『音楽之友』記事に関するノート

第2巻第1号(1942.01)


◇大東亜戦争に處する音楽文化の針路/堀内敬三(『音楽之友』 第2巻第1号 1942年01月 p.10-14)
内容:(1)12月8日、米英に対し宣戦布告をし戦果を挙げているのは感激に耐えない。音楽関係者は、音楽を通じてご奉公をすべきは当然である。米英と闘うためには米英に親しむ感情を払拭しなければならない。音楽の方では米英から学ぶべきものはほとんどないが、あったとしても、いま米英の音楽に親しむことは避けるべきである。我らはここに米英の音楽を締め出すことを提唱する。ただ日本で歌われている唱歌のうち米英起源のものが多少あり、それらがすでに日本の唱歌になりきっていれば神経質にならなくてもよいと思うが、ドイツではユダヤ人の作であるという理由で「ローレライ」を禁じたのであるから、我らが米英の音楽を閉め出すのは当然である。(2)事変[=日中戦争]以来、時局便乗的な歌曲に悩まされてきた。その多くは歌詞で時局精神をごまかし、旋律で営利主義を高潮する。こうした歌曲は根絶すべきである。この戦時に哀調を持つ歌は好ましくなく、作曲家は明るく力強い愛国歌の作曲に邁進し、詩人は元気や希望、朗らかさを与える愛国歌の作詞をし、演奏家もレコード会社もその普及に力をつくすべきである。また、交響曲も交声曲も奏鳴曲も室内楽も、愛国的音楽の創造に力が注がれて差し支えない。邦楽は、今日の時局から見ると推奨すべきでないものがある。新しい邦楽曲も大衆に歌わせるのに適切なものが生まれていない。しかし当事者の努力しだいで国粋的なよい音楽が生まれる可能性がなくてはならない。抽象的な国粋論の庇護の下に時局と没交渉な音楽を押し売りするような卑怯な考えはすてるべきである。(3)音楽は今までの演奏会形式だけを守っていてはだめだ。音楽文化の普及は音楽を聴く人口の増加となって現れたが、その人々の中には演奏会に行く時間と経費の余裕をもたない者が多いとみなければならない。生の演奏を提供するには自治体と約定して公会堂や学校を用いるのもよし、あるいは会社や工場の従業員のためにそこに出張するのもよかろう。報酬は少なくとも、これが音楽家の奉公であり、こうしなければ音楽は行き渡らない。(4)音楽の研究は休まない方がよい。特に大東亜の盟主として日本の文化を宣伝するための研究だけは推奨されなくてはならない。日本人はこれまで、大東亜の音楽について知るところが薄いが、それでは大東亜を指導していくことはできない。音楽家はこれからでも東亜音楽を研究し、いかにすれば日本の音楽文化をもって東亜諸民族を導くかを考え、実行する責任がある。
【2001年5月15日】
大東亜戦争と国民娯楽村松呉山人(『音楽之友』 第2巻第1号 1942年01月 p.68-70)
内容:大東亜戦争に勝ちぬくためには、銃後国民大衆に対し健全な娯楽を与えることを忘れてはならない。1941年12月12日、情報局は国民娯楽の決戦体制の確立のため、都下各興行並びに芸能関係各方面の代表者を招集し、当局側から内務省、文部省、情報局、警視庁、大政翼賛会の各関係官が列席して支持協議を行なった。これによると、この戦争を遂行するにあたり娯楽は必ずしも抑圧せず、積極的に活用して銃後国民大衆の士気昂揚を図っていく方針であることを明示し、その方法を指示した。/大政翼賛会においても、1941年12月12日から、国民の士気を昂揚する一方法として拡声装置をつんだ発声発声自動車を設備し、帝都の随所で大政翼賛会の宣伝部員や音盤会社の歌手が乗り込んで、戦況発表や講演、軍歌の合唱、指導、さらに紙芝居などを演じたりしている。これは東京市でも考えたがガソリン統制のため実現できなかった。/東京市は、『健全慰楽厚生運動』として1940年10月から大々的な規模と予算をもって市民慰安事業を全国に向けて実施し、相当な成績を収め、各都市の先鞭ともなった。この事業の収穫は、第一に各音楽団体、専門家諸氏が趣旨をよく理解して応援出演しつつあることである。具体的には「音楽挺身隊」の結成、都下各音楽学校生徒による「楽徒奉公隊」の演奏会、海軍軍楽隊出身者をもって誕生した「海洋吹奏楽団」の出演などが挙げられる。第二に、自己厚生の目的で、素人音楽団の助成と指導を試みたことである。さらに自己厚生運動として「一夜講習」を全市35区を巡回して行ない、合唱とハーモニカの指導と演奏に当たった。第1回は星出敏一主宰の聖合唱団、第2回は音楽挺身隊の諸氏、第3回は全日本ハーモニカ聯盟と全産業黄琴聯盟の諸氏。軍歌、国民歌と市が懸賞募集して1等当選の《健歩》の歌などの指導を行なって成果を上げた。これは全国的に評判になり、尺八など大阪市その他で行なわれたそうだ。巡回講習は今後も続けたい。/1942年の予定は次のようになっている。1月4日、市主催で一大音楽行進を行なう予定で準備中。1月5日、市主催「有栖川宮を偲ぶ奉る会」(日比谷公会堂)に音楽挺身隊総動員出演を乞うている。2月10日の「交響楽の夕」(日比谷公会堂を予定、新交響楽団出演)。役所の仕事は予算がバッサリやられたらおしまいなので、今は予算の可決を祈念している。
メモ:村松は東京市市民局体力課掛長で、この記事は1941年12月13日記とある。
【2001年5月17日】
北支の音楽の友三浦潤(『音楽之友』 第2巻第1号 1942年01月 p.71-75)
内容:新装なって創刊した各音楽雑誌は、楽界においてもわが国が大東亜諸国に対して指導する目的のために、たゆまぬ歩みと努力を続けてもらいたい。音楽雑誌は、従来よく売れてせいぜい数千部しか出ないといわれてきた。その理由は、「音楽」そのものの新知識を雑誌から得ようとする知識人が数えるほどしかいなかったためである。今は、発行部数が紙の配給上制限されていても、将来は外国にいる同胞から、あるいは外国人からさえも注文がくるかもしれず、その時は許可をとって海外注文をとるべきである。/三浦は昨年[1941年か?]9月、北京と天津の数箇所でレコード音楽の解説付演奏会を開いた。そのうち、北京の北京飯店大ホールと天津居留民団大講堂で催したコンサートは、ともに約500名の聴衆を集めた画期的なことであった。解説に費やした時間も長くなったが、それは現地の好楽家たちが内地の中央楽界の動静に興味を持ちながらも、ほとんど知る機会をもたない。北京では、国策会社から派遣され人たちあ読むような音楽雑誌がないと言われたと記述しているし、楽譜が内地のように手に入らないことを挙げ、日本のスコア複製版を中国の好楽家に安価に提供してあげたいと気持ちを述べている。/北京であった人たちから2人を紹介している。Sという人物からは北京の物売りの音が多く、魅力的だが旅行者は聞き逃していることを教えられ、Mという人物からは、中国の青年男女は西洋音楽に興味を持つ者が多いが、一種の流行から安易な楽しみとして感じてきたようであること、そして将来日本から音楽を血肉とする聴き方を指導に来てくれれば、それも見直されるだろうと言われたことを記している。最後に「我々は中國に多數の音樂の友をもった。近い將來には、必ずや南方の諸国にも、多數の音樂の友を得よう」と結んでいる。
【2001年5月19日】
音楽コンクールの成果(第十回)増澤健美(『音楽之友』 第2巻第1号 1942年01月 p.76-77)
内容:1936年に始まった音楽コンクールは、1941年11月末に第10回が行なわれた。現在までのところ、ピアノ、声楽、絃楽、作曲の4部門があり、各部門に十数名からニ十数名の審査員がいて、2回の予選と1回の本選を行ない、厳正な審査によって受賞者を決定するようになっている。第10回のコンクールから、東亜共栄圏確立の趣旨に則り、従来の参加資格「日本人たること」を撤廃し「日、満、華三國人たること」とした。その結果、満洲国からの応募あり、参加者は200名に達した。2回の予選を経て選ばれた本選出場資格者(すなわち入賞者)は、ピアノ部9名、声楽部10名、絃楽部3名、作曲部(第一部、第二部あわせて)7名であった。今回は作曲部が特に好成績を残したが、毎回比較的好調を持続しているのはピアノ部である。今回の結果は第1位加藤るり子、第2位山田操、第3位日原加珠子に決定したが、他の入賞者も技量に大差なく接戦状態だった。こうした状況は今回に限ったことではない。声楽部は近年芳ばしくない。ここ数年第1位受賞者が出ていない。今年も第2位大谷冽子、第3位崔奉鎭と金炯魯で第1位なしである。このことは相当考えるべき問題を持っていると思う。絃楽部は今回、一般的に言って不調だったが、第1位松生陽子(ヴァイオリン)、第2位常松俊(チェロ)の両人は例年に比して遜色のない技量の持ち主である。
今回、作曲部の水準(特に管弦楽を扱った第一部)が著しく高まったことは喜ばしい。(第一部)第1位渡邊浦人の《野人》、第2位高田信一の《櫻》はともに優秀だが、他の入選作も悪くない。第ニ部では弦楽四重奏曲が課題とされたが、この形式はなかなかむずかしいので、第1位がでなかったのは無理もないことかもしれない。しかし第2位菊地惟朔のほかに、 次席の高田壽江が女性のために気を吐いた。受賞者達が文化戦士として充分に役割を果たしてくれることを切望する。
【2001年5月20日】
芸能文化展覧会に就て園城寺清臣(『音楽之友』 第2巻第1号 1942年01月 p.96-97)
内容:1941年11月20日〜29日、日本橋三越で『芸能文化展覧会』(芸能文化聯盟、都新聞社主催、文部省、厚生省、情報局、大政翼賛会後援)が開かれた。内容は、演劇、舞踊、邦楽、洋楽、映画、講談、落語、浪曲、奇術、太神楽など諸演芸を含んだ、広範な資料の同時展観をする初の試みだった。計画が大きく、各部門の品目や展示の上で多少不ぞろいの感もあったが、比較的系統だった重点主義をある程度実現しえて、芸能文化の報国的展開を顕揚しようとした企画には成功したものといえるだろう。/演劇博物館『日本演劇史表』(演劇の部)、渥美清太郎『錦絵に拠る舞踊の分類』(舞踊の部)、町田架章『浄瑠璃体系譜』『長唄系譜』『常磐津、富本、清元系譜』(邦楽の部)、町田架章『大衆演芸芸能統表』、放送局「ラジオの演芸放送は臨戦下如何なる役割を果たして居るか」、日本移動演劇聯盟「移動演劇配給状況」、近藤春雄・柏熊達生「盟邦ドイツ、イタリー両国芸文化の紹介」、「第一線の芸能慰問」「芸能人の銃後運動」「芸能文化と厚生運動」「文化映画種別表」など(諸演芸の部)などのほか、「盟邦各国より献呈の紀元二千六百年祝典楽曲原譜」、古近江作の三弦「野路」、七代目団十郎供覧に資料の「左開中啓」、松旭齋天一受贈「伊藤博文大家かの扇額」など、また友田恭助、中村章景、山中貞雄、花園愛子、エリアナ・パヴロワらの遺品は人の胸を打っていた。/ここには音楽の部のみの目録を記載して参考に供する。 
東京音楽学校出品
小學唱歌掛図(初篇・続篇 明治14年)、小學唱歌掛図(第二篇 明治16年)、唱歌教授用胡弓(明治15年頃使用)、本邦俗楽音階掛図(明治25年コロムブス博覧会出品のもの)、徳川頼貞侯寄贈品 オルゴール、本邦製初朝のヴァイオリン(桑材)、明治二十年頃流行の明清楽 月琴、本邦音楽年表、朝顔型喇叭蓄音器その他 
田邊尚雄氏出品 日本式家庭用吹込器 日ノ本写声器、我邦最初の家庭用簡易吹込器、嘉永6年及7年 浦賀及久里浜に上陸せるペルリ来朝当時のアメリカ軍楽隊のスケッチ(模写)、慶応年間幕府軍隊用オランダ式太鼓譜、薩摩武士使用の天吹、明治3年越中島観兵式に於ける『君が代』吹奏の図、明治22年鹿鳴館に於ける洋楽合奏図、明治27、8年我国最初の幼年音楽隊・少年音楽隊・芸妓音楽隊の図、大正年間に盛行せる家庭楽器 大正琴、大正琴の改良 花月ハープ、樺太アイヌ五絃琴 トンコリ、朝鮮 玄鶴琴 短籖、台湾生蕃鼻笛、タイヤル族首切笛、パイワン族従[ママ]笛、琉球三弦、印度舞踊 蛇皮タンブリン、満洲三弦 洞籖、チベット国ラマ僧太鼓、タイ国 従[ママ]笛(クルイ)、ニューギニヤ土人 戦闘踊用太鼓 
田邊秀雄氏出品
 エヂソン式 蝋管蓄音器 
遠藤宏氏出品
 幕末輸入 オルゴール、維新当時 軍楽ラッパ、同 軍楽小笛(ケース入)、フェントン、エッケルト、ディットリッヒ、伊澤修二諸氏及明治13年頃の音楽取調掛教室とスクエアピアノ(写真)、日清戦役旅順総攻撃と軍楽隊奏楽の図(故永井健子楽長筆)、明治唱歌会感謝状(明治32年)、明治3、40年頃のレコード各種、伝長崎唐館使用 月琴(清)、長崎明楽譜(刊本)、歩兵演範音楽要領その他 
白井保男氏出品
 紙腔琴並巻譜(明治2、30年頃流行) 
牛山充氏出品
 駒場練兵各藩鼓笛隊奏楽の図(歌川芳虎画)、音楽取調所之図、青山練兵場観兵式軍楽隊奏楽(井上探景画)、明治31年遷都30年祭祝賀会上野公園天覧行列之図、訓練独稽古、蘭英式太鼓笛教練譜、小隊運動早見(初篇・ニ篇)、
早川彌左衛門氏出品 君が代の曲を作曲したと伝えられる笙、明治21年『君が代』の曲に和声を附して締盟各国へ送付せる楽譜、その他
このほか、純正調オルガンは田中正平博士の希望によりケースにおさめず、一般の弾奏を自由にした。なお邦楽の部にも、珍品、資料、文献など多数の展示をえた。
【2001年5月23日】
我が書庫二見孝平(『音楽之友』 第2巻第1号 1942年01月 p.104-105)
内容:海外の勤務が長かった関係からか、外国語書籍を日本で購入するより少ない量力と金銭で入手できたが、その整理ができずに故郷の庫に束ねられているのは遺憾である。数量的には、これらの書籍の中で一番多いのは音楽評論、音楽学、音楽史、音楽辞典などの音楽文献であるが、これに関連した独・仏・伊・英の文学書や、これらの言語によるめぼしい純粋文学書も蒐集した。音楽関係図書を語学別にするとドイツ語が一番多く、フランス語、イタリア語、英語が次ぐ。ただし、いつも軽い財布と相談しながら購入していたので、系統上必要なときでも買い逃したことは少なくない。音楽家関係の数量は、モーツァルト、ベート―ヴェン、シューベルト、ワーグナー、ブラームス、バッハ、ベルリオーズ、ショパン、E・T・A・ホフマンという順になろうかと想像している。そのうちで永久に日本に残したい稀観本として、モーツァルトの妻コンスタンツェの後夫ニッセンの書いたモーツァルト伝、J・F・ライヒャルトの著作、カルパニのハイドンに関する著作、シュポーアの自叙伝などのタイトルが見出せる。また音楽史や音楽辞典などで蒐集したものとして、フェティスの音楽史、フェティスの音楽辞典、J・F・ゲルベルの音楽辞典、リヒテンタールの音楽及音楽文献辞典等々を挙げている。さいごに、蒐集は骨が折れると感想を述べている。
メモ:脱稿の日時は、1941年12月7日とある。
【2001年5月24日】

私は如何なるラジオを聴くか(『音楽之友』 第2巻第1号 1942年01月 p.105)
内容:9名よりハガキ回答を得た結果を掲載している。回答者は、岩崎吉三、黒澤隆朝、津川主一、菅原明朗、屬啓成、服部正、杉山長谷雄、田中規矩士、朝比奈隆。聴く番組は、名曲レコードの鑑賞の時間、室内楽とオーケストラの時間、ニュース、ほかに演芸など。珍しいところでは「友人の放送」(菅原)というのもある。
【2001年5月25日】
◇盟邦独伊と音楽放送交歓(『音楽之友』 第2巻第1号 1942年01月 p.105)
内容:日本放送協会は1941年2月イタリアと文化交歓放送協定を結び毎月日伊親善の電波を交歓してきた。このたびさらに、日独文化交歓放送が実現されることになり、1941年12月18日、東京でドイツ放送会社と日本放送協会の間に正式調印が終わった。交歓放送はベルリン−東京間で行なわれる模様であるが、これによって戦時下友邦の力強い親善電波が定期的に交歓され、全国民が友邦の音楽を聴かれるようになった。
【2001年5月28日】
◇戦時下の音楽放送 (ラジオ時評)/佐藤和男(『音楽之友』 第2巻第1号 1942年01月 p.106-107)
内容:1941年12月8日、対英米戦が始まった。この日、ラジオでは日米交渉の経過、政府の対米通牒、東條首相の「大詔を拝し奉りて」などが発表され、続いて緒戦における戦果が伝えられた。戦況ニュースの前後あるいは各種の放送演説に続いて《軍艦マーチ》《敵は幾萬ありとても》《敷島行進曲》《愛国行進曲》などが演奏され、国民的士気を昂揚させた。/しかし音楽の効用はもっと多面的なものでなくてはならない。われわれ国民は対米英宣戦布告の日から長期戦の覚悟ができあがったのだから、ラジオ音楽の方も軍歌に次ぐ軍歌の放送では、音楽準備の不足をいくぶんでも感じさせはしなかったか。一時的な興奮や一面的な効用に終わることなく、音楽の文化的使命を徹底的に達成してもらいたい。/大東亜戦争[=太平洋戦争]開始以来、国民心理を戦争に集中させるために、娯楽放送という名称の各種演芸放送が中断された。芸妓歌手の流行歌や浮薄な軽音楽が中断されてもどうということはない。ただ表面的な理念から女性歌手の放送を中止したが、放送協会はこんなことに拘らず、もっとより深い問題を考えてもらいたい。さいきんマンネリズムに陥っていた娯楽放送のプログラムは全面的革新を要求したい。従来は600万聴取層の中の投書ファンの意見をだいぶ取り入れてきたが、こうしたざれ言によってプログラムを組む愚をやめ、たとえば1941年12月14日昼の演芸プログラムに盛られた『南方のうた』のような、高い文化性を評価されるべき放送当事者の企画をもって、国民や亜細亜民族全体に新しい文化性を与える夢をもってプログラムを創造して欲しい。その結果、音丸、美知奴、虎造などの出演が減ったとしても悲観すべきではない。
【2001年5月28日】
国際音楽情報 No.2/松本太郎(『音楽之友』 第2巻第1号 1942年01月 p.114-116)
内容: 英国 対ソ連戦のためドイツ軍の攻撃の手が緩んだ間、英国では平時に得られない音楽享受の機会に恵まれることが多いようだ。たとえばサドラース・ウェルズ・オペラ・カンパニーの夏期巡回上演が一例で、ロンドンの本格的オペラを地方の小都市で見る機会をもち、コリングウッド指揮の《フィガロの結婚》が喜ばれた。また、ロンドンの交響楽団の地方巡回も行なわれているようである。サドラース・ウェルズ・バレエ団は、夏の間5週間、ロンドンで興行して人気を博した。/例年夏にロンドンで行なわれてきたプロムナード・コンサートは会場のクィーンスホールが爆撃にあい、アルバート・ホールで開かれた。第47シーズンの連続演奏会はヘンリー・ウッドが指揮し、バジル・カメロンが第二指揮者としてウッドを助けた。第1週の演奏会ではペンノ・モイセヴィッチがチャイコフスキーの《ピアノ協奏曲第2番》を演奏した。/放送の音楽も充実した内容をもっており、モイセヴィッチがショパン、ストラヴィンスキーの《練習曲》、プーランクの《永続運動》などを弾いている。またモーツァルトの《バス−ン協奏曲》(アーチー・キャムデン独奏)、ハイドンの《アルミダ》序曲、ドヴォルザークの曲などがクラレンス・レーブールドの指揮で演奏された。/音楽及び美術奨励委員会主宰の演奏会もロンドンならびに地方で広く開かれている。この会が企画した米国との交歓放送ではドビュッシーの歌曲で知られる歌手、マギー・テートが賞賛を博した。ナショナル・ギャラリーのデイリー・コンサートの主宰者であるマイラ・ヘスは、「ダーム・コンマンダー・オヴ・ブリティッシュ・エンパイヤー」に叙せられたことに加え、王立フィルハーモニック協会から金メダルを贈られた。女史は戦時下英国音楽を取り扱った宣伝映画2本を作ったと伝えられる。 米国 (1)ニューヨーク・フィルハーモニック・シンフォニーの第100シーズン。シーズンの第1回演奏会は1941年10月9日、カーネギーホールでストコフスキーを客演指揮者に迎え開かれた。ベートーヴェン《交響曲第5番》、バッハ=ストコフスキー編曲《ヴァイオリン・ソナタ イ短調》より<アンダンテ・ソステヌート>、同《フーガ 二短調》、ヘンリー・カウエル《我々の田舎の物語》、[ワーグナーの]《トリスタンといゾルデ》の<前奏曲>と<愛と死>。ストコフスキーは、これに続いてベートーヴェン《交響曲第7番》、ブラームス《交響曲第1番》、フランク《交響曲、ロイ・ハリス《フォーク・ダンス》より、ポ−ル・クレストン《交響曲 ユーモアをもって》、モートン・グールド《シンフォニエッタ ガラチョ》、ストコフスキー《アイネ・フェスティ・ブルク》、ムソルクスキー《展覧会の絵》などを振る予定である。ストコフスキーに続いて、ジョン・バルビローリ、ブルーノ・ワルター、アルトゥール・ロージンスキー、ディミトリー・ミトリプロス、フリッツ・ブッシュ、クーセヴィツキー、ユージン・グーセンス、そして3月には米国音楽界の長老ウォルター・ダムロッシュが指揮台に立つ予定である。(2)NBC交響楽団とストコフスキー。NBC交響楽団は存続し、28週間行なわれる火曜夜の放送のうち8回はストコフスキーが指揮することに決まり、毎回新しい米国作品を少なくとも1曲加える。他の20回の指揮者は未定で、トスカニーニも交渉を続けるとのことである。(3)ヂュニアー・リーグのレクチュアワー=リサイタル。ニューヨークのジュニア・リーグが演奏付講演会を5回にわたって開くと発表した。このリーグは音楽趣味涵養の機関であるらしく、講演者は「ニューヨーク・タイムズ」の音楽批評家である。出演者は、ブルーノ・ワルター、ヨゼフ・シゲティ、ヤロミル・ノヴォトナ(メトロポリタン歌劇場のプリマドンナの一人)、イェラ・ベッセル(米国のクラヴサン奏者)、ルネ・ルロワ(フランス知名のフルート奏者)、ヨナス・ショルツ(チェロ)、エドワルド・キレニー。少年に対する、この内容ある教育機関の存在は注目すべきものであろう。(4)今シーズンのフィラデルフィア交響楽団。第42楽季の内容を概観すると次のとおりである。演奏回数は金曜の午後と土曜の夜各28回、月曜の夜10回、若い人のための演奏会10回、ニューヨーク演奏会10回、ボルティモワー演奏会6回、その他30の都市における演奏会。合計すると少なくとも127回を数える。指揮者は、正指揮者オーマンディ、客演指揮者ビーチャム、サー・アーネスト・マクミラン(カナダ、トロント交響楽団の指揮者)。独奏者はラフマニノフ、パウル・ヴィットゲンシュタイン(ヴラヴェルが左手のための協奏曲を捧げたピアニスト)、アルトゥール・ルービンスタイン、エドアルド・キレニー、クライスラー、ヅィムバリスト、ミルスタイン、フォイヤーマンなど。独唱者はドロシー・メーナー、ローレンス・ティペットなど。(5)シカゴ交響楽団のシーズン。第51シーズンを迎えた同楽団は113回の演奏会を開き、うち99回はシカゴのオーケストラ・ホールで行なう。正指揮者フレデリック・ストックは、この楽団での第37シーズンを、次席指揮者ハンス・ラングは第6シーズンを迎えた。独奏者・独唱者には、キレステン・トルボルグ、ユッシ・ビヨルリンク、クローディオ・アッロー、ベラ・バルトーク、ロベール・カザドゥシュ、ホロヴィッツ、ラフマニノフ、ダリウス・ミヨー、ギオマル、ノヴァエス、パートレッドとロバートソン、エルマン、ハイフェッツ、クライスラー、ミルスタイン、エリカ・モリーニ、ヅィーノ・フランチェスカッティ、プリモローズ(ヴィオラ)、ピアティゴルスキー、カルロス・チャヴェス(作曲家)。
【2001年5月31日】
音楽会記録唐端勝(『音楽之友』 第2巻第1号 1942年01月 p.118-122)
内容:1941年11月11日〜12月10日分(→ こちら へどうぞ)。/ほかに、1942年1月の音楽会(予定)が次のとおり掲載されている。/1月14日 新交響楽団出演交響大演奏会(7時15分、日比谷公会堂) ローゼンシュトック(指揮)。ベートーヴェン《交響曲第7番》、シューベルト《ロザムンデ》、スメタナ《モルダウ》、ワグナー《タンホイザー》序曲など。1月28日、29日 新交響楽団第232回定期公演(7時15分、日比谷公会堂)ローゼンシュトック(指揮)。ドビュッシー《聖セバスティアンの殉教》、ベートーヴェン《洋琴協奏曲第5》(井口基成 独奏)、R.シュトラウス《ドン・キホーテ》、ウェーバー《舞踏への招待》。1月下旬 青年日本交響楽団第16回定期公演(日本青年館で開催予定)。1月31日 若き人々のための第11回交響楽鑑賞会(1時半、日比谷公会堂)、東京交響楽団および東勇作舞踊団が出演する。
【2001年6月2日】
競演会記録(『音楽之友』 第2巻第1号 1942年01月 p.123-124)
全国産業戦士の音楽放送コンクール

内容:
1941年10月26日、第1回全国勤労者音楽全国大会(産報本部、放送協会共催)は、放送コンクールとして合唱と吹奏楽の2種目で行なわれた。成績は次のとおり。/合唱の部(課題曲は《大政翼賛の歌》): 1等 東京芝浦電気マツダ支社産業報国会混声合唱団(川崎)、2等: 阪神急行産報合唱団(愛知) 3等 三菱重工業長崎造船所合唱団(長崎)、4等 東邦電力会社名古屋支店産報合唱団(愛知)、5等 東北金属工業会社産報合唱団(宮城)、 6等: 大和紡績広島人絹工場産報合唱団(広島)、7等 棒二森産報女声合唱団。/ブラスバンドの部(課題曲は《太平洋行進曲》): 1等 日本ビクター産報工場吹奏楽団(横浜)、2等 日本製鉄輪西製鉄所産報吹奏楽団(北海道)、3等 日本紡績産報吹奏楽団(福島)、4等 大同製鋼熱田工場産報吹奏楽団(愛知)、5等 日立製作所戸畑工場産報吹奏楽団(福岡)、6等 松下電器産報吹奏楽団(大阪)、7等 玉造造船所産報ブラスバンド(岡山)
三曲新作コンクール
内容:1941年10月21日、日本文化中央聯盟主催芸能祭の三曲新作コンクールが木挽町の朝日倶楽部で行なわれた。田邊尚雄、堀内敬三、土岐善麿、渥美清太郎ら14名の審査員が参加35篇の審査を行なった。結果は次のとおり。/1等 衛藤公雄《箏尺八二重奏曲》、2等 中田博之《箏独奏の為の奏鳴曲》、3等 米川敏子作・江口博作詞《豊穣の譜》、3等 伊藤松超作・小野風山作詞《何進の賦》、3等 隅崎萬壽男《琴三絃協奏曲》。
音楽コンクール
内容:東日大毎主催の第10回音楽コンクールは、1941年11月19日、20日、21日の3日にわたり日比谷公会堂で行なわれ、次のとおり入選者を決定した。/文部大臣音楽賞: 渡邊浦人。<ピアノ>第1位: 加藤るり子、第2位: 山田操、第3位: 日原加珠子。<絃楽>第1位: 松生陽子(提琴)、第2位: 常松俊(チェロ)<声楽>第2位: 大谷冽子、第3位: 崔奉鎭、金炯魯。<作曲管絃楽曲>第1位: 渡邊浦人、第2位 高田信一。<作曲弦楽四重奏曲>第2位: 菊地惟朔、 次席: 高田壽江。
合唱競演会
内容:国民音楽協会の第15回合唱競技会は1941年11月23日、日比谷公会堂で開かれ、次のとおり入選団体を決定した。/第1位 東京リーダーターフェル・フェライン(男声合唱第1位)、第2位 ホワイト合唱団(女声合唱第1位)、第3位 仙台音楽協会合唱団(混声合唱第1位)、第4位 安田貯蓄合唱団(混声合唱団第2位)。
第4回吹奏楽器個人競演会
内容:関東吹奏楽団聯盟主催第4回吹奏楽器個人競演会は1941年12月7日午前9時半より、東京市麹町区元園町昭和第一商業学校で開催された。参加者100名近くで、午前中に予選を行ない、午後には予選通過者28名によって本選を行ない、次のように決定した。/クラリネット(一般部)優勝第1位 中尾正君(日本管楽器株式会社吹奏楽団 26歳)。コルネット、トランペット(一般部)優勝第1位 長原良一(大阪YMCA音楽部 20歳)。トロンボーン、バス(学生部)優勝第1位 飯塚経世(逗子開成中学校振武隊 18歳)。トロンボーン、バス(一般部)優勝第1位 森田信治(日本管楽器株式会社吹奏楽団 18歳)。小喇叭(学生部)優勝第1位 伊藤康哉(専修商業学校喇叭鼓隊 16歳)。小喇叭(一般部)優勝第1位 徳永清(神戸喇叭修得団 14歳)。小太鼓(学生部)優勝第1位 秋山彌一郎(専修商業学校喇叭鼓隊 15歳)。小太鼓(一般部)優勝第1位 大石隆(日本管楽器株式会社吹奏楽団 22歳)。
大日本吹奏楽競演会優勝第一団体決まる
内容:大日本吹奏楽聯盟、朝日新聞社共同主催、文部省、厚生省、情報局、大政翼賛会後援、社団法人日本音楽文化協会賛助の下に第2回吹奏楽競演会が、1941年11月23日、名古屋鶴舞公園で行進競演、同日夜に朝日会館で舞台競演を行なった。2公演を総合審査して次のように優勝第1位団体を決定した。/吹奏楽(学校部) 名古屋東邦商業学校吹奏楽部、吹奏楽(一般部) 日本管楽器株式会社吹奏楽団、喇叭鼓隊(学校部) 埼玉県川越商業学校喇叭鼓隊、喇叭鼓隊(一般部) 神戸喇叭修得団、喇叭隊(学校部) 愛知県一宮中学校喇叭隊、喇叭隊(一般部) 神戸塚本喇叭隊。
【2001年6月4日】
楽界彙報(『音楽之友』 第2巻第1号 1942年01月 p.124-125)
芸能祭の洋楽新作完成
内容:日本文化中央聯盟は芸能祭の洋楽部門として作曲を委嘱していた交響管弦楽曲2種、合唱曲2種、吹奏楽曲2種が完成したので1942年1月13日夜、日比谷公会堂で交響管弦楽曲はマンフレッド・グルリット指揮の東京交響楽団、合唱曲は橋本國彦指揮の東京交声団出演で発表演奏会を行なう。吹奏楽曲は発表公演は行なわず、適当な機会に放送とレコードで世に問うことになった。/#交響管弦楽曲 宮原禎次《日本古謡による幻想交響曲》、小倉朗《交響組曲イ短調》。#合唱曲 宮澤賢治作詞・名倉晰《雨にもまけず》、三好達治作詞・名倉晰《**** [読解不明]》。#吹奏楽曲 白?巖《青春》、弘田龍太郎《舞曲》。
管弦楽曲を募集 グレゴリアン音楽学会が
内容:グレゴリアン音楽学会では、グレゴリアン・チャントのメロディーを主題とする管弦楽曲を募集する。要領は、演奏時間10分ないし30分、賞金200円まで、締切は1942年2月末日。入選曲は第2回定期演奏会で発表する。
満洲建国十周年記念交響曲懸賞募集
内容:新京音楽院では満洲建国十周年を記念する第4回交響曲の作曲募集を発表した。課題は東洋的色彩をもつものとし、応募資格は東洋人(東洋在住の白系ロシア人を含む)であること、一人1曲限り、演奏時間35分以内、管弦楽総譜にピアノ用スケッチを添えること、1942年5月31日までに新京特別市公署内の新京音楽院へ提出すること。当選作には賞金1,000円が贈られる。
満洲建国十周年の「祝典序曲」当選発表
内容:新京音楽院では満洲建国十周年を記念するため募集していた「祝典序曲」8曲のうちから、東京市の市川都志春《晩雲》を当選作とし、賞金500円を贈った。
音楽著作権本年度の使用料決る
内容:大日本音楽著作権協会と大日本文芸保護同盟の本年度の著作権使用料規定の審査会を1941年11月25日に開催し、内相官邸に湯浅内務次官、今松内務省警保局長、坂部司法省民事局長、関放送協会業務局長、山田耕筰、増澤健美、菊池寛、城戸四郎、水野練太郎、松本潤一郎、武藤與市の各審査委員が出席した。音楽著作権に関しては洋楽作品の演奏使用料金を邦楽作品と均衡を図るために無伴奏および楽器の多少により3種に分類し、これに演奏時間を5分未満から30分以上各5分ごとに点数よる単位を定めて、軽音楽は1点に1銭を、純音楽は2銭を乗じて算出。アトラクションの音楽使用料は劇場の収容人員と入場料によって8階級に分けることとした。映画における場合は時間によって7階級に分け、主題歌ならびに挿入歌曲の使用料を時間制により、劇映画は歌詞、楽曲ともに1曲に最低各10円、文化映画は同じく5円とする。映画のプリントに対する上映使用料は最初の1本を免除し、ほかは写調使用料の各1割とする。
日本音楽文化協会いよいよ発足す
内容:社団法人日本音楽文化協会の発会式1941年11月29日午後1時半、情報局講堂で行なわれ、役員を決定した。/会長 徳川義親侯。副会長 山田耕筰。顧問 大倉喜七郎男、岡部長景子、、加藤成之、京極高鋭子、近衛秀麿子、守井武成男、武富邦茂、徳川頼貞候、乗杉嘉寿、藤山愛一郎。参与 石倉小三郎、川上淳、田村虎蔵、田辺尚雄、外山国彦、永井幸次、颯田琴次、小松耕輔、福井直秋、堀内敬三、増澤健美、鈴木のぶ、三浦環、神戸絢子。、名誉会員 田中正平、安藤幸子、幸田延子。
大日本合唱競演会功労者感謝式
内容:国民音楽協会主催第15回大日本合唱競演会の競演終了後、同会創設以来の功労者15名のための感謝式を行ない、国民音楽協会理事堀内敬三の司式の下に感謝状が贈呈された。なお、同協会理事長・小松耕輔は自身が感謝状を贈る側に立ったため、司式者の提案により会楽一同から感謝の拍手が送られた。/感謝状受領者は、牛山充、大和田愛羅、加藤長江、小松平五郎、小松清、齋藤喜一郎、
榊原直、佐野常松、澤崎定之、照井栄三、野村光一、増澤健美、三浦末松、村松竹太郎、吉田正。
皇太子殿下御誕辰奉祝少国民士気昂揚音楽会
内容:日本音楽文化協会は情報局、文部省、東京府東京市後援で皇太子殿下御誕辰奉祝少国民士気昂揚音楽会を1941年12月23日1時から、軍人会館に開催した。曲目の大要は、1.大政翼賛行進曲、銃後の花(宮田ハーモニカ楽団)、2.軍隊行進曲(自由学園児童管弦楽団)、3.母、花(仰徳国民学校児童合唱)、4.太平洋(第二日野国民校吹奏楽部)、希望に燃えて(第四峡田国民校吹奏楽団)等。
【2001年6月5日】
消息(『音楽之友』 第2巻第1号 1942年01月 p.125)
内容:上山敬三 本郷区西須賀町17根津山荘へ転居。/ロマン・ドウクソン 麹町区永田町2−65山王荘アパート(電話 銀座462)へ転居。/内山文子 杉並区東田町1−15へ転居。/花柳悦太郎 世田谷区千歳烏山町1785へ転居。/寒水多久茂 大森区雪ケ谷町576へ転居。/山崎頤子 横浜市北区菊名町6へ転居。/青木正 麻布区板倉片町6 和朗フラット(電話 赤坂2485)へ転居。/安藤膺 宮川茂と結婚、豊島区巣鴨町7−1834へ転居。/平尾貴四男 淀橋区下落合3−1433(電話 落合長崎3145)へ転居。/名倉晰 世田谷区烏山町450へ転居。
【2001年6月7日】
演奏会開催の心得 ―― 日本音文協の示達(『音楽之友』 第2巻第1号 1942年01月 p.127)
内容:日本音楽文化協会では情報局の指示に基づき、全音楽家に対して戦争下音楽家の心得及び演奏会開催の心得に関して通達を発した。その内容は次のとおり。/●音楽会はできるだけ数多く開催し、入場料も廉価に、社会の多方面に普及すること。●短時間に充実した曲目を供与すること。●演奏会を及ぶ限り各地に分布せしめ、農山漁村等の職場に対し巡回演奏会等を盛んにすること。●演奏会場において重要ニュースを速やかに通達すること。●国民意識、特に戦時下の覚悟を強化する目的に副う曲目を選ぶこと。●吹奏楽や合唱等集団的演奏を盛んにし、国民に自ら歌唱する機会を与えること。●演奏家の態度や服装は端正にして節度あることを要し、豪奢華美にならないこと。●邦人の作品を努めて演奏すること。●現存米英作曲家の作品は取り上げないこと、物故した米英作曲家の作品といえども米英国民の士気鼓舞を目的とした曲や民謡調の曲を演奏することを差し控えること。/
メモ:通達が発せられた具体的な年月日は記載されていない。
【2001年6月10日】
編集室/堀内敬三(『音楽之友』 第2巻第1号 1942年01月 p.128)
内容:『音楽之友』第1巻第1号は準備に手間どり発効日が著しく遅れた。多少の残部はあるから必要の向きは本社[=音楽之友社]まで問い合わせてほしい。今後は用紙の統制につれて書店に並ばなくなる心配があるため、なるべく直接購読を申し込んで配本を確保してほしい。/『音楽文化新聞』は1941年12月20日号を初号として発刊された。編集兼発行人は旧『音楽商報』の加藤省吾、主筆は堀内敬三で、音楽之友社が発行所である。音楽に関するすべての報道をするもので、月3回発行するから、よほど各方面からの情報が入らなくてはならない。この新聞は日本音楽文化協会の機関紙の性格も有しているので会員には配布されるであろうが、会員以外は直接購読を申し込まれた方が配本を確保するうえに安全と思う。/1941年11月から12月にかけて、音楽コンクール、競演合唱祭、吹奏楽コンクール、児童唱歌コンクールがあり、また日本音楽文化協会の発会式があった。そして帝国は、ついに宣戦のやむなきに至ったが、楽壇が時を移さず新しい活躍を開始したことは心強い。/堀内敬三は1941年11月27日に藤原義江歌劇団の公演を済ませてから、ずっと『音楽五十年史』の執筆にかかっている。『音楽之友』の仕事ができてから、芸能文化連盟主事を辞職することに決めたが、後任者もないまま戦争が起こったので、芸能文化連盟も常務理事として毎日出勤し、『音楽之友』の方へも毎日出勤し、夜は『音楽五十年史』の著述で徹夜を続けている。どんな無理をしても今が働き時だと思う。
【2001年6月13日】


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