『音楽之友』記事に関するノート

第1巻第1号(1941.12)


◇新しき首途/堀内敬三(『音楽之友』 第1巻第1号 1941年12月 p.5)
内容:楽壇の大同団結である日本音楽文化協会が結成された。時を同じくして諸雑誌界の統合が行なわれ、音楽雑誌は本誌[=『音楽之友』]ほか5誌が創刊された。過去を一掃して新しい首途に上るべき時が来た。/長いあいだ高級な音楽は一般の民衆から隔絶されて、一部の人々の個人的趣味としてのみ存在していたが、ラジオとレコードの進出を機会として、この十数年の間に民衆の間に沁みわたりつつある。個人的な趣味から公共的な文化財へと移る可能性をもつようになった。/折りから日本人は思想的に立ち直る必要を痛感し、個人の生活が国家と関係なくあるということは嘘であると考えられるようになった。しかし過去の音楽は国家観念から遊離していたものが多く、ここで根本から立ち直らなければならない。今日の時局に照らし、今日の日本文化のあり方と思い合わせて葬り去るべきものもまた多いのである。作品のみならず、演奏の心構えにしても、企画にしても経費にしても過去の考え方は厳格に検討されることが要求される。
【2001年4月18日】
◇日本音楽文化協会の根本理念と実践要領/辻荘一(『音楽之友』 第1巻第1号 1941年12月 p.10-13
内容:日本音楽文化協会の根本理念は音楽における日本国民の文化活動にほかならない。日本音楽文化協会定款第2章「目的及事業」を引用。問題は、定款の「目的及事業」の実践にある。/国家目的と芸術活動とが相反するものと見なす主張は否定されなければならない。作曲をするにしても国家を蝕むようなものでなく、ベートーヴェンがあくまでドイツ的であったように、日本独特にして万民普遍的な音楽を発展させたい(作曲部)。演奏家は技巧の完成だけでは足りず、正しい意味における日本精神を体得している必要がある。こうした演奏家の出現こそ日本的芸能の建設として意義を有する(演奏部)。幼稚園、国民学校、高級の学校の音楽教授は、本務の余暇にそれぞれの地方で校外における厚生文化的活動に関わって音楽を広めてもらいたい(教育部)。専門でない各種演奏団体や音楽愛好家団体は、自分から音楽し、音楽を解し、音楽を国民文化の名に値するものにしてほしい(国民部)。評論部は言論をもって先の4部の発達を助長し、国民音楽建設の基礎に関する理論的研究をし、また音楽に関する正しい報道および知識を供給することを任務とする。/以上述べてきたことは、他国の音楽の排斥を意味しない。文化の交流がないところにその発展は望めない。外来の音楽を単に楽しむ目的に終わらせず、新文化創造のための刺激剤として活用するところまで推進しなければならない。
【2001年5月9日】
◇地方音楽文化の樹立/松尾要治(『音楽之友』 第1巻第1号 1941年12月 p.14-19
内容:1.地方文化協議会 大政翼賛会の誕生以来、翼賛会文化部は地方文化の新興に力をつくしてきた。その結果、全国各府県に文化団体が結成され、その数は文化部に連絡が届いているだけでも124団体、準備中のものが34団体に及んでいる。/1941年10月10日と11日、最初の地方ブロック別文化協議会として第1回東北地方文化協議会が仙台の齋藤報恩會講堂で開かれた。この協議会は大政翼賛会文化部が示した地方文化新建設の根本理念と、地方文化振興についての指導目標に沿って行なわれた。/地方文化新建設の根本理念を要約すると、わが国の最高課題である高度国防国家完成の不可欠な条件として国民生活一般を包括する文化機構の再編成が要請されるにいたった。従来、文化は国民生活と遊離した贅沢物か装飾品のように考えられ、また個人的、非公共的性質を帯びていたことは事実である。このような誤った観念を退け、全国民的な基礎の上に立つ、生産面にふれた新しい文化を創造し、国民生活と東亜諸民族の生活の中に実現していくことにある。過去における政治上の大改革と同様に、今日の新体制もまた伝統の自覚によって精神の更生を必要とする。すなわち何千年来皇室を中心として成長発展してきたわが国文化の本質に基づいて、新しい時代の文化を創造する維新にあることを銘記しなければならぬ、というものである。/さらに地方文化振興について指導目標としている3項目は、@各地方の特質を最大限に発揮しつつ、つねに国家全体として新たに想像発展することを目標とし、中央文化の単なる再分布に終わらせないこと。A個人主義的文化を止揚し、地方農村特徴である社会的集団関係の緊密性を増進させ、集団主義文化の発揚を図り、もってわが家族国家の基底単位となる地域的生活共同体を確立すること。B文化、産業、政治行政その他の地域的偏在を是正し、中央文化の健全な発展と地方文化の充実を図る。/第1回東北地方文化協議会の席上、東北6県の文化協会をもって「東北文化連盟」を結成することとなった。/1941年11月21、22日には四国文化協議会が香川県高松で開かれる予定である。 2.文化団体と音楽文化協会支部 社団法人「日本音楽文化協会」は、全国道府県にその支部をもつことになっていて、さらにその道府県の下部組織として、各都市にも必要に応じて支部ができるようになっている。その支部として、1941年6月25日に「大阪音楽文化協会」が、1941年6月26日に「京都音楽文化協会」が、それぞれの地の商工会議所で結成式を挙げ、創立された。/地方文化団体の音楽部門は、同時に日本音楽文化協会の支部であるという具合に、一心同体となっていく方針である。ただし実際には文化団体ができていない地方で、しかも音楽方面が盛んで協会支部設置の要望の強いところでは、文化団体の結成に先んじて音楽文化協会支部ができる場合も考えられるであろう。この場合は、のちに文化団体の形が整った段階でそこの音楽部門となってもらえばよい。音楽も、これまであまりに東京中心主義だったので、地方では作曲家・演奏家・評論家はきわめて少なく、日本音楽文化協会の5部門である作曲部・演奏部・教育部・国民部・評論部の充実には苦労するであろう。 3.二つの方向 現在の地方文化運動には2つの行き方がある。その一つは、音楽・映画・演劇・紙芝居などの文化財を、娯楽として地方へ持ち込むことで、こうした文化運動は文化人にとって一番楽な方途であるため、いままで大部分はこの方向に動いてきた。しかし文化財を与えるだけの文化運動は、文化本来の意味からも運動の着眼としても誤りで、生活じたいに着眼し、これを直接引き上げていこうとする運動が大切である[文化財をもちこむこと仕事すべてを否定しているわけではない]。ただ、それには一流のものを持っていかねばならず、この夏に藤原義江が神奈川県下の向上を巡演し合唱指導をしたり、さいきん井上園子が広島・高知・大分・長崎・佐世保・福岡などを巡回演奏したことなどは、良い仕事だと思う。/松尾は、生活じたいを引き上げようとしている地方文化団体の文化部への報告の代表的なものの一例として、鳥取県農村文化協会の四宮守正による「状況報告」があるといい、過去の農村文化運動あるいは文化政策は無統一であり、しかも農村を宣伝の対象としてのみ考えていた。農村の文化運動の不成功をまねいた理由の一つは、農村指導者そのものの思想の貧困であったという内容を紹介し、地方においても指導者の養成が必要になるであろうと述べている。
メモ:松尾は大政翼賛会文化部員。
【2001年4月20日】
◇砲煙弾雨下の音楽/上田俊次(『音楽之友』 第1巻第1号 1941年12月 p.67-68
内容:本文の前に(昭和十六年十月二日午後八時「軍事報道」トシテ全國中継放送)と断り書きがある。/上田は始めに、こういう時節であればあるほど、音楽であろうが映画であろうがすべてのものが国防の力を強くするという一点に思いを凝らさなければならないと述べている。次に、音楽というものは理屈抜きに人の心に深く食い入るものであり、また文字や言葉による制限を受けないという特徴があるから、今日のような時局下においてこそ、おおいにこれを活用して素晴らしい効果を上げるよう工夫しなければならないと主張する。/主張を補強する意味でフランスの国歌《ラ・マレセーズ》、第一次大戦のアメリカの参戦に拍車をかけた[といわれる]《オーバー・ゼアの歌》といった外国の曲が例に示す。わが国においても砲煙弾雨の実戦上では軍楽が効果を発揮したという。例に挙げられているのは、《元寇の歌》《軍艦マーチ》《敵は幾万》に加え、広東進軍の歌[タイトル不明]。それぞれ日清戦争、日露戦争、上海事変、日中戦争で効果を挙げた曲として紹介されている。最後の例は再び外国に転じて、ドイツがオスロを占領したとき、ドイツ軍が武器を使わずに軍歌や歌を歌いながら市中を行進し、気付くとオスロの要所はドイツ軍によって血を流さずに占領されていたという(上田自身、うそかほんとか調べていない、と述べている)。/軍楽に絞ってもこれだけ効果を上げているのだから、一般の音楽においては、単に芸術や娯楽に止まらず、一億同胞の魂を揺り動かし、前線と銃後、国内と海外、相呼応して皇国日本の光栄を宇内に発揮するような立派な音楽が生まれ出るように切望すると結んでいる。
メモ:上田俊次は、情報局第五部第三課長で海軍中佐。
【2001年4月22日】
第十回音楽コンクール入賞者(『音楽之友』 第1巻第1号 1941年12月 p.68
内容:
<声楽>第2位: 大谷冽子、第3位: 崔奉鎭、金炯魯 <絃楽>第1位: 松生陽子、第2位: 常松俊 <ピアノ>第1位: 加藤るり子、第2位: 山田操、第3位: 日原加珠子 <作曲第一部>第1位: 渡邊浦人、高田信一 <作曲第ニ部>第2位: 菊地惟朔、 次席: 高田壽江
【2001年4月23日】
◇職場の合唱運動偶感/清水脩(『音楽之友』 第1巻第1号 1941年12月 p.69-72
内容:近年、音楽に限らず厚生運動が盛んに唱導されるようになった。厚生運動としてもっとも力を入れて働きかけるべきは、産業人に対してであり、余暇の善用とか精神の訓練と称して種々の方策が立てられ、多大の効果を上げているときく。本稿で清水は、その音楽部門、特に合唱運動について触れているが、厚生音楽としての合唱がどのような観点で所期の目的に接しているか否かという基本的な問題は一切省略し(編集者の希望だという)、指導者がもつべき心構えについて述べる、としている。/これまで、多少とも音楽がわかり、読書力もあり、時には高価な演奏会にも出入りする音楽好きをアマチュアと言っていたが、こうした人たちが合唱団を組織すると、たいてい自分の実力を顧みずに高いところばかりを狙い、少し上手になってくると自惚れの気持ちが起こり、経験のない新しい団員をあまり歓迎しなくなる。職場の合唱団とか勤労者の合唱運動は、これまでのようなディレッタント根性から抜け出てほしい。気の合った連中で合唱を楽しむことも意義深いが、厚生音楽は決してこのような個人の楽しみに終始してはならない。/たとえば学歴のない一人の職工が歌いたいという純真な気持ちで合唱団入りを希望したならば、合唱団は両手を広げてこれを迎え、同志を育てていく。そのことにこそ指導者としての貴い努力が賞賛されてよい。どんな工場でも、いわゆる職工や女工の大半は小学校の最低教育を受けた者であろう。さきほど触れたようなアマチュア合唱団では原語の歌を得々としてやるだろうが、そうすると学歴のない職工や女工は手の出しようもない。厚生音楽としての合唱団の成員は、この人たちを中心にして構成されるべきであろう。いわゆるインテリと称される人たちの誤った自尊心は未だにとりきれていないので、高等教育を受けた人々の覚醒を促したい。清水によれば、誠実にたゆまぬ努力を積めば、楽譜が読めなくても、また声の出し方をしらなくても立派に合唱がやっていけると信じている、という。/以下は、清水が指導している、ある職場の約60名からなる合唱団についてとりあげ、大学出はゼロ、専門学校出が3名、あとは中等程度と小学校程度が相半ばであること、歌が歌えたり合唱の経験があったものは6〜7名しかいなかったこと、しかし音楽家の数人からインテリの集まりで以前から歌をやっていたのだろうという評価を受けたことを報告している。/最後に、職場の合唱団がとりあげていい合唱曲がはなはだ少なく、自由に選んで歌えるだけのものが欲しいこと、同時にそれらの楽譜を廉価に頒布する方法を講じてもらいたいことを訴えている。
【2001年4月24日】
◇關屋敏子女史急逝(『音楽之友』 第1巻第1号 1941年12月 p.72
内容:声楽家・関屋敏子は23日午前3時30分、心臓麻痺のため死去。享年38[ママ]。/以下、関屋の経歴が紹介されている。明治37(1904)年東京に生まれ、お茶の水高女、上野音楽学校卒業後、大正12(1923)年イタリアに渡り修業。フローレンス市から芸術章を、ボローニャ音楽大学からは特別ディプロマを授与され、昭和6(1931)年にはアメリカのハリウドホール[ママ]で日本人初の出演を、昭和8(1933)年にはイタリア各地で日本人最初の5大歌劇出演を果たす。さいきんは《巴御前》《細川忠興の妻》などの作曲で少し過労気味だった。
メモ:@本文には、死亡日が単に「23日」と書いてあるが、資料によれば1941年11月23日のことである。A死亡原因は「心臓麻痺」とあるが、自殺のはずなので、死亡原因として適切な報道かどうかわからない。B享年38とあるが、関屋は明治37(1904)年3月誕生なので、数え年でカウントしているものと思われる。
【2001年4月27日】
◇吹奏楽競演会所見/伊藤隆一(『音楽之友』 第1巻第1号 1941年12月 p.73-76
内容:1941年10月26日午前9時から行なわれた全関東吹奏楽団聯盟主催「第6回吹奏楽競演会」(於・日比谷公園大音楽堂)についての所見。この競演会[=コンクール]は、吹奏楽と喇叭鼓楽の2部門があり、それぞれが学校部と一般部に分かれている。/参加団体を記す。吹奏楽学校部として次の12楽団。: 東京府立第一商業學校、大井國民學校、淺草女子商業學校、昭和第一商業學校、國學院大學、東京府立化學工業學校、第二日野國民學校、第四峽田國民學校、大宮工業学校、逗子開成中學校、浦和商業學校、東京府立第二商業學校。同一般部として次の4楽団: 日本管樂器株式會社、東京芝浦マツダ、簡易保險局、東京電気株式會社。次いで喇叭鼓楽が記され、学校部とは明記していないが次の3楽団: 川越商業學校、巣鴨學園、専修商業學校。喇叭鼓楽一般部として八王子年團の1楽団。/参加団体が逐年増加の傾向をたどっているのは喜ばしいが、学校部が多いのに対し一般部が物足りず、しかも新興青少年団では八王子年團のみであったこと、また吹奏楽に対し喇叭鼓楽が少なかったことなどは、東京市年團喇叭鼓楽の衰退のことも考えられ遺憾だった。しかし前年までは当日になって無断棄権した申込団体もあったが、今年は全団参加し、いずれの楽団も士気旺盛であったことは意を強くした。/課題曲は、吹奏楽部が帝国軍楽隊曲《行進曲 大政翼賛》、喇叭鼓楽部が伊藤隆一の《行進曲 若人》で、このほか随意曲1曲を各々ステージで演奏し、午後は音楽堂前の道路で行進が行なわれた。審査は、課題曲、随意曲、演奏行進の3項目について行なわれた。審査員は、委員長に井上清、委員に大沼哲、和田小太郎、春日嘉藤治、河合太郎、田村明一、辻順治、内藤清五、山田榮、小松耕輔、近藤信一、江木理一、佐藤謙三、佐藤清吉、岸本勇之進、伊藤隆一であった。審査結果については、吹奏楽学校部は東京府立化學工業學校、同一般部は日本管樂器株式會社、喇叭鼓楽学校部は川越商業學校がそれぞれ優勝した。/その後、伊藤は出演団体について個別的に論評を加えているが、テンポが遅い(逆に速すぎる)、音調が合わない、課題曲の調子を勝手に下げた、編成に無い楽器を加えて演奏した、印刷されたパート譜の誤りをスコアから見出せなかった、行進の歩調に活気が無かった、服装が不統一だった、といった点がマイナス要素となるらしい。
メモ:伊藤隆一は、陸軍楽長・全関東吹奏楽団聯盟常任理事。
【2001年4月30日】
◇国民歌を環って/吉本明光(『音楽之友』 第1巻第1号 1941年12月 p.77-81
内容: 国民歌の定義は、情報局でレコードの検閲をしている小川近五郎によれば「公的流行歌」である。/日中戦争[本文では支那事変]以後さいしょの国民歌は、情報局の前身、内閣情報部撰定の《愛国行進曲》だった。1937(昭和12)年晩夏、上海陥落がいつになるか注目されている頃、内閣情報部嘱託の京極高鋭子爵が吉本を訪ね、《愛国行進曲》公募の計画を話した。実は、《愛国行進曲》は[吉本明光の]亡父吉本光蔵作曲の「君が代行進曲」の原名である。1937(昭和12)年暮、故・瀬戸口藤吉が保管していた吉本光蔵直筆の「君が代行進曲」の原譜を、瀬戸口から吉本明光が受け取ったが、そこには吉本光蔵が《愛国行進曲》と誌している。《愛国行進曲》という曲名には、こうした因縁話がからまっている。吉本明光が京極から《愛国行進曲》公募についての話を聞いてから1時間と経たぬうちに、『音楽世界』の主宰者・鹽入龜輔(当時、文部省嘱託)の来訪を受け、文部省で国民歌数曲を撰定するというニュースを聞いた。《愛国行進曲》の公募は順調に進行したが、一等当選作の歌詞を見るととても難しいので、その普及方法については心配した。《愛国行進曲》の発表は1937(昭和12)年12月26日夜、日比谷公会堂で行なわれ、全国に中継放送された(実は、その前日藤山一郎が[JO]CK名古屋中央放送局から放送した)。その後1週間、1938(昭和13)年を迎えたときには、この曲は全国津々浦々で一斉に唱和された。これだけ短時間に普及した理由は、この曲の推進者京極高鋭子爵の熱意と実践力、内閣情報局[ママ。内閣情報部が正しいのだろう ― 小関]撰定という金看板、日本の行進曲王・瀬戸口藤吉の最後の力作といった要因に加え、なによりも時代の圧力があった。そのレコードは、コロムビア、ビクター、キング、テイチク、ポリドール、タイヘイの6社から出され100万を突破したが、それまで自粛自戒して蓄音機をしまいこんでいた国民がそれを引っ張り出してレコードを聞き、《愛国行進曲》以外の曲もかけようとして、歌謡曲レコードが売れ出した。当時、蓄音機製造協会は瀬戸口に感謝状を贈ったほどだ。/1939(昭和14)年1月、第二の国民歌《愛馬行進曲》が、レコード6社より発売された。この歌が普及したのは、陸軍省馬政課課長栗林大佐(現在少将)と課員白川少佐、そして陸軍省嘱託の京極高鋭子爵の熱意と実践力による。/《さうだその意氣》は陸軍省防諜課から防諜思想の普及を計る意味から読売新聞社に作製を依頼された歌である。だが歌詞にはスパイのスの字も歌い込んでいない。この歌の企画者・推進者は防衛総司令部参謀大佐大坪義勢中佐(企画当時は陸軍省防衛課員)である。この曲は、総理大臣賞をはじめ各大臣賞、日本放送協会賞13点授与という空前の栄誉を担い(ただし応募歌に一等当選作がなかったので全部辞退した)、外務、内務、大蔵、陸軍、海軍、司法、農林、商工、逓信、鉄道、拓務、厚生各省の撰定歌となった。《さうだその意氣》」の発表会は1941(昭和16)年5月14日、後楽園で行なわれ、コロムビアからレコードが出たのが5月25日、8月下旬には全国的に普及した。大坪中佐は、1941年6月22日には上野動物園で東京市が招待した隣組2000組に歌唱指導したし、さいきんでは東京産業報国会主催の厚生慰安音楽巡回指導会で《曉に祈る》《我は再び銃執らん》を歌った。これは国民歌推進者として知られ、リサイタルまで行なった声楽家・京極高鋭子爵にも優る推進者である。《さうだその意氣》の推進者の一人に警視庁の中野完がいる。中野は東京産報を推進し[1941年]8月以来、この歌の普及を実施し、同年11月以降は警視庁管下約100の警察署を単位とする産報支部において産業厚生慰安音楽巡回指導を連夜行ない、国民皆唱運動に協力している。指導している国民歌は《さうだその意氣》のほか、大日本青少年団撰定《世紀の若人》、防衛総司令部撰定大毎東日選《空襲何ぞ恐るべき》《なんだ空襲》、大日本産報制定《産業戦士の歌》《産報青年隊の歌》、大政翼賛会撰定《大政翼賛の歌》などである。
【2001年5月2日】
◇合唱競演会(『音楽之友』 第1巻第1号 1941年12月 p.81
内容:国民音楽協会の第15回合唱競技会(後援:文部省、情報局、東京市、日本文化中央聯盟)は23日正午から日比谷公会堂で開かれた。参加団体は25で、男声合唱は《詞林の賦》、女声合唱は《蝉の聲》、混声合唱は《緋絨》が課題曲で、このほかに随意曲で審査した。文部大臣賞牌は東京リーダー・ターフェル・フェラインが受賞した。
メモ:コンクールの名称が、タイトルでは「合唱競会」、本文では「合唱競会」と記されている。どちらが正しいのか、不明。/本文には開催日時が「23日」としかない。関屋敏子の死亡記事(本号p.72)も同様だったので、1941年11月23日と推測する。/課題曲の作曲者は不明。
【2001年5月6日】
◇国際音楽情報 No.1松本太郎(『音楽之友』 第1巻第1号 1941年12月 p.98-101
内容:米国: 年々夏の音楽祭が盛んになっているが、同時に晩春から夏にかけては諸種の音楽会議のシーズンでもある。主要なものを紹介する。(1)音楽倶楽部全国聯盟の音楽会議。この連盟(National Federation of Music Club)は会員数約50万人を有する愛好家の同盟で、会長のオーバー夫人によると「音楽を通しての忠誠(Loyalty through music)」をスローガンとし、米国人ならびに米国住民全体を音楽によって結び付け、米国に捧げる[ママ]音楽の進歩を助長することを目的とする。1年隔に開かれる大会が、1941年6月18日から10日に亙ってロサンゼルスで開かれ(第22回大会)、部門ごとに講演、報告、討議、演奏が行なわれたほか、演奏、作曲、映画音楽のコンクールも実施された。また歌劇部ではオペラの稽古が如何に行なわれるかを見せて大きな興味を引いたし、ロサンゼルス美術館を会場に米国人作曲楽譜展覧会が行なわれたり、ブラジルの現代曲や南米の民謡が演奏されたりもした。(2)音楽図書館員会議。 1941年7月、ボストンのハーヴァード大学で音楽図書館協会の会議が開かれた。「図書館における音楽」という題目の下に次の3つの講演が行なわれた(司会:ヴァッサー大学総長)。イリノイ大学図書館員の「司書」、ミネアポリス・パブリック・ライブラリー館員の「専門音楽ライブラリアン」、ハーヴァード大学音楽科のグルート博士の「音楽図書館と音楽学」。ほかにも特殊講演や研究発表が行なわれた。(3)米国オルガニスト会議。1941年6月23日から5日間、米国オルガニスト・ギルドの第19回隔年会議が開かれた。ギルド会長であるチャニング・ルフェブル博士(ニューヨーク・トリニティ教会)の司会の下に種々の部門の会議がもたれると同時に、オルガン音楽祭も開かれた。最後に会員はホワイトハウスのレセプションに招待された。//楽人消息 ダリユス・ミロー[=ダリウス・ミヨー]は米国のピアノ・デュエット奏者、ヴロンスキーとバビンのためにピアノ2台とオーケストラのための協奏曲を書いている。近く初演されるらしい。プロコフィエフがさいきん第5ピアノ・ソナタを書き上げて米国に送った。この冬、ホロヴィッツによって初演される予定。ロンドン国民画廊にデーリー・コンサートを創設したマイラ・ヘスはダーム・コンマンダー・オヴ・オーダーに叙せられた。フーバーマン、ホロヴィッツは目下、米国帰化の手続きを取っている音楽家の中に数えられる。リヒャルト・シュトラウスは、さいきんオペラを完成し、さらに別のオペラのピアノ・スケッチを完成したと知人に報じた。オランダ作曲界の長老、ヨワン・ワゲナールが1941年7月、79歳で亡くなった。ユトレヒト、ハーグ音楽院校長として多くの近代的作曲家を門下から輩出した。
【2001年5月10日】
◇音楽会記録/唐端勝編(『音楽之友』 第1巻第1号 1941年12月 p.102-104
内容:こちら をご覧ください
【2001年5月14日】

◇編集室/堀内敬三(『音楽之友』 第1巻第1号 1941年12月 p.116
内容:本誌は音楽全般にわたる記事を掲載して音楽関係者と音楽鑑賞者に必要な知識を提供し、解説紹介を行ない、国民音楽文化の普遍と進展に役立てようとするものである。ニュース報道は『音楽文化新聞』(近く社団法人日本音楽文化協会機関誌として発刊)が担当する。/旧『月刊楽譜』は記録を載せることを特色としてきた。記録はニュースとしての興味は失われているが、資料としては[楽壇の足跡を]正確に残しておかなくてはならない。/未来への方向を指す記事はできるかぎり精選して載せるつもりである。正しい音楽文化の建設に協力することは、新生の音楽雑誌に課せられた重責である。/本誌の編集は旧『音楽倶楽部』編集長だった澤田勇を主任に、旧『月刊楽譜』の唐端勝、旧『音楽世界』の黒崎義英、旧『音楽商報』の加藤省吾を担当として行なわれる。
【2001年5月12日】



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