『音楽公論』記事に関するノート

第2巻第4号(1942.04)


◇若き情熱への構成 ― 次のゼネレーションへの課題/久保田公平(『音楽公論』 第2巻第4号 1942年4月 p.18-23
内容:明治初年に外国文化が流れ込んだことは、われわれの生活様式を一変させた。新しい学校やビジネスは新しい生活感情を生んだ。明治から大正初期にかけての音楽文化は、外国音楽の吸収時代だった。この間、日本音楽は社会の急激な転換に歩調を合わせることができなかった。大正後期から昭和にかけて、日本の生活様式はいよいよ変化し、音楽の方面でも素朴な様式から複雑な外国音楽の研究が盛大になった。日本音楽は西洋音楽的技法を導入して、次の時代に進むべき手段であったろう。/現在の日本の文化は、大東亜における指導的文化でなくてはならなくなった。音楽では、西洋楽器による新日本音楽的な動向と、破壊的な野獣派的音楽の展開がみられる。その意味することの一つは日本の芸術に対する教養の不足であり、もう一つは現実に圧倒された結果、芸術家としての敗退である。新しい日本音楽文化は単なる復古ではなく、われわれの生活の中心に直入し、その中にある真実の伝統を把握することでなければならない。/若い新しい構想と情熱が、次に来る新人たちのうえには求められている。
【1999年10月26日記】
◇現代日本ピアニスト論(2) ― 井口基成論/園部三郎(『音楽公論』 第2巻第4号 1942年4月 p.24-31
内容:楽界における演奏家の活動の中でもっとも興味の中心となるのは、新交響楽団定期演奏会における独奏であろう。日本最高のオーケストラとの、最高の芸術的または技術的水準に達する曲目を協演するからである。それらの中から記憶に新しい名ピアニストを取り上げていこう。/井口基成:16、17歳ころからピアノを始め、東京音楽学校卒業後にフランスに留学し、イヴ・ナットに師事した。帰国後2〜3年たった1935年前後の井口の演奏は、それまで外国の名ピアニストにのみ見出したロマン的情熱的な奏法を示した。その後、演奏における即物的客観主義が日本に紹介されると、井口は自分の傾向との対立を感じ、1937年頃の新交響楽団定期演奏会で演奏したラヴェルのコンチェルトで、かつての激情的演奏から転向した。/今またピアにスティックな表現の限界を拡大する必要に迫られ、新しい飛躍の時期に達している。
【1999年10月28日記】
諸井三郎論(下)/早坂文雄(『音楽公論』 第2巻第4号 1942年4月 p.32-36
内容:東洋文化を世界文化に止揚する時代に、諸井氏およびその一派と民族主義的作曲家の一派が手を握る機運を現出し始めたのは喜ばしい。/諸井三郎はベルリンのホッホシューレ出身でシュラッテンホルツに作曲および理論を師事、ブラームス楽派の直系である。また、諸井によればセザール・フランクの芸術に影響を受けたそうだが、フランクの宗教的な高い理念にまで到達することが諸井の未開拓の世界である。/諸井三郎の芸術の美点はその理論的構成力にある。秩序と部分の構造およびその相互関連においてある見事な完成を示している。諸井の「旋律」はトナリティが明確であることは少なく、より無調的になる。/諸井の場合、理論は思想に結びつくよりむしろ「技術」と結びついているようにみえる。諸井の芸術は生活的・具体的な現実生活からますます遠く抽象的になる。/早坂が諸井に期待するのは、諸井が西欧的知性や教養の豊かさ、理論的構成力、自意識などをすべて洗い落とし、真の自己自身に徹した超脱的・超越的な、深い人間感を伴った単純化の芸術に入ることである。
メモ:諸井三郎論は今回で完結。
【1999年10月31日記】
◇新人論<座談会>/野村光一 園部三郎 井口基成 山根銀二(『音楽公論』 第2巻第4号 1942年4月 p.38-53)
内容:取り上げられた人たちは、作曲の渡邊浦人、早坂文雄、小倉朗。指揮の山田和男、尾高尚忠。ピアノの草間加寿子、富永瑠璃子。ヴァイオリン(提琴)の辻久子、巌本メリー・エステル。声楽の中山悌一。/「野人」を書いて、1941年秋に音楽コンクール文部大臣賞を獲得した渡邊浦人に対しては、いわゆる日本的な音楽の観念に引きずりまわされていて、「野人」とタイトルを付けているが相当デリケートでセンチメンタルだと言っている。昔のバーバリズムのテクニックをそのまま良しとしてはいけないと指摘している。/早坂文雄。「序曲」あたりは日本的「ボレロ」だ。印象派の形式を借りて器用に曲が書けるが、主観的で、楽曲をまとめる構成に欠ける。/小倉朗。野村がイージーゴーイングだと批判すると、園部は(小倉が)まず自分の感じに入っていって、そこから本当に自分の心を出そうとする態度がいいと評価をしている。/山田和男。才能はあるがローゼンシュトックの真似になっている。/尾高尚忠。グルリットに似ていて山田和男と好対照だ。/草間加寿子。新人にして新人にあらず、しかしレパートリーが決まっている。また、今ひじょうに慎重に勉強する時期だとも言われているが、勉強したくとも先生はおらず、芸術家として磨きをかける意味からも演奏会に多く出ざるを得ない状況も指摘されている。/富永瑠璃子。音の良さを生かして、技巧的な修練を積むべきだ。/辻久子。親を教育しなければいけない、演奏もよくないと散々だが、解決策は示されていない。/巌本メリー・エステル。テクニックの筋が確実で、ごまかしがなく純粋だ。/中山悌一。非常にいい歌手だ。
【1999年11月2日記】
◇藤原歌劇団の「トスカ」上演(『音楽公論』 第2巻第4号 1942年4月 p.59)
内容:来る5月26日から3日間、歌舞伎座で「トスカ」を上演する。原信子、特別出演。管弦楽は東京交響楽団、指揮はグルリット。
◇日本合唱団で「ファウスト」公演(『音楽公論』 第2巻第4号 1942年4月 p.59)
内容:ヴオカルフオア改め日本合唱団では、来る6月26日から3日間、歌舞伎座で歌劇「ファウスト」を上演する。創立15周年記念。
メモ:グノーの「ファウスト」か? 不明。ヴオカルフオアという表記は記事にしたがった。
◇東響でベートーヴェン連続演奏(『音楽公論』 第2巻第4号 1942年4月 p.59)
内容:東京交響楽団では来る4月17日夜、公会堂でベートーヴェン連続演奏第1回を開催する。曲目は、交響曲第3番「英雄」、ヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン独奏:モギレフスキー)等。
メモ:指揮者は明記されていない。
◇東京室内交響楽第三回演奏会(『音楽公論』 第2巻第4号 1942年4月 p.59)
内容:来る4月30日夜、産業会館で。この団体は、クラウス・プリングスハイムによって組織されたとある。
メモ:演奏曲目、指揮者は明記されていない。
【1999年11月5日記。以上の4記事は、いずれも短いもの。】
◇小倉朗交響組曲 ― 芸能祭発表作品(音楽会評)/渡響子(『音楽公論』 第2巻第4号 1942年4月 p.60-62)
内容:日時の記載は無し。管弦楽:東京交響楽団、指揮:グルリット。演奏には不満が残ったらしい。第2、第3楽章はまずますの批評を得ている。
【1999年11月5日記】
◇東響・現代日本作曲評(音楽会評)/富樫康(『音楽公論』 第2巻第4号 1942年4月 p.62-65)
内容:1942年3月3日、管弦楽:東京交響楽団、指揮:グルリット、ピアノ:松隈陽子。/演奏曲目。渡邊浦人『野人』、萩原利次『鳴り響く太鼓』、早坂文雄『左方の舞』、同『序曲 ニ長調』、伊福部昭『ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲』。
メモ:会場は明記されていない。早坂作品のタイトルは正式呼称か?
【1999年11月8日記】
◇声楽評(音楽会評)/久保田公平(『音楽公論』 第2巻第4号 1942年4月 p.65-68)
藤原義江の二つの試み
内容:1942年2月11日と2月27日、藤原歌劇団によって『海道東征』が演奏された。指揮者、会場など不明。/1942年2月26日、歌舞伎座で戦捷音楽会として松竹交響楽壇の主催によって『カルメン』を演奏会形式で上演。藤原歌劇団出演。指揮者は不明。
三上孝子独唱会
内容:1942年3月2日、青年館で。伴奏は新交響楽団とピアノ伴奏(ピアニスト不明)。演奏曲目は石渡日出夫作曲、深尾須磨子作詞『イタリアの牧歌』が挙げられている。ほかは現代日本歌曲とあるのみで、詳細はわからない。
【1999年11月8日記】
◇現代日本作曲演奏所感(音楽会評)/清瀬保二(『音楽公論』 第2巻第4号 1942年4月 p.68-70)
内容:演奏曲目。渡邊浦人『野人』、萩原利次『鳴り響く太鼓 第1番』、早坂文雄『左方の舞と右方舞』、同『序曲 ニ長調』、伊福部昭『洋琴と管弦楽のための協奏風交響曲』。/指揮者:グルリット、管弦楽:記載なし。/日時、会場も記載なし。/4曲共通の欠点として、清瀬は打楽器の使いすぎを指摘している。
【1999年11月8日記】
◇高野溜氏を悼む/菅谷俊徳(『音楽公論』 第2巻第4号 1942年4月 p.71)
内容:死亡日時についての記載は無い。/高野は音楽心理学研究で有名だったが、晩年は音楽に関する雑文を多く書いていた。/東北帝大助手の時代の1930年代始め頃[正確な年代は不明−−小関]、「読売新聞」に”六段はソナタ形式”だとする研究を発表した。その後、ドイツに約3年留学し1937年帰国。東京中央放送局洋楽課に勤務したが、その後辞職[辞職の時期は不明]。文筆業と研究に従事し、1940年秋には青年文化連盟を組織した。/約半年のあいだだったが、日本大学芸術科音楽科長として手腕を振るう[時期不明−−小関]。/肺炎にかかっていたとの記述がみられるが、これが死亡原因か?
【1999年11月11日記】
◇ラヂオ短評/露木次男(『音楽公論』 第2巻第4号 1942年4月 p.88−89)
内容:1942年1月30日。平岡照章作曲、交声曲『聖戦譜』。演奏者は記載なし。露木は、歌詞が分からないので独唱も合唱も何う云ふ意図のもとに書かれたのか分からない、と書いている。1942年2月1日。平尾貴四男作曲『古代讃歌』と安部幸明『小組曲』。演奏者は記載なし。1942年2月4日。渡邊氏作曲『舞曲』、尾高氏作曲『日本組曲』、秋吉氏作曲『音詩』『夜の狂詩曲』『タランテラ』。ピアノ独奏は藤田晴子[小関注: 渡辺氏は渡邊浦人のことだろうか?尾高氏は尾高尚忠、秋吉氏は秋吉元作(=箕作秋吉の筆名)]1942年2月18日。大木正雄作曲『木曽路』。オーケストラ曲だということはわかるが、演奏者の記載はなし。巧いと誉めている。1942年2月20日。宮城道雄作曲『春の海』、朝倉活治作曲『昭和の聖業』。演奏者は不明。大掛かりな『昭和の聖業』が宮城の『春の海』に及ばないと述べている。演奏者は記載なし。1942年3月4日。高田信一作曲『櫻』、渡邊浦人作曲『野人』。
【1999年11月15日記】
◇編集後記(『音楽公論』 第2巻第4号 1942年4月 p.114)
内容:評論家・高野溜が1942年3月7日朝、仙台大学病院で急逝腹膜炎を併発して急逝。/その他本誌の記事に関連することがら数件。
【1999年11月15日記】


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