『音楽公論』記事に関するノート

第2巻第11号(1942.11)


国民音楽の創造乗杉嘉寿『音楽公論』 第2巻第11号 1942年11月 p.18-21)
内容:この度の聖戦の特異性は、当面の敵である米英を倒すことと、大東亜の平和と建設を招来することにある。在来の邦楽は貴重で豊富な資料を有するけれども、今のままでは単なる古典音楽だ。洋楽は、そのままでは国民の全生活を指導するにはあまりに特殊なものであr。学校音楽も実際には、国民の日常生活を指導淘汰するには至っていない。/他の諸文化に比して遅れている音楽の部門では、周到な計画とこれに必要な機構と活発な運営に対する国策を樹立し、具現することが急務である。次に、国民音楽文化の進展のためには、ぜひとも研究機関の設立が必要である。次に、音楽学校の多くは外国の音楽学校と大差ないが、目標は日本音楽創造樹立にあるので、音楽の専門教育は実質的改善が必要である。ドイツの音楽教育でさえ、ベルリンに国立音楽学校をおき、ドイツ民族の品位教養を高め、民族的原動力として有力な働きをしているのは、ここ130から140年ほどのことである。
【2000年5月11日記】
音楽文化協会当面の仕事/中山晋平(『音楽公論』 第2巻第11号 1942年11月 p.22-25)
内容:日本音楽文化協会初年度の支出は、情報局の補助と篤志家の寄付によってまかなった。本年度は経常費を放送協会、音楽運動協賛会、レコード会社その他個人の寄付と会員の入会費・会費によって事業費を情報局の補助によって賄う方針である。所期の目的達成のためには財政は不足であり、来年度にはこの点で飛躍的な改善成長がなされなければならないだろう。/第1回通常総会の結果、役員の顔ぶれも充実した。また、定款の一部が改正され、これまで公式的に各部に同数の理事を割り振るやり方から適材適所主義に改めた。さらに、とかく避難のあった事務所の再確立にも努力している。/包括的な事業として考えているのは次のとおりである。@「音楽報国巡回大演奏会」。本年度を第1回として朝日新聞社と共同主催。東北、東海道、北陸、近畿を選び遂行しようとするものである。まず、1942年10月19日〜23日のあいだに東北地方を巡回する(19日=日立、20日=仙台、21日=盛岡、22日=青森、23日=秋田)。演奏曲目は渡邊浦人「野人」、池内友次郎と露木次男の歌曲、ベートーヴェン「交響曲第5番」、ロッシーニ「ウィリアム・テル」序曲、職業協会選定「楽しい奉仕」を歌唱指導として付け加える予定である。出演者は山田耕作[ママ]、山本直忠の指揮、伊藤武雄の独唱および歌唱指導、東京交響楽団、これに日本音楽文化協会常務理事・野村光一の挨拶、同評論部・桂近乎の解説を組合わせる。東海道その他の地方への巡回は来春に入ってから挙行の予定である。A1942年12月7日の「歌曲と合唱曲の発表会」(於・産業組合中央会館)。これは12月8日の大東亜戦争勃発一周年記念事業として予定されている。B厚生音楽大会。東京市および朝日新聞社と提携し、東京市中数十箇所の公園で行い、その後「音楽総力演奏大行進」を行う予定。C大東亜共栄唱歌集「ウタノヱホン」の発表会(日本少国民文化協会および朝日新聞社共同事業)。D「産業戦士国民士気昂揚大音楽会」(於・日比谷公会堂 来春予定)。厚生音楽団体を起用し、これに一流の独奏者・独唱者を配する。E「音楽教育者時局認識徹底講演会」(国民学校30箇所を用いて行う予定)。F「日独伊戦歿勇士慰霊祭」(グレゴリアン音楽協会と提携)。G厚生音楽指導者の指導大会(産業報国会その他と提携)。/音楽文化の根本的育成のため、協会各部委員会が行なう予定の事業は次のとおり。H室内楽演奏会(作曲部)。来春早々の予定。I新譜紹介音楽会(毎月、評論部)、J市民厚生音楽会(評論部)K「シューベルト研究」(評論部。音楽文化講座として1942年11月25日、27日、30日、12月2日、4日、7日に。東京日日新聞社と共同開催)、Lベートーヴェン全交響曲講演つき演奏会(評論部。東京日日新聞社との共同開催で、松竹交響楽団が出演する)、M「音楽研究」第二号の編集発行。(評論部が大倉音楽文化研究所と共同事業で発行する音楽研究誌)、N優秀演奏家推薦音楽会(演奏部。東京日日新聞社と共同開催)、O教育関係ならびに厚生音楽関係事業(教育部、国民部それぞれで立案中)。/専門委員会の仕事。P「音楽圖書出版企画審査会」。この委員は日本出版文化協会の嘱託となり、楽譜・音楽書の出版に関して統制を行なうこととなる。Qレコード専門委員会。本年度新委員が南方向けレコードの選定その他に活動中。R国際音楽専門委員会。大東亜共栄圏の音楽文化工作を目指して仕事をすることになっている。S映画音楽専門委員会。設置が考えられており、映画協会との懇談会も1回行なわれている。ほかに、楽器の全面的禁止に対処して適正な対策を樹立すべく、専門家を動員して活動中である。
【2000年5月13日記】
音楽紀行・4 ― 伯林の大指揮者の横顔 −「クライバー」と「ブライザッハ」/京極高純(『音楽公論』 第2巻第11号 1942年11月 p.26-31)
内容:1931年に2度ベルリンを訪問した。ベルリンの現役の大指揮者で日本で有名な人たちは、みな歌劇場の専属指揮者である。1931年当時のベルリンには、ウンター・デン・リンデンの大国立歌劇場、プラッツ・デル・レプブリークにある、俗に「クロル・オーパー」と称せられた国立歌劇場(京極のベルリン滞在中に経済的理由から閉鎖となった)があり、2つの国立歌劇場はエーリッヒ・クライバー、レオ・ブレッヒ、オットー・クレンペラーが交流して指揮にあたり、音楽総監督としてリヒャルト・レールト、アレクサンダー・ツェムリンスキーの名が挙げられる。このほかにシャルロッテンブルクに市立歌劇場があり、指揮者にフルトヴェングラー、レオ・ブレッヒ、ローベルト・デンツァー、パウル・ブライザッハ、音楽総監督にスティードリイ博士の名がある。/オーケストラの方は、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者がフルトヴェングラー、ユリウス、ウリーフェル、フランツ・ファイト。ベルリン・ジンフォニー管弦楽団の指揮者がE.クンワルト、H.ティーアフェルダー。国立歌劇場管弦楽団はエーリッヒ・クライバー。ベルリン・ラヂオ管弦楽団はブルノー・ザイドラーウィンクラー。/パウル・ブライザッハ: 練習のあとのブライザッハを市立歌劇場に訪ねた。ブライザッハは長くリヒャルト・シュトラウスの助手として働いた人である。京極はトーンフィルム(トーキー)についての意見を求めたところ、現在のものは非常に幼稚で貧弱であるが、将来トーンフィルムが完成した時には歌劇指揮者もこれと喜んで提携すべきものと思う、と答えている。また、クロル・オペラの閉鎖はベルリン楽界のために惜しむべきことで、その音楽総監督として尽力したオットー・クレンペラーの功績は偉大だと称えた。/エーリッヒ・クライバー:1931年3月26日、国立歌劇場で京極はクライバーと会った。ベルリンで京極が見たクライバー指揮の演目は「フィデリオ」、マックス・フォン・シリングの「プファイエルタッハ」、「さまよえるオランダ人」など。クライバーは近衛秀麿を知っていて、新交響楽団のことついて尋ね、活躍ぶりを話すと喜んでいた。ダリウス・ミヨーの「クリストファー・コロンブス」を上演指揮したときは、コロンブスの二重の人格を表現するためステージの一方では映画を写し、一方では歌手が歌って演技したそうだ。京極がトーキーの進出について尋ねると、トーキーの発達を喜んでいるが、オペラがトーキー映画によって、この世から追放される時代が来るとは思っていないと答えている。
メモ:2巻10号の手紙の日付は昭和5年ではなく昭和6年が正しいこと、同じくマックス・ハーガーはマックス・レーガーの誤植であることなどが追記されている。
【2000年5月15日記】
良き作品への期待<座談会>/園部三郎 清瀬保二 諸井三郎 坂本良隆 増沢健美 白井保男 石坂範一郎 土田貞夫 野村光一 山根銀二(『音楽公論』 第2巻第11号 1942年11月 p.32-48)
内容:日本ビクター第1回管弦楽曲募集の発表会が1942年9月30日にあり、その翌日の10月1日に座談会が行なわれた。座談会の目的は、事変以来、殊に1941年12月8日以来、作曲界に対して各方面から期待が寄せられているが不振である。その原因と打開策を、昨夕の発表作品を中心に検討するというもの。なお、発表会で演奏された佳作入選作品は、@須賀田磯太郎の「交響曲基調ハ」A李健雨の交響詩曲「青年」B市川都市春の交響的組曲「沃土」で、当選作品は無し。/まず、園部が発言。 3人とも基礎的な構図に弱みがあるため、しばしば、挿入的あるいは装飾的な音形に流れを奪われている。また、旋律的な流れや和声的な立体感の追及が徹底していないので、単純で、軽くなってしまう、と口火を切った。これに諸井が同調し、力の緊張する部分がひじょうに少ない。基本的なものが欠けている証拠だ。未熟でもいいから、作者として音楽上の問題をもっていることが大切ではないか、と意見を述べた。続いて清瀬も、夕べの3人だけでなく、何を描こうとするのかをもっと問題にしなければならない時代ではないかと思う、と述べている。山根は、昨晩の作品には、書こうとしているものを把握してない印象を受けた。これは今の日本における作曲界全体の弱みが現れていたと思うと指摘し、問題を日本の作曲界に広げて考えた。野村が続き、日本の作曲家は思いついた主題を発展させて処理することができず、小さいところをぐるぐる回っている。創作欲と技術が伴わないにもかかわらず、大きな構想の楽曲をやっつけようとして、荷が勝ちすぎていると断定している。野村に対し諸井は、それを解決しようとすると完全に出直さなければいけないのではないか、と問いかける。園部からは、特にきのう聴いた作品で言えば、何を如何にということが問題だと思うと発言し、このあと暫く3人の作品に対する合評が続く[合評については略]。坂本から、問題にされた「何を」はどの作曲家も考えている。「如何に」、すなわち音楽の職人の仕事の面がずいぶん疎かにされていると思う。周囲からは「如何に」を具体的に言ってほしい、と注文がついた。これに対し土田は、純粋にテクニックの批評を評論家に求めるのはどういうものか?と疑問を呈し、このやりとりをめぐって、少しのあいだ議論が続く。さいごに石坂から、レコード会社としては外国の曲をプレスしたほうが採算が合うが、日本人の作曲した日本一の管弦楽作品が欲しくて2年をかけて企画をしてきたと説明がなされ、今後も継続していく意志が表明されている。
【2000年5月17日記】
第11回音楽コンクール本選会(『音楽公論』 第2巻第11号 1942年11月 p.48)
内容:第11回音楽コンクール(東京日日新聞社主催)本選会は、1942年11月2日と4日、日比谷公会堂で行なわれる予定である。11月2日出演者: 畑川美津子、南千枝子、望月勝世、石濱和子、増井敬ニ、堀昭子、伊藤裕(以上、ピアノ)。11月4日出演者: 宮下敬司、植野豊子(以上、提琴[=ヴァイオリン])、神須美子、三好百合子、石川幸、宮本鞠子、矢島信子、富田正牧、石塚靖(以上、声楽)。
【2000年5月22日記】
◇上野卒業演奏会(音楽会評)/入井夏夫『音楽公論』 第2巻第11号 1942年11月 p.50-60)
内容:卒業年限の短縮によって、1942年10月23、24、25日の3日間、東京音楽学校の卒業演奏会が開かれた(会場は明記されていない)。 / 10月23日 ピアノ 石田正午ブラームス『4つの小品 op.119』より第4曲「ラプソディ 変ホ長調」。畑京子。ヘンデル『組曲、第3』。田中萬里子。ブラームス『ピアノ・ソナタ第3番 ヘ短調 op.5』。竹内美江子。演奏曲目は記載されていない。及川惠子。ベートーヴェン『ピアノ・ソナタ第26番 「告別」 第2、第3楽章』。牧野泰子。リスト『パガニーニ練習曲、第6』。井口妙子。ショパン『スケルツォ第2番 変ロ短調』。 ヴァイオリン 吉村和子ナルディーニ『協奏曲 ホ短調 第1楽章』。中山和子。コレッリ『ラ・フォリア』。 10月24日 ピアノ 田鍋宗三郎。リスト『波の上を渡るフランシスコ』。堀江ハル。バッハ『イタリア協奏曲』。岩津章子。サンサーンス『ワルツ形式による練習曲』。杉江ハルヱ。サンサーンス『アレグロアパッショナート』。野邊地泰。ベートーヴェン『ピアノ・ソナタ ヘ短調 第1楽章』 [第何番か不明]。澤井淳子。ショパン『ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 第1楽章』。 ヴァイオリン 津野文子モーツァルト『ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 第1楽章』[第何番か記載無し]。佐々木アヤノ。タルティーニ『ヴァイオリン協奏曲 イ冠調[ママ] 第1楽章』。 10月25日 ピアノ 林慶子。ショパン『ポロネーズ 変イ長調』。井上澄子。リスト『フュネライユ』。内田映子。リスト『練習曲 ハ長調、ヘ短調』。平塚芳枝。ベートーヴェン『ピアノ・ソナタ第31番 op.110 第1楽章』。津島菜々枝。ブラームス『スケルツォ 変短調[ママ]』。古賀千恵子。リスト『ハンガリー狂詩曲、第8』。吉田民子。リスト『演奏会用練習曲変イ長調』。安永美喜子。ショパン『練習曲 ハ短調、ヘ短調、ヘ長調』。長谷川久子。リスト『タランテラ』。 ヴァイオリン 河野俊達ヴェラチーニ『ヴァイオリン・ソナタ ホ短調 第1、2、3楽章』。杉原淑子。ナッセー『パッサカリア』。伊達良。ヴィターリ『シャコンヌ』。 声楽 中目徹。小松耕輔『砂丘の上に』、トスティ『夢』、ジョルダーノ『アンドレア・シェニエ』より。益子萬里子。山田耕筰『つばめ』、ワグナーの夢およびエルザの夢。麻生貞幸。瀧廉太郎『荒月の月』、グリンカ『皇帝に捧げし命』よりアリア、ヘンデル『ラルゴ』。笹田和子。カタラーニ『ラ・ヴァリ』より。山田耕筰『兵士の妻の祈り』。 演奏日不明 コントラバス 糟谷敬。バッハ『シシリアーノ』。 ホルン 小島英二。 ゴルテルコン『ロマンス』。 フルート 森正。モーツァルト『フルート協奏曲第2番 第1楽章』。 声楽 前田幸市郎。小松耕輔『芭蕉』、ルッツィ『アベ・マリア』、ヘンデル『ラルゴ』。内田留里子。平井保ニ『大き聖』、バッハ『マタイ受難曲』より、フランツ『秋に』。加藤晶子。細川碧『カスタニエの[ママ]』、サンサーンス『サムソンとデリラ』より、ヴェルディ『トロバトーレ』より。行方千鶴子。平井保ニ『秘唱』、[プッチーニ]『トスカ』より、マスカーニ『カヴァレリア・ルスティカーナ』より。岩崎常治郎。信時潔『沙羅』、[モーツァルト]『魔笛』より、R.シュトラウス『朝』『献呈』。外間マサ子。平井保ニ『しぐれに寄する抒情』、ヴェルディ『ナブッコ』より、ロッシーニ『スタバト・マーテル』より。石井好子。R.シュトラウス『帰郷』『愛を捧って』、山田耕筰『唄』。
【2000年5月25日記】
加古三枝子独唱会(音楽会評)/牛山充(『音楽公論』 第2巻第11号 1942年11月 p.60)
内容:日時、会場、伴奏者、演奏曲目については一切記述がない。/楽曲の未消化を感じさせないリサイタルだったとして、発声、表情を良しとしながらも、もっとスケールを大きくするよう注文をつけている。
【2000年5月27日記】
大村多喜子提琴独奏会(音楽会評)/山岸光郎(『音楽公論』 第2巻第11号 1942年11月 p.61-62)
内容:1942年10月10日、明治生命講堂で。ピアノ伴奏はレオ・シロタ。演奏曲目については具体的な記述がない。/大村がアメリカから帰国してから初めての公式な演奏会だろう。/全プログラムの随所に悪い意味の粗さが発見できて、ソリストとしての資格に物足りなさを感じさせる。大村は、アメリカでは特に室内楽の研究に努めたそうだが、この日は伴奏のシロタとのあいだにすらアンサンブルの雰囲気を醸し出しえなかった、と指摘している。
【2000年5月27日記】
武蔵野のレクイエム(音楽会評)/稲垣哲『音楽公論』 第2巻第11号 1942年11月 p.62-63)
内容:1942年9月25日、日比谷公会堂で、武蔵野音楽学校のモーツァルトの「レクイエム」演奏会。指揮:薗田誠一、合唱と管弦楽:武蔵野音楽学校、ソリスト:李順熙(アルト)以外は記述なし。/1942年9月22日〜24日まで3日連続で、同じ日比谷公会堂で日本交響楽団がローゼンシュトックの指揮でモーツァルトの「レクイエム」が演奏されたばかり。武蔵野の指揮者薗田は、日本交響楽団の「レクイエム」演奏会でテノール・ソロを受け持ったと書いてある。/武蔵野の「レクイエム」はコーラスが圧巻であった。日本交響楽団が起用した成城合唱団がアマチュアであったため、音色、音量などの点で武蔵野に遠く及ばず、緻密な洗練された感じも武蔵野が一段上であった。ローゼンシュトックは合唱を器楽的に動かしたが、薗田は対照的だった。音色の変化は前者が富んでいたが、後者はおおらかに歌わせた。宗教的な感じについては判断に迷うが、迫力からいえば後者。/ソロはひどく、アンサンブルは話にならない。管弦楽は論外。
【2000年5月27日記】
◇ラヂオ短評/露木次男『音楽公論』 第2巻第11号 1942年11月 p.64-65)
内容:1942年9月2日。ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第3番』。ピアノ:藤田晴子、管弦楽:日本交響楽団、指揮:尾高尚忠。/9月7日。俚謡組曲、上原敏ほか。都会では俚謡が好まれているようだが、地方では自分たちの俚謡に対する冒涜と受け取られていることを、露木は指摘している。/9月11日。ヴァイオリン独奏巌本メリーエステルでチゴイネルワイゼンほか。ほかに何を弾いたか、伴奏者は誰かについてはわからない。/9月12日。平岡養一の木琴独奏でモーツァルトのセレナーデやチゴイネルワイゼンなど。/9月16日。高木東六作曲『満洲組曲』。演奏者は明記されていない。/9月23日。北支派遣軍第352部隊軍医中尉の森本氏が作曲したピアノ曲が送られてきて、放送された。/9月24日。[ベートーヴェン]『ピアノ・ソナタ第14番 「月光」』。ピアノ:豊増昇。/9月30日。宮城道雄『蘭花の調べ』。橋本國彦『天女と漁夫』。いずれも演奏者は記載されていない。/10月7日。ドビュッシー『前奏曲集』『子供の領分』。ピアノ:草間加寿子。
【2000年5月30日記】
ローエングリン異聞(『音楽公論』 第2巻第11号 1942年11月 p.65)
内容:1942年11月に歌舞伎座で上演予定の藤原歌劇団による『ローエングリン』は、歌劇団側でも苦心しているが、なかでも楽譜を揃えるために園部三郎、大田黒元雄、有馬大五郎、堀内敬三ら の評論家たちがすすんで提供し、やっと間に合ったという。/エルザ役で出演する笹田和子は、1942年9月に東京音楽学校を卒業したばかりだが、浅草オペラ華やかな頃の安藤文子に瓜二つという評判を取っている。
【2000年5月31日記】
◇満洲建国十周年慶祝音楽使節団報告記(承前)/新井潔(『音楽公論』 第2巻第11号 1942年11月 p.66-74)
内容:8月18日。[前夜,夜行で新京から移動し]朝7:00ころハルビンに到着。朝食後、バスで忠霊塔、志士之碑へ礼拝し、孔子廟、ロシア人墓地、市内を見学。午後、ブラスは軍慰問にでかける。18:00から松河江畔のヨット倶楽部で市長招待の晩餐会に出席し、コサック合唱団のロシア民謡を聴いた。指揮のメノトフはコサック大佐とのことで、アマチュアのこの合唱団は哈響[ハルビン交響楽団]専属だという。会の最後には『愛国行進曲』が演奏された。8月19日。朝9:00ころ、紹介状をもって哈響事務局に熊谷貫一氏を訪ねる。各国の人間が混じっているオーケストラで、政府補助がなくては運営ができず、月2回の定期演奏、会員のほとんどは白系ロシア人で、ロシアものの多いプログラムとなるという。ハルビンの楽界は哈響によって動いているという。馬場氏一家招待の、ヤマトホテル午餐会に急ぐ。|| 夜の部 演奏会(一般公開 於・厚生会館) 慶祝儀礼。 | 交響曲ニ調 | ウェーバー「ピアノ協奏曲」(ピアノ独奏: 馬煕順) | 交聲曲「海道東西」 (全曲の指揮:橋本國彦)|| 8月20日。11:00からの哈響の練習を聴きに行く。予想より上手だった。 14:00から演奏会昼の部(軍慰問、学生、一般  於・厚生会館) 慶祝儀礼(指揮:金子登) | ハイドン「弦楽四重奏曲ハ長調」(第1vn: 渡邊暁雄  第2vn: 伊達良 va:  河野俊雄 vc:  小澤弘)| ア・カペラコーラス5曲(指揮:藤井典明) | 独唱(山内、千葉) |交響曲ニ調(指揮:金子登)|| 夜の部演奏会(厚生会館裏庭の野外音楽堂)慶祝儀礼 | 交聲曲「海道東西」| ベートーヴェン「交響曲第5番ハ短調」 | ウェーバー「ピアノ協奏曲」(ピアノ独奏: 馬煕順)(全曲の指揮:橋本國彦)|| 22:00、夜行で奉天に向けて発つ。 8月21日。朝9:00すぎ奉天に着き、宿舎に行くと朝食が用意されていない。演奏会夜の部(一般公開 於・大陸劇場) 慶祝儀礼 |交響曲ニ調 | ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第5番」より第1楽章(ピアノ独奏: 尹g善) | 交聲曲「海道東西」 (全曲の指揮:橋本國彦)|| 8月22日。列車輸送の関係で昼・夜の演奏会の時間が変更となる。 9:30 演奏会昼の部(軍慰問、女学生  於・大陸劇場) 慶祝演奏(指揮: 鈴木正三) | ア・カペラコーラス5曲(指揮:藤井典明) | ヴァイオリン独奏(スペイン舞曲ほか1曲)(vn:光崎吉三、pf伴奏: 田村宏) | 独奏トロンボーンと小管弦楽「祝宴」(trb: 白英俊、作曲及び指揮: 中田一丸) | 交聲曲「海道東西」(金子登指揮)|| 15:00 演奏会夜の部(一般公開 於・大陸劇場) 慶祝演奏ベートーヴェン「交響曲第5番ハ短調」 | モーツァルト「ヴァイオリン協奏曲第4番」より第1楽章(ヴァイオリン独奏: 新井敏雄、指揮: 渡邊暁雄) | 交聲曲「海道東西」 (すべての指揮は、橋本國彦)|| 20:40、奉天発。平壌に向かう。 8月23日。15:00ころ平壌に到着。演奏会夜の部(於・公会堂) 国民儀礼 | 「交響曲ニ調」より第3楽章と第2楽章 | 独唱=「母の歌」「田植歌」(山内秀子) | 交聲曲「海道東西」 (全曲の指揮:橋本國彦) || 8月24日。朝4:30起床、朝食後6:30に平壌を出発。14:00すぎ京城に到着。演奏会夜の部(一般公開 於・府民館) 国民儀礼 | 「交響曲ニ調」より第3楽章と第2楽章 | ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第5番」より第1楽章(ピアノ独奏:尹g善交聲曲「海道東西」 (全曲の指揮:橋本國彦) | 肉体的な疲労がたまっているという。 8月25日。10:00から「海道東西」のソロを歌う生徒たちは、金子登の指導で府民館で練習。12:00から早致昊招待の朝鮮ホテル午餐会があった。14:00から演奏会昼の部(女学生 於・府民館) 国民儀礼(指揮:山本力) | ア・カペラ5曲(指揮:藤井典明) | 独唱=「ラ・ボエーム」ほか3曲(独唱:山内秀子、ピアノ伴奏:伊達純) | ベートーヴェン「交響曲第5番ハ短調」より第1楽章(指揮:渡邊暁雄) | 「海道東西」(ソロ:生徒たち、指揮:金子登)|| 19:00から演奏会夜の部(一般公開 於・府民館) 国民儀礼(指揮:橋本國彦)ベートーヴェン「交響曲第5番ハ短調」(指揮:橋本國彦) | モーツァルト「ヴァイオリン協奏曲第4番」より第1楽章(ヴァイオリン独奏: 新井敏雄、指揮: 橋本國彦)独奏トロンボーンと小管弦楽「祝宴」(trb: 白英俊、作曲及び指揮: 中田一丸)交聲曲「海道東西」 (指揮:橋本國彦)|| 帰りに作曲家の任東赫に会った。8月26日。9:30からバスで市内見学。李王職雅楽部に向かい朝鮮雅楽を聴く。帰り、クラス一同で級友の一色を見舞う。そして帰路についた。
メモ:第2巻第10号の続編(前号分はこちら)。
【2000年6月5日記】

随想・軽音楽三題/和田肇(『音楽公論』 第2巻第11号 1942年11月 p.82-85)
内容:大東亜レコード会社に和田肇は男性か女性かと尋ねる便りが多いらしく、和田本人が男性だと宣言している。和田は、聴衆のいない放送局で仕事をしているから分かりにくいのだろうと推測して残念がっている。/ある日、鎌倉にある海浜ホテルで疲れを取りながら、ビールを飲みながら2時間ほどピアノを弾いていたら、近くに評論家の野村光一とポリドールの磯村さんの二人がいて、恥ずかしく、また嬉しい気分になった。/軽音楽が軽視されているように感じられる。戦時国民の心を慰め、明日へのエネルギーを養い、しかも大東亜戦を勝ち抜くためには、ベートーヴェン、モーツァルト、シューベルトもたいへん良いけれど、日本人の手になる日本人のための軽音楽が創り出さなければならないと思う。そのためにも音楽学校も専門家も軽音楽の分野をもっと真剣に考え、指導鞭撻を願いたい。そしてレコード会社の新人テストにおいても、自ら日本人のための民衆音楽を作り、演奏し、しかも日本語で堂々と歌いこなせるような音楽学校卒業生が陸続と現れない限り、日本の民衆音楽の将来は、悲観すべきものだと思う。
【2000年6月3日記】
日響定期とフランス音楽の夕(読者評論)/安藤嘉彦(『音楽公論』 第2巻第11号 1942年11月 p.86-87)
内容:1942年9月27日(於・公会堂)。倉田高チェロ演奏曲目: ラヴェル「逝ける王女の為のパヴァーヌ」、同『ハバネラ風による小品』、フォーレ『哀歌』、フォーレ『紡ぎ女』、ドビュッシー『奏鳴曲』。草間加寿子ピアノ演奏曲目:ドビュッシー『子供の領分』、ラヴェル『小奏鳴曲』。倉田のピアノ伴奏者の名前は明記されていない。/日響定期公演(1942年9月24日)。雅楽『越天楽』、『二つのコラール』、『鎮魂曲』。作品の作曲者名は記載されていないが、『鎮魂曲』は本号p.62-63の記事から分かるとおりモーツァルトの『レクイエム』。独唱者で、三宅春惠(ソプラノ)と薗田(テノール)が挙がっているのみで、指揮者、合唱団、その他の独唱者などは記載されていない。
【2000年6月8日記】
邦人作品に就いて/三好遙彦(『音楽公論』 第2巻第11号 1942年11月 p.88-89)
内容:今楽季、日本交響楽団が取り上げる邦人作品を一覧すると、未発表作品は別として一度公開演奏され、大部分の聴衆の期待を裏切った作品が挙がっているのを見て、我慢できかねる。たとえば才能を消費し尽くした山田耕筰の『昭和頌歌』、山田和男の低級な楽曲『若者のうたえる歌』、深井史郎の奇をてらった『もぢり趣味の四楽章』、まだ聴いたことはないが日本「風」旋律に対する趣味的耽溺と千代紙細工的技巧を施したと想像される平尾貴四男の『砧』。/情報局が日本音楽文化協会を支持して邦人作曲を推奨したこと、日響がこれの片棒を担いで定期で演奏することじたいは結構だが、肝心の作品にすぐれたものが生まれないのは残念である。/われわれの求めている邦人作品とは、五音音階や民謡の旋律を弄りまわすことでも、イベールやストラヴィンスキーの技巧研究のみに没頭した結果的エッセイを提示されることでもない。本質的な人間精神の具現化こそのぞましい。
【2000年6月11日記】
◇日本軽音楽団評判記/黒木富士雄『音楽公論』 第2巻第11号 1942年11月 p.90-92)
内容:淡谷のり子と其の楽団 わが国では稀なアルゼンチン・スタイルをとっていて、暗影が感じられ、堅実味のある演奏は一部の音楽愛好家に根強い人気を保っている。しかし楽器だけの演奏となると生硬で精彩に乏しい。代表曲は『待ちましょう』『ドンニヤ・マリキータ』。笠置シズ子と其の楽団 中澤壽士の協力を得て編成されたスウイング・バンドで、ジャズ・シンガー笠置シズ子の名を不動ならしめが、時代はこうしたジャズ・スタイルの楽団の存在を許さなかった。現在はビゼー、シューベルト、レハールなどのポピュラーな曲を演奏しているが、お世辞にも巧いとはいえない。代表曲は『タンゴの御話』『シューベルトより』。灰田勝彦と南の楽団 スチール・ギター奏者の灰田晴彦が主宰する元モアナグリー・クラブに弟の勝彦が加わったもの。ハワイ音楽が流行の波に乗った。アマチュアのこの種の楽団と比べて格段の実力の差異が認められる。代表曲は『夕べひととき』『きらめく星座』。櫻井潔と其の楽団 櫻井は、わが国軽音楽界を今日の隆盛に導いた功労者である。櫻井のヴァイオリンを主軸としたタンゴ、パソドーブルはこの楽団独特のものである。ただ同一のレパートリーが多いのは良くない。代表曲は『長崎物語』『ラ・クンパルシータ』。田中福夫と其の楽団 櫻井楽団のスタイルを見習い、東宝の専属楽団となったこの楽団は、トランペットに南里文男、ドラムに山口豊三郎を擁し、ルンバを演奏した。田中に技術的に優れたものが見出せない今日、落ち着かない演奏から脱することは困難であろう。代表曲は『タンゴン』『カリオカ』。以上5楽団のほかに、分裂をした杉原泰蔵と其の楽団、改組再出発をするにいたった松竹軽音楽団、アコーディオンの優れた奏者として長内端、次いで小泉幸雄、さらに澁澤一雄はピアにスティック・パイプ・アコーディオンを弾くが前ニ者には劣るように思われる。
【2000年6月13日記】
編集後記(『音楽公論』 第2巻第11号 1942年11月 p.106)
内容:1942年8月27日、中央協力会議2日目に、乗杉嘉壽氏(東京音楽学校長)が初めて楽壇代表として出席し「従来は西洋音楽の吸収に汲々としてきたが、いまや新時代に即した国民音楽が簇生すべき時期に直面している」と力説した(『東京朝日新聞』による)。本号に当日乗杉氏の提唱した内容を発表してもらう筈だったが間に合わないので、1942年7月24、25、26日にわたって『大阪朝日新聞』に掲載された同趣旨の原稿を転載した。/去る1942年9月30日に発表されたビクター第1回管弦楽曲募集入賞作品を中心に座談会を行なった。/原田光子の「リストに学びて」は今号で完了した。/野村光一の「自伝」は、本人が日本音楽文化協会常務理事となり、毎日多忙をきわめているので原稿をもらえなかった。
【2000年6月16日記】


トップページへ
昭和戦中期の音楽雑誌を読むへ
第2巻第10号へ
第2巻第12号へ