『音楽之友』記事に関するノート

第2巻第2号(1942.02)


◇再びすべてを新に<巻頭言>/堀内敬三(『音楽之友』 第2巻第2号 1942年02月 p.11)
内容:「新体制」の叫びが起こってから約3年、いま再びすべてを新たに考え直すときがきている。大東亜戦争開始以来1ヵ月余りにして、世界の情勢は東亜を中心に大変化をきたした。かつての「新体制」もこれを墨守するときは国運の輝かしい前身から取り残されるであろう。/楽壇はだいたい現状維持主義で進んできている。産業界のさいきんの大変革に比べても、楽壇は無風地帯だったといえるだろう。楽壇人の思想も生活態度もいわゆる旧体制時代と異なるところがない。楽壇の新体制は事実上存在しなかったのだ。資本主義ないしは小規模な商売意識が健全な音楽への道を阻んでいないか、個人主義、自由主義的な主張が団結を妨げてはいないかなど、われわれは厳しく反省しなければならない。すべてを再び秤にかけて、新しい尺度で測りなおしてみる。そして新しい途を切り開くことだ。楽壇人は、まず今日の国民としての自己の立場をおよく考え直そう。
【2001年6月15日】
◇長期戦下の国民歌/佐藤惣之助(『音楽之友』 第2巻第2号 1942年02月 p.12-17)
内容: このあいだ水交社で平出大佐の話を聞き、自分の持ち場で自分の仕事に向かってひたむきに進まなければならない、しかしそれは意気込みばかりでは駄目ではないかと反省した。国民歌を創る者は、[戦争の]血の中に、ひびきのうちに、生きた火とともに燃えるもの、その言葉を生むことによって国民歌をつづらなければならない。[長期戦という]現実がいかに進んでいこうとも、すべての文化や国民心理の中に、自分たちの仕事を進めていかなければならない。この後の国民歌の問題も、すべてはここから発して論じられなければならないと思う。/個人的なことは許されないということは、生活道義の問題のみであって、同じ国民歌を創作するについては、ある時は社会性のあるもの、またある時は個人に沈潜することによって人間の奥底をつらぬき、万人の中に浮かび上がる結果があることを知るべきである。多くの場合、仕事として要求されると、誰しも国民の声を代表したような顔をして上っ調子な曲を書き、とくにニュース的な内容のものがそうなりやすい。佐藤は、ニュース的歌謡の需要も増えるだろうが、新しい日本の方向を代表するためには、もっと鉄脚的でありたい、つまり決して急がなくても充分間に合うと言っている。特にこれからは持久戦なので、名誉ある進軍歌にしても単なる感激で作られてはたまらない。従来のような指導的な、命令的なものでなく、真に国民の肚からほとばしるものや、嗚咽するもの、こみあげてくるものなどを十年後、二十年後のために創作しなくてはならない。/音楽面での英米風の習慣や模倣は、協力してよくないものはすべて駆逐しなくてはならない。《蛍の光》を禁じたり、ドイツが《ローレライ》を禁じたからといって、すぐその真似をしなくてもよいが、そうすることで本来の「日本的」「東洋的」なものに還ることは、自分たちの芸術の浄化であるからである。そして我々の眼も頭も大陸から南方へ開いていき、国民歌というよりも、さらに大きい民族の歌が待っている。事変[日中戦争]前に言われたように、日本独特のものとか、哀愁に満ちた南方特有のものとかいう批判や要求は、もう成立しない。ともかくも、この長期戦下における国民歌というものは、単なる進軍ラッパであってはならない。いままでのものは、あまりに音楽との一致を欠き、また言葉の詩感としても「美文時代」であって、単なる復古的なもの、律詩の形骸に累されて、国民の叫びや日本の心とぴったりと鼓な来なかった憾みがある。これを戦争がとってくれたのだ。この長期戦が実によい労作期だと考えている。
【2001年6月17日】
◇いま此の時の楽壇人は如何にすべきか(問答)/宮澤縦一(『音楽之友』 第2巻第2号 1942年02月 p.18-23)
内容:戦争の只中で音楽を転職とする者は、いかに働き、いかに奉公したらよいかといった問いを設けて、情報局の宮澤情報官に解答してもらった。
(問)この非常時に当たってのんきに音楽をやるのはけしからんという説もあるし、音楽家の中にも音楽会をやってよいのか迷っている者がみられるが? 
(答)決戦態勢下だから音楽はいけないというのはおかしい。今日の戦争は、さほど簡単にけりがつかず、音楽のようなものはむしろ大いに国家のお役に立つことがたくさんあるのではないかと考える。平出大佐(海軍報道部)の「音楽は軍需品なり」という言葉は名言だと思う。音楽は今日、士気の昂揚、あるいは健全な娯楽として毎日の生活の糧ともなるなどしている。このほか工場などにおいて音楽を適当に与えることによって著しく能率が上がった所もあるという報告さえきている。だから、それが良いもので、ぜひ音楽会を開催して広く天下に示したいというものならば、心配する必要はない。自信のない音楽会ならば時局と睨み合わせるまでもなく止めるべきだと思う。
(問)時局柄欧米かぶれの洋楽はやめてしまえという考えについてはどうか? 
(答)今日では音楽と言えばいわゆる洋楽を連想するのが常識となっているくらいだ。もう「洋楽」と言うより「音楽」でよい。音楽も[外国の]良いものは取り入れ、立派に活かしていくべきだと思う。もしそれが良くないとというならば、《軍艦マーチ》も《愛国行進曲》も身近にある歌曲は何一つ歌えず、もしも洋楽器を使用するのがいけないというなら軍隊喇叭はもとより、軍楽隊の楽器は一体どうなるだろう。
(問)
戦時下の国民娯楽として音楽はどういう方向に進むべきか? 
(答)国民はそうとう長期にわたる国家総力戦ということも覚悟しなければなるまい。国民娯楽としての音楽は、広く国民一般に対し皇国の理想を宣揚し士気を鼓舞するに足る雄大にして健全、明朗にして清醇なものであってほしい。そしてこの際こそ音楽による国策の宣伝啓発がその効果を発揮することを望む。
(問)近ごろ健全娯楽とか健全な音楽といわれるが、健全な音楽とは、どう解釈したらよいか? 
(答)時局下に適当であり、音楽的にみても優秀な楽曲が正しい解釈の下に秀でた技術をもって立派に演奏された場合をいうものと考える。
(問)
その曲目はマーチはいいが、ルンバはだめだというようなことについてはどうか? 
(答)大体においてマーチなどは好ましいがブルースのようなものは感心しないと言えても、ただ形式的にポルカは良いがワルツはいけないと言い切るのはどうかと思われる。演奏家の良識に待つことになる。
(問)時局歌謡についてはどう考えるか? 
(答)劇やレビューなどに畑違いの人気者を出演させるが、あれは邪道だと思うが、音楽も同様と思う。レビュー等でやたらと軍服を着た人物を舞台に立たせるが変にキザになる。また歌詞は誰にでもわかりやすいもので、旋律は堅実な方が良いと思う。
(問)英米系の音楽についてはどういう措置をとるべきか? 
(答)英米の作曲家の作品が日本で演奏されることはきわめて稀なので排撃しても問題ない。スーザの作品はよく演奏されるが、代表作は米人の士気を鼓舞するものなので、この時局下日本で演奏するのはもっとも不適切。ジャズまたはこれに類する卑俗低調な音楽は、これを機会に一掃するのは絶対に必要だ。ただし明治以後、学校唱歌として歌われてきた《蛍の光》や《庭の千草》などは旋律だけ利用し、適当な日本語の歌詞を附したものならば、さほど堅苦しく考えなくてよいと感じる。
(問)外国の曲では枢機国側の音楽だけを演奏すべきと思うが、その際の注意を。
(答)枢機国の音楽でも、近代のユダヤ系作曲家の作品の中には非国家的、退廃的なものもあるようだし、ジャズを模倣した低級な音楽が横行した時代もあったので、そうしたものをこちらでやることのないようにしたい。
(問)さいごに戦時下の各国国民生活と決戦態勢下のわが音楽人の心構えをお願いしたい。
(答)どの交戦国の国民も相当の困苦欠乏と闘っているのはご承知と思うが、日本は物資の点で他の国より欠乏していないばかりか、市街にしても平静で他の交戦国より東京など明るいという。そこでこの時局下の音楽人の心構えは、何よりもまず日本の音楽家であるとの意識の下に音楽報国を実践することと思われる。そこで職域奉公だが、これは国家の非常時に国家の役に立つ職域において奉公すること、つまりジャズバンドやそれに類するものに従事していた人は従来の仕事に精を出すのではなく、国家が必要とする部門の仕事に転業し、そこで立派にお勤めすべきだという考えになってもらいたい。日本中の音楽家の一人残らずが国家の要求する方向に向かって努力をいたし、音楽報国の実を挙げるべきと思う。
【2001年6月18日】
◇楽界総進軍に際して/大和史侃(『音楽之友』 第2巻第2号 1942年02月 p.24-27)
内容:1941年12月8日、ラジオの戦況ニュースに続いて《軍艦マーチ》や《愛国行進曲》が放送され、永年聴きなれた曲でありながらそれまでで一番心が躍り、目頭が熱くなった。ニュースに続いて放送される軍歌曲は、前線に銃後の私たちの気持ちをそのまま伝えてくれるように感じられる。今回ほど音楽のありがたさと音楽が国民生活とぴったり合った瞬間を体験したことはない。このように戦時下における音楽がいかに大きな役割を持つかという一面をはっきりと知ることができた。/音楽が国民に与える影響は大きいだけに、指導者の心構え一つによっては国民生活にも大きな影響を及ぼすことになる。近来洋楽はほとんど国民の全般に普及し、国民学校でも洋楽を熱心に教育するようになっている。しかし外国の良いところは咀嚼して国家のために日本的に同化してこそ効果のあるものである。ただやたらに外国から入ってきた洋楽であるために謳歌するという、単なる模倣的な考え方ではいけない。洋装しなければ洋楽ができないとか、洋楽を習うには外国人教師でなければならない、楽器は外国製でなければならないといった外国崇拝の思想に捕われていることはないだろうか。そうした者が一人でもいれば、そこからスパイの窺う間隙を与えることになる。/音楽家についても知らぬ間に外国崇拝に陥ってはならないということにほかならない。音楽家は外国の友人や交友者の中にもしスパイがいたとすれば、利用されやすい機会が多い。直接外国人と交友関係がない場合でも、外国人と交友のある音楽家と知り合いならば間接的にスパイに利用されることになるのだから油断はできない。音楽家は全生命を音楽に打ち込んでいる専門家が多いように思われるが、世間では一つの学問に徹底すると世間のことに対しては無頓着になるといわれる。音楽家も各方面にわたる世間話を聞き、うっかり外国が知りたがっている情報やそのヒントを漏らすことがないかということが考えられる。
【2001年6月22日】
◇音楽家の自覚と実践 ―― 特に音楽公演について/寺沢高信(『音楽之友』 第2巻第2号 1942年02月 p.28-31)
内容:日中戦争勃発以後4年のあいだ、音楽が本来の使命を感じて活動を展開してはきたが、充分であったとはいえない。また、もっとも高度な国防国家建設が実践される今日においては音楽活動も従来と異なった重要性と協力な活動の実践が要求される。なぜなら、音楽はもっとも端的に人間の感情を揺るがすからである。したがって、これに対する作曲家、演奏家、教育音楽家、厚生音楽部門の担当者の使命は非常に大きい。/そこで音楽家の練成が大きな問題の一つとなる。現在音楽家に要求されることは、大東亜戦争の意義、目標、様相、そしてその将来の展開に対する正しい認識とそれに対する心構えを持つことである。こうしたことへの実践的な自覚が足りないと非難されることとなる。そうした点から見て、軽音楽を含む音楽会の形式は、まだはっきりした実践大系をもっていない。軽音楽はジャズが中心となり、アトラクションが非常に低調である。したがって軽音楽の大部分は一掃されなければならない。ジャズは軽快性、明朗さ、慰楽性という良い要素もあるのだが、本能的で、煽情的で、享楽的で、刹那的、生活的には消費的であることなどから、当然排撃されなければならない。/敵性国家の音楽を排除するということは、アメリカの作曲家のものだから駆逐するというよりも、音楽がもつ思想や感情、性格が現在の戦争を闘いつつある日本精神や国民感情と相容れないからである。演奏家も国民感情、国民精神に立脚しているならば、これらの曲を演奏できないはずである。だから音楽に対する文化政策面から国家の方向に背馳するものを演奏することに対して制限を加えなければならない。/そこで文化政策として今要求されているのは、国民音楽の創作とその確立である。国民音楽は豊な芸術性を備えると同時に、快調、慰楽性をもち、さらに文化性をもつものである。あまりに教化性や指導性に偏する国民音楽はその効果が減殺される。国民音楽を流行歌と定義づけ田ものもあったが、そこには卑俗性があるから警戒しなければならない。軽音楽団に要求するのは極端にアメリカ的な名称を変更すること、次に演奏曲目、演奏態度の問題である。再訓練やもっと組織的な練成方法を講じる必要がある。戦時下であるから演奏会を遠慮しなければならないと考えるのは、むしろ誤っており、より活発な、より効果的な演奏会を大いにもつべきではないか。
【2001年6月27日】
◇レコード音楽の新構想/小川近五郎(『音楽之友』 第2巻第2号 1942年02月 p.32-34)
内容:今度の戦争は、わが大和民族が大東亜民族を率いて新しい東亜を建設する指導者として登場した。ここにおいて、文化といえば欧米に追随してきた過去の習癖を脱ぎ捨て、大東亜の新興文化を建設してその盟主になる責務がある。こうして現今のわが音楽文化を観るとき、欧米を絶対的指標とする迷妄を早く捨てなければならない。東亜諸民族からも西欧諸民族からも称えられるためには、まず民族性の究明から出発しなければならない。昨今、民謡の研究や民衆音楽の研究が台頭してきたことは意義あることと考える。大和民族3000年の歴史からみると、明治維新後の西欧文化の影響を受けてわが文化が修正を受けた期間は、70年前後のことである。ともかく今後の音楽文化建設運動は、もっぱら大衆音楽の創造と大衆の音楽教養の指導とに重点が置かれなければならない。/さて、レコード音楽の今後の方向については、前述の音楽文化建設運動の方途に従って役割を果たしていかなくてはならない。レコードが営利を目的とした企業と結びついて発達してきた関係上、今日ではもっぱら大衆の文化資材というか、むしろ娯楽資材となっている。今後の音楽文化建設運動が大衆の指導に重点をおいていくかぎり、大衆の文化資材として進める必要がある。レコード音楽の使命を遂行させるには、製作企業を統制しなければ目的を達することは難しい。そこで官庁側で統制機関の設置案が考えられ、昨年以来その準備が急がれている。官庁側の狙いどころは製作業と販売組織の整理に重点があり、この統制機関の設置によってレコード音楽の今後の方向をいかにでも振り向けることがでるので、営利第一主義を放棄させ音楽政策に協力させることができる。
【2001年6月30日】
◇楽壇時評/相島敏夫(『音楽之友』 第2巻第2号 1942年02月 p.35)
内容:音楽の社会的使命が今日ほど重要視され、音楽家の責任が加重された時代はない。[1941年]12月8日、ニュースの合間合間に放送された《軍艦マーチ》や《愛国行進曲》がかつてないほどの感激を持って胸にせまったが、しかし、あまりに同じ曲が繰り返されるにいたって我々が持つ行進曲の貧困さに今さらながら驚いた。作曲家は果たしてこれをどう感じであろうか? /日本音楽文化協会が生まれた一方で演奏家協会が依然として別個に存在するのはなぜだろうか? 戦争勃発と同時に演奏家協会に属する音楽挺身隊は、いち早く活動を開始しているのに対し、日本音楽文化協会では1942年1月10日になって「戦時対策特別委員会」を開催したが、40名を超える多人数の委員で構成され、急速に変転する情勢に対処できるか大いに疑問が残る。「今は議論の時ではない、実行だ!」という宮本企画院次長の死に際の言葉をそのまま楽壇に送りたい。/米英を排撃するのは当然だが、あまりに極端急激に誤った日本主義に陥るのも慎むべきである。《蛍の光》のように日本化したものは従来どおり歌って差し支えないことは情報局の裁断を待つまでもない。放送局がビクター合唱団を勝利合唱団と改称したり、ベートーヴェンやシューベルトを放送する時に一々「ドイツの」と説明したりするのは、あまりに枝葉末節にすぎる。
【2001年7月1日】
◇戦時下満洲国の音楽活動/村松道彌(『音楽之友』 第2巻第2号 1942年02月 p.46-52)
内容:「藝文指導要綱」の発表 昨年[1941年]春、満洲国政府は「藝文指導要綱」を発表した。文化という概念は政治、経済、産業、幸通、科学、道徳、芸術、宗教など広く含んで言う場合があるが、「藝文」とはそれを芸術文化(音楽、美術、文芸、演劇、舞踊、演芸、映画、写真)に限定し、明確化した用語である。/満洲国藝文はいかなるものであるべきかについて、要綱ニで触れ「・・・日本藝文を経とし、居住民族固有の藝文を緯とし、世界藝文の粹を取入れ織り成したる渾然獨自の藝文たるべし」と規定されている。要綱三には藝文団体の組織方法が、要綱四には藝文活動の促進方法が、その他具体的な措置が明示されている。/要綱が発表されるとすぐに各藝文団体は団体の組織を急ぎ、7・8月の2ヵ月間に劇団協会をはじめ、文芸家協会、楽団協会、美術家協会等を統合した藝文聯盟が結成された(映画では、すでに国策会社である満映が設立されている)。ここで藝文の基本的組織が確立され、ひきつづき財団法人藝文会館を設立し、ここに各藝文団体の事務所を統一し、総合雑誌「藝文」を発行、昨年[1941年]暮、写真家協会を設立、今年に入って舞踊家協会が設立されることになっている。/音楽組織とその活動 「藝文指導要綱」に基づいて、音楽組織は満洲楽団協会の名のもとに1941年8月10日に設立された。委員長に大塚淳、委員に小野崎仁、佐和輝禧、加藤哲之助、堀重太、酒井義雄、高橋忠之、村松道彌、事務局長に伊奈文雄、以上が監督官庁の武藤弘朝處長より委嘱された。加盟団体は全満各地で管弦楽団7、吹奏楽団21、合唱団12、プレクトラムその他9で、大連は友交団体として別になっている。/楽団協会は、昨年度は各種の基本調査事業に重きをおいたが、秋には加盟合唱団の合唱奉納をやり、1941年11月25日、26日の両日、設立記念の「音楽祭」を新京の厚生会館で催し、12月5、6、7日の3日間5回、記念公会堂で藝文聯盟主催の第1回「藝文祭」に参加した。1941年10月、専任事務局員として益田純(元高田せい子門下)が着任した。/次に新京音楽院について。音楽院は新京交響楽団、新京吹奏楽団をもち、教育部、作曲部、満洲楽部と満人の楽員養成所を有する。夏期には大同公演野外音楽堂で市民厚生音楽会を毎土曜日に開催するほか、ハルビン交響楽団との合同演奏会を2回催すなど、国都の音楽活動を一手に引き受けているといっても過言ではない。/このほか新京では満蓄、日蓄管弦楽団(新京放送管弦楽団も同じ)の9名による軽音楽団が活躍している。また満洲プレクトラム音楽聯盟があり、その加盟団体のほとんどは楽団協会に加盟しており、昨年度、聯盟の第1回合同演奏会を新京で催した。吹奏楽団は団体数としてはもっとも多く、楽団協会加盟団体以外にも各官庁、会社、学校、開拓団、青少年義勇奉公隊等のものがある。軍楽隊は新京に関東軍軍楽隊があり、満洲国軍軍楽隊が奉天、新京、ハルビン、チチハルにある。昨年、新京で関東軍、関東新京軍楽隊、音楽院吹奏楽団百余名からなる軍民合同の大演奏会が開催された。さらに全満合唱祭、吹奏楽大会が音楽院と満洲新聞社の共同主催で催された。そして満洲新聞社主催で白系露人音楽コンクールが催され、ハルビンで決戦大会を、新京で入選者発表演奏会を催した。/作曲活動は、すべて日本の作曲家による満州を主題とした管弦楽作品が多く、深井史郎、高木東六、須賀田磯太郎、市川都志春、西田直道の作品を得たほか、国内作曲家では放送局に着任した佐和輝禧が放送音楽や演奏、交響曲、多数の編曲作曲をしたことは特記すべきだろう。また在満作曲家の協力で建国十周年慶祝歌が制定され、また新国歌が制定されつつある。/合唱運動は新京の新京合唱団、奉天の満鉄合唱団(川崎仟指揮)が活躍している。また今回、新京音楽院と新京中央放送局が日本から招聘した上野耐之は独唱者・声楽指導者として各方面で活躍することになっているほか、さらに1名の女性指導者も迎える予定である。/満日文化協会、満蓄、放送局、音楽院などが満洲楽、蒙古音楽などの採譜、録音などを個々に行なっているが、これらは楽団協会で統一されることになっている。従来個々に行なわれてきた厚生音楽運動についても、昨年来、民生部と国民組織である協和会が展開することになっている。 楽団協会のこと 楽団協会という他の国家よりも進歩した一元的な組織はできたが、それを運営していく人的資材や配置に旧態依然たるものがあり、本来の面目を発揮できないでいる。指導要綱を各音楽活動を行なう人が正しく認識し、それを実践するための障害となる旧体制的残滓を清算することである。現在の楽団協会の会員が専門家の団体といえるかであるが、ほとんどが演奏団体で同時に素人団体がほとんどで、個人として作曲活動に従事している人や音楽教育者など、および個人の演奏家は参加していない。こうした事情を考慮に入れて運営の方法をたてなければ、国家が期待する活発な活動は期待できない。 新京音楽院 新京音楽院は満洲の国都における唯一最大の専門的音楽団体として存在している。昨年度は質・量ともに低下が認められたが、その最大の原因は指導者の指導がよくなかったことであろう。昨年度失った優秀な技術者15名を補給していない。その他に技術員の減少、低下の問題には住宅難と待遇問題がある。執筆者の村松は新京音楽院事務長として赴任して半年経ったが、着任早々音楽院内部の整備をはじめ、満洲楽団協会の設立、慶祝歌や国歌の制定などにかかわってきた。これからの音楽院は、従来の広範な事業等を整備し重点主義に基づいて各部の整理統合をなすべき時になったのである。その大要は、1)市公署にのみ依存してきたが、政府、満映、放送局等の出資を仰ぎ財団法人にし、その基金は職員・楽員の衣食住に当てる。2)新京在住の専門楽員すべてを吸収統合する。3)日本より優秀な指揮者、作曲家、楽員の補給をする。4)同時に内部の旧体制的残滓を清算して、戦時下国家の要請する一元的な音楽専門家組織を確立する。 本年度事業計画 建国十周年の第1の仕事として不健全音楽の撲滅と健全音楽の普及である。その第一歩として不健全レコード普及素材回収のための運動を協和会と協力して行なう。廃品レコードの売却金をもって軍警の慰問、開拓団や青少年義勇軍の文化施設のための費用とする案である。第2に、各開拓団に「国歌」と「村の歌」を寄贈する運動を行ないたい。  すべては東亜の指導者である日本の指導、援助、協力なしには正しく発展しない。日本や大東亜の音楽界を背負って立つべき青少年音楽家は、一度は進んで満洲音楽界の建設に来て、助力するよう希望する。
メモ:村松は新京音楽院事務長。
【2001年7月7日】

決戦下の音楽放送に望む(『音楽之友』 第2巻第2号 1942年02月 p.53-55)
内容:決戦下音楽放送に望むことを14名がハガキ回答し、その到着順に掲載したもの。回答者を到着順に挙げると、三浦環、園池公功、吉本明光、徳田一穂、服部正、早坂文雄、近藤春雄、高木東六、深井史郎、宮田東峰、内田岐三雄、佐藤美子、楢崎勤、中能島欣一。/各自の回答内容は次のとおりである。
三浦環 朝8時、今日も皇軍大勝利の知らせを聞いたあと、モーツァルトの交響曲第41番が放送されて、気高い音楽に思わず涙を流した。決戦下の軍歌は真面目なものにしてほしく、うかれ調子の軍歌や唄い方はいけない。
園池公功 勇ましいものと優れたものを。優れたニュース歌謡大いにけっこう。
吉本明光 音楽放送は国民の士気を昂揚し戦争完遂の最有効手段でなくてはならない。そのためには自給自足で、外国依存や外国崇拝観念を培う恐れのある一切の音楽を一切放送禁止にしなくてはならない。同時にこれが決戦下の国民音楽であることを中外に宣揚するに足る作曲の緊急整備が必要だ。目標は一億国民と大東亜共栄圏内10億の住民に対する文化工作であること。
徳田一穂 わが国作曲家の作品をなるべく多く放送するのが望ましいでしょうが、それだけにとらわれず古典として傑出したものを広い範囲で放送して欲しい.長期戦では優れた音楽がわれわれの生活感情を潤してくれるだろうから。
服部正 勇壮なる行進曲も良いが、あたかも皇軍の武勲のように芸術的に最高の日本人のもっともよい創作音楽を放送すべきである。
早坂文雄 芸術的な純粋性と高さ、深さを求めそれを一般に与えてこそ、効果的に国民のうちに生き、より啓蒙の力が強いということを放送局が再反省すべき時にいたった。
近藤春雄 軍歌ばかり放送しているのは反省を要する。なぜならこの戦争は亜細亜民族の解放と共栄のための聖戦であるから、国民の士気昂揚と並んで興亜精神の涵養という対外的示威も必要だからだ。その意味で、満洲国、中華民国、タイなどなどの民族音楽を紹介してほしい。
高木東六 シンフォニーや室内楽の健全で立派な音楽を放送して欲しい。また堂々とした大行進曲がわが国に少ないことを痛切に感じている。
深井史郎 現下の放送は現在特に必要なメンのみを強調しているようだが、長期戦への対策はこれだけでは不充分だと思う。
宮田東峰 [1941年12月8日の]大戦勃発時に放送局がニュースと軍歌を巧みにアレンジして放送した企画は賞賛すべきである。しかし放送局に希望するところは、この際大衆がともに親しみ味わえる新の国民音楽の確立を企てて欲しい。歌謡曲などが徒らに歌詞だけ無理やり決戦を歌い、音楽が旧態依然としたままでは国民大衆は魅力を感じなくなるだろう。
内田岐三雄 おのづと唇をもれて口ずさみたくなるような勇ましく、美しく、すぐれた大東亜建設の歌を作って放送したらいかがか。
佐藤美子 われわれの現在の心をそのまま作曲したものが、いま歌うべき歌だと思う。この意味で、どしどし新しい作品を放送して欲しい。
楢崎勤 古典のうちから、時に応じて勇壮なもの、典雅なもの、華麗なものを放送して欲しい。
中能島欣一 放送局が大衆の味方であると同時に、先ずその道の「玄人」であって欲しい。
【2001年7月6日】
◇音楽会記録/唐端勝 編(『音楽之友』 第2巻第2号 1942年02月 p.118-120)
内容:1941年12月11日〜1942年1月11日分(→ こちら へどうぞ)。/ほかに、1942年2月の音楽会(予定)が次のとおり掲載されている。/2月1日(日) 新交響楽団第1回日曜音楽会(午後7時、日比谷公会堂、邦人の作品も発表する)。2月11日(水) 藤原義江歌劇団の《海道東征》演奏(夜、共立講堂)。六大都市巡演の第1回として。2月14日(土) 東京交響楽団定期公演(7時、日比谷公会堂)。ドビュッシー《牧神の午後への前奏曲》、グルリット《洋琴協奏曲》(實吉志津子 独奏)、ハイドン《交響曲第101番 時計》。1月18日(水)、19日(木) 新交響楽団定期公演(午後7時、日比谷公会堂)。ベート−ヴェン《ミサ・ソレムニス》全曲、ローゼンシュトック(指揮)。
【2001年7月9日】
◇楽界彙報(『音楽之友』 第2巻第2号 1942年02月 p.120-126)
[記録]
大東亜戦争士気昂揚音楽大行進
内容:
1942年1月4日、東京市は対米英開戦以来の戦捷を祝し、日本音楽文化協会協賛、情報局、陸軍省、海軍省後援のもとに音楽大行進を挙行した。参加団体は、陸軍軍楽隊、海洋吹奏楽団、都下諸官庁各学校工場各種団体所属吹奏楽団、喇叭隊、女子鼓笛隊。
市主催挺身隊協賛士気昂揚大演奏会
内容:1942年1月5日午後1時、日比谷公会堂で東京市主催・音楽挺身隊協賛の「有栖川宮記念士気昂揚大演奏会」が開催された。司会は村松竹太郎でプログラムは、
  国民儀礼(司会:内田栄一)−日独伊国歌演奏(指揮:山田耕筰)−講演(武富少尉)−有栖川宮御歌(独唱:三浦環)−第一部 吹奏楽(早川彌左衛門指揮 海洋吹奏楽団)−男声合唱(秋山秀雄指揮興亜挺身合唱団)−日本歌曲独唱(灰田勝彦、留田武、加古三枝子、瀧田菊江、辻輝子、長門美保、永田絃次郎、松島詩子、牧嗣人、佐藤美子、下八川圭祐)−歌唱指導(伊藤武雄)−吹奏楽(山田耕筰指揮 海洋吹奏楽団)ー隊旗奉戴式、挨拶(山田耕筰)−音楽挺身隊隊歌合唱(全隊員)−第二部 独逸歌曲独唱(田中伸枝、矢田部勁吉、増永丈夫、木下保、平原壽恵子)−混声合唱(木下保指揮 東京交声合唱団)−伊太利歌曲独唱(原信子、藤原義江、浅野千鶴子、三上孝子、三浦環)−混声合唱(内田栄一指揮 ヴォーカル・フォア)−聖壽万歳(発声:荻原英一)
大詔奉戴日国民大合唱と吹奏楽大演奏会
内容:1942年1月8日(大詔奉戴日)午後、日比谷公園大音楽堂で「大詔奉戴日国見大合唱及吹奏楽大演奏会が開催された(日本放送協会、大政翼賛会共催)。正午よりラジオで大詔奉戴、東條首相の「大詔を拝し奉りて」。次いで《愛国行進曲》《敵は幾萬》《軍艦》《海ゆかば》を辻順治指揮による東京市市民合唱団、日本放送合唱団、および都下学生よりなる1200名の合唱団が、星櫻吹奏楽団、ビクター吹奏楽団、日蓄吹奏楽団の伴奏で唱和した。第二部吹奏楽演奏では。全関東吹奏楽団連盟加盟の学校、青年団、会社、工場の吹奏楽団、喇叭鼓隊が参加。佐藤清吉の指揮により《陸軍分列行進》《軍艦》を吹奏楽合同演奏。久保田憲吉の指揮により《輝く御稜威》《躍進日本》を喇叭鼓隊合同演奏、伊藤隆一の指揮により《我等の軍隊》《皇軍の門出》を吹奏楽及び喇叭鼓隊の合同演奏で。午後1時、終了。
放送協会の大東亜行進曲集
内容:開戦と同時に放送局では30人の作曲家を動員して「行進曲」の大量生産に着手し、1942年元旦早々から「大東亜行進曲集」として全国に発表されている。委嘱された作曲家は、市川都志春、江口夜詩、大中寅二、深井史郎、清瀬保二、宮原禎次、坂本良隆、高木東六、石井五郎、堀内敬三、大木正夫、諸井三郎、小松平五郎、深海善次、細川碧、平井保喜、長谷川千秋、呉泰次郎、尾高尚忠、高階哲夫、池譲、服部正、乗松昭博、斎藤秀雄、平尾貴四男、安部盛、橋本國彦、箕作秋吉、山田和男、清水脩 [以上30名]。
芸能祭舞踊コンクール四部門の入選作品決定
内容:日本文化中央連盟は2601年芸能祭のうち創作舞踊コンクールの入選を決定、発表した。/△日本舞踊部優秀作=花柳小壽■「獅子の子」、同佳作第1位=藤間勘園「祝」、同佳作第2位=花柳年之輔「維然坊」△新舞踊部優秀作=該当作なし、同佳作第1位=水木歌壽栄「嵐」、同佳作第2位=藤蔭美代枝「台湾歴史歌」△現代舞踊部優秀作=大野弘史「大和」、同佳作第1位=益田隆「智仁勇」、同佳作第2位=彰城秀子「魂の叫び」△教育舞踊部優秀作=三木秀人「アレカウオ」、同佳作第1位=平林正枝「春が来た」、同佳作第2位=丸岡嶺「我は再び銃執らん」
各音楽学校繰上げ卒業
内容:一般学校の繰上げ卒業式に準じて、東京音楽学校は1941年12月26日に卒業式及卒業演奏(本科卒業生は49名)、東京高等音楽院も12月26日に卒業式及び創立十五周年記念祝賀会、帝国音楽高等学校でも12月26日に卒業式を挙行した。/なお東京音楽学校本科卒業生の氏名は、[声楽]今井正五、飯塚りゑ子、加藤泰義、澤野八重子、鎌倉和子、堀二郎、岡部多喜子、坂元芳子、小島居尊、難波千鶴子、[器楽]藤岡晶子、庄子房子、松浦光、本多能子、呉秀眞、玉木翠子、永井三津子、大谷幸子、野村義恵、甘利次郎、戸田盛忠、川瀬喜美、渡邊久子、岡田朗、吉武久子、吉武英子、足立美智子、山崎和子、黒沼俊夫、原口歌、大和哲朗、新名博子、金石幸夫、室井摩耶子、小橋行雄、佐藤ちよ、横井和子、篠塚雅子、清水武夫、島津雅子、喜田賦、中村貞子、大和美智子、藤木護、佐藤節子、前島百代、中村桃子、井崎善、[作曲]草川啓。
昨年度推薦蓄音機音盤
内容:文部省の昨年度推薦蓄音機レコードは、次の10篇でこのうち優秀作品に文部大臣賞が授与される。
  (ビクター)交声曲「海道東征」−管弦楽「日本のタンゴ、朝鮮の太鼓」−管弦楽「越天楽変奏曲」−(ポリドール)歌曲「亡き子に」−(コロムビア)歌曲「武蔵野、みどりの木蔭に」−歌曲「国民皆泳の歌」−歌曲「小諸なる古城のほとり」−歌曲「曙に立つ」−(キング)歌曲「世紀の若人」−童謡「強くなれなれ、僕等の開墾、さよなら三丁目、仲よしワンワン」
[情報]
音楽関係識者を網羅し戦時対策特別委員会誕生
内容:社団法人日本音楽文化協会は1942年1月10日夜、新橋蔵前工業会館で戦時音楽対策特別委員会創立準備会を開催した。出席者は情報局上田第五部第三課長、大政翼賛会岸田文化部長、京極高鋭子、国際文化振興会黒田専務理事、芸能文化聯盟堀内常務理事、大日本音楽著作権協議会増澤理事長、福井武蔵野音楽学校長のほか徳川協会会長以下役員三十数氏。戦時対策特別委員会を組織し、常時指導を受けるべき監督官庁である情報局関係官、ならびに音楽諸団体関係、協会役員を網羅する委員43名を委嘱決定した。次いで予て協会が情報局の指示に基づいて作成した戦時下音楽会開催に関する注意事項周知徹底を図るために音楽企画相談所の開設をはじめ、翼賛会へ愛国詩歌、陸海軍省へ行進曲を各々献納するとともに献納演奏会開催、大東亜共栄唱歌集編纂、音楽報国隊を全国主要都市に組織し山村僻地への巡回移動演奏班派遣、愛国音楽大会開催、大東亜共栄圏内へ代表的音楽団派遣などを付議決定し、戦時委員会で具体化を図ることとなった。
陸海軍に愛国吹奏楽曲日本音楽文化協会が献納
内容:社団法人日本音楽文化協会では陸海軍に吹奏楽曲を作曲して献納することとなった。
新響の春季スケジュール
内容:いずれも会場は日比谷公会堂、午後7時15分開演(第233回のみ午後7時開演)。指揮はローゼンシュトック。スケジュールは、
■第232回(1942年1月28、29日)1]ドビュッシー《聖セバスチャンの殉教》 2]《ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番 <皇帝>》(独奏:井口基成) 3]R.シュトラウス《ドン・キホーテ》 4]ヴェーバー(ベルリオーズ編)《舞踏への招待》 ■第233回(1942年2月18、19日)1]ベートーヴェン《荘厳な彌撒》 ■第234回(1942年3月25、26日)1]レーガー《モーツァルトの主題による変奏曲》 2]ベルリオーズ《ロメオとジュリエット》より 3]ブラームス《交響曲第1番》 ■第235回(1942年4月15、16日)1]ベートーヴェン《交響曲第3番 <英雄>》 2]リスト《ピアノ協奏曲変ホ長調》(独奏:井上園子) 3]ラヴェル《西班牙狂詩曲》 ■第236回(1942年5月6、7日)1]バッハ《組曲ハ長調》 2]マーラー《亡き児童を憶ふ歌》(独唱:四家文子) 3]ムソルグスキー(ラヴェル編)《展覧会の絵》 ■第237回(1942年6月3、4日)1]ブラームス《独逸鎮魂曲》
新響が邦人作曲定期演奏二月から日曜音楽会で
内容:日本音楽文化協会は[1942年]3月発表を期して邦人作曲の室内楽及び管弦楽曲の募集を発表した。また、新交響楽団は[1942年]2月から定期公演と並行して毎月1回日曜音楽会を開催することを決定し、そこでは邦人作曲の優秀管弦楽1、2曲を必ず演奏することとなった。
松竹交響楽団独立初進出毎月定期演奏会開催
内容:1941年7月、故・瀬戸口藤吉の斡旋で編成した松竹交響楽団は、新宿第一劇場内の松竹音楽舞踊研究所を本拠として練習を重ね、邦楽座その他のアトラクション演奏に出演していたが、1942年新春より毎月定期演奏会を開催することと決定し、第1回を1942年1月31日、神田一ツ橋・共立講堂でアウグスト・ユンケル指揮、大場庸章楽長以下64名の団員、鳩山寛の提琴独奏で挙行した。
音楽コンクール役員の移動
内容:東日大毎主催音楽コンクールは今年度より役員の移動[ママ]を行なった。/田村虎蔵、外山國彦2氏を名誉委員に、園部三郎、諸井三郎、矢田部勁吉、山本直忠3[ママ]氏理事に。
藤原義江歌劇団が「海道東征」巡演
内容:藤原歌劇団は、日本文化中央聯盟が紀元2600年芸能祭で制定した交声曲「海道東征」(北原白秋作詞、信時潔作曲)を六大都市で巡演することとなり、1942年2月11日紀元節に東京神田の共立講堂で藤原義江、内田栄一、三上孝子、斎田愛子、磯村澄子、留田武らに尾高尚忠指揮の東京交声楽団、日本合唱団が出演し第1回が行なわれる。
十七年度市民音楽講座
内容:教会音楽研究所が新宿基督教会で開催しつつある市民音楽講座昭和17年度2月以降の日割りと科目が紹介されている。講師はいずれも津川主一。/△1942年2月16日「讃美歌の源泉としての新約聖書」−3月16日「初期希臘教会の讃詞と規定」−4月20日「後記希臘協会の讃詞と規定」−5月18日「羅典聖歌の黎明期」−6月15日「中世前期の羅典聖歌」−7月20日「中世中期の羅典聖歌」−9月21日「修道院の讃美歌作家達」−10月19日「中期後期の羅典聖歌」−11月16日「耶蘇会等の讃美歌」−12月7日「中世伊太利のクリスマス・カロル」
吹奏楽指導者講習会開催
内容:大日本吹奏楽聯盟では、日本放送協会、日本教育音楽協会、大日本産業報国会の後援のもとに、吹奏楽団の指揮者ならびに指導者を教育し同時に新たに指揮者指導者になろうとする者を育成する目的で、講習会を開催中。/1.会場=東京音楽学校神田分教場 2.期間=1942年1月〜3月 3.日時=水曜2回午後6時より9時まで 4.科目及び講師=音楽通論(下總皖一)、歌唱法(城多又兵衛)、吹奏楽概論(堀内敬三)、吹奏楽史(遠藤宏)、和声学(橋本國彦)、編曲法(深海善次)、合奏指導法(伊藤隆一)、演奏行進指導法(近藤信一)
[記録]
第十一回音楽コンクール作曲部門を別個に
内容:東日大毎主催、文部省、情報局後援の「音楽コンクール」第11回は、作曲を演奏から独立させ、単に6月下旬に本選を開催することとなった。課題曲の一つは萬葉集より選んだ3首の短歌による交声曲(演奏時間約10分)とし、歌詞の紹介、歌詞の順序は動かさずにすべて用いること、伴奏の管弦楽の楽器編成の範囲などが記されている[詳細は略した]。参加資格は日本人、満洲国人、中華民国人とすること、応募作品は一人1曲限りとし管弦楽総譜とピアノ用スケッチの両方を提出すること、参加料は1曲につき10円であること、申込締切は1942年3月25日、本選会は6月下旬。申込場所は東京日日新聞社事業部。
ジョルヂス芸術賞の設定
内容:今回、イタリア大使館付陸海空軍武官各位の発起により前駐日海軍武官ジョルヂス大佐を記念するため日本における芸術賞(音楽・美術・文芸)が次の規定で設定された。/1)ジョルヂス賞は日本人の手になる音楽・絵画を含む文芸美術作品で、過去および現在の海戦の功績を顕現し、イタリアの武勲を称揚するものに授与する。作品は懸賞募集発表の日より締切の日までに伊太利亜文化会館内審査委員会に提出する。すでに同賞を得た作品は提出できない。2)懸賞募集の発表日は毎年10月28日、締切日は翌年2月末日とする。3)受賞作品はイタリア大使を会長とし適当な権威者をもって構成する審査委員会が選考する。4)懸賞の審査は毎年3月20日イタリア文化会館でこれを行なう。
第4回舞踊コンクール
内容:都新聞社主催、文部省、情報局、日本厚生協会後援、大日本舞踊聯盟協賛の舞踊コンクールは、第4回より文部大臣賞が制定されることとなった。/規定は、1)部門=児童部、一般部と分け、ともに第一部(日本舞踊、新舞踊)、第二部(現代舞踊、教育舞踊)とする。2)参加資格=国民学校初等科6年生までの者を児童部とし、以上の者を一般部とする。3)主題=自由(健全な歌曲に限る)。4)振付=自由。各部とも独舞、組織舞自由とする。5)申込手数料=1曲金2円。6)申込方法=希望者は所定申込書に手数料を添えて都新聞社事業部宛に申し込む。7)表彰=各部1、2、3等各1名コンクール賞準入選各部10名以内賞を呈す。8)文部大臣賞=各部を通じ最高位入選者に授与する。9)日本厚生協会賞=芸能文化聯盟賞、舞踊文化賞 優秀な入選者に授与する。
日本ビクターが管絃楽曲懸賞募集
内容:今回、日本ビクターではわが国音楽文化の向上および宣揚に資するための管絃楽曲の第1回懸賞募集を発表した。応募資格は日本人であること、作品は未発表で近代管絃楽の編成の範囲で25分以内に演奏できるもの総譜とスケッチブックを提出すること。締切は、1942年5月末日。審査委員会が最優秀と認めた作品1篇には2000円、佳作2編に各500円が贈呈される。当選作品は発表演奏会で紹介するほかレコードに吹き込む。審査委員は、清瀬保二、野村光一、橋本國彦、堀内敬三、増澤健美、諸井三郎、山田耕筰、山根銀二。
[消息]
ヴォーカルフォア
内容:日本合唱団と改称。1942年6月26日より3日間、創立15周年記念公演として《ファウスト》を歌舞伎座に上演の予定。
フィルハーモニー・カルテット
内容:松本絃楽四重奏団と改称。
ジェームス・ダン
内容:壇治衛と改名。
東京リーダーターフェルフェライン
内容:靖和合唱団と改名。
ニューフォニックコーラス
内容:東京合唱団と改称。
河村光陽
内容:東京市児童課嘱託となる。
四家文子
内容:この程次男をもうけた。
上山敬三
内容:下谷区谷中清水町20へ転居。
清瀬保二
内容:世田谷区喜多見町5へ転居。
西田直道
内容:札幌中央放送局嘱託となり、札幌市南八條西四丁目公園ハウスへ転居。
伊庭美那子
内容:大森区北千束606に伊庭ギター研究所を開設。
笈田光吉夫人
内容:この程死去。
【2001年7月12日+7月14日+7月15日+7月17日】

◇編集室(『音楽之友』 第2巻第2号 1942年02月 p.128)
内容:本号には、楽壇人が確信をもって職域奉公できるように音楽関係行政の第一線にある諸官の原稿を寄せてもらった。/2月で思い起こすことは、1937(昭和12)年2月に伊庭孝が、1938(昭和13)年2月に鹽入亀輔が他界したことである。今、あの二人がいたら、どんなに働いてくれたろうと考えている。/伊庭孝の遺児、伊庭美都子がギターの研究所を開いて教授を行なうこととなった。鹽入亀輔の妹渡邊ヨランダも東京市西大久保3-55、日下部方にピアノ教授所を開いている。(堀内敬三)
【2001年7月11日】


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