『音楽公論』記事に関するノート

第2巻第2号(1942.02)

◇現代日本ピアニスト論/園部三郎(『音楽公論』 第2巻第2号 1942年2月 p.18-21)
内容:日本に洋楽が移入されて真に演奏といい得るものが一般化してきたのは、ここ20年くらいのものに過ぎない。大正時代のピアニストの多くは、個々の作曲家に対する観念的な傾倒のうえに立った演奏を示すにすぎず(ヨーロッパで客死した久野久子)、技巧の問題は科学的な精密さと合理性とをもって研究されるにいたらなかった。/大正末期から昭和初期にかけて多くの外国人ピアニストが来日したが、音楽の様式の問題に大きな関心が向けられなかったので、これらのピアニストの奏法は単に個々の個性的特質としてしか取り上げられなかった。/次号以降、最も顕著な活動をしている人々と、最も将来を期待しうる若い人々の素描を書くとことする。
【1999年9月6日記】

◇音楽文化協会で戦時対策特別委員会設置 (『音楽公論』 第2巻第2号 1942年2月 p.45)
内容:日本音楽文化協会は「戦時対策特別委員会」を設置し、1942年1月12日に初会合を行なった。続いて委員会が常時指導を受けるべき諸官氏名、委員氏名、[初会合の]附議事項が記されている。/ちなみに指導を受けるべき諸官は、上田俊次(情報局第五部第三課長)、小川近五郎(情報局情報官兼内務省理事官)、藍沢重遠(情報局情報官)、宮澤縦一(情報局情報官)、京極高鋭(情報局嘱託、子爵)。/附議事項は、一.戦時下音楽会開催に関する注意事項を周知せしむる案ほか ニ.「愛国詩歌」作曲献納案 三.行進曲献納案 ほか全九項目。/委員氏名は省略(44名)。
メモ:この委員会の設置が、いつ、どういう手続きで決まったかは明記されていない。
【1999年9月6日記】
◇協会作曲部演奏 (『音楽公論』 第2巻第2号 1942年2月 p.45)
内容:1942年3月16日、産業組合中央会館で室内楽演奏会を予定。さらに1942年4月7日、公会堂で管弦楽作品発表会を予定している(新交響楽団が出演する)。
【1999年9月6日記】
◇東響で邦人作品演奏 (『音楽公論』 第2巻第2号 1942年2月 p.45)
内容:東響交響楽団[ママ]では、1942年2月24日夜、公会堂で邦人作品発表会を行なう(指揮:グルリット)。
メモ:東響交響楽団[ママ]は東京交響楽団。
【1999年9月6日記】
◇清瀬保二論(下)/早坂文雄 (『音楽公論』 第2巻第2号 1942年2月 p.46-54)
内容:清瀬の創作の基調は日本的なることを最後の目標とせず、手段としている。具体的に見れば、清瀬は五音音階を固守しない。五音音階を使うときも、西欧の模倣でなくわれわれのものをさらに消化しようとする。/清瀬は、日本的リアリストとしての面と抒情的側面とをもつが、最近は抽象的な純粋音楽の方向へ向かっているようだ。抒情的作品として、多くの歌曲、ピアノ曲『第一ピアノ曲集』『春のデッサン』『丘の春』『ノクターン 1・2』などが例示されている。日本的リアリストとしての側面をもつ作品として、『郷土舞踊』『琉球舞踊三章』『田舎の踊り』(いずれもピアノ曲)、『古代に寄す』『日本民族の主題による幻想曲』(オーケストラ曲)などが挙げられている。『レントとアレグロ 〜フルートのための〜』『木管トリオ』の作曲から純音楽的抽象的なものへと飛躍してきたと思う。/早坂は、清瀬の芸術を尊敬をもってより深く研究したいと結んでいる。
【1999年9月8日記】
◇独唱会評(音楽会評)/久保田公平 (『音楽公論』 第2巻第2号 1942年2月 p.60-62)
小森智慧子独唱会
内容:1941年12月13日、青年館で第1回独唱会。小森は合唱団員やオペラの脇役を長く務めてきた人だという。演奏曲目に日本歌曲が含まれていたようだが、具体的なプログラムは明記されていない。
メモ:青年館とは恐らく日本青年館だと思われる。
東京交声楽団第1回定期公演
内容:1941年12月24日、青年館。東京音楽学校出身の若い歌手たちが研究的な態度と集団的な動向を示している例だという。モーツァルト、ブラームス、シューマン、ドビュッシー、ラヴェル、バルトークをプログラムに取り上げているが、具体的な曲名は「流浪の民」(シューマン)以外わからない。
メモ:「若い歌手達の大きな団体」(p.61)と書かれているが、何人くらいのグループだったのだろうか?
【1999年9月11日記】
◇最近の音楽会から(音楽会評)/園部三郎 (『音楽公論』 第2巻第2号 1942年2月 p.63-66)
新響の「フィガロ」
内容:1941年12月13日、14日、日比谷公会堂。新交響楽団の演奏会形式による公演は好成績を収めた。演奏は、伊藤武雄(伯爵)、中山悌一(フィガロ)、柴田睦陸(バシリオとドン・クルシオ)、関種子(スザンナ)、三宅春恵(伯爵夫人)、加古三枝子、千葉静子、新交響楽団、ローゼンシュトック(指揮)。
東京音楽学校卒業演奏会
内容:二日目午後の部後半を聴く。大和美智子(ピアノ)、バッハ=リストの「前奏曲とフーガ イ短調」。藤本譲(ホルン)、ゲディッケ「ホルン協奏曲 へ短調」第3楽章。佐藤節子(ピアノ)、ショパン「スケルツォ 第2番 変ロ短調 op.31」。前島百代。楽器はピアノか?楽器と演奏曲目(バッハらしい)は明記されていない。尹g善(ピアノ)、ブラームス「ピアノ・ソナタ第3番 へ短調 op.5」。難波千鶴子(声楽)、ヴェルディ「ドン・カルロス」よりエボリ姫のアリア。中村桃子(ヴァイオリン)、モーツァルト「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調」第1楽章[恐らく第4番 KV.218のことと思われる]。
メモ:第2日目がいつか明記されていない。/突然の卒業繰上げがあったため、この時期に卒業演奏会があったと読める。
【1999年9月11日記】
◇東京音楽学校演奏会(音楽会評)/山根銀二(『音楽公論』 第2巻第2号 1942年2月 p.66-69)
内容:1941年12月25日、26日。会場は書かれていない。「東京音楽学校の卒業期日が昨年末に繰り上げられたので卒業演奏会も季節外れの暮の廿五六両日に行なはれた」とある。/初日は午後の部が始まって少したったところから聴いたそうだ。戸田盛忠(ピアノ)、ショパン「バラード第4番へ短調 op.52」。澤野八重子(ソプラノ)、曲目不明。川瀬喜美(ピアノ)、ベートーヴェン「ピアノ・ソナタ第23番 op.57」(熱情)。渡邊久子(ピアノ)、ベートーヴェン「ピアノ・ソナタ第30番ホ長調 op.109」。岡田朗(ホルン)、サン=サーンス。変イ長調協奏曲と書いてある。吉武英子(ヴァイオリン)、曲目不明。足立美智子(ピアノ)リスト「ハンガリー狂詩曲第13番 イ短調」。鎌倉和子(声楽)R.シュトラウス「子守唄」「小夜曲」。山崎和子(ピアノ)、ショパン「舟歌嬰へ長調 op.60」。黒沼俊夫(チェロ)、ボッケリーニ「チェロ協奏曲変ロ長調」。
/2日目も朝2〜3人聴き逃したそうだ。室井摩耶子(ピアノ)、ショパン「24の前奏曲」。第24番ニ短調の途中から聴いたとのこと。小橋行雄(ヴァイオリン)、ヴィターリ「シャコンヌ」。佐藤ちよ(ピアノ)、「ポロネーズ変イ長調」[13番のことか? それとも第6番「英雄」か第7番「幻想ポロネーズ」か、不明]。岡部多喜(声楽)、ドニゼッティ「ラ・ファヴォリータ」よりレオノーラのアリア。横井和子(ピアノ)、リスト「メフィスト・ワルツ」[第1〜第4のいずれか、不明]。篠塚雅子(ピアノ)、ショパン「バラード第4番へ短調 op.52」。坂元芳子(声楽)、ブラームスを2曲。曲目不明。島津雅子(ピアノ)、リスト「バラード第2番ロ短調」。喜田賦(クラリネット)、ウェーバー「クラリネット協奏曲第2番変ホ長調」。小鳥居尊(アルト)、R.シュトラウスの2曲とサン=サーンスの「サムソンとデリラ」からアリア。具体的にはわからない。中村貞子(ピアノ)、ブラームス「ワルツ」。作品39の「ワルツ集」のことかと思われるが、どの曲を選んだかはわからない。/以下、休憩後の分は園部三郎におっつけたと書いてある。
メモ:「東京音楽学校の卒業期日が昨年末に繰り上げられた」という記述があるが、実際には大学の在学年限の短縮のことではないか(東京音楽学校に限らない)と思われる。調べて「コーヒーブレイク」の欄で報告したい。[ こちら へどうぞ。(1999年9月17日)]
【1999年9月12日記】
◇ラヂオ音楽短評/露木次男 (『音楽公論』 第2巻第2号 1942年2月 p.70-71)
内容:1942年1月2日シューベルト『ロンド』(ヴァイオリン・安藤幸子、ピアノ・小倉末子)。バッハ『トッカータとフーガ』、シューベルト『即興曲』、ベートーヴェン『トルコ行進曲』(ピアノ・井上園子)。
1月5日。呉泰次郎『明けゆく亜細亜』、平井保ニ『何進日本』、江口夜詩『行け太平洋』、高階哲夫『堂々たる進軍』、大中寅二『堂々たる皇軍』、深海善次(曲名不明)、長谷川良夫『かちどき』。これらはすべて行進曲で、演奏者は明記されていない。この日は、ほかに高濱虚子作・謡曲『時宗』(シテ・櫻間金太郎、ワキ・寶生新作)。
1月7日山井基清編曲=雅楽『陵王』(演奏者不明)。催馬楽『伊勢海』(独唱・武岡鶴代)。
メモ:シューベルト『即興曲』のように、どの曲を指すのか分からないものがある。/行進曲のタイトルの表記(漢字やかななど)は露木がラジオで聞いて適当にメモしたものか、編集部で後追いして正しい表記にアレンジしているのか、不明(深海の曲に対しては「何と云ふ題か知らないが」と書いている)。
【1999年9月14日記】
◇読売新人演奏会 (『音楽公論』 第2巻第2号 1942年2月 p.71)
内容:読売新聞社主催、第13回全日本新人演奏会は、1942年2月6日夜日比谷公会堂で行なわれる。
【1999年9月16日記】
山田和男氏新響へ (『音楽公論』 第2巻第2号 1942年2月 p.71)
内容:山田和男は今回、東京音楽学校嘱託を辞任、新交響楽団指揮者となる。
メモ:辞任、就任の具体的日時は明記されていない。
【1999年9月16日記】
◇松竹交響楽団結成 (『音楽公論』 第2巻第2号 1942年2月 p.71)
内容:今回、松竹会社で交響楽団を組織した。第1回公演はユンケルの指揮で1942年1月30日夜、共立講堂で行なわれる。
メモ:松竹が交響楽団を組織した具体的日時は明記されていない。
【1999年9月16日記】
管絃楽曲「野人」余録 ― 得がたい民族音楽富樫康 (『音楽公論』 第2巻第2号 1942年2月 p.86-87)
内容:渡邊浦人は1939年交響組曲『祈祷時刻』を、1940年にはピアノのための『三つのバガテル』を作曲した。このピアノ曲を下敷きにしたらしく、管弦楽曲『野人』が作曲された。初演は1941年3月、楽団3協第三回発表会で、中央交響楽団を作曲者・渡邊浦人が指揮して行なわれた。周囲のすすめによって、この曲は今年の音楽コンクールに出品され、新響によって演奏された。/以後、偉大な仕事をするには犠牲的精神をもった決死的行動が必要であること、タイトルの「野人」は野生を心底にもった近代人を意味すると注釈を加えている。
メモ:筆者は日本音楽文化協会勤務。
【1999年9月16日記】
ビクターの作曲募集に就て清瀬保二 (『音楽公論』 第2巻第2号 1942年2月 p.88-89)
内容:今度日本ビクター蓄音機会社でも懸賞作曲の大きい計画ができてよろこばしい。管弦楽曲(交響曲、交響詩曲または組曲)を募集する。/応募規定。応募資格:日本人であること。審査:提出された楽譜を審査委員会で。審査顧問:里美富次(文部省)、上田俊次(情報局)、岸田國士(大政翼賛会)、辻荘一(日本音楽文化協会)。審査委員:清瀬保ニ、野村光一、橋本國彦、堀内敬三、増澤健美、諸井三郎、山田耕筰、山根銀二。賞金:最優秀作品1遍に2000円、佳作2篇に各々500円。応募作品:未発表であること、25分程度の演奏時間であることなど。応募締切:1942年5月31日。当選作品の取り扱いについて。当選発表:1942年7月中の新聞、音楽雑誌にて。
メモ:審査顧問の詳しい肩書きは省いた。
【1999年9月20日記】
音楽挺身隊活動報告米林豊圃 (『音楽公論』 第2巻第2号 1942年2月 p.90-91)
内容:1941年8月、演奏家協会全員で「音楽挺身隊」を結成した。活動の手始めは1941年の第二次防空訓練中に各区警防団員に対して慰安演奏を行なった。/次いで1941年11月12日から21日にかけての7日間、東京市との連携のもとに「市民慰安の会」を市内34区の国民学校講堂において行なった。
メモ:p.91に「音楽挺身隊綱領」が掲載されている(本文3行弱)。
【1999年9月20日記】
文学者愛国大会の感激松尾要治 (『音楽公論』 第2巻第2号 1942年2月 p.92-94)
内容:文学者愛国大会が1941年12月24日大政翼賛会会議室で開催された。/座長、菊地寛。発言者は徳田秋声、佐々木信綱、水原秋櫻子、武者小路実篤、辰野隆、久保田萬太郎、白井喬ニ、久米正雄、戸川貞雄、吉屋信子、横光利一、日比野士郎、高田保、青野李吉。発言のあいだに土岐善麿の短歌朗読、富安風生の俳句朗読、尾崎喜八、前田鐵之助、佐藤春夫、高村光太郎の詩朗読があった。/その後社団法人日本文学者中央会(仮称)結成に対する処理委員31名が指名された。
メモ:筆者は大政翼賛会文化部員。
【1999年9月22日記】
新響日曜演奏会を開催 (『音楽公論』 第2巻第2号 1942年2月 p.94)
内容:新交響楽団は昭和17年度[ママ]から定期公演のほかに「新響日曜演奏会」を月1度恒久的に実施することになった。/新響第1回日曜演奏会は、1942年2月1日(日)午後7時から日比谷公会堂で開演する。指揮:山田和男、ピアノ独奏:井口基成。/演奏曲目は、ベートーヴェン『交響曲第5番ハ短調 op.67 「運命」』、平尾貴四男『古代讃歌』、安部幸明『小組曲』、リスト『ハンガリー幻想曲』、リムスキー・コルサコフ『スペイン狂詩曲』。なお、日本人作品は日本音楽文化協会の推薦。
メモ:昭和17年度という表現がみられるが、単に昭和17年というべきところなのだろうか?
【1999年9月27日記】
海軍軍楽隊回想/宮下豊次 (『音楽公論』 第2巻第2号 1942年2月 p.95-97)
内容:1869(明治2)年、鹿児島蕃が30余名を、横浜にある当時の英国公使館の護衛隊附軍楽隊楽長フェントンに軍楽を習わせた。この中には藩士・鎌田新平、中村佑庸、四元義豊らがいた。/1870(明治3)年、鹿児島蕃藩士は伝習を終えて藩に帰っている。伝習の期間に古歌「君ガ代」をフェントンに作曲させた(現在の「君ガ代」は1890(明治13)年制定のものだそうでフェントン作曲のものと異なる)。/1871(明治4)年、兵部省は軍楽隊を創設した。同じ年、兵部省は陸軍省と海軍省に分かれ、軍楽隊員もそれぞれの軍楽隊に分かれた。海軍ではフェントンを軍楽教師とすると同時に、海兵隊の教授も兼任させた。軍楽員の官階、隊の編成などの記述あり。/1874(明治7)年、海兵隊の歩兵隊および砲兵隊に各一隊の軍楽隊を付属させた。1876(明治9)年、海兵隊解散。同時に軍楽科を設置し軍務局の管轄となり、官階も改正された。/1878(明治11)年6月、初めて軍楽生徒を募集、後の軍楽長吉本光蔵もこの時の合格者の一人である。1879(明治12)年、ドイツ人エッケルトを招き軍楽の理論と実際を教授させた。1880(明治13)年、ドイツ人女性のアンナー・ルールをピアノ教師として雇い入れ、ピアノを習わせた。/1882(明治15)年6月、第2回軍楽生徒募集、以後は毎年募集することとなる。1883(明治16)年9月、軍楽隊18名を一隊に編成。1886(明治19)年、横須賀鎮守府所轄となり、海軍省令で海軍軍楽隊定員を定め、一隊の員数を26名に改正した。また終身官から一般海軍兵の服役年限と同じにされ、官等も改正された。
【1999年9月27日記】
編集後記 (『音楽公論』 第2巻第2号 1942年2月 p.114)
内容:第1回「大詔奉戴日」にあたる1942年1月8日夜、JOAKで大本営海軍報道部課長・平出大佐の「世界を開く日本」という講演が放送された。/楽壇も国民音楽を建設し、樹立しなければならない。幸い、新交響楽団、東京交響楽団が定期的に日本人作品を演奏し、日本ビクター会社も日本人作曲の懸賞募集を発表した。これらが国民音楽運動の機運となることを切望する。
【1999年9月27日記】


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