『音楽之友』記事に関するノート

第2巻第7号(1942.07)


第二次大戦と独逸の音楽活動<国際音楽情報>津川主一(『音楽之友』 第2巻第7号 1942年07月 p.33-36)
内容:[ドイツでは]新体制確立後、あらゆる部隊に軍楽隊を組織させた。そのため国防軍音楽学校をビュッケブルクとゾンデルスハウゼンに、海軍音楽学校をフランクフルト・アム・マインに設立する計画が発表された。そしてまず、ビュッケブルクの第一軍楽学校が開設された。/ベルリンでは、ほとんど毎日、軍楽隊および鼓隊を先頭にした衛兵の行進が行われている。この衛兵部隊は全ドイツの歩兵連隊から6ヵ月交代でベルリンに派遣されるものである。こうした軍楽隊の行進はマルブルクあたりの地方の連隊によっても絶えず行なわれている。/ドイツの兵隊たちは行進中にも盛んに合唱する。今日もっともよく歌われる軍歌の一部を示すと
   ヘルムス・ニール作曲《そうだ、その声も(Jawohl-das Stimmt)》
   ヘルムス・ニール作曲《ハンネローレ(Hannelore)》
   ブルンス・シュトゥルマー作曲《懐かしき哉、自由なる飛行(Wir lieben unsern freien Flug)》
   エルマール・カムプマン作曲《兵士たちよ(Soldaten)》
   ハーバート・ヴィント作曲《勝利の道に(Auf der Strasse des Sieges)》
   ハーバート・ヴィント作曲《百人の男子とリーゼロッテ(Hundert Mann und Lieselotte)》
ヘルムート・ニールは《エリカ(Erika)》の作曲で有名な、老境に入ろうとしている軍楽隊長である。ヴィントはドイツの国策映画を通じて日本でもその作風が知られている。/この戦線と銃後とを組織化した音楽的連絡機関によって結びつけたのが「希望音楽会 Wunschkonzert」である。これはハインツ・ゲデックとヴィルヘルム・クルークによって創始された。そして1939年9月、希望音楽会は戦線に向けられた。同年暮までに25回を電波に乗せ、戦線および銃後の実に8000万人にのぼる国民がここに一大集団的経験を味わった。希望音楽会はポスター、通信、口頭報告、放送等によって開催の趣旨を一般に徹底させる。そうすると各方面から希望を述べた書簡が届く。戦線とは直接に連絡が取れており、同様の希望が多いときは抽選でプログラムを決定する。電波に乗せるときには放送局や演奏会場に国防軍の将兵たちを招き、その人々の喝采裡に演奏を進める。時には演奏会場で希望を募り、その曲目を即座に演奏するようにしている。そればかりでなく、故郷に残されている家庭のできごとなどを戦線の夫へと知らせる。この音楽会に登場した音楽家や団体を記すと、ヘルマン・アーベントロトとベルリン放送大管弦楽団、エンミ・ゲーデル=ドライジンク少女合唱団、バルナバス・フォン・ゲツィー、マリカ・レック、オット・ドブリントとその管弦楽団、ツァラ・レアンダー夫人、アイタ・ベンクホフとテオ・リンゲン、トビス映画《自転車後乗り》の出演者たち(ティナ・アイラース、リヒャルト・ホイスラー、テオ・リンゲン、フィタ・ベンクホフ、パウル・ヘンケルス、ハンネス・シュテルツァー)、ヘルムス・ニール、ハンス・ブラウゼヴェッター、ハインツ・ビューマン、ヨーゼフ・ジーベル、ヴィリー・フリッチェ、ヴィリー・シュタイナー、ルイゼ・シュミット、ロジータ・ゼラーノ、エリック・ヘルガー、ヴィリー・ビルゲル、パウル・エルビガー、ヴィルヘルム・シュトリーンツ、ハンス・モーゼル、グレーテ・ヴァイザー、カール・ルトヴィッヒ・ディール、マリア・ナイ、カール・シュミット=ヴァルター、イェーニ・ユーゴー、ハンス・シェンカー。/今次の大戦は、いわゆる文化工作の一翼として音楽がいかに重要な役割を果たしているかを想起してみる必要がある。たとえばオスロに進駐すると同時に軍楽隊が住民に演奏を聴かせ効果を挙げたり、波蘭進撃でクラカウが陥落するとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を送って演奏させたりしている。また1940年夏にはエムミ・ライスナー夫人をコペンハーゲンとオスロに派遣したり、スウェーデンのストックホルムでは交歓の意味を持ってドイツ歌劇《エリザベート》を上演、さらにハンガリーのブダペストにはフルトヴェングラーを派遣して交響楽団を指揮させるなどしている。/その一方で友交関係を生じている各国の芸術家をベルリンに招き、演奏会に、特に例の希望音楽会に出演させて多大の効果を収めている。出演者の一部を列挙すると、アンジェリカ・ムルツィルリ(イタリア、9歳の少女洋琴家)、アウグスト・ガラヴェルロ(イタリア、バス・バリトン歌手)、ヴァスロ・アバジェラ(ブルガリア、少年提琴家)、グスラ民謡合唱団(ブルガリア)、デンマーク国劇団、田中路子(日本、ソプラノ歌手)、尾高尚忠(日本、指揮者)、近衛秀麿(日本、指揮者)。ことに尾高はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮し、1939年12月10日、独日協会主催のもとに演奏会が行なわれた。その時の曲目は、
   平尾貴四男《古代讃歌》
   尾高尚忠《第二組曲》
   バッハ=レスピーギ《パッサカリア》
   近衛秀麿《越天楽》
   芝祐泰《雅楽の旋律による映像(イマージュ)》
   尾高尚忠《芦屋乙女》
精気あふれる音楽が新秩序建設に寄与しつつある功績には、計り知れないものがある。
【2002年3月18日】
伊太利に於る交響楽擁護の施設 ―― 伊太利の音楽政策(3)<国際音楽情報>松本太郎(『音楽之友』 第2巻第7号 1942年07月 p.37-40)
内容:
イタリアの作曲家も、ことに近代にいたっては純音楽に対する関心を深め、この範疇に属する創作に熱を加えつつある。しかし、いかに作曲家が純音楽作品を書いたとしても国民がこれに対して興味を持たず冷淡だとすれば、やがてはこの部門の芸術は衰退をきたすことが考えられる。/ローマのテアトロ・アドリアーノの交響楽演奏会、ミラノのスカラ座で歌劇シーズン後に開かれる同種の演奏会、ナポリ音楽院の演奏会等、交響曲に対する国民の興味を語っているが、それは限られた人々の関心である。かくて1930年代の始めにムッソリーニの命によってファシスト当局は全国の交響楽演奏会に補助金を与える制度を始めた。1929年に創設されたフィレンツェの交響楽団に与えたムッソリーニの激励は効果的で、1933年に第1回フィレンツェ五月音楽祭という国際的音楽祭が開かれた際、指揮者ヴィットーレ・グイに訓練されホームオーケストラとして見事な成長を遂げた。ムッソリーニは一般大衆によい歌劇を与える目的で歌劇政策をとったが、同じ主義を交響楽演奏政策に対してもとり、ミラノ、トリーノ、パドーヴァ、ヴェネチア、フィレンツェにおける大劇場、大ホール等の謙造や拡張は歌劇上演と同時に交響楽演奏をも目的として行なった。/ムッソリーニの大衆音楽政策による施設のうち第一に挙げるべきものは、ローマで1933年以来開かれている夏の交響楽演奏会であろう。これは避暑のためにローマを離れる経済的余裕のない中流以下の大衆に一夕の慰安を与え、高級な音楽に親しみ、これを理解させることを目的とする。オーケストラはアウグステオのそれを用い、指揮者も一流の人々を選んだ。会場はローマ・フォーラムでコンスタンティヌスのバジリカが聴衆席に当てられた。1933年の演奏は、すべてイタリア全国に放送されている。指揮者にはザンドナイ、トゥルリオ・セラフィン、マリオ・ロッシ、セルジオ・ファイローニ、ベラッシャ、グイ、フェレロ、バローニ、マリヌッツィらの名がある。曲目はベートーヴェンの《第九》もあれば現代イタリア作曲家の作品も尊重されたが、一般大衆を困惑させるような前衛的な作品は避けられている。/第二の施設としてはアウグステオ演奏会場の移転と拡張である。1937年にムッソリーニから演奏会場を新たに建設することが発令された。ミラノ市に交響楽演奏会に一歩を進めたのもムッソリーニの政策に呼応したものと考えられる。1932年の秋にミラノ交響管弦楽協会が創立され、アドリアーノ・ルアルディ、ヨゼフ・ライタースをディレクターとして、1、2、3月の毎木曜にマチネーが開かれることとなった。この演奏会はスカラ座のそれと対立すべき本格的な性質をもっている。さらにその翌年、新築の芸術館ホールをつかって夏の音楽会が日曜と木曜に開かれるようになった。オーケストラはスカラ座からの奏者70人から成っていた。知名度の高い識者と若い有能な指揮者が交代で出演することが一つの特色となっている。同じ性質の交響楽演奏会は毎年の夏、トスカナの温泉場モンテカチーニで10月に亘って開かれている。/以上は限られた例であるが、ファシスト政権確立以来、交響楽運動は熱心に持続されて、音楽文化の水準を高めることになっている。ファシストの文化意欲の現われが見出され、その意欲達成への実行力の逞しさが観取される。
【2002年3月15日】
詩と音楽の交流<座談会>勝承夫、藤浦洸、大島博光、菊岡久利、深井史郎、吉本明光、堀内敬三、黒崎義英(『音楽之友』 第2巻第7号 1942年07月 p.41-58)
内容:まず堀内敬三が、厚生上の、また一般国民士気振興のいずれの用途にも歌謡が用いられているが、その音楽につけられた詩は困りものであることがある。どうしたら良い詩を良い音楽と結びつけて国民全体のための芸術にしていくかをお話願いたい。回顧的になるようだが、以前『詩と音楽』という雑誌でこうした実践をしていたと口火を切っている。/『詩と音楽』は1922(大将11)年創刊だが震災で1年しかもたなかった。詩が音楽から離れた時代で、民衆詩が盛んになり白鳥省吾や福田正夫がリードした。それに対して北原白秋がああいう運動(『詩と音楽』)を起こした。音楽家では山田耕筰のほか、大中寅二、長妻完至の名が見える(長妻は詩人の会にも出席した由)。山田耕筰は、はじめ三木露風の詩を歌に用いることが多かった。山田は、プラトン社の『女性』に発表した《からたちの花》(白秋)、《ポストマニ》などの時期に歌のいちばんいいものを書いていたのではないか、と評価されている。勝承夫が、北原は言葉を鍛錬する人で、短歌の素養があるから日本的な音声的なものになるのではないかと述べると、菊岡久利が、北原はひじょうに意識的に民謡を調べていて、それが基調になっていると指摘し、しかし現代詩型の最初は勝海舟が翻訳したオランダの讃美歌で、いまある行わけの詩形のもとになっている、と述べている。堀内が、新体詩は詩としてみたらどうなのかと尋ねると、藤浦洸が音から来る魅力だといい、菊岡は皆七五調だと指摘する。/話題は1882(明治15)年に発表された《我は官軍》という軍歌に移り、堀内は詩としてみると特殊な文体だが西洋の軍歌の影響を受けていると思う、作曲された時期を考えると面白いと述べている。さらに詩の音楽に対する影響に話が移り、菊岡が影響の大きさからいえば上田敏だと言っている。さらに音楽と詩の交流とはいえないが、明治末年から大正初期詩劇運動の勃発したあたりに文学との文化交流は行なわれていることに触れている。たとえば坪内がワーグナーの影響を受けて楽劇『浦島』を書いたり、北村透谷が歌劇風な作品を書いたりという実績を挙げている。黒崎義英は、明治末年から大正初期にかけて詩劇運動が盛んで『太陽』に出ていたし、詩劇集も出ていたと述べている。/ 『詩と音楽』のあとに「ポ・ムクラブ」というのができて、日東紅茶によるティー・コンサートという形で半年くらいのあいだに6、7回やってやめた。菊岡は、詩人の人選について友達ばかり集まってしまって何のためにやるのか先に考えていなかったと反省。深井史郎は、コンサートは始めの2、3回は成功したが、お互いの結び付きに神経質になり始めて具合が悪くなったと言って、設立の経済的基盤が薄弱だったので途中でなくなったと述べている。深井がいいと思って覚えているのは作詞・江間章子、作曲・伊藤翁介による《寄港地》。黒崎は作曲家の中には純芸術的な人(山田和男、深井史郎など)がいるかと思えば、非常に軽い歌を好む人(高木東六、伊藤翁介など)もいて、詩人の側に多かった人生派の詩に作曲した場合にギャップが生じる。その演奏の形態にも矛盾があったことを指摘している。/深井から、詩と音楽がもっともよく結び付いた時代は、双方がロマンチックな精神によって結びついた。ところが詩がロマンチックな精神を排撃するようになり、詩と音楽が分かれてきた。ロマンチックな色彩を持ったものはシャンソンのようなものになって、そうでない純粋の詩は曲をつけるとすれば必然的に朗読的な曲になってきた。これは世界的な現象だ。詩が現実や理智や知性を歌いはじめると、もうメロディは存在しなくなる、と問題が出される。菊岡は、詩も音楽も独自にあるのだから、詩人と音楽家の交流が必要なのだ。詩と音楽の交流では漫然として成り立たないと思う、とまとめている。また大島博光は、優れた詩に作曲する場合でも、作曲の方が詩を無視することがある。そういう場合には各々優れた作品としてどちらかに吸収されてしまうのではないかと言い、菊岡が僕らが書く詩を、作曲家として高度な広い世界を持っている人なら、どうやられてもいいからやってもらおうと思う。いま流行っているかどうかではなく、あくまで人間だ、と引き取っている。/フランスの話題となり、大島から、フォーレやデュパルクが作曲しているボードレールやヴェルレーヌの詩はきわめて音楽的だ。それが日本人作曲の歌の場合、日本語がわからない。日本語の抑揚を殺して、ただ自己のメロディだけで処理しているところがある、という発言が出る。藤浦は、その点、山田耕筰や古賀政男は気にしていると指摘する。その後、オペラの翻訳も含めて歌手が歌詞の発音の細部に注意を向けないこと、一音符に一語のみで処理すると外国語の半分くらいしか言えないことなどを議論している。/深井から一般の詩の基準だった七五調は行き詰ったと思うがどうか? と問題が出され、詩人のが同感だと言っている。吉本は、昨年、七五調を打開しようとして大日本青少年団といっしょに《世紀の若人》という曲を作ったことを述べて、号令一下で歌う団体なので広まったが、もっと多く歌わせる普及という面から言うとひじょうに難しいと感想を述べている。さらに昨年(1941年)12月8日以来、文化が政策を支配するのではなく、政策が文化を支配している。そうなってくると文化の進展を犠牲にしても、政策的な歌曲を普及させなくてはならないと考えるが、戦争に勝つのに役立つものだけで臨み、一切の外国文化は、たとえベートーヴェンといえどもダメだという。昨年、ある役所で午前10時にこう言ったところ、その日の午後2時には吉本は気が違ったと放送されて腐ったことがあったという。ローゼンシュトックの問題にしても、持っている技術を抹殺するというのではないので公衆の面前でなければよいが、敵性ユダヤ人が日本人の新響を日比谷公会堂で指揮することについては絶対反対だ、と述べている。/現代歌曲と流行歌に話題が戻ろうとするが、から詩の朗読をするときにつけられる音楽は朗読がけがされるという発言が出て、堀内がこれに賛成する。議論は詩人が、付けられた音楽が気に入らなかったときに作曲のやり直しを要求したり、それでもだめな時は演奏を禁止すればよいという発言も出てくる。さらにカノンにして放送した《この一戦何が何でもやり抜くぞ》に対しては、結局、そのようにした放送局に批判が集まっている。/座談会の結論部分では、から詩人と音楽家の個人的な接触の必要性が説かれている。吉本が、日本音楽文化協会は楽壇を綜合すれば直ちに優れた音楽が生まれるようなものの考え方をして作ったがそうではなく、結局人間の問題だとまとめている。
【2002年5月6日】
日清戦争軍楽従軍記(2)春日嘉藤治(『音楽之友』 第2巻第7号 1942年07月 p.59-62)
内容:
本号の日誌に掲載されたのは1894(明治27)年11月19日(月)から1895(明治28)年1月12日(土)まで。1894年11月19日(月)、里台溝に達する。20日(火)も当地に滞在。21日(水)に総攻撃の命令が下った。敵も屈せず戦っていたが、椅子山、二龍山などを陥れた。わが態は弾丸雨飛を侵して進み、進撃譜を奏して勇を鼓した。旅順が完全に陥るや、従軍者一同連兵場において《君が代》を奏す。23日(金)の新嘗の祝日には旅順口で戦捷大会を催した。楽隊は楽を奏してこの会の興を助けた。25日(日)、午前8時より市中行進。29日(木)、市中新街にある仙集茶園という演芸場で、わが有志が赤十字慈善芝居を催した。12月1日(土)午前11時30分、旅順口より大連湾に向かい、午後4時に到着。3日(月)、上陸した民家の修繕をしたり薪を集めるなどして、冬籠りの準備に取り付く。5日(水)午後2時、完立病院数ヵ所を奏しつつ慰問した。6日(木)午後2時、完立病院に奏楽。午後7時、歩兵十五連隊本部へ出張演奏。7日(金)午後2時、完立病院に奏楽。8日(土)午後1時30分より城壁上行進合奏をする。10日(月)司令部に出張演奏。11日(火)午後2時より病院に奏楽。12日(水)午後2時より病院に奏楽。14日(金)午後、完立病院に奏楽するが、楽器は凍って吹奏に苦しんだ。15日(土)午後、市中行進合奏をする。18日(火)午後、病院に奏楽。25日(火)夜、奏楽。29日(土)唱歌を演習した。30日(日)午後、病院へ奏楽。1895(明治28)年1月4日(金)午後2時より軍司令部に奏楽。5日(土)午後2時より病院に奏楽。9日(水)弔戦死者招魂四十九日で奏楽。12日(土)午後病院へ奏楽。
【2002年3月19日】
歌劇の民衆化時代を語る篠原正雄(『音楽之友』 第2巻第7号 1942年07月 p.68-75)
内容:[0]篠原正雄について:この当時、篠原はキングレコードの音楽監督で、藤原義江歌劇団の指揮者でもある。篠原は1909(明治42)年、東洋音楽学校管絃楽団創設以来、民間管弦楽界の指導的地位にあり、浅草オペラ時代、映画音楽時代から管弦楽の大衆化に努力してきた功労者だ、と編集部は紹介している。 (1)篠原は、今日では歌舞伎座で3日も4にも続く本格的な歌劇を上演しても、日比谷公会堂でベートーヴェンの交響曲を2晩繰り返して演奏しても満員になることを思うと、この20余年の短日月に演奏者も聴衆も進歩してくれたと思うと述懐する。東洋音楽学校長・鈴木米次郎は30余年前、東洋音楽学校を創立したときから管弦楽員の養成に努め、民間オーケストラ創設の恩人となった。およそ33年前に篠原は東洋音楽学校に入った。その頃学校に管絃楽団ができ、ユンケルやウェルクマイスターらが熱心に指導に当たっていた。/篠原は東洋汽船株式会社のアメリカ航路に乗って澤田柳吉などとアメリカに行った。そこで外国人のうまいのを聴いてがっかりしてやる気をなくし、それで音楽をやめて速記を荒浪市平に教えてもらったが相当の学力がないと不可能だとわかり、それと同時に音楽学校から音楽の仕事をしろと言ってきたので戻った。(2)話は前後するが、1911(明治44)年に帝国劇場ができ歌劇部ができた。この管弦楽団の指揮は竹内平吉で、ユンケルとウェルクマイスターが教師だった。そこへイタリアから舞踊と歌劇の振付師のローシーが招聘されて喜歌劇をいろいろ上演した。帝劇には原信子、清水金太郎、いま宝塚にいる岸田辰弥、竹内平吉らがいた。/帝劇解散後、ローシーは赤坂のローヤル館弁慶橋横に立て籠もった。初めの出し物は《天国と地獄》に講談をつけた。そこでの顔ぶれは原信子、清水金太郎夫妻、町田金嶺(テノール)、踊り手では高田雅夫、いま新国劇で活躍している堀田金星(秋月正夫)、大阪で音楽を教授している井上起久子、指揮は竹内平吉だった。のちに田谷力三がテノールで入ってきた。演目は《天国と地獄》のほかに《古城の鐘》《マスコット》《ブン大将》《クリスピーノ》《マダム・アンゴーの娘》《セビリアの理髪師》《カヴァレリア・ルスティカーナ》で、《カヴァレリア》だけは原語のイタリア語でやった。そしてローシー一座の最後の演目は《トラヴィアタ》。主役は安藤文子、指揮は篠原だった。この終わり頃に清水夫妻はローヤル館をやめて、オペラを浅草にもっていった。(3)ローシーがアメリカに去った後、原信子が一座をこしらえて浅草の観音劇場に入った。顔ぶれは原信子、田谷力三、堀田金星、井上起久子、映画にいた瀬川銀潮、柳田貞一。このころの篠原は病気がちだったと述べている。観音劇場では武田正憲の新派(柳永二郎、英百合子ら)が1回公演すると、夕方はオペラをやって、その後もう1回新派をやって終わるというぐあいだった。浅草へ行くとオーケストラ・ボックスの演奏者の体が見えないようにできていて音響効果も悪いので、体半分くらい見えるようにしてもらった。しかし、そのボックスは客席に食い込んだものだから劇場は困っていた。その後、方々でこれにならった。帝国館の松竹オーケストラ(島田晴誉指揮)など人気があったし、島田の功が松竹交響楽団になったのだと思う。浅草では、原信子は《サロメ》を初演し、柳田貞一がヨカナンを歌って、だんだんオペラ熱が高くなってきた。/日本館では日本少女歌劇というのをやって大入り満員だった。その後、石井漠、澤モリノ、戸山千里(その後ムーラン・ルージュの主人となった佐々木千里)らも来た。その後、清水金太郎一座もきた。/金龍館で《カルメン》を初演したときのこと。浅草は朝から晩まで興行をやり、それがハネてから稽古をする。それが終わると夜が明けていて、すぐに客を入れる。だから大きな出し物になると十分な稽古ができないまま本番となる。《カルメン》もそうだった。しかし人気は高く、大入りが続いた。金龍館は根岸歌劇団の経営で、根岸吉之助が大将、立花憲一(いま満鉄で活躍している根岸寛一)、高田保、佐藤八郎などがいた。《カルメン》《アイーダ》《バタフライ》《パリアッチ》など難しいものを西洋の教師なしでやった。これは根岸の英断もあったが、石田一郎という文芸部長も誉めていいと思う。ほかに戸山英二郎(後の藤原義江)、宇津秀男(いま宝塚の先生)、高田雅夫夫妻、石井漠、木村時子、石田守衛、天野喜久代、福井茂、伊庭孝などがいた。《アイーダ》をやった時、主役は上野出身の安藤文子、それにサルコリーの弟子でテノールの大須賀八郎というのが出演の筈だったが飲みすぎて出演不能になり、翻訳をした牧玲羊(ビクター文芸部に在籍)が代わりに歌って好評を得た。金龍館は新派をやっている隣の常盤座、その隣で活動写真をやっている東京倶楽部と三館共通の切符を売っていた。客は、それを不思議がらずに回っていく。そこで金龍館では、第1回は1幕を、第2回は2幕を、第3回は3幕をやるというようにした。アレンジを専門にしていたのが、いまコロムビアにいる奥山貞吉で、奥山が外国から買い集めた多くのオペラの総譜は、関東大震災でほとんど焼けてしまった。金龍館のオペラは震災で一区切りとなった。(4)その時分やったオペラは喜歌劇が相当多く、浅草でやったために台詞をちょっと言い間違えると客が笑った。それが習慣になってきて段々下品になった。清水金太郎はローシー式の厳しい稽古だった。伊庭孝は申し分のない演出家だったと思うが惜しいことをした。《マスコット》の楽譜は、どうなっているか。清水静子がやった曲目は、みんな清水のところにあるのだろう。田谷などももっているだろう。ローシーが日本に残したオペラをむやみにけなさず、吟味してどしどし上演し、これを参考にして和製のよいものをたくさん作り出すことも一つの方法ではないか。
【2002年3月21日】
歌劇「トスカ」見物岡山準三(『音楽之友』 第2巻第7号 1942年07月 p.76-80)
内容:藤原義江の歌劇団を経営していく才能(たとえ興行そのものは松竹経営であるにしても、そこまで持ち込んだ藤原の手腕は評価されなければならない)に感心する。しかし、舞台上の芸術的な面では、藤原にハッタリ的なものを感じざるを得ない。/今回の演目は《トスカ》だった。いまの日本では甚だ無理な出し物である。トスカとスカルピアをやれる者がいないからである。トスカについていえば、立派な柄と風格が必要なうえにドラマチックなソプラノであることが不可欠な条件である。原信子も瀧田菊江もトスカ役者ではないが、柄において瀧田菊江が適役かと思わせるが、風格もなく歌も軽くてやらせる方が無理なのだ。スカルピアは、素晴しいバリトン歌手でなければ務まらないし大役である。風格、威圧、それに悪知恵の働くところもなければならず、演技力も必要となる。誰の目にも下八川圭祐や留田武では無理である。/演出された《トスカ》の批評に移る。全体的には纏まった感じを与えられた。歌手で一番の出来はカヴァラドッシをやった藤原義江で立派なテノール振りを示していた。しかし艶っぽくなく、今回に限ったことではないが何をやっても爺むさいし、乾いている。ことにデュエット(多くの場合、愛のそれ)でも相手を愛している素振りをみせない。トスカでは原信子をとる。瀧田は何としても芝居が若く素人っぽい。原のトスカも本場仕込みというが、トスカに関する限り大したことはない。歌はさすがで、あの歳であれだけ歌えれば立派だ。しかしドラマチックでないのでトスカを勤めきれていない。演技は下手でアリアを歌うときのポーズすら満足にできない。スカルピアは下八川圭祐と留田武である。下八川は第1幕で面白い服を着たこと、[全体に]チョコチョコ動きすぎて威厳を傷つけた。留田は老練な感じに乏しかった。村尾護郎の堂守には困ったものだ。日比野秀吉のアンジェロッティ、浪岡惣一郎のスポレッタともに懸命に努めている。/三林亮太郎の舞台は相当よろしいが暗いのには困る。第3幕のトスカの出など見えないし、<星は輝きぬ>を歌うカヴァラドッシの顔も見えない。オーケストラは相当よくやっていた。グルリットの努力は並々でなかった。ただ全体に山場がほしかった。歌詞は日本語(堀内敬三訳詞)が用いられたが賛成する。藤原や原がアリアをイタリア語で歌ったが、アリアだけを原語で歌うのは決して悪いことではない。/観客への注文だが、オペラの筋はできるだけ前もって研究してもらいたい。《トスカ》を見て筋がわからなかったという人が多かったが、これは筋が分かりにくく、しかも筋が分からなければ面白みが半減する。オペラはオペレッタと違って音楽的構成にも苦心が払われており、ライトモティーフの使用などもあるのだから、前もって研究してゆけばゆくほど面白いものである。暇のない人や普通の観客には、こうした僭越な注文はすべきでないが、前もって研究してゆけばそれだけ得である。
【2002年3月22日】
巴里の想ひ出<わが交遊録>京極高鋭(『音楽之友』 第2巻第7号 1942年07月 p.81-84)
内容:京極にとって4回目のパリ訪問となった1931年6月の日記より。この月、ブルーノ・ワルターの指揮でライプツィヒ・ゲヴァントハウス・オーケストラがプレイエル楽堂で演奏したり、2日にわたるオネーゲル祭でワルター・ストララムのオーケストラがオネーゲル自身の指揮で演奏会を催した。ドイツの歌手マリア・イヴォギューレンがギャボー楽堂で、またクロアザもエコール・ノルマルの楽堂で独唱会を開いた。/しかし特筆すべきは、6月4日夜、プレイエル楽堂で行なわれたティボー、コルトー、カザルスのトリオだったろう。この3人はパリの人々でもなかなか聴くことが難しく、旅行者は運が良くないと聴けない。/ティボーは楽季中、パリの中心にあるホテル・ド・パリに住んでいる。ティボーはコルトーとカザルスを絶賛していたが、ことにカザルスの芸術性と人間性を高く評価していた。コルトーはパリのアヴニュー・アンリ・マルタンのアパルトマンに住んでいる。演奏家としてのほかエコール・ノルマルという音楽学校を設立し、自ら校長となって音楽教育に当たっている。また近来は指揮者としても活躍している。コルトーにはフランス芸術協会長ブリュッセルを紹介しようと言ってもらえたが、約束の日、エッフェル塔に上り思いのほか時間をとられてしまって遅刻し、ブリュッセルには頼みたいことも遠慮して言えなかった失敗談が残っているという。
【2002年3月25日】
追想<わが交遊録>四家文子(『音楽之友』 第2巻第7号 1942年07月 p.84-85)
内容:故・太田黒養二の一周忌の案内をもらい感慨無量だった。1940年春、JOAKから《カルメン》の放送をするために一緒に練習をし、同年6月の新響大阪公演で《カルメン》の二重唱をしたりした。二人ともローゼンシュトックの音楽の取り扱い方や態度に共鳴していた。1941年2月の新響の《カルメン》全曲公演も一緒にできると楽しみにしていたが病気で代役となり、秋のシーズンを待たずに急逝してしまった。/徳山たまきのことも思い出す。音楽学校では同級生だったが交友は浅かった。卒業後、日本語の歌の研究に率先した点で共鳴し、橋本国彦、井口基成らとグループで良く学び良く遊んだ。ビクターに入社したのも同時で演奏会や旅行でよく仕事をともにした。10年以上もいっしょに歌っていた四家としては、徳山が一度も独唱会を開かずに死んだことを惜しむものである。/四家の勉強を培った園田清秀(ピアニスト、絶対音感の先覚者)、近藤拍太郎(ピアニスト)の霊にも恩を忘れないでいる。ビクターで女性の相棒として中村淑子(結婚後、香山淑子)と親しくした。4年前、女高師の教師となって社交の範囲が拡大され、豊増昇を知った。今春、上野に栄転し教官室がさびしくなった。宅孝二も教官仲間だったが病弱で辞め、めったに会えないのが残念である。さいごにローゼンシュトックの厚意を忘れることはできない。峻厳なタクトに接し、自分の求める音楽はこれだと悟って思い切り方向を転換させることができた。
【2002年3月27日】
楽友時事堀内敬三(『音楽之友』 第2巻第7号 1942年07月 p.91-93)
上田機関中佐の転任
内容:
情報局第五部第三課長として音楽文化方面の指導を握っていた上田俊次海軍中佐は、1942年6月10日、海上要職に転出した。上田中佐は、もと海軍省にいて軍事報道および各種芸術を通じての軍事思想普及を担当していた。堀内は、1939年《太平洋行進曲》公募のころからの近づきだが、情報局が創設されてこちらが本務となり海軍省と兼勤となった。上田中佐が情報局の課長であった2年たらずのあいだに、日本音楽文化協会、小国民文化協会、レコード文化協会などの創設があり、直接その主務官として音楽の仕事に接した。上田中佐ほど音楽を理解し、国策的な面における音楽の保護助成に尽力した人は稀である。政府が日本音楽文化協会に2万何千円の補助を出した事実のごときは、これまでになかった新例であるが、色々の点で情報局が正しく音楽を奨励するために行なった蔭の援助は大きい。
軽音楽をどう改めるか
内容:アトラクション廃止の影響は相当大きかった。軽音楽関係者の生活問題としても、これは軽視することができない。しかし、米英の退廃的な軽佻な音楽やその模造品は、いまの日本の精神と相容れない。これは軽音楽に限らず軍歌や時局歌についてもメロディーや歌詞だけが勇壮であったり国策的であれば演奏の仕方は昔の米英趣味のままでいいなどと考えてはいけない。娯楽価値のあるものを求めるのは当然だが、それはどこまでも亡国的なものであってはいけない。戦時の音楽は朗らかさ、明るさ、力強さをもって国民を慰め力づけるものでなくてはならない。カフェやダンスホールの音楽、スパイ跳梁の米英的社交場裡の音楽などを昔のまま戦時下に持ち込むことは禁断するべきだ。日本の寛容さが、敵国の腐敗文化に対してまで寛容であるのは行き過ぎである。
邦楽制作の検討
内容:放送協会では芸能協議会というものを作って邦楽の新方向を指導するような話らしい。邦楽にも見るべき新作品が出ているが、そうしたものを演奏する人が非常に少なく、演奏曲目のほとんどは幕末の退廃音楽が多く含まれている江戸時代のものである。しかし邦楽のなかにも高尚なものや日本民族的なものや強い精神を反映するものもあるのだから、不消化な新作を試作して一度だけやってみるような場当たりをしても邦楽界全体には何の影響も与えない。むしろ旧作品を検討して中止するなり改造するなり推薦するとかした方が有意義ではないだろうか。こういう仕事を始めた以上は全部邦楽界に言うことを聞かせるだけの考えを持つようにしてもらいたい。
芸術家のセクト主義
内容:ちかごろ芸術関係に昔のものを統合して一元化するのでなく、新しくいろいろな団体を作りたがるのはどうしたものだろう。今まで無いところに新団体ができるなら仕方ないが、いままであるところに作るのなら旧団体を潰すなり合流したらどうだろう。統制によってすべてが一元化されている時代に芸術方面だけがこうした状態でいるのは甚だみっともない。今の場合、芸術家のセクト主義は打破されなければならない。
【2002年3月28日+3月30日】
邦楽の一部門から<告知板>杵屋宇太蔵(『音楽之友』 第2巻第7号 1942年07月 p.94)
内容:1939(昭和14)年夏、長唄協会が歌曲審査会を設けて会社ママ風教上の立場から検討を要すべき歌詞の改訂に着手した。この仕事が邦楽の向上に役立ち、長唄聯盟の誕生を促進させた動機にもなった。3年が経ち決戦態勢の段階に移ったのだから、ひとり邦楽ばかりが、このなまぬるい古典の歌詞改訂にばかり頼り、何ら積極性をもたないとしたら危険である。長唄とか清元とか三曲とか、または洋楽とか、離れ離れになっていないで一つに解け合う協力が実現されなければ、真の国民音楽は創造されない。/日本音楽文化協会の結成式の時、徳川義親侯が邦楽も中に入れると断言された由を堀内敬三が本誌6月号で言っている。しかし加入させるならば最初から加入させても良い筈ではないか。結成式に邦楽関係者が一人も参加できなかったことは、はなはだ残念である。18年の歴史をもつ長唄協会も先ごろの総会で発展的解消して大日本長唄聯盟と一元化し、一党一派の個人主義を清算し、また邦楽協会、三曲協会、ともに急襲を敢行している、という堀内の言が紹介されている。杵谷は、そこから新しい邦楽も伸びてゆくであろうし、このうえは強力な音楽文化の全面的指導機関の設置こそのぞましい、と主張している。/長唄の青年層7、8名が毎月6日に例会を開いて意見交換を行ない、また政治・経済・音楽・文学などの分野から講師を招いて高話を聞く「六日会」という会合がある(杵谷は、この会の幹事)。山田や堀内にも出席を乞いたい。
【2002年4月3日】
リーマンの音楽辞典の刊行に就て<告知板>青木謙幸(『音楽之友』 第2巻第7号 1942年07月 p.95)
内容:日本音楽文化協会評論部の企画の中で、最もわれわれの関心をひくのはリーマンの『音楽辞典』の翻訳である。こうした世界的権威をもった音楽辞典の翻訳の問題が、遅まきながら評論部員のあいだに取り上げられたことは良いことであり、この有意義な仕事をいかなる困難に際会してもやり遂げる覚悟をもって当たってほしい。それについて些か私感を述べる。/刊行を実現させるには、技術的にも経済的にも容易でないだけに楽壇全体の努力と協力が必要である。漫然と計算しても3000ページとなり、その印刷費だけでも相当な価格になろう。山根によれば5万円の予算が要るだろうとのことだ。しかし日本音楽文化協会の些細な予算では、その半分も3分の1も困難であろうし、見方によれば今わが国は国運を賭して戦っているのだから国家に些かでも迷惑をかけてはならない。また他の文化団体の援助を仰ぐような依頼心も棄てて、楽壇関係者だけでこれを刊行する固い決意が必要である。それには日本音楽文化協会がこの刊行に不退転の決意と責任を持ち、資産は音楽関係の出版社や他の有力な出版社を説くことである。また予約募集による資金調達や有志者の寄付を仰ぐ方法もあろう。発行部数は必要量をもってすべく、諸経費も冗漫を戒め、翻訳者も音楽文化報国の考えの下に稿料は我慢してもらう。ただし再版の折には出版元が翻訳者に対し礼を尽くすのは当然である。頒布価格は最高で1部50円として仮に1000部を発行するとして5万円の予算は補いうる。翻訳担当者は実力の持ち主で、選択についても党派的排他的に陥ることなく厳正公明であってほしい。そしてたとえ日本音楽文化協会の役員が今後変わろうとも、この刊行を持続しうるような選択であってほしい。
【2002年4月5日】
映画 舞踊 舞台内田岐三雄(『音楽之友』 第2巻第7号 1942年07月 p.96-97)
内容:内田だけにとどまらず多くの映画関係者が、このごろの映画は面白くないと感じている。しかし映画はあらゆる面と大きなつながりをもっていて、さらに制作の機構も過程もきわめて複雑である。今月は、この点には深入りしないで映画以外も見ていくことにしたい。/イタリア映画の≪むすめ七人≫は稚拙な喜劇だったが、日ごろ硬い映画ばかり見ている観客は笑い声をたてていた。この映画は、アメリカ映画の形式を消化して取り入れ、色事めいた物語を通じて国策的な主題を生かそうとして、そのどちらもうまく行かなかったものと見える。/1942年5月1日に日本青年館で行なわれた小澤恂子と長内端の合同公演は広くない舞台の大半を手風琴楽団が占め、残った僅かな空間で人々が踊るという無理なものだった。加えてボロディンの曲をこのバンドが演奏したのも言語道断だった。舞踊の背後にバンドがhかえていることは、舞踊そのものの鑑賞を阻害する悪習である。小澤の舞踊はすさんでいた。≪弓の踊り≫≪印度の幻想≫でも然り、≪哀しきニイファン≫(剣の舞)は古すぎるメロドラマだし、≪踊るボレロ≫は解釈の間違いと低さを指摘する。当夜の収穫を一つ挙げれば即興的なポーズとすぐれた肉体を託した≪ホフマンの舟歌≫を買う。/1942年5月5日、日本青年館で行なわれた新世楽劇団公演。ソプラノの大谷洌子は将来を期待できる新人だと思う。第二部では≪リゴレット≫第1幕第2場が、ソプラノとテノールとバリトンを中心に抜書き的に上演されて観客の興味を惹いたようだ。しかし、いかにも歌劇だといったような、だらしない演出方法は再考されるべきで、やはり劇としての表現をゆるがせにしてはならない筈である。/1942年5月東寳劇場で、第3回東寳国民劇として上演した3つの演目のうち、白井鐵造の≪蘭花扇≫は古い仕組みにたより、白井お得意のロマンティシズムも色あせた感じがした。この前の白井の≪鶯≫のいい加減さといい、白井のこの不振はどうしたのか? ≪蘭花扇≫の主役李香蘭は良かったが、台詞まわしが生一本な朗読調にすぎる。演技者としての李香蘭は、現在この辺が精一杯なのかもしれない。/1942年5月23日、公会堂で水木会公演。歌壽榮の≪淡路人形≫にみられる工夫が、新舞踊の新しい工夫のレヴェルだとしたら、新舞踊の前途も未だ道はるかである。同夜同所で高田せい子の作品発表会があった。ヴェテランの意欲的な再起に拍手。
【2002年4月7日】
満洲音楽情報 <連載>村松道彌(『音楽之友』 第2巻第7号 1942年07月 p.98-99)
内容:■動員大会音楽隊 3回目を迎えた国民動員大会は「建国十周年慶祝興亜国民動員全国大会」と銘打ち、日本、中華民国、華北、蒙古、全満より65,000人が新京に集まり、5月18日の野営開始に始まり、20日が演習大会、21日が式典、分列行進、市中大行進、22日が音楽行進と大演奏会、興亜国民交歓大会と5日にわたって催された。満洲楽団協会は、この大会に全満の吹奏楽団による音楽隊の編成を委嘱され、音楽隊本部を結成した。その陣容は、大会司令部幕僚部音楽隊係・村松道彌、音楽隊長・高津敏、技術班長・加藤哲之助、総務班長・酒井義雄であった。幕僚部は動員計画を立て、
   5月19日  野営団結成式(新京軍楽隊)
   5月20日  野営団慰安と慶祝歌指導(関東軍軍楽隊と上野耐之)
   5月21日  音楽隊結成式と式典分列行進、市中行進(音楽隊全員)
   5月22日  音楽大行進(音楽隊全員)
   5月22日  日、全満音楽団大演奏会(各地区選抜吹奏楽団に開拓義勇青年隊
           喇叭鼓隊、新京軍楽隊、関東軍軍楽隊)
   5月22日  日、興亜l国民交歓会(新京交響楽団)
   5月22日  日、長管団解団式(新京国楽隊)
となった(参加団体は、特別班、関東軍軍楽隊、新京軍楽隊の41団体約1200名)。/21日午前10時より協和会館前広場で結成式、午後1時協和会館前より大同広場の会場に入場、式典が行なわれた後、音楽隊を先頭に分列行進が大同大街で行なわれ、引きつづき四隊に分かれた65,000人の行進が市中の四方面に向かってなされた。/翌23日[ママ]午後1時、忠霊塔の前に集合し≪國の鎭め≫を吹奏、新京市目抜きを大音楽行進し、大同広場で散会した。午後7時より大同公園野外音楽堂で全満音楽団大演奏会が開催された。出演団体は@満洲開拓青年儀勇隊A哈爾濱地区選抜吹奏楽団B大連地区選抜吹奏楽団C奉天地区選抜吹奏楽団D新京地区選抜吹奏楽団E国軍新京軍楽隊、関東軍軍楽隊で、最後に全員の慶祝歌の合奏、斉唱で会を閉じた。[小関メモ:この項は上のスケジュール表が正しいとすれば、文章のつながり(21日の翌日)からみても22日と思われる。]/■新国歌の制定 建国十周年に際し、従来の国歌を建国歌とし新たに国歌を制定することになった。その委員として音楽方面からは、園山大連音楽学校高津敏、大塚音楽団長、今福関東軍軍楽隊長、山田国軍軍楽隊長、小林宮内府楽長、杉本師導大学教授、幹事に林民生部編審官、伊那楽団協会事務局長、村松楽団協会委員等、さらに日本側顧問として山田耕筰、小松耕輔、信時潔、橋本國彦が推されている。国歌は、このほど歌詞の起草委員会の草案ができ、近々作曲にかかることになった。/■新京音楽団演奏会 1942年4月29日、公会堂で第1回が催された。曲目は@国民歌謡≪春≫A序曲≪大洋の印象≫B組曲大満洲≪建國十周年を迎へて≫C円舞曲≪舞踏会への招待≫D序曲≪詩人と農夫≫。指揮は大塚淳。/第2回は1942年5月28日公会堂で。曲目は@市川都市春作曲 大満洲国祝典組曲≪暁雲≫Aテノール独唱 上野耐之B組曲≪ペーア・ギュント≫C交響楽詩≪フィンランディア≫。指揮は大塚淳。2回とも音楽院時代と変わりばえのしない低調な会だった。/■山田耕筰の来朝 新京音楽団の演奏会の低調を是正すべく、同団の事務局長長坂巻は先月来上京して奔走していたが、山田耕筰の助力を得てそれをなすべく5月30日に山田を伴って帰満。山田は種々視察して帰国のうえ、その方策を決定することになり6月7日に離満。/■満洲作曲研究会 政府はラジオ、新聞、映画等の及ばない約7割の国民に重要国策、大東亜戦争の意義を徹底するため歌謡曲等を作ることになったが、同研究会では、これに協力することになった。なお建国十周年藝文祭には市場幸助が満洲古典曲をテーマとした管弦楽を発表することになっている。
【2002年4月11日】
中山晋平と有馬大五郎<楽界人物素描>山中競(『音楽之友』 第2巻第7号 1942年07月 p.100)
内容:情報局第五部第三課長・上田俊次は日本音楽文化協会を設立し、日本蓄音機レコード文化協会、日本少国民文化協会、日本文学報国会まで組織して、海軍機関中佐に帰還した。上田は転出に当たって前記各団体の幹部を水交社に招いて別宴を設けるなどした。こうして上田が去って、日本音楽文化協会理事長の中山晋平、日本交響楽団事務総長・有馬大五郎、日本蓄音機レコード文化協会常務理事の竹越和夫の3人の存在が検討されだした。ここでは楽壇と直接的関係を持つ中山と有馬を俎上にもちだそう。/作曲家中山晋平については、いまさら多言を要さない。問題なのは日本音楽文化協会理事長としての中山である。日本音楽文化協会という団体は怪異なものであって、辻荘一が監督官庁と日本音楽文化協会理事会の板ばさみにあって詰腹を切らされたこと、その後任に中山が就任したことも世間一般は知らされない。いや会長・徳川義親の留守を預かる副会長・山田耕筰でさえ知らなかったという。だから日本音楽文化協会そのものが社会からはもちろん、楽壇にあっても一向信用されない。ここでは組織と人間の根本原則を中山がどう処理するかを凝視すると同時に中山に前任者の轍を踏まぬよう警告しておく。/日響の今後の問題は、日響そのものが、日響の演奏が、大東亜戦争完遂にいかなる形でお役に立つかである。この点で事務総長有馬の手腕に期待するところ絶大である。彼は声楽家としてスタートし、次いでウィーンで腕を磨いた音楽批評で、さすがに音楽博士の称号を所有するだけのことはある。情報局が日響の事務総長に白羽の矢を立てたのも、この音楽博士に根ざしたものである。日響で真に必要とするのは戦争と音楽の融合だ。だから定期演奏会においては音楽文化の最高峰を対照とし、放送にあっては音楽文化の最下部を対照として、近く≪空の勇士≫≪出征兵士を送る歌≫≪愛馬進軍歌≫≪暁に祈る≫≪国民進軍歌≫≪月月火水木金金≫を演奏するという。
【2002年4月13日】
大野一子<楽界人物素描>加治春彦(『音楽之友』 第2巻第7号 1942年07月 p.101)
内容:大野は今春大阪音楽学校を卒業して、読売新聞社主催の新人紹介演奏でかなりの成績を獲ながら、自分を飾ることや気取ったポーズを作らない素直な歌手である。評判を鼻にかけず、精進を続けていることは彼女の自覚にもよることながら、尊父大野晃嗣画伯が芸術のよき理解者であり、よき協力者であるという家庭的な環境からも生まれ来ているであろう。彼女の歌う歌曲は、これまでの歌手が歌ったものとは違った新鮮さが感じられるが、一方から見れば未成熟さも感じられる。彼女はビクターに入社し、現在、ノタルジャコモに師事して精進している。レコード歌手としては、まだレコードが発売されていないので評価できないが、これまでになかった新しい道を拓いていくことになるだろう。大野を獲得したビクターは彼女のパーソナリティを生かした楽しいレコードを、どしどし市場に送ってもらいたい。
【2002年4月16日】
音楽会記録唐端勝編(『音楽之友』 第2巻第7号 1942年07月 p.102-106)
内容:1942年5月11日〜1942年6月10日分(→ こちら へどうぞ)。この号より東京の音楽界記録にくわえ、大阪篇が掲載される。本文は別々に記載してあるが、別ページの年表では記述を別立てにはしなかった。
【2002年4月16日】

楽界彙報(『音楽之友』 第2巻第7号 1942年07月 p.106-109)
内容:国民音楽協会の役員改選 国民音楽協会では本年度総会で役員改選を行なった。新役員は、理事長に小松耕輔、理事に秋山日出夫、浅香鱗三郎、有坂愛彦、大和田愛羅、奥田良三、高田金八、外山国彦、堀内敬三、谷田部勁吉、吉田永靖。/音楽文化協会のブラームス研究会 日本音楽文化協会では1942年5月5日、8日、12日、15日の4日にわたって東日講堂でブラームス研究会を開講した。5月5日は、山根銀二「ブラームスの音楽」(講演)、 園部三郎「第一交響曲」(解説)およびヨッフム指揮によるテレフンケン盤による同曲のレコード鑑賞。8日は、森本覚丹「ブラームスとその時代」(講演)、藁科雅美「第二交響曲」(解説)およびそのレコード鑑賞。12日は、野村良雄「ブラームスとドイツ音楽美学」、門馬直衛「第三交響曲」(解説)およびそのレコード鑑賞。15日は、久保田公平「ブラームスの旋律」(講演)、野村光一「第四交響曲」(解説)およびそのレコード鑑賞。/音盤芸術家協会の改組 音盤芸術家協会は、日本蓄音機レコード文化協会が結成されたのを機に改組を行ない、今後の活動方針を協議することになった。新役員は、理事長に中山晋平、常務理事に佐々木すぐる、久保田宵二、理事に宮田東峰、江口夜詩、大村能章、東海林太郎、監事に西條八十、奥田良三。/音楽文化協会陸海軍へ献曲 日本音楽文化協会は吹奏楽曲を陸海軍に献納する計画を進めていたが、15曲が協会へ寄せられ、このほど次のように献納の手続きをとった。
◎陸軍へ
  石田一郎《密林を征く》
  市川都市春 吹奏楽のための詩曲《熱風》
  柿本七郎《総進軍》
  八木傳《美しき行進曲》
  山下孝《興亜の凱歌》
◎海軍へ
  安部幸明 行進曲《南十字星下を征く》
  石井五郎 行進曲《我が艦隊》
  小倉朗《行進曲》
  太田忠《東亜の巨歩》
  小山徳彦《海ゆかば》
  草川信《召されたる勇士》
  須賀田磯太郎《逞しき前進》
  田中準《東亜の黎明》
  松平頼則《無題》
  山本直忠《堂々たる皇軍進駐》
藤原義江歌劇団第十五回公演 藤原歌劇団第15回公演「トスカ」は、1942年5月27日、28日の午後6時30分から、29日の午後1時からと午後6時30分からの4公演を終了した。初日は海軍記念日に当たったため海軍省大宅大佐の講演を乞い、各回とも開幕前に早川彌左衛門の指揮で《軍艦行進曲》を演奏した。キャスト、スタッフは「音楽会記録」の項を参照。/音楽文化協会の音楽研究会 日本音楽文化協会は音楽の芸術的な研究会を年に3〜4回開催することとなり、その第1回を1942年6月1日夜、丸ノ内保険協会講堂で「グレゴリイ聖歌のリズム」と題して開催した。発表は「グレゴリアンに於けるリズム」(野村良雄)、「正しいリズムについて」(鈴木次男)、「グレゴリアンと東洋的リズム」(アンヌイ)。/ベートーヴェンの洋琴奏鳴曲研究会 日本ビクター普及部ではピアノ実演によるベートーヴェンのピアノ奏鳴曲の研究会を計画、その第1回を1942年5月6日夜、丸ノ内保険協会ホールで開催、野村光一の講演、永井進の実演(《作品2-2》《月光》《悲愴》)があった。第2回は1924年6月12日同所で園部三郎の講演、永井進の実演(《熱情》《作品57》《作品90》)があった。第3回は1942年7月14日同所で行なわれる予定で、山根銀二の講演と永井進の実演がある。なお1942年6月3日には大阪音楽文化協会によって同じ研究会が行なわれ(ガスビル)、土田貞夫の講演、永井静子の実演とレコード鑑賞があった。/放送局の芸能嘱託 日本放送協会では健全な国民娯楽の発展に資するため、芸能嘱託制を採用し、各界の経験者数十名を嘱託として毎月芸能協議会を開いて具体策を練ることになった。第1回は1942年5月21日、協会内で開かれたが、嘱託は次の各氏である。〈作家演出家〉高田保、水木京太、宇野浩二、菊田一夫、森本馨、坂田栄一、鈴木のり子、小林勝等、〈俳優〉徳川夢声、中村伸郎、丸山定夫、三木ニラ、夏川静江、山本安英、東山千栄子、汐見洋、北澤彪、〈作詞家〉サトーハチロー、勝承夫、島田磐也、佐伯孝夫、〈作曲家〉古関佑而、山田栄一、細川潤一、乗松昭博、市川元、深井史郎、平井保喜、服部正、高木東六、〈歌手〉内田栄一、永田絃次郎、藤山一郎、井口小夜子、宮下晴子、大谷冽子。/姫路音楽文化協会結成 このほど姫路音楽文化協会が結成された。発足当初の主な役員は、会長に奥村紀雄(日赤姫路病院長)、委員長に眞下恭、常任委員に井出綿泉、高井利一郎、竹森秀明、野田正康、三木定夫、指揮委員に小野克巳、加治木好彦、前田義夫、守安省、山下堅次。/第一回男子合唱競演会 国民音楽協会主催第1回男子学校合唱競演会は1942年6月7日正午より日比谷公会堂で開催された。参加団体は、関東学院高商部、東京農大、東京工大、東京高校、慶應義塾大学ワグネルソサエティ、早大専門学校、青山学院グリーンハーモニー、日大工学部機械科、東京美術学校、慈慶[ママ]医大、早稲田大学、上智大学、東京医専、豊島師範、青山師範、立教大学。結果は、青山師範、立教大学、青山学院、慶應義塾大学ワグネルソサエティの4団体が優秀校として国民音楽協会賞状が授与され、青山師範が最優秀として文部大臣賞状、東京市長賞状、日本音楽文化協会賞状が授与された。/文部省の推薦紹介音盤 @第5回分が1942年5月6日付で発表された。その内容は、〈推薦〉歌曲《働くこころ》(ビクター、岩佐東一郎詞、深海善次作曲、柴田睦陸、小森慧子)、歌曲《山の子供。ひらいたひらいた》(コロムビア、高橋掬太郎作詞、下總皖一作曲、コロムビア合唱団、同児童合唱団)。〈紹介〉童謡《一つ御空。お山へ登ろ》《兵隊さんに負けないで。勝って兜の緒を締めよ》《おとなり同志。蜜蜂ブンブン》、歌曲《十億の進軍》、長唄《連獅子》《吾妻八景》《浦島》(以上キング)、童謡《日本の朝》、歌曲《ホイサ働け。職場のうた》、《一億進軍の歌。みんな用心》、《武士の道》、新日本音楽《南島情調。南島の船唄》、雅楽《高麗壱越調。緩切》(以上ポリドール)、童謡《バンザイ日本の兵隊サン》、唱歌《花まつり》、歌曲《あなうれし》、《太平洋進撃。無敵潜水隊の歌》、《花間口占》、《海ゆかば》、《戦ひ抜かう大東亜戦》、《壮烈特別攻撃隊》、軽音楽《木曽節》(以上コロムビア)、歌曲《ハワイ大海戦》、吹奏楽行進曲《勝鬨》、歌曲《此の一戦》、軽音楽《日独伊愛国歌集》、《わらべうた》、《雨降りお月》(以上ビクター)、軽音楽《森の鍛冶屋。森の水車》(以上テイチク)。Aつづいて第6回分が5月9日付をもって発表された。〈紹介〉イ(現代邦人の作曲または編曲に係るもの)林廣守作曲《君が代》、上眞行作曲《一月一日》、奥好義作曲《天長節》、小山作之助作曲《勅語奉答》、井澤修二《紀元節》、文部省選定《明治節》(以上ポリドール)、歌曲《特別攻撃隊》(ビクター)(キング)、歌曲 弘田龍太郎作曲《世界の涯までも》(ポリドール)、瀬戸口藤吉作曲《愛国行進曲》、《軍艦行進曲》(ビクター)、ロ(現代邦人の演奏に係る古典音楽)謡曲《忠霊》(ビクター)、義太夫《壽式三番叟》(キング)。//
■情報■
 
内容:国民音楽協会の本年度事業
 国民音楽協会は先ごろの総会で本年[1942年]度事業を次のように決定した。1942年6月7日、男子学校合唱競演会−−10月17日、女子中等学校合唱競演会−−11月23日、大日本合唱競演会−−9月、厚生音楽合唱競演会合唱指揮者講習会/音楽文化協会評論部の事業 日本音楽文化協会評論部本年度下半期の事業計画が同委員会で決定した。主なものは、
  @愛国歌指導と名曲を楽しむ夕(毎月2回)
  A音楽文化講座第3回シューベルト(1942年7月中に6回)
  B音楽文化講座第4回  未定(1942年9月中に6回)
  C音楽文化講座第5回ベートーヴェン交響曲(1942年10月中に6回)
  D音楽文化講座第6回  未定(1942年11月中に6回)
    ★なおベートーヴェン交響曲研究は大阪、京都、名古屋においても開催する
  E厚生音楽鑑賞会(工場内産業戦士のため 毎月数回)
  F白衣勇士のための管弦楽解説付き鑑賞会(1942年秋)
  G解説付き邦楽鑑賞会(1942年秋に2回)
  H音楽研究所講座(1942年秋に2回)
  I初等音楽講座(毎月1回、3ヵ月)
  J音楽史講座(毎月2回、4ヵ月)
  Kベートーヴェン弦楽四重奏曲全曲解説付き演奏会(1942年秋に3回)
  L標準洋楽語集改編
  Mリーマン音楽辞典、大東亜音楽辞典翻訳編集(5年継続)
  N音楽年鑑編集発行
大阪音楽文化協会事務局の陣容強化 日本音楽文化協会大阪府支部である大阪音楽文化協会では、このほど事務局の陣容を次のように強化した。<事務局長>竹内忠雄 <事務局次長>加納和夫 <庶務係>鳥井輝二 <文書係>朝比奈隆 <会計係>友田良男 <事務係>林唯一郎 <宣伝啓発係>近江屋清兵衛 <編集出版係>吉村一夫 
■消息■ 
内容:竹越和夫 大阪中央放送局文芸課長を辞し日本蓄音機レコード文化協会常務理事に就任。渋谷区羽澤町53へ転居。/尾崎宏次 渋谷区代々木上原1129へ転居。/清水脩 杉並区西荻窪1-42へ転居。/上田俊次 情報局第五部第三課長として音楽に関係が深かったが、このほど海上某要職転出する。/辻荘一 日本音楽文化協会理事長を辞任。/中山晋平 日本音楽文化協会理事長に就任。/津田太平 武蔵野音楽学校講師に就任、板橋区江古田町1934栄荘に転居。/村松道彌 満洲楽団協会委員である村松は、先ごろ新京音楽院事務長を辞任後、1942年6月より満洲芸文聯盟および新京中央放送局の嘱託となり、満洲国建国十周年慶祝芸文祭の諸般の処理に当たることとなった。/菊地千代子 国立出身の菊地は満蓄の招待により渡満。
【2002年4月21日+4月22日+4月25日】
浅野千鶴子独唱会照井瓔三(『音楽之友』 第2巻第7号 1942年07月 p.113)
内容:1942年6月2日夜、日本青年館で浅野がイタリアとフランスの歌曲で独唱会を開いた。イタリア古典歌曲2曲と、現代イタリア歌曲作曲家の一人フランコ・アルファノがインドのタゴールの3つの抒情詩に作曲した3曲、それにドビュッシー6曲、フォーレ2曲、dリーブがミュッセの詩に曲を付けた《カディスの娘たち》を歌った。ムラのない良く制御された声と、正しい呼吸法、無難なディクション、歌う歌曲に対しての良い理解をもつ老練なソプラノである。当夜の白眉はアルファノの歌曲とドビュッシーの《パンの笛》と《髪》、フォーレの《夕暮れ》だった。同じフランスものでもドビュッシーの《あやつり》とフォーレの《月の光》は、もう少し速度が欲しかったし解釈の点ではフランス的なものが少しばかり欠如していた。発声について、イタリアものは手堅いが、フランスものは研究の余地があるようだ。ほかに山田耕筰の歌曲3曲を歌ったが、西條八十の詩に作曲した《兵士の妻の祈り》が目立っていた。まじめな研究家であるところに敬意を表したい。
【2002年4月27日】
音盤春秋(『音楽之友』 第2巻第7号 1942年07月 p.117-118)
内容:コロムビアが農林省撰定の増産の歌《村は土から》と《みたから音頭》を吹込んだ時、霧島昇と松原操に白羽の矢が立った。松原は先日第二子を産んだばかり。増産の趣旨に沿った二人を歌手に使ったという話である。/藤原亮子(ビクター)は陸軍省恤兵部派遣の慰問団に加わり、さいきん中支方面に再度の方面を行なった。1942年3月末出発、6月7日に帰着し、しんみりした《母に捧ぐる歌》など聴かせるとうっとりときいてくれる、また徳山lの死を伝えると皆おどろき悲しんだとの由。/増産歌《村は土から》は、コロムビアの作曲家を総動員してコンクールを行ない古関裕而が入選した。これまでも社内コンクールをするとほとんど古関が当選(《日本子守唄》《婦人愛国の歌》)し、今回もそうかと噂されていたが、本当にそうなった。/故・徳山lに未亡人、壽子さんはタマキ会と名付けた音楽教授所を自宅に開いて、専ら少国民を相手にピアノと歌を教えはじめた。故人の遺稿集も菊池寛らの肝いりで近く上梓の運びになるらしい。/今年から第二国民兵の点呼が施行されることなり、各地でその予備訓練が始まっている。第二国民兵の藤山一郎は南方戦線に慰問に行く予定でこの訓練に参加できないこととなったが、南方行きが急遽中止となった。その時すでに訓練期間も過ぎて藤山はすっかり腐ってしまった。/童謡歌手の石井亀次郎は1、2年前に石井肇の名でバリトン歌手として名乗りをあげたが、再び亀ちゃんに逆戻りして毎日引っ張りだこの忙しさである。石井には大東亜(ポリドール)社員としての仕事もあるが、日曜の休日には決まって歌の指導に出張を命じられ、《月月火水木金金》を指導しているという。/李香蘭は女子に人気が高く、彼女の吹込みの時刻にはコロムビアのスタジオ前の廊下は若い娘たちで混雑する。どこから伝えきくのか、会社には関係ない人たちが集まってくる。これを見たある人は、防諜ということが厳しく言われているのに、どうしてこうも早く方々へ知れ渡るのかと驚いている。/さいきん映画化された泉鏡花の『婦系図』は、ビクターでも映画と同じ出演者で『婦系図絵巻』(4枚)というレコードにした。湯島の境内の場で、長谷川一夫扮する早瀬と山大五十鈴扮するお蔦のやりとりがあり、市丸が清元を語るが、ここで市丸が泣き出し、何度も録音を取り直したという。/ジャズ界の女王と謳われた淡谷のり子は、さいきん愛国歌謡と歌いたがっている。時局便乗ではなく本当に歌いたいというのだが、これでこそ戦争下真の軍国に本の女性である。/詩人佐藤惣之助が先月半ばに脳溢血で急逝した。以来、コロムビアでは太った人たちが寄ると脳溢血の話題でもちきりである。/大東亜の作詞家矢島寵児は海軍一等兵でもある。海軍軍楽隊出身の江口夜詩と組んで《月月火水木金金》の姉妹篇、《僕は水兵》を作り上げてダメを押す。
【2002年4月30日】
編輯室/沢田勇・堀内敬三・加藤省吾・黒崎義英(『音楽之友』 第2巻第7号 1942年07月 p.128)
内容:『音楽之友』誌は時局を考慮し、編集陣の陣容を刷新し内容の革新充実を図った。その実現の一歩として1942年6月号は好評を得た。7月号以降、徐々にわれわれの意図は実現されるはずである。(澤田勇)/音楽雑誌は地方通信員を置く余裕はないが、地方在住の諸氏からできるだけ短めの記事(紙面が狭いので)を寄稿してほしい。薄謝を出す。また資材節約のために、本誌はなるべく多くの人たちで回読してほしい。(堀内敬三)/詩と音楽の交流については従来ほとんど関心が払われていなかったよう思われる。日本的音楽の樹立に当たって詩と音楽の交流こそ、もっとも緊急の問題ではないかと思う。(加藤省吾)/音楽は聴くものであり雑誌は読むものである。読んで知るものであれば、まず読まれるようにしなければ成らない。その責任が実は編集者にある。(黒崎義英)
【2002年5月2日】



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