『音楽之友』記事に関するノート

第2巻第6号(1942.06)


◇大東亜共栄圏と音楽対策石井文雄(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.14-21)
内容:今次の戦争の当面の目的は大東亜共栄圏の確立ということにある。戦争の発端は、すでに満洲事変にそのきざしをもとめることができるが、直接的には日中戦争がその端緒をなしていた。したがって大東亜共栄圏確立ということは、その内容において東亜共栄圏の確立ということと、南方共栄圏の確立という二つの使命が含まれていることを察知できる。/日本精神や日本文化のみならず、総じて東洋思想や東洋文化は道義を元素として成り立っているので、義は広く東亜の特性として取りあげることができる。大東亜共栄圏の確立が東亜共栄圏の確立を母胎とし、これを核心として遂行されるというのは、その日本的ないし東亜的特性を生かそうとするものである。東亜共栄圏と南方共栄圏は必ずしも一源一体のものとは考えられない。だが前者の確立をもって直ちに大東亜共栄圏確立の聖業に一括したことは、日本を大東亜の盟主として、東亜的特性としての道義が強調され、これを基調として大東亜新秩序を建設し、大東亜共栄圏を確立しようとするものと思われる。このようにして初めて大東亜共栄圏と文化の問題が考えられる。ここでは特に共栄圏と音楽文化の政策について論を進めたい。/広く音楽を文化の立場から考察することは、こういう非常時には特に必要なことである。文化は恒久性をもつと同時に進展性をももつ。文化も音楽も、時間性と空間性の二つの性格を持っている。だが、そのいずれを中心とするかといえば、空間性をその中心として反映している。もちろん音楽として時間性も持つものであるから、恒久性としての普遍性と変化性としての進展姓を持っている。ここに音楽の平時性と戦時性とが問題とされてくる。音楽は平時のものでなければならないが、しかし、これを戦時において一時的に是正調理しなければならないのであるから、音楽の臨時性もまた必要とされてくる。ただ、その臨時性は改善と改悪の頂点にあり、好機であると同時に危機も孕んでいる。こういう機会に臨んでよほど冷静にしかも機敏に対応の対策を講じなければならない。音楽は感覚に訴え、直感に求められるが、その感覚も直感も畢竟理性と一致するものである。したがって、音楽それ自身の本体においては、訴える感情感覚が感情となり、これを構成する理性感覚が理性となり、ここに統一と進展の両作用が顕現されることとなる。/音楽は、その時間性の上からいえば音楽の歴史を呼び、その空間性を説けば音楽の文化を構成する。音楽の文化性は空間を主とする立場から見れば、その究理性から善が追求され、道徳を究明する。したがって、そこに分析性があり、進展性が期待される。その反面、究情性から美が追求され、芸術を究明する。音楽のもつ道徳性や進展性に、音楽の指導性がある。その芸術性や不変性から現実性が強調されるところに、音楽の流行性がある。また音楽を、その時間性を主と見れば、音楽の歴史において美的道徳楽と美的芸術楽とが交互に現れる。/大東亜共圏の確立には、音楽としては現実的音楽、すなわち芸術的音楽がその対象として浮上する。しかしながら、大東亜新秩序建設の指導方針は道義というところにある。したがって大東亜共栄圏の音楽的特性は、道徳的善楽でなければならない。その事情をよく察知して、やたらに大衆的俗楽に止まることなく、あくまでも目的とする道義的善楽の確立に精進しなければならない。/大東亜共栄圏の確立は、大東亜民族の解放に他ならない。圏内諸国家諸民族の解放のためには、それらの諸民族の特殊性を採択しなければならない。もちろん日本なくして大東亜はないのだから、日本の特殊性は大東亜の普遍性として扶植されなければならない。しかしまた、大東亜には大東亜の特殊性があるのであり、対圏内的には、これが大東亜の普遍性となるのである。では、有機的に考えられる大東亜圏の特殊性と普遍性とは、果たしていかなる対比においてその相互関係を確立すべきか? 特殊性に重きを置くか、その逆にするか、その解決は慎重を要するものがある。次に、大東亜共栄圏確立に際して音楽の時代性を考慮する必要がある。古典音楽以外に伝統的民族的な音楽は、もっともよくこれを尊重しなければならない。しかも、大東亜圏内に音楽対策を樹立するに当たっては、その自国楽自族楽に併せて大東亜楽を採択すると同時に、圏外の洋楽をも広く吟味奨励しなければならない。文化の本質から言って、文化や音楽は自由を尊び、平和を愛し、国境もなく、将来性も持つのであるから、それが大東亜の共栄に障碍とならない限り、これを包容採択するだけの度量がなければならない。大東亜共栄圏確立に当たってその音楽共栄圏を建設するには、時間的空間的の両面に渡って、よくその特殊性と普遍性とを確立することが緊要である。特にわが音楽界は他の文化界に比して遜色が認められるから、音楽文化対策の樹立については広く対策委員会ともいうべきものを組織し、内外の権威と有能の士を網羅して速やかに工作に当たることが急務である。そうして、放送対策、教育対策、教化対策、娯楽対策、芸術対策を達成して、音楽共栄圏の確立に資さなければならない。
【2002年1月3日】

音楽文化の革新<対談>山田耕筰 堀内敬三(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.22-33
内容:はじめに堀内が、戦争が始まってから音楽の考え方がいままでとすっかり変わって、新しい構想の下に出発しなければならないと思う。差し当っては日本音楽文化協会を拡大強化するということが考えられるが、腹案があれば聞かせてほしいと切り出す。
山田は、誤解を避けるため、この座談会は音文副会長としてではなく一楽人の立場で話すと宣言する。そのうえで、現在の日本音楽文化協会の組織や機構では音楽文化を健全に推し進めていくには不便な点が多いように思うと述べる。山田によれば、楽壇の各方面の職能をそれぞれのかたまりにして、すなわち作曲家、演奏家、批評家、教育音楽者などの団体を作り、さらに厚生音楽協会、国際音楽協会、音楽学会、産業音楽協会なども必要となるであろうし、芸能文化聯盟傘下にある邦楽関係の団体をも取り込み中央聯盟的な機関を作るようにしなければ、容易に日本の楽壇は健全な歩みに乗り出せないのではないかと思うという。堀内は、情報局にしても映画や演劇の方面と違って、音楽の方面には一人も専門家がいないようだと嘆き、山田の案をもっとも正しい方法だと支持する。山田は音楽学会がないので、たとえば音感教育問題や、南方や大陸の音楽を研究する機関がないといい、また国際音楽協会といった組織がないので、日本が国際的に活躍しなければならないときに無駄な働きをするという。そして評論家に対しては、演奏会や作曲の批評にのみ止まっていては、日本の楽壇を健全にしてゆくことはできないと指摘する。堀内は山田を支持しつつも、評論家は音楽の雑誌以外には活躍する場がなく、その音楽雑誌は新聞紙法によっていないため時事評論ができず、どうしても技術評論になってしまう(ただし『音楽之友』だけは新聞紙法によっていると注がついている)、と理由を述べている。堀内は邦楽の問題にも触れる。日本音楽文化協会結成時、徳川義親侯がこれを中に入れると断言し、そうすべきなのだが、堀内によれば一党一派になっている邦楽の考え方を変えなければ、日本の音楽界に寄与することはないと思う、という。山田は、邦楽の学的研究がなされていないから、そこにはっきりした目標が見えないといい、さらに三味線を四本指で弾くなり、多音的な手法を取り入れるなどの提起もしている。堀内は、明治時代に山勢松韻が筝をハープの代りにオーケストラで使った事例を紹介し、山田と二人で、井澤修二、小山作之助、上眞行、鳥居忱らを有能有職だったと称えるが、以後、音楽者が薄っぺらになったと嘆く。話題が交響楽に移り、堀内は、日本交響楽団には楽団の外から理事が入ってくるので、今までの技術水準は劣らずに、活動の範囲がもっと国家的になり得ると指摘する。山田は、外国人指揮者に指の使い方、弓の切り方などの下稽古をつけてもらいたいと希望を述べる。また、オーケストラは最低85人いないと近代音楽など演奏できず、日本では弦楽器の人数がたとえば24人揃って演奏することなどほとんどないので、数を揃え、欧米に対抗できるようにしなければと説く。さらに軽音楽についても触れ、思索的でなく感覚にすぐ訴える新日本的な軽音楽を作らなければいけないと主張する。さらに満州について意見を求められた山田は、音楽の指導性をもった人がいないこと、物価が高く生活が立てづらいことを挙げ、日本から満洲音楽研究を名目に一、二年、適当な人を派遣して満州で指導するようにすれば、無理なく双方に益すると述べる。堀内は、こうしてみるとやるべきことがらは多く、山田に日本音楽文化協会に乗り込んでもらって、その中から外に働きかけてもらうという注文をだすことになる、とエールを送っている。
【2002年1月7日】

藤原義江氏の負傷(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.33
内容:藤原義江をはじめとする一行(三上孝子、留田武、村尾護郎、小森智惠子ら十余人)は、1942年3月23日に東京を発ち5月10日に帰着するまで、北支第一線まで進んで皇軍慰問を行なった。藤原は4月14日、北支某地において軍用トラックで移動中、道路が損傷していたため曲がり角で約10人の搭乗者とともに投げ出され左第5肋骨を骨折したが、そのまま慰問を続け、終了後に軍の病院で手当てを受けた。奇跡的に回復し、今では演奏に不自由しなくなったといい、5月末に歌舞伎座で上演される歌劇≪トスカ≫の猛練習中である。
【2002年1月8日】

民間吹奏楽の創建秘史池田辰五郎述 堀内敬三記(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.34-39
内容:
日本に初めて民間の吹奏楽が生まれたのは1887(明治20)年である。池田辰五郎は1868(明治元)年東京市芝区三田で生まれ、1884(明治17)年に海軍軍楽隊に入隊し、その後、最初の民間吹奏楽に関係し、さらに鉱山業に転じ、数年前に引退した。過去、民間吹奏楽に関する記事は、1927(昭和2)年6月15日発行の『太陽』臨時増刊「明治大正の文化」の中に出てくる田邊尚雄執筆の「明治より大正への音樂界」、そして1931(昭和6)年10月発行の三浦俊三郎著『本邦洋樂変遷史』とに出てくる。池田の物語は、それと対照して興味あるものである。以上、堀内による。/【問】民間吹奏楽は1885(明治18)年頃生まれたという説があるが?【答】1887(明治20)年5月に開業した東京市中音楽会以前には、民間吹奏楽は一つもなかった。1886(明治19)年11月3日の夜、加川力の住宅に16人が集まり、社会一般における吹奏楽の需要が高まり海軍軍楽隊が出張演奏の要求に応じ切れない状態だから、民間に良い吹奏楽団を作る必要があるとして、その具体案を考えた(当日加川宅に集まった人たち:矢上郁(エス・クラリネット)現役、井上京次郎(B一番クラリネット)出身者、松本軍三郎(同)現役、瀬戸口藤吉(同)現役、池田辰五郎(同)現役、後藤不二太郎(B二番クラリネット)現役、古賀某(B三番クラリネット)出身者、沼元釣[もとかね](B一番コルネット)現役、西郷直袈裟[さいごう なおけさ](同)現役、前田悌次郎(B二番コルネット)現役、西村倉次郎(Bテノルホルン)現役、加川力[かがわ つとむ](エス・ホルン)出身者、平岡啓二郎(エス二番ホルン)出身者、大竹秡太郎(バス)現役、西村源八(小ドラム)出身者、芳ヶ原嘉成(大ドラム)出身者)。16人のうち現役者は、あと2年間は海軍を離れられないので退職者である井上、加川、西村源八、平岡、芳ヶ原、古賀の6人がつくることとした。金策がついて、まず新聞広告で生徒を募集したところ102人の応募があり、26人を厳選した。そして愛宕山下の薬師寺を借りて事務所とし、下渋谷の禅宗の寺を練習所に借りた。楽器は、横浜のチャブ屋にチャリネ曲馬団(1886年来日)の楽士が酒代のカタに置いていったコルネット、フレンチ・ホルン、Bバス・トランペットを安く買って稽古した。先生は井上、加川、西村、平岡の4人。/【問】ジョージという楽長はその時雇ったのか?【答】そうだ。練習を始めたばかりの1886(明治19)年11月のことだ。チャリネ曲馬団の楽士の居残りで、コルネットは上手だが楽譜は読めないし指揮もできない。看板の意味で6ヵ月契約で雇ったが、当人がいたたまれなくなって1ヵ月ほどで辞めた。【問】そのあとは楽長なしか?【答】ええ。加川が楽長格になって練習し、およそ6ヵ月でワルツ、マーチ、ポルカなど15曲ほどを演奏するようになり、また新たに生徒を募集して18人入れ、1887(明治20)年5月に東京市中音楽会と称して開業を発表した。しかし開業発表後に、上海のモートリー商会から新旧27個の楽器を買い入れた始末だった。制服はフランス式の金ぴかのもので一着45円、帽子一つが8円する上等のものだったので、段々に揃えていった。最初の出張演奏は、1887(明治20)年夏、上州桐生の製糸会社の開業式に32人で行き、指揮は加川だった。謝礼金は旅費宿泊費向こうもちで600円だった。【問】リゼットを雇ったのはその頃か? 【答】そうだ、1887(明治20)年の8月頃だろう。外国人教師が欲しく、リゼットという者が立派だというので井上・加川の二名が横浜は出張し、試験の上、月給120円で雇った。リゼットはコルネットを吹きながら中心になった。リゼットは横浜海岸通りのグランドホテルへ運動し、1週1回の出張演奏の契約をして、1ヵ月4回で謝礼金120円と決め、技術優秀なもの16人が横浜市へ家を借り横浜出張所として在勤したが、東京本部在勤者も運動会、園遊会、商店開業式などへ毎日招聘されて多忙だった。/【問】東京市中央音楽会は株式会社になったのか? 【答】そうだ、1888(明治2年)のことだ。社長は澁澤栄一。澁澤も含め、複数の人が出した資本金が10,000円。それが約1ヵ年で資本金のうちから支出した金額のおよそ3倍の利益が上がったのだから経済上は成功だった。しかし外国人教師を除くと、最高位は加川と井上の月給25円、生徒は無給だったので、経費の割に収入率が良かった。/【問】出張演奏料は? 【答】当時のことはよく覚えていない。1897(明治30)年頃までは30分50円、あと1時間ごとに10円増だった。東京市中音楽会は後に出資者と感情の衝突があって加川・平川を残して井上ほかの海軍出身者3名は退団した。1889(明治22)年末に海軍軍楽隊の現役者が満期になったので東京市中音楽会へ入ることを申し入れたが、リゼットが承知しない。そこで不快を感じた一同は別に音楽会を作ることとし、神屋町で金貸しをしていた中村ミサから2,500円借りて、海軍軍楽隊へ楽器を納入していた横浜のコッキング商会に英国ベッソン社製の楽器16人分が在庫してあったのを幸いに、東洋音楽会と名乗って、麻布の日ヶ窪のキリスト教会を借りて練習を始めた。総勢13名。楽長は矢上にしたが、自分で吹きながら合奏の中心になったので棒を振ったわけではない。私[池田]は1899(明治22)年12月17日、横浜グランドホテルへ行って支配人エッピンッジャーと面談し、翌18日の夜東洋音楽会の演奏を聴かせたところ相当のできだったので、当分の間、毎週水曜日の晩に1回40円で演奏することとなった。東洋音楽会は海軍で十分技倆を鍛えた者たちだが、東京市中音楽会はまだ未熟で演奏の成績が悪く、一度は両者を合併して東洋市中音楽会と称したが、結局リゼットは競争に負けて加川ほか生徒たち15人を連れて神戸のオリエンタルホテルへ行き、神戸市中音楽会を作った。横浜に残った東洋音楽会は1週間のうち日曜日と金曜日を除く毎夜演奏して1ヵ月450円を受ける契約をした。【問】当時の仕事の種類と曲目は? 【答】食事時間の奏楽だ。曲はあらゆるものをやった。はじめは楽譜を海軍から借りてきたが、グランドホテルにはニューヨークの音楽会から毎月30くらいずつ新刊譜を無料で送ってくれるので、それを使うようになった。しまいには海軍へこちらから新しい楽譜を廻したこともある。スーザやプライヤーのマーチ、舞踊、それから歌劇の抜粋曲(喜歌劇≪ゲイシャ≫)などをやった。新曲ばかりやるので技倆はぐいぐい上がった。会は月給制度にせず収入から雑費を差し引いて、あとを配当したが配分率について衝突が起こり、3人ばかり1週間も休んだので、私[池田]はホテルとの折衝を受け持っていた関係上申し訳なくて退会した。/【問】それで東洋音楽会とは縁を切ったのか? 【答】そうだ。その後、1890(明治23)年8月に米国東洋艦隊司令長官ベルナップ中将から呼ばれ、軍楽隊は金管ばかりなので木管も入れたい、入ってくれぬかと言われた。翌日、艦へ行き池田の技倆に疑いを持っているらしい楽長バーヤーの前でクラリネットの演奏の試験を受けたところ楽長も安心し、一等楽手として月給は米貨38ドル、別に食事代が月9.5ドル(ただし被服は自分もち)という高給で採用された。被服はその日のうちに注文し徹夜で縫ってもらって、翌日の乗艦に間に合った。1ヵ月して、もう一人日本人のクラリネットを入れたいというので井上京次郎にエス・クラリネットを受け持ってもらった。そのうち日本人楽手は信用され、米人楽手のあまり巧くないのをやめて、陸軍軍楽隊退職者・和久田鈴四郎(コルネット)、村上宗海(同)、八代泰作(クラリネット)、伊藤安之助(同)、大河原正八(ドラム)を頼んで契約した。それが1891(明治24)年10月にオマハ号は帰国することになり、池田を除く日本人楽手は下船した。井上を除く陸軍出身者は、その後神戸のリゼットの楽隊へ入ったそうだ。池田はオマハ号からチャーレストン号へ移って米国メールアイランド鎮守府に到着。1週間後に退職し、桑港[サンフランシスコ]へ行き2年半勉強したが、1894(明治27)年日清戦争が起こって召集を受け、帰国した。/【問】日清戦争のときはどこへ勤務したか? 【答】1894(明治27)年8月に日本へ着くと、すぐ横須賀へ行った。ところが広島大本営に横須賀から軍楽隊を派遣することとなり、久能金三郎軍楽師(のちの兵曹長の階級)が楽長となって行くので池田も9月に大本営へ行った。【問】大本営は田中穂積楽長の呉海兵団軍楽隊ではなかったのか? 【答】呉の隊も近いから始終来ていたが、陸軍の近衛と海軍の横須賀の隊とが広島へ行った。しかし中村祐庸楽長は横須賀へ残った。【問】瀬戸口楽長の話では、中村楽長も一時広島へ行ったそうだが? 【答】それでは忘れたのだろう。田中穂積は、その時盛んに作曲をしていた。その頃ドイツから大山大将と山縣大将を称える行進曲2曲が贈られたので、前者の吹奏楽用編曲を池田が、後者の編曲を陸軍の荻野理喜治が行なったと思う。【問】羽山菊太郎もいたのか? 【答】羽山も招集されていっしょだったが、1900(明治33)年頃海軍軍楽隊をやめた。池田は、1895(明治28)年に戦争がすんで召集解除となり、東京の浅草で突然加川力と会い、歌劇の団体を作ろうと思っているので力を貸してくれと言われた。/【問】それが最初の歌劇という≪愛宕の夜嵐≫か? 【答】ところが歌劇は早すぎるから音楽を入れた劇をやろうということになった。劇の音楽は14人の吹奏楽で受け持った。劇団の名は、東京音楽演劇団だった。この稽古には2ヵ月かかったが、東京では上演できず和歌山市の大竹劇場で1906(明治39)年注2)の10月下旬に上演した。はじめの2日は大入り満員だったが、3日の朝に、新聞に中傷記事が出て座元から追い立てられた。徒歩で山を越し泉州岸和田まで辿りつき、それから汽車で大阪へ着いた。そこで神戸の熊野宇三という侠客が同情してくれて金を2000円借りてくれ、京都の南座で興行したら大成功した。しかし6日目に英照皇太后の病気が重くなり演劇停止となり、一座は解散となった。/【問】そのころ東京市中音楽会はどんな風だったか? 【答】日清戦争時代に需要が多くなり、ことに広目屋(広告宣伝業)が広告のほうへ音楽を使うようになったので、日清戦争後、たくさん吹奏楽団ができて、それが町回り専門のひどいものになってしまった。日清戦争のうちは、まだ吹奏楽の実演も音楽的で技術も堕落していなかったのだが、そのまま成長できなかったのは残念だった。
メモ:注1)『太陽』臨時増刊の発行年月日を1926(昭和2)年6月15日と記載してきましたが、正しくは1927(昭和2)年6月15日でした。お詫びして訂正します(2005年8月28日)。/注2)1906(明治39)年と記載しましたが、正しくは1896(明治29)年の誤りでした。英照皇太后の没年が1897(明治30)年であることに気づいた方からお知らせいただき、訂正できました。(2007年12月19日)
【2002年1月10日 2005年8月28日誤記を訂正 2007年12月19日誤記を訂正】

座談に浮ぶ音楽家の風貌上田利一(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.40-43
内容:1919(大正8)年3月、明敏なジャーナリストの創意によって生まれた座談会形式は、今日隆盛を見ているが、縁の下の力持ち的存在である速記者の努力も知ってもらいたい。まず、座談会記事が紙上に再現されるまでの過程について触れておきたい。矢のように猛烈な勢いで飛び込んでくる出席者たちの言葉を一本の筆でしっかりと受け止め、席上の雰囲気を生かし、発言者の個性も尊重し、内容の発展を明確に把握することにも心がける。まとめられた速記原稿は発言者の手に渡され、加筆訂正の手が加えられ、さらに編集者に渡って素晴らしい勘と技術によって調整され紙上に出ることになる。/速記者にとって好ましい人とは書きいい人のこと(政治家を例に取れば、永井柳太郎や永田秀次郎)であり、書きにくい人は好ましくない人(政治家を例に取れば、賀屋興宣、建部遯吾)ということになる。ここに描く音楽家の風貌も、一本の筆を通してみた単純なものである。/上田は、20年ほど前、
鹽入亀輔に拾われて音楽の速記をやり始めるようになった。座談会でもっとも多く接したのは野村光一あらえびす。座談会のテーマ以外に、両氏から聞いたお茶、古美術、ゴルフ、音楽家の人生行路の話など、ゆたかな詩情と趣味の深さには敬服し、教わることが多い。諸先生方の中には速記者を下手だと思うことがあるだろうが、誰にでも言葉の癖があり、それを反省してくれる人がどれだけあるだろうか。たとえば野村光一は「・・・・・がね」「ただし」、深井史郎は「つまり」、枡源次郎は「いわゆる」という言葉が連続して出てくる。/山田耕筰は15、16歳のころガンドレッド式速記をものしたそうだし、藤田不二ふじた・ふじ]は英文速記ができるという。山田から、かつて速記者は紙と睨めっこして筆を動かしていてはダメで、喋る人の口を見ればいいのだと言われた。その山田耕筰をはじめ、大木正夫、あらえびす、菅原明朗、田邊尚雄は、音楽家の中でも早口だ(言葉はハッキリしているので苦手とは言えない)。さいきんよく接する堀内敬三は、文壇における中村武羅夫と並ぶ司会の名手だ。しかも、列席者の話の中から出るむずかしい言葉から、固有名詞や述語を書き取っておいてくれて速記者の上田にあとで渡してくれる。こうした心遣いをしてくれるのは、堀内以外にあまりいない。/女性は語尾がハッキリせず、会が始まってもなかなか喋らない傾向があるが、草間加壽子などは相当はっきりしている。李香蘭は、よく喋る。高峰三枝子の横で速記をしたことがあるが、珍しいと見えて、座談会の間ずっと速記から目を離さなかった。
メモ:筆者は、貴族院速記者。
【2002年1月15日】

歌劇「香紀」に着手(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.43
内容:山田耕筰は、この程北京の紫禁城を背景にした素材を得て、自ら台本の構成に着手したが、八木隆一と大木惇夫の作詩が一段落するとともに、1942年9月、北京に赴き現地で作曲することになった。歌劇≪香紀≫は序曲ならびに5幕9場の大作であるが、原作は長與善郎の手になり、これは紫禁城の乾隆が美女「香紀」に寄せる一大恋史であるとともに、200年前における西欧文化に対する東洋文化の軒昂たる史実を構成したもので、その完成が期待される。
【2002年1月17日】

歌劇歌手肥満漫話津田太平(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.44-46
内容:記録を作ったという映画≪風とともに去りぬ≫では、ハリウッド女優に適当な型がいなかったので、英国からヴィヴィアン・リーを連れてきた。『ロメオとジュリエット』を読む時には、若くてきれいな二人を思い描き、メリー・ピックフォードやノーマシェライのジュリエッタ等は、その容姿美貌の点で期待に沿い得る。椿姫の愛人をロバート・テイラーが演じれば男ぶりに納得するであろうし、先のヴァレンティノが闘牛士を演じればカルメンでなくともマドリッドの全女性が憧れるであろう。ところが歌劇となると、なかなかそのように行かない。/トーテイ・ダルモンテがアメリカの映画会社から招聘されてニューヨークへ来た。声、歌、顔も上々であったが、あまりに太っていたので映画出演はお流れになった。イタリア歌劇界にリナ・パリユーギというコロラチュラ・ソプラノの第一人者がいる。座席が一人一人区切ってあるミラノの市電で時折乗り合わせたが、混んでいるときも空いているときも立ったままで座らない。そこで理由を考えてみたが、市電の一人分の座席は彼女には狭すぎるということだった。/相撲を見に国技館へ行ってある取組を見ているときに、ミラノ・スカラ座で≪アンドレア・シェニア≫を見たときの、ベニアミノ・ジリーとロゼッタ・パンパニニが互いの肩に手をかけて歌うドゥエットの場面を思い出した。このような歌手が歌ったのではロマンティックでなさそうに思えるが、オペラでは歌が第一だからしかたない。先のパリユーギがパリで椿姫に出演したところ、第1幕始まりの宴席の場面で笑われた。頑丈肥満な椿姫がシャンパングラスを持って舞台を歌い回るのが滑稽だったのだろう。といって美人にこの役をやらせても、下手な歌手では話にならない。そのパリユーギも第二幕、第三幕と進むと観衆に体躯のことを忘れさせる芸道をもっているので、無意味に太っているわけではない。力士を彷彿させるジーリとパンパニニのドゥエットも、聴いているうちに魅せされる。エッベ・ステニアニは不恰好なカルメンだが、歌を聴いているうちにその容姿を忘れさせる。ダルモンテのルチアなど、あれだけ達者に歌っていれば彼女がもっと太って格好が変でも構わない。こうなると、映画は見るものでオペラは聴くものということになる。/これまでに数多く作られたオペレッタ式の映画や、歌を主題とした映画では、容姿容貌が上の部に当るキャストを得ても、これらが映画で歌っているのをイタリアあたりでは全然認めていない。むしろ歌わなければもっといいのにとさえ言うものがいるほどである。こと歌に関しては、男性歌手にしても容姿端麗なうえに、ティト・ルッフォのような声を持ち、スキッパのように上手に歌えて、幸四郎のような立派な演技を持たせたら、さぞ見事なオペラ歌手であるだろう。しかし、世の男女が不平を並べたり平和を乱したりせぬように、神は、この世に完全無欠なものを創らなかったのだろう。
【2002年1月20日】

独逸勤労戦線と厚生団の音楽活動<国際音楽情報>津川主一(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.47-51
内容:ドイツ勤労戦線DAF(Deutsche Arbeitsfront)は1933年5月、一切の勤労力を結合し国民共同体の発展と福祉の増進に資する目的で結成された。労働は、ナチスの観念によれば、新しい世界観と国家観に基づいた自発的行為で、全体のために働くことこそ真に自己を生かす道である。この勤労哲学を具体化したものが厚生共同体である。こうして、1933年11月27日、ドイツ勤労戦線全国指導官に任命されていたロバート・ライは、勤労戦線内に厚生団KdF(Kraft durch Freude)の機構を設置することを宣言した。イタリアのドラヴォーロが労働の後の疲労の回復を主眼とするのに対し、ドイツの厚生団は歓喜を通じて明日の創造の原動力を獲得しようとする積極的な意義を発見した。/この厚生団KdFの機構は次の各部より成る。
      
運動課  旅行課  慰安娯楽課  社会教育事業課  労働美課
この中で性質上もっとも重要な部門は慰安娯楽課(Amt Feierabend)で、とても多忙な活動を続けており、その立役者は音楽である。KdFが活動を開始する以前の1934年初め、ベルリンにある重工業会社ジーメンスの工場の従業員に調査したところ、オペラを見たことのない人が男子87.6%、女子81.3%と多く、KdFは、まずベルリンだけでも7つの代表的歌劇場を勤労者のために解放した。そして、1934年12月1日から翌35年11月30日までの1年で、これまでに一流歌劇場に足を踏み入れたことのなかった勤労者150万人を迎え入れた。劇場への入場者数は年ごとに増加し、第2年には460万人、第3年には485万人を数えた。/さらにKdFは、90人からなる専属の国立交響管弦楽団(NS Reichs-Sinfonie-Orchester)を設置したほか、巨匠たちを動員して勤労者のための第演奏会を行なった。出演者の一部を次のとおり記す。
      
ライプチッヒ総指揮者・・・アーベントロート  ドレスデン総指揮者・・・カール・ベーム  ベルリン・・・オット・
        フリックヘッフェル  州参事官・・・ヴィルヘルム・フルトヴェングラー  ベルリン州立楽団長・・・ロバート・
        ヘーガー  ハムブルク総指揮者・・・オイゲン・ヨッフム  ベルリン総指揮者・国立文化院音楽局長・・・ペー
        ター・ラーべ  ベルリン総指揮者・・・ヘルマン・シュタンゲ

第3年度の報告によれば、1年間に19の大交響楽演奏会と34の室内楽の夕が開催された。/また有数の楽団が工場へ出張し、休憩時間を利用して演奏した。このため、出演する音楽家も合理的な報酬を受け、そのために音楽家の職域を拡大したことにもなる。この場には管弦楽団が招かれることもあったが、古典音楽に理解と興味をもたせようとの意図で、初回は弦楽四重奏団を招くところもあった。なお、KdF直属の国立交響管弦楽団は、第4年までに全ドイツに亘って、数百回の演奏会を開いた。勤労者のための「音楽の時間」は毎日曜日午後、ベルリンのジングアカデミーで開かれ、好評を博している。/KdFは勤労者自身で組織する工場楽団Werkkapelleの設置を推奨した。ドイツ放送局は、これを放送するために特別な時間を設けている。これを作業休憩時の音楽を呼んでいる。これらのうちもっとも優秀な楽団は、ブレーメン交通協会とオスナブリュック市街鉄道社員の楽団である。数年前の統計では、ザクセン州だけでもこの種の合唱団425、合奏団559がある。/勤労者の子弟のためにも芸術的な児童劇場( KdF-Kindertheater)が設けられ、児童舞踊合唱学校が開かれた(合唱科の指導者はエムミー・ゲーデル)。学校の授業料は月額3マルクだが、入学志願者募集の日にはベルリンの各地区、ことに労働者居住地区から、5歳から14歳の児童が殺到した。/厚生団KdFは今次大戦の軍慰問に関する事業を一手に引き受けることとなった。そして今日KdFが慰問を行なっているのは旧ドイツ領の4倍の地域に及び、ナルヴィク、オスロ、コペンハーゲン、アムステルダム、ダンランスを経て南方スペイン国境まで及んでいる。またKdFは傷病兵慰問のためにも種々の努力を継続している。
【2002年1月21日】

伊太利に於ける歌劇擁護施設 ―― 伊太利の音楽政策(2)<国際音楽情報>/松本太郎(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.52-55
内容:ファシズムの音楽政策中もっとも重要で、為政者が力を入れているのは歌劇の擁護である。歌劇はイタリアに生まれ、イタリアでもっとも華々しい発達を示した。それゆえ、この国において常住歌劇のよき伝統に支持を与え、歌劇興行が難局に陥ろうとする傾向がある場合に救済の手を差し延べるなどしている。自身歌劇ファンであるムッソリーニは、1929−32年頃、イタリア歌劇界が不況に陥った機会を捉え、有効で適切な救済策を講じ、さらに歌劇界の改善、歌劇作曲の振興、いっそう広範囲の歌劇鑑賞施設に乗り出した積極的態度は、為政者としての面目を明らかにする。/イタリアには大都市はいうまでもなく、中小都市にも古くからの歌劇場が存在する。それらが1929−32年頃に直面した興行場の困難に対して、ファシスト当局は3つの善後策を取った。
  1)ローマ、ミラノ、ナポリ、トリーノの4大オペラは組合を作って共通的に歌手を雇い入れ、相
    互に歌手を交換し、上演作品の協定を行なって無用の競争を避け、費用の節約を計る。
    同時に組合は放送会社と契約して毎週2回宛組合中のいずれかの上演を放送する。
  2)音楽科のエージェントやマネージャーを禁じる法律を定め、国立の興行雇傭局を設立して
    合理的に歌手の雇傭をなさしめる。
  3)地方のオペラに100万リラの補助金を交付してその立て直しに助力する。
そして1933年にムッソリーニは「問題は巨大な劇場における最高級の上演によって解決される」と演説した。/そこでイタリア全国に、巨大な劇場やオーディトラムの建造または改造が奨励された。大劇場におけるオペラの補助手段として屋外オペラが推奨され、政府はこれに補助を与え、多数の民衆に安価にオペラを享受させた。そのもっとも有名なものは毎年の夏ヴェローナの巨大な円形劇場で行なわれるものである。/第2の補助手段としてまったく独特な野外歌劇団が組織された。それは先の四大都市のオペラの組合が作った巡回歌劇団で「テスピス歌劇車団」と呼ばれる。これは歌劇場を持たない市町村を巡回して大衆に歌劇を楽しませることにあって、組立用ステージ、照明装置、4000人の座席を車に積んで各地を巡歴するものである。1933年夏を例に取ると、88日間に34地方50市町村で3つのレパートリーが86回上演された。/第3の補助手段として、1931年頃からオペラ・シーズン後に歌劇の放送が行なわれるようになった。/また地方の劇場に交付された100万リラの補助金がさらに増額され、上演の質的向上が計られた。さらに未来の歌劇の振興のために、歌劇作曲コンクール、放送における現代作品の尊重、指揮者・歌手の保護、オペラ歌手のコンクールが行なわれている。作曲コンクールのうち、もっとも重要なものは3年ごとにミラノで開かれる工芸博覧会を機として行なわれる。放送については、イタリア人を尊重する、近代の作品を尊重する、イタリア歌劇のお決まりものを避ける、さらに1938年にいたって上演作品の半分は1900年以後に初演されたイタリア人の作品であるべきこと、半分は過去20年間に初演されたものであることという、大衆教養大臣の命令が発布された。指揮者・歌手の保護とは、いまだ楽壇に登場しないが有望な才能をもった若い指揮者や歌手が発見されたときは、補助金を与えてその修養を助けることである。歌手のコンクールは、演芸組合が定期的にコンクールを額手新人の登用を計っている。これらの政策の立案には常にムッソリーニのイニシャティヴが作用している。
【2002年1月24日】

国歌奉唱の回数に関する諸家の意見 到着順(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.56-58
内容:【編集部】国歌奉唱奉奏が行なわれる際、1回あり2回あり前奏は1回ありというように様々である。国家的統一は識者の痛感するところであり、諸家の意見を収録した。
大沼哲    国歌奉唱 前奏は1回。
辻荘一    最初の2小節を楽器で奏し、2回反復奉唱すべきと考える。楽器を欠く場合は指導者が始めの2小節を歌唱し、一般は始めから2回奉唱すべきと考える。
福井直秋  すべてを一律にしない方がよい。四大節やこれに準じる儀式では2回の方がよく、各種の会合ことに露天での集合等ではむしろ1回がふさわしいと思う。前奏はあった方がよい。
近藤信一  国歌奉唱1回。国歌合唱の場合は前奏2節付けるべき。最終の美は前奏なしで合唱し得るようにしたい。国歌合奏は1回。皇族に対し儀礼として奉送迎の場合は左右45度まで儀礼として合奏する。ただし御通過45度といえども国歌中途の場合は最後まで合奏して終わること。
村松竹太郎 学校では2回繰り返しているが、東京市関係の儀式やいろいろな会では前奏して1回奉唱している。しかしその回数については、別に法規的な根拠はないとの由。
辻順治    国歌奉唱は前奏つき1回が適当と考える。国歌奉奏は前奏なしで1回。特別の場合は何回繰り返してもよいと思う。
山田耕筰   国歌奉唱は前奏つき1回が適当と考える。
佐藤清吉   陸海軍軍楽隊国歌演奏の場合は1回、奉唱の場合は前奏は1回とされているから、前奏つき1回がよろしいと思う。
野津謙    1回の奉唱の方がひきしまった感じがする。しかし、このことは政府が定めるべきだろう[野津は大日本産業報国会厚生部長]。
坊城俊良   個人としては1回がよいと考えるが、2回でもよく、奏楽のみの場合、その場合場合に応じて2回あるいは3回になっても差し支えないと思う(坊城は宮内省雅楽部長)。
吉田信     奉唱の様式は政府当局が決定すべき問題だ。私見では、前奏を付ける場合は2小節、1回奉唱が適当と考える(吉田は東京日々新聞社)。
堀内敬三    奉唱は1回であるべきと思うが、歌い出しが不揃いになってはいけないので始め2小節を楽器で前奏するのがよいと思う。ただし楽器のみでやる時は前奏不要。また奉迎奉送の際は必要に応じて何度でも繰り返してよいということにすべきだろう。
黒田清     一概に言えないが、2回が妥当だろう(1回では物足りなく、3回では少し重すぎる)。ただし前奏つきなら1回だろう(黒田は国際文化振興会理事長)。
田邊尚雄    奉唱される儀式あるいはその時の事情によって、1回でも2回でも3回でも、それにふさわしいように奉唱されるのがよいと思う。
井下清     国歌奉唱は前奏つき1回決定してほしい。
相島敏夫    国歌奉唱については、みだりに私議すべきでないと思う。こうしたことは当然、政府で確固たる原則を樹立すべき。情報局あたりが主となって、これに関する特別委員会を開催審議すべきだと思う(相島は東京朝日新聞社)。
廣岡九一    学校儀式には唱歌の場合、2小節前奏の後、2回奉唱。
海軍省軍務局第四課代理  文部省で決定された由、同方面に照会されたい。なお海軍儀式の方式には軍楽隊の方へ紹介を得たい。
伊藤隆一    国歌奉唱については、答を差し控えたい。国家的に統一確定することを願っている。
全国蓄音器レコード製造協会 前奏つきの場合は1回。奉唱の場合は2回。
荻那蒸雄    国歌奉唱の形式、陸軍においては前奏1回。
有坂愛彦    国歌奉奏はすべて1回と定めている。ただし伴奏は奉唱の場合、最初の2小節を前奏とする(有坂は日本放送協会音楽部)。
日暮豊年    奉唱は1回がよいと思う。この問題は皇紀2600年大祝典の際に無言の裡に決定されたことと思われる(大日本海洋少年団本部常務理事)。
遠藤宏     軍楽の奉奏の場合は1回(明治43年9月21日公布「陸軍禮式」、および大正3年2月12日勅令15号「海軍禮式」による)。明治28年より長いあいだ回数は決定していなかった。また古矢広政軍楽隊長の楽譜にはダ・カーポの記号がある。/学校関係では2回奉唱が50有余年続いている。東京音楽学校では明治24年の卒業式より2回奉唱。2回というのは「君が代」が催馬楽形式であること、和歌であること、短いため2回3回奉唱する心持ちであることによった。明治44年8月「師範学校、中等学校作法教授要項」文部省公布には2回と明示されている。/国歌奉唱、奉奏形式制定に関する上申書は毎年全国教育音楽大会決議として文部省に提出しているが、いまだ制定されていない。
吉本明光    紀元2600年奉祝会で1回奉唱と決定されたように思うが、全国的に徹底されていない。1回ということを改めて強調する必要があると思う。また直立不動で奉唱することはもちろん、奉唱に接した際にも脱帽して世紀の姿勢をとることを徹底してほしい。「君が代」は合唱すべきものではなく、必ず慎んで斉唱すべきだと思う。
【2002年1月26日】

国民皆唱と国民音楽吉本明光(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.67-69
内容:日中戦争以来の戦争は国家総力戦で、もはや前線銃後の区別はない。今日、すべての物資も一切の文化も、直接間接の別はあっても全部聖戦完遂へと動員されている。聖戦完遂に役立つ以外のものは文化ではないと断言してもよい。少なくとも完遂するまでは、そのために役立たない文化は抹殺してよいのだ。こうした観点から放送を聴き、放送される音楽を聴くしだいである。今日の放送は国民必聴のものである。放送協会も一億国民が必ず聴取するものという建前で、連日連夜報道し、教養し、慰安している。/国民合唱という放送種目がある。≪この一戦≫という輪唱を放送したところ論議の的となり、ついに放送を中止した。輪唱をこなせるのは一億国民のうち、恐らく何十万程度にしか過ぎないと思われる。国民必聴の放送なのだから一億国民全部が消化できるものでなくては意味をなさない。今日放送されるべきものは、一億国民が揃って歌を歌うという企画でなければならないが、これはまだ実現されていない。このことが徹底してはじめて、輪唱なり二部合唱なりが電波に乗るというのが物の順序であると思う。/和田肇は≪愛国行進曲≫や≪愛馬進軍歌≫≪敵は幾萬≫≪軍艦行進曲≫などの国民愛唱歌をピアノ独奏曲に編曲して絶賛を博している(バッハやベートーヴェン、ショパン、リストでなければピアノ独奏曲として物足りないという人たちは何十万程度の数である)。日本の作曲家も、いつまでも軍歌やいわゆる国民歌をピアノ曲に編曲するのではなく、聴いて楽しめるピアノ独奏曲を提供することが、今日の聖戦完遂下日本における唯一の音楽報国であり、そのことが国民音楽創造への第一歩なのである。作曲振興については放送協会でも従来とは異なる策を講じると思う。それは、ある程度の金額ををもって作曲を委嘱し、そのうち放送に値するものだけを取り上げて、その放送に際して一定の放送謝金を支払うという、合理的な方法であるという。ここで問題となるのは、放送協会の作曲振興策に呼応して立ち上がった作曲家がいかなる作品を提供するか、である。聴取者が聴いて楽しめるものだけが唯一絶対の条件ではない。だが作曲家全体が、芸術至上主義から完全に脱却し得たかというと、疑念が持てる。/演奏会ないしはレコードによる音楽鑑賞には聴く者の意志と選択性が加わるのだから、純粋に音楽文化の線に終始して差し支えない。だが聴取者から放送聴取に関する一切の選択性を封じられ、また音楽鑑賞に無批判の国民大衆を対象とする放送であるからこそ、演奏会その他と明確な差別を必要とする。戦争は自力で戦っているのだから、もしも放送音楽を通じて外国依存精神が培養される懸念があった場合は、ベートーヴェンでさえ放送を中止すべきである。そしてその懸念は甚だ農耕であるが、今日の放送が都市で生活する月給生活者にとって聴取便利なように番組が取り決められているため、懸念のままですんでいる。だが、こうした状態は当然近い将来是正されるであろう。ここにも国民音楽の整備の急務がある。
【2002年1月27日】

劈頭半年のこと ―― 戦時下の音楽放送雑感加田愛咲(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.70-73
内容:「ラヂオ」という表記が「ラジオ」に変わったのは1941年4月1日だった。同年12月24日には15年慣れ親しんだ「ラジオ體操」が単に「操」となり、1942年4月15日から「アナウンサー」が「放送員」と変わった。種目のうえで横文字が残っているのは、ニュースだけとなった。/洋楽面でもレコード会社のプロ面に存在を示す合唱団の名称が次のように変わった。1941年12月21日にコロムビアの合唱団の名称が日蓄合唱団なったのを皮切りに、12月23日にキングが講談社、12月27日にビクターが勝利と変わり1942年1月31日に再び勝鬨、1942年1月3日にテイチクが帝蓄、同年1月11日にポリドールが日本愛国合唱団と改称した。/演奏団体では、ヴォーカルフォアが日本合唱団に、リーダーフェルフェラインが卓聲會に、ユーフォニックが東京合唱団となった。また、何何アンサンブルと名称をもった団体が、たとえば大塚手風琴楽団、川口ハーモニカ楽団、松本千加士楽団などと改称した。フィルハーモニー・クワルテットは1942年1月10日以来、第1ヴァイオリンの松本善三の名を取り松本絃楽四重奏団となった。/同時に敵性国家の作曲家群、具体的にはイギリスのビショップ、エルガー、スコット、アメリカのフォスター、スーザ、ポーランドのショパン、モシュコフスキー、パデレフスキー、タウジッヒ、ヴィーニャフスキー、ベルギーのフランクなどが[放送から]一斉退陣となり、枢機国以外の[外国人]音楽家を退陣させることも、若い洋楽ファンの非難を尻目に敢然となされた。ちなみに枢機国の音楽家としては、1942年1月25日にフェルマーが放響を指揮して、続いて1月29日にグルリットが東響を指揮して放送に登場した。これらの措置は、[放送協会]音楽部長の太田太郎が1942年2月10日付で病気のため休職とならなくとも行なわれるべき当然のことであり、音楽部は副部長の有坂愛彦のもと、大戦勃発とともに新発足した感がある。/1941年12月8日と9日の両日、日本人の作曲で埋め尽くしたことは、おそらく放送始まって以来であろう。放送された楽曲は、
 ◆1941年12月8日
  行進曲≪皇軍の精華≫陸軍軍楽隊作曲
  行進曲≪空軍の威力≫海軍軍楽隊作曲
  行進曲≪大艦隊の行進≫江口夜詩作曲
  行進曲≪暁の進軍≫江口夜詩作曲
  行進曲≪愛国行進曲≫
  行進曲≪皇軍の意気≫服部逸郎作曲
  大行進曲≪アジヤの力≫
  ≪敵性撃滅≫土岐善麿作詞 伊藤昇作曲
  ≪軍艦行進曲≫
  ≪海ゆかば≫
  ≪遂げよ聖戦≫柴野為亥知作詞 長津義司作曲
  ≪護れわが空≫佐藤惣之助作詞 内田元作曲
  ≪太平洋行進曲≫
  ≪国に誓う≫
  ≪分裂行進曲≫
  行進曲≪聯合艦隊≫山田耕筰作曲
  ≪宣戦布告≫野村俊夫作詞 開拓局作曲
  軍歌集≪勇敢なる日本兵≫瀬戸口藤吉作曲
  軍歌≪世紀の進軍≫海軍軍楽隊作曲
  軍歌≪海洋航空の歌≫海軍軍楽隊作曲
  行進曲≪海の進軍≫海軍軍楽隊作曲
  行進曲≪護れ海原≫海軍軍楽隊作曲
 ◆1941年12月9日
  行進曲≪帝都の守り≫海軍軍楽隊作曲
  ≪太平洋行進曲≫
  ≪さうだその意気≫古賀政男作曲
  ≪南進男児の歌≫古関裕而作曲
  ≪海軍軍歌集≫伊井?編曲
  ≪荒鷲の歌≫東辰三作曲
  ≪海の護り≫伊井?編曲
  ≪国民進軍歌≫
  ≪敵性撃滅≫土岐善麿作詞 伊藤昇作曲
  ≪敵は幾萬≫
  ≪勇敢なる水児≫
  ≪橘中佐≫
  ≪廣瀬中佐≫
  ≪アジヤの力≫
  ≪朝だ元気で≫
  ≪皇軍の戦果輝く≫野村俊夫作詞 古関裕而作曲
  ≪泰国進駐≫島田馨也作詞 山田守一作曲
その後、現在までに約30曲の行進曲が放送で発表されたが、1曲5分程度の形式の決まったものに楽曲を限定したことは、大東亜戦争を冠した楽曲を単調で変化の少ないものにした嫌いはあった。放送された楽曲は、
 ◆1942年1月1日(東管が初放送)
  ≪東亜の晩雲≫清水脩作曲
  ≪我等の日章旗≫高木東六作曲
  ≪青年日本≫秋吉元作作曲
  ≪波濤萬里≫安倍盛作曲
  ≪輝く翼≫乗松昭松作曲
 ◆1942年1月5日(東管が初放送)
  ≪明けゆく亜細亜≫呉泰次郎作曲
  ≪南進日本≫平井保喜作曲
  ≪堂々たる進軍≫高階哲夫作曲
  ≪征け太平洋≫江口夜詩作曲
  ≪堂々たる皇軍に寄す≫大中寅二作曲
  ≪鳳翼萬里≫深見善次作曲
  ≪かちどき≫長谷川良夫作曲
 ◆1942年1月8日(東管が初放送)
  ≪東亜の黎明≫池譲作曲
 ◆1942年1月15日(東響が初放送)
  ≪南進≫尾高尚忠作曲
  ≪闘志≫市川都志春作曲
  ≪戦勝≫宮原禎次作曲
 ◆1942年1月25日(放響が初放送)
  ≪紀元二千六百一年≫斎藤秀雄作曲
  ≪東亜の凱歌≫細川碧作曲
 ◆1942年1月29日(東響が初放送)
  ≪みいくさ≫平尾貴四男作曲
  ≪輝かしき日≫諸井三郎作曲
  ≪青年日本≫秋吉元作作曲
  ≪波濤萬里≫安倍盛作曲
  ≪輝く翼≫乗松昭松作曲
 ◆1942年2月6日(放響が初放送)
  ≪勝鬨の歌≫大木正夫作曲
 ◆1942年2月22日(放響が初放送)
  ≪堂々たる進軍≫深井史郎作曲
 ◆1942年3月8日(放響が初放送)
  ≪前進≫小船幸次郎作曲
 ◆1942年3月11日(放響が初放送)
  ≪南国進軍≫堀内敬三作曲
 ◆1942年3月19日(放響が初放送)
  ≪防人≫坂本良隆作曲
  ≪正義の鋒先≫石井五郎作曲
 ◆1942年4月27日(放響が初放送)
  ≪戦友≫清瀬保二作曲
1941年大晦日の除夜の鐘から≪蛍の光≫が追放されたが、この音楽部の意気は大いに誉められてよい。ただ、1942年4月6日、山内秀子に≪エルザの夢≫を原語で独唱させたのはいただけない。音楽部内には放送拒否の不文律[
←原語による歌唱のことか? 小関]ができていて1941年12月8日以来守り通してきたが、この日、それが破られた。何かしらプログラム編成実施に関する疑いをもちたくなる。
【2002年1月31日】

楽友時事/堀内敬三(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.78-80
内容:日本交響楽団の創立 新交響楽団が法人組織になり、財団法人日本交響楽団の名称で生まれ変わった(理事長は日本放送協会会長の小森七郎、常任理事に有馬大五郎)。今までは楽員の自治組織であったから経済的にも対人的にも困難に遭遇していたが、今度は楽員が後顧の憂なく技術を練磨できるであろう。喜ばしいことだ。/陸軍軍楽少佐 1942年3月30日付で、この階級が新しく作られた。外国の代表的な軍楽隊の隊長と同じで、引け目がなくなるので歓迎すべきである。/辻荘一の辞任 社団法人日本音楽文化協会理事長の辻荘一が辞任し、副会長・山田耕筰の指名により、理事・中山晋平が理事長に選任された。辻辞任の理由は立教大学教授としての「校務多忙のため」だが惜しむべきことである。辻が悪いのではなく、会自体がまずくできあがっているのである。/頼母木が代議士に 1942年4月30日の衆議院議員総選挙に頼母木眞六が東京府第三区(日本橋、京橋、浅草)の最高点で当選した。頼母木は朝日新聞記者から放送局に入り、日本の国際放送を築き上げた有能な人で、父親は民政党の領袖で逓信大臣、東京市長、報知新聞社社長等を歴任、母親は東京音楽学校勅任教授でヴァイオリンの頼母木駒子。本人は中学校のころからヴァイオリンを弾いていた。楽壇としても音楽を好む人が衆議院に出たことを喜んでいいと思う。/安藤幸子への非礼 東京音楽学校講師(元勅任教授)安藤幸子が1942年4月6日に登校したところ、受け持ちの授業時間が抹殺されていることがわかった。学校に対する40余年にわたる功労に、このような無常な追い出しをして何が教育か。/敵国の愛国音楽 スーザのマーチなどが敵性の愛国音楽であることを知らずに売っているレコードの小売店などがあるようだ。吹奏楽譜を出版している管楽研究会では多大の損失を顧みずにスーザのマーチなど敵性作品の楽譜を全部破り捨てたという。この意気をレコード会社もレコード店も学んでほしい。/米英音楽の絶滅へ 健全な日本の音楽と盟邦の音楽とを普及して士気の昂揚に資することが肝要で、日本が米英を屈服させるまで、日本人は米英の音楽を耳にする必要がない。/初代≪君が代≫の虚妄 国歌≪君が代≫は英国人フェントンが初めて作曲し、後に改めて林廣守のものにした、というのは誤りである。フェントンが1870(明治3)年に「君が代」の歌詞を用いて作曲した儀礼用の吹奏楽曲は国歌ではなかったし、この曲に「君が代」の歌詞を付けて歌ったことは一度もない。だから初代の国歌は英国人が作曲したなどというのは事実と相違し、国歌の尊厳を冒涜するものである。/日本的な音楽 戦地では軍楽隊が≪六段≫、≪老松≫、≪越後獅子≫などを演奏して喜ばれているそうである。今の兵隊は昔の邦楽にほとんど親しんでいないのに、われわれの血の中に「日本的な音」への思慕が潜んでいるのであろうか。恐らく後天的に民謡や俗謡、声楽、あるいは日本語一般の響きから、いつのまにか「日本的な音」を抽出してそれを身辺につけているのであろう。
【2002年2月3日】

海外放送と日本の音楽 <告知板>青木正(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.81
内容:海外向け放送の短波放送があることを知らない人もいる。1941年夏ごろまでは北米西部向けの一部分の音楽演奏を約30分だけ日曜祭日に限って国内に放送したこともあったが、時間割変更などから中止となった。開戦後、電波管制で海外放送など完全にやめてしまったと考えている人が多いのに驚く。これは逆で、24時間の一昼夜を、正味26時間に使い、使用国語は20カ国語を超えている。毎朝4時に始まる欧州向けの第一送信からその翌朝午前3時半第第七送信の終了まで、送信機は休みなく働き、その間、第五送信の午後9時から10時45分、第六送信の9時半から深夜1時までと、11時から翌朝午前3時半という二重に重なるところもある。/短波放送における音楽の位置は、海外放送が始まった当時は同胞慰安だったが、今日では同胞を激励し日本文化の水準を示すものとして重大な使命を持つにいたった。/それにつけても日本の作曲界の貧困さが身にこたえたのが1941年12月8日以降の海外放送で、逞しい音楽が少ないのである。一日約10時間を受け持つ音楽は、3日とたたぬうちに、また同じ音楽を演奏しなければ足りなくなってしまう状態である。作曲家諸氏にお願いしたいのは、放送局から委嘱がなくとも曲を書き、それを貸してほしい。戦争にちなんだ音楽と限定せず、創作発表は海外放送に多く必要としているのだから。
【2002年2月4日】

民謡その他 <告知板>湯浅永年(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.82
内容:我々は東亜の住民に自尊心と自身をもつことを教えなければならないが、我々が日本的作品を作ることを楽界の最大要務として唱導したのは10年前のことになる。今年、1942年になって初めて二大管弦楽団でも日本人作品を演奏しだしたが、定期の曲目にする勇気は、まだもっていない。それより厚生音楽をやりだした勤労大衆に、最初から日本的なものの真の値打ちを知ることを教えるべきだと思う。面倒くさい洋楽の和声学などは蹴飛ばして、記譜法さえ学べば民謡の作曲を試みさせなければいけない。これには、民謡曲の採集を厚生音楽運動として行なうとよい。盆踊りなどの民謡は短歌を短縮させた歌詞が多いが、これに旋律を作ることが大衆のあいだに流行るとよい。これは、どこまでも日本的旋律としなければならない。音楽雑誌も新旧民謡曲の懸賞を開始してはどうだろうか?
【2002年2月5日】

工場から<告知板>近藤孝太郎(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.83
内容:日本産報が芸術映画社に委嘱して製作した、うちの工場の記録映画が満1年かかって完成した。映画の伴奏音楽を担当した澁谷修も、1年間毎日工場に通い、機械や工具が発する種々の音響を研究して面白い音楽を書いた。過去1年の仕事は、農村と民謡の探求に向かっていた澁谷に新たな方向を与えたに違いない。/映画に取り掛かった1941年6月頃は、戦争の局面が今ほど切迫していなかった。時局が進展したため、撮影してきた福利施設などの、のんびりした部分を多分にカットして臨戦態勢の濃厚な部分だけを集めて録音し、編集を終わった。そして廃棄になった沢山のフィルムから福利施設を写したラッシプリントだけを1巻に編集して工場に寄贈してくれた。/できあがった映画4巻は『勝利への生産』と題され、近く公開の運びとなった。これに先行して、うちの従業員だけに映画(「福利施設」は無声のまま)を見せた。ところで4巻の映画を伴奏音楽のあるものと無い両方を見たが、両者の違いは予想以上の大きさがあるのに驚いた。文化映画にいかに音楽が必要なものであるかも、体験して痛感した。/このあいだ勤労者の趣味を尋ねたら、映画が最も多く、次が音楽だった。しかも音楽[
ママ 映画の間違いと思われる・・・小関]の中には音楽の効果が認められるのだから、銃後の勤労戦士がいかに音楽に関心を持っているかは想像以上だ。この事実を考えつつ、音楽家の関心がいま少し工場職場に対して払われてほしい。
メモ:うちの工場がどこかは、明記されていない。また、近藤は「参報の方をやっている」と書いている。
【2002年2月9日】

若き舞踊家よ起て <告知板>/石井漠(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.84
内容:現在における舞踊界の不振を耳にする。だが、舞踊は音楽と比べて簡単に考えら選れない場合が多い。音楽の場合はラジオ、レコード、トーキーなど、その発表普及が便利にできるものができているが、舞踊の場合はそうはいかず、[舞踊家が]音楽における作曲者であり演奏者である場合が多く、くわえて会場、衣裳、照明、伴奏音楽などの助援も無視できず、それら一切を舞踊家自身の中で処理していかなければならないということも考えておく必要がある。さいきんは映画統制の問題から、映画劇場を利用しての舞踊上演は禁止されてしまった。聞くところによると、音楽界でも山田耕筰あたりが、健全音楽の上演をアトラクションに復活することを情報局に陳情したうわさもある。舞踊界でも大いに奮起しなければならない。/それにしても舞踊界では、もっと若い人たちが、その人たちの考えを私たちの目に前に見せてもらいたい。。さいきん、日本青年詩人聯盟の人たちが一丸になって行なう愛国詩の運動などは目覚しいものがある。舞踊はその民族の心の表情であり、国民の士気の表れである。そして大東亜建設に対する感激こそは、わが日本の若い舞踊家たちに与えられた特権だと思う。
【2002年2月10日】

追悼 ワインガルトナーに就いて/田辺秀雄(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.100-101
内容:ワインガルトナーが死んだ。彼はリストに学んだということであり、一時代前の人である。比較的早くからコロムビア・レコードを通じてわが国の音楽愛好者に知られた。また1937(昭和12)年春に来日し、新響や放響を指揮して聴衆の前に姿を見せた。新響は、初めてヨーロッパ一流の指揮者によって指揮され多大な影響を受けた。ワインガルトナーの指揮は19世紀後半の爛熟期を現している。/
■略歴■
1863年6月2日生まれ
1881年     ライプツィヒの音楽学校入学
         その後、ワイマールでフランツ・リストに作曲と指揮を学ぶ
1884年     ワイマールで彼の最初のオペラ《サクンタラ》が上演される
1891年     ベルリン市帝室歌劇場楽長に就任
1898年     ミュンヘンのカイム・コンツェルトの指揮者となる
1908年−11年ウィーン帝室歌劇場指揮者
1912年−14年ハムブルク、ボストン等に客演、ダルムシュタット歌劇場の総指揮者となる
1919年−24年ウィーン国民歌劇場指揮者
          それより27年までウィーン国立歌劇場およびウィーン・フィルハーモニー指揮者
          のちバーゼル市の「一般音楽協会」指揮者および音楽学校長
1936年     ウィーン国立歌劇場総指揮者辞任(ただし称号は残る)
1937年     夫人とともに来日、新響、放響を指揮
1942年5月8日 スイスのウィンテルトゥールで心臓病のため急逝、享年78
■作品■
(オペラ)《サクンタラ》、《マラウイカ》、《オレステス》、《カインとアベル》、《小人の夫人》
(オペラ以外)《交響曲第6番》、交響詩《リア王》、交響詩《春》、序曲《悦ばしき序曲》、《厳かな時に》、ヴァイオリン協奏曲(2曲)、その他室内楽曲、歌曲など
■著書■
『指揮法』『ベートーヴェン交響曲演奏法』『浪漫主義交響曲演奏法』など
【2002年2月15日】

楽壇人物素描 ―― 李香蘭四谷左門(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.102
内容:李香蘭の人気は驚くべきものがある。東京を中心にしていえば水の江瀧子以来のことであろう。それはなぜか? 彼女は満洲の映画女優という触込みでデビューした。その時は、ちょうど欧米心酔の気持ちが撃退して興亜的気分が醸成されつつあった。日中戦争の進捗とともに満洲国の成長が国民的関心となり、そこへ実力を持った彼女が登場したのだから成功したのである。/李香蘭は正式に声楽を学んでて、声量はあまりないが素直で柔らかく美しい声質をしている。満洲人ではあるが、血は日本のものだということが発表されたが、すでに作られた彼女の地盤は微動だにしなかった。/今日の彼女の人気は歌手としての人気であるとはいえない。映画女優として、またアトラクションの歌手としてのそれがあるのである。本来の意味で歌手としての人気を見ようとするなら、まだ未知数の部類に入る。ここに李香蘭の悩みがあると思う。人間は二つの道[映画女優とクラシック音楽の歌手]を一度には歩めない。そういうことを考えると、彼女の今後はオペレッタの舞台にあるのではないかと考えられる。
【2002年2月18日】

◇楽壇人物素描 ―― 新納一枝桂近乎(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.103
内容:新納一枝はディアナ・ダービンに似ている。新納純粋の江戸っ子で、声楽を四家、ピアノを故・多部三郎、踊りを高田せい子に習った。読売の新人演奏会のときに認められ、卒業のときは《自由射手》のアガーテを歌って、光っていた。桂がこれを覚えているのは、関係している当時の中央交響楽団が出演を依頼したからである。学校の卒業も首席だったというから、音楽のみならず学科も優秀だったに相違ない。歌い方は、師の四家より自由で叙情味があり、その若々しさが人に訴えるものをもっている。一番得意にしているのは歌劇ものであろうが、そのほかイタリアの民謡風のものやフランスのシャンソン風のものなどにも期待できる。ビクターの専属として新歌曲を大いに歌うことになっているのは良いだろうと思う。
【2002年2月19日】

音楽を工場へ農村へ ―― 産報合唱指導の報告/秋山日出夫(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.108-110
内容:今日、厚生音楽としての各都市の音楽進出は目覚しく、その結果、ブラスバンド、ハーモニカバンド、アコーディオンバンドに合唱へと急速な発展をしているが、地方では設備や指導者に恵まれない。この点、合唱はもっとも実行しやすい種類のものではないかと思っている。今回の催しに参加した合唱団は、東京リーダーフェル、フェラインのほかに日本合唱団、東京合唱団紫会合唱団、コーロフローラの諸団体であり、東京、神奈川、埼玉、千葉、群馬、栃木と29カ所を巡回した。私ども[
東京リーダーフェル、フェライン]は東京、神奈川、群馬、千葉と14ヵ所を巡った。今回は参報本部選定歌の指導とともに2、3感じた問題を記す。/(1)工場の規律と合唱団への希望 巡回中、各工場の規律が軍隊式で厳格なことには敬服した。合唱隊の動作を考えないわけにはいかない。工場に出向くのだからといった軽い考えで行くのは、たいへんな失敗である。工場での舞台は粗末なものだが、こうした時に気のゆるみが出る。立派な合唱と動作が欲しい。/(2)合唱隊の服装に関して 普通の演奏会とは違って、聴き手は皆油にまみれた労働服である。特に女性の隊員に言いたいが、きらびやかなステージ姿や拍手を浴びて美声を高らかに歌う。[その時]工務員諸氏がどんなことを考えるか、特に女子工員に思いをはせてほしい。激励や慰安の会が元も子もなくなる。/(3)どんな曲目を持参したらよいのだろう 都市工場の工員諸氏の中には合唱のハーモニーの良悪を批評できる人たちがいるが、相当な合唱曲を組み入れて喜ばれたこともあったが、地方の例では既知の親しみやすいものほど効果が上がるようである。そして地方の工員の人たちにハーモニーがわかる人たちがいると思ったら間違いである。斉唱も用意し、国民歌謡にレコードに昔ながらの曲目、おなじみの曲目をたくさん用意すべきである。/(4)指導者の態度と聴き方 指導する相手が重大事局下の産業戦士であることを絶えず心して望むことが第一である。工員諸氏の元気に押されぬようにゆきたい。そしてある時は厳然と、またある時は和やかな態度でいこう。/(5)伴奏楽器について 伴奏楽器は、ほとんど各工場に常備されているところは無いのが現状である。ピアノは無く、オルガンは故障勝ちで、私どもはどこにでも携帯でき演奏効果の高いアコーディオンを推薦したい。/今回の巡回演奏が決戦下銃後の合唱運動として全国合唱団の大活躍を期待している。
【2002年2月22日】

音楽を工場へ農村へ ―― 農山漁村音楽巡回隊の報告/一ノ瀬幸吉(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.110-111
内容:
社団法人農山漁村文化協会主催・農山漁村文化協会福島県支部後援・日本音楽文化協会協賛により食糧増産感謝激励映画音楽の会が開催され、楽壇からは荻野綾子、高木東六を迎えた。/1日目。1942年5月2日午後6時30分より福島公会堂にて。ピアノが無いことを高木に詫びた、オルガンで荻野の伴奏をすることとなった。音楽の曲目は
  一
   テラス  高木東六曲
   葱坊主  高木東六曲
   春と春ん坊  中原中也詩/諸井三郎曲
  二  民謡[無伴奏]
   草刈唄
   子守唄
   籾取唄
  三
   野の羊  大木淳夫詩/服部正曲
   もうぢき春になるだらう  城左門詩/山田和男曲
   荒城の月  土井晩翠詩/滝廉太郎曲
映画は『日本ニュース』『瑞穂踊り』『「マンガ」動物防■戦』『農民歌 國の幸』『太平洋断じて護る』『忍術一夜』『雲月の九段の母』の7本であった。音楽の選曲は、純真な農民を音楽的に正しい方向に導く意図があったが、好結果をしめした。午後9時30分終了。/5月3日、二本松町国民学校で開催(同地は故・関谷敏子の出身地)。曲目は、
  一
   城ヶ島の雨  
   葱坊主  高木東六曲
   春と春ん坊  中原中也詩/諸井三郎曲
  二  民謡[無伴奏]
   草刈唄
   牛追唄
   籾取唄
  三
   モツアルトの子守唄
   もうぢき春になるだらう  城左門詩/山田和男曲
   荒城の月  土井晩翠詩/滝廉太郎曲
このほかに、
   ハレルヤ
   火祭りの踊り(高木のピアノ)
が演奏された。映画は、だいたい5月2日と同じ(詳しくは書かれていない)。5月4日は河沼郡の日橋(ニッパシ)で開催する。高木は放送のテストのため帰った。今日からは荻野が弾き語りをやるが、荻野はピアノも上手だ。
【2002年2月24日】

「南方の音楽」を聴く <新譜音盤評>唐橋勝(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.119
内容:コロムビアから『南方の音楽』が出ることになった。これはタイ3曲、仏印1曲、ビルマ1曲、マレー1曲、ジャワ3曲、スマトラ1曲、バリ島2曲、合計12曲6枚からなる集成である。いきなりこの12曲を聴いてみても、なじめそうな音楽もあれば取り付けそうにない音楽もある。しかしこれは解説もなしに聴いたときの話で、田邊尚雄、枡源次郎、黒澤隆朝らの詳しい解説が付いているから、これを読みながら聴けば興味が増すであろう。/タイの音楽は、タケー独奏《クラオ・ナイ》、歌と合奏《ブツランの歌》、民謡《ラオスの蓮の花》の3曲。仏印では安南望古調《■の道》、ビルマでは歌曲《輝くビルマ》、マレーでは《ハワ・マジリス物語》、ジャワでは劇音楽《ハーバーラタ物語》、スンダ民謡《何処の垣根でせう》、スンダ民謡《幸運のスレンド口調》、スマトラでは民謡《ボンジョの歌》、バリ島では舞踊音楽《クビヤ》と《ジャンゲルの歌》。バリ島の音楽や芝居は他の南方諸島とは独特な古来伝来の味を残している。為政者が、この島の文物を特に離しておこうとして残っているそうである。
【2002年2月25日】

満洲音楽情報 (3)/村松道彌(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.120-121
内容:新京音楽団の発足 財団法人「新京音楽団」が1942年4月に新発足し、4月9日国務総理大臣より設立の許可を得、登記手続中である(理事長に甘粕正彦、理事に大塚淳、坂巻辰男、武本正義、伊奈文夫、石丸五郎、監事に橿尾信次、白井甚進、事務局長に坂巻辰男、楽団長に大塚淳。さらに管弦楽、吹奏楽部長に大塚淳、室内管弦楽部長に佐和輝禧、合唱部長に上野耐之、満州楽部長に陳其芬、作曲部長に市場幸助、事務局副局長に佐和輝禧、主事に高村義雄が任命された)。大塚を除くと全員が新しく、単に音楽院の継承でないことがわかる。/音楽団演奏会 新京音楽団設立後最初の演奏会は1942年4月29日午後7時30分から記念公会堂で開催された。指揮は大塚淳、曲目は
   新京音楽院検証募集当選国民歌謡《春》
   ガーデエ《大洋の印象》序曲
   小■興四郎 組曲《大満洲 −建国10周年を迎えて−》
   ウェーバー《舞踏への勧誘》
   スッペ 序曲《詩人と農夫》
これは第1回演奏会としては淋しいものであり、次回は慎重に企画されることになっており数ヵ月後に新しい楽員をも補給した後で行われる。/新京音楽懇談会 新京における音楽関係の同志的な集まりとして「新京音楽懇談会」ができた。その趣旨は、満洲の音楽文化の正しい発展を希望し(中略)、満洲国音楽文化の指導者であろうとする自負と責任を持つものの集まりである。世界新秩序建設のための大東亜共栄圏確立の一環として満洲国音楽文化の正しき発展にお互いの知識を交換しあい、同志的な愛情をもって真実を語り合い、私党的でなく行動は建国精神に帰一するものでありたく、現実的であると同時に建設的、創造的であり、批判はあくまで客観的な厳しさを持ちながら交友にあっては同志的温情をもちたい、といったものである。会員には、神尾弌春、野口五郎、北小路巧光、佐和輝禧、市場幸助、斉藤隆夫、植田茂雄、林幸光、酒井義雄、村松道彌。/満洲作曲研究会 いままで組織を持たなかった作曲家が、今回、満洲作曲研究会を設立した。会員は、市場幸助、金東振、佐和輝禧、松本秀治、陳其芬、富村潔、中村義夫、野口五郎、吉田義英、檜哲二、丸山和雄。幹事には市場、野口、村松が就任し、事務所は新京中央放送局学芸課内に置く。1942年5月より「満洲作曲家研究会作品発表会」として順次放送するほか、1942年5月5日には試演会を、5月16日は満洲楽研究会を、今秋には公開の作品発表会を開催することになっている。なお第1回の会員作品放送は、
   吉田義英《神殿》(弦楽四重奏曲)
   中村義夫《小舞曲》
   檜哲二《情熱》
が放送される。研究会の規約(名称、目的、事業、会計)が掲載されている。/国民動員大会 来る14日から22日まで、建国十周年慶祝興亜動員全国大会が新京で開催されるが、全満吹奏楽団によって音楽隊を組織し大会に参加することになった。隊長に高津敏、総司令部幕僚附村松道彌、技術班長加藤哲三郎、総務班長酒井義雄で全満約50の吹奏楽団800名が新京に集まる。また22日には音楽隊独自で市中大行進および大同公園音楽堂における大演奏会が行われる。
【2002年3月1日】

音楽会記録/唐橋勝編(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.122-124
内容:1942年4月11日〜1942年5月10日分(→ こちら へどうぞ)。
【2002年3月3日】

楽界彙報(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.124-125
内容:新交響楽団が日本交響楽団と改称 1926(大正15)年、近衛秀麿子爵らによって結成された新交響楽団は情報局の斡旋、日本放送協会の出資により、新たに財団法人日本交響楽団として再出発することなり、1942年4月9日午後、共立講堂において発会式が挙行された。設立当初の役員は、理事長に小森七郎(日本放送局会会長)、理事に有馬大五郎(日独文化協会主事)、清水順治(日本放送協会総務局長)、関正雄(日本放送協会業務局長)、武井守成男爵(式部次長)、辻荘一(日本音楽文化協会理事長)、三井高陽男爵(日独文化協会常務理事)、監事に金指英一(映画配給社常務理事)である。/レコード文化協会発足 1942年4月8日、銀座西8丁目の全国蓄音機レコード製造協会にレコード各社代表、情報局上田第五部第三課長、内務省小川理事官、文部省里見指導課長等の出席を得て、レコード文化協会創立総会を開催した。会長に武藤與市、常務理事に竹越和夫、理事に伊東禿、鈴木幾三郎、長谷川卓郎、園部三郎、小野賢一郎、深澤譲一、南口重太郎が選任され、法人組織に関する手続きも完了したため1942年5月13日午後、帝国ホテルで社団法人日本蓄音機レコード文化協会発会式を挙行した。なお、音盤芸術家協会はレコード文化協会に合流するため発展的解消を行なった。/放送協会募集の厚生楽曲入選発表 日本放送協会では、このほど厚生楽曲の懸賞募集の第3回分を
   露木次男《狂詩曲第2番》
   美戸律子 描写曲《マンゴスチンの花》
と発表した。管弦楽、吹奏楽曲に編曲されたうえで放送される。/ビクター募集の軽音楽曲入選決定 日本ビクターでは行進曲風の軽音楽を募集し、1942年3月末の締切りまでに70余編の作品が寄せられたが、次のように決定した。
   1等(金300円) 鈴木弘《荒鷲は征く》
   2等(金100円) 石川皓也《若人》
   選外佳作     久常光《春の春》/高木雅老《光る青空》/鈴木信一《草笛吹きつつ少年は進む》/奥村茂樹《理想の日目指して》
演奏家協会役員改選 演奏家協会では1942年4月18日産業会館で定時総会を開催し、役員改選を行った。理事に山田耕筰、萩原英一、橋本國彦、内田栄一、福井巌、矢田部■吉、服部良一、伊藤武雄、杉山長谷雄、宮田東峰、井口基成、大村能章、三浦環、柳兼子、佐藤美子、四家文子、原信子、長坂好子、鈴木信子、太田綾子、監事に早川弥左衛門、藤原義江。/大日本吹奏楽聯盟天長節奉祝大演奏会 大日本吹奏楽聯盟では東京市、日本放送協会との共催で、天長節の午前10時より15連合、2000名の出場による吹奏楽演奏および行進を挙行した。/日響の関西公演 日本交響楽団は1942年5月15日、16日、17日の3日間、大阪朝日会館で山田和男の指揮で関西公演を行った。プログラムは
  15日夜
   ベートーヴェン《交響曲第3番》
   サン=サーンス《動物の謝肉祭》(第一ピアノ: 谷康子、第二ピアノ: 室井摩耶子)
   ワグナー《ニュルンベルクの名歌手》前奏曲
  16日マチネー
   ベートーヴェン《交響曲第6番 「田園」》
   レズニチェック《ドンナ・ディアナ》序曲
   ブラームス《ハンガリー舞曲第5番》
   ブラームス《ハンガリー舞曲第6番》
  16日夜
   バッハ《ブランデンブルク協奏曲第3番》
   ベートーヴェン《提琴協奏曲》(独奏: 巌本メリー・エステル)
   レズニチェック《ドンナ・ディアナ》序曲
   ウェーバー=ベルリオーズ《舞踏への勧誘》
  17日マチネー
   バッハ《ブランデンブルク協奏曲第3番》
   サン=サーンス《動物の謝肉祭》(第一ピアノ: 谷康子、第二ピアノ: 室井摩耶子)
   ウェーバー=ベルリオーズ《舞踏への勧誘》
  17日夜
   ベートーヴェン《交響曲第6番 「田園」》
   フォーレ《バラード》(独奏: 草間加寿子)
   オネガー《パシフィック231》
【2002年3月3日+3月9日】

編集室/堀内敬三・K・加藤省吾・黒崎義英(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.128
内容:読者へのお願い・・・発行部数が少ないため書店に予約するか当社へ直接購読の申し込みを乞う。本誌の内容について気づいた点があれば批判を乞う。各地楽界の状況を3枚以内の短文で通知してほしい。掲載文には些少ながら僅かながら稿料を差し上げる。/発行部数が少ないので寄贈部数を極度に減らしている。私[堀内敬三]の知友であっても差し上げない。/私[堀内敬三]は本を買って読む。寄贈していただいても良書でなければ紹介しない。【以上、堀内敬三】/さいきんレコードでアジアの音楽、南方の音楽が紹介された。これを聴いて、単調なリズムにうっとりと聞き入ることのできるのは東洋人の幸せであろうと思う。西欧人がアジアのリズムを輸入して作曲してみたところで、それは風変わりな変り咲きを咲かせたにとどまると考える。【K】/僕[加藤省吾]は『音楽文化新聞』の編集が本来なので、本誌の編集には一読者といった立場で参加している。【加藤省吾】/今月から私[黒崎義英]が編集主任を担当した。【黒崎義英】
【2002年3月11日】


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