『音楽之友』記事に関するノート

第2巻第4号(1942.04)


音楽に於ける純粋性と大衆性菅原明朗(『音楽之友』 第2巻第4号 1942年04月 p.12-13)
内容:われわれの近い時代に、音楽をその純粋性において独立させようとしたことがあった。それは特殊な形において高度の世界に達したが、この時、音楽はもっとも弱い特殊な芸術となってしまった。/音楽芸術においては純粋美の働く力は薄く、その社会性のほうに大半の興味の原動力が強く働く。音楽を芸術と呼ぶならば、小数の芸術作品とそうでない多数のものに二分され、前者のみが人の心に訴え、芸術だけがなしうる使命を果たす。後者のもつ大衆性については、芸術の大衆性とは類を異にする。/芸術は社会性と大衆性のいずれかをもって初めて存在し得る。しかし、個人の自由意志と情緒の発露を外に置いた社会性も大衆性も、芸術の世界には存在しない。これを否定する社会においては芸術は滅亡する。もし芸術において大衆性ということがいえるならば、これは芸術のほうにあるのではなく、大衆の方にあるのである。
【2001年9月23日】
◇音楽に於ける模倣と創造守田正義(『音楽之友』 第2巻第4号 1942年04月 p.14-19)
内容:(一)与えられた課題は、広がりをもちすぎてそれほど簡単ではない。それをわかりやすく論述していくには、邦楽に触れながら話を進めたほうが好都合である。/同じ日本人でありながら、邦楽を大変好む人も多数いるであろうが、反対に何の魅力も感じない人々も多数いることと思う(守田は後者)。邦楽のみを好み満足を見出す人々は、その大部分が年寄りかきわめて特殊な環境におかれているかである。良いか悪いかは簡単に断定できないが、そうした邦楽の存在がこれからの日本の音楽文化の発展にどのように作用するか、また純音楽史的に見て明確な発達を示しえたかどうかを考えてみることが重要である。大雑把に言えば、邦楽の世界には模倣力は充分に発揮されてきたと思うが、創造力の働きは緩慢であり、希薄にしか示しえなかったと思われる。徳川時代の鎖国が原因で、楽器の改良や発明がもたらされなかったし、記譜法を採用するに至らなかったことなどが挙げられる。/明治以降に輸入された西洋音楽はわれわれをたやすく魅了し、邦楽に対する関心はたやすく喪失した。邦楽は、なぜかくも簡単に西洋音楽に取って代わられたのだろうか? 邦楽を純音楽的にみた場合には、独立した音楽としての条件がいちじるしく欠けている。これに反して洋楽は、音域の広さと音色の多種性の上に明確な旋律と対位法と和声とで構成されている。そこで邦楽は過去の遺物となり、今日の音楽生活に強力な力をもちあわせていない。しかし、われわれは洋楽のもつ様式に幻惑されすぎて、主として技術的な面のみある程度移植が成功しているが、音楽精神の移植においてはきわめて不充分である。そうした意味で、洋楽の世界においても創造力を成長させるような積極的模倣ではなかったといいうる。(二)学校用の唱歌や軍隊用行進曲、あるいは民謡、童謡の類の作曲は明治時代からあった。しかし、それらとは趣を異にする、西洋から輸入した現代的様式によって自己の音楽的欲求を表現しようという純芸術的な創作がなされるようになったのは、あまり遠い昔ではない。さいきんの創作水準は、少なくとも内容においては[西洋と]かなりの隔たりがあると率直に認めざるを得ない。というのは、たいていの場合、われわれの音楽的表現欲求が諸種の音楽的素材に対する興味本位の範囲から出て、単なる技術的処理のみが意図される場合が多いからである。作曲家は少しでも多くの音楽の語彙を増やし、作曲の表現力の強化を図らなければいけない。このようにして、今日の時代精神を呼吸すればするほど、われわれは過去の邦楽の中に自身の語彙を容易に見出しえないのであって、いきおい西洋音楽のうちにそれらを求めることとなる。しかし、これももはや模倣の領域から積極的に脱却する意識をもたなければならないところまで来ているはずである。/演奏家の場合もまた、一般的にいって特徴的傾向はいちじるしく似ているばかりか、音楽的自覚性においては、むしろ作曲家より弱いといえる。今日となっては演奏家も作曲家との緊密な関係において、日本の真の現代音楽の創造のために有機的にことを運ぶ自覚が要求される。
【2001年9月24日】
南方共栄圏の音楽工作 <座談会>石井文雄、笠間杲雄、枡源次郎、黒田清、箕輪三郎、堀内敬三(『音楽之友』 第2巻第4号 1942年04月 p.20-37)
内容:最初に堀内が座談会の目的について。大東亜全体から米英侵略勢力を駆逐するために、日本が中心になって大東亜新文化を建設していかなくてはならない事情があるので、音楽においてもその一翼を担う責任がある。特に差し迫った問題としては、新たに日本が活動しなければならない南方共栄圏の音楽文化に関して、いかにこれを楽壇関係者に注意を促し、あるいは知識を与えていただく。腹蔵のない意見を聞きたい。こうして、石井文雄に大東亜の音楽について意見を求めた。石井の発言をまとめる。大東亜共栄圏の確立は、まず東亜新秩序の確立から出発すると考えたい。ここでは文化について考えられなくてはならないが、大東亜文化の前提となる東亜文化の特質は一般に道義ということが説かれている。道義と音楽との関係、それと音楽のもつ独自性ということがどのように解決されていくかが問題になると考える。そこで大東亜の民族という問題が生じてきて、国民と民族と人種の問題が分かれてこなければならない。文化という大きな立場から見ると大東亜共栄圏の内容には、独立した国家と独立しない属領が地理的に考えられる。また一口に大東亜共栄圏といっても日本と東亜と大東亜とのそ各々の立場、およびその間の関係を考えないと音楽文化の対策も立てられないだろう。そして次に日本の特殊性というものと、日本と東亜ならびに日本と大東亜の共通性について考える。そして南方共栄圏となると、南方の共存と共栄という二つの問題が生まれ、これらは結局一つになる。音楽文化の立場からいうと、現実の音楽と理想音楽の二つが問題になってくると思う。また大東亜に対しての欧米、殊に英米の音楽文化政策も考えてみなければならない。それと日本の独自性というものと日本の大東亜に対する共通性普遍性というものが、音楽文化のうえで考えられてこなければならないと思う。
次に堀内は、笠間に 欧米の大東亜に対するやり方の特徴について意見を求める。笠間の意見。南方共栄圏の民族は多く、フィリピンはアメリカ、仏印はフランス、蘭印はオランダ、マレーとボルネオ北部はイギリスというようにやり方が違う。宗教もいろいろで雑多な姿をあらわしている。日本が共栄圏を指導するというとき、満洲や中国で行なっているように画一的になってしまうが、これを避けなければならない。音楽や映画にしても同様のことが言える。またフィリピンの中流以上のインテリは、アメリカのジャズ音楽に慣らされているから日本の音楽では面白くない。蘭印は文化工作をやらなかった。過去のやり方は、原住民にオランダ語を教えない。オランダ語を覚えるのは生意気だというわけだ。ただちに日本語を強要し、日本のものを入れることは考えなくてはならない。インドネシアでは93%までが回教徒で、音楽も回教的にやらないといけない。その文化のよって来るところを掘り下げて研究して出発しなくてないけないと思う。は、亜細亜を東亜と大東亜とに区別するとき、どうしてもインドが中心として、インド以東を東亜、以西を西域、以北を北邊、それから南太平洋の島々と豪州を含めて南陸と呼ぶ。アジアを四分し東亜に北邊南陸を加えたものを大東亜と言っているが、これは亜細亜文化圏としても成り立つと思う。これまでの学者は文献だけで想像して実証研究を怠っていたため、実際の地域や民族とその文化形式を誤解していることがある。このように文化圏をはっきり樹立する必要がある。昨年だったか、東亜の音楽というレコードが出たが、その中に日本が入っていないのでは意義をなさない。日本の音楽を紹介する必要は当然だが、同時に他民族の音楽文化を認識することだ。幸い、音楽文化は批判する前に喜びが得られる、と指摘する。笠間は、同じ回教[イスラム教]でもシイット派、スンニー派、シーア派と分け、その中でイラン民族は、宗教儀式の中では音楽は厳禁だが、回教徒でありながら回教に結びついた音楽をもっている、と説明する。続いてから林邑楽に関連して、安南の林邑は印度教のシバを崇拝していたこと、インドの文化が移されていたこと、8世紀には林邑を「シボ」と発音しシバに通じることなどの説明がなされる。/ここまで聞いて、堀内は、歴史的事情にくわえて地理的事情も異なってくるので画一的にやることは困難である。しかし早速の問題としてはラジオ、レコード、楽譜等を通じて物質的に音楽をもち込むこと、音楽隊(または音楽教育家)を派遣して音楽工作をやること、これらはすぐに考えていかなければならないので、どのような考え方で実行していったらよいか? と参加者に問いかける。黒田から、当面の問題として手っとり早くしなくてはならないのだろうが、やはり根本の研究をしなければいけない。まず、東亜共栄圏内の若い青年層がどういう音楽を好むかを調べて、それに当てはまるものを持っていく。今後の大東亜共栄圏内の音楽を研究するとしたら、童謡と民謡だと思う。そして特殊性の中から普遍性を見出すようにする。新京へ行った時、蒙古のレコードを聴いたが日本の追分そっくりだと思った。このような提案が出された。また、音楽の研究には言葉の研究も必要となる、たとえばあるオペラを他の言語で聴くとまるで別物になる、と黒田(ほか参加者も)。黒田は、それと井澤修二が、あの当時メーソンを連れてきて日本の唱歌をやったのは、達見だった。から、音楽は文化工作として政治や経済よりも先に出るものだと思う。なぜこれを文化政策に用いないのか。いままでの日本人作曲家は、芸術音楽は民族音楽の集大成されたものであることを知らなさすぎる。ヨーロッパの芸術音楽にしても同様なので、まず自分たちの民族の音楽を集大成し、次に東洋民族の音楽を集大成する。そして世界的な芸術音楽ができると思う。ただ、いままで東洋の音楽に対する認識不足があったため、東洋とのものといえば原始的で芸術として取り立てられないものとしていた。しかし遠からず東洋音楽の集大成による新東洋芸術が創られることと思う。文化政策としての当面の問題は、娯楽政策だ。娯楽が軌道に乗って初めて芸術になる。各民族が楽しんでいる娯楽をともに味わうことの修養と同時に、その民族の歴史的音楽の価値を認めてやり、それを紹介することだ。以上の発言が出る。続いて箕輪から、 娯楽政策としてみると、蘭印など若い世代はギターやヴァ
イオリンを弾いたりしていて日本の音楽を何も知らない。日本のこれまでの音楽を持っていって楽しく思うかどうか疑問だ。だからたくさんの量を持っていって、その中に好きな音楽があるかどうかを見る必要がある。さらに将来、東亜の音楽がいかに進むべきかも考える。各民族に自分たちの音楽のよさを反省させることは、大きな政策的意義があると思う。こういう育成の任務を果たさないと、日本を指導者と簡単にはみなさないと思う、といった発言が出ている。当面の問題として黒田は、日本の音楽を選定しようと考えないで、日本のオーケストラを動員して放送するとか、今はいけないということになっている軽音楽をかけるとかして、なんでも向こうの人が喜ぶ音楽を聴かせてやる。フィリピン人は歌が好きだから、歌を作って大いに仲良くしていこうとやるのもいい、と述べている。笠間は、日本が指導権を持つということは、いろいろな民族が認めなければならないだろうが、日本人が民族、種族、就中民族の心理状態についての認識をもつことだ。根本問題としては他民族種族の心理状態、言語の問題、文化や習俗や宗教の研究などから認識を確立
して、われわれと共通する文化的性格を探ることが必要と唱えている。ここでが、日本のものを量的に持っていくとしても順序が考えられる。何を第一にするかといえば、東洋的日本的なものであり、当分の間は絶対西洋のものをやってはいけない。レコードもビクターやコロンビアという、英米にもある名前を以て出ることは差し控えるべきと主張し、さらに東洋の音楽について、これまでは文献を漁っていたから歴史的なものしか説明できなかったが、いまは東洋の音楽も現実の音楽だ。それを認識し整理していくことが文化の進展であり、そうすることが指導者だと説いている。黒田が、アジア民族の伝統から生まれた大きな一つの文化を建設しようという目的から立たなければいけないと思う、とまとめて座談会が終了。
【2001年11月6日+11月8日】

独逸国立音楽局の組織と業績津川主一(『音楽之友』 第2巻第4号 1942年04月 p.38-44)
内容:ナチス革命後、政府は、すべてのドイツ国民に文化教養のために必要なものを供給する目的で、国民社会主義文化共同団体(NS-Kulturgemeinde)を組織した。そのために、全ドイツの芸術・文化の各面に包含される国家的な団体を作る必要に迫られ、国立文化院(Reichskulturkammer)が、1933年11月15日に設立された。この開院式はベルリンのフィルハーモニー楽堂で、ヒトラー総統が臨席し、院の総裁である大臣ゲッペルスの演説などを含んで行なわれた。ゲッペルスは、文化院がドイツの芸術家や文化人を統制するものでないことを約し、芸術上のことを命令する機関でもなく、文化院じたいが仕事をするところでもないことを表明した。そして、芸術家の生活や運動上に起こってくる障壁や対立を除去することと、過去、現在、未来のドイツの文化財を国民の利益になるように管理するために文化院が必要だと述べた。
文化院の組織は、国家啓蒙宣伝相を総裁とし、その下に文化顧問を置き(文化院に包含される各局の局長が就任する)、さらに文化元老院を置く。以上が文化院中央機関で、その下部に
   国立映画局
   国立造形美術局
   国立音楽局
   国立演劇局
   国立放送局 [←これだけ1939年10月、管轄外に置かれた
   国立新聞局
   国立著述局
が置かれた。
文化元老院は文化院の事実上の最高機関なので触れておく。この元老院は、国民文化を代表する優秀な人物が総裁より任命され、総裁と国民に対して、ドイツ文化生活の計画的発展について最後の責任を負うものである。音楽分野から選ばれている人物を列挙すると次のとおり。
   ペーター・ラーべ(音楽院総裁)
   パウル・グレーナー博士
   ハインツ・イーラート
   フリッツ・シュタイン博士
   オルスト・ザンダー
   フランツ・アダム
   ヘルマン・ミュラー=リヨーン
   クレップス
   ヘルマン・シュタング
   ヴィルヘルム・バックハウス
   ヴィルヘルム・フルトヴェングラー博士
   ハンス・フィッツナー
   クレメンス・クラウス
   ゲオルク・シューマン
   ハインリッヒ・シュルスヌス
文化院傘下にある音楽局(Reichsmusikkammer)には、ドイツの音楽生活に協力する個人および団体のすべてを所属させる。すなわち、作曲家、演奏家、指揮者、演奏会の企業者、演奏会の紹介者、楽譜出版者、楽譜販売人、唱歌連盟、一般合唱団、 教会合唱団、素人管弦楽団、アコーディオン・ハーモニカ合奏団、バンドネオン合奏団、マンドリン・ギター合奏団、チテル合奏団などが含まれるほか、1934年5月1日には、諸般の音楽施設、音楽教授施設、以上の施設に働く人々を追加した。所属員は、初期において専門の音楽家のみで93,000を数えた。
音楽院は次の8部門からなる。
   第一部 創作的音楽家(作曲家)、演奏的音楽家(演奏家)、音楽教師、素人音楽家
            以上のための
         作曲家専門分科会、独唱家・独奏家専門分科会、管弦楽専門分科会、娯楽音楽専門分科会
   第二部 音楽教育専門分科会
   第三部 青年音楽、国民音楽
   第四部 合唱団、教会音楽団
            以上のための
         ドイツ合唱団専門分科会、ドイツ混声合唱団専門分科会、福音教会・喇叭吹奏専門分科会
   第五部 音楽会制度
            盲人音楽局
            音楽著作権利用協会Stagma
   第六部 楽譜事務、楽器事務
            ドイツ楽譜出版団体
            ドイツ楽譜販売商団体
            労働共同団全国音楽院
            楽器営業
   第七部 経済
            娯楽音楽団中央紹介所
   第八部 音楽法律相談所
第一次大戦後、音楽も他の文化部門同様、ドイツでは一般に衰退の徴をみせた。唯物主義が横行したからである。その結果、音楽専門家の経済的苦悩は甚だしくなったが、このとき新設された音楽局の第一の事業は、第一に全ドイツの音楽家の団結・組織化、第二に個人的才能の適宜後援(音楽業の平均生産率の向上)と音楽者の可能な限りの失業防止であった。ドイツでも、才能もなく役にもたたぬのに音楽家顔をしている人物が横行していたので、音楽局の仕事の一つは、こうした幽霊的な分子を清掃することだった。したがって音楽の職業に携わろうとする者には、以前にも増して高度な資格基準が要求されるようになった。同時に、音楽勤労場の厳格な制限がなされた。こうして素人と専門家とを区別し職業音楽家の生活権を擁護したのである。
#音楽局が設立されてから最初の4年の業績を略記してみる。
   失業音楽家は24,000人から約10,000人に減少した
   孤立無援に陥りやすい作曲家のために共済基金が積まれ、同額の養老年金が支払われる
   物故作曲家の著作権の有効期間を参拾年から50年にした
   文化管弦楽団と呼ばれる楽団が多数結成され、良い音楽の啓発のため専心努力している
   政府は私的紹介所に閉鎖を命じ、全ドイツに中央紹介所を開設した。ここを経て契約された音楽家は週1日無報酬で働く
   若い音楽家が社会に出られるように考慮され、楽器の購入や勉学の継続に必要な補助金を支出した
   法律相談部では指示を与えたり、法律上の処置を設定した
   音楽演奏権利用のための3つの協会がStagmaに合流し、契約件数、収入ともに増加した
以上のように、前線と銃後とは音楽によって結ばれ、国民の団結に至大の役割をつとめている。
【2001年9月27日】
現代日本の管絃楽及び室内楽曲 (続 日本作曲家作品の批判的紹介)清瀬保二(『音楽之友』 第2巻第4号 1942年04月 p.46-53)
内容:この記事は、編集部から、清瀬がどのような作曲家の作品を紹介するのかだいたいの希望があり、それに従う。また数人で分担して書くものなので他との重複もあるかもしれない。
大木正夫
清瀬が大木の管弦楽作品に最初に接したのは、記憶に間違いなければ、今は存在しない国民交響楽団が《第一交響曲》を演奏した時である。その後《信濃路》で本当の大木の抒情に接する思いがした。大木の性格は、やや暗く、時に悲痛さを帯び、論舌鋭くつめよる時など劇的要素を感じさせるが、《五つの話》や《夜の瞑想》または萬葉集に音楽をつけたものからも、デリケートな抒情を感じることが多かった。《ヴァイオリン、ティムパニ司伴楽を含む交響舞曲羽衣》は文化中央聯盟の皇紀二千六百年記念音楽会に発表されたもので、非常な長編、力作であるが代表作ではないだろう。弦楽四重奏曲《七つの小品》の中では、大木が親しんだ尺八の効果を出そうと苦心している。以上のほかに《工場交響曲》《農民交響曲》《鑛坑》などの管弦楽作品がある。
箕作秋吉
箕作の管弦楽作品で代表的と思われるのは、堅実な《古典組曲》やフランス的な《2つの詩》を経て一つの完成を示している《シンフォニエッタ》であろう。一方、日本和声の論求を具体化したと思われる歌曲集《僧院と尼僧》《落葉》などから《閨秀抒情詩集》《現代詩第一、第二、第三 啄木詩集》《芭蕉紀行集》、ピアノ曲《夜の狂詩曲》などに見られる技巧も現れている。この方向は《ヴァイオリンと室内管弦楽のためのソナタ》で、よりその円熟を示しているようだ。これらの作品の諸要素を含んで発展した作品として未完の《第一交響曲》の第1楽章に注意したい。これは《序曲》として文化中央聯盟の皇紀二千六百年記念、懸賞当選作品として発表されたが、交響曲としての完成を期したい。なお、《ヴァイオリンと室内管弦楽のためのソナタ》は《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》に、《二つの詩》はピアノ独奏およびヴァイオリンとピアノ用にそれぞれ編曲されている。
池内友次郎
主な管絃楽曲としては交響詩曲《櫻》と《月見草》《四季》等であろう。さいきん発表されたオーケストラ伴奏の女声独唱曲《熊野》は、謡曲の歌詞を用いてこれを現代化したもの。
松平頼則
さいしょの室内管絃楽曲《パストラル》は短いが純粋の感を抱かせる。感覚主義的でなく内政的な静かさがある。《南部民謡を主題とするピアノとオーケストラのための変奏曲》は、五音音階的ではなく《パストラル》よりも現代的で流動的である。このほかに管弦楽作品として《ピアノとオーケストラのための協奏曲》、室内楽としてのみならず代表作の一つに数えられる《フリュートとピアノのためのソナチネ》がある。《フリュートとクラリネットのためのソナチネ》は愛すべき小品、なお《セロとピアノのためのソナタ》は《弦楽四重奏》とともに近く発表される。
平尾貴四男
在仏当時の管弦楽作品《古代旋法による緩徐調》は、フランス的正統派の技巧の中に故国への憧れを強く示した作品。これと同一線上にあると思われる《隅田川》は、より力が入り円熟している。このほかオーケストラ伴奏の《オークラロのための組曲》、近作《父なる我は》がある。室内楽としては《弦楽四重奏》が代表作であろう。さいきん公開発表される《フリュート・ソナチネ》は2楽章ものだが、非常に円熟し完成されている。このほか管弦楽に音詩《砧》、室内楽に《木管五重奏》がある。
小船幸次郎
小船は特にリズムに日本的要素を探求しているようである。そうした意味からは《第一序曲》や《祭り》に興味をもつ。しかし小船の代表作は《弦楽四重奏》だろう。このほか、室内楽に《三つのインヴェンション》がある。さいきんは指揮者として多忙で新作を発表しないが、今後いかに発展するかが期待される。
早坂文雄
早坂は日本の伝統に目をむけ、そこの作曲の基底を求めようとしている。作品リストは目下主に管弦楽とピアノ曲である。特に主力を注いでいる管弦楽作品としては、《二つの讃歌への前奏曲》に始まり、《古代の舞曲》ではその純粋性と完成度の高さに驚く。さいきん発表された《左方の舞と右方の舞》は、さらに円熟しておりオーケストレーションの巧妙精緻さは非常なものだ。室内楽または室内管弦楽と見るべき《夜の田園詩曲》は、いわゆる民族的田園詩曲ではなく詩的なものだ。行進曲風のものとして《序曲ニの長調》がある。最近作《讃頌祝典之樂》においては、いままでとかなり異なったオーケストレーションがなされているそうだ。
伊福部昭
早坂と同じ北海道出身で友人どうし。管弦楽曲《日本狂詩曲》は明確な個性を現している。《土俗的三連画》は、狂詩曲とほとんど同じ傾向を示し、より巧妙に凝縮されている。ピアノという楽器に力を吹き込もうとして、さいきん発表された《ピアノとオーケストラのための協奏風交響曲》がある。
萩原利次
新人であるが、管弦楽曲《五音音階によるエチュード》がある。五音音階によるとはいえ、多くの現代曲の洗礼を受けて抽象化されたものといえよう。ピアノ曲《日本祭礼舞曲》の中にも同様の傾向が見られる。萩原はリズムに興味を持つが、舞曲に走らずリズムを抽象化する方向に行くのではあるまいか。さいきん発表された管弦楽曲《鳴り響く太鼓》(第1番)は転調の面白さは感じられるが、ねらいが明確でないように思う。室内楽曲として《フルートとピアノの三楽章》がある。
石田一郎
石田と萩原はコントラストをなし、石田は詩的、文学的で静的である。歌曲には《賦》《三月》《田澤温泉》《鳥羽繪》《山峡早春》、ピアノ曲に《遠退く町》などが代表的であろう。室内楽では木管四重奏の《小組曲》、《ピアノ五重奏》と続く。管弦楽曲では《祭り》と《ピアノとオーケストラのためのファンタジー》があるが、未だ聴く機会を得ないので紹介にとどめる。
江文也
管弦楽曲の中では《台湾舞曲》を代表作と見たい。初期の作ではあるが非常に個性豊かな完成作品である。さいきんレコード化された《孔子廟の音楽》は未だ聴く機会を得ない。このほか《北京の印象》《白鷺幻想》《第一交響曲 ラ・ヱツポヱカ》などが主なものだろう。室内楽作品としては《フリュートソナタ》と《生?トリオ》が主なものである。
大澤壽人
京阪在住の多才、多作な作家である。《交響曲第1番》《交響曲第2番》《交響曲第3番》があるほか、《ピアノ協奏曲第一》《ピアノ協奏曲第ニ》《ピアノ協奏曲第三》《ヴァイオリン協奏曲》《小交響曲》《組曲》《交響幻想曲》などがある。室内楽にも《弦楽四重奏》《弦楽トリオ》その他多数。さいきんは、どのような発展を示しているのであろうか?
大築邦雄
大築も京阪在住である。最初の作《オーケストラのためのトッカータ》は雅楽的傾向を示すがラヴェルの影響が見られる。このほか《舞》《行列》《長係樂》、混声合唱とオーケストラのための《雪山の修行者》がある。室内楽としては《弦楽四重奏曲》がある。
尾高尚忠
尾高はウィーンで研究した人だが、その作品は民族的傾向を示している。管弦楽作品としては《日本組曲》《カプリチオ》《芦屋乙女》《みだれ》《組曲 第一、第二》などがあり、そのオーケストレーションは美しい。室内楽としては、《三重奏》《弦楽四重奏》が近く発表される。
石井五郎
石井の本性中には多分に民謡的なものがあるが、その要素を発展させることによって、より明確な世界が打開できるのではないかと思う。管弦楽作品として《建国讃歌》《二つの田園曲》《交響的序曲》《小組曲》などがある。《小組曲》は室内楽としても発表された。
須賀田磯太郎
その作品はすべて管弦楽作品であるようで、雅楽的傾向を示す。《日本繪巻》《祭典前奏曲》《前奏曲とフーガ》《交響的舞曲》《国民詩曲》《興亜序曲》(皇紀二千六百年記念)《交響行進曲三題》(我等の皇軍、歓喜、英霊追悼迎曲)《日本古典組曲》《双龍交遊之舞》など、すこぶる多い。
八木傳
八木はロマンティックな弦楽四重奏《街頭風景》第一、第二、第三より管弦楽に至り、急にスタイルが変わって《穂朶期》《日本古代舞曲》《農閑期》(合唱つき)《農繁期》と土の香りが濃いものへと転じてきた。

近来、邦人作品を聴く機会が多くなりつつあるのは喜ばしい。明確な基礎の上に辛抱強く我等の道を探求しなければならない。若き作曲界の健やかな発展を希望する。
【2001年10月1日】
国民歌と大衆歌曲(下) ―― 作曲家と作品を語る (続 日本作曲家作品の批判的紹介)吉田信(『音楽之友』 第2巻第4号 1942年04月 p.54-59)
内容:この記事は吉田信と匿名(甲と乙の二人)の出席者による鼎談の形をとっている。趣旨は、国民歌と大衆歌曲の作曲家とその代表的作品について批判と紹介をすることであり、第2巻第3号の続きとなる。/橋本國彦は《愛国行進曲》以来、国民歌の作曲募集ではいつも審査員に回っているが、東京日日新聞社・大阪毎日新聞社で募集した《太平洋行進曲》その他の国民歌の仕上げやピアノ伴奏譜は、すべて橋本の世話になっている。国民歌運動に協力している橋本の功績はきわめて大だ。橋本の作曲した《世界一周大飛行の歌》では、君ヶ代の一節をうまく取り入れるなどしてさすがだ。10年ほど前、足利龍之助のペンネームで《ミス・東京》とか《チェリオ》などの流行歌を盛んに書いていた。また昨年、ビクターが新時代の流行歌を作ろうと専属作曲家を総動員してコンクールした《希望の星座》は橋本の作が入選し、泉浩二のペンネームで正月新譜として発表された。/流行歌界の大御所・中山晋平は《東京音頭》以来、音頭の家元みたいになって、さいきんの作品には初期の瑞々しさがなくなったようにも思えるが、《日章旗の下に》(佐藤春夫作詩)のように傑出したものもある。/服部良一はメロディにしても個性が出てきたし、編曲やオーケストレーションも上手で流行歌作曲家中ではテクニックの点で最高の一人。《別れのブルース》や《いとしあの星》《蘇州夜曲》と大なり小なりエキゾチックな味に富んでいるので、南方圏に対する音楽政策が重大となった今日、服部にどんどん作品を作らせたい。日中事変の初期、南京陥落の直後に、服部は進んで皇軍慰問団に加わり皇軍将士の詩にその場で作曲していくような情熱がある。/佐々木俊一には《島の娘》《涙の渡鳥》《守備兵ぶし》《僕の青春》《無情の夢》などがあるが、さいきんヒットが出ていない。その原因は昔の曲の焼き直しがあったり、さいきんの《長崎物語》や《矢車草の唄》など会社がよく宣伝しないものもあった。ここらで従来の作曲態度を脱皮して新しい佐々木スタイルを生み出す必要を感じる。/細田義勝には《忘れちゃ嫌よ》《ニッポン娘》《上海小唄》などがある。/テイチク専属作曲家には長津義司、能代八郎、山下五朗、宮脇春夫、鈴木哲夫(《満洲娘》)、陸奥明、大久保コ二郎(《上海ブルース》)、阿部武雄(ポリドール時代に《妻恋道中》《裏街道中》)など。/流行歌の秘密は、縁の下の力持ち的存在の編曲者だ。つまらない曲でも編曲によって立派なものになる。主な人物は、仁木他喜雄、奥山貞吉、服部良一(以上コロムビア)、平茂雄、伊藤翁介、灰田勝彦、深海善次(ビクター)、ほかに山田榮一、長津義司、宮脇春夫、江口夜詩など。/キングの作曲家には林伊佐緒(《出征兵士の歌》)、島田逸平、上原げんと(《上海の花賣娘》)、佐藤長助(《愛馬行》)、大村能章(ポリドール時代に《野崎まゐり》《東海の顔役》、コロムビア時代に《博多夜船》、ほかに《麥と兵隊》など多数)、細川潤一(《あゝわが戦友》)、長妻完至。/ポリドールの作曲家には米山正夫、近江志郎、飯田景應、服部逸郎、倉若晴生、江口夜詩。鈴木社長の趣味で、みんな同じような股旅調の曲を書く。/今まで話題にのぼらなかったビクターの作曲家には、小村三十三、島口駒夫、東辰三(《つはものの歌》《荒鷲の歌》)、清水保雄(《愛の山河》)。/今まで話題にのぼらなかったコロムビアの作曲家には、佐々紅華(《君恋し》《祇園小唄》)、平川英夫、竹岡信幸(《赤城の子守唄》《支那の夜》)、萬城目正(《旅の夜風》)、奥山貞吉(《ザッツ・オーケー》《沓掛時次郎》《蛇姫様》主題歌《お島千太郎》)、仁木他喜雄(《純情二重奏》《めんこい仔馬》)、早乙女光(《古い花園》)、佐々木すぐる(《航空日本の歌》)、明本京静(《皇国の母》《われは再び銃とらん》《父よあなたは強かった》)。
【2001年10月2日】
故国の楽壇に寄す長尾克(『音楽之友』 第2巻第4号 1942年04月 p.60-61)
内容:
著者の肩書きは陸軍大尉だが、演奏家協会書記在職中に応召という記載がある。/国外で『音楽之友』1月号と2月号を貪るように読んだ。『音楽文化新聞』は置いていないので落胆した。時たま耳にする日本からのラジオでは、軍歌が多いので軍人にとっては少し物足りない。/シンガポールが陥落し、フィリピンの裁定が迫っている今日、東亜諸民族の指導者である日本人が、音楽によってこれらの新同胞をいかに育成するかは大切な責務でなければならない。楽壇はその責任を自覚しているだろうか? 東京市民600万の何千分の一かを相手にして報酬が多いの少ないのとぼやいてみたり、ちょっと名前が出ただけで法外な作曲料を要求する演奏家や作曲家がいたとしたら、日本の音楽家として理想に向かって進むことはできない。/音楽挺身隊の活躍を愉快に思っているが、今後は全国のどんな寒村にでも進んで出て行き、音楽報国の誠を尽くしてもらいたい。戦場では困苦欠乏に耐えて皇国に報じようとしているので、銃後の人々も個人の生活を国家のために犠牲にする覚悟を固めてもらいたい。やたらに金をかけてリサイタルを開いたり中身のなさを外観で塗りつぶしたりする音楽家には嘔吐を催す。質実に謙虚な態度で勉強した人こそ、高尚な音楽を国民に教える価値のある人だ。こうした報国的な実行には必ず犠牲が伴うが、音楽家の尊い職責を考えて忍ばなければならない。この犠牲の意味がわからない音楽家は転職して金の取れる産業へ回るべきだ。
【2001年10月7日】
欧米の退廃音楽を衝く野川香文(『音楽之友』 第2巻第4号 1942年04月 p.62-65)
内容:
われわれは米英を亡国の瀬戸際に追い込んでいるが、こうした現実を直視しつつ、まさに滅びようとする国々の国民の生活の中に深くしみこんでいる音楽を取り上げて、その中に発行している亡国的要素を見るのも無駄ではないだろう。自由主義的民主主義のこれらの国々において勢力の中心は大衆の中にある。大衆の支持がなくては何事もできないこれらの国々の芸能文化は、大衆の趣味、嗜好の反映にほかならない。/さて、第一次世界大戦によって欧米の国々では思想的混乱時代を現出した。そしてブルジョアや特権階級の文化が崩壊し始め、かわってソ連の共産主義的な影響とアメリカの民主主義的自由主義の傾向が強く働きかけてきた。/大戦後のフランス人は犠牲と借財等で苦しく陰惨だったが、戦勝国としての誇りも持ち、やがて平和な時代が続くこととなった。民衆の生活にも気持ちにも余裕がでてきた。くわえて文化は日ごとに爛熟していき、そして享楽的な生活が実直な市民の生活を腐敗させた。デモクラシーはここに一つの墓標を立てることとなった。/ブルジョア自由主義の時代に入ってデモクラシーの世界観を確立したアメリカは、第一次大戦には勝ったが国内経済界は好況と大恐慌とが反復して、人々は多忙な生活に追い回され続けた。こうして不安や焦燥を少しでも忘れようとするのであるが、伝統を持たぬ新興国の悲しさで、現れたのがニグロの哀歌であり欧州を追われたユダヤ人の旋律だったのである。こうした絶望的な二つの民族から、捨鉢的で刹那的な享楽主義を与えられたのであった。今日、アメリカのジャズの傾向の中に、依然としてニグロ的なものとユダヤ的なものが強く息吹をしている。アメリカ人はこの二つの亡国民族の歌を大切に育てているが、その歌詞は安価な恋歌に終始している。一方、戦後驚異的に発達した機械主義の中に、アメリカのジャズ音楽は入っていこうとしている。近代的な音楽は、こうした機械主義的なロマンティシズムの完全に新しい道を開拓しつつあったが、アメリカにあってはこの傾向はまったく見当違いな結論に向かって進行しつつある。すなわち、ただ感覚的な要素のみを追い、商業主義の俎上で力を持っていた。ここにも享楽的で退廃的要素は多分に発見できるのである。/こうして彼らの理性は麻痺し感情は乾燥する。国が興亡をかけての戦争をしている時にストライキをやって自己を防衛しようとするデモクラシーの神経は、とうていわれわれには了解できないが、彼らは自由主義の中に見出しているのである。もっともジャズ音楽は演奏技術を向上させ、管弦楽法の上に斬新なものを多く提供した点では貢献したところ大である。/伝統を持つ英国人もアメリカ的ジャズを愛好している。第一次大戦後、イギリスの芸能文化方面に活気ある建設的なものは生まれず、ついにアメリカの享楽主義の後塵を拝することとなった。英国にはスコットランドやアイルランドのように美しい民謡の花園を持っているのに、わざわざニグロの亡国歌に酔いユダヤのヒステリックな絶望感に快感を求めようとし、誤った民主主義的濁流の中に自分を溺れさせたのであった。/アメリカは無限な資源を、膨大な産業主義によって開発、大衆の文化生活を高めたが、その爛熟した文化の中から悲劇的な自殺剤を製造し、自らその毒をあおっているのである。
【2001年10月8日】
軽音楽よ立ち直れ杉山長谷夫(『音楽之友』 第2巻第4号 1942年04月 p.66-67)
内容:
演奏家協会との関係から軽音楽を研究しているという杉山が、その経験に基づいてジャズを検討する。/大阪方面では文字の使用すら禁止されたという「軽音楽」という言葉は、ジャズの代名詞である。この際、ジャズとジャズに附帯する概念を一掃するにはこの言葉をも抹殺しなければならない。ジャズはアメリカイズムの表象で酒池肉林の生活に陶酔した米、英、オランダ人にはふさわしいかもしれないが、建国以来三千年の歴史をもつ日本精神には相容れないものであるからである。警視庁の興行係の寺澤主事や情報局の小川情報官の言動からしても、今までのジャズは、きっぱりやめるべきだろう。とはいえ、軽音楽を全面的に禁止してあまりにこちこちになってもいけないだろう。もともとジャズは東洋的なものであり、音楽というよりお囃子の一種で身振りを伴う。馬鹿囃子を想起すれば、それは荘厳な悪魔祓いの儀式に用いる神楽であり、演奏も非常に真面目なものである。大いにこれを研究して取り入れるべきであろう。打楽器などの進歩は東洋が先なのだ。東洋の打楽器の多さは世界の冠であり、奏法は千変万化である。ジャズは東洋音楽を源として生まれたとも考えられる。であるから、われわれが健全な軽音楽を生み出すことは決して難事ではない。/将来の軽音楽をどうしたらよいかについて考えると、作曲者、演奏者、享受者の融合ということである。軽音楽の素材については、古来日本にある旋律やリズムを巧みにとることもできるだろう、演奏家協会でも、軽音楽を生かすための研究を、その道の委員が毎月第三金曜日に集まって意見を交わしている。4月以降、アトラクション制限の問題が起きているが、情報局側では、まったく禁止の意志がないことを確かめた。また大日本映画配給株式会社の都合で良いものは使用するという意見をもっている。模範的軽音楽の楽譜出版も問題になっている。近ごろ多い、悪質な軽音楽会を一掃するために警視庁各警察署および各演奏会会場の代表者と打ち合わせて対策を講じたい。国家の役に立つ職域奉公を考えていけば案外この方面の創作、改組が早くできるのではないかと思う。
【2001年10月10日】
楽壇人物素描 ―― 齋田愛子桂近乎(『音楽之友』 第2巻第4号 1942年04月 p.73)
内容:
齋田はバンクーバーに生まれ女学校を出てから歯科医になるつもりでいたが、才能を認められトロントの音楽学校に入学した。卒業後、各種のリサイタルを催していたとき、藤原義江と関屋敏子が聴き、ビクターへ推薦してきた。その後、カナダ日本人会の人々にもその才能が認められ、イタリアへ声楽の勉強に行くよう斡旋され、ミラノでリッパー夫人のもとで約4年間勉強した。1935年、ミラノ市ネルワイ宮でデビューし、まもなく来日してビクターに《涙もて》と《君が胸に》を吹き込んだ。その後一度カナダへ帰り、再度来日して今日に及んでいる。/齋田は日本人には稀にみる声量と声の幅をもっている。いわゆるアメリカニズムがないのが好ましく、すべての態度や物言いに教養がにじむのも良い。さいきんカルメンで非常に勉強したが、それ以外あまり勉強していないように思われるのは惜しまれる。
【2001年10月13日】
献納作品と著作権 −大日本音楽著作権協会連合委員会速記録<座談会>京極高鋭、諸井三郎、小林愛雄、山根銀二、杉山長谷雄、葛原しげる、町田嘉章、武藤與市、小森宗太郎、金川義之(中郷氏代理)、増沢健美、里中彦志(『音楽之友』 第2巻第4号 1942年04月 p.94-101)
内容:増澤健美(大日本音楽著作権協会理事長)が出席者に、(1)編曲の問題と(2)献納作品の著作権に関する問題について相談したいともちかけている。ここでは、(2)の献納作品の問題を取り上げている。/増澤は次のように問題の所在を明らかにしている。先ごろ大政翼賛会で行なった献納愛国詩も著作権が問題になり、けっきょくデディケートという意味でやるときいている。また、日本音楽文化協会戦時対策委員会では、献納というからには著作権も何も一切合財納めるべきではないか、献納したものをなお利用するというのであれば他の意味になるのではないかという意見が出ている。こうしたことを決めておかないと紛争が起きることがある。たとえば、新聞社から頼まれてある作曲家が歌曲を作った。[新聞社は]その歌曲を官庁に献納した。献納された官庁は他の雑誌などに自由に掲載させたが、作曲家は著作権を新聞社に譲ったとも思っていないで雑誌社に著作物の使用料を請求した。雑誌社は官庁から載せろといわれて載せたのだから払えないということになり、もめた例がある。小林愛雄は、1942年12月に大政翼賛会で愛国詩献納について話し合ったが、みな賛成して、ではどこに献納するのかというと国にだという漫然とした話になり、著作権は各自に所属する。とにかく、国家には捧げるが著作権は各自にあるというはっきりした意味で献納という文字を使って出発したと説明している。金川義之は放送局の立場から、献納は著作権の譲渡であり、献納者には著作権の譲渡登録をしてもらい、そうでないものは著作権は各自にあると、このようにはっきりした方が良いと述べている。増澤はさらに、献納は著作権の譲渡だとするとして、営利会社等がそれを利用して儲けるのはけしからんという意見があることも紹介しながら議論を進め、献納は自発的な著作権の譲渡であり、出版社や演奏者等に利益が生まれることも良しとすることでまとめている。山根銀二は、国家には献納しても満洲国に献納したわけではない、しかし満洲国でいろいろなものが発行されるのはどうするかと指摘する。ベルヌ条約に入っていない満洲国を条約で律することができないから条約改正時に問題になるであろうと、増澤がまとめている。これらの問題は、結論を出して月報等で周知して欲しいと出席者から要望され、増澤は承知したと答えている。さらに献納作品の手続きについては、大日本音楽著作権協会は形式上民間の社団法人なので、情報局でやってくれるといいとの意見が出されるが、大日本音楽著作権協会が実際的な仕事をやったらいいと反論が出され、それを支持する意見が続いている。デディケートに適当な日本語を付ける作業では、捧詩、捧曲を経て最終的に「捧作」がよいだろうとまとまる。
【2001年10月29日】

国際音楽情報(5) ―― 独逸に於ける批評の禁止に就いて松本太郎(『音楽之友』 第2巻第4号 1942年04月 p.112-114)
内容:
ドイツで芸術批評の禁止という極端な手段が取られるにいたるには、何らか特殊な事情があっただろうと考えるのが当然である。批評禁止の根本理由はドイツにおけるヘブライズムの存在とユダヤ的害悪の流布にあった。芸術的観点から見ても国民主義音楽とその価値は重大である。たとえばワグネリズムに対抗して生まれたドビュッシーの芸術がいかにフランス音楽に新しい生命と意義を与えたかよく知られるところである。国際現代音楽協会もそうだが、「国際的」なるものにはほとんど常にユダヤ人がつきまとい、何らかの意味でユダヤ色を付加し影響をおよぼす。同協会ドイツ支部がしだいに全員の作品をその音楽祭に送ることをやめるにいたったのも、ここに理由がある。/こうしてナチの「文化清掃工作」が始まったが、批評家たちはこの工作に協力したわけではなかった。そこで宣伝大臣ゲッペルスは批評統制法を発布するにいたったのである。/批評統制法の実施に際し、ゲッペルスはドイツ文化院第4回創設記念日の席上および同じ日の文化院と歓喜力行団の年度大会においても、その趣旨について演説している。こうして「従来の形式での芸術批評」が禁止されたが、それは芸術に対する言説をすべて禁止たことを意味しない。ゲッペルスは「今日以後は芸術報告が芸術批評に代り、芸術報告家が芸術批評家に代る」と述べている。新しい国民主義音楽の創造の初期にあたって、欠点のために長所までも無視することを避け、育て上げる主義を取ったことは適切で妥当であった。そして宣伝省は芸術報告者の地位を、これをドイツ新聞の職業名簿に特別の承認を得て登録されるべきものとする。この承認は当該報告者が充分な予備教育を受けたことが確認された場合に与えることとし、少なくとも30歳に達していることが必要である、と制限している。
【2001年10月16日】
音楽博物館建設準備会愈々本格的活動に入る(『音楽之友』 第2巻第4号 1942年04月 p.119)
内容:
紀元2600年記念事業として設置された音楽博物館建設準備委員会(田邉尚雄委員長)は、第1回事業として行なわれた楽器展以後沈黙していた。しかし現下の情勢に鑑み、大東亜音楽建設の急務を痛感し、田邉委員長以下黒澤隆朝、遠藤宏、白井保男、瀧遼一、石塚寛、田邉秀樹、押田良久、牛山某らによる委員会を毎月開いて、今月中に南方文化展覧会、秋には満洲建国十周年記念満蒙音楽文化展を開催する。
【2001年10月23日】
音楽会記録唐端勝(『音楽之友』 第2巻第4号 1942年04月 p.120-121)
内容:
1942年2月11日〜1942年3月10日分(→ こちら へどうぞ)。
【2001年10月23日】
楽界彙報(『音楽之友』 第2巻第4号 1942年04月 p.121-124)
記録
内容:
シンガポール陥落祝賀諸演奏会 1942年2月15日にシンガポールが陥落するや、翌16日には各所で祝賀演奏会が開催された。/まず正午、日比谷公園旧音楽堂で東京市、東京日日新聞社共催による「シンガポール陥落記念戦捷大演奏会」が開催された。大場少将の講演に続き東京交響楽団が《軍艦行進曲》《観兵式行進曲》を、東京市民音楽院合唱団が《あな嬉し喜ばし》《敵は幾萬》《大東亜決戦の歌》を、藤原義江と四家文子が《星港撃滅》を、酒井弘が《噫シンガポール陥落の歌》を演奏したあと、さいごに全員で《愛国行進曲》を唱和して会を閉じた。/午後6時からは日比谷公会堂で軍人援護会東京府支部、讀賣新聞社共催により「大東亜戦軍歌大会」が開催された。陸軍軍楽隊が《シンガポール陥落》《ドイツの愛国歌集》《機甲団》《攻撃》を演奏したほか、レコード会社専属歌手による愛国歌謡と軍歌の演奏があった。/戦捷第一次祝賀日の各種催し 1942年2月18日、第一次祝賀日に都下で次のような催しがあった。(1)戦捷第一次祝賀大東亜戦争士気昂揚大音楽行進。東京市、朝日新聞社共催により開催、午前11時に日比谷大音楽堂前に集合。参加者は大日本吹奏楽聯盟、大日本吹奏楽報国会、東京市民音楽院、女子中等学校鼓笛隊、大日本三曲協会尺八班、大日本詩吟聯盟、興亜詩吟報国会、神風会、学生ハーモニカ・アコーデオン聯盟、東京ハーモニカ協会、海洋吹奏楽団、海洋少年団、音楽挺身隊ほか。陸軍軍楽隊を先頭に正午行進開始、午後2時半解散。(2)戦捷祝賀音楽会。日本音楽文化協会、東京日日新聞社、松竹株式会社共催により午後0時半より東京劇場で開催。松竹少女歌劇団、松竹女声合唱団、日本合唱団、藤原義江、牧嗣人、三浦環、新交響楽団などの演奏があり、午後2時半閉会。(3)皇軍感謝大会。全国蓄音器レコード製造協会、都新聞社、東京寶塚劇場共催により正午から東京寶塚劇場で開催。大平陸軍報道部長、平出海軍報道部課長の講演のあと、都新聞社舞踊コンクール入賞者の舞踊、レコード会社専属歌手の演奏、寶塚花組生徒の合唱があり、午後3時閉会。/日本音楽文化協会大阪支部役員 1942年2月22日に発会した日本音楽文化協会大阪支部の役員が決定し、発表された。【支部長】中山太一【副支部長】石倉小三郎、永井幸次【顧問】三邊長治(大阪府知事)、坂間棟治(大阪市長)、楠本長三郎(阪大総長)、河田嗣郎(大阪商大学長)、山家正、竹内平七(大阪地方海軍人事部長)、西邨知一(大阪中央放送局長)メモ欄参照、村山長拳(朝日新聞社社長)、奥村信太郎(大阪毎日新聞社社長)、上野精一、高石眞五郎【参与】多湖實夫、坂信彌、伊藤久松、菅野和太郎、市川寛、土井發、小川太郎、城尾五平、上山善治、奥屋熊郎、大野關松、朝倉斯道、山口勝一、赤井清司、有澤潤、上野直昭、勝本粥一、伊達俊光、鶴殿家勝、石川欣一、山本為三郎【評議員】幸前伸、村井順、石黒立、持長祐宜、原仙吉、内田娯老、北村春吉、石川為蔵、丸井英次郎、竹越和男、大橋純二郎、大村恕三郎、菅野国太郎、杉江秀、田中平三郎、平塚義人、福喜多鎭雄【幹事長】竹内忠雄【常任幹事】朝比奈隆、加納和夫、友田吉男、鳥井輝三、永井潔、水野康孝、宮原禎次、吉村一夫【幹事】朝比奈隆、近江屋清兵衛、加納和夫、佐藤吉五郎、菅生直己、竹内忠雄、橘静雄、伊達三郎、富田勇吉、友田吉男、鳥井輝三、永井潔、永井巴、長井斉、野口源次郎、原繁義、水野康孝、宮原禎次、吉村一夫。/「厚生楽曲」の第2回当選 日本放送協会ではピアノ・スコアによる「厚生楽曲」を毎月一般から募集し、第1回入選として石井五郎《笛の踊》、八木傳《民族舞曲》を決定発表した。このほど第2回入選曲として米山輝男《南へ南へ》(行進曲)、選外佳作として露木次男《秋田の印象》、八木傳《優雅なる舞曲》、石井五郎《昭南港の曙》、石井五郎《菅取りの歌》が選ばれた。/献納作品の著作権取り扱い方決まる 大日本音楽著作権協会は、役員、作品委員、使用料委員の連合委員会を開催し、献納作品の著作権に関して取り扱い方を統一し、献納の呼称を用いる作品は著作財産権一切を被著作者に譲渡するものとみなし、捧作は著作財産権の一部あるいは全部を保有し、精神的な意味で作品を捧げる場合にこの呼称を用いるものとすることと決定した。この件は日本音楽文化協会とも相談のうえ、情報局その他の関係諸官省、大政翼賛会、日本出版文化協会等の諒解協力をあおぐこととなっている。
情報
内容:日本音楽文化協会の諸事業 (1)作曲: 室内楽と管弦楽作品発表会ならびに一般簡易曲と童謡の募集と試演会(2)演奏会: 優秀楽人推薦大演奏会(3)都市偏重の音楽文化打開策: 地方巡回演奏会とレコード鑑賞会(4)日本音楽の解説付鑑賞会(5)音楽文化の普及向上: レコードによる研究的音楽鑑賞会(6)音楽相談所: 毎週(月)(水)(金)午後2時から5時まで協会役員随時出張または書面による相談に応じる(一切無料)。/軍楽隊の日比谷奏楽新スケジュール 東京市が毎年開催している陸海軍大奏楽は、来る1942年4月25日海軍軍楽隊の演奏を皮切りとしてシーズンを開く。予定は、第1回(4月25日2時)海軍、第2回(5月9日2時)陸軍、第3回(5月24日1時)海軍、第4回(6月6日2時)海軍、第5回(7月1日7時)陸海軍合同、第6回(7月18日7時)陸軍、第7回(8月29日7時)海軍、第8回(9月12日7時)陸軍、第9回(1943年3月17日1時)陸軍。/国民音楽協会の男子学校合唱競演会 合唱競演会を開催してきた国民音楽協会では、本年より一般男子の部より学生を分けて開催することとなった。【期日】1942年6月7日(日)正午【会場】日比谷公会堂【参加資格】本邦における男子学校学生生徒で、一団体の人員が25名以上100名以内【申込締切】1942年5月10日【申込所】京橋区銀座西4−3新数寄屋橋ビル 国民音楽協会/国民音楽協会の合唱指導者講習会 国民音楽協会では1942年5月3日、10日、17日、24日(いずれも日曜)午後2時から5時まで、東京小石川竹早町府立東京女子師範学校で第2回合唱指導者講習会を開催する。【講師および題目】大東亜建設と合唱(小松耕輔)、合唱団の組織と運用(秋山日出夫)、合唱名曲の研究(堀内敬三、津川主一)、合唱指導の要請(外山國彦)、合唱における発声法(奥田良三)、合唱指導の実習(大和田愛羅、浅香鍋三郎、矢田部勁吉)、四大節式歌の指導(澤崎定之)/コロムビアで厚生音楽課新設 このたび日本コロムビアでは本社に厚生音楽課を新設し、広告課の川添利基を主任とし、洋楽課の田邉秀雄、教育課の武川寛海、文芸部の岩本義雄、宣伝課の富永時雄を兼務とし、檜山陸郎を専任として各課と緊密な連携のもとに厚生音楽の一翼を担うこととなった。
消息
内容:日本ポリドール蓄音器株式会社 大東亜蓄音器レコード株式会社と社名変更。なおポリドールレコードおよび日本ポリドール販売株式会社は従来のまま。/清水脩 小石川区小日向台町3-107目黒芳三方に転居。/金谷次郎 結婚し、鎌倉市長谷132へ転居。/クロイツァー 目黒区上目黒8-580(電話、渋谷3842)へ転居。/稲葉實 結婚し、板橋区板橋町4-1180へ転居。/日本音楽文化協会 電話、銀座4803開通。/笈田光吉 芝区白金台町1-7へ転居。/尾崎宏次 結婚し、渋谷区桜ヶ丘54三喜苑へ転居。/河合信雄 中野区大和町370へ転居。/文学準 大森区南千束58東洗閣へ転居。/與世山彦士 新京市満洲舞踊学院教授に就任。/村松道彌 新京音楽院を退く。/坂西輝信 新京音楽院を辞し、海洋吹奏楽団常任指揮者に就任。/エフゲーニ・クレイン 1942年2月24日午後2時30分死去。/高野瀏 1942年3月7日死去。/
メモ:日本音楽文化協会大阪支部役員の顧問の一人を西邨和一(大阪中央放送局長)と記載してきましたが、西邨知一の誤りであることが判明したため、訂正しました。ご教示くださった方にお礼申し上げます。(2005年8月28日)
【2001年10月24日+10月26日+10月28日 2005年8月28日誤記を訂正】 

編集室(堀内敬三)(『音楽之友』 第2巻第4号 1942年04月 p.128)
内容:音楽を好む南方各地域の住民が日本の統治下に入ったので、南方に対する音楽文化工作は急務である。しかし、われわれは南方住民について全然無知であった。本号では現地の実情からみた対南方音楽文化工作の建設的な意見を、座談会できいた。/前号の特集「日本作曲家作品の批判的紹介」は各方面から賛辞をもらった。本号には、その続きとして清瀬保二による日本作曲家管弦楽および室内楽作品の研究と、吉田信による国民歌と大衆歌曲の評論が載っている。記録としても常識としても価値の高いものと思う。/本号の売高は用紙の制限によって現在以上に進む可能性は乏しいが、本誌の使命を達成するにはできるかぎり多くの人に読まれなければならない。しかし地方によっては需給の関係から多少の売れ残りを生じているので、その無駄をなくすために、なるべく直接購読を申し込んでほしい。
【2001年10月31日】


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