『音楽公論』記事に関するノート

第2巻第1号(1942.01)

大東亜戦争と音楽家の覚悟山田耕筰(『音楽公論』 第2巻第1号 1942年1月 p.18-19)
内容:一.1941年12月8日の宣戦布告以来、放送されるマーチは愛国的音楽、戦時的音楽が少ない。創作活動は大東亜の讃頌歌でなければいけないから、壮美なものを作曲しなければいけない。/二.娯楽を一部の人だけでなく一般国民が享受できるようにする。それも都会だけでなく全国的に分散させるようにする。このことは、1941年12月12日、情報局で行なわれた「芸能関係者懇談会」でも決められたことである。この問題は演奏家協会が組織している「音楽挺身隊」が1941年夏以来、成績をあげている。「音楽挺身隊」は今のところ予算の関係で東京だけでしか活動していないが、さらに全国的なものにしたい。山田耕筰が日本音楽文化協会副会長をしているので、協会の理念、方針を音楽挺身隊に移して当分は演奏家協会の仕事としてやっていきたい。/三.大東亜の文化を知ること、他の芸術界との提携・融和を促進させる必要がある(特に詩人とは急を要する)、今後日本のオペラはどうあるべきか討議すべきだ。
以上の問題はみな、日本音楽文化協会が手をつけなければいけない。
メモ:この記事は山田耕筰が1941年12月13日に行なった談話をまとめたもの。/「芸能関係者懇談会」の日付も談話の日時から、小関が逆算した。
【1999年7月25日記】
◇日本演奏家論 1 ― 演奏が創造的な仕事であることに就て/山根銀二(『音楽公論』 第2巻第1号 1942年1月 p.20-29)
内容:長々と述べているが、日本の演奏界[山根の表現による]は正確さを追求する段階から、確固たる芸術性を打ち立てる時期にあるという点に尽きる。
【1999年7月26日記】
作曲(第10回音楽コンクール評)/早坂文雄(『音楽公論』 第2巻第1号 1942年1月 p.30-35)
内容:大島義一『絃楽四重奏曲』、高田壽江『絃楽四重奏曲』、菊地惟朔『絃楽四重奏曲』、陶野重雄 管弦楽曲『変奏的組曲』、渡邊浦人 管弦楽曲『野人』、高田信一 管弦楽曲序曲『櫻』、福井文彦 管弦楽曲『日本民謡に基く十二の変奏曲』について。
メモ:日時、会場について記載なし。/文末から早坂が脱稿したのは1941年12月8日とわかる。
【1999年7月26日記】
◇絃楽(第10回音楽コンクール評)/久保田公平『音楽公論』 第2巻第1号 1942年1月 p.35-36)
内容:1941年11月21日、コンクールの第三夜に絃楽部の公開審査が行なわれた。会場は未記載。/松生陽子、青木明彦(ともにヴァイオリン)、常松之俊(チェロ)について。
【1999年7月26日記】
独唱会評(音楽会評)久保田公平『音楽公論』 第2巻第1号 1942年1月 p.37-38)
田中伸枝独唱会
内容:1941年11月23日、青年館。/田中夫妻の独唱と提琴[ヴァイオリン―小関注]を聴く、とある。伴奏はローゼンストック。/演奏曲目:シューマン『女の愛と生涯』作品42、ほかにブラームスを歌ったとあるが曲名は不明。また、ヴァイオリンの演奏曲目も触れられていない。
今内繁生独唱会
内容:1941年11月24日、産業会館で「現代日本歌曲の夕」という今内繁生第1回独唱会。伴奏者の記載なし。/山田耕筰ほかの作品が歌われたようだが、具体的な曲名は記載されていない。
柳兼子独唱会
内容:1941年11月28日、青年館で「大衆に贈る健全歌曲の夕」。伴奏者の記載なし。/演奏曲目:「四葉のクローバ」「庭の千草」「魔王」が曲名として挙げられているが、ほかは不明。
グレゴリアン学会演奏会
内容:1941年11月29日、公会堂でグレゴリアン音楽学会第1回定期宗教音楽演奏会(管弦楽=東京交響楽団;指揮=山本直忠)。/当日は日本音楽文化協会の発会式があり、ベートーヴェンの『ミサ曲ハ長調』作品86しか聴けなかったとある。ほかに何が演奏されたか記載なし。
船越富美独唱会
内容:1941年12月1日、青年館で。共演は酒井弘(テノール)、伴奏者は記載なし。/演奏曲目については、イタリア歌劇のアリア、英語の歌、日本歌曲と歌劇の二重唱とあるのみで具体的な曲名は記載なし。
【1999年7月28日記】
◇フィルハーモニー・クヮルテット/森本覚丹(『音楽公論』 第2巻第1号 1942年1月 p.41-42)
内容:1941年12月11日、日本青年館でフィルハーモニー・クワルテット第1回公演。/このクワルテットは新交響楽団メンバーの松本、桑澤、喜安、井上がメンバーである。/演奏曲目:シューベルト『弦楽四重奏曲 第14番 ニ短調 「死と乙女」』、ハイドン『弦楽四重奏曲』64-5、ベートーヴェン『弦楽四重奏曲第9番 ハ長調 「ラズモフスキー第3番」』作品59-3。
【1999年7月28日記】
◇最近の音楽会から(音楽会評)/園部三郎(『音楽公論』 第2巻第1号 1942年1月 p.42-45)
新響第230回定期演奏と草間加寿子の独奏
内容:新交響楽団第230回定期演奏会。指揮者記載なし。ピアノ独奏は草間加寿子。1941年11月11日、12日、日比谷公会堂で。/演奏曲目はモーツァルト『交響曲第41番K.551ハ長調』、レスピーギ『ローマの噴水』、モーツァルト『ピアノ協奏曲第26番K.537ニ長調 「戴冠式」』
メモ:園部が両日とも聴いたのか、どちらか1日なのかについて記載なし。
藤原歌劇団「カルメン」
内容:1941年12月25日、歌舞伎座。四夜連続の初日を聴いたと書いてある。したがって12月28日まで公演があったことになる。/演奏は東京交響楽団、藤原、斉田と読み取れるだけで、ほかに記載なし。演出その他についても記載なし。
メモ:公演日時が12月とあるが、日本オペラ振興会編集『日本のオペラ史』(日本オペラ振興会 1986)によれば、1941年11月25日〜27日、3日4公演と記録されている。
【1999年8月3日記/1999年8月23日メモ記】
◇戦時下演奏家の活動方針/山本直忠『音楽公論』 第2巻第1号 1942年1月 p.46-50)
内容:(1)音楽家は演奏中に空襲を受けても聴衆より先に逃げてはいけない。のみならず進んで慰問演奏に行なうなどの責任を果たしたい。(2)今回の戦争は長期戦であるから、国民の士気を鼓舞する勇壮な曲、英気の滋養を図る曲、一流作家の名曲(ことに多数の奏者が協力して初めて成果を収め得る曲)を演奏したい。(3)音楽を通じて大東亜建設に協力する方法を考えた。作曲家が日本人である自覚を持って新しい作品を作るように演奏家にも新しい奏法が確立されていく、前項で触れたような曲を選曲すると同時に邦人作品を進んで取り上げること、演奏者の服装は華美に過ぎず聴衆に媚びるようなあいさつを避け傲慢な態度をとるべきでない、音楽を国民の生活に生かしていくためには一流音楽家が国民音楽とかかわり国民とともに歌ったり弾いたりすべきだ、また子弟の教育にあたっては技術至上主義を避け人格・芸術・技術の三者一体でいきたい。(4)日本音楽文化協会の他部門への希望を述べる。作曲部は「日本的で」「芸術的で」「技術的に生きた」作品を生み出してほしい。評論部は建設的評論をしてほしい。教育部は唱歌教育に偏るのをさけるべき。国民部は手段を選ばずただ音楽が盛んになれば良いという考え方をとらないでもらいたい。
メモ:著者は日本音楽文化協会演奏部理事。/文末から1941年12月14日の脱稿であったとわかる。/山本に本記事を書かせる具体的な動機があったのだろうか?
【1999年8月3日記】
現代日本提琴家論福井直弘『音楽公論』 第2巻第1号 1942年1月 p.52-56)
内容:明治時代からの日本のヴァイオリン界の歴史を人を中心に論じた記事と読める。主だった人たちを挙げてみると、
安藤幸 ヨアヒムの師事した。長い期間東京音楽学校の教授だったので、指導を受けた人も多い。
ポーラック 日本に滞在し東京音楽学校で教える。斬新なことがらを残した。
シフェルブラット アウアーに師事。日本に滞在し新響の黒柳、日比野、鷲見兄弟を育てる。
モギレフスキー 滞日。渡欧前の諏訪根自子を育てる。
フライ ヘス門下(田中詠人と同じ)。滞日。
福井巌 レッツ門下。、
鰐淵、林龍作 セブシック門下。
鈴木慎一 クリングラーに師事。最近では幼児教育に力を入れている。
松本[善三] ウィーンで勉強。
西川満枝 フレッシュに師事。
メモ:著者の福井は、コンサートの会場で編集者の岩田重雄から記事の執筆を依頼されたと書いている。
【1999年8月14日記】
日本声楽界の性格久保田公平『音楽公論』 第2巻第1号 1942年1月 p.57-61)
内容:久保田は「声そのものの音色を決定する国語と、それに伴う発声法の相違から」イタリア流、フランス流、ドイツ流と日本の声楽家を分類している。久保田の区分によれば、
【イタリー流】三浦環、原信子、藤原義江、関屋敏子、伊藤敦子、留田武、奥田良三。
【フランス流】太田黒養二(故人)、太田綾子。
【ドイツ流】武岡鶴代、立松房子、矢田部勁吉、柳兼子、田中伸枝、木下保、伊藤武雄、四谷文子、徳山l、関種子、長門美保、槙田都馬子、井崎嘉代子、牧嗣人、斉田愛子
【1999年8月19日記】
◇清瀬保二論(上)早坂文雄『音楽公論』 第2巻第1号 1942年1月 p.62-68)
内容:清瀬の芸術は「自然」から出発している。清瀬作品に接して最も印象に残るのはその「単純性」である。これは、清瀬がフランクの『前奏曲、コラールとフーガ』に接して開眼したもので、年少のころはドイツ風な作品を書いて懐疑を覚えていたのだ。さらに作風上はフォーレから多分に教示を受けた。日本的なものについて考察を進めた際も、日本的なものを媒体として世界の美の真理に至ろうとする。そしてまず、日本的なものの探求が始められ日本的簡潔性という形態を掴んだ。
【1999年8月19日記】
大東亜戦と音楽人の職域奉公[寺沢高信 相島敏夫 佐伯郁郎 有馬大五郎 あらえびす 津川主一 牛山充 京極高鋭 増沢健美 小川近五郎 二見孝平]『音楽公論』 第2巻第1号 1942年1月 p.84-85)
内容:「大東亜戦争に際し音楽人は如何に御奉公すべきか」という問いに対して寄せられたはがき回答を掲載したもの。個々の回答内容は省略する。
メモ:寺澤は警視庁、佐伯は情報局、京極は子爵とある。
【1999年8月19日記】
◇藤原義江氏に聴く/藤原義江[談]『音楽公論』 第2巻第1号 1942年1月 p.86-89)
歌唱奉公会
内容:藤原歌劇団として組織した。1941年12月9日午後12時30分より日比谷公園旧音楽堂で愛国歌を歌う催しを行ない、約2万数千の人員を集めた。後援は東京日々新聞社。出演は海洋吹奏楽団、藤原歌劇団、ボオーカルフォア[ママ]。歌った愛国歌は7曲とあるが『愛国行進曲』以外は、具体的な曲名不明。また、写真のキャプションによれば催しは「愛国歌大会」と銘打たれている。藤原義江は、この催しは開戦から24時間以内にやりたかったと語っている。
メモ:インタビューは1941年12月10日に行なわれた模様だ(この項の最後の箇所で示唆されている)。こうした事情を考えると、次項「カルメン」の公演は1941年11月だと思われる。
「カルメン」の成績
内容:今回藤原歌劇団が行なった「カルメン」は歌劇団最高の売上があった。ことに27日は歌舞伎座の記録を破ったらしいと、藤原は言っている。今回は由里あけみが引退したので斎田愛子という太ったカルメンを仕立てた。斎田をいきなり舞台に出すことはできないので、1941年10月30日から11月4日まで仙台、盛岡、青森、函館などへ小編成のオーケストラを連れて予行練習をしてきた。無理をして公演をした理由は、1)前回の「アイーダ」で大幅な赤字が出たので経費もあまりかからず良く知られたものを選んだ、 2)戦争でも日本は「カルメン」をやるだけの余裕があることを宣伝したかった、の2点を挙げている。
新響の「フィガロ」
内容:2日目(1941年12月4日)を聴く。中山(バリトン)、伊藤武雄、千葉静子、新響の演奏が良かったことを挙げている。
ローゼンシュトック氏とグルリット氏
内容:グルリットのオペラを指揮している経験は大変な数で、自身オペラ作家でもある。ことオペラに関しては尊敬できる指揮者だ。ローゼンシュトックは指揮に品がある。フィラデルフィアのオーマンディよりも高く買う。
批評家への希望
内容:演奏のどこがよかったか指摘してほしい。悪かったという批評でも名にか教えられるところがなければ意味がない。
【1999年8月23日記】
◇海軍軍楽隊長列伝/早川弥左衛門『音楽公論』 第2巻第1号 1942年1月 p.90-91)
内容:初代隊長の中村祐康、二代目の田中穂積、三代目の高崎能行、四代目の吉本光蔵、五代目の瀬戸口藤吉について紹介している。
中村祐康は、兵部省が陸海軍両省に分かれた1872(明治5)年、初代の海軍軍楽隊隊長に任命された。中村は1876(明治9)年、国歌の必要を痛感し「天皇陛下を祝する楽譜改定の儀上申」という意見書を出した。1880(明治13)年、意見書に基き海軍省は宮内省と交渉、雅楽調により作曲することに決定した。委員は中村祐康(海軍)、四元義豊(陸軍)、林廣守(宮内省)、エッケルト(海軍雇教師、ドイツ人)が選ばれ、国歌君が代が選定されたと述べている。1923(大正12)年死去。
田中穂積は『美しき天然』の作曲者(1904年12月死去)。吉本光蔵は『君が代行進曲』『敷島行進曲』など多数の吹奏楽曲を作曲し、1907(明治40)年死去した。瀬戸口藤吉は『軍艦行進曲』『愛国行進曲』など多数の曲を残した。
【1999年8月26日記】
◇日本音楽文化協会発会式祝辞/谷正之 橋田邦彦 東条英機『音楽公論』 第2巻第1号 1942年1月 p.92-93)
内容:1941年11月29日、情報局講堂で行なわれた日本音楽文化協会発会式で行なわれた3本の祝辞を採録している。谷正之情報局総裁は挨拶の最後のほうで「願クバ其ノ趣意ガ益々徹底セラレマシテ荀モ音楽ニ携ハル者ハ挙ツテ本協会ニ属シ音楽報国ノ実ヲ挙ゲル日ノ一日モ速カナランコトヲ祈ツテ」と言っている。大同団結が不充分だという認識でもあったのだろうか? 橋田邦彦文部大臣は「音楽翼賛ノ誠ヲ致シテ斯道ノ振興大成ニ勉メ、以テ国運ノ進展ニ貢献セラレムコト」を希望すると挨拶。東條英機大政翼賛会総裁は「従来分散割拠ノ憾ミアリシ楽壇ヲ打ツテ一丸ト致シ」と発言している。
【1999年8月28日記】
◇音楽文化協会役員決定(『音楽公論』 第2巻第1号 1942年1月 p.94)
内容:会長、副会長、顧問、参与、名誉会員のリスト。
◇協会作曲部の活動『音楽公論』 第2巻第1号 1942年1月 p.94)
内容:吹奏楽曲献納運動 日本音楽文化協会作曲部は、1942年1月10日を締切日に、吹奏楽曲を募集している。陸・海軍に献納するため。
◇歌曲翼賛運動『音楽公論』 第2巻第1号 1942年1月 p.94)
内容:詩壇では国民の士気を振興するために優秀な詩を多数選定し、大政翼賛会に寄贈することになっている。日本音楽文化協会作曲部も、その詩に作曲し大政翼賛会に寄贈する計画を立てている。
第2回室内楽試演会『音楽公論』 第2巻第1号 1942年1月 p.94)
内容:1942年1月下旬に第2回室内楽試演会が、2月下旬に第3回がそれぞれ行なわれる。
メモ:主催者は? 具体的な日時、会場、演奏者、プログラムなども明記されていない。決まっていないのか?
◇第1回管弦楽作品募集(『音楽公論』 第2巻第1号 1942年1月 p.94)
内容:第1回管弦楽作品発表会を3月に開催することを予定しているので、1942年1月31日を締切日として作品を募集する。
メモ:主催者は日本音楽文化協会作曲部か? 具体的な日時、会場、演奏者、プログラムなどは明記されていない。決まっていないのか?
【1999年8月31日記(p.94すべて)】

◇太平洋時代に處する日本音楽の建設/深瀬周一(『音楽公論』 第2巻第1号 1942年1月 p.95-97)
内容:音楽家は音楽を通じて臣道実践の窮行をなすべきだ。そのために日本音楽文化協会は作曲家の育成、地方音楽文化の開発、交響楽運動・国民歌劇運動の興隆、優秀な日本人指揮者の配置などに寄与すべきだ。将来、東亜の音楽文化を指導するために、協会への音楽家の登録や強制加入などもないとは言えない。国民は音楽家の国家的使命を認識して、協会との緊密な連絡を保つべきだ。政府がすべきことは音楽教育の刷新強化をし、優秀な音楽家を社会に贈り施設の整備をはかる、国家的音楽科学研究所の設立が望ましい。また将来、官民の連絡を教化するために音楽審議院(仮称)を制定したり、国際音楽事業審議会(仮称)を設けて東亜共栄圏の音楽文化を日本が指導できるようにすべきだ。東亜共栄圏音楽文化会議の開催や東亜共栄圏音楽文化協定の実現など具体的方策を確立すべきだ。/1941年12月12日脱稿。
【1999年8月31日記】
◇洋楽レコードの将来桂近乎『音楽公論』 第2巻第1号 1942年1月 p.106-108)
内容:いわゆる「洋楽レコード」の進路と使命を認識する必要が増した。各レコード会社とも日本の演奏家や演奏団体よりも優秀なので、外国の演奏家が演奏するレコードを扱ってきたが、大戦に入ったので原盤が入らないのが共通の悩みである。音楽には芸術的なものと流行してすぐ消えるものがある。芸術的なもので純器楽ならば、米英のように敵性国歌の演奏家が演奏したものでも何ら差し支えない(声楽はこの限りでない)。ジャズスタイルは慎むべきだが、芸術的な音楽は決戦下においても、正しい判断力をもたせ、ゆとりをもたせる。
【1999年9月1日記】
◇編集後記『音楽公論』 第2巻第1号 1942年1月p.124)
内容:1941年12月12日、情報局で芸能関係者の懇談会があり、戦時下芸能の趨向について指示があった。音楽に関係する事項について日本音楽文化協会では、全音楽人に注意事項を発表した。その内容は 1)徒に芸能文化を萎縮させない 2)短時間に充実したプロをつくる 3)最高の演奏会を各地で 4)演奏会場に重要ニュースを通達する 5)国民の団結心の強化を図ることなどが挙げられ、入場料もできるだけ低廉にする。さらに演奏家の服装に節度を求めたり、曲目の選定に日本人作品を務めて演奏することも含まれる。
【1999年9月1日記】


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