『音楽之友』記事に関するノート

第2巻第5号(1942.05)


◇大東亜戦争と音楽/平出英夫(『音楽之友』 第2巻第5号 1942年05月 p.14-24)
内容:戦争と音楽というと水と油のように思われるが、今日は音楽之戦争といえる時期に来ていると思う。その理由は音楽すなわち耳なので、耳の感が良い、音に対する感が良いということが戦争の勝敗に非常に影響があるからだ。実例として、英仏海峡でドイツの潜水艦を発見した敵の駆逐艦の兵隊の耳が潜水艦の音を正しく聞き分けられず潜水艦が逃れられた話と、日本の潜水艦が日没後に米国の航空母艦に魚雷を打ち込み聴音機により撃沈したと判断し翌朝海上を探したところ船影がなかった話を挙げている。また、ドイツの放送局が戦闘中にラジオで軍楽を放送し、士気を鼓舞された軍人が短時間の間に英国に艦隊を撃滅した例を挙げ、軍楽の効用を説いている。/日本では、吹奏楽は帝国海軍がもっとも早く輸入し、予算も豊富に取り、レヴェルも高く保っているが、戦のときにどのように役立ったかという実例をもたない。平出はフランスとイタリアに通産7年いた経験から、音楽が国民の指導力になると述べている。1941年12月8日に戦争が始まった日に、音楽がいかに国民の士気を鼓舞するかを痛感した。《軍艦行進曲》の作曲者瀬戸口藤吉は海軍の恩人であると同時に、海軍への親しみをもたせた。このように音曲のもつ力は大きい。/今後の戦争を海軍の観点から言えば、米国が太平洋艦隊を、英国が東洋艦隊の主力を失い、これを回復するのは容易でない。英国の方は割りに早く滅亡するだろうが、米国がハワイで失った海軍力を回復するのに3年かかる。しかし実際には5〜7年、日本と対等の戦はできないのだ。それをごまかすために虚偽の発表をしている。フィリピン、マレー半島、シンガポール、ジャワ、スマトラ、ニューギニアなども米国は援軍を送っていないと話、さらに1942年2月に日本軍の攻撃機が爆弾を積んだまま米国の航空母艦に突っ込むというゲリラ戦を行なった事例を紹介している。/アメリカは潜水艦を使って必需品を送る船を沈める方法を考えている。こうして日本の衣・食が邪魔されると、国民の中に戦争はいやだという感じを起こさせる。そこに思想戦が起こり、宣伝戦が活発になる。この潜水艦によるゲリラ戦は容易になくならない。今日、大東亜共栄圏のほとんどが日本ものになり、国民の一部には、これで日本はいくら戦争をしてもだいじょうぶだと説さえ出てきたが、果たして不敗の態勢ができたかというとできていない。/あまり文化の進んでいないところの民を日本の手に収めるには、日本にはどうしても服従しなければならないと感じさせなければならない。その統治ができたら、その後すぐに文化面が従わなければならない。その点において音楽が直接役立って、非常に大きな働きをするものであると信じる。国民全体から期待されるところも大である。 
メモ:平出英夫は海軍大佐。日時は明記されていないが、永田町国民学校における講演速記。
【2001年11月9日】
大東亜民族民謡について田辺尚雄(『音楽之友』 第2巻第5号 1942年05月 p.26-29)
内容:
日本民謠協会は日本を中心とする民謡の研究をするが、それは結局大東亜民族の民謡の研究になっていくと思う。民謡は民族の音楽だが、俚謡が集まっただけでは民族の音楽にはならない。大東亜にはいろいろな民族があるが、それぞれのもつ音楽は一つの俚謡とも考えられる。大東亜民族それ自身の共通の歴史、共通の魂の中に存在する音楽が大東亜民謡だと考えられる。/大東亜の各民族は、日本に指導されるのだから今日こちらから何を持っていっても受け入れられるだろう。これを利用して一儲けしようなどと考えたら恐ろしいことだ。ただ、非常に複雑な西洋音楽を持っていったらどうかと考えると、日本は、これまで治めていた英米の真似をしていると宣伝をされる。また蓄音機やレコードについている「ビクター」「コロンビア」「ポリドール」というような名前は、ぜひ日本の名前に直してもっていかせないといけない。/大東亜の各民族は物質的には貧弱でも、精神的には実に優れた音楽、すなわち民謡を持っている。それらはだいたい3つの段階になって発達してきた。第一は一番古いもので、各民族の俚謡と考えられるもの。第二は中世になっていろいろな文化が交流してできた音楽、すなわち雅楽とかガムランなど。第三に西ヨーロッパが入りアラビア方面の文化が入り、近代式のものが入った。第三のものは、これを立派な大東亜の芸術になるよう、指導していく必要がある。第二のものは気風のある一つの芸術をなしているが、先祖からの魂がない。大東亜の魂というのは、けっきょく第一の古くから伝えられてきた民謡だと思う。西洋人は自分たちの優越感から、文化はギリシャやローマから興ったと考えるが、人間の文化が最初に起こったのは大東亜からで、これをスメル文化圏と名づけるものがある(後にその一部が今のアラビア方面に移った)。スメル文化圏の魂を一番そのままにもっているのが日本民族であり、それを統べている「すめらみこと」である。その魂とは、音楽は人間が作ったものではなく、神が人間に作らせたものだということである。大東亜文化を考えるとき、作曲法がうまいかどうかではなく、音楽の中に自分の魂に通じるものが流れているか、魂と同じものがあるということを誰しも感じる。/スメル文化が西の方に移ったということは、単に形式が移っただけで魂は大東亜に残った。大東亜民族の音楽を研究することは、作曲法を研究することではない。近ごろ西洋人がこれらの音楽をよく研究し、それを譜に取っているではないかという話を聞くが、それらの研究の大部分は嘘だ。1オクターブは7つだということを前提に、無理に各地の音楽をそれに合わせ、その譜で演奏して合わなければ、[作曲が]下手だからだと考える。外面ばかり研究していても何にもならないのだ。魂にふれた研究は日本人によって行なわれるべきだと考える。こうして初めて音楽方面の大東亜文化の建設が立派にできるのではないかと思う。
【2001年11月11日】
日本民謡の本質と将来藤田徳太郎(『音楽之友』 第2巻第5号 1942年05月 p.30-35)
内容:日本のように文化が非常に進んでいながら、一種の原始芸術ともいえる民謡や郷土芸術を豊富に伝えている国は、世界的に見てもほとんどない。民謡は数も種類も多く、また盆踊りなども一つの土地に一つとは限らず、5つ6つ、またはそれ以上ある地方もある(南信濃の下伊那地方)。盆踊りには小唄形の短いものと、長篇の叙事詩的な内容を持った口説き形のものとがあるが、この二つを交代に行なうところもある(山口県岩岡、千葉県八日市場付近)。長い歌の盆踊りはリズムが活発で調子が速く、小唄形のものは緩やかで穏やかな調子のものが多いように思われる。盆踊りも各地方でいろいろな特色を帯びるようになって、そうした種々の踊りを皆で一緒に踊ったり歌ったりするのはわが国に見られる著しい特徴である。盆踊りでもこうなのだから、神楽のようなものは、より種類が豊富である。/わが国の民謡の特色としては、伝統性に富み歴史が長いことがあげられる。中国地方の山間部落にみられる田植唄の類、静岡県の田方地方にみられる麦搗唄の類、平泉の毛越寺に伝わる「延年舞」など何百年前のものが、そのまま広く行なわれている。/しかも、それらの民謡が生活そのものに、すなわち社会生活の面では労働と密接に、精神生活の面では敬虔な信仰の念に密接に結び付いているのが特に大切なことだ(淡路の人形芝居が例にあげられている)。民謡には酒宴の最初の口開きの唄が決まっている土地が多いようだ。また盆踊りの終いの唄が決まっていて、それから後は絶対に踊ってはいけないという所も多い。その気持ちは、神楽でいう「神おろしの唄」や「神あげの唄」に当るような意味のもので、そういう点からも民謡の歌い方が敬虔な信仰の下に結び付いていることが認められる。/外国の民謡は退廃的で、享楽的な踊りの唄やラブソングの類が非常に多い。わが国では「愛」の唄は「麦搗唄」や「網挽唄」などの労働生活の中に溶け込んでおり、愛そのものを享楽するためのラブソングはない。わが国の民謡は、労働を愉しみ、労働の後を愉しむ、そういう特色がある。民謡を発展させている土地は、さまざまな民謡が多いばかりでなく、民謡がだんだん変わっていく(青森県の津軽地方)。改良された民謡は、土地の人に言わせると感心しないということになるが、国民全体からいうと、改良された方が通りが良くなる。従来のわが国の民謡がもっている本質を生かしながら、これを新しく発展させていくところにわが国の文化の本当のものが今後確立されていくのではないかという気がする。
【2001年11月12日】
楽友時事堀内敬三(『音楽之友』 第2巻第5号 1942年05月 p.42-44)
映画館のアトラクション廃止
内容:
1942年4月1日から全国の映画館でアトラクションをやることができなくなった。これは、映画配給が日本映画配給会社に一元化されたため、アトラクションをやる館とやらない館、やる週とやらない週が入れ替わるのでは面倒だからだそうだ。ただし入場定員1,500名以上の館は除外されるので、東京の国際と日劇、大阪の梅田と大劇は今後もアトラクションをできる。これに対し芸能文化聯盟では、質が高く、健全な音楽的なアトラクションもあるため緩和措置を求めようと相談している。
米英音楽の絶滅
内容:演奏家協会が中心になって軽音楽の改造運動をやっている。敵国の音楽に少しでもかぶれているのは絶対にいけないからだ。この転向ができない人は音楽をやめてもらうほかない。米英を叩き潰すために、外では将兵が命を捨てて超人的な忍苦をしながら戦っているとき、内地が米英の音楽を奏して、敵の後塵を拝することがあってはいけない。
南方と米英音楽
内容:敵国音楽打倒は日・満・中華・タイばかりでなく、南方占領地域全体にわたらしめなくてはならない。その土地固有の音楽を奨励するのも、日本の音楽や独伊の音楽をもっていくのも良い。これから南方に行く音楽教育家、音楽演奏家は、それをよく考えてもらいたい。特に南方に送る放送や、もっていく映画は絶対に米英音楽を排斥すべきである。フィリピン、マレー、東インドの知識階級は日本人一般よりも音楽知識があるから、日本人が米英の音楽を演奏していると知ったら、日本を馬鹿にすることは目に見えている。
新京音楽院
内容:新京音楽院の事務長村松道彌が急に職を免じられた。音楽院長大塚淳との意見の衝突が原因らしい。双方とも手落ちはあったのだろう。このうえは、双方とも別々に満洲国の音楽のために努力してもらいたいと思う。
皇軍慰問団
内容:芸能文化聯盟は1942年1月以来、陸軍省恤兵部の委託を受けて、皇軍慰問団の編成を一手に取り扱っている。派遣費はすべて陸軍に献納された恤兵献金で支出され、編成に要する年額1万円の予算は芸能文化聯盟が支出し、従来のようなブローカーの利益を完封した。現在、皇軍慰問団は20組約200人が行なっており、現地将兵から非常に感謝されている。ところが、音楽家で自発的に行ってくれる人があまり多くない。音楽報国のために一人でも多く申し込んでほしい。現に声楽家の清水静子、藤原亮子ほかの人たちが行っている。
文化協会と技術家
内容:日本音楽文化協会が日本作曲の振興に力を入れているのはよいことだが、しかし音楽家の職業組合ではなく、音楽文化全体の指導機関なのだから、もっと広範囲にわたって政治性をもった企画をしてもらいたい。音楽家に限らず技術をもって立つ人は着眼点が狭く、自己の周囲しか見えない傾向がある。日本音楽文化協会が社会的名士の名前だけ借りて並べ、実質は少数音楽家仲間の職業組合であったり、社交団体であったりしてはならない。
外国人の指揮者
内容:太平洋戦争開始以来、外国人音楽家、特にユダヤ系音楽家は気の毒な状況のおかれている。日本の今の状態では外国人から技術を習うことは必要だが、しかし、オーケストラの統率者にするのは感心しない。外国に対する体面上からも、日本の楽団の統率者は日本人でなければならない。優秀な外国人音楽家は、教師として充分尊敬してよく、また客演指揮者として出演してもらっても良い。
【2001年11月14日】
日清戦争軍楽従軍記 (1)春日嘉藤治(『音楽之友』 第2巻第5号 1942年05月 p.50-55)
内容:日清戦争当時、陸軍戸山学校軍楽学舎の生徒だった春日嘉藤治による従軍日記。全体は1894(明治27)年10月23日から1895(明治28)年5月24日までで、連載される。/出張員は次のとおり記録されている。【二等軍楽長】工藤貞次【軍楽次長】永井建子【一等軍楽手】六角ョ功、森田栄吉、林源之助、後藤助三郎【二等軍楽手】篠原喜三郎、喜多文之助、儀俄太郎、神田道太郎、富澤学好【楽手補】藤井林松、岩切明隆、宮崎健太郎、加藤鎹吾、尾畑正一郎、野間仁、横須賀淳一、長島鉉、武田欽一郎、武田正、管野栄、野上田愛五郎、萩本和三郎、【和手】古川直二郎【生徒】春日嘉藤治、安西初太郎、石田徳二郎、青木康吉、古口新吾、横田文雄、鈴木梅二郎、中里藤一郎、高橋濤江、島崎源馬、北岡大二郎【小使】佐藤良吉/本号に掲載されている日記は、1894(明治27)年10月23日から11月18日まで。10月22日、出師の命令が出た。出張員を撰呼し、生徒36名にして三分隊を編成した。23日午後9時、新橋停車場に集合、9時50分新橋をあとにする。24日午後6時30分神戸着。同地で下車し夕食を取り、8時30分神戸から広島へ向かう。25日午前、広島に到着。その後、同地で行進合奏、軍歌の演習などを行ない、11月2日、西練兵場内仮議場で天皇を迎えて祝宴が催される。式場には各大臣、貴衆両議院議員、陸海軍将校が参列。3日は、市中行進合奏し、天皇の来訪を祝う。4日以降、演習や奏楽を繰り返す。9日命令が下され、10日、宇品で運搬船に乗り出帆。12日、朝鮮の海に入る。14日、大同江に到着。西京丸の入港にあたって奏楽。15日、大連湾に到着。16日午前10時40分、柳樹屯に上陸。命を受けて進み、金州城に着く。城内戸数4000有余、人口約28,000余り。17日、城内を行進合奏、また軍司令部に出頭奏楽。18日、金州を出発。一村落に着き露営した。
【2001年11月17日】

生活と共にある音楽素養について(特集・これからの音楽)清水脩(『音楽之友』 第2巻第5号 1942年05月 p.56-59)
内容:日本のこれまでの多くの音楽は、ひとりで楽しむか少数の人々の共通の鑑賞内容にその中心をおいてきたといえよう。ところで今日の音楽には、昔は存在しなかった演奏会という形式で、演奏者も聴衆も互いに見知らぬ幾千人が一堂に集まるそれである。日本にも芝居や能などがあったが、多くの場合いわゆる恩習会風のものであったり寄席風のものであった。もし今日の音楽が個人の生活に浸潤し、音楽的素養において欠けるところが少なければ、演奏会形式も大いに意義深い。/しかし、これまでの多くの音楽家は事故の音楽の発表にのみ走り、自己の音楽を分かってくれる音楽的素養の向上には努力しなかったようである。今日以後、音楽家が自分の芸術の最高のものばかりを振りまこうとしないで、もっと大衆の、否音楽化自身の日常の生活に近しい方法を考えてもらいたいと思う。そこでいわゆる厚生音楽、特に勤労者のための音楽について述べたい。/わが国の飛躍的発展の陰にあった産業人に対し、ごく最近になって音楽を与えなければならないと言われ始めた。しかし望みたいのは、漫然とこのことの必要を叫ぶことではなく、この仕事にふるって参加してもらいたいことと、この仕事に当たる人たちの反省を促したいことの二つである。/何百万という産業戦士の生活は、音楽的には、まったく恵まれていない。職場に生まれた労作歌もなければ音楽的施設もない。自ら食うために音楽の切り売りをしている恐らく大多数の音楽家は、こうした場で組織的に音楽を普及することができる。産業戦士の現在の音楽的素養の低さに呆れるかもしれないが、自分の芸術を分からせるには、いくらも方法はあるはずだ。/一方戦場の当事者にも猛省を促したい。労務者は機械を動かすが彼自身は決して機械ではない。勤労を、あるいは戦場を通じて国家に奉公するという信念もできつつある。だが、悲しいことに油が足りない。休息の時間はあっても、休息を自ら快適にするだけの豊かな詩情がはぐくまれていない。音楽的素養に低い人は、音楽そのものをも引き下げようとする。このことを恐れる。音楽を職場にと叫ぶ人の中に、音楽家を芸人扱いする人が多いが、その責任は音楽家も問われなければならないと思う。大衆の外に立つのをやめよう。音楽は生活とともにあるのでなければ、何らの意味もない。/勤労の喜びは国民の道だが、職場の生活が荒んでいたら、勤労精神の低下をもたらす原因となる。職場に潤いを与えるというだけでなく、職場の戦士たちの生活自体から潤いが生まれてこなければならないと思う。音楽についていえば、産業人自身の音楽的素養の有無が職場の音楽を展開するもっとも重大な鍵でなければならない。歌のない工場を淋しく思う。低い音楽的素養から眼をそむけることなく、彼ら産業人の生活に深く根を下ろした音楽的素養を育ててゆかねばならない。
【2001年11月20日】
邦楽界の刷新具体案(特集・これからの音楽)岩崎貞雄(『音楽之友』 第2巻第5号 1942年05月 p.60-61)
内容:家元は、その当初においては進取的な活動によって創設されたにもかかわらず、後世になると排他的になり、その家元に属する門人を縛ることに汲々とし、家元なるがゆえに労せずして莫大な利益を貪るという事情が生まれて、邦楽界の進展を阻害している。/排他的傾向のうち一番問題になるのは、新しい作曲が生まれ難いことである。仮に新人が作曲をしたとしても、それが直ちに各方面で演奏されるようにならない。家元を頭領とする各流各派が対立していて他流者の作った作曲は演奏される運びにならないからだ。新作曲がどしどし演奏されるようになるための一案がある。それは邦楽協会で考えていることであるが、協会内に作曲部というべきものを設けて、町田嘉章とか堀内敬三など外部の人間に部長になってもらう。そして新人の作曲を募り、作曲者の名を出さず、邦楽協会の名で発表する。こうすれば流派に関係なく自由に演奏できると思う。これは当局の支援を得て実現したい。/家元に労せずして収益が伴う点で問題としたいのは、地方(じかた)の問題である。今日舞踊界を開くには家元を通じて地方を頼まなければならず、舞踊家に莫大な負担がかかってくる。さらに曲目と出演者に関し舞踊家の注文どおりにならない場合が多い。これらの旧体制を打破する一方法として、邦楽協会では地方の出演料なども三階級くらいに分けて出演者を区分し、舞踊家のためにその仲介を協会で一元的に行なうという案をもっている。こうすれば舞踊家の負担を軽減でき、手数も省けると思う。/さいごに技芸者の問題であるが、1940(昭和15)年2月警視庁が技芸の許可制度を制定して以来、いわゆる名取が激増したという。許可証を持っていなければ技芸者として認められないのだから、どこの家元も夥しい名取を作った。したがって、その中には技術的に貧弱な者もいて、これでは警視庁の目的にも合わず、邦楽界の名折れにもなる。どうしても再審査の必要があり、邦楽協会では芸能審議会を設けて厳重に再審する案を持っている。この審議会において許可証を持っている技芸者全員を審査して正会員と準会員に分ける。正会員は直ちに出演教授できるが、準会員はそこまで到達していない技芸者とし、随時開かれる審査会で正会員に編入されるというものである。/邦楽界には、まだまだ多くの問題があるが、今日は以上の点のみ案を示し批判を乞いたい。
【2001年11月21日】
レコード企画に注文(特集・これからの音楽)/伊藤寿二(『音楽之友』 第2巻第5号 1942年05月 p.62-65)
内容:このごろの新譜は、皇軍の勇敢さを讃美した歌曲を作って多少の士気鼓舞に役立ったり、厚生音楽に力を入れて産業戦士の能率増進にも少しは貢献している。軽薄な流行歌も漸次駆逐している。しかし、あまりに最近のレコードの功績は小さい。今となっては、国家がレコード製作会社を徴用するか統合するなどして、手っ取り早く国家の方針に従わせるほかないと考えていた。そんな矢先、日本蓄音器レコード文化協会(仮称)が生まれると聞いた。これは全国蓄音器レコード製造協会を解消して、もっと強力なものしようという意気込みらしいが、先の先まで見届けなければどの程度まで刷新に役立つか分からない。ここではレコード企画に対する希望や註文を書くこととする。/第一に、企画ならびに作品の「審議会」、各社の企画担当者の「連絡協議会」、「大東亜共栄圏文化工作協議会」、以上三つの設置を提案する。「審議会」は関係官庁の係官、評論家、ほかに時に応じて作詞、作曲、演奏、歌唱の実際家を参加させて企画を持ち寄ったり、決定した企画を検討したりする。できあがった作品や台本についても審議し、さらにテスト盤についても検討を加える。こうしてできあがった作品のうち特に優秀なものには特賞を出し、情報局推薦盤として普及を官庁が支援する。各社企画担当者の「連絡協議会」では、各社別の秘密主義を一掃して企画の重複を避けるようにする。「大東亜共栄圏文化工作連絡協議会」は、レコード、ラジオ、新聞、雑誌、文学、音楽、舞踊、演劇、映画等を動員して外地工作に協力させる連絡機関で、情報局を始め関係官庁が指導に当たる。なかでもレコードとラジオは密接に協力しなければならない。/文化工作は南方も大事だが、むしろ圧倒的に数の多い漢民族に対する工作にもっと力を入れなければならない。その際、日本を知らせる前に、まず漢民族を知るよう努めなくてはならない。そして蒋介石は、米英に騙されて、日本の本当の気持ちを理解しないで無益な戦いを続けているので、早く平和な生活を協力して営もうではないかと、徐々にしかし熱心に理解させていく。レコードの場合は、日華合弁のレコード会社を作って漢民族向きのレコードを作る。レコード会社が放送局や興行会社と協力して、中国の音楽家や京劇、映画等の人気者を日本へ招いて演奏会や公演を開いてやる。会の模様を中国へ向けて中継放送し、また日本のレコードへ吹き込ませることを忘れてはならない。日本から音楽家が行って日華合同の演奏会を中国でやるのも良い。作詞家・作曲家を中国へ派遣して、中国人の好みを理解させて中国人向きのレコードを作り、ラジオと協力して流行させる。追々手を広げて、日華共同経営の音楽学校を開校するとか、日本の交響楽団を派遣するとか、歌手のコンクール、作詩作曲の募集、移動音楽班の編成、歌唱の指導、日本語の発音を教えるレコード製作なども考えられる。とにかくレコードの利用価値は高い。/南方民族に対しては、積極的に数多く、日本的な歌や音楽をレコードやラジオを通じて紹介したい。比較的無難な軽音楽を主にすると良い。/国内向けのものも、現地調査員を前線や農山漁村工場に遣わし、現地の空気に触れた物を作ってもらいたい。兵隊や学生、小僧さんが口ずさんだり口笛を吹けるような軽快なメロディも作ってもらいたい。
【2001年11月25日】
私の交友録佐藤美子(『音楽之友』 第2巻第5号 1942年05月 p.66-67)
内容:今から15年ほど前の6月頃だったか、新しいプランとして毎月歌劇を放送することになり、最初に《カヴァレリア》をやるために呼ばれ、堀内、伊庭、松平、内田、田谷と愛宕山にあった放送局で会った。これが機縁となってヴォーカルフォアが生まれ、佐藤の楽壇生活が始まった。/今、伊庭、松平は故人となり、田谷は元の浅草に戻った。堀内、内田とは折に触れて会う機会がある。ヴォーカルフォアは、内田とメンバーの勉強と努力によって強化され、、民間唯一の立派な団体になっている。4人のうち最年少だった佐藤は、特に松平里子に可愛がられた。そのうちに四重唱だけでなく、ヴォーカルフォアの合唱団員を募集することになり、松平邸で審査をしたことがある。審査員は近衛、伊庭、堀内、佐藤美子の4人。学校を出たての佐藤は、おこがましい気がしてドキドキした。/北海道から九州まで、ほとんど4人で全国を演奏旅行した(伴奏は、たいてい、今新響にいる上田)。また、歌劇も毎月ほとんどこのメンバーで放送され、《魔弾の射手》《ラ・ボエーム》《ファウスト》《トロヴァトーレ》《フィガロの結婚》など、佐藤がフランスに旅立つまで続けられた。/音楽学校の研究科を出る前後、学校で騒動があった時の立役者・高木東六に伴奏を依頼する機会が増えた。そして高木もパリに行くことになり、佐藤と同じ船を申し込み、船中では二人の音楽会を催したりもした。パリではピアノをコンセルヴァトワールのアルマン・フェルテにつき、近所に住んでいた鈴木聰や倉重舜介と語り合ったり、気まぐれな作曲をして歌ったり弾いたりした。帰国後も高木との交友は続き、全国を演奏旅行したり、佐藤と同じ頃パリにいた故・大田黒養二、鈴木聰、高木東六、佐藤美子の四人で、コンセル・ルージュという団体を作り、フォーレ、ラヴェル、エリック・サティなどの作品の発表会をした。/高木は結婚し、作曲にも手を染め出した。つづいて佐藤も結婚、佐藤の夫は高木とパリ以来の友人である。さいきんは会う機会も少なくなった。そして佐藤は、日本の歌曲を歌うことに深い関心を持ち、若い作曲家の石渡日出夫と仕事をする機会が多くなっている。
【2001年11月26日】
楽壇人物素描 ―― 菅美沙緒四谷左門(『音楽之友』 第2巻第5号 1942年05月 p.75)
内容:菅美沙緒は、さいきんビクターに入社し、初めての独唱会も開いた新人ではある。だが彼女は、すでに1937(昭和12)年秋に三浦環歌劇学校の歌劇《セヴィラの理髪師》公演でロジナ役をこなしたこともあり、業界新聞でベスト・テンに挙げられたこともある。歌手としては地味な部類に属しており、今日まで社会的に自らをアピールしなかったものらしい。/率直に言えば、菅美沙緒は、6年前からボロを出さず、まとまりがあるといえる歌手だった。これはイタリア系声楽を内地で習った新人には珍しいことだ。ということは、小さく殻に閉じこもってしまう危険も考えられ、大きなオペラを目指すよりも小味の良さを強調することを得策とする歌手だともいえる。/この点で菅が、最初の独唱会を「啄木歌集」の夕としたことは賢明だった。しかし、これは新人のデビューのプログラムとしては何か物足りない。無名の日本人作曲家の作品と四つに取り組んでいるが、その野心的企画も内面的な方向に向けられるので、逞しさを感じさせないし、これで歌手菅美沙緒の全力量を発揮することも容易ではないだろう。むしろ月並みであっても、勉強したものを万遍なく歌った方が実力の目安もついてよかったろう。菅は原信子に容貌が似ていて、性質や芸風も原に近いように思われるが、持ち味が対蹠的な三浦環に学び、その線の太さを獲得することが修行時代の彼女には大きな寄与をもたらすと考えられる。
【2001年11月29日】
関西楽壇の黎明に寄す武越和夫(『音楽之友』 第2巻第5号 1942年05月 p.98-99)
内容:文化の偏在は一国文化の健在な姿ではない。経済面においては日本の心臓といわれ、歴代の首相が必ず来阪して財界有力者と懇談をしていく関西が、音楽文化の面において、なぜこうも貧困なのか? 音楽文化に限らず、あらゆる文化は大資本と有力かつ多数の文化人を温床として正しく育まれて、初めて健康な成果を生むが、関西ではいずれの温床も得られなかった。音楽は一介の娯楽と蔑まされ、大資本は甚だしい歩合、音楽文化を敵視さえしてきた。子どもにせがまれた大実業家は、楽器に、稽古に、発表会にと多額の金額を支払い、子どもは両親の音楽的知識の貧困につけこんで財宝を無制限に持ち出す。こうした経験は音楽を敵視させるに充分な理由を与え、会社で音楽を愛好する者は、仕事を放りっぱなしにする不届き者と考えられ、経済恐慌にあって真っ先に馘られるのは会社の音楽部の中心人物である。このようなしだいで関西音楽文化のために温床の役を果たしてくれるべき文化人も大資本もほとんどなかった。/関西において音楽教育家を除いて音楽家といえる人は、果たして幾人残るだろうか。たとえば画壇と比べて、その数や社会的存在性において、いかに差異を見出すことか。作曲家や演奏家などの自由音楽家が実に少ないのみならず、その大部分が音楽活動のみでは生活が保証されていないのである。ただし、それはややもすれば多少修得しただけで音楽家だと自負し金儲けに走り、人格の淘冶も練磨も顧みない音楽家が多かったことにも起因する。/さいきん楽壇新体制運動が実を結んで、日本音楽文化協会が誕生し、関西でも去る2月に中山太一を支部長として大阪府支部が正式に発会式を挙行し、続いて京都、神戸にそれぞれ支部が結成されたり、されようとしている。すべての音楽家ならびに音楽愛好家においては、私利や小我を捨て、聖火の下に団結し、わが国音楽文化の確立のための大道を邁進してほしい。
メモ: 筆者は大阪中央放送局文芸課長。
【2001年12月1日】
国際音楽情報(6) ―― 伊太利に於ける作曲奨励施設松本太郎(『音楽之友』 第2巻第5号 1942年05月 p.102-104)
内容:ファシスト政権確立以来、イタリアではファシスト党とその文化機関がイニシャティヴをとって、音楽のあらゆる分野における保護、奨励が大掛かりに行なわれている。それは作曲と作曲家の奨励にも及び、そこにもファシズムを中心とする新しい国家体制、すなわちファシスト政権の抱く文化意欲の発現、ファシスト党首脳部における文化理念実践に対する熱意が看取される。/作曲の奨励、作曲家の擁護の手段としてもっとも直接的であり重要なのは、1930年頃から始められた作曲「モストラ」の制度である。これは代表的な作曲をイタリアの音楽愛好家と楽界に紹介する機関としてファシストの傘下に隷属する「全国音楽家組合」によって創立されたものである。モストラの目的は創造的才能を激励することで、若い、もしくは未知の作曲の作品から価値のあるものを中心として、それとともに既成の中堅作曲家の主として新作品をも併せて演奏する。そのため演奏される作品は主に応募作品中から選択される。/モストラは地方的なものと全国的なものの2種類があり、それぞれ定期的に行なわれる。地方的モストラはロムバルディア、リグリア、ピエドモンテ、ヴェネツィアといった歴史的な地域によって分け、全国にわたって催される。そしてたとえばローマ、ミラノなどは毎年モストラを開いている。これに対し全国的モストラは隔年に開かれ、このモストラでは主として各地域から選択された作品が演奏される。その演奏には優秀な演奏家が当たることになっている。/地方的モストラの例が2つ紹介される。1934年、ロムバルディアのモストラはミラノで開催された。4回の演奏会があり、2回が室内楽曲(歌曲を含む)、他の2回が合唱とオーケストラだった。26人の作曲家の作品のうちオーケストラ(合唱を含む)が8曲、室内楽曲8曲、歌曲10曲を数えた。優秀な作品を挙げるとオーケストラ曲では、パリベーニの≪独唱とオーケストラのための3つのアヴェ・マリア≫、チェザレ・ソンツォーニョの≪タンゴ≫、ラッタウーダの≪英雄的な組曲≫、室内楽曲ではムゼルラ、カントゥ、ガヴァッツォーニの作品がある。1935年、第3回ラティウム地方モストラはローマで7回の演奏会が開かれた(うち2回はオーケストラ出演)。先輩の作曲家ではザンドナイ、マリピエロ、アルファーノ、カステルヌオーヴォ=テデスコ、リエーティなど、若い作曲家ではプラテルラ、モンターニ、ダルラピッコラ、ロザーティ、ソンツォーニョらの名がある。/全国的モストラは1930年以来だいたい隔年に(1930、33、35、37、39年)開かれ、41年はニュースを入手していない。第1回から第4回まではローまで行なわれ、第5回はフィレンツェに移された。1937年にローマで行なわれた第4回全国的モストラでは129人の作曲家による228作品が演奏された。プラテルラ、ダルラピッコラ、ロザーティ、ソンツォーニョ、ペトラッシ、トッキ、ルドヴィゴ、ロッカなど、有望と認められた若い作曲家たちは、しだいに成長を遂げて今日、さかんな作曲ぶりを示している。さいきんの第5回全国的モストラの内容は、1939年4月4日から12日にかけて2回のオーケストラ演奏会と5回の室内楽演奏会が開かれ、前年の地方的モストラから選ばれた作品、組合から招待された作品、そして7箇所で開かれたコンクールの当選曲によって曲目が編成された。39人の作曲家を数えるが主な作曲家とその作品を挙げておく。1900年以前に生まれた作曲家の作品は、マリピエロ≪提琴、セロ、ピアノとオーケストラのための三重協奏曲≫(1938)、レオーネ・マッシモ≪独唱と小オーケストラのためのカンタータ「彫刻礼讃」≫、1900年以後に生まれた作曲家の作品は、ヴィルヂジオ・モルターリ≪トスカナ民謡による2つの声とピアノのためのカンティレーナ≫、マリオ・ピラーティ≪小弦楽四重奏曲≫より第1楽章(ピラーティの死を追悼するための演奏)、ニノ・ロータ≪14の楽器のためのソナタ≫、ジノ・ゴリーニ≪提琴協奏曲≫、サンテ・バノン≪シエナのサンタ・カテリーナの一挿話≫、ユーリー・シュレイファー≪ラトコフ ― ピアノと金管楽器の協奏曲≫、ワルター・グランディ≪ピアノ・ソナタ≫。/これらのモストラの実行委員長は作曲家兼指揮者のジュゼッペ・ムーレ、これを助けるのがマリオ・コーリである。第5回モストラはコーリの主宰の下に開催された。われわれはドイツやイタリアの為政者の文化意識の豊かな実情を羨望せざるをえない。わけても財政多端の独伊両国で音楽に対する施設が尊重されていることは注目されなければならない。音楽における先進国でこうなのだから、後進国であるわが国において、こうした制作がいっそう重要視され実行に移されることは最緊急事ではなかろうか。
【2001年12月9日】

高野瀏さんを惜む相沢陸奥男(『音楽之友』 第2巻第5号 1942年05月 p.105)
内容:高野は広く人と接触したから知人も多いが、しかし誤解されることもあったろう。高野は早くから音楽を趣味としたようだが、はじめのうち研究は聴覚を主な対象としていた。その後だんだん音楽を研究対象とするようになり、渡欧の決心をしたあとは邦楽の研究を始めた。そして六段はソナタ形式だという説を出した。相沢は、この説に賛成しなかったといい、また賛成しない人が多かったろうが、考え方によっては一つの刺激としての意義があった。渡欧後はもっぱら音楽学を専攻し、よいフルートや珍しいシュナーベルフレーテを携えて帰国した。相沢は高野に、アカデミカーとしてよりも音楽文化運動に携わるべき人ではないかと書き送ったことがあるというが、帰国後はその方面に熱意を持ったようだ。思えば、この方面では働き盛りの人が多く倒れている。高野もその一人だろう。まことに惜しいことをした。
メモ:高野の死亡年月日は明記されていない。この記事が作成されたのは、1942年4月6日(文末より)。
【2001年12月4日】

満洲音楽情報 (2)村松道彌(『音楽之友』 第2巻第5号 1942年05月 p.106-107)
新京音楽団の難産
内容:新京音楽団の誕生を望まない一部の人々が、新京音楽院事務長の村松を免職し、次に指揮者である坂西輝信も辞職して内地へ帰なった。この2、3年に新京音楽院は8回にわたって音楽院を良くしようとした人たちが追い出されたり、飛び出したりした。名を挙げれば、大津三郎、高澤元夫、網代栄三、笹川貞道、新原大助、佐藤良雄、木村精一、本菅伸光、小松亥之助、酒井義雄、金澤承織ほか30余人にのぼる。そして予定より遅れて4月に、最初の企画とは程遠い財団法人「新京音楽団」が40万円の基本金を以って生まれた(理事長に甘粕正彦、理事に武本放送副局長、坂巻満鉄作業管理所長、伊奈満蓄文芸部長、石丸日蓄支店長、団長に大塚)。
満洲楽団協会委員長辞任
内容:先の新京音楽院の紛争は満洲楽団協会にまで波及し、大塚委員長を除く在京委員は緊急委員会を開き、新京音楽団の設立斡旋者である政府弘報處に対して意見書を提出した。その内容は、「健全ナル音樂ハ健全ナル楽團ニ依ッテノミ奏セラレルト思考サレルニ」つき、
  ・健全な芸術精神に立脚した楽団精神の確立
  ・確固とした経済的基盤
  ・楽団内の融和と楽員の技術の練磨向上に専念できる環境
  ・楽員の生活保障と技術に応じた待遇、福祉施設の完備と給与制度の創設
  ・楽団組織は事務、技術を分科させ、団長は楽員・指揮者を兼務せず團の統率に専念すること
  ・団長は音楽に理論あり、経営統率の才能を有する人格者であること
という項目が盛り込まれた。これに続いて、大塚は委員長の辞表を出した。後任は、武藤弘報處長が渡日中なので帰国後任命されることになっている。
末吉雄二来満
内容:末吉雄二が、1942年2月、新京音楽院にコンサートマスターとして招聘された。
薫清財の日本留学
内容:満洲建国十周年慶祝歌の原作者で歸道高等学校助教授の薫清財が、満洲初の音楽留学生として日本留学を命じられ、東京音楽学校に入学することとなった。
【2001年12月10日】
北京から袴田克巳(『音楽之友』 第2巻第5号 1942年05月 p.107)
内容:過般創立された北京音楽文化協会は着々とその整備をしつつあり、3月には、邦人ならびに中国人のために3回の開催した。第1回は1942年3月15日午後8時より、北京東城第一国民学校講堂で北支派遣陸軍軍楽隊の「管絃樂の夕」で、曲目は、
  第一部(管弦楽) 1.行進曲「軍隊」(シューベルト)−2.円舞曲「碧きドナウ」−3.玩具交響曲(ハイドン)
  4.提琴独奏 ロマンス ヘ長調(ベートーヴェン)−弦楽四重奏「セレナーデ」(モーツァルト)
  −5.交響曲第5番(ベートーヴェン)
  第二部(吹奏楽) 1.序曲「セミラーミデ」(ロッシーニ)−2.組曲「スペイン綺想曲」(リムスキー・コルサコフ)
第2回は翌16日に中国人のために同様の番組をもって北京飯店で「管絃樂音樂會」が開催された。この日は特に師範大学の音楽系の学生を優先的に招待し、その他は新民報社に依頼し同社に招待券を受け取りに来るよう手配したところ、即日配布済みとなった。第3回は3月29日に眞光電影院で、来燕中の辻久子を迎え中国人音楽家と音楽系学生のための招待音楽会を開催した。曲目は、
  1.シャコンヌ(バッハ)−荒城の月(山田耕筰編曲)−妖精の踊り(バッジーニ)
邦人はともかく、中国人に対しては英米系音楽の後退を機として、いい音楽、いい演奏を与えなければならない。
【2001年12月12日】
非礼について ―― 校長と老講師安藤膺(『音楽之友』 第2巻第5号 1942年05月 p.113-115)
内容:1942年4月6日(月)、母である安藤幸が新学期最初の授業日で、上野の音楽学校へ行ったところ、教務の人から呼ばれて、初めて自分の授業時間が時間表から外されていることを知った。校長自らが伝えるということで、教務の人は通知しなかったという。65歳の今日にいたるまで四十幾年間つとめ続けた母・安藤幸を無断で解職した、学校当事者にあたる校長・乗杉嘉壽の仕打ちには、憤りを覚えざるを得なかった。/講師の任免権は校長の手中にあるが、しかし校長が母に対して加えた非礼については、あくまで追求する権利があると信じる。今回の非礼に対して沈黙し得ないのは乗杉嘉壽校長対私個人の問題であり、私は母の内意をうけて校長に復讐の意味で事を構えるのものではない。私は、ただ何ゆえに母が新学期に学校へ行くまで罷免の事実を知らされなかったか、講師の任免権を有する校長はそうした非礼までもしていいのか等々のことを、子として黙視し得ないのである。こうしたことはまた、より一般的な、社会における倫理や道徳の問題であると思うがゆえに敢えて追求するのである。母は私の文には全然関与していない。/もっとも恐れることの一つは、これが乗杉校長対安藤幸の問題と世間から見られたり、乗杉あるいは乗杉側からそうされ、そう装われることである。私は、さしあたって問題を乗杉校長の同義的な非礼だけに限りたい。もし校長に母への一片の誠意があれば、自己にせよ代人にせよ通知にせよ、いかなる方法でか必ず意のあるところを伝ええたはずである。さらに存在しない失態をさえ強いて求めて母に帰着するという悪辣なことも、単独または協力でできないとは限らない。こういう想像は校長に対する非礼ではあるが、今回のわれわれに対する非礼を考えれば報いすぎて余りあるものでは決してないと信ずる。/私は乗杉校長の功績を没しさろうというのではない。氏の功績は、学校に邦楽科を設けたことや、その他手腕の数々は存在するのであろう。しかし、いかなる功績があろうとも、母に対して与えた侮辱に対して謝罪することを要求しても差し支えないと信じる。今回の非礼に対しては、幾度でも反復して、解決を見るまでは決して矛を収めない覚悟である。また仮に謝意を表わしたとしても、その表わし方が不満であれば、やはり同様である。
【2001年12月16日】
音楽会記録唐橋勝編(『音楽之友』 第2巻第5号 1942年05月 p.118-120)
内容:1942年3月11日〜1942年4月10日分(→ こちら へどうぞ)。
【2001年12月23日】

楽界彙報(『音楽之友』 第2巻第5号 1942年05月 p.120-126)
記録
内容:
東京市の陸軍記念日大演奏会
 東京市では、1942年3月8日(大詔奉戴日)午後1時より日比谷大音楽堂で陸軍記念日大演奏会を開催、大沼哲隊長指揮の陸軍軍楽隊が新曲≪昭南島≫を発表したほか、海洋吹奏楽団、レコード会社歌手の演奏等があった。/大東亜民族大会 全国蓄音器レコード製造協会、大政翼賛会、大日本興亜同盟、読売新聞社共同主催による大東亜民族大会が、1942年3月9日午後1時から小石川後楽園野球場で開かれ、陸軍軍楽隊の演奏、三浦環、李香蘭、四家文子、奥田良三、東海林太郎、長門美保らの独唱があった。/「大東亜戦争陸軍の歌」発表演奏会 朝日新聞社が陸軍へ献納する≪大東亜戦争陸軍の歌
の発表会が、1942年3月9日午後6時30分より共立講堂で開かれ、内田栄一指導による聴衆唱和および軍楽隊の同曲演奏のほか、軍楽数種が演奏された。/陸軍記念日軍楽隊大行進 大沼哲隊長指揮の陸軍軍楽隊二隊100名と近衛師団喇叭隊30名は、1942年3月10日午後2時、自動車に分乗し浅草吾妻橋を出発し、上野を経て京橋に至り全員下車し、徒歩で午後3時40分宮城前に到着、萬歳を唱和して散会した。/戦捷第二次祝賀音楽と舞踊の會 1942年3月10日正午より、東京市主催の「戦捷第二次祝賀音楽と舞踊の會」が日比谷小音楽堂で開かれ、海洋吹奏楽団、東京市民音楽院合唱団の演奏、永田絃次郎、牧嗣人の独唱、花柳壽輔の舞踊≪海ゆかば≫ほか数番の舞踊があった。/日本音楽文化協会の巡回音楽会 日本音楽文化協会は、東京市、東京日日新聞社と共同主催で優秀演奏普及音楽会を毎月開催することとなり、その第1回を1942年3月26日午後5時と午後6時30分の2回、豊島区公会堂で開催。藤田尚(提琴)、瀧田菊江(独唱)、藤田晴子(洋琴)、日本合唱団の出演があった。次いで3月28日午後4時、7時30分の2回、淀橋公会堂で開催。織本豊子(洋琴)、四家文子(独唱)、豊田耕路(提琴)、東星合唱団の出演があった。/日本音楽文化協会のレコード専門委員 日本音楽文化協会では、レコード文化政策を研究指導する機関としてレコード専門委員会を設置することとなり、十四氏に委員を委嘱し、1942年3月28日に第1回会合を開催、ポリドールの委嘱「現代邦人作品アルバム」の選曲を行なった。委員は、野村光一、山根銀二、園部三郎、有坂愛彦、大木正夫、中山晋平、奥田良三、山本尚忠、柴田知常、堀田[ママ]敬三、増澤健美、松本太郎、久保田公平、藁科雅美。/全関東吹奏楽團聯盟新役員決定 全関東吹奏楽聯盟では1942年3月13日、朝日新聞社講堂で総会を開催し、新理事を決定した。決定された理事は、廣岡九一、和田小太郎、中村政雄、福家軍平、平野廣、飯林俊治、大内福三郎、小林甲助、内田孫市、三之宮春吉、丸尾文一、大谷八郎、高橋徳四郎、松下三正、山本力(以上、互選理事)、伊藤隆一、佐藤清吉、目黒三策、近藤信一、村松竹太郎、森八十男、久保田謙吉、辻順治、早川彌左衛門、山田栄、山田金次、江木理一、宮澤縦一、吉澤松次郎、小鷹直治、井上隆繁(以上、理事長指名理事)。常務理事は、伊藤隆一、佐藤清吉、廣岡九一、目黒三策の重任。/作歌者協會役員改選 社団法人日本作歌者協会は、1942年3月30日午後5時、一橋如水会館で会員総会を行なった。新役員は、理事長:小林愛雄(留任)、理事:葛原茲(留任)、久保田宥(新)、林柳波(新)、堀内敬三(留任)、松原至大(留任)、評議員:川路柳虹、北原白秋、西條八十、佐藤惣之助、清水かつら、高橋掬太郎、武田雪夫、都築益世、野口雨情、服部嘉香(理事長、理事は評議員とする)、監事:河合醉茗、佐々木信綱、顧問弁護士:高木常七。/満洲楽団統合、新京音楽團結成 わが国音楽団の統合整理に呼応して盟邦満洲国の楽壇でも、1942年4月1日を期して全音楽団体を一元化した新京音楽團を結成した。これに包括された団体は、新京音楽院、満蓄管弦楽団、日蓄管弦楽団、MTOY放送管弦楽団で、新機構は管弦楽部、合唱部、満洲楽部、室内楽部、吹奏楽部に分かれている。理事長は甘粕正彦、理事には武本放送副局長、坂巻満映作業管理所長、伊奈満蓄文芸部長、石丸日蓄支店長、団長には大塚淳が就任した。
情報
内容:大日本民謡協会新機構により発足 先に結成された民謡懇話会は1942年2月28日、産業組合中央会館で日本民謡大会を開いて発足したが、この程機構を強化拡大して、名称も大日本民謡協会と改めて再発足し、民謡の競演、戦没将士慰霊盆踊り大会を開催したり、各地に支部を設けて活動することとなった。理事長は中山晋平、専務理事に白井保男、理事に田邊尚雄、町田嘉章、藤田徳太郎、藤井清水、小松耕輔、小寺融吉、幹事に若杉雄三郎、松尾要治、伊藤隆一、村松竹太郎、坂井二郎、小杉健太郎、篠崎正、石谷正二、顧問に高野辰之、田中正平、中村清二、柳田國男、佐々木信綱、北原白秋、相談役に上田俊次、上泉秀信、石坂弘、中島健蔵、井下清、古瀬傳蔵、吉坂俊蔵、辻荘一。/全関東吹奏楽団聯盟十七年度事業計画 全関東吹奏楽団聯盟は、1942年3月13日、朝日新聞社講堂で総会を開催し、事業計画を決定した。1.天長節奉祝大演奏会(4月29日)、2.日本体操大会関東大会出場(11月10日)、3.第七回吹奏楽競演會主催(10月18日)、4.第三回全日本吹奏楽競演會主催担当(11月22日)、5.第五回吹奏楽個人競演會主催(11月23日)、6.東京第一期吹奏楽講習会(5月−8月)、7.東京第二期吹奏楽講習会(9月ー12月)、8.川崎市吹奏楽講習会(9月、10月)、9.横浜市吹奏楽講習会(5月、6月)、10.東京喇叭鼓隊講習会(8月、9月)、11.東京鼓笛隊講習会(5月、6月)、12.横浜鼓笛隊講習会(9月、10月)、13.指導者講習会(4月、5月、6月)、14.夏期講習会(8日[ママ])。/文部省映画課文化施設課なる 文部省では社会教育局所管事務の分課規程を改正し、成人教育課を指導課、映画課を文化施設課とそれぞれ改称し、指導課長に書記官里見富次、文化施設課長に社会教育官小山隆を任命した。文化施設課の事務規定は次のとおり。1.映画に関すること、2.音楽、演劇、演芸に関すること、3.幻燈に関すること、4.放送に関すること、5.図書指導に関すること、6.図書館に関すること、7.博物館その他観覧施設に関すること、8.文化団体に関すること、9.その他各種文化施設ならびに国民娯楽に関すること。なお、4.は一般社会教育に関する放送をいい、8.は文化施設事務の各号に関連ある団体を指すものとする。さらに同課では、所管事務の連絡を緊密にするため、小川近五郎(レコードに関する調査)、阪本越郎(日本出版文化協会児童課長 児童図書に関する調査)、筑紫義男(情報局兼内務省嘱託 映画に関する調査)、千賀彰(情報局嘱託 演劇に関する調査)に嘱託を依頼した。/藤原歌劇団が新作歌劇を上演 藤原歌劇団では第15回公演として1942年5月27日より3日間、歌舞伎座で≪トスカ≫を上演する。また第16回公演として9月26日より4日間、東京劇場で松居桃樓脚色、巽聖歌作詞、弘田龍太郎作曲の≪西浦の神≫2幕を上演する。さらに第17回公演として11月26日より4日間、歌舞伎座で≪ローエングリン≫を上演する。/音楽同好会の特別音楽講座 音楽同好会では1942年4月15日から6月末日まで、芝区芝公園にある日語文化学校で特別音楽講座を開講する(各科毎週1回)。科目と講師は、吹奏楽指導法(プリングスハイム 土曜7時−8時)、愛国歌作曲法(プリングスハイム[?] 月曜7時−8時)、作曲研究(プリングスハイム 金曜7時−8時)、和声学入門(プリングスハイム 月曜6時−7時)、和声学研究(プリングスハイム 金曜6時−7時)、音楽鑑賞(藁科雅美 月曜5時−6時)、洋琴科(藤田晴子 月曜3時−5時)、提琴科(岩崎吉三 木曜3時−5j時)、声楽科(早川清一 土曜5時−7時)。東響のベートーヴェン連続演奏日取変更 東京交響楽団のベートーヴェン連続演奏会は、1942年4月10日、4月17日、4月23日、5月2日の予定だったが、4月17日、5月2日、6月12日、7月(日未定)と変更した。/大音楽堂の事務、公会堂で管理 日比谷大音楽堂に関する事務は従来日比谷公園事務所で管理していたが、日比谷公会堂を管理事務所に昇格させ、公会堂事務主任山本茂男が初代所長に就任した。/瑞穂管絃楽団結成 銃後国民の学業や仕事の余暇に音楽を修得させるため、坂本良隆、村山猶吉を指導者として瑞穂管絃楽団および瑞穂合唱団を結成。麹町区六番町七の村山音楽研究所に事務所と練習所を置き、毎週水曜日午後6時から9時まで練習を行なう。現在、団員を募集中。
募集
内容:音楽コンクール声楽洋琴絃楽の部 大毎東日主催の第11回音楽コンクールは、1942年11月中旬に日比谷公会堂で声楽、洋琴、絃楽の3部門に亘って開催される(今回から作曲部門は独立して行なわれることとなった)。参加資格:満15歳以上の日本人、満洲国人、中華民国人。参加料:一人、金10円。参加申込:所定の申込用紙に記入し、大阪市北区堂島上二丁目大阪毎日新聞社事業部または東京市麹町区有楽町東京日日新聞社事業部各音楽コンクール係宛に提出する。ただし、一人が同時に両社に申し込むことはできない。各自の選択曲は作曲者名、曲名、作品番号、伴奏者名(絃楽および声楽部門)等を明記。申込締切日:1942年8月31日。予選期日および場所:9月中旬。大阪市(大阪で申し込んだ者、ただし第2次予選は東京)と東京市(東京で申し込んだ者)。予選は非公開で行ない、参加者氏名は各部とも番号を用いる。参加者は暗譜で全曲を演奏することとするが、課題曲のうち特別指示があるものは、この限りにあらず。本選は、東京で公開の演奏により審査を行ない受賞者を決定する。参加者は暗譜で全曲を演奏することとするが、課題曲のうち特別指示があるものは、この限りにあらず。声楽と絃楽の伴奏楽器はピアノ以外のものを使用してはいけない。各部受賞者は本選終了後、大阪で「音楽コンクール受賞者演奏会」に出演するものとする。表彰に関しては、音楽コンクール入選賞が本選参加者に、各部門のコンクール受賞者には音楽コンクール賞が与えられ、第一位は奨励金500円、第2位には250円、第3位には100円を贈る。コンクール受賞者中特に卓越すると認められる者には音楽コンクール大賞が用意される。受賞者がかつて受賞した順位と同位か下位の場合、奨励金ではなく音楽コンクール褒状を授与する(ただし作曲部門はこの限りでない)。音楽コンクール制定の賞のほか、各部門の第1位受賞者中一人に対し、詮衡のうえ音楽コンクール文部大臣賞を授与する。また、コンクール終了後受賞者の演奏を放送する場合は、音楽コンクール理事会に一切を委任すること。課題曲、選択曲の選び方についても記載されているが、詳細は略す。
消息
内容:全国蓄音器レコード製造協会 京橋区銀座48−8 新田ビル4階(電話:銀座6593)に移転。/PCL管弦楽団 東寳管弦楽団と改称。/西崎緑 麹町区三年町1へ転居。/江口夜詩 世田谷区新町2−323へ転居。/田村しげる 中野区江古田2−854へ転居。/浅野千鶴子 小石川区丸山町6へ転居。/田邊鑛太郎 田邊吹奏楽器、田邊本社、田邊リード楽器各社長。1942年4月19日死去。
【2001年12月18日+12月19日+12月21日】
編集室沢田・K・黒崎義英(『音楽之友』 第2巻第5号 1942年05月 p.128)
内容:本欄は従来堀内[敬三]主筆の担当だったが、今月からわれわれ編集同人が執筆し、主筆は新しく「楽友時事」欄を担当することとなった。(澤田)/本誌は鑑賞と教養記事を主とする綜合音楽雑誌として新発足して約半年経過した。しかし実際問題として発足当初は、なかなか雑誌の性格が掴めなかった。対象としての読者を明確に意識できなかったからである。雑誌というものは現象に追随するよりも現象を喚起することさえできるが、根本問題は何といっても読者の意志や方向を把握することであろう。読者諸氏の希望や感想を聞かせて欲しい(黒崎)
【2001年12月27日】



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