『音楽之友』記事に関するノート

第2巻第3号(1942.03)


大東亜音楽文化建設の指標/諸井三郎(『音楽之友』 第2巻第3号 1942年03月 p.14-19)
内容:
大東亜音楽文化建設の指標という問題を、諸井は、音楽自体に関することがらと音楽政策に関することがらの、2つの面から観察してみたいという。音楽政策は音楽に対する見方、すなわち音楽観が基礎になるが、音楽観を確立するには、今回の戦争の真意義を把握する必要がある。根本的には日本人のもつ精神的可能性が従来の世界的秩序のもとでは充分に発展できず、新秩序を建設しようとする要求によって今回の戦争が始められたのである。/大東亜音楽建設の指導原理は、第一に新しい世界観に基づいていなければならない。第二に世界的規模をもつことが必要である。新しい世界観は、個の自発性に基づいて全体への献身において示される精神の優位の上に成立する。ここで従来の作曲運動を振り返ってみると、技術的な問題に集中しすぎてきた。/音楽政策は国家意志の下に行なわれるものだから、そこに民族精神が反映されるのは当然だが、もし民族精神の探求・開発が偉大であればあるほど、その政策自体がこの探求・開発を促進させるのである。音楽政策を統一的・綜合的に実行するには、一つの中枢機関が必要で、そこにいかなる性格を与えるかは非常に重要な影響をもってくる。ナチス・ドイツのように全ドイツの音楽文化関係者の中枢的な職能組織である国音楽院を作り、これを宣伝省音楽部の下に立たしめ、両者が緊密に連絡を取りつつ音楽政策を行なっていく。全音楽家及び音楽関係者はこれに所属する義務を負い、その会員は10万人に近い。/日本はドイツとは相違した中枢期間が生まれるのは当然で、その意味から日本音楽文化協会の性格を検討することは重要である。日本音楽文化協会は、その性格についてまだ不明瞭な点を残している。その成立過程でどのような過程があったにせよ、その形ができた以上は、これを正しく成長させその機能を充分に発揮させることは音楽家の責任である。日本音楽文化協会はドイツの国音楽院のように強制力を持つものではないから、国家から与えられた使命を果たせるかどうかは音楽家の意志に任される。諸井は、日本音楽文化協会の欠陥を綜合企画を組織的に行なえない点にあるとみている。そして今後の発展は、一面では文化関係官庁の機構の問題にあるとし、多面では日本音楽文化協会の再検討および楽壇に存在する他の諸団体との関係に関する検討に及ぶと指摘し、これは文化政策全般に横たわることだとする。/今後、音楽政策は純粋に国内的性質のものと大東亜的性質のものとに分類される。政策の担当者は、これを明らかにし、相互の関係を見定め、綜合企画性を持たせなければならない。ことに大東亜的性質のものは至急大規模な研究が必要である。
【2001年7月19日】
音楽文化戦に勝つために服部正(『音楽之友』 第2巻第3号 1942年03月 p.20-23)
内容:今日われわれが働くべき世界は、あまりにも広大で、多様な風俗習慣をもっているので、なすべき仕事を如何に始めるべきか漠としている。われわれが今しようとしている文化戦は、大部分はわれわれより低い文化程度の南方諸国に対して行われるのであり、文化工作において成功を博するためには、まず対象の土地の文化程度について正しい認識を得て、これらの新しい友人たちに心から親しまれる音楽を書くことである。新しい友人たちの心を掴まなければならないが、音楽は頗る種類が多いので一度その用い方を誤ると、いかなる努力を尽くしても効果が上がらない。/そこで、いかなる種類の音楽が南方諸国に対して送られるべきかが問題となるが、その前に前の支配者たちがいかなる方法で彼らに呼びかけたかを知っておこう。アメリカはジャズを植民地に持ち込んだ。今、ジャズが民衆の生活に滲みこんでいることを忘れてはならない。特に気候が烈しい暑熱と高い温度の中にあってジャズは都合のよいものであったのである。われわれは温和な気候の中に住み、美しい生活の中で気高い仕事をなしてきた。これは弱々しく特殊なものであり、消極的なものであった。大衆的な歌曲を歌うことを軽蔑する音楽家さえいた。音楽文化戦に勝つには、音楽家が心構えを急転回させ、泥だらけの手で仕事を始めるだけの図太いことを考えなければならない。われわれはアジアの指導者としての貫禄を音楽の上に示し、それによって彼の地の民衆の心を奪わなければならない。/具体的な方法としては、彼の地の流行の歌や民俗音楽を日本風にアレンジして彼の地の人々に示したり、日本語で彼の地の歌を歌うこと、さらに彼の地に少なくとも70人以上の交響楽団を派遣することがすばらしいことだと思う。おそらく英米でさえ、交響曲を植民地に送ったことはあるまい。今派遣されるべき交響楽団は、新交響楽団のような日本でも一級のものでなければならない。まずは、最高の企画が立てられなければならない。
【2001年7月24日】
山田耕筰氏の主要作品 ―― 中年期までの創作過程への回想(特輯・日本作曲家作品の批判的紹介)/中根宏(『音楽之友』 第2巻第3号 1942年03月 p.24-34)
内容:
山田の作曲生活は、ベルリン留学時代(1910〜1913年)から数えても31ヵ年以上に亘っている。1930年に行なわれた山田氏楽壇生活25年記念祭を契機として刊行された作品集全10巻に収められた曲は、総数700曲以上に及んだという。それから10年以上も経た今日では、作品総数が1000曲に及んでいることと想像することは難くない。山田は、少なくとも量的にはすでに国際的大家の水準に達しているといえるだろうが、質の問題については未だ決定的な論断を下せない。その理由は、歌曲は比較的多く演奏され楽譜も入手しやすいため一定の正しい評価が下されているが、代表的な管弦楽曲は、さほど演奏される機会がなく分析研究する機会がなかったからである。/山田の主要な作品を紹介する。紙幅の関係から代表作に触れるにとどめる。/山田初期(1910〜1913年、ベルリン留学時代)の作品。
   楽劇《堕ちた天女》
   交響曲《かちどきと平和》
   交響詩《暗い扉》
   交響詩《曼荼羅(まだら)の華(はな)》
   楽劇《七人の王女》(スケッチ)
これらのうちで、もっとも注目すべきは交響曲《かちどきと平和》(ヘ長調)である。1912年、ベルリン王立高等音楽院作曲科の卒業制作として、山田26歳のときに書かれた。古典的な形式による4楽章の交響曲で、標題《かちどきと平和》は人間の精神生活における一つの過程を謳ったものである。また、これは日本人によって書かれた最初の交響曲である。この曲には慎ましやかで静謐な東洋的な情緒が感じられる。二つの交響詩《暗い扉》(三木露風・詩)と《曼荼羅の華》(斎藤佳三・詩)は、前者が1913年10月13日に、後者が1913年11月22日にベルリンで書き上げられた。これら2曲は二部作として、たいてい同時に演奏されるが、《曼荼羅の華》は1914年12月6日、東京帝国劇場における東京フィルハァモニィ協会の特別演奏会で《かちどきと平和》とともに初演された。一方《暗い扉》は1918年、ニューヨークのカーネギーホールにおける山田の渡米第1回演奏会で作曲者の指揮で初演された。楽劇《堕ちた天女》(一幕二場)は、山田が1911年ベルリンで日本の題材による歌劇作曲を思い立ち、東儀鐵笛の斡旋で坪内逍遙の『堕ちた天女』を台本として翌1912年早春に作曲に着手、同年7月にオーケストレーションを完成した。1913年夏にベルリンのザックス座で上演されることに決定、その準備のために1912年12月に帰国の途につくが、その後欧州大戦が勃発し上演は実現に至らなかった。1928年12月3日になって歌舞伎座の12月狂言中に組み入れられて初演された。この公演に参加したのは、山田以下、土方興志、石井漠、伊藤喜朔らのほか四家文子、奥田良三、関種子に加え、日本交響楽協会管絃楽部、日本楽劇協会合唱部、石井漠舞踊団等であった。楽劇《七人の王女》は1913年、メーテルリンクの原作によって書かれた。なお、ベルリン時代の管弦楽曲として《序曲 ニ長調》がある。1912年3月22日に書き上げられたもので、山田にとって恐らく最初の管弦楽曲であろう。初演は1917年6月9日、本野外務大臣官邸における音楽夜会で作曲者の指揮で行なわれた。/1914年1月、帰国。同年12月6日、自作を中心とした日本最初の80余名からなる交響楽演奏会を帝劇で開いた。1915年5月から東京フィルハァモニィ管絃楽部を組織し、民間における最初の定期的な交響楽演奏の事業を始めた。/山田の作曲生活第2期(1914〜1917年)。
   劇音楽《南蛮寺門前》(1914年)
   舞踊詩曲《マグダラのマリア》(同上)[ママ]
   舞踊詩曲《青い焔》(1915年)
   劇音楽《わしも知らない》(1915年)
   《即位式・前奏曲−君ケ代を主題とせる−(合唱と管弦楽)》(1915年)
   舞踊劇《明暗》(1916年)
   組曲《源氏楽帖》(1917年)
劇音楽《南蛮寺門前》は1914年、市村座で上演された木下杢太郎の同名の劇のための音楽として書かれた。この公演は菊五郎を中心とした狂言座によって行なわれた。これは旧劇俳優の公演が西洋風の音楽と芸術的に結びつけられた最初の試みとして特記するに値するものだった。舞踊詩曲《マグダラのマリア》は1915年1月24日、東京で完成。メーテルリンクの『マリアマグダレエヌ』からヒントを得て、前奏曲と一幕からなる舞踊詩劇に書き上げられた。1918年から19年にかけてニューヨークで2度演奏され、さらにメトロポリタン歌劇場舞踊家アドルフ・ボルムの演出で上演が計画されたが中止となり、1923年3月26日から31日まで帝劇で公演された羽衣会第2回公演で山田の指揮、中村福助の主演(マグダラのマリア)などで初演された。舞踊詩曲《青い焔》は1915年3月に書き上げられた。山田が没頭した「舞踊詩」運動への最初の野心的な大作として作曲された。ピアノ曲としての
《青い焔》は、1916年11月11日丸の内保険協会で開かれた山田のピアノ小品発表会で作曲者自身によって演奏されたのが恐らく公開の席での初演であると思う。管弦楽化されたものの(音楽としての)初演は、1919年6月24日、帝国劇場における「赤い鳥社」主催山田氏帰朝(第1回渡米)歓迎音楽会で作曲者の指揮で行なわれた。舞踊としての日本初演は、1922年11月19日、帝国劇場における石井漠氏渡欧送別舞踊会で、世界初演は1919年2月ニューヨークで伊藤道郎の演出で行なわれた。劇音楽《わしも知らない》葉1915年6月6日の作。当時、猿之助を主役として帝劇で上演された武者小路実篤の『わしも知らない』という劇への音楽で、小編成の管弦楽を作曲者が指揮した。この音楽は4章からなる組曲で、1917年6月9日、本野外務大臣官邸の音楽夜会で演奏された。《君ケ代》を主題とした《即位式・前奏曲》は、1915年秋の御大典を奉祝して作曲され、同年12月12日、帝劇で開催された東京フィルハァモニィ会主催奉祝大演奏会で作曲者自身の指揮で初演された。引き続き同[ママ]9月10日の東京フィルハァモニィ管絃楽部第6回月次公開試演でも演奏され、さらに1919年10月18日ニューヨークのカーネギーホールで作曲者の指揮により演奏された。舞踊劇《明暗》は、1916年秋、小山内の主宰する新劇場第2回公演(本郷座)のために書き下ろされた。その時の演者の一人・石井漠によって繰り返し上演され、石井の重要なレパートリーとなった。音楽は最初ピアノ曲が用いられたが、のちに管弦楽化された。組曲《源氏楽帖》は、1917年の春から初夏にかけて作られた。同年6月9日、本野外務大臣官邸の音楽夜会で《源氏楽帖》より<花散る里>と<須磨>が発表され、続いて7月10日、丸ノ内保険協会で開かれた第2回作品発表会でピアノ曲として7章を自ら演奏した。/その後、創作が歌曲の方向に向けられたが、1923〜24年にかけての日本楽劇協会創立の準備行動を始めた時代までに書かれた大作は、
   劇音楽《指髷外道》(伊藤白蓮夫人原作戯曲のための21章からなる音楽)
   交響曲《明治頌歌》(1921年5月1日、国技館で初演)
   舞踊詩《野人創造》(1922年11月19日、帝劇における石井漠渡欧送別舞踊会で初演)
   舞踊曲《盲鳥》(1914年3月26日〜31日、帝劇で上演された羽衣会公演で初演)
その間、
   交響狂詩曲《太湖船》
   物語曲《芥子粒夫人》(全4曲)
   《巴里仏国寺に捧ぐる曲》(合唱と管弦楽)
   歌劇《黒船》
を作曲し、1930年6月の楽壇生活25周年記念祝典にいたった。/学生時代の山田はヴァーグナーの楽劇研究に熱中したが、総合芸術に対する意図には全面的に賛成しながらも、上演された舞台作品そのものには不満の念を抱くようになり、その後に接した[R.]シュトラウスに感激した。ザックス・オペラ座と自作歌劇上演の契約ができたのを機会に帰国する途中、モスクワで初めてスクリャービンを知り「これまでの研究の無為を悟り、自分の藝術の前途への大きな光明を感じ得た」と語った。帰国後、作曲家としての目標は「舞踊詩」運動に向けられた。スクリャービンの影響が、舞踊詩の運動とともにその作品の中に顕示され出したことはいうまでもない。その後、衣食住とも純日本的なものと変わっていった青山時代を体験し、いくつかのピアノ曲や《源氏楽帖》その他の日本的な作品となった。山田は、早くから象徴主義と関連を持って成長してきたので、メーテルリンクを愛好した山田が、さいごにスクリャービンに音楽芸術の最高峰を見出したことは容易に首肯できる。
【2001年7月28日】
作品の紹介について(特輯・日本作曲家作品の批判的紹介)/澁谷修(『音楽之友』 第2巻第3号 1942年03月 p.35-41)
内容:編集部からの依頼は「尾高尚忠、平尾貴四男、諸井三郎、守田正義、菅原明朗およびその門下生の作品の批判的紹介」である。従来、作品を批判し紹介することによって多くの人々を慰安しようとしたり、人の苦痛を喜んで自分が高い人間で尊敬されようとする行為が多かった。このようなことは正しくない。/次の作曲家の作品リストが掲載されている。尾高尚忠、平尾貴四男、守田正義、菅原明朗、小倉朗、深井司郎、諸井三郎、關原利江、原太郎が挙げられている。なお、尾崎宗吉は出征のために、服部正は旅行のために、西田直道は北海道札幌放送局の指揮者として赴任したために、吉田隆子は病気のために、作品リストを挙げられなかったが、いずれかの機会に紹介したいと思う。/紹介が批判的な問題と結びついてくるのは、音楽芸術が偉大な力をもっている事実を歴史が示しているにもかかわらず、日本の音楽界が貧相であり、力が弱いという事態から発している。現在も、三絃、浪花節、義太夫、俚謡、ピアノ、オーケストラといったジャンルが雑然として、それぞれの生活層に結びついて生きている。こうした状況の中で作品を紹介することは、現在は外にある一般国民の真実に触れ、理解、批判という機会を産み出すことにこそ、意味がある。特殊な性格を持ったわが国においては、たとえば作品文庫を作るなど、幾多の異常なことを行なわざるを得ない(そこに歪曲や隠し立てや抹殺があってはならない)。
メモ:本文にあった、9人の作曲家の作品リストを別立てのページに用意し、リンクを貼った( こちら へ)。また、先の9人の作品リストを混在させて、作曲年代順リストも作成した( こちら へ)。
【2001年7月31日+[メモ欄]2001年8月6日, 8月8日
日本の吹奏楽曲(特輯・日本作曲家作品の批判的紹介)/広岡九一(『音楽之友』 第2巻第3号 1942年03月 p.42-46)
内容:日本の吹奏楽においては軍楽隊の発展に比べて、民間の吹奏楽は、三越音楽隊の久松の奮闘、駒田好洋巡回活動写真隊、ライオン歯磨宣伝音楽隊などの例外もあるが、
軽く考えられ一向に発展も改良もみられなかった。1929(昭和4)、1930(昭和5)年あたりから新吹奏楽運動が起こり、演奏する人たちの思想を入れ替えてかかった時、満州事変、上海事変、さらには大東亜戦争に際会した。戦争楽隊は一歩向上をみ、大東亜共栄圏が完成した暁には、日本文化の一端として恥ずかしくない地からをもちたい。読者には民間の吹奏楽を育てるつもりで見守ってほしい。/[日本で]吹奏楽曲を作る人たちは、みな吹奏楽を愛する人である。作品について考える時、新吹奏楽運動以前の作品とそれ以後の作品とにわけてみよう。まず”以前”だが、@民間の吹奏楽団が演奏することが稀であった。Aたとえ演奏しても、ラジオが無かったから、作者にとって反響が少なかった。明治から大正時代にかけての日比谷公園奏楽のプログラムには、日本人作曲家の名が数えるほどもない。大沼哲(陸軍軍楽隊)の《奉祝前奏曲》は、今上陛下摂政の宮時代に渡欧して帰還したのを祝して作られた。吹奏楽曲が行進曲に限られないことを示した例でもある。岡部伸平が陸軍軍楽隊に捧げた《行進曲》が1929年ころ、辻楽長の指揮で第二部番外[アンコールのことだろうか? 小関]として演奏している。陸軍軍楽隊では《東京行進曲》という厳然とした行進曲を公演奏楽で披露した。また江口夜詩(海軍軍楽隊出身)の行進曲《千代田城を仰ぎて》も演奏された。1932(昭和7)年6月に日比谷公演大音楽堂で、辻楽長告別演奏会が開催され、
  岡部伸平《行進曲》、
  吉田楽手補《円舞曲》、
  井上一等楽手《歌謡曲》、
  佐藤三等楽手《序曲》

の4曲が辻に献曲された。次いで1933(昭和8)年11月、日比谷公園大音楽堂で伊藤楽長告別演奏会が開催され、
  吉田楽手《行進曲》、
  筒井楽手補《歌謡曲》、
  田村楽長補《行進曲》、
  須磨楽手《フリュートの為の主題と変奏曲》、
  永井建子楽長《広漠たる視野》(行進曲)
の5曲が献曲され、また大沼哲《奉祝前奏曲》もプログラム中に含まれていた。この頃から@陸海軍内部で作曲が盛んになった。A民間に新吹奏楽運動が起こり軍楽隊がその指導的立場にたった。B作曲熱が満ちてくるとともに知識習得が容易になるなどの変化があった。満州事変勃発とともに民間吹奏楽団は出征兵士歓送に引き出されるようになり、やがて山田、成田、橋本らが[吹奏楽作品を]作り出した。純音楽方面の作曲家が行進曲を書くと、経験がないため思想や構成、作曲技法の点では音楽的であっても吹奏楽としてしっくりこない箇所がある。もっと多くの曲を作ってほしい。普通多く演奏される行進曲には、純然洋風形式のものと日本風形式のものとがある。洋風形式のもので、この時期に作られた作品をいくつか示すと
  大沼哲《立派な兵隊》
  大沼哲《進む日の丸》
  陸軍軍楽隊《我等の軍隊》
  陸軍軍楽隊《希望に燃えて》
  海軍軍楽隊《太平洋》
  海軍軍楽隊《二千六百年》
  帝国軍楽隊《愛国行進曲》
  江口夜詩《千代田城を仰いで》
  白磯《艦隊の威容》(瀬戸口賞)

などがある。日本味を出したもので成功したものは、
  陸軍軍楽隊《愛馬進軍歌行進曲》
  海軍軍楽隊《国の華》
  深海善次《進め荒鷲》

などである。また、行進曲以外の吹奏楽曲が少なく、大沼哲の前記2曲の《前奏曲》のほか、陸軍軍楽隊《攻撃》、江口夜詩《爆撃》の2曲を挙げ得るのみである。もっと音楽として味わいを盛ったものを作り出してほしい。文化活動を実践し、日本吹奏楽作曲の隆盛名作続出を望む。
【2001年8月12日】
本邦合唱楽曲の将来性(特輯・日本作曲家作品の批判的紹介)/津川主一(『音楽之友』 第2巻第3号 1942年03月 p.47-51)
内容:作曲技法、芸術的内容の両面から言って、わが国の合唱作品は未だ最低位にあるものといえるだろう。第一に、欧風の音楽が移入されるまで、わが国では多声に分かれて合唱する伝統がなかった。欧風の合唱音楽をわが国に最初に移入したのはキリスト教会、ことにギリシャ正教会がすでに明治5、6年頃には日本人の詠隊を組織し、いち早くロシア教会風の重唱合唱を試みていたというが、ギリシャ正教会は、日露戦争や赤色革命で打撃をこうむり、日本の楽壇の一角にロシア合唱に根ざした本格的な合唱運動が根づかずに終わった。次が新教各派で、アメリカ風のグリー・クラブ式の合唱音楽である。最後が教育音楽、すなわち唱歌の重音合唱である。教育音楽は、東京音楽学校が総本山であった関係から、この唱歌風、教材風な合唱曲は連綿として今日まで伝わり、グリー・クラブ一員の軽音楽的合唱と対比を示した一種の叙情的合唱音楽として、主に女性の間に勢力を占めている。東京音楽学校に来たユンケル、クローン、ラウトルップ、プリングスハイムなどの外人指揮者は本格的な合唱音楽を手がけようとしたが、演奏者たちも聴衆も、原語による大曲の構造と内容を理解するに至らなかった。キリスト教音楽も、演奏者が素人であり、賛美歌型以上の合唱曲を発表する者はない。また少人数によるア・カペッラ合唱団が無いことは、もっとも残念なことである。そこで、まず今日までの作品の一般的欠陥を指摘し、次いで今日以後の飛躍的作品を待望しようと思う。/合唱は、一般に歌詞が聞き取りにくいものである。だからリートと違って、言々句々、詩の奴隷にならなくてよい。その点で、日本人が作った合唱曲は作曲の構造美が不足しており、いずれも七五調の歌詞を歌謡形式にしたに過ぎないものが多い。また歌詞も旋律も叙情的で浪漫派の悪影響を受けたものと思われるが、合唱曲は集団の精神を示したものがよく、《旅愁》《椰子の実》《流浪の民》といった女学生的抒情主義ないしは前世紀的浪漫主義を清算してもよい時期ではあるまいか。次に、ポリフォニックな要素の欠乏があるが、旋律部に他の声部が唱和していくだけでは厳正な意味で合唱と言えず、斉唱に人声伴奏が付いただけの話である。こうした点で、世上に流布している橋本國彦の《愛國行進曲》の合唱編曲は採らないし、宮原禎次の《松嶋》もカノン練習曲以上に何の意味があるだろうか。交声曲の作曲については、よほど意を用いないと聴き手を退屈させる。その単調を避けるためには、詠唱と叙唱からなる独唱と独唱者による重唱を手段とすることである。そして、もう一つはカンタータの台本の研究家がいなくてはならない。たとえば白秋の『海道東征』にしても不満な点が多い。たとえばカンタータ風の合唱曲としては言葉が多すぎ、作曲家の活躍する余地がなくなる。また、もっと散文体の箇所があったほうが、韻文体のところを効果的にできる。それに幾分の劇的要素を含ませるとよい。
【2001年8月14日】
国民歌と大衆歌曲 ―― 作曲家と作品を語る(特輯・日本作曲家作品の批判的紹介)/吉田信(『音楽之友』 第2巻第3号 1942年03月 p.52-57)
内容:この記事は吉田信と匿名(甲と乙の二人)の出席者による鼎談の形をとっている。趣旨は、国民歌と大衆歌曲の作曲家とその代表的作品について批判と紹介をすることと明記されている。/大衆歌曲は流行歌を意味するが、国民歌は小川情報官による『公的流行歌』という定義が当てはまるものとそうでないものがあるように思う。流行歌(=大衆歌曲)の場合、大衆と遊離した作品は流行らないが、国民歌は国民の士気を昂揚させる目的があるので、大衆や個人的な嗜好が問題にならない。レコード会社が国民歌として作るものには流行歌的なものが随分あるという甲の指摘に、乙は、そんなのは問題外だと応じている。/曲も歌詞も「公的流行歌」の定義にぴったりするのは《父よあなたは強かった》や《日の丸行進曲》《そうだその意気》など。一方、信時潔の《海行かば》など国民歌以外の言葉で表現できないという(甲乙両名とも)。信時が作曲したという《大詔奉戴日の歌》もどんな曲か楽しみだという。/次に作曲者(団体含む)別にコメントしている。山田耕筰の国民歌については《なんだ空襲》(歌詞も曲もくだけた調子)、《燃ゆる大空》(上品で国民歌謡的)、《日本國民歌》《三國旗かざして》が取り上げられている。太平洋戦争が始まって最初にできた国民歌は東日が募集した《大東亜決戦の歌》、続いて讀賣で作った《ハワイ海戦》と《マレー沖海戦》でいずれも海軍軍楽隊の作曲である。海軍軍楽隊では東京音楽学校の下總、細川両助教授が軍楽隊教官として理論と作曲を指導したそうで、《太平洋行進曲》を主題としたマーチのころから良い曲が続出するようになった。国民歌作曲の常連・飯田信夫の国民歌は《アジヤの力》で、これは大政翼賛会が中堅作曲家数人のコンクールをやって決定したものだ。《空襲何んぞ恐るべき》も前作と同様、立体的な感じで飯田らしい味の曲だという。飯田は《隣組》がヒットして以来自身がついたように見えるが、過去の作品としては《百萬人の合唱》の主題歌や、同じ映画のもう一つの主題歌《戀知りそめて》などがある。飯田はニックネームを「チャング」といい、高木静夫のペンネームで「○○ぶし」を作ったり、加藤しのぶ時代には《思ひ出のギター》などを作曲している。飯田の作曲の半分以上は徳山たまきたまきは漢字で書き、偏が王、旁が連]が歌っている。国民歌の歌い手として徳山は第一人者だったが《啄木の歌》などの作曲もある。作曲をする時はもっぱら藤澤五郎のペンネームを使用しており、合唱曲などを編曲して共益商社からよく出版していた。古関祐而は国民歌の作曲では《露営の歌》や《暁に祈る》を書き、第一線で活躍している。流行歌として《船頭可愛いや》、早稲田大学応援歌の《紺碧の空》なども知られている。古関の作品は日本的な健康な単調の曲が書けること、年々音楽的な向上のあとが認められることなど評価が高い。古賀政男の《そうだその意気》は、歌詞も曲もわかりやすく、公的流行歌として申し分ない。こうした点を考えると、豪壮な長調の曲のみが国民歌の条件だとする理論は当たらない。日本人が外人よりも単調の曲を好むという事実を冷静に考える必要がある。メロディの美しさなど、古賀は得がたい大衆歌の作曲家であるから日中戦争が始まったころのように無理をして平凡な時局歌を作るよりは、腰をすえて大衆の心をやさしく慰める美しい歌謡曲を作るほうが得策だと思う。
2001年8月19日
◇楽壇人物素描 ―― 原智恵子/野村光一(『音楽之友』 第2巻第3号 1942年03月 p.75)
内容:原智恵子は、子供時代から現在まで中肉中背でがっちりとした体格をしており、向こう意気の強い性格をいかんなく発揮してきた。この性格は、今日の成功をもたらした最大の素因であろうが、また毀誉喪亡の渦中に身を置く所以ともなっている。/原をピアニストとして成功させた意志の強さは、父・久米太郎からの遺伝である。久米はアメリカとドイツで教育を受けたエンジニアだが、哲学と科学と芸術の渇仰者である。久米は青年時代を欧米で長く教育されたが、むしろそれ故に欧米の長所短所を熟知しており、14、15歳のころの娘・智恵子にフランスを一人旅させたのも、欧米人を打ち負かそうとする久米の日本人としての負けじ魂の然らしめたところである。原の苦労も、芸術家としての成功も強みも弱みも、みなここに根ざしている。/今日から見れば、大成した原であっても技巧や表現の様式について人々からいろいろ言われる。けれども原は、生来の勝気から、彼女の時代に安住しようとはしない。そこに原の強さと苦しさがあるのだが、自分と時代とが築いた硬い殻を破ろうとするのは難しいことである。
【2001年8月17日】
◇世界音楽都市の横顔A ―― ミラノ/柏熊君子(『音楽之友』 第2巻第3号 1942年03月 p.92-94)
内容:ミラノにはスカラ座がある。外観は貧弱なようだが内部は壮麗で、見上げるような天井や絨毯を敷きつめた長い廊下など、立派さに圧倒される。このスカラ座で主役を演じた日本人は未だいない。しかし歌手として、端役でも歌ったとすれば、欧米のイムプレーザーはローマの王立歌劇場で主役を歌った歌手よりも評価が高くなるのである。/ミラノは、ヨーロッパ第一といわれる駅から町の中心までは距離があり、バスでも20分ほどかかる。大伽藍(ドゥオーモ)のある広場が、ミラノの人たちが一番好む散歩場である。一級品ばかり置いた店が並ぶギャラリーには、何箇所かにカフェがあり、そこで世界を股にかけた有能なイムプレーザーは、ゆきずりの人並みから有名無名のオペラ歌手をつかまえ出す。ドゥオーモ広場からギャラリーを抜けてすぐ右手にスカラ座がある。12月から4月いっぱいまではオペラ・シーズンで、夏は1、2ヵ月管弦楽のシーズンを開催する。/冬は恐ろしく寒く、夏は日中うっかり外出するとくらくらするほど暑い。井上領事は、こんな気候の悪い場所に音楽を勉強しに来る者の気が知れない言ったそうだが、日本人だけがミラノに音楽の勉強に行くわけではない。ミラノには2000人を超える声楽の先生がいること、スカラ座があること、良質の音楽が聴けること、そして生活費が割りと安いという要素が重なって、ミラノに音楽の勉強に来る者が多いらしい。/一日も早く全世界に平和が訪れて、慈父のような恩師方や懐かしい友人たち、スカラ座、コンセルヴァトリオ、スフォルツェスコの野外劇場などなどを訪ねてみたい。
【2001年8月22日】
日本ビクターの管絃楽作曲募集に就いて堀内敬三(『音楽之友』 第2巻第3号 1942年03月 p.95)
内容:募集の内容 <趣旨>わが国音楽文化の向上及び宣揚に資するため、管弦楽曲(交響曲、交響詩曲、または組曲)を募集する。<応募資格>日本人であること<審査委員>清瀬保二、野村光一、橋本國彦、堀内敬三、増澤健美、諸井三郎、山田耕筰、山根銀二<賞金>最優秀作一篇に対し金2000円(公債)、佳作二篇に対し金500円(公債)。<応募作品>未発表作品で近代管弦楽編成で演奏可能なもの。演奏時間25分以内で、レコード録音時に12インチ3枚以内に録音できる範囲。総譜とピアノ用スケッチを提出すること。ピアノ用スケッチは総譜の下に書き込むこと。氏名は楽譜には記載せず、別紙に書くこと<応募締切>1942(昭和17)年5月末日<当選発表>1942(昭和17)年7月中の音楽雑誌<主催>日本ビクター蓄音器株式会社/堀内の文章 米英の東亜侵略勢力が滅亡したあと、大東亜の文化を指導するのは日本である。皇軍の奇跡的な大戦果に鑑みて東亜10億の民は、優れた日本文化の恩恵に浴することを期待するであろう。われわれは日本の名誉のために優れた日本音楽を全東亜に示さなくてはならない。管弦楽作品は今すぐに要求されているが、日本の音楽文化の深海と高みを世界に示すには、優秀な作品をもってしなければならない。しかし不幸なことに優秀と呼べるものは少なく、どうにかしてその作曲を奨励して名作の出現を待たなくてはならない。このたびの作品募集は、その意味からもっとも良いときに企画された。レコードを通じてならば作品の伝播普及は容易であろう。できるだけ多くの作曲家が名作を提出してくれるよう切望する。
【2001年8月26日】
徳山l追悼青砥道雄(『音楽之友』 第2巻第3号 1942年03月 p.98-100)
内容:徳山lとくやま・たまき]は1942(昭和17)年1月28日、慶応病院で死去したが、声楽家としての磨きをかけて本領を発揮するのは、これからという時だった。/徳山が東京音楽学校を出たのは1928(昭和3)年で、ちょうどビクターやコロムビアが日本吹込みを開始したばかりの時だった。当時できたばかりの武蔵野音楽学校の先生になったが、生活の設計にはいろいろ苦しみ、周囲の猛烈な反対を押し切ってビクターの専属歌手となった。そしてレコード歌手のレベルを一気に引き上げ、自分の仕事も軌道に乗せた。こうしてレコードのごく初期にこの世界に飛び込んで、しかも終始一貫一社の専属として他社に動かず、十何年間のレコード変遷とともに生きてきた。/第1回の吹込みは1930(昭和5)年で松竹映画の主題歌《叩け太鼓》、次が《撃滅の歌》(堀内敬三作曲)、1931(昭和6)年の《さむらひ日本》《るんぺん節》(いずれも松平信博作曲)で全国的に有名になった。満州事変の時には《満州行進曲》(堀内敬三作曲)を歌った。日中戦争前に官能的な流行歌の時代となったが、この時期、徳山は《天国に結ぶ恋》(松平信博作曲)や、勝太郎といっしょに《櫻音頭》を歌った。この頃の徳山は、ロッパと組んで盛んに芝居をやった。日中戦争が起こってからは、《愛国行進曲》《日の丸行進曲》《大陸行進曲》《太平洋行進曲》を歌い、晩年には「トントントンカラリ」の《隣組の歌》を歌った。指導振りは誰にでも親しまれていたので、亡くなった直後、あちこちの隣組常会で故人の話題がしきりに出たという。/徳山の声は実にきれいだと言われるが、声の寿命を長く保持するために禁酒・禁煙をしていた。そうした努力があってこそ、ベートーヴェンの《第九交響曲》と流行歌を同時に歌うことができたのである。/今度の病気は、1941(昭和16)年11月に発病したのだが、同年2月には痔で入院しているから、全体に身体が弱っていたのかもしれない。しかし死ぬ前日にも、日ごろの洒脱な調子を失わずに歌っていたそうである。なんでも頭が痛いといって頭を叩いたのがいけなかったらしい。/徳山は、さいきん音楽芸術への自覚を深め、声楽家として本腰を入れようとしていた。その一つの現われが《冬の旅》独唱会であった。ポスターやプログラムも全部自分で図案を考えたが、それが黒一色で、死んで行く徳山を予感されるようで縁起が悪い図案だった。1941(昭和16)年に痔で入院したときには首相から見舞をいただいたし、この度はまた首相から弔問を辱うしている。
メモ:p.99に「徳山l略年譜」が掲載されている(→ こちらへ)。
【2001年8月29日】
岡野貞一君を悼む田村虎蔵(『音楽之友』 第2巻第3号 1942年03月 p.100-102)
内容:東京音楽学校分教場主事、岡野貞一は1941年12月29日午前7時30分急逝した。平素から健康に留意していただけに、岡野を知る人々は恐らく驚いたであろう。/岡野の略歴が記述されているが、年譜風にまとめなおす(→ こちらへ)。/岡野の性格について。貴公子然とした風貌を備え、行動も上品で、温厚篤実で落ち着いた性格だった。また謙譲の得に富み、清廉潔白、あえて功を誇らなかった。/岡野の楽才について。専門は声楽だったが、ピアノも相当に弾き、オルガンも奏し、チェロもたしなみ、また作曲はすこぶる上手だった。本郷中央教会のオルガン奏者として四十有余年、ほとんど一日の欠勤もなかったと同会堂牧師より報告された。チェロを弾いたことは、東京音楽学校管絃楽奏者の一人であったので広く知られている。楽界に残した業績としては、恐らく声楽教授と作曲であろう。岡野の声質はきれいで、人を惹きつけた。作曲の中でもっとも優れた作品は、歌謡曲(リード)=唱歌曲にある。いまや全国的に愛唱されている《春が来た》《故郷》《兒島高徳》《三才女》《水師営の会見》《朧月夜》《橘中佐》《廣瀬中佐》《大阪の役》《保護鳥》など、みな岡野の作曲である。このように非凡な楽才をしめしながらも、これを吹聴するようなことはなかった。
メモ:記事中に「享年64」とあるが、これは数え年齢。
【2001年9月2日】
松竹交響楽団私感菅原明朗(『音楽之友』 第2巻第3号 1942年03月 p.108-109)
内容:
松竹交響楽団はわが国管弦楽の恩人ユンケルを指揮者として迎えた。ユンケルの指揮は30年前と少しも衰えを見せていなかった。昨年の覇者が今年忘れ去られる世の中で、こうした人選をしたオーケストラにとても好感をもった。このオーケストラはプロがプロらしい演奏をして、しかも力以上の仕事をみせようとしない。演奏に無意味な熱がなく、悪い意味の職業的ななれもないため、この誠実さは好ましい。東京には、宮内省、陸海軍、上野[東京音楽学校]、放送局にもオーケストラがあるが、定期演奏会を行なっているのは新交響楽団ひとつである。しかもプログラムばかり立派で音さえ出ない演奏を聴かされることのある現在の東京で、生まれたばかりのオーケストラがそつのない演奏を聴かせた。ここに新響と同じように安心して聴かれる新たなオーケストラが加わったことは音楽家にとっても、音楽愛好者にとってもよろこばしい。オーケストラは、世界中どこでも直接算盤を取れないものである。しかし、間接に得る収穫は大きく、松竹のような大きな興行閥において、このオーケストラは無限の沃土をその事業に供給するであろう。
【2001年9月5日】
国際音楽情報(4) ―― 国際現代音楽協会の終焉松本太郎(『音楽之友』 第2巻第3号 1942年03月 p.120-123)
内容:第一次大戦後、社会とその生活にもたらされた大変革は音楽にも大きな影響を与え、欧米諸国に前衛的な新音楽が生まれた。こうして1923年、エドワード・デントを会長とし、ブゾーニ、ラヴェル、シェーンベルク、シベリウス、シュトラウス、ストラヴィンスキーを名誉委員とする国際現代音楽教会がロンドンで創立され、年々国を変えて音楽祭を開き、新音楽の作品を発表することが決定され、今回の大戦勃発までに17回の音楽祭が次の場所で開かれた。
   第1回:ザルツブルク(1923年) 第2回:プラーグ(オーケストラ曲)とザルツブルク(室内楽) 第3回:ヴェニス 第4回:チューリヒ 第5回:フランクフルト・アム・マイン 第6回:シエナ 第7回:ジュネーヴ 第8回:リエージュ 第9回:オックスフォード(室内楽)とロンドン(オーケストラ) 第10回:ウィーン 第11回:アムステルダム 第12回:フローレンス 第13回:プラーグ 第14回:バルセロナ 第15回:パリ 第16回:ロンドン 第17回:ワルソー
1回の音楽祭では20数曲から30曲が演奏されたが、毎年選出される数名の審査員が各国支部から提出された多くの作品から選んだものであった。こうして17年の間に、23カ国の作曲家236人以上の書いた420を超える作品が演奏された[本文には取り上げられた作曲家の一覧が掲載されていて、日本からは外山道子と小船幸次郎の名があるが、他は省略する]。「音楽における国際聯盟」と言われたこの協会は、国際連盟がヨーロッパに調和をもたらしえなくなったと同時に混乱が起こった。まずフランス楽派とドイツ楽派の対立が起こり、次に前進派と復古派の対立があった。後者の対立は1934年、フローレンスで開かれた音楽祭に著しく現れた。また、ドイツはすでに1931年頃から協会の支部として作品を送ることを中止し、2〜3の作曲家が個人としてこれに参加する結果となったが、1937年にパリで開かれた音楽祭には、まったくドイツから参加するものがなく、ドイツはこの協会から離脱するに至った。そして今回の大戦勃発のため1940年の音楽祭を休んで、1941年春ニューヨークで開かれた音楽祭の内容を見ると、反枢軸国際音楽協会と化した。曲がりなりにも形があった国際現代音楽協会は、1939年をもって終焉を告げたといわなければならない。
【2001年9月7日】
満州音楽情報(1)村松道彌(『音楽之友』 第2巻第3号 1942年03月 p.124-125)
内容:(1)本年度満洲音楽界の画期的なできごとは、財団法人「新京音楽團」の設立である。これは新京音楽院、新京放送管絃楽団、同合唱団、満蓄、日蓄管絃楽団の大同団結によってできた国家的演奏団体である。設立委員会は1943年1月28日、新京市公館で武藤弘朝所長、大迫副市長、甘粕満映理事長、瀬田電々理事、野邊満蓄常務、石丸日蓄代表、大塚音楽院長らの関係者が出席して開かれ、理事長として甘粕が就任した。理事、役員、定款などは近く正式決定され、1943年2月中には全貌が発表される。基本金40万円は、政府その他特殊会社関係機関が出資して、主に楽員の衣食住の安定を得るために使用する建前である。この音楽團には、管絃楽団、吹奏楽団、軽音楽団、合唱団(5つ)、満洲楽部の演奏団体のほか、作曲部を有している。この組織が確立したことによって、満洲楽壇の癌であった住宅難、待遇問題が解決し、旧体制的残滓の清算がなされ、明朗で建設的な音楽活動ができうるようになり、喜ばしい。/(2)1943年2月3日、建国十周年記念事業の音楽に関する連絡会議が、放送局で満洲楽團協会主催のもとに開かれ、主な事業を決定した。
   * 1943年5月31日、建国忠霊碑の春祭に全満合唱団の合唱奉納と合唱祭を開催
   * 5月下旬、全満吹奏楽団の大会と音楽更新を国都[新京]で行なう
   * 開拓団に「団歌」と「村の歌」を贈る
   * 全満芸能祭を春に行なう
   * 東亜芸能祭を9月15日の式典前後に開催する
   * 秋に、哈響、新響合同の管絃楽団を中華民国に音楽使節として派遣
   * 全満邦楽大会、露西亜歌劇の上演
   * 一万人の合唱
   * 対日芸能使節の派遣などを決定した
(3)十周年記念事業として慶祝歌と新国歌を制定することとなった。慶祝歌は1943年1月1日に発表、歌詞は榮口の女学校長の原案を採用、作曲は満洲在住の作曲家約20名に委嘱した中から国歌制定委員会で選んだ。曲は、日満両語で歌える。発表は満洲楽團協会主催で、1月11日、日楽を中心に公会堂で、1月18日には満楽を中心に国都電影院で行なわれた。新国歌は1943年3月1日の建国記念日に発表すべく協議を重ねているが、国歌であるため慎重をきわめ、いまだに歌詞が決定していない。歌詞決定と同時に在満作曲家と日本の代表機関にお願いして作曲をし、国歌制定委員および音楽顧問である山田耕筰、小松耕輔、信時潔、橋本國彦の来満をまって審査決定することとなっている。しかし、歌詞が決まっていないため、発表は延期されるだろう。(4)1943年1月31日、新京音楽院定期公演(公会堂で)が開かれた。曲目は、1.満洲楽 −(イ)四合 (ロ)萬年歌 2.ベートーヴェン 《交響曲第8番》 3. 西田直道 交響曲《満洲に依する讃歌》 4. ベートーヴェン 序曲《レオノーレ 第1番》。指揮は大塚淳。/新京音楽院では東亜的色彩をもつ交響曲(35分以内)を懸賞募集することとなった。賞金は1000円、一人1曲限りで、管弦楽総譜にピアノ用スケッチを添えること、東洋人であること、締切は1943年5月31日。(5)1943年に入って、日本から榎本健一のエノケン一座が1日より4日間公演した(公会堂)。満洲の人々は娯楽に飢えているので二本立てでは淋しがっていたし、期待したほどでないとの評判もあった。また歌曲等ももう少し時局をわきまえてほしいという声もあった。続いて、伊藤久男が帝都劇場に出演し、観客は長蛇の列をなしていた。日本から来る音楽家と配給者の満洲演藝協会に希望することは、ギリギリのスケジュールを組まず、満洲国の現状を正しく知って全満を巡演する余裕が欲しい。/新京音楽院と放送局が声楽指導者として招聘したテナーの上野耐之は、放送に歌唱指導に活躍し好評を博している。また、紙恭輔と伊藤宣二が応召で来ていて、紙恭輔は満映の文化映画《逞しき草原》の作曲を、伊藤宣二は映画《新しき満洲》の音楽を担当した。
【2001年9月10日】
音楽会記録唐端勝編(『音楽之友』 第2巻第3号 1942年03月 p.129-132)
内容:1942年1月12日〜1942年2月10日分(→ こちら へどうぞ)。/ほかに、1942年3月の音楽会(予定)が次のとおり掲載されている。/3月2日 三上孝子独唱会「新作歌曲の夕」(午後7時、日本青年館)。清瀬保二、池内友次郎、平尾貴四男、石渡日出夫、服部正諸の作品を山田和男指揮新交響楽団員の出演で。 3月3日 現代日本の作曲演奏会(午後6時半、日比谷公会堂)。渡邊浦人、荻原利次、早坂文雄、伊福部昭らの作品をグルリット指揮、東京交響楽団と宅孝二の演奏で。3月7日東京交響楽団第7回定期公演(6時半、日比谷公会堂)リスト《マゼッパ》、ラロー《スペイン交響曲》(巖本メリー・エステル 独奏)、チャイコフスキー《悲愴》をグルリット指揮で。3月11、12日 新交響楽団臨時公演(午後7時、日比谷公会堂)。フェルマー指揮でワグナーの管弦楽曲と独唱曲を演奏する。3月16日 日本音楽文化協会室内楽発表会(午後6時半、産業組合中央会館)。3月21日 東京合唱団研究発表会(午後6時半、産業中央会館)。3月22日 第2回新響日曜演奏会(1時、日比谷公会堂)。尾高尚忠の指揮でウェーバー、モーツァルト、ドヴォルザークの作品を演奏する。3月23日 ドイツ音楽の夕(6時半、日比谷公会堂)。草間加壽子(ピアノ)、倉田高(チェロ)、井崎喜代子(ソプラノ)出演。3月25、26日 新交響楽団第234回定期公演。ベートーヴェン《荘厳彌撒曲》全曲。
【2001年9月15日】
楽界彙報(『音楽之友』 第2巻第3号 1942年03月 p.132-133)
記録
内容:
日本音楽文化協会大阪支部は1942年2月22日午前10時半より大阪朝日会館で発会式を挙行した。/日本音楽文化協会常務理事は、作曲部=清瀬保二、演奏部=山本直忠、教育部=柴田知常、国民部=奥田良三、評論部=辻荘一理事長兼任と決定された。/日本音楽文化協会は全作曲家作品の複本を網羅する「作品文庫」の設置を決定した。邦人作曲家の上演の便利をよくするため。/日本放送協会が募集していた厚生楽曲(行進曲、日本的民族舞曲、描写曲の種目による)は、1月末までの応募作品50篇について審査の結果、石井五郎《笛の踊》、八木傳《民族舞曲》を入選作と決定した。/
情報
内容:東京交響楽団は春のシーズンでベートーヴェン連続講演を開催する。会場は毎回日比谷公会堂で6時半開演、指揮はグルリット。予定は、
  第1夜(4月10日)  《コリオラン》序曲、《提琴協奏曲作品61》(モギレフスキー独奏)、《交響曲第3番》
  第2夜(4月17日)  《フィデリオ》序曲、《洋琴協奏曲第4番》(シロタ独奏)、《交響曲第5番》
  第3夜(4月23日)  《エグモント》序曲、《洋琴協奏曲第5番》(シロタ独奏)、《交響曲第7番》
  第4夜(5月2日)   《アデライデ》、《恋しきわが君》、《闇の奥津城に》、《ねがひ》、《乙女の恋》、《歌について》、《神の栄光》、《嗚呼ベルフィード》、《交響曲第9番》
である。/故・近衛直麿が主宰していた雅楽同志協会では、満洲国建国10周年を奉祝して同協会所蔵の舞楽装束、面などを近衛家から贈呈することとなった。
募集
内容:日本ビクターでは健全な行進曲風の軽音楽作品を懸賞募集する。要項は、未発表作品であること、演奏時間は3分以内、曲は自由編成、楽譜は総譜とピアノ用2種を提出のこと(ただしピアノ用楽譜だけでも可)、応募者氏名は楽譜ではなく別紙に住所とともに記し楽譜と同封すること、送付先は日本ビクター会社普及部内懸賞応募係、賞金は一等300円・二等100円、審査は日本ビクター会社が当る、応募締切は1942年3月末日、当選発表は1942年5月上旬、当選作品に関する著作権の一切の権利は当選発表の日より2年間日本ビクター会社が保有する。またそのレコード吹込みに関する権利は日本ビクター会社の所有に帰す。
消息
内容:密田善次郎 日本ビクター文芸部長に就任。
山田和男 東京音楽学校を辞任、新交響楽団専任指揮者となる。
中村淑子 香山蕃と結婚。
伊藤壽二 大森区久ケ原町2112へ転居。
コーラ・ナゴヤ 名古屋合唱団と改称。
東京高等音楽学院 国立音楽学校と改称。
徳山l 1942年1月28日午後5時5分、慶応病院で死去。享年40。
上山袈裟吉(陸軍軍楽准尉) 1942年2月2日、死去。
坊田壽眞 1942年2月3日、急逝。
岩井義郎(元大政翼賛会文化部) 1942年2月15日、死去。
【2001年9月17日】
編集室堀内敬三(『音楽之友』 第2巻第3号 1942年03月 p.136)
内容:邦人作曲がきわめて要求されているいま、今までにどんな作品が出ているか、作家はどんな人物であるかをわかるように特集を組んだ。分量が多くなったので、一部分次号に掲載し完全を期すこととした。/故人となった岡野貞一、徳山l、上山袈裟吉、坊田壽眞について。岡野は、温厚で真摯なさっぱりした風格が作曲の中に滲み出ているのを思う。徳山は諧謔を好んだ。最後の舞台は新響で第九を歌ったときであろうが、その後はシューベルトの《冬の旅》を熱心に稽古していた。上山は戸山学校在職中にも患ったことがある。退職後、船橋に居を構えてからも健康には恵まれなかったが、病を押して厚生音楽のために各方面で働いた。坊田は国民学校の良き教員として美しい多くの童謡を残すとともに、長い間民謡の収集とその音律的研究と和声化に当っていた。惜しいことに、研究の成果として『日本旋律と和聲』を世に送り、すぐに亡くなった。
【2001年9月21日】


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