日正午より日比谷公会堂で第4回女子中等学校合唱競演会を開催する。参加資格は本邦の女子中等学校生徒(50名以上120名)である。■第3回全日本ハーモニカ競演■全日本ハーモニカ聯盟では日本音楽文化協会と共同主催で第3回全日本ハーモニカ独奏コンクールを開催する。本選は1942年10月31日である。■大日本吹奏楽聯盟の吹奏楽コンクール■大日本吹奏楽聯盟では1942年11月15日、福岡市大博劇場で第3回全国吹奏楽行進ならびに競演会を開催する。■軍艦行進曲記念碑建設のための演奏会■軍艦行進曲の記念碑を建設し、あわせて瀬戸口藤吉の功を讃える演奏会が1942年10月10日、日比谷大音楽堂で開催される。
●消息●■平岡養一 このほどアメリカより帰朝。ビクターの専属となる。■山岡照  品川区北品川2-43に転居。
【2002年10月18日+10月20日】
編集室沢田勇、唐橋勝、黒崎義英(『音楽之友』 第2巻第10号 1942年10月 p.128)
内容:今月号は生硬な感じを与えるかもしれない。毎号、平易にして読物風の記事を心がけているのだが(1)聴くものである音楽を視覚で細工しようとする音楽雑誌は、生硬を免れることができない、また(2)当面している時局の峻厳さから、雑誌の内容の娯楽性よりも文化性に重点が置き換えられている。楽界に文筆家がいないことも事実だが、立派な作曲家や演奏家がいるかといえば文筆家と同様である。音楽文化の貧困が言われる所以だが、それはわれわれの責任であり全体の責任である。/今月は「日本民謡の特質」を特集した。日本民謡の採集は今や本格的な展開を見せ、遠く大陸諸地域に及ぼうとしている。民謡の採集は復興と再生を伴ってはじめて意義を生じる。今回の特集は、さらに第二次、第三次の特集を必要とするであろう(以上、黒崎。沢田、唐橋分は省略)。
【2002年10月22日】


2002年10月27日はp.38〜の対談をまとめました(途中まで)
2002年10月28日はp.38〜の対談をまとめました(終わりまで)


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