『音楽之友』記事に関するノート

第2巻第8号(1942.08)


創造力と読書(特集・音楽家と読書)森本覚丹(『音楽之友』 第2巻第8号 1942年08月 p.27-31)
内容:五音音階をひねくり回した浅薄な擬古的手法や、民俗音楽を利用した平易凡俗な国民色では、すぐれた日本的な音楽は書けない。すぐれた楽曲を作るには、『古事記』『日本書紀』『萬葉集』などの古典をよく知り、日本の音楽だけでなくインドや南方圏の音楽も知り、日本の古を知って、その良き精神を掴んで自己の精神を正しく豊かにする必要がある。森本は、かつてこうした意見を述べた。真に感動に満ちた大柄で豊かな音楽は、こうした修業勉強の忙しさを耐え忍び得た後にこそ始めて生まれるのである。その努力を厭うくらいなら、むしろ音楽をやめて田でも作った方がいい。音楽理論や作曲法を4〜5年学んだだけで作品を世に問うなどという甘い考えを抱いてはいけないのである。/外国では、18世紀までの音楽家は概ね貴族の保護を受け、下僕よりも少し高いくらいの地位で、その教養はあまり高くなかった。しかし近代の、ベルリオーズ、ワーグナー、シューマンなどの偉大な作曲家は高い教養を持っていた。/かつて南葵音楽文庫にあった本は慶應義塾大学図書館に委託されているが、不便である。早く日本音楽文化協会あたりでこれを買い、もっと便利な場所で一般の閲覧に供したら貢献度大である。
【2002年5月7日】

音楽家と読書(特集・音楽家と読書)関清武(『音楽之友』 第2巻第8号 1942年08月 p.31-35)
内容:7、8年前ある会社の若手社員の生活状態を調査したとき、趣味は「読書」と答えたものが多数あり、「音楽」と答えたものも少なからずあったという。もし趣味という意味を小娯楽と解するならば、音楽は誰にとっても趣味と考えるべきでないし、反対にものごとを深く味わうという意味にとるなら、音楽は音楽家にとっても趣味といえる。/音楽家は読書をしないというイメージがある。外国の著名な作曲家ではベートーヴェンが熱心な読書家だった。ホメロス、カント、ギリシャ古典、イタリア古典等々が独力で判断をしなければならなかったベートーヴェンにとっての師であったという。しかしベートーヴェンのような読書家は外国でも珍しかったようで、音楽家は読書によって自分の音楽の世界を豊富にしなければならないことは明らかだろう。しかし音楽家がする読書は音楽の古典作品や音楽理論書が選ばれるのが普通で、それは現代にふさわしからぬ職人気質だと思う。音楽家は本腰で音楽へ精進すべきだが、その精進と広汎な知識の獲得とは不可分のことになってしまった。しかも読書はいわゆる「趣味」としてやるのではなく、自分の中に革新された正しい世界観をできる限り完全に構築するためになされなければならない。
【2002年5月10日】
読書について ―― 或る少女ピアニストへの手紙(特集・音楽家と読書)原田光子(『音楽之友』 第2巻第8号 1942年08月 p.35-38)
内容:
先日久しぶりに貴女のピアノを聴き、益々しっとりと落ち着いた純粋な音楽の美しさに深い感受を示していて嬉しく思った。そしてピアノに向かう時間が多くなるにつれて読書から遠ざかったと言われたことが印象に残った。いま、日本史始まって以来の使命を与えられたのだから、音楽家に従来より広い高い教養が要求されるのは当然であろう。現代人の教養に読書は大きな役割を果たすので、音楽家もこれをしなくてはならない。ベートーヴェン、リスト、シューマンなど読書家として有名な作曲家はいるが、西洋でも日本でも演奏家はあまり読書しないというのが定評のようだが、それは自然な現象ではないかと思う。。演奏家には、のっぴきならぬ技術の領域があって、その技術獲得のもっとも大切な時期が、読書の習慣が作られる少年期から青年期にあたっているからである。周囲を見渡しても才能のある人ほど読書をしないようだ。しかし、こんな現状だからこそ、将来の日本の楽界における有力な一人となる貴女に、ぜひ今から読書の習慣をつけてほしく、こうした手紙を書いている。私事にわたるが、さいきん日本の古い時代の豊かさについて、あまりに知ることが少なかったことを深く反省させられている。飛鳥時代の建築や彫刻に親しんで、日本人の本来の姿がどんなものであったか初めてわかるとともに、あの素晴らしい時代への郷愁で胸がいっぱいになった。待望する新日本の音楽は、どうしてもあの時代に現われたような、おおらかな明るさ、豊かさがほしいと思う。日本の古い美術に親しむこともお勧めする。
【2002年5月12日】
音楽家と知性(特集・音楽家と読書)守田正義(『音楽之友』 第2巻第8号 1942年08月 p.38-41)
内容:
音楽家はあまり本を読まないと相場が決められているようであるが、バッハ以来の多くの名曲が、いかに知識と思索と直観とに満ちたエスプリの所産であるかを考えてほしい。より重要なことは、音楽家が本を読むとか読まないとかということではなくて、素晴らしい音楽の創造には、いかに音楽家自身の教養がものをいうかということでなければならない。だが、このように理解する人は、こと音楽家の中には比較的少ないようだ。本を読んだり考え始めたりすると、頭だけが先走りし、技術がおろそかになり音楽が下手になるという人がいる。たしかにこうした危険は伴いがちではあるが、少しも本を読まずまた考えない人たちが提供する音楽は、単なる反復と模倣と追随と無節操があるのみだ。これまでの音楽家の多くが本を読みたがらなかった理由を考えてみると、音楽を芸術としてではなく芸事としてとらえる風習があったこと、楽譜に記されている通りに正確に演奏できれば音楽の姿を聴衆に伝える役割は一通り可能なこと、作曲家も技法の修練を積めば一応は音楽の形をつくることができることなどが挙げられる。しかし音楽家は音楽をする単なる機械であって良いはずはなく、本を読み、あるいは考えることによって自らを高めかつ豊富にすることが必要なのである。では、どのような本を読み、どのように考えたらよいか。一般的に何らかの意味で直接ないしは間接に音楽に関係する本を読むことが入用である。また読書という中には、楽譜を広く読むことも加わってくる。このようにして知性人となった音楽家は、他の芸術部門とつながりを得、そのつながりが他の文化部門、社会部門、そしてその時代へとつながるのである。音楽家として誰とでも話ができ、またいかなるところからでも自らの音楽の栄養を吸収することができるためには、読書が少なからぬ役割を果たす。
【2002年5月16日】
書物・書斎・読書(特集・音楽家と読書)清水脩(『音楽之友』 第2巻第8号 1942年08月 p.42-45)
内容:
近頃、どこの町外れの本屋へ行っても、たいていの時間誰かしらいる。紙不足のため出版部数が減り、第一版が売り切れれば第二版が出るとは限らない。時機を失すると入手できなくなるので、本を愛する人たちは新刊が出るや否や無理な算段をしても買っておくという。本読んでいる人とそうでない人の違いは、会って話せばよくわかる。また本を読むことと見ることは大いに違う。戦時には書物が読まれるという。今日の日本の飛躍的な発展を考えれば、大いに書物が読まれるべきであるし、世界の指導者として恥じぬ立派な読書も現われるべきであろう。/読書は部屋を想像する。書斎とは書物を読み、書きものをする場所である。どんな部屋の隅といえども、常にそこで一定の仕事ができさえすれば、その場所は立派な書斎である。音楽家ならば十人が十人ピアノを持っている。そしてピアノのある部屋が大方、音楽家にとって書斎となる。姉妹芸術の研究書くらいは相当並んでいても良いように思う。しかし商売柄か、たいてい楽譜だけは多く持っている。/いつでも読書したいと思い続け、時間があれば読むようにしている。けれども読んで自己充足を感じることはめったにない。読書は断じて量をあらそってはいけない。音楽家に奨めたい本は、まず偉人英傑の伝記である。次には文学美術の書物である(国文学は是非)。ことに歌曲でも書こうという作曲家はもちろん、声楽家にとっても詩と音楽は同等に必要である。読書ほど努力のいるものはない。音楽家の読書調べをするのも面白いだろうが、まず槍玉に上がるのは僕であろう。それほど僕[=清水のこと]の読書は貧弱であることを告白して、この稿を閉じる。
【2002年5月19日】
前線皇軍将士慰問の感激<座談会>三浦環、荻野綾子、清水静子、吉本明光、藤原亮子、高田せい子、藤原義江(誌上参加)(『音楽之友』 第2巻第8号 1942年08月 p.46-66)
内容:吉本 慰問は日中戦争後のことだが、この大戦では前線銃後の区別はない。国家総力戦の実践である。広い意味における慰問は、前線の皇軍勇士のそれ、敵弾により傷を受け内地で療養している勇士のそれ、工場や農山漁村で働く人々のそれといろいろあるが、皆さんにいままでの慰問の話と今後慰問をする際の心構えや方法について伺いたい。
三浦 内地、満洲、台湾、朝鮮と行き、一昨年秋には陸軍省派遣で中支に行った。その折、上海の近くの奥地に行くと、昨夜近くに敵が来たというので慰問を昼間にしてもらった話や、南京のホテルでは櫻井大佐という人が「歌ってください」と来た。《愛国行進曲》を歌ったところ感激していた。この戦争では、生まれ変わったつもりで慰めてあげたい。産業戦士もお見舞いしたい。
荻野 海軍嘱託として中支、南支、海南島を回った。どこへ行っても兵隊が感激した。上海の病院でまだふうふういっている兵士を慰問した後、凱旋した人たちを迎えたこともある、汕頭に行った時、1時間後には討伐にいく兵士たちが混じっていて、私(荻野)が感激した。銃後の慰問では、どうしたら農山漁村の人たちが西洋音楽を理解してくれるか、どうしたら一緒に歌ってくれるかという経験を踏んで、次代に来る方々に何かためになることを残しておきたい。今回、農山漁村文化協会から電話があり、けっきょく誰か人を探すのではなく、自分で福島県に出向き6ヵ所回った。みな、三味線で伴奏しない音楽を初めて聴くため、よく知られている《荒城の月》や《愛国行進曲》を歌い、あとで農村の人たちを指導しながら、こちらも歌ってうまく行ったように思う。
清水 1941年の4月と5月、石井漠の弟子といっしょに南支広東、仏印に陸軍省恤兵部から派遣された。1942年3月と4月には北支の慰問に行った。これは芸能文化聯盟の催しで一向10名だった。河北の最前線から河南に入り、5月初旬に帰った。北支では有名な黄塵万丈の季節でたいへんなほこりだった。やめようかとの声も上がったほどだが、兵隊がやめてはだめだといって防塵眼鏡をかけて慰問をうけた。私どもは北京に来てから日本の内地の空襲を知った。
三浦・荻野 夜、外にあるはばかりに行くのが気持ち悪かった。
藤原(亮) 中支の徐州へ行った。敵兵はいないと思ったら、一里先にいると言われた。
三浦 徐州は危なかった。私のときも朝10時頃音がした。私は兵隊に「三浦環の歌を聴いて、自分の母親が来たと思うように」と言ったら、みな泣いてしまった。最後に歌う《愛国行進曲》は大きな立派な声で、精神がこもっていて、教わった。
高田 5回行った。最初は中支の上海で慰問をし、次に南京に移ってくれと言われたが、汽車が一日おきにひっくりかえされているから、いつ出るかわからなかった。南京に行き慰問をしていると、ある日急に慰問をやめて船に乗るよう言われた。そして漢口から別の場所に移ったが、そこは敵が大砲を撃ってくる場所だった。ずっと奥のほうにも行ったが、人々と仲良くなった。ただ戦争に勝つだけでなく、その後を宣撫までやらなければならない。それから行軍もした。一番怖かったのは、雨の中を夜8時間かかってクリークをジャンクしてのぼった時だった。お腹はすくし、寒いし、両側は敵なので蝋燭もつけないで無言だった。目的地に着いても港がなく、真っ暗なのでどこへ着けていいかわからない。偶然、日本兵の歩哨に会い、丘にあがった。おとといの晩夜襲があって夕べなかったから今晩あたり危ないと言っていたので気味が悪かった。おととし北支に行った時には敵と間近のところで出会って、いろいろしているうちに敵が逃げたことがあった。
藤原(義) 私達一行12名(留田武、村尾護郎、三上孝子、高柳二葉、小森智恵子、安川正、日本合唱団員5名)は1942年3月下旬に出発し、慰問開始は4月上旬だった。山東、河南、河北、山西、蒙●の各地で前後の回数は39回歌った。途中怪我をし、そのことをよく聞かれるが、あれは前線で襲撃されたのではなくトラックの事故。右の足を打撲でやられ、肋骨を骨折していることがわかった。だが、もう2時間走ってからでは貨物電車にぶつけられるところだった。そうなったらどんな怪我をしていたかわからないので、今回のは不幸中の幸いだった。年内にもう一度でかけるつもりだったが、軍医から無理をすると肋膜になると言われたものだから、来年早々でかけるつもりだ。
吉本 では次に、どういうところで演奏されたか? 場所と演奏形式、マイクロフォンを使うか使わないか、兵隊は何をいちばん喜ぶか、またどう歌うか、などについて伺いたい。
三浦 学校や廟、兵舎の中庭、舞台のないところでは廊下でやったりした。時期は11月の初めだった。
藤原(亮) 枕木の上で歌ったり、汽車の上でもやった。テーブルが一番いい。
吉本 踊りの場合はどうか?
高田 兵隊が作ってくれる。一番いいのはトラックを並べものだが、反対に困るのは丸太棒を並べて作った時。そういう中へ足が入ってしまう。
荻野 軍艦に乗ったとき大砲の下で《軍艦マーチ》を歌った。海南島では植物好きな部隊長が舞台を植物で飾った。なんとなくスペインのセレナードを歌いたくなるし、踊る人も喜ぶ。
吉本 伴奏はどうするのか?
荻野 折りたたみのペヴィオルガンを持っていった。
高田 レコード。蓄音機はどこにでもあった。
吉本 マイクロフォンは?
三浦 なし。
藤原 56回やったけれど1回もなし。
吉本 一番喜ばれた曲は?
三浦 陸軍で歌ったが、《船頭歌》や《ホフマン物語》の民謡など。
清水 《ディアボロ》や《荒城の月》。
荻野 海軍で歌った。だいたい民謡だったが、《太平洋行進曲》はみんなで歌い、あとは《荒城の月》。程度の高いところではシューベルトの《セレナード》や《子守唄》をやった。
清水 私は《椿姫》から歌った。
藤原(亮) 私のところは初年兵で《宵待草》と《荒城の月》が喜ばれた。
三浦 いまは戦の世の中で、兵隊にいろいろ教えられたので、これからは私たちは新しい出発をして行かなくてはならないと感じている。これまでもそうだったが、なお一層日本の音楽をもって外国を導いていかなければならないと考えている。これから慰問演奏に行く音楽家は、身体を丈夫にすることだと思う。それから前線を見舞うからといって男のようななりで行くのではなく、女は女らしく、日本の女を見せるようにしてあげるのがいいと思う。演奏態度は精神を込めてやるよりしかたない。そして兵隊と一緒になって自分が楽しむのがいいと思う。
荻野 兵隊といっしょに歌える歌が日本には少ない。その需要が満たされて、音楽が立派にできたら、東亜共栄圏は音楽でのしていけると思う。
吉本 作曲家にはもっとがんばって欲しい。そうすれば演奏家の全部がもっと馬力をかけて国のために尽くす。どうしても日本人の感情、生活、歴史伝統、それに即応した音楽を作ってもらわなければならない。
藤原(亮) 私は抒情歌ばかり、《宵待草》《矢車草の歌》《母に捧げる歌》《故郷の廃家》《ふるさと》とかを歌う。
高田 私は《母》というのを踊るのです。看護婦も勇敢に働いている。《白百合の歌》という国民歌謡をやると、やはり感傷的になる。それと兵隊に踊りを教えるので舞台に上げるのだが、これがなかなか上がらない。
吉本 これまでの日本の代表的な芸術家は、ほかの連中がお膳立てをしたところへ行って演奏するという考え方をしてきた。ところが、その代表的な演奏家が何から何まで一人でやる。そういうところに精神的慰問があると思う。
荻野 向こうへ慰問に行くと、向こうの人がやるので今日だけは見てくださいと頼む。
吉本 今後慰問する時に、どういう心構えで、どういう方法で、どんな内容をもっていかなれければいけないか、という点について伺いたい。
荻野 田舎を回って思ったのだが、母も子も皆で歌える歌がたくさんあってほしいということだ。国民歌謡も、まだそこまで行っていない。それからお百姓など、音楽のわからない人を頭に入れて、その人たちにも最高の技術をもってやろうとした。誠意がなければだめだと思う。
吉本 昨年来、産業戦士に厚生音楽を通じて指導と慰安を提供してきた。それに出る場合、東京産報は警視庁でやっているが、警視庁の方針では、そういう指導に行く人は非常に簡素な服装をしろというが、そのなかで女性はどうしたら自分自身を綺麗に見せられるか?
高田 東京で歩いているままで行くよう言われた。
荻野 内地の場合はモンペや頬かむりをして会場に来るのだから、素晴らしいコスチュームを着たら恥ずかしい。服装と曲目の問題は机上の議論ではだめだ。
藤原(義) 私たちの場合は概して営庭が多く、その他は野外だった。あの感激は現地の前線慰問をしないとわからない。そして慰問は、大部隊よりも小部隊のところに行ったときの方が兵隊の感激が大きい。不思議なのは有名な音楽家があまり慰問に行かないことだ。こんな機会に出かけて行けば、自分自身にどれだけ得るものが多いか。僕は機会さえあれば内地でも回る。陸軍病院のほか、工場関係は1941年8月から始めて、そのつきに10日間11工場を回った。工場では吹奏楽や楽器は揃っているが、歌のほうはできていない。少人数の合唱団などを作り、何か催しのときなどに歌えるようにする方がいいと思う。工場の曲目は《鉾をおさめて》《荒城の月》《サンタルチア》《愛馬進軍歌》等。前線では、女声なら《宵待草》、男声なら《荒城の月》、椿姫の《乾杯の歌》、最後には《愛国行進曲》を兵隊と一緒に歌った。
吉本 今度は大東亜共栄圏だ。あるいは全世界に、どういう文化工作をしたら一番効果があるか、それを楽壇全部で、そして芸術界全部で研究しつつ・・・
荻野 実行していく。
清水 まだ子どもも小さいのだが、暇があれば行きたい。現地慰問では銃後国民の創意を代表して、優しく和やかな気持ちでやっていきたい。
高田 結局精神の問題と思う。もっと精神的に団結すべきだ。それが何よりも大和魂であるべきだと思う。芸術にも大和魂が必要だ。
吉本 陸海軍が戦果を挙げている飛行機や戦車なども、みな西洋で生まれたものだが、いまは内容が日本なのだ。だから音楽や舞踊でも、ヨーロッパ伝来の形式を使っても差し支えないが、内容を日本にすればいいのだ。
高田 だから精神力で行くのだ。
荻野 要は一つ一つ実行していけばよい。
高田 内地と外地では、慰問をする際、少し精神的に考え方を変えないといけない。内地は、いくぶん教育的使命を頭に置いていなければいけないと思う。しかし現地に行く場合は、教育的側面は控えめにしなければならないと思う。
記者 有益なお話が伺えた。ありがとうございました。
【2002年7月4日+7月5日+7月7日 完】
第4回女子中学校合唱競演会(『音楽之友』 第2巻第8号 1942年08月 p.66)
内容:
期日=1942年10月17日(神嘗祭)正午。会場=日比谷公会堂。参加資格=本邦における女子中学校生徒、曲目は1校2曲として1曲は本協会指定のもの、他の1曲は自由選択(演奏時間10分以内)とする。課題曲=同声三部合唱曲「越天楽」(平井保喜編曲)。申込締切=1942年9月30日。会員券=金35銭(税共)。ただし参加校より取りまとめ申込みの場合は税共30銭に割引する。申込所=東京市京橋区銀座4−1 佐藤ビル内 国民音楽協会。
【2002年5月21日】
第3回合唱指導者講習会(『音楽之友』 第2巻第8号 1942年08月 p.66)
内容:
期間=1942年9月3日、20日、27日、10月4日。会場=小石川区竹早町 東京府女子師範学校。講師および講習科目=「大東亜建設と合唱」(小松耕輔)、「合唱団の組織と運用」(秋山日出夫)、「合唱名曲の研究(古典)」(堀内敬三)、「合唱名曲の研究(近代)」(津川主一)、「合唱指導の要請」(外山国彦)、「合唱に於ける発声法」(奥田良三)、「合唱指導の実習」(大和田愛羅・浅香■三郎・矢田部勁吉)、「四大節式歌の指導」(澤崎定之)。参加資格=年齢・男女を問わないが次の(イ)から(ハ)の一つ該当する者。(イ)1年以上合唱団に所属し、三部四部を歌える者あるいは指導した経験のある者。(ロ)小学校または中等学校で唱歌科を担当した経験のある者。(ハ)音楽学校卒業者または軍楽隊出身者。なお参加資格がなくとも定員に余裕がある場合は聴講を許す。聴講料=金5円。定員=100名。特典=講習終了者には終了証書を交付する。申込所=東京市京橋区銀座4−1 佐藤ビル 国民音楽協会 申込締切=1942年9月10日。
【2002年5月21日】
◇夏期吹奏楽指導者講習会(『音楽之友』 第2巻第8号 1942年08月 p.66)
内容:
主催=大日本産業報国会、大日本吹奏楽聯盟。目的=吹奏楽とその指導法の研究。期日=1942年8月12日(水)より17日までの6日間。時間=午前8時より午後3時まで。会場=昭和第一商業学校(東京市本郷区元町)。科目および講師=「音楽概論」(堀内敬三)、「吹奏楽概論」(廣岡九一)、「編曲法」(深海善次)、「指揮法」(内藤清五)、「指導法」(近藤信一)、「木管楽器指導法」(中村政雄)、「金管楽器指導法」(井上繁隆)、「打楽器指導法」(小森宗太郎)、「鼓笛楽総論」(江木理一)。見学=陸軍戸山学校軍楽隊、海軍軍楽隊京分遺隊。会費=5円(ただし産報の推薦のあるものを除く)。締切期日=1942年8月5日。申込所=東京市京橋区西4−3 数寄屋橋ビル 大日本吹奏楽聯盟
【2002年5月21日】
楽友近事堀内敬三(『音楽之友』 第2巻第8号 1942年08月 p.67-69)
内容:
■芸術院会員に推された先輩四氏■帝国芸術院会員に今井慶松、安藤幸子、山田耕筰、信時潔の四氏が推薦されることになった。それぞれ今日の筝曲界、提琴界、作曲界を今日あらしめた大功労者である。■楽壇をスパイは狙う■音楽家および音楽愛好者は知識人であり、上層部に知人が多く、外国人にも交際が多いので、国事・軍事の秘密は、ほかの職業に従事している人よりも知りやすい地位にある。しかも各地に旅行することが多く、一般の人に接することが多い。また多数の聴衆を音楽を通じて強い影響を与えるのだから、音楽家においてはスパイ戦に乗じられない注意が必要である。しかし音楽家は世間知らずが多いので、何気なく秘密をしゃべったりデマを取り次いだりすることが多い。こういうことは今まで注意の届かなかったことだから、将来は一層の注意を払うようにしたい。■日本合唱団の15年■日本合唱団(旧ヴォーカルフォア)は創立以来満15年を迎え、その記念として1942年6月29日から3日間4回にわたり歌舞伎座で歌劇《ファウスト》を上演した。初日の開幕前に山田耕筰が挨拶を述べた。同団を創始した中心人物のうち、松平里子は没したが、内田栄一は主宰者として働いている。団員にも、日比野秀吉、吉田昇、古筆愛子、小森智恵子などが創始の頃からの勤続者である。■歌劇の批評■歌劇は演劇の形をとりながら写実主義とは宿命的に衝突し、音楽でありながら視覚要素を必須の条件とするため、中途半端な芸術といわれるかもしれない。しかし音楽と演劇の結合は古今東西を問わず行われてきた(たとえばギリシャ劇、能楽、歌舞伎、西洋の仮面劇、舞踊劇)。そして管弦楽も独唱声楽も歌劇によって発達した。この結合は芸術価値よりもむしろ、娯楽価値から要請されている。このことが潔癖批評家を歌劇から遠ざける。音楽演奏としてみたら、ほとんど常に「不潔さ」がつきまとい、劇としてみたら拙劣である。演劇にもっとも大切な「間」が歌劇の場合、音楽によって支配されるのだから演劇としてみたらめちゃめちゃである。歌劇の性質上、音楽と劇との間でどっちつかずになる危険を認めながらこれを上演するのは、良き音楽と大衆とを結びつける特殊な形式だからである。今までの歌劇批評を見ると、作品についての根本的な認識を欠いている人が多いように思う。そうした正しい批評は可能だと思う。
【2002年5月22日】
伊太利に於る大衆音楽擁護施設 ―― 伊太利の音楽政策(4)<国際音楽情報>松本太郎(『音楽之友』 第2巻第8号 1942年08月 p.70-73)
内容:
ムッソリーニとファシスト党は「巨大な劇場に於ける最高級の上演」という音楽振興政策の根本方針を持ち、大衆に歌劇や交響楽を与え、その目的は果たされつつあるようだ。しかし、こうした高級な音楽が、大衆に与えられるべき音楽の全体であるとは必ずしも考えられない。なぜなら大衆は一方では、より身近な親しみやすい音楽をもち、こういう性質の音楽を自ら演奏するのを好むであろうから。ムッソリーニとファシスト政府は、この点に早くから着目して適切な政策を用意した。その最初期のものは、恐らく1932年の夏に北部イタリアの村々で行なわれた花祭りに対する後援であろう。/その具体的な内容を挙げると、
(1)パヴェーノ村の古代物語《薔薇物語》上演。この物語は同村寺院の記録所から新たに発表されたものである。この催しは薔薇で有名なパヴェーノの伝統的な催しの単なる復古ではなく、地方的なフォークロアに近代的息吹を与えたところに特色がある。
(2)ロカルノ町の椿祭。この花祭は1932年、ミラノ音楽院教授カルロ・ガッティによって統一ある音楽的性質を与えられ、スカラ座の背景係がステージを整備した。
(3)パランツァ村の蹶躅祭。この祭りは1932年に初めて行なわれた。
(4)湖上の花合戦。湖畔の村々が花で飾った船を出して美を競った催しで、パヴェーノが一等賞を得た。/これらの花祭が大成功を収めたため、数日後、これを模してミラノの一劇場で同市の花祭が行なわれ、スカラ座のソプラノ、コペルリを主役とする歌と舞踊のアレゴリー《薔薇狩り》が上演された。またその翌年、これと類似していて内容の違う催しがバーリで行なわれた。この上演スタッフは画家パオロッティとアウグスト・バガン博士で、歌、舞踏、地方的祭典を含むもっとも絵画的典型的な地方芸術の綜合的タブローを案出した。/1933年の夏に、イタリア各地(メラノ、レッコ、ベッラジオなど)で官権の後援によって多くのフォークロア祭が行なわれた。これらは単なる伝統的なフォークロアの保存、復古というだけでなく、地方大衆の間に生まれた彼ら自身の音楽の発現に機会を与えたとする見方を許すだろう。/大衆自身に音楽させるためのファシスト政府の施設は、ファシスト労働者の厚生機関であるドヴォラヴィーロによって行なわれている。わけても都市の市民中には合唱団、バンドが旧来多数組織されていたが、ファシスト政府はこの趨勢を助長した。また1933年には、労働者による合唱団やバンドが職業的な音楽団と交代で、休日に都市の広場で演奏すべきことが規定されたことなど、ドボラヴォールによってこれらの施設が行なわれている著しい例である。この団体が団員の音楽演奏(時には作曲)のために実行する事業は多岐にわたっており、1936年春ごろに行なわれたコンクールだけでも多岐にわたっている。労働者大衆の演奏技術向上を図るためにファシスト当局は、1935年以降、特に才能をもつ者に対してローマのサンタ・チェチーリア音楽院で学ぶ特権を与えた。/大衆を後援しつつあるファシスト政府の施設は賢明である。日本の為政者、とりわけ文化機関の衝に当たる人々は、この点に対し目を開く必要はないだろうか。
【2002年5月27日】
タイ国の舞踊・演劇・音楽<国際音楽情報>奥村鉄男(『音楽之友』 第2巻第8号 1942年08月 p.74-77)
内容:
1935年4月、滞日提携論者の駐日公使プラ・ミットラーム・ラクサと外務省文化事業部第二課長・柳澤健の斡旋にくわえて、塚本嘉次郎の援助、関係者一同の努力によって、男女35名によるタイ国国立音楽舞踊学校の教職員および男女生徒の一行が、同校主事ウオルトンルァ女史の引率のもとに来日した。/1935年4月16日夜、公使夫妻主催のもとに1千余名を帝国ホテルに招待し舞踊団の披露を行なった。莫大な費用がかかったが、これがいかにわが国における日タイ親善の増進に寄与し、タイ国文化の宣伝に効果があったかは驚くべきほどであった。/当夜上演された主なものは《ラーマヤーナ物語》の一コマだった。これはタイ国の古典劇中いわゆる「コーン」に属するもので、女役を除くほかは、それぞれその役にふさわしい仮面をつけることになっている。宗教的な起源をもち、宮廷内の秘儀とされていた。台詞はタイ語である。タイ国では劇のヒーローは神か王であり、ヒロインは常に王女である。タイ国の劇でもっとも特徴的なことは、ゼスチュア(身振り)とポスチュア(姿勢)である。いかなる表情も、すべて一定の独特の科で表現されることであろう。科は洗練されていて表情に富んでおり、舞踊にも同様のことがいえる。/タイ国の舞踊は指をそり返し、腕をうねうねとうねらしたり、身体をねじ曲げるなどして魅惑的なポーズで踊る。これをこなすには相当長い年月の訓練を必要とし、多くは幼いときから教えられるため、国民生活の中に滲みこんでいる。/なおタイ国古典劇には「コーン」のほかに「ラコーン」があり、こちらは現在では低俗な劇団か俳優が一緒になって演じている。「ラコーン」は「コーン」の困難な努力を要する所作を緩和したもので、「コーン」の融和な所作を強調する。/以上述べたようにタイ国では、舞踊はすべて劇の一部を構成している。わが国の盆踊りとか○○音頭に似通ったものがない。なお、このほかに「フン」という操り人形と「ナン」という人形影絵とがある。/近年、わが国から伊藤テイ子や三橋蓮子などがタイ国へ渡り、短期間ではあったが当時の文部省芸術局長官のルアン・ヴィチット・ワダカーン氏夫人より古典舞踊の指導を受けた。/タイ国とビルマの音楽はきわめて類似していて、楽器も多くは同じものである。恐らく大多数は古代インドの原始的なものから出たもので、ビルマとタイ国に伝わってから徐々に変化発達し、ついに独自のものとなったのであろうといわれている。カンボジアもタイ国で用いられているものとよく似ている。楽器は打楽器、風奏楽器、絃楽器に分かれる。西洋風のオペラのシステムをこの国に輸入したのは、ナリス親王で45年ほど前のことである。この親王には《ラコーン・ドウク・タムバン》を作って、今日でも愛好者から高く評価されている。またナラティップ親王は北部タイの古典楽に造詣が深く、名作《フラ・ロー》を残している。近年における努力は古代音楽の方法に復帰させる試みで、タイ音楽の進化はこの線に沿って推進されつつあるとルアン・ヴィチット・ワdカーンは言っている。
メモ:奥村はタイ国大使館通訳官。
【2002年5月29日】
交戦諸国の時局流行歌を衝く宮澤縦一(『音楽之友』 第2巻第8号 1942年08月 p.78-83)
内容:古来「歌は世につれ世は歌につれ」という諺があるとおり、流行歌は種々の意味において世相を巧妙に反映している。戦争が勃発すれば戦争にちなんだ歌が巷に氾濫し、昨今では石炭増産、防空、防諜、また大政翼賛会にいたるまで歌になっている。今日戦火は全世界に波及しているので、列国の国民大衆はどんな歌を楽しんでいるか、時局色の横溢した流行歌を一渡り瞥見してみるのも一興であろう。/第一に重慶側は愛国歌(抗日歌)が普及していて戦線においても歌われている。その最も代表的な歌として《ゲリラ戦の歌》がある。一方、国民政府側も《保衛東亜之歌》や《汪精衛歓迎歌》などをもって応酬している。/米国は、今回は全米を風靡するような優れた歌が今のところ一つも生まれていない。ヤンキーらしい軽薄なのを挙げると、青年の士気を鼓舞する《女房と闘うよりはお国のために戦おう》、今のような負け続きでは気が引けて歌えないであろう《ママさん、僕は海軍へ入って横浜や東京を攻めて行きます》などがある。/英国は今次大戦では大した歌は出ていないようである。フランスでは、ただ一つ《ジアタンドレ》という歌が歌われたくらいである。東亜の盟邦タイは、愛国的なものが大流行中とのことである。/ソ連でも戦時色を織り込んだものが多く、ことに面白い現象は一時絶対に排斥した帝政時代の愛国的音楽をふたたび上演しだしたことである。たとえばグリンカの《皇帝に捧げし命》を《イワン・スサーニン》と改題上演したり、チャイコフスキーの序曲《1812年》も演奏が許可されている。また《祖国の歌》《さむらいの歌》《明日もし戦いあらば》なども歌われている。/ドイツではチャーチルとかイーデンとかいうように、英国の為政者を揶揄するような歌が盛んで、また一つの歌に時局色の滲み出た種々の替歌を作って歌うことが流行っている。ドイツにも、日本における《出せ一億の底力》や《起てよ一億》などの国民歌と同種のものがとても多い。イタリアも戦時下の今日では列国と同様愛国調のものが多い。一例を挙げるならば《出征兵士の唄》がある。/いわゆる南方共栄圏に目を向ける。まず仏印ではこれといって挙げるほど流行った歌はないが、日本の歌謡曲《支那の夜》《白蘭の歌》《上海の花売娘》などが先般でかけた東宝舞踊隊の公演によって相当に普及された。ジャバは流行った歌はない模様である。フィリピンは相当に洋楽が盛んであるが、流行歌はていてい映画主題歌で、曲種はタンゴ調のものがもっとも愛唱されているようである。なおマニラでは《荒城の月》が目下相当に流行しているが、局地的には《愛馬行進曲》その他2、3の軍歌も盛んに歌われているとのことである。
【2002年6月5日】

音楽の今昔<告知板>弘田龍太郎(『音楽之友』 第2巻第8号 1942年08月 p.84)
内容:
弘田の学生時代、彼の作品は独唱曲、合唱曲、ピアノ小品、ピアノ・ソナタ、ピアノとヴァイオリンのソナタ、ピアノ・トリオ、弦楽四重奏曲などがあったが、日本人が作曲するなどというのはもってのほかという風潮があった。短調の合唱曲を発表すれば新聞紙上で南無阿弥陀仏の合唱曲と評され、弘田の作品を受け取った教師は別のクラスでその作品を生徒一同に見せ、それがいかに拙いかを説明した。/さいきん作曲界が活況を呈していて、それを国家も政府も学校も社会も切望している。音楽学校には作曲科があって作品を発表し、日本音楽文化協会も作品の発表に協力し、東日のコンクールにも作曲が重要な部門となっている。学生時代を回顧すれば感慨深いものがある。/さて作品を書くときは、いかなる作品を書くか定めてかからなくてはならない。芸術的作品でも通俗作品でも同じことだが、たとえば国民歌謡を書くのか民謡を書くのかをまず定めなくてはならない。芸銃的な作品を書く目的をもって国民歌謡を書いてはならないし、民謡を各目的で近代的なリートを書いてはならない。ずいぶん前のこと、弘田がドイツにいた時、リヒャルト・シュトラウスやシュエーカー、ヒンデミットなどの近代音楽を好んで聴きに行ったが、それらはドイツの生活に必要な切実さをもって身に迫ってきた。ところが、帰国してすべての生活様式が一変したとき、これらの大家の手法すべてを何の顧慮もなく用いてよいかどうかについて一考せざるを得なかった。音楽作品は演奏されなければならないし、聴衆がなければならないから、聴衆の存在を忘れてはならないことになる。
【2002年6月2日】
歌手の出征<告知板>上山敬三(『音楽之友』 第2巻第8号 1942年08月 p.85)
内容:
柴田睦陸が出征してから○ヵ月になる。1942年を迎え、ちょうど徳山lが他界して幾日も経たないときに、柴田は召集令状を持ってビクターを訪れた。愕然としたがすぐに作詞家に檄を飛ばし、急遽柴田のために吹き込み作品を書くよう依頼した。2日後、東辰三が『太平洋を征く――柴田睦陸君に捧ぐ』という一篇の詩をもってきた。その晩、親しい者だけで歓送会を開いた。柴田は隣の藤原義江に自分が死んだらぜひ弔辞を読んで欲しいと頼み、藤原もこれを引き受けた。出発の前夜、柴田は捧げられた曲を涙をためながら吹き込んだ。3年前、柴田が音楽学校を卒業したとき、レコード会社に入れば学術が廃るのではないかと迷っていて、放送局に行った金谷次郎と二人で説き伏せて来てもらって以来、もっとも親しい歌手であり、日本で優秀なテノールの一人として将来の大成を楽しみにしていた。吹込みの翌日の夜、○○駅頭で木下保指揮・東京交声楽団員の《海行かば》の混声合唱に送られて出征した。いま柴田は南の某地で働いている。
【2002年6月3日】
戦時下の音楽放送加田愛咲(『音楽之友』 第2巻第8号 1942年08月 p.86-89)
内容:情報局第二部第一課長だった宮本吉夫が放送監督官である第二部第三課長当時書いた『放送と国防国家』の中で、音楽(洋楽)放送の目的について、国民への奉仕と国家目的への奉仕を挙げている。宮本の言う指導原理は、音楽放送を通じて音楽の国民化を図ることにあり、国民一般が理解し、近づきやすい音楽を放送することに重点を置き換えることを挙げ、主たるものは日本人作曲のものを主軸に置くことを提言している。また、「国民合唱」の前進の「国民歌謡」については、国民の音楽情操を高めると同時に、音楽の国民化を目途としていると目標を示している。/大戦勃発以前の音楽放送は、演奏家は外国曲のみ演奏し、邦訳歌詞を蔑視した、演奏家としても世界的に優れた者が排出しなかった、日本時作曲の多くは外国作曲の模倣で国民的でなかった、日本調の作曲も大衆に媚び、芸術性を欠いた等のため、もっとも国民と遊離していたと分析されている。「国民歌謡」は、国民的なものとするための努力は続けられたが、その中のあるものは芸術性を目指して孤高となっているとその欠陥をついている。/大戦勃発後の放送音楽を管弦楽を例にとって調べてみることにする。1941年12月8日以降6ヵ月間を通じて、いわゆる通俗演奏が74回中43回を占め、その演奏も日響、東響から専属の東管、大阪、名古屋のものから小編成の
放送年月 管弦楽放送回数 通俗名曲・正しい軽音楽放送回数
1941年12月 9 7
1942年1月 11 4
1942年2月 13 7
1942年3月 13 7
1942年4月 17 10
1942年5月 11 8
74 43
楽団まで入っているが、特に日響、東響などお高く止まっていた楽団が音楽の国民化に協力しようとしてきたことは大いに注目に値する。しかし通俗名曲の演奏は、一流以下の指揮者の稽古台にされている安易な放送もありはしなかったか。放送関係者に問いたい。/ことのついでに、1941年12月8日以来、放送局に「東管の待機」という制度ができたことを述べておきたい。大戦勃発後、放送は放送番組を随時に変更しているため思わぬあき時間ができてくる。そこで活躍しだしたのが待機している東管である。木琴、ヴァイオリン、室内楽、そして和田肇のピアノなど、いわゆる正しい軽音楽が提供された。とりわけ和田は人気が高く出場回数も多かったため、高踏的なピアニストの間に非難が起こったほどだ。しかし、いかに受けているからといって昼のニュースのあき時間等に和田のピアノ・レコードが連日のように出てくるのは、どんなものだろうか。/1941年12月以降、放送音楽で純音楽が放送された回数は多い。この純音楽の放送が「音楽文化の指導的役割」のために存在するとすれば、放送回数を少し減らし、その代わり演出放送に工夫があってよいと思う。/電波管制下都市放送はできず、放送の純音楽はあくまで従属的である以上、日響の放送回数が旧態依然として月6回というのは理解できない。特に1942年4月29日以来、情報局諒解のもと放送協会が出資して財団法人となったのだから、放送それ自体のため、放送回数を減らすことを考えてもらえぬだろうか。/そして海外放送でベートーヴェンの交響曲の連続演奏をするなどして、日本は戦争を戦う一方で文化活動も停止していないことを示すことを企画してもよいのではないか。
【2002年6月6日】
南方音楽漫話高津トシ(『音楽之友』 第2巻第8号 1942年08月 p.90-92
内容:
(1)皇道日本の八紘一宇の精神を音楽文化にも取り入れて、真に南方各地の人々が、音楽を通じて日本を理解し融和し心服し、天皇に帰一すれば大東亜建設という究極の目的も達せられるはずだ、と高津は言う。高津の音楽人としての心構え、日本女性としての覚悟は、未熟な芸術でも精神練磨して皇国のためにささげたいと念願していることである。南方音楽に親しみ祖国日本の人たちに南方音楽を理解してもらうことと同時に、わが国のすぐれた民謡を南方諸地域に紹介し、学びえた声楽をもってこの相互連絡の媒酌的な役割を果たそうとしている真意もそこにある。『南方民謡集第一輯』は不十分ながら今までの研究の一部をまとめたものだ。(2)南方民謡といっても千差万別である。南方音楽はそこに土着民族のもつ固有のものと、過去の侵略支配者(欧米)より移植されたものとに大別できるとすれば、前者は今後とも独特の民族的固有音楽として、その地方の古典として残されるべきものであるが、支配階級の音楽は、米英蘭の過酷な為政者の打倒された今日、当然撃滅され駆逐されているから、これに代わるものとして真の日本音楽が必要であろう。/この場合の日本音楽は進んで現地一部の知識階級や文化人に与えられなければならないから、内地の気候風土生活の中に生まれたままのものでは融合しないのではないか。したがって純日本音楽に現地民族の文化、宗教、思想も取り入れて、新日本音楽または大東亜音楽とでもいうようなものに発展させて、これを日本と南方民族との音楽的連鎖とすべきでないか。(3)『南方民謡集第一輯』に掲載した8曲をみていく。盟邦タイからは《熱血スーパンブリー人》《ブレーング、マングライ》の2曲を採譜し訳詞編輯した。どちらも無任所大臣アン・ビジットの傑作でオペラの中で歌われる。前者は《愛国行進曲》に相当する曲。仏印カンボジア地方からは《カンボヂヤの子守唄》《ラオスの白雉鳩》を選んだ。どちらも人生の喜びや哀しみを素直に歌詞にし、圧政下の苦悩や自然を友とする素朴な表現で歌ったものである。蘭印からは《夜明け》《月の光》、アンボンからは《アンボンの船》、ニューギニヤから《パブアの唄》をそれぞれ採譜訳詞編輯した。前二者は古くから歌われていたが、10年前にジャバで作られた映画《ファティマ》の主題歌となり、人口に膾炙している。以上であるが、パブア語のわかる人がいないので、《パブアの唄》のみ原語音で載せた。/ビルマ、豪州、インド、フィリピン、ボルネオ、セレベスなどについては別の機会に譲りたいが、フィリピンではアメリカ化されたジャズ音楽が盛んだったこと、豪州やニュージーランドは英国の音楽のみが発達していること、インド・ビルマの古くより欧州音楽と中国音楽との接触地であったため高い音楽が存在していたことなど、今後の南方音楽工作について特に注意されて良いことではないかと考える。/南方音楽はもっと研究され、理解されねばならない。南方民族の真の生活と精神を率直に見せてくれるのは音楽である。大東亜建設に挺身するわれわれ日本人は、まず彼らを知らねばならない。文献は蒐集され、現地民謡は五線譜にのせ編曲し、そこに真の南方音楽の姿を見出すべきだ。一方、われわれも西欧音楽万能を捨て、もう一度日本音楽の形と精神を反省してみる必要がある。
メモ:『南方民謡集 第一輯』はシンキャウ社発行、『南方愛唱歌集』はビクターより発売。
【2002年6月8日】
竹越和夫<楽壇人物素描>千葉利江(『音楽之友』 第2巻第8号 1942年08月 p.94)
内容:
竹越和夫は、統制団体である社団法人「日本蓄音機レコード文化協会」の常務理事に就任した人物である。彼については、ヘルマン・ヘッセの翻訳、演劇の創作座における演出を知っている人もあるだろうが、何といっても放送局での仕事が音盤界で示すであろう力量を予測する上で鍵になる。/卒業年は知らないが東大の独文科を出てから、[放送協会の]社会教育課に入り、思わぬ過失から愛宕山を追われて事務所の加入部に転じた。それから聴視を経て教養部(社会教育課の後身)に返り咲き、さらに査閲課に籍を置き、その後も数回転籍をして文藝部演芸課に腰を落ち着けた。演芸課時代、「文芸講座」でラジオ芸能を担当したことがある。外部の仕事に敏感な放送局だけに身辺に不吉な雲行きが流れたが、その数日後、西邨BK局長の下、奥屋熊郎の栄転の後をうけて文芸課長に就任した。/BK時代、日本最初の放送芸術講座を同志社に置かせたり、第二放送創設当時いまの企画部副部長崎山正殻とがんばったりした。そして演劇、文学方面を渡って音盤界に来た。ただ黙って彼の将来を見ていようと思う。
【2002年6月9日】
私の交友録<わが交友録>小林千代子(『音楽之友』 第2巻第8号 1942年08月 p.104-106)
内容:
「勉強中は友達は邪魔」と言われて育ったせいか友達を持つ気がなく、一人で何かをするのが好きだ。現在は360日舞台生活で、摂生第一で思い切り遊んだこともなく、友達と語ったこともない。男性には随分親切にしてもららい、それは当然のように思われるが、女性に親切にされたのは身に沁みて一生忘れることができない。/[小林が]愛情問題でひどい打撃を受けた8年前、松竹少女歌劇団の春野八重子(はるの・やえこ)から男は一人ではないのだから気持ちを大きく持っていい人を見付けて見返して上げなさい」と励ましてくれた。おかげで、今日こうして聖戦裡に歌っていられるのだ。/ほかに話の合う女性というと、たいてい年配の人だ。芝居を覚えるために大阪の舞台に足掛け3年出ていたとき、お茶やお花を習った先生は40歳近い女性で、5人の子供の面倒を全部見て、広い家を一人で掃除し、市場で並んで夕食のものを買い、1週間に2日は家で生徒にお茶とお花を教え、3日は出稽古をし、1日は家元に自分の稽古に行き、日曜日だけは主人のために一日家にいる生活を送っている。茶道は炭を切ったり、爐の灰をしめらせて前日から用意したりするなど、手のかかる仕事で、稽古の日には一日中茶室に座りっぱなしだ。しかし家の中は一糸乱れず、自分ひとりで子供の靴下、セーター類まで作る。まだまだ自分など努力が足りないと思い、心が結ばれた。/さいきんも愛情の問題で不幸になり悲しんでいるときに、女学校時代の唯一の親友が慰めてくれた。彼女は10年会わないうちに信仰者となり、その教理はすぐには分からないものの、語っているうちに幸せな感じになる。昨年、彼女は観音様を建立して間もなく亡くなったが、生前約束していた観音様の歌を作曲してもらい、金町へ行き、友の前で歌った。/友は選ばなければならないと思う。また自分が向上すると、良い友ができるものだ。
【2002年6月13日】
音楽会記録唐橋勝編(『音楽之友』 第2巻第8号 1942年08月 p.112-113)
内容:1942年6月11日〜1942年7月10日分(→ こちら へどうぞ)。
【2002年6月18日】
楽界彙報(『音楽之友』 第2巻第8号 1942年08月 p.114-115)
内容:■記録■東京音楽学校関西演奏旅行 東京音楽学校報国団の職員生徒一行224名は、朝日新聞社社会事業団の招聘によって関西へ演奏旅行に赴き、1942年6月18日と19日の夜は京都朝日会館、20日と21日の夜は大阪朝日会館で演奏会を開催した。曲目はベートーヴェン《交響曲第5番》、同《洋琴協奏曲第5番》(独奏: 石井京)その他で、指揮はフェルマー。なお、19日午後4時から京都朝日会館で、20日午後2時から大阪朝日会館で、「青少年のための昼間演奏会」を開催した[曲目、指揮者等は不明]。/上海音楽協会創立記念公演 上海音楽協会創立第1回公演が1942年6月18日午後8時より愛多亜路南京大戯院で開催された。曲目は、ワグナー《タンホイザー》序曲、ベートーヴェン《交響曲第6番》、箕作秋吉《小組曲》より<サラバンド>、サンサーンス《2つの交響詩曲》、ボロディン《イゴール公》より<舞踊音楽>で、指揮はバッチ、提琴はアリゴファ。/音楽コンクール作曲入賞者決定 大毎、東日主催の第11回音楽コンクール作曲部本選は、1942年7月1日夜、日比谷公会堂で開催された。《三首の萬葉短歌による交声曲》が課題曲で、清水守、玉利英道、中瀬古和、福井文彦、保田正による5作品を演奏審査し、第1位: 福井文彦、第2位: 保田正、第3位: 中瀬古和と決定した。なお本年度から制定された情報局賞は該当作品がなかった。/楽壇総動員大演奏会 東京日日新聞社主催の支那事変五周年記念楽壇総動員大演奏会が、1942年7月7日夜、両国国技館で開催された。東日主筆阿部賢一の開会の辞のあと、大政翼賛会事務総長・後藤文雄、陸軍省報道部秋山中佐の挨拶と続き、森屋五郎(陸軍)と内藤清五(海軍)の指揮で陸海軍軍楽隊合同特別演奏があり、大毎東日会長高石眞五郎の挨拶が続いた。その後《皇軍頌歌》を演奏。この作品は三好達治の作詞で5部よりなり、山田和男、山田耕筰、諸井三郎、市川都志春、尾高尚忠の5人が分担作曲した。演奏は辻輝子(ソプラノ)、四家文子(アルト)、永田絃次郎(テノール)、伊藤武雄(バス)、丸山定夫(朗唱)、東京音楽学校・東洋音楽学校・国立音楽学校・日本放送合唱団・日本合唱団(合唱)、日本交響楽団・東京交響楽団・松竹交響楽団(管弦楽)、山田和男・山田耕筰・尾高尚忠(指揮)があたった。/■情報■故瀬戸口藤吉記念碑建設資金募集演奏会 故瀬戸口藤吉の記念碑建立が計画され、武富邦茂海軍少々を委員長とする記念碑建設委員会では15万円の予算を組み資金を募集中であるが、同資金を一般からも仰ぐため、1942年8月8日午後4時から小石川後楽園スタヂオで記念碑建設資金募集演奏会を開催することとなった。これを最初として数回にわたり資金募集演奏会を開く予定である。なお記念碑建設地は日比谷公園。/東京音楽学校が満洲国へ楽旅 満洲国建国10周年慶祝使節として東京音楽学校管弦楽団70名、合唱団50名、その他合計125名が乗杉嘉壽校長を団長として1942年8月7日、渡満することとなった。予定は、8月12、13日が旅順、14日から17日が新京、18日から20日がハルビン、21日と22日が奉天、24日が京城となっている。/田邊楽器会社とポリドール提携 日本ポリドール販売株式会社と株式会社田邊楽器本社との間に提携が成立し、田邊本社の田邊勝三が日本ポリドール販売株式会社社長に就任。鈴木幾三郎は平取締役となり、大東亜蓄音機レコード株式会社社長に専念することとなった。/帝国芸術院の音楽部新会員 帝国芸術院音楽部門の会員定数は10名で、現在、雅楽の多忠籠、豊時義、能楽の梅若万三郎、寳生新、洋楽の幸田延子の五氏で、このほど欠員補充を行なうことなり、1942年6月13日音楽部会を開き、作曲の山田耕筰、信時潔、提琴の安藤幸子、筝曲の今井慶松の四氏を選出、全会員の投票を求め、三分の二以上の賛成票を得て正式に決定した。/演奏家協会が技芸審査 演奏家協会では所属技芸者の質的向上を計るため現会員に対しては技術的指導を、新入会員に対しては技芸審査を行なうこととなった。今後、新加入希望者に対して毎月第二第四月曜日の午前10時より村山スタヂオで技芸の審査を行ない、一定水準以上のもののみ加入を許可することとなった。審査には堀内敬三、増澤健美、山根銀二が当たることとなった。/■消息■早川泰雄 日本放送協会国際部を辞し、同盟通信社園芸部に入る。/東勇作 渋谷区播ヶ谷東町1-10へ転居。/小林千代子 下谷区上三崎南町27へ転居。/日本交響楽団 事務所を麹町区内幸町放送会館内に移転した。/大塚淳 満洲楽団協会委員長を辞任。/高橋忠之 満洲楽団協会委員長に就任。/井上司朗情報官 情報局第5部第3課長に就任。/水野史郎情報官 情報局第2部第3課長に昇格。/青砥道雄 ビクター学芸課を退社。/磯野嘉久 ビクター洋楽課を退社。
【2002年6月18日+6月19日+6月21日】
上海音楽情報澤田稔(『音楽之友』 第2巻第8号 1942年08月 p.116-118)
内容:■工部局管弦楽団を救え■1942年1月16日付英字紙『上海タイムス』と18日付『大陸新報』は、工部局管弦楽団の危機を報じた。原因は、工部局がその維持費28万5000余元を捻出しえないことにある。当地では、この際楽団を解散するか、仏租界で演奏会を催すことを条件に仏租界に委譲し経費を負担させるか、あるいは個人的援助を得て独立させるか、協議中とのことである。英米が敗退した今日、楽団がライシャム劇場で公演を続けたとしてもシーズン・チケットを使用した英米人の退去は多く、楽団の継続に望みが薄いといわなければならない。近代都市として、その文化的使命を果たすためにはその都市を代表する音楽や、すぐれた楽団を持つことが必要である。皇軍が租界に進駐した後の我が方としては、工部局管弦楽団の維持を仏租界や一個人に委ねたならば、日本の面子はなくなる。1941年の春に誕生した上海交響楽同好会は、工部局管弦楽団のよき後援者であり、いま楽団の危機を聞いたならば多数の熱心な会員は、全邦人に声をかけて楽団救助の策に出るべきである。[楽団は]この際工部局の名称を捨て、大上海交響楽団として恥じない内容を持つなら、我が方の支持を得て今後は発展の一途をたどるのではないか。国民政府、中日文化協会としても傘下にすぐれた楽団を持つことが対外的に必要なので、援助が期待できる。わが軍当局も必ず工部局楽団に対し適当な処置をとるであろうことを信じる。/また放送事業方面よりすれば、上海放送局はデマ放送局といわれ、レコード音楽は流しても一つとして満足すべき管弦楽団を招聘していない。工部局管弦楽団は大東放送楽団でも大上海放送管弦楽団とでも組織内容を変えて我が方に参加させるべきである。/元来工部局管弦楽団は演奏曲目の範囲が広いが「何でも屋」で、すぐれた解釈の演奏に接することが少なく、決定的十八番がない。上海唯一の楽団を救えないで文化を口にすることはできない。/■上海交響楽団第1回演奏会■法人化された上海交響楽団第1回演奏会を聴く。指揮者はパッチ(旧工部局管弦楽団指揮者)。演奏曲目は、
   ワーグナー《タンホイザー》序曲
   ベートーヴェン《交響曲第6番 田園》
   作曲者記載なし《2つの交響詩》
   ボロディン 舞踊組曲《イーゴリ公》
新発足の楽団に望みたいことは、弦楽器のバランス(金管楽器の成功をさまたげる)に考慮すること、演奏回数を激増や練習過度から楽員個々が技術の研究に専念する余裕を失わせないよう配慮すること。上海に交響楽演奏会の会場として適当なことがないのも残念だ。
【2002年6月24日】
北京音楽通信袴田克巳(『音楽之友』 第2巻第8号 1942年08月 p.118-119)
内容:1942年4月25日と26日、藤原義江一行が北京の眞光電影院で音楽会を開催した。27日には北京大学文化協会の主催で日本国民学校講堂で日華人のために無料の音楽会が開催され、入場者中国人1,000名、日本人500名に大きな感銘を与えた。当日の出演者は藤原義江、三上孝子、高柳二葉、村尾護郎、ピアノの安川正。5月31日には京華美術学院主催の音楽会が北京飯店で行なわれ日本人では寶井眞一と田中利夫が出演した。この会には武蔵野音楽学校卒業の陳汝翼がリストの《ハンガリー狂詩曲第7番》を独奏したが、10時開演、12時30分終演ではたまらない。/1942年6月3日、北京の日本国民学校講堂で北京音楽文化協会の第1回演奏会が創立演奏会に出演しなかった団体・個人によって日華両国人のために無料公開された。演奏曲目は、国民合唱を双葉合唱団が、イタリア民謡3曲を王純方が、ラフマニノフの《前奏曲》その他を王榮珍が、プッチーニ《トスカ》とヴェルディ《椿姫》からのアリアを古藤孝子が、フォーレの《ゆりかご》その他を張維之が、シューマン2曲と国民歌を松原宏が演奏した。/今年の北京の暑さは格別で、音楽会は例年より多い。1942年6月18日には井上直二指揮の北京交響楽団第5回演奏会が北京飯店で行なわれた。演奏曲目は、リンデル(団員中の白系露人)の《ロシア風の幻想曲》、メンデルスゾーン《フィンガルの洞窟》、ベートーヴェンの《ピアノ協奏曲第1番》(ピアノ独奏 富永律子)が演奏された。同年6月19日には同じ会場で上海から来たバス歌手・斯桂がシューベルトの歌曲とイタリア歌劇のアリアが演奏された。/北京音楽文化協会主催の日華楽人座談会が1942年5月23日、北京飯店のホールで行なわれた。/満洲建国10周年を記念するため、音楽使節として、哈爾濱交歓音団が李香蘭とともに、1942年5月23日と24日、新々大戯院で演奏会を催した。演奏曲目は、第1日(昼、夜)が(1)リムスキー・コルサコフ《シュエヘラザード》(2)《スペイン狂詩曲》、第2日(昼、夜)が(1)ベートーヴェン《交響曲第5番》(2)ベートーヴェンの序曲《レオノーレ 第3番》(3)《荒城の月》《何日君再来》(独唱:李香蘭)など。/北京で最大のハーモニカバンドである中華口琴会主催の「中日音楽交歓演奏会」は、1042年5月28日午後3時と午後8時、北京飯店で開催された。日本側の出演者は双葉合唱団、北京合唱音楽協会、植田仙燕の植田流尺八、特別賛助出演の北支派遣陸海軍楽隊。聴衆の対部分は中国人で音楽文化政策上寄与するところは大であった。なお放送局ではm実況を第一第二放送をもって全華北に中継した。中華口琴会指揮者の王慶勸は、大の親日的中国人。
【2002年6月28日】
編集室沢田勇・加藤省吾・黒崎義英(『音楽之友』 第2巻第8号 1942年08月 p.128)
内容:今月は日本音楽文化協会役員の改選が行なわれ面目一新する由だが、楽界全体のために大いに活躍してもらいたい。/すでにコロムビアの武川寛海が召集されているが、今度はビクターの磯野嘉久が名古屋の軍需工場に転籍するという。(以上、澤田)/8月ともなると銀座の編集室にじっとしていても汗びっしょりになる。そこで8月号は爽快な涼風を織り込んで編集する方針が採られた。(加藤)/ビクター洋楽部の磯野嘉久と前後して、学芸課長の青砥氏が科学動員協会の厚生課長に転出する。活躍を期待したい。/座談会「前線皇軍将兵慰問の感激」や特集「音楽家と読書」を精読すれば、楽界に対する抗議が含まれている。(黒崎)
【2002年6月29日】


トップページへ
昭和戦中期の音楽雑誌を読む
第2巻第7号へ
第2巻第9号へ