『音楽之友』記事に関するノート

第2巻第9号(1942.09)


社説 音楽界の緊急課題(『音楽之友』 第2巻第9号 1942年09月 p.14-17)
内容:■銃後における音楽■銃後生産力を増強し、明朗で弾力のある銃後生活を確保するには、健全な趣味性駆るを全国民に与えなければならない。勤労者の趣味生活についてのさまざまな調査では、読書・音楽・映画の3つが常に上位を占めている。しかし音楽は、無統制・無指導のまま普遍化している。ラジオ、レコードが著しく発達した過去十年、音楽は高級、卑俗おしなべて全国民に接している。こうして音楽は、ごく短時日のうちに趣味生活の第一線に出た。この事実は、不幸にして上層為政者や産業支配者たちの注意をあまりひいていない。読書はいっときに一人でしか読めないが、音楽は共同に楽しむことができ、多数者に向かって直接的、圧倒的な影響を与え、広汎な地域に及んで永続性を持つ芸術である。一回の放送が1000万人に聞かれることはあり得ることだし、また一種類のレコードが30万枚出たとして、それを34人の人が聞いたらそれだけで1000万人を超す。一つの唱歌を国民学校児童が歌ったら、それだけでも1000万人を超す。国家的意義において音楽を着用することの利益は、他のいかなる芸術にも優るということができる。■楽器の問題■楽器は1942年10月から製造販売を禁止されるような話である。もちろん、この緊急時に銃砲や艦艇や飛行機や戦車を作る金属を音楽にまわせとはいえないが、他の方面に回す金属があるのなら、せめてその一部分を楽器の方へ回してもらいたいと希望するのは無法ではないだろう。いまは現実に国民の士気を昂揚し、国民思想を堅実にし、または国策を宣伝するような音楽が出ていて、そうしたものが退廃的流行歌や米英型享楽音楽を駆逐しつつ全国民に浸透しているのだ。楽器の製造販売禁止は、国家にとって有用な音楽の大部分が国民から遮蔽されることを認めて欲しい。また、音楽家が自分で使う楽器は修理を加えればあるいは使えるかもしれないが、音楽を通じての厚生運動とか国策普及運動という新しい分野に対しては楽器の新調が必要である。それが不可能になれば、健全な娯楽の普及は阻害されてしまう。出版業者や映画業者は自分の生活のためだから資材獲得に頑張るが、世事に疎い音楽関係者が運動めいたものをやらないために事態はこんなところに進んでしまった。■楽譜の問題■楽譜についても事態は楽観を許さない。楽譜に私用される紙は、始めからはなはだ少ないが、近ごろ音楽が著しく青少年の間に普及しているために楽譜に対する要求は増大し、紙の割当量は減少を余儀なくされている。紙は節約されなくてはならない。特配をもらえばどうにかなるが特配を要求するのは楽譜ばかりではないから、期待ばかりを持つわけにはいかない。なすべきことは、楽譜出版の無駄排除である。出版すべき楽譜を厳選し、その数量を適正にすれば在庫を多く抱えるなどの無駄を起こさずにすむと思われる。歌詞や楽曲の質を検査する必要もあろう。こうして出版される楽譜の質が向上したら、紙の問題は調整されていくと思う。そして楽譜出版の機構が根本的に変化されない限り、よい楽譜が国民の手には渡らないであろう。■人の問題■厚生音楽として行なわれる吹奏楽団は非常な多数に達しているが、吹奏楽の指導者が少ないため、その発展が望み得ないような状態にある地方が多い。さらにまた、地方で音楽鑑賞を指導できる人も決して多くない。音楽家は今まで自己の技術に専念しすぎて国民音楽の指導者たるべき修養に欠けるところが多かったというのが事実ではないだろうか。いままでのように道楽的な考え方で音楽に対している人たちが多数を制するような楽壇分野は、この際根本的に改革されなければ本当の奉公はできない。
【2002年7月10日】

新国民生活の確立と音楽の使命石井文雄(『音楽之友』 第2巻第9号 1942年09月 p.18-24)
内容:今次大戦遂行の目的がいわゆる大東亜共栄圏の確立にある。その使命の内容には、東亜共栄圏と南方共栄圏の確立があることを知らなくてはならない。それぞれの共栄圏の確立とは、東亜新秩序と南方新秩序の建設ということである。したがって、大東亜共栄圏の確立とは、畢竟大東亜新秩序の建設ということになる。いま日本の使命の特性を発見してみる。日本の特性は道義主義にあり、道義の本質を分解すれば、情(感情)と理(理性)とから成っている。ここに行としての実践と知としての理論がある。行動は過去となれば事実となり経験となり、体験となり歴史となる。また知識は過去となれば理智となり理論となり、科学となり思想となる。地と行の関係は一つのものの表・裏、陰・陽の両面となる。しかし、この両面の各々一面のみを採って主義としたのが、共産主義と全体主義である。共産主義は空理空論たるを免れず、また全体主義は腕力専制を本体とする。また徒な帝国主義と自由主義とが上下のいずれか一方に偏するところから偏党的な存在であることを免れない。ここに、日本の上意下達、下情上通の上下一如主義、君臣一体主義の卓越性が認められる。このような特性を有する日本の使命を内省するとき、ここに新日本の国民生活が要請されてくる。物質的にも精神的にも、また物的にも人的にも、その量的欠乏と質的活用とから、日本の真の理想と時局的要請とに即した新国民生活が当然に興起してこなければならない。/新国民生活なるものは、原理としての内容とそれを応用しての活用が相俟って完成されなければならない。知行主義が日本の過去より現在に至る歴史的伝統的特性であるが、これが今後において世界新秩序建設のためには、単なる左翼主義や右翼主義、もしくは単なる帝国主義や民主主義を凌駕した真の超知行主義にまで発展しなければならない。新国民生活の目的は、国民生活を徹底的に国防国家化することであり、したがって、ここに国民の基本生活を改良革新することが必要となってくる。整理、衛生、簡単、質実の四要件に合せしめ、主義としては指導思想であり、活用としては啓蒙運動とする。ここに国民生活の合理化と改善運動とが両立され、また新指導原理の確立と新国家建設の維新的徹底さとがある。したがって、そこには復古と創造との両性格が見出されなければならない。新日本創造のためには、古習旧慣の悪しきものを捨てて当たらし生活を創造しなければならない。そして国民国家を確立していかなければならない。新日本確立の要道は、戦時化平時化の帰一にある。/こうして、その組織は教養、職業、地域、年齢、性別の各観点よりこれを区別分類する。これは、公共生活と社会生活との立場から相互連帯と相互援助とに協力させ、翼賛会にこの運動の促進本部をさせる。特にその組織と行政、教育、経済、建設、防衛、衛生、娯楽、調理、慈善、宗教等の関係を徹底し、表面的官治と裏面的官治との両立を策し、軍隊の精兵と民兵の精兵とを期することが銃後国民の確立と考える。/こうした新日本の国民生活の理論の確立と運動の徹底とを期したところに、その世界的新秩序建設のための新国民生活と音楽との関係は、いかに求められていくべきものであろうか。/音楽の特性は感情にあり、徳育の涵養に資することになる。道徳の真性、科学の善性、宗教の聖性に対して、音楽が作用するところは美性ということになる。東洋の音楽は統一ということに主眼がおかれ、これに対して西洋音楽は分析ということにその主眼がおかれている。この両者の特性を合一してみるとき、音楽の特性である感情の裏面には理性が含まれていなければ純粋の感情とはいえないから、理智に基づく科学性理論性も必要とされる。ここに音楽の合理化科学化ということが言われてくる。/国民の生活の新体制の中に、音楽の新体制の確立が、新国民生活に即する音楽の使命である。音楽の新体制とは、音楽の現代化と将来化とである。ここに現実化と合理化がある。すなわち、音楽における俗楽が現実を主とする大衆楽であり、また雅楽が将来を主とする理想楽である。この両楽は過去の歴史的、伝統的な音楽から導かれなければならない。和楽を特殊音楽とし、洋楽を普遍音楽とするが、この両者にもまた応急、恒久の両対策が必要とされてくる。/音楽によって国民生活を純美化することは改正指導することである。ここに国民生活を向上させることができ、その衣食住の生活のうえに、特に精神生活のうえに非常な効果をもたらすことができる。また、音楽によって国民生活の上に娯楽慰安の急速的役目を果たすことも必要である。音楽に知楽と行楽があることはいうまでもない。知楽とは文楽であり、行楽は武楽である。音楽を不浄化し不要視した時代は過ぎた。/音楽が時代とともに変わるというのは顕著な事実である。それにしても、その本体には本然の使命があるはずである。音楽は物心を通じ、公私を通じてその生活の中にあって、その生活を指導しまたその生活に即してその生活を充実させるものでなければならない。音楽の真の使命の確立と実行とは、今日にあることを強調するものである。
【2002年7月10日】
創作批評興るべし増沢健美(『音楽之友』 第2巻第9号 1942年09月 p.25-27)
内容:音楽の創作と演奏は不可分の関係にあるが、元来演奏は創作に先行するものではない。国家的には大東亜の指導的立場から、さらに世界の指導的立場に移ろうとする現在の日本にあって、音楽の演奏がいかに卓越したベートーヴェンを表現したとしても、日本の音楽としては、貧弱な現在の捜索の範囲にとどまらざるを得ない。わが楽界としては、なるべく速やかにこの状態を是正し、均衡の取れた状態に建て直さなければならない。/近年種々の形式において、創作の奨励方法が講ぜられ始めた。喜ぶべき傾向であると思うが、大衆音楽の範疇に属するものを除いては、まだ創作に対する一般の関心は微々たるものであると同時に、創作も玉石混合の状態にあって、それに対しほとんど批判が加えられていない。/演奏は創作に先行しえないのに対し、批評は創作と密接不可分の関係を保ちつつ、それを推進し、さらにそれに先行しうる。そして創作に先行し指導することが批評の重要な役割の一つである。批評だけが対象の音楽を置き忘れて現実と遊離した理想論に陥ることには留意したいが、わが楽界の創作分野に対する批評の実際は、ほとんど無きに等しい。「日本人の作曲など聴いてもつまらない」という批評家もいるが、われわれの時代の批評家は同時代の建設に協力する責務がある。/創作およびその分野に対する批評は、音楽的素材の構成に対する鋭い洞察力と、その動向に対する音楽的かつ社会文化的な立場にたっての深い認識がなければならない。そこには演奏分野に対する批評には見られない難しさがある(この点について、たとえば過去において、リストに捧げたショパンのエチュード(作品10)についてなされたルトヴィッヒ・レルシュタプとシューマンの批評を例に挙げて言及している)。目下のわが楽界にとって緊要なのは、創作分野における活発な批評活動の展開である。批評家は創作分野に対し刺激と反省を与えるとともに、一方創作に対する一般の関心を高めることに努めるべきである。これこそ、わが国家的立場にふさわしい、日本の音楽の建設に資する所以のものであろう。
【2002年7月13日】
音楽文化の転換期<座談会>深井史郎・土田貞夫・市川都市春・守田正義・長谷川千秋・関清武・澁谷修・久保田公平・黒崎義英(『音楽之友』 第2巻第9号 1942年09月 p.41-60)
内容:黒崎から楽界における最も新しいジェネレーションの熱意を自由に語ってもらいたいと説明される。■新しき理念の追求■澁谷: 日本の作曲が当面する問題について、だいたい3つのタイプがあると思う。一つは今日のような状態に懐疑的な態度でどちらに向いても当たらず触らずという態度、もう一つは情勢のあらゆる条件を丸呑みにして世の中に適用していく態度、最後に自分の世界を内攻しながらある面では妥協しある面では自分主張をする態度である。関: そうした区分けよりも、若い階級は芸術的な問題、学術的な問題、日常的な問題でも必ず主体的にとらえる特質があると思う。主体的な立場、つまり創造者の立場は3種類に分けられない。土田: 澁谷氏は現在に至るまでの経過に関連して発言したように思う。一方、関氏は渋谷氏が言った最後の段階から出発すべきであることを主張しているのではないか。つまり客観的であるよりは主体的契機において捉えるべきだという意味だと思う。作曲態度について言えば、今後どうあるべきかが話題の中心にならなければならないということではないのか。澁谷: そうであるなら現在の見透しが一定していないと具体性がなくなってしまう。関: しかしそうすると主体的な把握ということを充分に把握できない場合があると思う。土田: 両者の立場はモラルを契機として媒介される性質のものではないかと思う。澁谷: そういうモラルや真理は具体的であるということを強調したい。関: 確かに具体的な問題から始めなければならない。しかし、その具体的な生活というのは単一なものではない。守田: 自分はどういう時勢が来ようと、自分の感覚で何かを感じる。それを形象化して聴衆から反響を得る。あるいは聴衆を支えている時代、社会、国家などの今日の状態のようなものが自己批判の材料になる。土田: そうした形式的な論理ではなく、もっと具体的に聞きたい。守田: 一言ではいえない。土田: 作家として創造の世界に命を賭して直面しているなら、何かいえそうに思うが。澁谷: それこそ形式的な論理になると思う。今日新しい音楽を作らなければならないという時、それは同じだ。では、どうしたら具体的な新しいものが出てくるかといえば、言葉の意気込みだけでは出てこないのだ。黒崎: 客観的条件が好転しないとだめだということか。澁谷: そうではない。だが、作家の生活が惨めだということは事実だと思う。■新文化創造の熱意■黒崎: 作曲に関しては近年一般の協力が具体化しているようだが。深井: 気運はあるが本当の意味の助成は恐らくないだろう。関: 問題は熱意だ。それがひじょうに大きければコンクールや各種の懸賞を相手にしないで作ると思う。守田: それより先に楽壇にはそれすら歓迎しない空気すらあるのではないか。やはり楽壇はセクト主義の寄り集まりだ。土田: そういうものを克服するだけの運動が起こらないのが原因だ。たとえば文学の場合、戦地に行ってきた文学者の心構えは内地で念仏を唱えていた文学者とは根本的に違うものをもって帰ってきている。そうしたことから何か新しい動き方が出てこなければならない。その動き方は、作品が形成されていく様式を規定する。久保田: 作品はあくまで作曲家に正直なものだ。土田氏は弾の下をくぐった作品を概念的に要求しているのだと思おう。それはわかってもなかなかそこに行かない。そこがわれわれの当面した切実な問題だ。土田: 作曲家の自己が正直に出ている状態だとすれば、それは現在の作曲界の低迷を意味する。つまり新しい運動も起こしえない状態にあることを意味するのではないか。モラル的な面で、作曲家自身が何か越えなければいけない時期に遭遇しているのだと思う。■現実への反省■黒崎: 今晩の話は作曲と批評に限定させていただく。澁谷: 土田君はわれわれが作曲できないのはわれわれに欠陥があると言ったが、深井君はそれを全部肯定するか? 深井:欠陥はある。澁谷:それを具体的に話そう。自分から言うと、自分たちは芸術的な作品という目標をもっていながら生活に追い回されて書けない。また自分たちの周囲の生活条件をそのまま丸呑みにして肯定もできない。そういうことで、今ここで新しい曲が出て来いと言われても、自分たちがそういうところに置かれていないし、自己と現実の関係を科学的に見極める力が貧弱だ。深井: 現代は文化のレベルを計る基準が非常に混乱している。音楽の批評の場合、特に外国で立てられた音楽の基準で批評する。だからいい批評は辛らつになる。そういう場合に、いろいろ立ち遅れているものがあるので、そういうものを全部消化して綜合したような批評がない。簡単に言えば、批評家が日本の現実を知らないのだ。土田: どういう意味で言っているのかわからない。批評の側からすれば、作曲家は批評家を理解しないとも言える。ある人はハンスリックが批評すると、この部分のハーモニーはこうしろという具合に書くが日本の批評家はそういうことができないと言っていた。しかし批評家の仕事は、新しい理念の旗を振ることだと思う。黒崎: 音楽批評が旗振りであるという意見には納得しがたい。一般的な理念だけの観点に立ってものをいうなら文化批評家だけで充分だと思う。音楽の専門批評としての条件が規定される。作曲だけでなく現在の批評に対しても反省は必要だと思う。日本の批評は各ジャンル分立して狭隘な専門批評をなしているが、音楽を主体にしながら音楽のもつ多面的な文化性を捉えなければならないと思う。土田: 日本が現在直面している現実は、批評家も作曲家もあらゆる人間が根本的に転換しなければいけないような段階にある。作曲家が当面しているような問題に批評家も当面しているといいたい。いつか関氏が批評活動は文学活動であると言ったが、たとえば演奏批評をする場合、批評家として一つの表現活動としての演奏批評でなければならない。黒崎: 音楽批評を文学活動というのは誤解を招かないか。■音楽体系の確立■関: 日本の作曲家が自分の音を駆使するための音楽の体系をもったとしたらどういうものだろうか、と思う。日本の作曲家がもつとなると、一応日本的なものを考えなくてはならない。そこに近い過去における問題があった。深井: 個人的な体系、スタイルなら日本でも山田耕筰はもっている。しかし一般的な体系となると世界的にもできていない。土田: 作曲家が将来自分の体系の正当性について良心的であるなら、そうした体系はしだいに完成していくのではないか。深井: そうだ。土田: 批評家もそうした体系が欲しい。■悲愴と絶対性■市川: モラルのことだが、現在の戦争や生活の中の現実から得られるものは、モラルの問題として日本文化の中にあった悲愴精神で、これは創作家にとって非常に問題なってくるのではないか。簡単な新聞記事でも、死と紙一重の境地にある悲愴精神を受け取るわけで、われわれの創作活動においても一番強いものだと思う。そういうところを通り抜けていくところに芸術の斬新な問題があるのではないか。土田: そういうところから新しい技術も生まれなければならない。黒崎: 市川が言う悲愴精神の概念を抽象化すると、これは絶対性だと思う。かつてのデモクラシーの相対論理ではなく、今日の国家情勢における絶対面を言いたい。たとえば絶対行動とか絶対信頼という面の上に新しいモラルが確立され、そこから今日の浪漫精神が打ち立てられなければならないと思う。長谷川: ところで土田君は戦地へ行ったのか? 土田: 私は重病をやって息をすることも苦しいぐらいで、まるで一昼夜以上氷の上に寝かされているような状態だった。そうした苦い経験をしたので、戦地の気持ちが実にわかるような気がする。モーツァルトの様式がもつ端的な美しさが尊いと思われたのは、その時以来だ。■モーツァルトとベートーヴェン■長谷川: 戦地から帰った人はモーツァルトのようなものは好きか? 土田: そうだろうと思う。ベートーヴェンは理想を追求したり闘争の過程を作品に反映したりするが、モーツァルトはそういう行き方ではなく、すでにそういうものが超えられている高い様式だ。一方バッハは、むしろベートーヴぇン的だが自己を表現するということではない。客観的に外のために拵えられている音楽だ。悟りに入った境地の人には、バッハの音楽を拵える態度がよくわかるだろうと思う。バッハが生きた時代は、そういう態度で作曲できる時代だった。その後、社会がいろいろ分解してベートーヴェンの時代になると、ああいう作曲態度が生まれた。いまはベートーヴェン的な時代ではなく、中世的なものが全面に出てくる時代だと思う。関: 土田氏は詩的な表現をしてしまうので、言ったことの中に多少問題にしたいこともあるが、次にいこう。■再び批評について■土田: 批評家は普遍妥当的な言い方をしなければいけないという従来の概念があったが、そうではなく、作曲家が作曲するのと同じように自分自身の考え以外のことは言えない。批評家の表現に個性的なものを認めなければ、批評家活動の真実はつかめない。深井: 作曲家の意図と違いがあっても、その人の考えが出ていればいい。関: そういう意味で新しい批評が出なければならない。一般批評家と演奏家と作曲家を対比すると、いつも何かいがみあう。その点が批評の欠陥だと思う。守田: ただ土田くんの話を聞いていると、いつも現象を批判の対象にしている感じを受ける。その現象の裏にある、現象を生み出す根本のもが批判の対象になってほしい。関: 創作活動としての評論が、音楽の問題としては一つの理論的な問題として残ると思う。そこに作曲家が評論家とある意味で協力しなければならない問題があると思う。深井: そういうつながりが元来的にあると思う。そこにギャップがあるのは、何か外部的なほかの欠陥があるに違いない。澁谷: その追及の仕方、たとえば音楽文化協会のお歴々の批評が果たして音楽の世界を入れているか。その具体的な問題をひっくるめていうと、われわれの方法が浮かび上がってくると思う。深井: 音楽文化協会? それをまともにいうことは愚劣だと思う。関: 一人一人の批評かなり作曲家が、自分の可能な最善のものを国民に提供する必要がある。最善のものを公にすることによってギャップを乗り越えていくべきだ。深井: ところがその人における最善というのがまちまちだ。関: それはモラリティそのものの追及になる。そのくらいにしか言えないのではないか。守田: モラリティの追及が具体的にどういう角度で取り上げられるか説明して欲しい。土田: モラリティは、そんなものではない。■浪漫精神の提唱■久保田: 作品は正直なので、そこに現在の生活が現れてくる。しかし、現代のモラルが要求され、作品が現在の生活のままで現れることに対する批判が常に行なわれ、もっと大きな前進をしなければならないということは、あらゆる面で直面している。日本の楽壇を前進させる一つの運動の方法は、さきほどの悲愴美を例にとるなら、ロマンチックな精神だと思う。現代のわれわれの生活が実際に現れてきたものよりも、もう一つ別なものを要求することがロマンチックな精神だと思う。黒崎: 絶対面を抽象化した概念が、すなわち直接の方法であり手段であるといいたい。そして直接に呼びかけないではいられない感情の中に新しいモラルの基準がありはしないかと思う。それは浪漫精神を規定づけるものであり、浪漫主義がモラルと関連づけられる絶対性でもあると思う。深井: 確かに論理は通っている。でも旗印というのは、また別なのだ。久保田: それはそうだ。黒崎: 市川君の場合、浪漫的なものを対象にする場合に一つの部分として悲愴美がある。市川: そうだ。部分的にそういう美がある。それが全面ではない。そういうものを通して、現在のもやもやした中から出てくるという雰囲気がある。久保田: 自分の意志を、モラルを強調しようとする。そういう場合に、一種のロマンチシズムが存在する。黒崎: といっても内省的な燃焼力を伴わない時局便乗的なマーチや流行歌は別だが。土田: そういう場合でも、その種のものが現われているような気がする。久保田: 外観だけ現われる。深井: 外観だけは毎日放送される。澁谷: その絶対面は相通じたと思う。では具体的にどうしたらよいか。自己の精神や気品が、国民の叫びに応え得るほどのはっきりしたものでなければならない。また、国民の声を自分の方法の中に科学的にはっきり見出していかなくてはならないことだと思う。そして自己を生かしていく。
【2002年8月27日+8月29日+8月30日+9月1日】
楽友近事堀内敬三(『音楽之友』 第2巻第9号 1942年09月 p.61-64)
内容:■日本音楽文化協会の新陣容■1942年7月27日、第1回通常総会において定款の改正と役員の改選を行ない、監督官庁の認可が下り次第その効力が発生するが、その結果同協会は従来と異なった相貌を呈するようになった。そのもっとも顕著な点は職業組合的な従来の傾向を止揚して、楽壇総力的な組織に向かって前進したことである。従来は職能人代表である5つの部から選ばれた理事だけが会務を運用し、会長・副会長は理事会に公的発言権を有せず、大所高所に立って音楽文化全般を指導するという立場からは遠ざかっていた。今回の改正は、職域奉公を徹底させる意味で職能組織を尊重してはいるが、職能人が音楽文化全般の指導権を独占することによって生じる弊害を避けられるような構成に改め、役員もそれに応じて選任したものであると思う。定款の改正によって、会長・副会長は理事の資格が生じ、多種文化団体からも参与理事を出し、5つの職域を代表した5人の常務理事制は廃止された。職域代表である理事の数は減少して、会長指名による理事が全般的な立場から理事会に望むこと組織となった。新役員には評論家が多いが、各職能代表を均等に出すという構想を持っていない結果である。日本音楽文化協会の今回の改革が多年楽壇にはびこる利己主義・個人主義を徹底的に破砕し、楽壇の隅々にまで滅私奉公の意気を漲らせるよう切望する。■慶祝交響楽団の渡満■満洲国建国10周年慶祝のために日本音楽文化協会は満洲国政府の依頼により交響楽団を派遣することとなり、その編成を演奏家協会に一任し、すでに44名の学院が満洲に向けて出発した。この楽員たちは新京音楽団の学院とともに合同の交響楽団を組織し、山田耕筰の指揮の下、新京・ハルピン・奉天・撫順・鞍山・大連で演奏して1942年9月下旬に帰還予定。渡満した楽団員のうち19名は、満州に残って新京音楽団に加わることになっている。44名の中には斎藤秀雄、橋本鑒三郎、大中寅二、黒柳守綱、上田仁、宮田清蔵その他が含まれている。今の日本楽壇の実力から言えば、内を固めることに専心すべきであるが、共栄圏全体の音楽文化を指導する任務は日本の楽壇に負わされるのだから、東亜楽壇に援助の手を差し伸べなくてはならない。満洲開拓において日本は「分村運動」が行なわれている。これは日本の一つの村の一部分がそっくり満洲開拓地に集団移住を行なうことだ。わg楽壇も満洲開拓のための分村を必要とされている。■国民文化賞の制定■期限2600年奉祝芸能祭を主催して楽壇にも多大の激励を与えてくれた日本中央文化聯盟(会長・小山松吉、理事長・松本学)は、今年から大東亜圏全体に向かって日本芸能文化を宣揚する大計画を立て、芸能祭のかわりに創作奨励の具体案を実施していくこととした。邦楽・舞踊の方面では、長唄・三曲・舞踊に創作コンクールを行なうこととなる。また「国民文化賞」を制定して一年間における優秀な作品または上演に対し受賞することになっている。■字音仮名遣いの改正と楽譜■蝶が「テフ」、寵が「チョウ」、聴が「チヤウ」、調が「テウ」といった仮名遣いに悩まされてきた。今回、字音仮名遣いがあらたに制定されて漢字のふりがながほとんど発音どおりになったので安心した。新しい字音仮名遣いのありがたいことは、楽譜の中へ書く歌詞の仮名がだいたい発音どおりになることである。これまでの古典的字音仮名遣いが無理だったのだ。音楽家にとっては、歓迎すべき改正である。■青砥道雄ビクターを去る■1942年7月17日付の挨拶状で、日本ビクター学芸課長青砥道雄が会社を円満退職し、財団法人科学動員協会へ入った旨の通知があった。青とは1926(大正15)年3月東洋音楽学校を卒業、すぐ母校の庶務主任となり、同年10月堀内敬三とともに放送局入りした。1929(昭和4)年ビクターに入社、文芸部長岡庄五の下で働き、岡が映画界に転出した後もビクターに勤続し今日に至った。青砥は、岡とともにビクターの黄金時代を築き、草創期の洋楽放送を軌道に乗せ、ヴォーカルフォア(現・日本合唱団)発足当時のすべての事務を処理し、『月刊楽譜』の発展に努め、藤原歌劇団を確立させた。江木理一は軍楽隊から転じてラジオ体操の草分けとなり、梅津勝夫は音楽評論家から機械化国防協会の首脳部に入り、山口隆俊は合唱指導者から軍需工業に全努力を傾けている。青砥も国家的な科学動員統制機関の一員として充分に腕を振るうであろう。■替唄■この前国民合唱に出た《南へ進む日の御旗》は、小山作之助の軍歌《千引の岩》に堀内があらたに歌詞を配したものである。これについては、作曲者は原歌詞によって構想し作曲するのだから、あとから別の歌詞をつけるのはよくない、という意見を聞いた。詞曲不可分論である。しかし実際はそうではない。小山の《敵は幾萬》は、後の小山が出した曲集には《進め矢玉》という別な歌詞が当てはめられている。同じく小山の《夏は来ぬ》は、小山自身が作詞作曲した《金魚》という曲に佐々木信綱の新作歌詞を配したものである。ほかにも例があるように、唱歌曲においては歌詞と曲は不可分ではないのだ(はじめから歌詞と曲との関係を密接にして作られた芸術歌謡がこの類型に入らないことはもちろんである)。■碓井貞文の訃■十字屋総務部長碓井貞文は1942年6月25日死去した。いつも十字屋の2階の部屋で執務をしていて、楽譜やレコードのことをきくとすぐ探してくれた。自分の職務のために粉骨砕身した人であった。
【2002年7月15日+7月16日】
歌劇「ファウスト」偶評岡山準三(『音楽之友』 第2巻第9号 1942年09月 p.65-69)
内容:先月《トスカ》を見て今月また《ファウスト》を見られるとは、さすが大東亜の盟主日本であると思う。今回の《ファウスト》は日本合唱団(旧称ヴォーカル・フォア)創立15周年を記念して上演された。藤原歌劇団などは日本合唱団の地味な縁の下の力持ち的援助がなかったら、今日のような成長を見せなかったかもしれない。ところで、創立15周年を迎えたのなら、もう少し上手な合唱団になっていてもよかろうにという不平を言いたい。《ファウスト》を取り上げた理由が仮に合唱が割りに多いからだとしたら、当事者の意図はわかるが、このオペラはそんなに易しくない。/《ファウスト》を見て、全体的にどうであったか? 歌も衣装も装置も演出も、全体的にチャチでグノーの《ファウスト》の悪いところばかり目立った。パリのオペラ座の上演目録中、このオペラは最もオペラらしいオペラといわれている。何がそんなにフランス人を喜ばしているかといえば、マルグリットの<庭の場>である。これは、あらゆるオペラのうち最もすぐれた場面である。ところが、今回の<庭の場>を誰がすぐれた場と思ったろうか? あれでは否定されてもっともである。では、どうしてこの場がチャチに見えたのだろうか? まず視覚的に言えば、舞台装置である。三林亮太郎の装置は、いままで割りと無難であったが、今回は良くなかった。特にこの場の装置はひどく、あれでは少女歌劇のそれである。それから井戸というのは、どういう考えだろうか? そしてまたマルグリットが如雨露で水をやったり、井戸のツルベで水を汲みながら歌うというのもどうしたものだろう。/また、今度の演出では、歌うときに動きすぎる(居場所を変えて歩きすぎる)。従来無視されてきた演技指導を専門家に依頼したのは今回の演出の一進歩であるが、青山杉作ではオペラ的演技は望めまい。/出演者のうち、マルグリットの大谷洌子と瀧田菊江について。大谷は歌唱にすぐれていたが容姿が貧弱だった。一方瀧田は恰幅は適役ながら歌はひどかった。男装の麗人ジイベルは三人替りで演じたが、なかでは瀧原栃子をとる。新納一枝、梅田幸子は同程度か。ファウストは藤原義江一人で歌ったが、成績は良くなかった。板についていないのである。メフィストの内田栄一はミス・キャストといったほうがいいかもしれない。日比野秀吉と留田武が演じたヴァランタンデは後者を取る。富田義助と村尾護郎のワグナーは同程度の落第。マルトの小森智慧子と金子多代は甲乙なし。及第か落第かのカスカスの線を行き来している感じだ。合唱は、もう少し立派で堂々としていてほしかった。バレエは益田隆舞踊団で、多くの難はあったが成功と思う。全体のレヴェルからいって「上」の成績だった。/グランド・オペラの上演はなかなか難しい。そして《ファウスト》はそれほど易しくないということだ。やるなら日頃からの勉強が望ましい。
【2002年7月18日】
ナチス青少年団の音楽的教養<国際音楽情報>津川主一(『音楽之友』 第2巻第9号 1942年09月 p.74-78)
内容:ヒトラーは新体制を樹立するために青少年をも利用としているのではないかと考えるのは浅薄な見方である。新しいドイツを建設しようとする、この未曾有の民族運動を確立するまでの闘争史上に、15〜18歳までの少年がすでに21人血を捧げた。今日ナチスドイツがその若い世代に異常な関心を示し、彼らに対する教導と保護とに心酔し、やがてドイツの運命をその双肩に負わそうとしつつあることは、むしろ当然なことではないか。/現代のかたちのヒトラー・ユーゲントが組織化されたのは1933年で、(1)ドイツ少国民部(10〜14歳の少年)(2)ヒトラー青年部(14〜18歳の青年)(3)ドイツ少女部(10〜14歳の少女)(4)ドイツ女子青年部(14〜21歳の女子)の四部から成立していた。この組織を完成されたのはバルドゥール・フォン・シーラッハであったが、さいきん彼はウィーンの支部長兼オーストリア都督に栄転、アルトゥール・アックスマンが後を継いだ。/1935年、シーラッハは全国青少年指導本部に文化局を設け五課を置いた。1939年3月に放送局が廃止されると、文化局を六課にし、政府直属の文化院の縮図のようにした。六課とは(1)音楽課(2)造形美術課(3)文学課(4)祝典・団欒課(5)演劇・舞台芸術課(6)放送課を指す。このうち音楽課は青少年団の音楽上の事業を掌る。まず歌謡運動として公開の唱歌会を行なう。楽器の方面でも活動し、毎年開催されるヒトラー・ユーゲントの音楽祭にはドイツの青少年が作った作品中もっとも優れた曲を巨匠の作品と一緒に演奏させる。/文化局の指導下に文化勤労Kulturarbeitと称する一組織があり、主に祝祭日や青少年団の休憩時などにもっとも有効な文化活動をする。この文化勤労は芸術文化に対する正しい知的理解をすすめるたねの訓練を行ない、また「若き創造」を鼓吹する。文化勤労を実行に移していくためにヒトラー・ユーゲント催物聯盟が作られている。この新時代の青年に相応しい闊達、躍動的な趣味は、スポーツと音楽でなければならない。一方は肉体的発達に寄与し、他方は精神的再生に力を及ぼす。そのためヒトラー・ユーゲントは、あらゆる機会に音楽を活用するようつとめている。/ヒトラー・ユーゲントが音楽的訓練を行なう理由は少なくとも3つある。
  (1)音楽教育を普遍化することにより専門音楽家、さらにドイツの国民音楽を新しく創造する天才的音楽家を見出し、これに
     助成をする。
  (2)喜びつつ労働し、作業することを経験し習慣づける。
  (3)各自その分を達しつつ、また互いに協力一致して全体を完成しようとするナチス精神は、音楽における合奏や合唱の規範
     と一致する。
ドイツ全土にある青少年塾Heimの団欒時、行進のとき、ハイキングのとき、野営のときなど音楽が用いられていることが記述されている。こうした訓練は1936年夏の第11回オリンピック大会で見事な結実を見せた。ヒトラー・ユーゲントは路上や街の広場で自分たちの新作の歌曲を市民たちに教える。また民族の誇りである楽聖由縁の家を訪ねて、そこで演奏することもある。青少年のための放送時間は常に特設されている。さらに政府は1936年、「国民及び青年のための音楽指導者養成所」を設立し、1939年現在、すでに100名の専門音楽家を輩出し、目下100余名が入所中である。また国家は青年のための音楽学校設立の必要に迫られている。健全な娯楽としての音楽にとどまらず、1000万の若いドイツ魂の中に食い入った音楽は、早晩未曾有の音楽的収穫を世界の芸術市場で収めるときが来るであろう。
2002年8月8日
伊太利に於ける音楽国民主義 ―― 伊太利の音楽政策(5)松本太郎(『音楽之友』 第2巻第9号 1942年09月 p.79-84)
内容:国民性を喪失した音楽(たとえばストラヴィンスキーの《カルタ遊び》)は魅力がない。祖国をもつ作品こそ国境を越えて生命をもつ。極言すれば、日本の作品が国境の外でその光輝を発揚できない理由は、日本作曲界が未だ力強い国民主義音楽の開花に至っていない低い段階にいるからだといえるだろう。/ヨーロッパ大戦後の社会不安の際、イタリアは赤化思想によって混乱し、過去のすべてのものを破壊しようとした。それに対して立ち向かったのがムッソリーニ率いるファシストであった。ファシストは、その思想的根拠を国民主義におき、新しいイタリアの建設に邁進した。ファシスト政権は政府として定める法令その他によって、またしばしば党として、あるいは時にはムッソリーニのイニシャティヴや命令によって作曲、歌劇上演、交響楽および民衆音楽の奨励とその向上策を熱心に計画し、実行してきた。それらの中に表れた国民主義的施設と政策の重要な項目を要約するならば、
 <A>歌劇
   (1)上演曲目中イタリア作品のパーセンテージを増加すべき規定
   (2)現代作曲家の作品上演の奨励
   (3)歌劇作曲コンクール
   (4)外国人歌手雇入れに対する制限
   (5)コンクールによる歌手の登用
   (6)優秀な若い歌手と識者の保護・教育
   (7)歌手のための実験的劇場の設立
 <B>純音楽
   (1)演奏会曲目の少なくとも2分の1はイタリア作品で編成すべしとする文部省の布告
   (2)作曲モストラの開催
   (3)各種の作品コンコルソ
   (4)政府、ファシスト党、ムッソリーニによる純音楽演奏会の奨励
ここでいう「新生命」がウルトラ・モダンや前衛的傾向を意味しないことは注目に値する。/すでに1933年、レスピーギ(ローマ・サンタ・チェチーリア音楽学校校長)、ピツェッティ、ザンドナイなど当時のイタリア音楽界の重鎮で政府からも重きを置かれている10名の作曲家が『モダニスト排撃』の宣言書を発表した。そこで批判の対象となったのはカゼッラ、マリピエロ、リエーティらであった。レスピーギらは彼らを20年来伝統を破壊するための美学的信条が主張され、実行されたが、それらは人々を当惑させ、純粋な反応力を麻痺させて、そこには機械的なプランと知的詭弁があるのみと攻撃した。/こうした新しい方向への行き過ぎを否定する音楽的要素は、過去への復帰の道を選んだ。かくして音楽家は過去の作品の復古演奏と新しい伝統主義の作曲に精進しつつある。その1930年代の主要な活動を概観すると、
 <A>過去の作品の復古演奏
   (1)サクラ・ラップレサンタツィオーネ(一般に「神秘劇」と呼ばれる)の上演
    * 《サンタ・ウリヴァの劇》(附属音楽:ピツェッティ)、《アブラハムとイサク》(ピツェッティ編曲ならびに作曲)の上演
   (2)ラウダの復活演奏
    * フェルナンド・リウッツィ編曲
   (3)15世紀から16世紀にかけてのメディチ家統治時代の音楽演奏
   (4)アンドレア・ガブリエリのオペラ《エディプ王》上演(リウッツィ編曲)
   (5)16世紀ヴェニス派音楽家の作品演奏会
   (6)マントヴァ宮廷の寺院合唱長オラツィオ・ヴェッキのマドリガル形式喜劇《アムフィパルナソ》上演
   (7)モンテヴェルディの作品演奏
    * マリピエロ編曲のマドリガル、歌劇《タンクレディとクロリンダの争い》(アルチュオ・トーニ編曲)、歌劇《オルフェオ》(マリピエロ編曲)、歌劇《ポッペアの戴冠》(ベンヴェヌティ編曲)
   (8)カリッシミのオラトリオ《ヨナ》(ラックリーア編曲)
   (9)ヴィヴァルディの作品
    * 歌劇《オリムピアーデ》、《スタバット・マーテル》、《グローリア》、《クレド》、モテット、ヴァイオリン(1つ、2つ、4つのための)協奏曲、シンフォニア、各種の楽器の組合わせによる協奏曲、コンチェルト・グロッソ
   (10)ガルッピの《田舎哲学者》
   (11)チマローザ《イムプレサリオの試練》(アルチュオ・トーニ編曲)
   (12)ほか
 <B>古い伝統による新作品
   (1)サクラ・ラップレサンタチオーネ形式に霊感を得た作品
    * ニノ・カットッツィの歌劇《苦悩的な神秘》、レスピーギの歌劇《エジプトのマリア》ほか
   (2)ラウダの形式によるもの
    * ダッラピッコラの《3つのラウダ》、グェリーニのオラトリオ《マドンナの悲しみ》
   (3)室内オペラの作曲
    * カゼッラ《オルフェオの愛人》、ルアルディ《ラ・グランチェオーラ》、カサヴォラ《ドン・ジョヴァンニの黎明》、ファリャ《ペドニ師の祭壇》、マリピエ《パンテア》、ヴェレッティ《小さいマッチ売り娘》、リエーティ《森のテレサ》、クルジェネーク《チェファロとプロクリス》
   (4)室内バレー
    * ピツェッティ、レスピーギ、アルファーノ、ピック マンジアガルリ、ヴェレッティ、サントリキード、ソンツォーニョ、トーニらの曲
以上のことから、為政者が音楽の行くべき道に対する理解ならびに努力と音楽家自身の自覚ならびに努力が相俟って確固たる目的に向かって進展がなされつつある状態を知る。
【2002年7月23日】
今井慶松<楽界人物素描>麻布町人(『音楽之友』 第2巻第9号 1942年09月 p.85)
内容:今井慶松が帝国芸術院会員に推薦された。山田耕筰青年や信時潔中年に対して大日本三曲協会の席に納まって時々《新ざらし》の類を放送している今井老とのコントラストは、いかにも変である。今井は本名・新太郎、明治4(1871)年3月25日生まれだから今年で72歳[数え年 小関注になる。身だしなみの綺麗な老人で、東京音楽学校に筝曲が選科として取り上げられていた当時の教授である。御前演奏もしたことがあり、従四位勲四等の肩書きを持っている。今井の師匠は当時の山田流筝曲の大御所山勢松韻で、東京音楽学校の前身、音楽取調所の開設にも貢献した人である今井はその後を承けたのであるが、先輩には萩岡松敬がいた。二人はライバルとして張り合ったが1935(昭和10)年に萩岡が73歳で没してからは今井の一人天下となった(その当時の今井は逆境時代で邸を手放し、自動車も売り払うという状態だったが、その後上向いた)。大日本三曲協会が設立されると会長に選ばれ、1942年の役員改選期にも重任した。今井の技能は華麗の二字に尽き、世間では《新ざらし》を大騒ぎするが、誠にたわいない演奏のテクニックだけで聞かせるものである。スタッフには優秀な人材がいる。中能島欣一は次代を背負ってたつべき人で、現在東京音楽学校教授、ほかに吾孫子松風、伊藤松超らがいる。
【2002年7月24日】
有坂愛彦<楽界人物素描>千葉利江(『音楽之友』 第2巻第9号 1942年09月 p.86)
内容:JOAK音楽部副部長の有坂愛彦がしばしばいう「放送音楽は所詮穴うめである」という言葉を考えてみなければならない。有坂がJOAK音楽部の実権を握ったのは、1942年7月29日に休職中だった音楽部長太田太郎がきっぱり退職してからのことではない。1940(昭和15)年の秋に副部長になった時からではないにしても、太田部長が病気欠席の1ヵ年、少なくとも休職になってからの半年は、有坂の意志によって賄われたと見るべきであろう。/たとえば《大東亜戦争行進曲》のような軍国歌謡による大管弦楽編成の大行進曲を流し、国民合唱と平行して新作二部合唱曲の発表をし、厚生音楽の募集をし、《蛍の光》をロックアウトし、外国人出演者を整理し、楽曲の選択をし、音楽部員の受持ち担当を変更し、放唱の改善を行ない、日響を改組するなど大戦下刻々と変わる情勢と睨み合わせて実行に移してきた。その間、有坂は部長代理として彼の判のない伝票は通用しないほどに、絶対権をもってきた。/しかし音楽部の活動は彼の思い通りの方向へは向かわなかった。昔からの音楽部の無統制は相変わらずで、そのうえ放送協会上層部の相克は、新しい音楽部長を任命するか、あるいは音楽部を解消させるかといった問題を起こし、くわえて監督官庁の意向もあって彼の仕事も相当以上に曲げられた。/有坂は大戦下放送事業の国策第一主義に協力した放送音楽の意義をもって輝くか、あるいはいじめ抜かれて捨鉢的な穴うめとなるか、いかに処していくか。既に有坂はレコード音楽の権威で新聞雑誌で月評を受け持ったりしているが、そのことから純音楽を知らないというレッテルを貼られて音楽部の人の和を得られない一因をなしたようだった。しかし大戦下全放送の約5割がレコードで埋められ、有坂がレコード音楽の権威であることが、よき助力者を得て、存分に力を発揮させた。
【2002年7月26日】
軽井沢便り福井巖(『音楽之友』 第2巻第9号 1942年09月 p.100-101)
内容:長野県の軽井沢には古くから外国人が経営に当たってきた「軽井沢避暑団」というものと、日本人有力者の集まりから発した「軽井沢集会堂」がある。今日まで両団所属会員の協力によって、軽井沢特有の清楚な伝統を維持しつつ、病院、庭球倶楽部、集会場、図書博物室、夏期学校などを運営してきた。一昨年[1940年]の夏より両団体合併の機運が起こり、長野県当局と厚生省の取り計らいによって1942年7月16日、新しい財団法人「軽井沢会」が誕生した。/「軽井沢会」では過去、幾年となく夏の火曜日に続けられてきた「火曜音楽会」を行事の一つとして引継いでいくことになった。新年度から山本直忠が音楽部部長として認可され、1942年7月28日(火)歴史的意義のある「火曜音楽会」を所属の集会堂で催した。プログラムは国際文化振興会の提供により、日本の現代の音楽文化を外国人に紹介する目的で次のようなものだった。
   1.ハイドン 《弦楽四重奏曲 ひばり 作品64》
   2.尾高尚忠 《弦楽四重奏曲 作品10》
   3.鈴木二三雄 弦楽四重奏曲《組曲 〈紫〉》(テノール独唱: 奥田良三)
   4.ベートーヴェン 《弦楽四重奏曲第4番 ハ短調 作品18-4》
   演奏:東京四重奏団(黒柳守綱、寺田豊次、田中秀雄、橘常定)
一昨年の夏ころから国際情勢の変化に伴い、軽井沢もドイツ人が外国人中多数を占めてきた。したがって外国人を対象とする日本文化の紹介宣伝も自然ドイツ人に趣が集中されてくる。当日も、相当長い尾高作品を終始緊張して聴いてくれたし、鈴木作品(弦楽四重奏付歌曲)は聴衆も楽しんだらしい。この作品はレコードがあるが、今発売されているかどうか尋ねて帰った外国人もあったという。東京四重奏団と奥田良三は熱演であったし、国際文化振興会理事長永井松三も来軽して挨拶をした。その中で永井は、ドイツではいろいろな集会で音楽演奏が行なわれ大きな役割を果たしていることを強調した。/第2回以降の「火曜音楽会」は概略次のとおりである。
◆第2回(1942年8月4日夜)  ホームコンサート
 独唱: 天方陽一郎、金善仁/ピアノ独奏: 小池ユキ(リスト《リゴレット・パラフレーズ》)/作曲:山本直忠 ピアノ曲《希望》(演奏:山本直純[10歳]=変奏曲第1、および第3)
◆第3回(1942年8月11日夜)  優秀演奏紹介
 独唱: 平井奈美子(日独伊歌曲)/ピアノ独奏: 織本孝子(ブラームス《ラプソディ》、ベートーヴェン《ソナタ》)/合奏: 福井直弘、福井栄子(モーツァルト《ソナタ》)
◆子供音楽大会(1942年8月17日午後3時30分)
 作曲発表(ピアノ曲): 羽仁結子、山本直純、羽仁脇子/ヴァイオリン独奏: 羽仁脇子(バッハ《コンチェルト》)/合唱: 夏期学校生徒一同/合奏: シューベルト《軍隊行進曲》
◆第4回(8月18日夜)  優秀演奏紹介
 独唱: パウエル(ブラームス、ヴォルフ)、タウバー夫人(シューマン、シューベルト、ブラームス)/独奏: 黒田睦子(ショパン《ワルツ》、リスト《ハンガリアン・ラプソディ》)、ブッチェル(自作自演)
◆厚生音楽大会(1942年8月20日夜)
 財団法人軽井沢会、軽井沢町会、交歓演芸大会
◆第5回(1942年8月25日)
 ピアノ独奏: 松隈陽子/ソプラノ独唱: 毛利/合唱: 軽井沢会合唱団、山本直忠(指揮)
【2002年8月3日】
世紀に於る音楽の悩み<告知板>片山頴太郎(『音楽之友』 第2巻第9号 1942年09月 p.102)
内容:音楽は今日盛大であるとの観測も成り立つ一方で、音楽者は作曲家、演奏家、教育家、批評家を問わず悩んでいるともいえる。歴史の転換期だといわれ、一世紀が1年で事を果たしたなどとも言われるような急激な変動は芸術の動向にも刺激を与える。大東亜時代は、まず軍事政治からその尖端が切り開かれ、文化はある「ずれ」をもちつつその後を随行し、やがてある平衡に到達するのであろう。この「ずれ」から受ける抵抗感が悩みとなってあらわれるのだろう。/しかしこの悩みは日本だけのものではない。ドイツのような高度文化芸術の国でも1930年頃から転換への動きが見えたが、ナチスによる「芸術浄化運動」はその顕著なものであった。初頭音楽教育における固定ド法から移動ド法への転換の意味も文化の転換と結びつくのである。すなわち固定ド法は半音階の氾濫から無調音楽への声楽の方法的側面援助であったのに対し、移動ド法は「渡り鳥」に端を発し「青年運動」に発展した芸術の健全大衆化傾向に呼応する方法基礎である。/声楽家の悩みのもっとも顕著なものの筆頭にあるのは、歌詞の国籍問題である。今日まで芸術唱歌は原語で歌われるべきものとなっていたが、これが国民への浸透の障害となっていた。今日言語という利器をもって最も先端的に行動することを期待される声楽家が、それほどにも動き得ないのは邦語歌詞への関心が少なかったからである。邦語歌詞は流行歌の歌詞と同義語ではない。/ひとつ声楽家の死活問題を考えると作曲、作詞、文芸、思想の一環が逐次に糸を引く。声楽家の問題は他の文化問題と連繋して考えられねばならなくなる。
【2002年7月28日】
邦楽の不思議<告知板>青柳茂三(『音楽之友』 第2巻第9号 1942年09月 p.103)
内容:ある日、富士和洋管絃楽団団長の近藤信一がAKのスタジオで邦楽大家連の合奏を聴き、お互いに遠慮しあっていて、あれでよく呼吸のあった合奏ができるものだと不思議がっていた。これは三曲についての話だったが長唄の場合でも同じことが言えるかもしれない。師匠や先輩と合奏するときは遠慮するし、他派の方々との合奏は各自が妙な具合に譲り合う。指揮棒一本で全楽員が出る管弦楽を見ると、何かしら邦楽の中に不思議があるように思える。ここで編成の小さい室内楽と邦楽の合奏のどこに違いがあるか考えてみる。長年にわたる師弟関係が邦楽の合奏方法を独特のものとしたのか、あるいは長唄の場合、唄と三味線の主従関係が合奏を不思議なものにしたのか。単純な形式から邦楽が一歩も出ないのであれば、このままでもよいであろうが、たとえ小編成であってももっと複雑なものになっていくとすれば、邦楽の不思議などと言っていられない。/そうなれば邦楽の制度の改組はもちろん、演奏方法も楽譜によるところまで行かねばならないだろうし、音程や洋楽器との合奏のことまで考えれば楽器それ自身の改良にまでさかのぼって最初から出直すくらいの覚悟を持たなくてはできない。/AKでは先般より「邦楽研究会」を組織して、これらの問題と正面から取り組んだ。杵屋宇太蔵の「国民長唄の会」も回を重ねるごとに新しく正しい境地を教えてもらえるものと待望されている。青柳も楽譜のこと、合奏方法等の改良について考えている。
メモ:筆者の芸名は杵屋彌之介。
【2002年8月1日】
大陸情報澤田稔(『音楽之友』 第2巻第9号 1942年09月 p.115-118)
内容:上海には東洋で歴史の古い管弦楽団として知られる、上海工部局管絃楽団があったが、今次の大戦が勃発して以来工部局が赤字財政となり経営困難となり、楽団危機が報道されるにいたった。この期に日本の軍、官、そして邦人有力者の後援を得て、同楽団は工部局と縁を絶ち、新たに財団法人「上海音楽協会」の傘下に改組、新発足することとなった。■上海音楽協会の誕生■結成された財団法人「上海音楽協会」の役員は次のとおり。会長 : 堤孝(在華日本紡績同業会)、 常務理事 : 山田明(日本ビクター)、 理事 : 川喜多長政(中華電影公司)、岩崎愛二(上海放送局)、尾坂與市(大陸新報社)、福田千代作(上海居留民団長)、中村正明(上海交響音楽同好会)、 顧問 : 伊藤隆治(興亜院華中連絡部文化局長)、鎌田大佐(支那方面艦隊報道部長)、横山大佐(支那派遣軍上海報道部長)、川崎寅雄(在上海総領事館情報部長)、大家吾一(興亜院華中連絡部政務局) 職員 : 清水亘(主事)、高木辰男(主事補)、関文雄。協会は旧工部局交響楽団全員を新しく採用し、日本関係当局の認可団体として誕生。毎月租界と虹口(邦人密集地帯)で定期演奏会を開催するほか他の公演も催し、現地音楽文化の普及発展のために国民学校や各学校に協会員が出張して音感教育を施すなど行なうこととなった。1942年6月18日、アスター・ハウスで協会結成の披露カクテル・パーティが開催され、同夜続いて租界南京劇場で第1回演奏会を行なった。■旧工部局楽団■上海工部局は1870年に吹奏楽団を組織し、その20年後にこれを管弦楽団に改めた。シーズン中は主にフランス租界のライシャム劇場で、毎日曜日定期公演が続けられた。夏季はゼスフィールド公園やフランス公園などで野外演奏も行なう一方、冬季シーズンにはロシア・バレーの伴奏を行なうなど活躍してきた。同楽団は楽団員個々には優れた技量をもった者がいるが、厳正な批判が行なわれなかったこともありオーケストラとしての向上発展のためには不勉強だったといえる。■新楽団の陣容■正指揮者 : マストロ・マリオ・バッチ 第1ヴァイオリン(8) : アリゴ・フォア(コンサートマスター)、ゲルゾウスキー、ゲノッチー、タルノポルスキー、アドラー、タファノ夫人、ベツリニ、ヴァレスビー嬢 第2ヴァイオリン(8) : リフチッツ、フレンケル、ハアトマン、シュツゾフ、リスキン、スティナー、チェン、マァオ ヴィオラ(4) : ポドスカ、フォームソン、ラウヂル、高木 チェロ(4) : アンドレーフ、ベリゲッティ、シラー、ストッペル コントラバス(3) : デレフケ、ウシスキン、ベロフ フルート、ピッコロ(3) : ジラルデロ、ペチュニック、イン・レオン クラリネット(2) : ペエルニク、スピッテル バス・クラリネット(1) : プレヴァ オーボエ(2) : ギラルデロ、ジオニ イングリッシュ・ホルン(1) : シェリチェフ バスーン(2) : フォーティナ、カリボ ホルン(3) : ブランチニ、サンドリニ、ゼリンスキー トランペット(3) : ドブロボルスキー、バッケフ、ワン トロンボーン(3) : セウチック、エンダヤ、チャルニコフ チューバ(1) : マルキタン 打楽器 : ジェルヴァコフ ハープ、チェレスタ、ピアノ : ピリウリン。■指揮者バッチ■正指揮者マストロ・マリオ・バッチは1878年、フローレンス生まれ。幼少からピアノを学び、10歳のときナポリ音楽学校の独奏会に出演してデビュー。その後ミラノで作曲法と管弦楽法を学ぶ。のち、イタリアの歌劇場でトスカニーニのアシスタント・コンダクターを3年勤め、世界演奏旅行に出る。1919年上海で演奏会を催し、モーツァルトの《戴冠式》やベートーヴェンの《皇帝》を弾き振りして大好評を博す。これがもとで上海にとどまるよう要請され、工部局楽団の第三代指揮者となる。以来23年、演奏を続けた功績は認めるべきである。■邦人の楽人■協会の役員にしてヴィオラ奏者の高木辰男は長崎出身、東洋音楽学校を経てハルピンでヨーゼフ・ケーニヒに師事しながら音楽家として活躍。工部局楽団には1934(昭和9)年より唯一の日本人として参加。今回の改組に当たっては寝食を忘れ、会長を補佐した功績は特筆すべきものがある。■協会の事業計画■協会が発表している計画は次のとおり。(1)楽士の増員(9月までに70名以上にし、量的世界一の交響楽団とする)(2)音楽院の創設(器楽、声楽家の育成を目的として9月に開設)(3)舞踊学院の創設(日本舞踊、共栄圏舞踊を音楽院と同時に開設)(4)合唱団と舞踊団の編成(中国人男声、女声核150名)(5)国際舞踊団を常設の方針(6)琴、尺八と交響楽の合奏を開催予定(7)コンクールの開催(声楽、ピアノ、ヴァイオリンのコンクール、以後毎年1回)。しかし、いささか間口を広げすぎたきらいがあり、まずやるべきことは楽員の増員、楽器・楽譜の補充・強化、放送事業への参加、演奏旅行、指揮者・演奏者の交換演奏である。このように既成の楽界の進展を期し、そののち無形のものの創造を計画すべきであろう。なお、さいきんの楽団の演奏曲目を挙げると次のようになる。
   △1942年5月31日夜(ライシャム劇場) 工部局訣別演奏会(指揮:バッチ)
    1.モーツァルト《ピアノ協奏曲[第26番]ニ長調》(ピアノ独奏:バッチ)
    2.ベートーヴェン《ピアノ・ソナタ ニ短調》(ピアノ独奏:バッチ)
    3.ブラームス《交響曲第1番ハ短調》
   △1942年6月18日夜(南京劇場) 音楽協会結成披露演奏会(指揮:マリオ・バッチ)
    1.ワーグナー《タンホイザー》序曲
    2.ベートーヴェン《交響曲第6番 田園》
    3.サン・サーンス 交響詩《ラ・デレーデ》(弦楽合奏)
    4.サン・サーンス 交響詩《ダンス・マカブル》(ヴァイオリン独奏:フォア)
    5.箕作秋吉《シンフォニエッタ》より<サラバンド>
    6.ボロディン《イーゴリ公》より<舞踊組曲>
   △1942年6月30日夜(上海、劇場) 虹口第1回演奏会(指揮:アリゴ・フォア)
    1.ムソルグスキー 歌劇《ホヴァンシチナ》序曲
    2.ドヴォルザーク《交響曲 新世界》
    3.瀬戸口藤吉《軍艦行進曲》
    4.江文也《台湾舞曲》
    5.リスト《ハンガリー狂詩曲第2番》
    6.瀬戸口藤吉《愛国行進曲》
【2002年8月13日+8月16日】
音楽会記録唐橋勝編(『音楽之友』 第2巻第9号 1942年09月 p.126)
内容:1942年7月11日〜1942年7月31日分(→ こちら へどうぞ)。
[すでに2002年7月12日、「年表・インデックス」の‘音楽会記録’にサイトアップしていました m(__)m]
【2002年8月21日】
楽界彙報(『音楽之友』 第2巻第9号 1942年09月 p.126-127)
内容:記録 ■国際青年隊行進曲当選決定■大連の国際運輸株式会社で懸賞募集中だった国際青年隊行進曲は、佐々木四郎が入選、名倉晰と小中春次が選外佳作と決定発表した。■「海行く日本」当選発表■東日大毎が海務院と協力して懸賞募集中の《海行く日本》の作曲当選者は細川武夫と決定、1942年7月16日夜共立講堂で発表会が開かれた。■レコード文化協会で委員会構成■日本蓄音機レコード文化協会では、このほどレコード関係者、関係官その他学識経験者からなるレコード企画審査(37名)、音楽専門(40名)、邦楽演芸専門(19名)、教養学校専門(21名)、製造業整備(21名)、販売機構整備(30名)、資材等(26名)の7部門からなる委員を会長の委嘱によって決定した。■邦楽作詞家■長唄、清元、常磐津、義太夫、筝曲、新内、歌沢、小唄、琵琶その他一般邦楽および日本舞踊の作詞をなすものを糾合して、国際文化振興会、芸能文化聯盟、邦楽協会、大日本舞踊聯盟、大日本音楽著作権協会の協賛のもとに邦楽作詞家協会が結成された。この協会は大成翼賛、臣道実践の理念に基づき活発な邦楽舞踊歌詞の創作運動を展開し、あわせて邦楽舞踊の醇化育成を図ることを目的として、歌詞の創作提供、優秀作品の推薦授賞、図書の出版、邦楽家作曲家舞踊家およびラジオ、レコードなどに対する文芸的協力を行なう。1942年7月25日午前11時より東京丸ノ内会館で発会式を挙行した。発会当時の主な役員は次のとおり。委員長: 長井金介 常任委員: 石井國之、池谷作太郎、江口博、田巻敏夫、細井雀郎。■民謡歌手競演推薦入選決定■大日本民謡協会では文部省、情報局、大政翼賛会後援のもとに1942年7月26日、京橋区木挽町の朝日倶楽部で民謡歌手コンクールを開催した。八並大政翼賛会宣伝部長、小山文部省社会教育局文化施設課長ほか官民による審査顧問の審査の結果、齋藤琴月と上野翁桃が推薦され、林崎清が入選第1席、渡邊旭笙が同2席、吉岡儀作が同3席と決定した。■日本文化中央聯盟国民文化賞を制定■財団法人日本文化聯盟では国民文化振興のため各種事業を行なうこととなり、各関係官庁および団体の各係員を委員とする審査委員会を1942年7月29日午前11時レインボーグリルで開催した。従来の芸術祭の名称を廃し、音楽、舞踊、演劇、映画にわたって国民文化賞を制定することとなった。[小関注: 小見出しでは日本文化中央聯盟、本文では財団法人日本文化聯盟とある。]■大日本合唱競演会課題曲決定■1942年11月23日に日比谷公会堂で開催される予定の、国民音楽協会主催の大日本合唱競演会の課題曲が次のように決定した。<男声>山部赤人歌、成田為三作曲《不盡山のぞみて》 <女声>矢田部勁吉訳詞、ブラームス作曲《琴の音冴えて》 <混声>三木露風詩、長妻完至曲《早春》■日本交響楽団機関誌改題■新交響楽団より引き継いだ機関誌『フィルハーモニー』は『日本交響楽団誌』と改題して続刊されることとなった。■文部省の推薦レコード■次のように決定発表された。<第6回>童謡《あヽ九勇士》(橋本善三郎詞、山本芳樹曲、狩谷和子、望月節子演奏 コロムビア)<第7回>歌曲《健歩》(風巻景次郎詞、内田元曲、鈴木静一編曲、卓声会男声合唱団演奏 ビクター)。 消息 青砥道雄 日本ビクターを辞し科学動員協会に入る。/磯野嘉久 日本ビクターを辞す。/松雄要治 日本音楽文化協会主事に就任。/高折宮次 大森区雪ヶ谷町70へ転居。/桂近乎 日本ビクター洋楽課長のほか学芸課長事務取扱を兼務。/太田太郎 日本放送協会を辞す。
【2002年8月21日+8月25日】
編集室/澤田勇 黒崎義英 加藤省吾(『音楽之友』 第2巻第9号 1942年09月 p.128)
内容:ジャワに音楽挺身している飯田信夫と音楽之友社社長堀内敬三との交歓放送は近来の快挙だったが、南方派遣の音楽家が飯田1人であることは残念である。もっと多くの音楽家をなんらかの形で派遣できないものか(澤田)。/本号の「音楽文化の転換期」と題した座談会は、話題を作曲と批評に限定したため少々抽象的な議論となったが、いままで楽界にこういう本質的な点を追求する座談会がなかったことは事実である(黒崎義英)。/1942年10月6日をもって主要楽器の製造は全面的に禁止される運命にある。ところが、楽壇人はこれに対してきわめて冷淡であるように思われる。この一大危機に直面して楽壇人、音楽に関心を持つ人々は真剣に考えて欲しい(加藤省吾)。
【2002年8月25日】


2002年8月3日は、p.100-101「軽井沢便り」をまとめました。
2002年8月8日は、p.74-78「ナチス青少年団の音楽的教養」をまとめました。
2002年8月27日は、p.41-60の座談会を途中までまとめました。
2002年8月29日も、p.41-60の座談会を途中までまとめました。
2002年8月30日も、p.41-60の座談会を途中までまとめました。
2002年9月1日は、p.41-60の座談会をまとめ終わりました。


トップページへ
昭和戦中期の音楽雑誌を読むへ
第2巻第8号へ
第2巻第10号へ