『音楽文化』記事に関するノート

第2巻第1号(1944.1)


音楽学徒の出陣(音楽文化)/小松耕輔(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.1)
内容:出陣学徒のなかにたくさんいる音楽学徒の諸君に対して一言したい。由来、音楽は往々にして有閑徒輩の遊びごとのように思われていたが、日中戦争以来、その価値が認められるようになり、今日では芸術としての音楽以外に、それがいかに直接に軍隊に働きかけ、またいかに銃後国民の精神作興に役立ったかが、万人に知られるようになった。そしていまや、諸君は大君の御盾として召し出されるにいたった。諸君がいままで学んできた音楽とは、単にピアノを弾じ、歌を歌うことだけであったろうか。いや、それは末葉であり、その奥底に潜む精神力の発揮こそは真の音楽者のつとめるべき使命であった。そこにこそ音楽学徒の信仰があり、矜持があることと思う。そして諸君は、それらを実践のうえに現わすべき時期がきた。敵米英の前に敢然として立ち、大君のために戦いぬき勝利の栄光をおさめて大東亜の建設を達成しなければならない時期がきたのである。他の方面の学徒よりも優れた精神力を現わし、立派な武勲を顕わすべきときである。さらに実際的方面からみても音楽学徒はおのずから他の方面の学徒諸君とは異なる特徴をもっていることと思う。すなわち諸君は、きわめて鋭敏な聴覚をもっている筈である。そして鋭敏な聴覚は現代の戦争においては重大な役目を果たすこととなるのである。飛行機、潜水艦のような兵器の操作はすべて鋭敏な聴覚を必要としている。その他電信機、火砲などにしても鋭敏な聴覚を必要としている。これは諸君の特殊な才能、技術を活用するにもっとも好適な場所である。現今の戦争はあらゆる点において、眼だけではなく耳の戦争に移りつつある。音楽学徒諸君、崇高な任務の前に諸君が前進すべき光栄の門は開かれた。われらは謹んで諸君の武運長久を祈る。
【2007年1月22日】
大東亜音楽政策の方向<座談会>大木惇夫 徳川頼貞 園部三郎 登川直樹 京極高鋭 戸崎大尉 佐藤寅雄 笹岡巌 堀内敬三(司会)(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.2-12)
内容:堀内:先般の大東亜会議における文化昂揚の原則に基づいて、大東亜における音楽文化の昂揚ということがわれわれの大きな課題だと考えている。その点について意見を伺い、音楽界全般が大東亜に対してどういう仕事をしていったらいいか、またどういう心構えをもったらいいかといったことを音楽全般の人々に知らせたい。さっそく南方方面にいらした方から、あちらの音楽状況や日本人が音楽のうえでしなければならない活動などについて伺いたい。まず大木さん、ジャワの現状から話していただけますか。 ■ジャワの現状■ 大木:ジャワのガメラン[ママ]という音楽はひじょうにいいものだと思う。いろいろなメロディがある中に、日本の追分、安来節、八木節のような諧調をもったものや、日本の俚謡のように陽気で同時に哀調をたたえたようなもの、短歌の朗詠のようなものなどがあり、日本人にぴったりしている。ということは、音楽の面からみても、インドメシアの原住民と日本人が同種同血であるという説が頷けるような気がした。兵士がこれをとても好むので、月夜の晩に部落からガメランの楽士と歌い手を30人くらい呼んで、みな芝に座ってガメランの音楽をやる。踊り手が手つき腰ぶりも面白く踊るが、ちょうど田舎の盆踊りのような状況を現出する。一方、私たちが1943年3月1日にバンタム湾に敵前上陸してラクサブランというに2泊ばかり宿営したときに、原住民がわれわれをとても歓待してくれて、食べ物がないのに鶏を絞めたり、椰子の実をとって汁を吸わせてくれたりしてくれた。われわれが<勝ってくるぞと勇ましく>や<愛国行進曲>を歌うと、これを喜んですぐ覚える。音楽の勘がよく、3日目に次の街に進駐していくときには<愛国行進曲>などを片言まじりに歌ってついてくる。堀内:音楽が原住民と兵士のあいだに親近感を喚起するということは実に嬉しいことだと思う。その種の実例を徳川侯爵がお気づきだと思うのだが、いかがか。 ■ガメラン音楽の性格■ 徳川:心と心の触れあいを一番感じるということから、音楽の工作が文化工作としてもっとも近道だと思う。十数年前、私は少しガメラン音楽について調べたことがあり、その道の大家であるオランダ人のクンスト博士に会いに行った。そして「ガメラン音楽にもジャワ、タイ、インド、中国などいろいろあるが、いわゆるジャワ特有のガメラン音楽というものはあるか」と質問した。博士は「それはない。ガメラン音楽の移ってきた経路がそれを物語っている。ジャワにきたそれは、ペルシャあたりから起こりインドを経てコロンボから直接ジャワにきた。タイのそれは、インドを経てビルマを通りタイへ入った」といって、土地土地によってちがうことを説明してくれた。しかし大東亜の音楽のなかにはいろいろな意味における共通点がある。こういう点から、われわれは今後いろいろと考えていかなくてはならないと思う。 ■タイ国とジャズ■ 堀内:笹岡さん、タイ国のほうはどうでしょう。笹岡:昨年の秋、タイ国に国民文化院が創設されて以来、タイの文化運動は主として近代文化の向上という方向に重点を置いているよう見受けられるが、ひじょうに盛んになってきた。そのため国民文化院における音楽文化運動は、その重点が新しい管絃楽やジャズ・バンドの方向に向かっている。一方においては長い間育てられてきた古典芸術に対する憧れがあり、これを保持しようという運動も有識者のあいだにはあるのだが、芸術局に属する国立音楽舞踊学校に古典音楽の科があるのと、街の大衆的なリゲーと称する芝居小屋で古典が演奏される以外にはないため、これは消極的にならざるを得ない。ふだんは、ほとんどが管絃楽やジャズ・バンドの競演会だった。堀内:そうすると日本のように新たしい音楽と在来の音楽が二元的にあるわけですね。笹岡:そうだ。(つづく) ■愚民政策と音楽■ 堀内:ジャワあたりはどうですか。大木:オランダが400年のあいだ知らしむべからずの愚民政策をとったために、昔からの文化が阻まれていてガメラン音楽がすたれ気味になっている。一方、ジャワの南方的なアトモスフィアや色彩に米英的なものを混ぜた音楽であるコロンチョンが生まれた。むろん相当いいものもあると思うが、米英を憧れている調子がある。だからジャワ固有のガメランの方を尊重して、コロンチョンの方を改造していくことでなければだめだと思う。堀内:徳川侯爵、フィリピンの実情はどうでしょうか。徳川:フィリピンに関する限りは、ほかとはひじょうに違った点があるように見受けられる。たとえばインドネシアの文化はほんの少ししかフィリピンには来ていない。彼らがいまもっている文化は、スペインに330年統御され、アメリカのもとに40有余年あるあいだのそれで、けっきょくラテン文化から生まれたものであってフィリピン自体の文化をもっていない。このことは音楽にもいえると思う。幾多のフォークソング(民謡)は終わりの部分でコロラチューラのかたちになり、そうならなければ受けない。ピアノでいうとフランツ・リストの曲のようにばりばり弾きまくらないと承知しない。一方、メランコリックなメロディを好み、そうした甘い音楽になると日本人が足許にも及ばない巧さをもっている。正しいかどうかは別として、あるフィリピンの民族学者によれば、かつてフィリピンの民謡が海を渡っていまの地にきた関係で、自然と遠い昔の故郷を慕うといっていた。だから、ハンガリアン・ラプソディのようにゆっくりしたところもあれば、じゃかじゃかしたところもある音楽が受ける。 ■調査研究■ 堀内:佐藤さん、仏印のほうはいかがですか。佐藤:土着の音楽はあるのだが、中国色が濃厚だ。人種の点からいってもそうだし、演劇のようなものでもそうだ。カンボジャへ行くと、インドシナのガメランがある。大東亜共栄圏の各国は、どこへ行っても共通性のある音楽をもっている。ひじょうに官能的な、あるいは退廃的な、メランコリックなものがよく受け入れられる。日本の音楽関係者は今後そういう文化要素を総合的に研究しなければならない。しかし、われわれだけの目安でひとつの標準をつけることは、ひじょうに難しく、また危険だと思う。とにかく各地域の差や類似点についても突っ込んで調査しなければならない段階に来ているのではないだろうか。調査の結果によって大東亜の音楽文化をどのように指導するかを定めなくてはいけないと思う。それは占領地と第三国とで違うだろうが、仏印とタイ国には文化会館ができた。現地の文化宣伝機関で調査、指導、交流を図るというのが一番いい。日本と南方各地とのあいだには過去において音楽が交流されていたことが認められているが、音楽面に限らず他の文化との連関も今後調査をしなければならないことが山ほどある。 ■音楽者の派遣と楽譜音盤の問題■ 堀内:園部さん、音楽者や音楽団の派遣について、日本音楽文化協会の対外音楽委員会の抱負を聞かせてください。園部:いま佐藤さんがお話になった仏印の音楽の研究でも、外国人の方が腰を据えて長いことやっている。今後は間に合わせでない地についた本格的な研究をしなければいけないと考えている。ご質問の音楽家派遣の方は、指揮のできる人や作曲に明るい人をできるだけ早く向こうへ送りたいと考えている。さいきん朝比奈隆君が軍の報道関係で上海へ行くので、こちらで推薦するかたちで行き、現地で視察したことを報告してもらうことになっている。指揮者派遣は万難を排して続行したいが、この事業にはいろいろと困難がある。企画としては誰でも考え、要求されていることでもあるのだが、戦争状態にあるために実現が不可能ということがしばしばある。堀内:対外委員会でもやっているが、われわれとしては日本の楽譜や日本のレコードをたくさん送ることを大いに促進すべきだ。大木:向こうの音楽者を呼ぶよりも各地の文化機関と楽譜音盤の交換でもして、その効果をみながら時期をまったらどうか。園部:国内でさえ楽譜が払底しているので、これを自力で対外用に出版することに決めた。また、その出版ができるまでは写真でそのまま大量に送ることにして、すでに相当数送った。 ■対外音楽委員会の組織■ 堀内:京極さん、この機会に対外音楽委員会の内容を紹介してください。京極:日本音楽文化協会の対外音楽委員会というのは、元の国際音楽専門委員会をさいきん改称したものだ。1941年9月に日本音楽文化協会の創立によって設置された委員会だったが、1942年11月に情報局第3部対外事業課の支援と指導によって委員会の陣容を拡大強化して、現在にいたった。委員会ではあるが、まったく一つの対外音楽事業協会とも称する実質をもつように心がけている。諸外国に対する音楽文化の宣伝交歓、南方諸国家および諸地域に対する音楽文化工作、対外的音楽映画おいび音盤の製作ならびに普及宣伝、それから邦人優秀作曲の紹介出版などの仕事をし、あるいはこれからしたいと思う。そのためには情報局、外務省、大東亜省、陸海軍省、盟邦各国および大東亜の諸国の協会などと密接な関係をもって進んでいかなくればならないと思う。現在の対外文化政策は統一されていない。少なくとも音楽に関しては、これを一本にしたいという理想の下に進むようにしているので、対外的な音楽事業を一本にして推進していきたい。徳川:心強く思う。音楽文化政策も思いつきではいけない。思いつきでは文化の仕事はできない。根本的に充分研究されてやることをお願いする。。(つづく) ■文化侵略と文化政策■ 園部:各地に固有の文化があることと並行して、どうしても近代生活の様式化が伴ってくる。そして、この近代化が正しくおこなれるか誤って行なわれるかが問題になる。過去において日本がいわゆる洋楽摂取を行なったのはひとつの進歩の面ではあったが、ジャズの取り入れ方は決して正しいかたちで行なわれなかった。同様に現在までの米英あるいはオランダの政策は原住民の生活をほんとうの意味で近代化するのではなく、ひじょうに悪い面で、たとえばジャズ音楽をコロンチョンというかたちで押しつけたような方法を取った。現地で行なわれる音楽のすべてに対して簡単に外国的だという理由で排斥してはならないと思う。大木:同感。佐藤:米英が自分の植民地に対してもっていった音楽文化や行なった音楽政策について調査できたらいいが、それは対外音楽委員会でやるべきことではないかと思う。堀内:タイはイギリスの影響がそうとう多いのでしょうね。笹岡:イギリスもアメリカもどちらもある。音楽に限らず、あらゆる文化工作を一時的で場当たり的なものでなく、腰を据えてやっていった結果だと思う。タイはイギリスの勢力が一番入っていると考えていたが、今回行ってみて英語を話す人と同じくらいフランス語を話す人もいるし、同時に僻村の地まで米英の社会施設が昔から建てられている。堀内:病院と学校ですか。笹岡:そうだ。それが建てられた時分に、日本があのシエンマイという土地に文化施設を建てようとしたらな、おそらく相手にされないのではないかと思う。堀内:侵略計画が遠大というわけですね。笹岡:そうだが、その衝にあたる人はそう考えていない。行き当たりばったりのことを考えたら、文化侵略という看板を広げているようなものだ。徳川:フィリピンのことだけいっても、コレヒドールの要塞の攻撃にわが軍が戦果を収めたその裏には、20年30年40年の長きにわたって陸海軍がコレヒドールそのものの研究のみに没頭したと伝え聞く。失礼ながら、これだけ長い期間文化面で研究した人があるだろうか。笹岡:タイの場合をいうと、タイの「文化の日」に出されているものはジャズバンドの競演会で、彼らの嗜好からいっても心からこれを好んでいる。当初は米英のものでハイカラだからくっついたのかもしれないが、現在はなくてはならないものになっている。一方ピブン総理のもとに民族意識の昂揚という運動がある。音楽面では、たとえばジャズバンドをやる場合、一つ以上は必ずタイ人の作曲したものを入れるという風にタイ人自身の文化運動を向上させようとしているが、その作風や演奏の仕方はいわゆる欧米化したかたちをとっている。日本の場合は、これは欧米のものだからけしからんといえるが、タイでは一概にいうことはできない。だから日本音楽を紹介するならタイ人の心に食い込み得るかたちでやっていかなければならない。 ■占領地に骨を埋めよ■ 堀内:戸崎大尉、海軍の立場から気付いた点があれば。戸崎:私は占領地に行っていない。文化的な方面にはまったく接触がないので、南方共栄圏の文化工作について語る資格はないのだが、一番たいせつなことは本腰を入れてやることだ。占領地の民族を文化的に指導していくという場合には、単にこちらの政策というものだけではついてこない。というのは占領地には米英的な一定の音楽文化があったわけで、それを無視してこちらの政策を強制しても到底長続きしない。客観的にみて占領地の文化水準の少なくとも同程度以上であるというものがあって、しかもそこに芸術以外の目的をもった強力なもの、その2つの面を備えたものをもっての指導が必要だ。それを行なうためには、まず日本の音楽に携わる人が向こうの人よりも優れていなければいけない。レベル以下の人が行って指導するといっても文化工作にならない。また、ほんとうの日本精神を音楽を通じて彼らに浸透させていくだけの熱意と力をもっていなければならない。そのためには、日本の一流音楽家といわれる人が、たとえばフィリピンやジャワで一生骨を埋める覚悟で向こうの生活をして、向こうの文化を身につけ、しかもなお自分のもっている客観的に優れた日本的なものをそこへ植え込むだけの努力というものが問題になってくると思う。南方共栄圏の文化工作が難しいのは、[あちらでは]米英的な、形式からいえば進んだ音楽が一様に食い込んでいる。それを排除して、日本的な正しい音楽を植え込むためには単に日本的というだけでなく音楽的に優れたものでなければだめだ。しかも日本的なものであって音楽そのものが高まるものをもっていかなくてはならないことが根本問題だと考えている。音楽だけでなく、占領地の民族指導の場合にはいろいろな方面でそういえると思う。堀内:日本の海軍が世界無比の海軍であるのは、その努力があったから。とにかくわれわれは今からでも真似をしなくてはいけないと思う。戸崎:皆さんの努力を期待する。(つづく) ■国内音楽者の覚悟■ 堀内:国内の問題に亘っていこう。登川さん、国内のものがどう行ってもらいたいか伺いたい。登川:聞いた話では、フィリピンに《愛国行進曲》をもっていったら予想外に早く流行したが、それがたちまちジャズ化されて、中にはジャズ化されたものを盛んに演奏したために営業停止を食らったバーがあるという。そして、営業停止をさせたあとに何をあたえたらいいのかという点に、問題が残されているのではないかと思う。日本が対内的に立派な音楽を確立していなければ、外に対して文化工作をするのとどうのということは言えない。それには音楽を文化的に理解しえる人に先方に行ってもらって、じっくりと向こうの音楽を勉強してもらうと同時に、内地ではもっと立派な音楽を作るために国内にいる人に努力してもらう。大東亜各地の音楽を交流させて、互いに文化の向上を図ることが必要だが、日本の音楽をあちらにもってゆくにも立派な日本人の血が通った音楽を移して、高い文化の働きができるように、日本国内で正しい音楽を作り上げなければならないと考える。園部:国内的に音楽を充実させることそのものが対外の文化工作ではないだろうか。国内でどんどん音楽家が成長していくと同時に、その成長の姿を向こうに反映していくことも実は音楽文化工作の一つと考えなければならないと思う。フィリピンとビルマの独立という機会に際して、日本人の感情を伝えるという意味から、歌曲を2曲とオーケストラ曲を2曲作曲して向こうへ贈り交流の強化を図ることになっている。堀内:これに関連して、南方の諸国から日本へ留学生を派遣するような案が実行されていると思うが、音楽のほうでは専門のものが来ていないように思う。それに対する施設とか計画はあるか。園部:輸送関係などで不可能になっているが、計画はある。 ■国民性を度外視するな■ 佐藤:現地では、日本の兵隊たちは歌を歌うし、原住民が日本の歌をまねている。現地の文化工作も音楽者の派遣もしなければいけないので、計画倒れにせず、これを常時やるように移していってほしい。対外委員会のようなものも、現地機関に楽譜を送るなり、人を派遣するなり、速やかにやってもらいたい。そのためには陸海軍部、各省、その他団体においても音楽の面で協力し、先の点を恒常化する具体的な方策を速やかに決めてもらいたい。笹岡:その際、あちらの国民性や嗜好をほどよく汲んでほしい。映画を例にとると『希望の青空』『支那の夜』のようなものが大当たりした。次に『純情二重奏』をやったら、これも知識階級や学生から褒められた。この映画の中に出てくる国際劇場は、日本にもこういう劇場があるのかと感心していた。そういうかたちで、向こうの人が金を出して見て喜ぶものをもっていく。これが絶対必要だ。ところが、愚劣な映画はいかん、日本の重工業その他の文化施設を映した文化映画を送れという人がある。お説ごもっとだが、ずっと前に文化映画を上映してほとんど失敗した。一方アメリカ映画は天然色映画もあり、スピーディで興味本位にできていて面白いものだから、日本は太刀打ちできないではないかと考えたが、これも案外不入りの場合が多い。その原因は、やはり日本のものに対して親近感をもつのではないかといことだ。だから音楽の場合でもジャズが食い込んでいるからといって、日本のものが決して受け入れられないということではない。ただし、受け入れられるようなかたちでもってこなければならない。尺八の名人が来たというと、シャランクルン劇場にぽかんと立たして吹かせている。招待客は黙っておとなしく聴いているが、三等席では笑い出す。尺八のいいことはわかっているが、眼を楽しませない。わからせるような方法を採らなければいけない。(つづく) ■高い文化を与えよ■ 徳川:私は10年間、国際文化振興会に携わってきた。さいきん約1年間フィリピンにおいて文化工作を目の当りにし、自分がやってきた経験からいっても、文化工作というものは国策に沿わなければならない。また政府の意図する以外の文化工作はありえない。一番重要なことは、現地の人たちのいろいろな具体的なものをベースにした音楽政策、文化政策でなければならない。園部:私もそう考える。一般に原住民はひじょうに音楽の素質がある、才能があるといわれている。しかし徳川侯爵が言われたように、リストや後期ロマン派の華やかな音楽は理解されているが、古典音楽はそれほど理解されない。向こうでは音楽あるいは広く文化の取り入れ方が悪いのではないかと。これを是正することが私たちの仕事とすると、本当の意味の文化、日本人が消化しうる高いものをもって行くことも、ひとつの大きな役目と思うがいかがか。笹岡:まったくそのとおりだ。優秀なものをもって行かなければだめだ。向こうも音楽的な素養をもっている。音楽を理解する能力は相当に高度だと思う。タイ人の場合でも、音楽を鑑賞する能力はひじょうにある。ダンスを例にとると、タンゴならタンゴらしい感じやワルツならワルツらしい感じをもって、身をもって楽しみながら踊っている。これはある点では日本人以上だと思う。この点を良く考えなくてはならない。 ■大東亜音楽大会開催の可否■ 堀内:大東亜全音楽家は、今後あらゆる面で協力していかねばならないと思う。日本が大東亜全体の楔となって近親間を促進している立場にあるから、この意味で大東亜音楽家のあいだの連繋の機関を作るとか、あるいは一種の会議を開くとしたらいかがか。徳川:たいへんけっこうだと思う。フィリピンの音楽家は、それを期待していると思う。日本へ来てもらって、彼らの目で日本を見てもらうことが今後の音楽政策において有力なものになるのではないか。フィリピン人には高い音楽的教養をもっている人がそうとういる。アウアーの弟子もいれば、ルビンシュタインの親友もいるというから、何かを得て帰るのではないかと思っている。大木:そうした会議で親愛感は充分作れるだろう。音楽を通じて国と国との友好的なものが醸造できると思う。問題は輸送関係だろう。中国や満洲あたりからはいつでも来られるが、ジャワやマライ、フィリピンあたりから来るのはいまのところ困難だ。佐藤:そこで現地自弁主義がでてくる。交流も現地でできる。指導者兼演奏家が行けば、指導もできるし演奏もできる。現地自弁主義がそうとう効力を生ずるのではないか。大木:理論だけでは駄目だ。一堂に会してざっくばらんに話して、酒でも飲むということが効果があると思う。音楽工作は効果を急いではいけない。作為のあとが残らないで、天衣無縫に行くべきだ。(完)
【2007年2月5日+2月10日+2月18日+2月25日+3月2日】

故田村虎蔵氏の唱歌創作牛山充(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.13)
内容:故田村虎蔵が東京高等師範学校附属小学校に在任中、動向の唱歌教育は世の模範だった。この模範教授の背後には、唱歌教育家として当時もっとも豊かな知識と実力、そのうえ立派な人格を兼備していた結果、自然と湧きあがった人気が働いていた。それをもっとも明らかに示しているのが学習院の納所辨次郎と共編で出したおびただしい小国民唱歌の文化財である。田村がこれに着手する前に出ていたのは、東儀季治(鐵笛)が代表していた明治音楽会編輯の『学校唱歌』(上巻=明治31年、下巻=明治32年)と多梅稚編輯の『日本唱歌』(1、2、3集=明治30年、4集=明治31年)などで、小学校用としては歌詞が難解で、極も遺憾な点があった。田村は既存唱歌教材の欠点を熟知し、これに代わるより優良な教材の創作を意図したらしく、納所辨次郎とともに『教科適用幼年唱歌』の編輯に着手し、初編上巻を明治33年6月に銀座の十字屋から発行、4編下巻を明治35年9月に発肆、全10巻を完成した。曲数88、多くは両氏の新作で、うち田村は32曲を作曲した。その中に《金太郎》(マサカリカツイデ)《花咲爺》(うらの畑でポチがなく)《お雛様》(上の段にはだいりさま)《大江山》(昔丹波の大江山)《牛若丸》(父は尾張のつゆときえ)等の名作がある。この幼年唱歌ほど全国津々浦々で歌われたものはなかった。明治36年から38年にかけて教科統合少年唱歌全8編を十字屋より刊行。80曲を世に送ったが、そのうち田村は21曲を作曲した。その中には《虫の楽隊》(桑田春風作歌)が収められている。編輯上の主義は幼年唱歌とだいたい同じだが、修身、国語、地理、歴史、理科などの教科との連繋をつけ、季節を考慮しつつ各学年に適合させているに苦心がある。これら2つの名著によって自信を得た田村は、同僚高師教授の佐々木吉三郎をくわえ、納所と3人共編で「国定教科書準拠諸教科統合」と銘打った『尋常小学唱歌』を、第1学年より第3学年まで全8冊を明治38年10月から翌39年1月までに日本書籍株式会社より刊行(80曲、うち35曲を作曲)。ただちに高等科用の編纂にすすみ、高師教諭大橋銅造を共編者とし納所とともに明治39年11月から翌40年12月までに1年用から4年用まで8冊(曲数120、うち32曲を作曲)を世に送った。つづいて、さらのその「新制」版を三氏共編で出し、前後十余年の年月を費やしてこの偉業を完遂した。これらの歌曲集が小学校における唱歌教育の根幹を培った功績は大きく、多くの作歌者と協力して小学唱歌の歌詞を文語体、稚文体から口語調に移し、今日の文部省唱歌に誘導したのも田村が納所と協力して努力した結果である。
【2007年3月7日】
邦人のピアノ作品井口基成(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.14-17)
内容: わが国の演奏部門で一番進んでいるのはピアノだとさいきん言われているが、作曲の中ではピアノが一番劣っているのではないかと思う。作曲家が作曲を勉強するにはピアノが不可欠であることは確かなのに、その方面の勉強があまりできていないためではないか。またピアノ作品には、ひじょうにピアノ的な作品と、ピアノ的ということを顧慮しないで表現した作品の二通りに分けてよいかと思う。前者はピアノを思うように奏せる人が作曲すればよいのだが、近代ではいわゆる表現技術が高度になったため、作曲家が演奏家であることができにくくなった。また、ピアニスティックな装飾を施した曲も世界的に少し行き詰ってきているので、日本で現在ピアノ的な作品をかける人は、ほとんといないように思う。後者は、これまで作曲をする人はといえば演奏技術があまり得意ではないため作曲をしようという人が多かった。いわゆる音楽の基礎の勉強が足りないから、作曲そのものからいってもオーケストラ曲とか歌曲とかいうものは音楽的内容以外に色彩をもっているが、ピアノ曲はごまかしがきかない。ピアノ曲不振の根本原因はそこにあるのではないかと思う。  日本のピアノ曲に、日本的な旋律や東洋的な旋律を導入したらどうかということがわれわれの場合としては考えられなくもない。だが、音楽の扱い方として、それをそのまま西洋の楽器にもっていくと行き方にいろいろ困難があるように思う。ハーモニーの研究とか対位法の用い方において、一定の手法が確立されなければ良い作品は出てこない。たとえば日本の旋律をピアノに現そうとすると、たちまちその魅力を失ってしまう。いままでの行き方は、一つの方向に進み、そこで少し目新しいことを発見し、それを生かしてうまくいくとそこで止ってしまう。しかし、これは作曲家としての技術的な行き詰まりではなく、精神的な行き詰まりのような感じがする。音楽そのものをどの楽器にでも流していくだけの人がいないのである。音楽的感覚の勝れた人はいるが、それを巧みに流していける人が少ない。それには、様式の問題はどうもよいように思われ、要は内容の問題である。しかしピアノの楽式にもソナタがあり、プレリュードという形式もあるが、これらの形式でもなにかしっくりとこない。だから、いまみんな新たしい楽式を探しているのである。  ピアノ・ソナタの作品を作曲した諸井三郎は、ほかの人にないものをもっている。それが一般に受け入れられるかどうかはともかくとして、井口はそこを買った。部分部分には模倣もあるかもしれないが、あの曲はだいたい泰西の曲に比べてもどこか違ったところがあるように思う。それを非常に感じたので、何か現わしてみたいと思って演奏した。あの曲はもともtもピアニスティックな立場から作っていないで、自分が描きたかったものを、ピアノに当てはまっても当てはまらなくても書いてしまったのだろうと思う。それだけに面白いところあればピアノとして流れないところもあるかもしれない。諸井以外の曲も努めてみるようにしているが全部は知らない。清瀬のソナチネも小倉の今度のコンチェルトもまだ見ていない。さいきんピアノ曲で効果をあげているのは尾高尚忠ではないかと思う。尾高のピアノ曲はだいたい面白い。定評ができかかっているように思う。さいきんの彼のソナチネはピアノとしての効果があるが、手法は少しフランス的である。もう一人こんど上野を出た小林福子がいる。作曲の才能も小さい頃からあったし、ピアノもピアノ科を出た人よりよく弾ける。この間コンチェルトを描いたがピアノとしての効果を少しあげている。ただそのほかの足りない面がある。だから教育の仕方でこのように育ててゆけばピアノ曲の作曲者にいいのが出てくるのではないかと思う。(つづく) 
 ピアノの教育については、井口は小さい子を教えていないが、教則本はドイツのものを使っている。それに代わる日本の通俗な教則本や練習曲がなければならない。それをやりかけたのが園田清秀である。音感教育をはじめ、子ども向きのバイエル、フランスの教則本などを参考にしていたが早く亡くなった。園田以外にも子ども向けバイエルをやりかけたものもあるが、園田のように一貫した理想に欠けていたので中途半端に終わった。チェルニーのようにいままで良いとされたものにはそれなりの理由があるから、無視してよいことにはならない。若いピアニストに望むものは、いたずらに一流のヴィルチュオーゾ的なことばかり望まないで、音楽全体を考え、おのおのに課せられた目的を自覚してかからなければいけないと思う。音楽そのものが併行していかなれば、完成したヴィルチュオーゾはできない。近ごろは若いものほどいいのが出てくるようだが、惜しむらくは男が少ない。これは親の理解がないこともあるし、世の中の教育の仕方にも欠陥がある。いまのところ仕方がない。  音楽家の修業について考えてみる。演奏で一つのキーをたたく場合でも、そこから出てくるどんな意味をも知らなければ本当のテクニックはわからない。そうした研究が足りない。ただ漠然と演奏しても立派な音楽にはならない。研究をするには、まず曲に当たっていろいろ考えていくことがぜひ必要である。小林福子の場合でも、指が動くようになってから、いろいろな曲を当たらせた。近代の曲も古い曲も、なんでもやってみさせる。そのようにいろいろなところを通り抜けてはじめて、どんな新しい手法をもった曲でも演奏できるし、作曲ならば書けるようになる。ピアニストとしての勉強の場合は、やたらに飛び込まないで階程を踏まなければならない。たとえば、バッハとかベートーヴェンとか、よくその基礎を作っていかなければならない。この階程をふまずにロマンティックな曲とか近代の曲ばかり一生懸命弾いても何にもならない。ひとつの拠りどころを作って、そこを抜ければよくなる。それはいまのところ、この階程よりほかにない。エチュードの階程をドイツやフランスで行なわれている通り、われわれがやってよいかという議論もあるが、それは枝葉のことである。だいたいの根本はバッハやベートーヴェンである。(完)
【2007年3月12日+3月22日】
楽譜の効力に就いて(二)/田中正平(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.18-21)
内容:四.楽譜の作曲術に齎す便盆 西洋の作曲家は普通の唱歌およびピアノその他の鍵盤楽器操縦の教養によって五線譜に通暁し、和声学、対位法および一般作曲術を師について修業する。学習の際は、終始楽譜を用い、また進んでは伝来の読本[市販の楽譜のことか・・・小関]により自己の欲する領域において古今の名曲を思うがままに分解し考覈[こうかく=考え調べること]し得て、独習的に音楽一般素養を高めかつ深めると同時に、自己思想の表現に多くの参考思材を収集する。作曲は心に浮かぶ旋律や拍子割や和声構成が音諧のかたちとなって現れるところを五線に移写して、まず熟慮検討し、これを改竄して作曲行為は終わるのである。こうして作曲術は一種の専門となり、作曲と実演とはおのおの分業として成立する。ここに楽譜が重要な仲介役を果たすことになる。/一方、邦楽の新曲が現れる状況を見ると、おおいに前述と趣を異にする。筝曲および三味線曲の新作の手順についていうと、まず作曲者は斯界の古今の名曲に通暁している博識者でなければならない。そして台詞が与えられて作曲にかかるとき、だいたいの構成について作意と創を練ったうえで、一部一部順に伴奏と合の手を具現する。楽譜を理解しない作曲家はその成果を記録する利便を欠くため、一時これを記憶に留めおき、作曲が進むにしたがって規制部分と照応しようとしてもそれを忘却することもあり、また既成部に改変を行なうにしても、前後に混乱をきたし、長編を仕上げるまでにはひじょうな労苦を嘗めるのを普通とする。その救済策として既成部分を門弟または同業者に授けて記憶させ、こうして部分部分を順次決定し、最後に彼らより逆に全曲の教授を受けるという奇妙な段取りとなる。こうして伴奏部が完成すると声の節回しの完成に着手する。そこにもまた同様の苦難は避けがたい。以上は楽器単奏の場合であるが、既存の曲に上調子または替手を付加しようとするような複奏曲の新作にあっても、前述と同様本手を他人に弾奏させ、それを聞きながら作曲者は自ら楽器をとって本手に適応する副声を工夫しつつ試奏するのである。こうして新曲の発表は作曲者自身の演奏を常とする。他人に演奏させるにしても作曲者自ら教授の労をとり伝授しなくてはならぬので、この間に生じる煩累は楽譜の自然伝播力を利用できない結果である。邦楽の多声楽曲の創作は上述のような困難と不便がともなうため、この種の楽曲は頻繁に現れず、ついには多声楽にたいする聴衆の感覚は鈍り、ひいては楽界不振の主因となる。/さらに邦楽の作曲家は楽理理法の摂取と探求に知的教養を欠き、作曲に際しては自己の流儀以外は思材の自由採択の能力なく、他流の楽風は時おりの聞き覚えによる断片に過ぎず、芸術的視野の局限された狭い範囲にとどまる。といって中年以降数多の他流派の門に入って、それらの真髄に徹しようにも時すでに遅いことを嘆くこととなる。これは、彼らが当初より原始的で偏頗な音楽的教養を受けたことと、楽譜の応用能力を欠くことに起因しなくて何の理由があろうか。 (つづく)  五. 楽譜は演技を促進する 演奏会場等における洋楽の公演では、独吟独奏の際は暗譜で行なわれる慣習があるが、伴奏は譜を見ながら行なわれる。同様に室内楽や管弦楽に関係する音楽家もみな譜を前に置いて演奏する。これらの音楽家たちは演奏曲目をすべて暗記しておく必要はなく、演奏直前の下さらいの際にそれを取りあげて随時練習すれば足りるとされている。独演者も程度こそ違うが、ただ出演前に譜を暗記すればよい。元来演技には2種類の要件があり、その一つは旋律、律動、和声を織り込んだ曲のプログラム、第2は曲の芸術化、入魂、すなわち美装用意である。前者は作曲者より指定された要素で、各曲その構成を異にするものだが、演出に際しては何人も墨守しなくてはならないものである。しかし不断にそれを記憶にとどめておくことは頭脳の著しい負担となり、どちらかといえば機械的な労作を意味する。反対に後者の演技の美化は、演奏者の芸術的個性と魂の光と、美観と当座の気分とが音に乗って躍出するのであって、これに対しては各音楽家の平素の芸術的一般的教養や鍛錬がものを言う。すなわち、前者は譜によって各瞬間に明示されるのであるから、これが譜の演出を促進する重点となる。/これに反し楽譜を使用しないで行なわれる邦楽の演奏振りは、従来は概して永年の記憶によったといえる。ただ歌者が演奏中台本を使用する特権があるのみである。その結果、音楽家は常に自己の属する流儀流派に用いられる100以上にものぼる楽曲を暗記しおく習慣となり、音楽教養が狭隘なる境域に限られることとなる。したがって新曲に斬新な手法が用いられると、手順が悪いとか覚えにくいという口実のもとに、それを忌避したり排斥しようとしたりする。また上調子、替手のような透明で単純なのを除き、複音楽曲の演奏が等閑に付されがちになるのは記憶力の負担があまりに大きいことに起因する。 六. 音楽学理の探求にも楽譜は不可欠なり およそ音楽理論の確立は他の学問におけると同様、目的物に対して一定記号の制定とそのあまねき運用とより始まることは論を俟たない。西洋で600〜700年前に楽譜の普及をみて以来、新作曲のみならず音楽に関する事象は音譜によって具現され、また永久不滅に蓄積され累積されつつある。彼の地における主要都市には音楽書類の大規模な図書館の設備さえあって、羨望に価する盛況である。わが国では音楽学徒の道しるべとなるべき音楽史さえ満足に備わっていない。これまでわが国の音楽史は斯界英雄の伝記や苦心談や奇談に終始し、不足不備の議を免れない。音の実質に迫り、思想変遷の実相を把握させるに足る記録であるべきであるが、この目標に達するには、われわれの手許にある古くから伝わった稽古本式でははなはだ不充分である。それらはとうてい楽曲の全貌を窺うことができないからである。差当たり直伝の存在するものについては確実にこれを固定して、後世の史材の一部に供することが現代の務めであるべきだと思う。 (つづく)  七. 楽譜が音楽教育に及ぼす影響 わが国で古来音曲と呼ばれたものを習い嗜むのは、茶の湯、生花のように稽古ごととして婦女子のしつけとか、もしくは一般人の遊びごととか社交の具とかの趣味本意となり、技能の高所に達することを念じない趣である。その現われとして教育が自然発生、原始的な範疇を出なかったのは無理からぬことである。こうして初心者にはその年齢を問わず、始めから簡単な中にもそうとうの芸術味を含んだ小曲を、単に模倣のみを利かせて暗記させるという方法が長年月にわたり絶えず繰り返されるうちに自然と上達し、芸術観が円熟するのを待つのである。器楽曲においては、ただ簡単な曲より順を追って複雑なものに進めるのに対して、歌声の練習には趣を異にする点がある。元来本邦の芸術歌謡は初歩の曲でも、その本来の芸術味を発揮するには微細な節回しが付随し、口喉の複雑な操作を要するから初心者に吹き込むことはできない。そこで教師は最初、節を単純化して教授し、耳と喉の発達にともなって唱法を向上させていくところは、幼児が国語の発音を会得する順序とほぼ等しいのである。受馴者がその呼吸を呑みこめるようになるまでには、多年にわたる熱誠と練磨とを必要とし、また各流派にはそれぞれの特色を表出する固有の節回しがあって、これらがいかなる音の連続より成立するかの認識のはなはだ困難なものが少なくない。西洋の声楽においてもコロラチュラと称する装飾走句はあるが、これらを構成する諸音はみな譜面上に明示されている。邦楽の走句は各人これを意識的、多くは無意識的なあいまいな分解のもとに何百回、何千回の労苦を重ねて初めて克服できるものである。たとえば常磐津浄瑠璃または清元浄瑠璃を特色づオトシと称する微妙な句節は、在来の稽古法式によれば普通人は十年余にわたる鍛錬をしなければ正確に唱出できないといわれてきた。この種の困難は、要するに楽譜の使用さえ普及すれば容易に解消すると信じて疑わない。その他、邦楽の従来の教授に楽譜を有効に使用しないために起こる不便不利は挙げればたくさんある。なかでも人間の記憶力にもっぱら頼ることが最大の短所で、わが国音楽の進歩の障壁となっているすでに述べた。 八. 結び 近年、邦楽界においてこの問題が真剣に取り上げられ、有為の邦楽家は作曲上に、演奏上に、さては教育上に楽譜の有効で欠くべからざることに覚醒しだし、その採用普及に邁進しようとする気運に向かいつつある。その結果箏、尺八等に対しては古来の様式が復活採用され、三味線には新奇の楽譜様式が案出されて実用化しだした。これらの様式には姑息的な要素がないとは言い切れない。上述の創始者の多くは、邦楽の表出に西洋式五線譜が有効であることを充分意識し、幾度か応用普及に尽瘁する向きもあったのだが、中途で挫折するものが多かった。初歩の楽徒を導くには有効な楽譜でありえても、楽曲が複雑になるに及んで、その欠けるところところが露呈し、高遠な楽想を盛るに適さないことが認められるにいたるであろう。したがって、今後、五線譜のような完備された形式を採用することは邦楽の健全な振興を促進するうえで、また日本音楽趣味の世界宣揚の具として、鋭意五線譜のような完備された様式の採用普及が緊要事であることを切実に思わせる。
(完)
【2007年4月9日+4月14日+5月1日】
決戦下の各地楽界(1) ジャワ ジャワの便り櫻井陽一(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.22-24)
内容:ジャワは文化的には程度が低いように見受けられる。音楽も同様で、ほとんど軽音楽の域を出ない。とはいえ、音楽は好きなので、ラジオにおける音楽の占める時間は多く、夜中の24時まで一日が音楽で暮れていくありさまである。その内容は、西洋音楽、インドネシア音楽、中国音楽などさまざまである。/西洋音楽はワルツやアコーディオンの類が主で、古典はわずかしかない。いずれもレコード音楽が大半である。ここでは放送局のオーケストラが一番いいが、これはフォールマンというルーマニア人(と称している)がやっている合奏団が中心となっているようだ。以前、この合奏団はこちらの大きな飲食店に出て、酒間に音楽をそうしていたが、いまはラジオ専門と見受けられる。主に軽いものを演奏するが、本格的な古典の生はまったく聴かれない。/インドネシアの音楽はガメラン[ママ]とコロンチョンだが、ガメランは鉄琴属、ドラ、太鼓などを主体とした打楽器の合奏で、芝居の伴奏などとして聴くといいものだ。飯田信夫はコロンチョンの改革を唱えて、ガメランの精神に還れといっているようだ。コロンチョンは、ジャワの専門家に聞くとポルトガル人がジャワにもってきものだという。いまではハワイ音楽の影響を非常に受けている。こちらの流行歌のようなもので、昔からあるコロンチョンとランガム・コロンチョンの2種がある。《トラン・ブーラン》などは前者で、《ベンガワン・ソロ(ソロ河)》や《サプランガン》《プラウ・ジャワ(月明り)》などは後者だ。後者は前者にくらべて多少形式を新しくしているだけだ。これらのコロンチョンの演奏形式は、いわゆるフォックス・トロットの伴奏形式をもつハワイ音楽の影響が顕著なものと、絃のピツィカートと太鼓の伴奏で行なう素朴なものの2種がある。楽器の編成は簡単で、曲の和声もいたって単純なようだ。管絃楽団はいくつかあるようだが、放送局のそれが一番よいとのことである。なおコロンチョンをやるときは、放送局の楽員はほとんどインドネシアとハーフカストである。(つづく) コロンチョンが歌なしで演奏されることは珍しく、歌手は多くは女性である。彼女たちはほとんど略符を使っているが、かもし出す雰囲気は日本人にはちょっと出せない。彼女たちはハーフカーストもいるが、インドネシアが多い。ヤコバという歌手はとても日本の歌が上手だ。先日《荒城の月》《暁に祈る》などを聴いて感心した。日本の歌はラジオや学校ばかりでなく、「ジャワ・バルー」(新ジャワ)や「ビンタン・スラバヤ」(スラバヤ明星劇団)などの劇団の歌手たちも歌うようになり、さいきんではだいぶ上手くなった。これらの劇団は中部のソロあたりを本拠とするするものが大半である。彼らの踊りはジャワ踊りの大宗であるソロやジョクジャで研究したものが多いのだろうが、バリ島の踊りなども見せてくれる(バリで見るものより、よほど舞台化されているが)。なお、歌手の報酬は内地の放送の場合の10分の1から3分の1くらいまでである。われわれが歌ったので、ベンガワン・ソロが一時兵隊の間ではやったが、いまはサブ・タンガン(ハンカチーフのこと)やデイ・バワ・シトル・ブーラン(月光の下で)などがはやっている。コロンチョンも漸次流行していくので、有名なものだけでも数十を数える。/日本の歌は、以前はどこへ行っても《支那の夜》《蘇州夜曲》《雨のブルース》《二人は若い》などだったが、さいきんは《荒城の月》その他の程度の高いものが歌われている。これらの曲はコロンチョンなどの歌調とある程度似通っていたので歌われたのだと思う。ともあれ内地の優秀な音楽を音楽好きのこちらで聞かせることはよいことだ。音楽ばかりでなく、映画でも同様である。《ラジオ東京》というようなものを広く原住民に見せたら何というか。彼らは日本についていままで何も知らない。(完)
【2007年5月6日+5月13日】
◇決戦下の各地楽界(1) 満洲(1) 満洲の楽界と日本への提言/村松道彌(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.24-26)
内容:人種的にも、また音楽のうえにも、大和民族と共通点の多い蒙古民族に対する文化政策立案を同地の機関より委嘱されたので、興安蒙古地方を視察してだいたいの構想を得て帰ってきた。中央アジアを縦貫して欧州、アジア、日本を結ぶウラル・アルタイ民族の血の中には文化面においても共感するするものが多くあることを感じ、かの成吉思汗が欧亜の地を駆け巡ったように、村松の夢も欧亜にまたがる草海を駆け巡ったのである。帰ってくると、音楽雑誌社より「満洲楽壇の現状」について書けという電報が来た。しかし、満洲の音楽界のことを思うことは楽しくないのである。/評論活動はいたって不活発というよりほかない。人も発表機関も少ないし、批評の対象となり、それに耐える音楽現象もないというのが満洲の音楽界の現状である。主な文筆活動をしている人は、○鳥羽亮吉、(□北小路功光)、○白根晃、○川路一郎、○井村雷太郎、○佐和輝禧、□鈴木正、□市場幸助、□鎌田敬正(○は筆名、□は本名)に、村松くらいのものである。筆名が多いのも、職業上のいろいろな事情で本名が出せないのであって、ディレッタントの域を脱していないのである。村松が渡満した一昨年あたりは北小路氏一人であったのに較べれば、賑やかになったといえよう。主として文筆を行なう有志によって、昨年来、音楽懇話会という会合をもち、満洲音楽界のことについて熱心に語り合い、そこで話されたことが勤労者の合唱運動や創作活動、あるいは評論活動、音楽行政、弦楽合奏団、放送といった各方面で行動に移されていることは、満洲における唯一の真実を語り合う会合になっていると思う。/作曲界は1943年3月、政府弘報處の指示により満洲作曲家協会が日、満、鮮、露人約50名によって一元的な組織が結成され、初代委員長に野口五郎が就任した(京都大学出身、同大学管絃楽部員でもあった)。委員には市場幸助、丸山和雄、松本秀治、佐和輝禧、陳其芬、イワニツキー、松浦和雄、安藤清彦、宮原康郎の9氏が、事務局長は村松が政府より任命された。本協会は前記音楽懇話会から発展した満洲作曲研究会が母体となり創立されたものである。本協会の設立により、日系作曲家の指導のもとに多数の満系作曲家が育成されつつあり、彼らによって満系向けの楽曲が続々と作られつつある。/演奏界については、だいたいにおいて作曲活動の活発化に反比例して演奏活動が不活発であるといえる。勤労者の厚生音楽としての各種の音楽団が起ころうとしていながら、良い指導者を得ないためにそれらが正しい活動を開始できないでいる。一昨年、楽団の全国的一元組織である楽団協会が設立されたとき、村松は、指導者の再教育と養成が急務であることを強調したが、協会は何の対策もなさずに今日に至っている。出発と軌道を誤った満洲のこの面を正しい軌道に乗せるには、大きな隘路がある。希望に燃えて渡満してきた優秀で有能な音楽家が、いく人も悲憤の涙を呑んで日本に引き上げていったことか。現在でも失望から日本に引き上げようとする有能な音楽家は多数いる。今日では、もはや施す術もないのが現状で、村松としては祖国の皆様に申し訳ない次第である。/最後に、日本の援助によって建設されつつある東亜各国、各地域の音楽文化建設に、満洲国がなめたような前轍を踏むことなく、正しい軌道の下に進展させ、ひいては祖国日本の音楽界に次の各項が実現されるよう提案する。
1.東亜共栄圏各国の民族音楽と現状の調査.。
2.日本を中心に、より高い強力な力の発動により大東亜全域にわたる音楽指導者、行政、技術、教育の配分計画の樹立。
3.音楽指導者の練成所の設立、全東亜の音楽指導者を順次同所で再教育する。
4.再教育された指導者は適材適所に配置し、現地住民の青年層に中心目標を置き、現地の特殊性を活用して実践活動を行なうよう再編成する。
5.全東亜の音楽政策の参謀本部に当たる組織を日本につくり、年1回大東亜音楽会議を開催、最高方針を決定し各国各地にその支部を確立する。そして本部の指導統制のもとに大東亜の音楽者全員が戦闘配置につくようにする。
6.人が余る場合は、それらの人々は潔く生産面に転じてもらう。
現時局を正しく認識する者は大英断をもって上記6項目を断行することが、国に忠誠を尽くす唯一の道であり、音楽家として応える唯一の道であると信ずるものである。
【2007年6月3日】
去燕来雁歌 <詩>高祖保(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.27)
内容: 省略
軍用機「音楽號」献納金募集要項/日本音楽文化協会(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.27)
内容:1.趣旨 戦局凄烈の度を加えつつあるので、楽壇の総力を結集して軍用機「音楽号」を献納し、これを空の決戦場に送ろうというもの。全音楽家の協力を要請する。 2.期間 1943年12月1日〜1944年5月31日 3.目標額 金10万円 4.献金方法 個人あるいは団体の拠金および事業収益とする。(1)拠金: 金額に制限を設けず随時受け付ける。一個人100円以上の場合は、あらかじめ予定額を本会宛に申し込み、分納することも可。(2)事業収益: イ.軍用機献納音楽会その他収益の全部 ロ.一般音楽会収益の一部 5.受付 (1)社団法人日本音楽文化協会「軍用機音楽号献納金係」宛 (2)本会の説明書を所持する募金係に寄託すること 6.献金者発表 献金者氏名は本会機関紙「音楽報国」誌上に発表する
社団法人日本音楽文化協会
東京都京橋区銀座西8ノ8(新田ビル)
【2007年6月10日】
現代邦楽の伝統(二)町田嘉章(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.28-31)
内容:能楽の芸術的構成 型の芸術としての能楽 今日の能はその主題においても、演技方法についても、現代とは非常にかけ離れた世界にある。しかしこれは能楽に限らずすべての古典芸術の通有性らしい。古典芸術の総括的な特色は「型に嵌って行動する」ことである。しかし能楽でも歌舞伎でも創成期には型に嵌った芸術ではなかった。それが型に嵌るようになると、時代とは没交渉になる一歩を踏み出す。それが技芸として優れていれば、芸術品としての完成にはなるかもしれないが、生きた生命力は失われてしまうのである。ただ、だからといって存在して悪いことはない。しかし、現代の芸術が能楽や歌舞伎のみであっては困るので、もっと生きた芸術がこれと並んで欲しい。それには既に型がある芸術ではだめで、これから型を作る芸術でなければならない。能楽の大成者といわれる世阿弥は、この型を作り出した。その立派さには驚嘆するが、当の世阿弥は型の妄信者でも奴隷でもなく、よい意味での芸術上の自由主義者であったことは愉快である。ただ、その型があまりによくできていたために、後継者はその型の中に溺れてしまった傾きがあったのである。能はすでに世阿弥時代から将軍や大名等その時代の最高権力者の庇護を受けたために、いっそう時代の主流から遠ざかることとなり型だけを逐ってその日を安逸に暮らすことになってしまったのである。 曲舞と小歌節の摂取 能楽(世阿弥の時代の申楽)に先行した芸能に「田楽」がある。田楽の発生系統は申楽とは全然別ではあるが、社寺に属して芸能で奉仕した一団であって、一忠、亀阿弥、増阿弥等という名人が相次いで現われ、ことに一忠には観阿弥自身も私淑していたほどである。後発の申楽が田楽を圧倒した理由は、田楽や大和申楽以外の近江丹波申楽等がそれまでもっていた写実主義を忘れて、単なる情緒本位の末枝に拘泥する傾向にあったことを観阿弥は感得して、申楽を写実主義を土台にして情緒主義の花を飾るように改変したためである。もう一つ、当時の流行芸である「曲舞」と「小歌節」とを取り入れて思い切った改革を行なった。曲舞は鎌倉時代末から南北朝へかけて流行った新舞踊で、曲は正しくないという意味をもち、典雅趣味から鄙俗趣味へ移ったところから一般庶民に歓迎されるところなった。これを観阿弥は取り入れて自家薬籠中のものとした。ところが、元来の曲舞は拍節式の動きが主で旋律的な点が欠けていたので、その欠点を除くために当世風な小歌を加えて、耳で聞いても面白く観ても楽しい芸能を作り上げたのである。現代に当てはめれば、浪花節や歌謡曲のように一部階級には下賎視されていても大衆がおおいに喜ぶ芸を躊躇なく舞台に取り入れたのである。だから、浪花節語りと同じ技芸証の鑑札を受けることは能楽師の恥辱であるなどという今の能楽家連中が観阿弥、世阿弥の芸統を継いでいると思うと、誠に情けなくなる。観阿弥の改革は田楽のみならず同類の近江、丹波の申楽にまで強い影響を与え、諸流がこれに追従するようになった。大和は、観阿弥が所属していた圓満井、結城、外山、坂戸の四座のあるところで、観阿弥はその結城座の出身で、他の三座も結城に牛耳られることとなった。それは一つには観阿弥、世阿弥が三代将軍足利義満の庇護を受けたことにもよるが、芸術上においても両人の出現によって大和の四座は結城を中心として行動するようになった。圓満井は後の「金春」、外山は「宝生」、坂戸は「金剛」で、この四座が申楽を代表するようになって徳川時代に四流の家元として認められるようになり、近江申楽の山階とか丹波申楽の梅若などはこれらに従属する家柄となってしまったのである。以上、創成時代の大和申楽がその芸術的根拠をどこに求めたかを大づかみに記述した。次に観阿弥が荒っぽい改革の後を受けていかに処理し、これを大成したかについて記そう。(つづく)  序、破、急の構成観念 能の舞と歌の両面でその構成を基礎づけているものは序、破、急の観念であろう。序破急は舞楽の構成形式に附せられた述語で、序は序引で物の発端を示す不定形の部分、破は入破で転換を意味する。急は急速で最後の締めくくりの表現である。この理法は単に芸術表現のみにとどまらず、森羅万象に共通した観念だといえよう。この序破急の観念は、能の方では徹底していて番組にも舞台的構成にも、行動進退にも詞章にも、舞にも謡にも囃子にも序破急の支配を受けないものはない。したがって、序破急の表現や演出には突如としておこる爆発的な変化というものはなく、あくまで静かで動きも漸進的である。そこに能の封建的な気品が現れており、現代の芸術的表現とはだいぶ違っている。この観念をかたちの上へ現わすもっとも適切な標準を5という数に区分する考え方があり、序が一段、破が三段、急が一段で全部で五段の運行となるのである。能の分類を、脇能物、修羅物、蔓物、雑物、切能物と五番にすることも世阿弥時代に決定し、ここでも序破急の理念があてはまる。舞台上の進行についていえば、さいしょにワキが登場して「次第」を諷い、「名乗」の言葉を述べ、「道行」を諷って一定の場所に着くまでが序である。次いでシテが登場して「一声」をあげ、次に「サシ」の謡があり、それに「下歌[サゲウタ]」と「上歌[アゲウタ]」が附き、ここまでを破の一段とする。次いでシテとワキとの「問答」が破の二段で、散文的に始まる対話が次第に韻文的進行となり、掛合いのさいごは聨吟になって地謡(合唱部)に渡されるが、このくだりを「初同」という。初同が終わると破の三段に入る。「曲」の部分はそこにあるが、そのクセの前に「クリ」と「サシ」の謡が冠者の役を勤め、いずれも地(合唱)の謡でシテはときどき発声者としての位置に立つだけである。「クセ」に次いで「論義(ロンギ)」があって破の段は終結する。ロンギは天台宗の論義の形式に倣って問答体をなし、地謡がワキに代って問を起こし、シテまたはシテとツレが応答してシテとツレはいったん退場する。これが「中入」で、中入前が第一場で序と破がこれに属し、以後が第二場でシテは扮装を改めて「後ジテ」として再登場する。これが急の部分となる。ここには観阿弥や世阿弥がもっとも工夫を凝らした「舞働[マイタハラキ]」がついているから能楽で一番の見所となる。舞働が終わると終局すなわち「キリ」となる。こうした考え方は、さらに序の中にも序破急三段の推移があり、破や急にも同じ変化をもつ。そのことは「待謡」にもあり、謡の一つの句についてもいわれる。また演能が3日にわたる場合には、初日の番組の選び方はすべて序の演出ということが考えられ、2日目は破の演出、最後は急の演出としたので能楽の表現はすべて序破急の摂理をもととして構成されたのである。(つづく) 囃子構成の新形式 能楽で用いられる楽器は笛、大鼓、小鼓、太鼓の4種である。笛は7孔で雅楽の龍笛(横笛)を改良したものであり、特に能管と呼ばれている。大鼓と小鼓由来については説が分かれるが、ともかく申楽固有の楽器ではないらしい。ことに小鼓は白拍子舞や曲舞で使用していたことは職人画歌合によっても知ることができるが、ここには大鼓は併用されていない。しかし大鼓と小鼓を組み合わせた地拍子なるものの創作は申楽において始められたのかもしれない。この組合せの面白いことは大鼓を表に、小鼓を裏にしたことである。大鼓の音は硬音で小鼓のそれは湿音であり、音量の点では大鼓が弱で小鼓が強である。したがって西洋音楽の拍子観念からすると強弱強弱で、小鼓を先にしたいところだが、能囃子の組合せは逆に弱強となっているところに能楽リズムの同k得な境地が拓かれている。太鼓もその由来は不明で、雅楽に用いられている太鼓には直接の連関はなく、あるとすればむしろ鞨鼓であるが調緒の利用などはまったく別で、調緒を固く締めて硬質の音を求めている点などは他の先行芸にはないようで田楽の腰鼓あたりから変化して申楽によって完成したものかもしれない。この4種の楽器を四拍子という。総奏で演じる場合もあるが、アシラヒと称して笛だけを独奏で流していることもあれば、大小(鼓)だけを打つ場合もあり、一調と称して小鼓だけを打つ場合もある。しかし、笛、小鼓、太鼓の三拍子の場合を「大小物」と称し、これに太鼓が加わる場合を「太鼓物」と称する。そして叙情的な静かなもの、破の能には大小物が多く、叙事詩的な活発なもの、脇能、切能は太鼓物とすることが原則になっている。能の種類に応じ、その表現目的の相違によって楽器の組合せを変えているのは、なかなかおもしろい創意で、先行芸にあたる田楽や延年で用いていた銅■子(シンバル。小関注:■のヘンは「金」、ツクリは「友」の横棒右上にテン)を拒否したのは幽玄を生命とした申楽の演出としては当然といいながら卓見であったというべきである。 結語 能楽は遠く伎楽や散楽から端を発して延年や田楽等の先行芸の長所を取り入れ、それを綜合強化して作り上げた芸能ながらも、よく時代の好尚に応じて作り上げた点は型の芸であって、しかも型に嵌らないところに特色をもっていたということになろう。(完)
【2007年6月17日+6月24日+7月8日】
民謡風土記 鹿児島県の巻小寺融吉(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.32-33)
内容:私は鹿児島県の民謡については、あまり知らない。ただ、ここは地を接している宮崎県や熊本県と似たものをもっているらしいこと、また長崎県とは交通が発達しているため共通のものをもっていることを第一に考える。第二に鹿児島県独自のものの存在を考える。第三に本土を離れた屋久島や種子島のことを考える。第四に奄美大島のものを考える。そして第五に琉球のものとの交渉を考える。鹿児島県の民謡はそうとう複雑なように思われるのである。/六調子というのが九州のあちこちにある。以前、日本青年館の催しで熊本の臼太鼓、鹿児島から田布施の棒踊りが来たとき、熊本が六調子を追加し「球麿で一番、青井さんの御門、前は蓮池、桜馬場、ヨイヤサー」と唄ったところ、これを聴いた薩摩の人が苦笑いしながら、私のほうの唄をうたっているとつぶやいた。ヨイヤサーで終わるこの唄の節が薩摩にもあることを意味している。そして人によって節が違うため、どれが熊本の節でどれが鹿児島の節と決められない。長崎にもヨイヤサーの六調子があり、各地のものを採譜したうえでなければ、六調子の発祥の地を知ることは難しいであろう。棒踊りの連中は、ゴッタンと呼ぶ板三味線を持参した。田布施付近の農村では、さかんにこれを弾くのだそうだ。板三味線は猫の皮を張らず、薄い板の箱に長い柄をつけ三味線の糸を張っている。撥の有無は忘れた。田植えまつりに青年たちが昔からの慣例で棒踊りをやった晩、呑めよ唄えの大騒ぎをして板三味線を弾きまくり、十二夜侍太鼓と呼ぶ小太鼓を打ちまくって、放歌乱舞するのである。オハラぶしから、ハンヤぶしから、ションガぶしから、六調子その他次々に唄われるのだそうである。/ある友人が板三味線を岩手県あたりの古道具屋の店頭で見かけたと話してくれた。近年、修善寺温泉では竹で作った三味線を売っていたという。また以前、小寺が三宅島に行って、各地から漁船が集まって滞在したとき、琉球から来た漁師たちは器用にも三味線を作って弾いて唄ったという話を耳にした。この場合、どんな三味線を作ったのだろうか。蛇皮線は思いもよらない。三宅島には猫はいるが三味線の皮に仕上げるだけの芸はあるまい。たぶん板三味線であったのだろう。板三味線が鹿児島の人の発明かどうかは別にして、農村で容易に製作しては青年が弾いて楽しんだ事実は見逃せない。/「琉球におじやるなら、わらぢ穿いておじやれ、琉球は石原、小石原――琉球と鹿児島が地続きならば、通うて盃して見たい」という琉球ぶし。シタリア、ヨメヨメ、シンニ、ヨタヨタ、シテガンシテガンというのがハヤシ言葉らしいが、これは琉球ののぼりくどき、くだりくどきの類の改作であることは唄を比較すればわかる。比較すべき相手が失われたので、よくはわからないが琉球音楽の影響を受けたものが鹿児島には少なくないのではないかと思う。こうみると、日本内地の音楽と琉球の音楽の比較をする人は、鹿児島の各地に残存する古い唄をなるべく多く録音すべきであろう。琉球と鹿児島の中間に存するのは、奄美大島の音楽である。ここは慶長年間までは琉球に属し、その後は薩摩の島津に属していたのだから過渡的存在であるわけだ。蛇皮線を弾き、コバの樹の皮を張った太鼓を打つ。「八月の節や、撚り戻り戻り、我々、二十歳頃や、いつか戻りゆ、サーサ、シュンカネクワ」。奄美大島の旧8月は収穫時期で、月に3度、各3日づつ全島をあげて踊り狂う一年で一番楽しいときである。その時期は毎年めぐってくるが、我々の二十歳はもう戻ってこないという琉球的音楽である。これも目に見えない影響を鹿児島の音楽に与えているはずだ。ハシヤぶしが長崎のものか鹿児島のものかは今後の調査で明らかになるだろうが、あの急調な三味線に琉球的なものがないとはいえない。オハラぶしにしても田布施の人が唄う節は鹿児島的である。棒踊の唄は唄というより唱えごとであり、南方各地のそれと比較研究する必要がある。本文が「おせろがやまは、まへはたいかは」というのを、産み字ばかり唄っているのは棒踊だけではないが、これは特に著しい。
【2007年7月14日】
楽壇戦響/堀内敬三(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.34-35)
内容:■会館の代りに戦闘機 音楽会館の建設は自発的に中止された。会館建設資金として東京音楽学校職員、卒業生等から寄せられた3万3千余円は、同校関係諸団体の保有する資金全部、乗杉東京音楽学校長の私財2千円、日本楽器会社の寄付金1万円を合わせ、金8万629円40銭の献納金となり、この結果、海軍の戦闘機1機が生まれることとなった。東京音楽学校は勤労奉仕に、慰問演奏に、校長自ら陣頭に立って激しい努力を続けているが、いままた乗杉校長の勇断、部下諸君の協力、まことにありがたいことである。 ■音楽文化協会も軍用機献納 日本音楽文化協会は会員多数の希望により、軍用機献納金10万円を集めることに決定し、目下申込みを受け付けている。音楽者が音楽でご奉公すること、国民として納税し、貯蓄によって職責を負担することにくわえ、5千人の会員がわずか20円ずつ献金すれば軍用機が1機あたらしく飛び立つ。勝つまで、2機、3機、4機と献納し続けよう。 ■力強い音楽、楽しい音楽 激しい戦いのなかにあって国民のために音楽者が提供しなければならないものは、闘志を旺盛にするような力強い音楽であり、気分を明るくするような楽しい音楽である。陰鬱なものや軽佻なもの、無気力なものは棄て去らなくてはならない。曲目の芸術的水準を引き下げる必要はないが、曲目を選ぶときに、その曲が時局下の国民にどんな影響を与えるかを考えたい。 ■演奏に於ける芸人根性 喝采されればよい、宛てればよい、儲かればよいというのが芸人根性である。日本古来の技芸はそんな卑しいものではなかった。技芸は道徳と結びつき、神聖の境地に至る道程であった。その精神はさいしょの洋楽研究者である軍楽隊員や雅楽家や音楽教育家によって音楽界に取り入れられたが、大正時代にユダヤ「楽聖」たちが陸続と乗り込んできて、日本を国際的な稼ぎ場にしてから風潮が変わった。空虚な技術をひけらかす演奏、銭もらい的な演奏が流行したのである。独奏にも独唱にも軽音楽にも、この種の演奏を縷々感じる。さいきんの音楽コンクールにおいてさえも、演奏者によってそれが感じられたほどである。音楽を習う方の心構えの問題で、立身出世や金儲けを目当てに音楽を習えば芸人的演奏しかできない。 ■地方楽壇人に期待する 生産増強のため、良い音楽は今日全国に均霑されなければならない。その実現は地方楽壇の組織化と地方楽壇人の挺身によって成り立つのに、日本音楽文化協会の地方支部があまり生まれてこないのはどうしてだろうか。地方楽壇は音楽教員と篤志の素人によって成り立つのが常であるから、華々しく演奏会や講演会をやるのは無理だが、工場鉱山などの合唱団や吹奏楽団を仕立て上げたり、職場へ慰問演奏や歌唱指導に出かけたり、解説つき音盤鑑賞会を催したり、敵性音盤の回収を手伝ったりすることは不可能ではないし、要望もされているのだ。地方楽壇は人が少なく、たがいの連絡も不自由になりがちで、地方によってはいろいろ感情上のわだかまりがあるような噂も聞く。自己特有の技能を戦勝のために捧げる光栄を思えば、今日多少の無理は乗り越えられると思う。国家のための音楽は全国的に行なわれなくてはならない。その意味から地方楽壇の奮起に期待する。 ■田村虎蔵先生の訃 田村虎蔵先生は1943年11月7日、東京牛込筑土八幡町の自邸において脳溢血のため死去した。壽73歳。1895(明治28)年、東京音楽学校を卒業し兵庫県師範学校に奉職してから帝国音楽学校長として在任中に病没するまで、終始一貫して音楽教育に献身した。ことに東京高等師範学校附属小、中学校に訓導兼教諭として奉職した25年間(1899[=明治32]年〜1924[=大正13]年)に唱歌教育の実際的方法を確立し、言文一致の児童唱歌を創始し、多くの優れた唱歌(《金太郎》[まさかりかついで]《一寸法師》[指になりたい]《大黒様》[大きな袋を)《牛若丸》[父は尾張]《敦盛と忠度》[一の谷の]《虫の楽隊》[千草八千草]等)を作曲。また東京市に視学として奉職した12年間(1924[=大正13]年〜1936[=昭和11]年)に帝都の唱歌教育を刷新し培養した功績は無比というべきで、その唱歌教育はつねに皇国民の練成を第一義に置かれた。編纂された多くの著名な唱歌集の中には、国民精神の昂揚に資する題材が多数取り入れられていて、氏の作曲には洋風模倣を脱した新しい日本的先方が用いられている。氏は日本人のための唱歌を生み日本的な唱歌教育を築くことに努力した。視学の職を退いたのは停年を9年も過ぎた64歳のときであったが、その後は帝国音楽学校の仕事の傍ら、大日本音楽協会常務理事をはじめ楽壇諸文化活動の中核となり、組織力、統率力、実行力の非凡さと、その高邁な人格によって楽壇全体の敬愛を集めていた。氏は若くして世に現われ、老いても第一線で奮闘し、その生涯をもっとも有意義に働き通した。氏の努力精進の一生はわれわれにとって力強い激励である。
【2007年7月22日】
移動音楽隊の発足/野村光一(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.36-37)
内容:音楽の実演は都会中心で、東京や大阪では音楽会形式で演奏が行なわれ、そこに集まるのは一部の有産階級や知識階級にすぎなかった。しかし、戦争が熾烈になるにしたがい、音楽は日本全国民に働きかけるべきものであることが切実に痛感されてきた。全国民には攻戦意識をいっそう昂揚させなくてはならないし、農山漁村、工場鉱山に働く人びとにはその生産能率を高めなければならない。また傷痍軍人、遺家族にも慰安を与えなければならない。そのための一手段として音楽を全国的に敷衍する必要がある。真の音楽というものは実演でなくては真味がわからないが、いままで音楽に恵まれなかった全国の、国民全階級にこれを普及するのが、決戦下における音楽家の任務であることが認識された結果、この組織が生まれたのであり、それを日本音楽文化協会が本年度[1943年度]から実施することになったのである。これが移動音楽隊の趣旨であるといえる。/従来音楽家は経済的にも環境的にもそうとう甘やかされていたらしく、移動音楽隊のような低廉な報酬で、そのうえ辺鄙な農山漁村や山間僻地にまででかけていき、高尚な音楽を与えなければならないということに対しては、必ずしも良い感情をもっていないようだった。しかしさいきんは、ようやくこういう点に認識ができてきたらしく、いまでは積極的にこの事業に協力する人たちや、自ら移動音楽隊の活動に加わりたいと志願する著名な人が現れてきたのである。今後はもっとこの趣旨を徹底されて、いっそう協力されることを望むばかりである。ただ野村が現在感じているところでは、こういうことに進んで応じようとする考えができているのは芸術音楽をやっている側の人たちで、軽音楽方面の人たちにはまだこの認識が足りないように思う。/本協会の移動音楽隊の仕事は、現在主として情報局の斡旋により大政翼賛会とか、軍事保護院とか、産報とかの各種公共団体の依頼によって動いており、個々の会社とか工場からの移植に寄るものはあまり多くない。聞くところによると、日本音楽文化協会がこの隊のために要求している費用とこれらの公共団体のこの種の事業に用意されている費用の間にはいくぶんの隔たりがあるという。しかもある種の団体からは、この程度の仕事だと、まだ程度が高すぎるという話もある。たとえば音楽より浪花節や漫才の方が一般民衆に迎合されるというのであるが、[音楽が]高尚過ぎるというようなことは認識不足だと思わざるを得ない。この種の音楽運動が社会の最下層にまで触れ得ないものであるとは決して考えていない。費用の点では移動音楽隊の組織の運用如何によって節減できる可能性があるから、今後あらゆる公共団体からこれを利用してもらいたいものである。類似したものに移動演劇隊あるいは移動映写隊というのがあるが、ある場合にはこれら以上にこの移動音楽隊は活動し得る能力があると野村は自負しているから、これらの団体と同様あるいはそれ以上に使用していただきたい。この運動は開始以来まだ日が浅いが、1943年5月から10月までの主な成果を挙げれば、大政翼賛会の国民歌《みたみわれ》の歌唱指導を全国22県、約1ヵ月半にわたって実施した。延べ回数は400回、聴衆の延べ人数は40万人、動員した演奏家の延べ人数は646人である。次に10月3日軍人援護週間に行なった軍人援護ならびに戦意昂揚の大演奏会で、これには協会が同院に献納した歌曲《大アジヤ獅子吼の歌》を中心として約56曲の歌曲が全国に演奏されたが、全国で開催した演奏会場は80ヵ所、聴衆が10万人、演奏家の延べ人数が1,256人である。その他は省略する。なお、いま計画されているものは産報本部の委嘱による海洋吹奏楽団の地方工場への慰問演奏、東京産報の依頼に基づき1943年12月から定期的に東京都にある各工場に毎月30回派遣される歌唱指導、飛行協会と相談のうえ、今後航空局で選定された《大航空の歌》の歌唱指導に全国の飛行工場を歴訪する計画である。その他、申込みは陸続としてある。
【2007年7月28日】
前線に続く職場の音楽 <座談会>大内[経]雄 大川光明 北川義一郎 眞田元康 田澤修一 野中[経]雄 馬場精一 古谷智四郎 (司会)清水脩(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.38-41)
内容:■どんな音楽が好きか 清水:産業戦士はどんな音楽が好きなのだろうか? 野中さん。野中:私のところ[石川島航空工業]では勇壮なものを望んでおり、歌謡曲は歓迎しない。北川:私のところ[北川レース]では女の子が多いせいか、柔らかいものを望んでいる。古谷:[東京計器製作所の]応徴士の寮でレコード・コンサートをやったとき、無記名投票で聴いたところ約7割は軽音楽を望み、年少者は行進曲風のものを望む傾向があった。大川:私のほう[中島飛行機○○製作所]は、さいきん生活状態の変わった方が集まってきた。休憩時間には、あまり神経を使わない、簡単に解釈し歌える程度のものであって、しかも身近にあるものを欲しているらしい。器楽にしても込み入ったものは聴いてもわからないらしい。さいきん工員は皆そうとうに疲れているから、何でも手っとり早く摂れるものを望むようだ。軽音楽といっても範囲が広すぎてなかなか選定でないので、権威ある専門家の指導を得たい。清水:皆さんのほうでどんなものを望んでいるのが、具体的に仰っていただきたい。田澤:さいきん作られている歌がぴったりこないという考えを皆もっているが、具体的にと求められても、求めるほうもはっきりしないのだと思う。 ■焦点をどこへおくか 大内:八幡製作所では各工場に10ほどの通用門があり、通用門ごとに拡声機をつけて、入門と退門の時刻を狙って朝はマーチ風のもので元気よく、昼は軽い音楽、夕方は夕方らしい音楽といろいろやってみた。それに対する職場の声は千差万別だった。大部分のものは浪花節とか漫談を望むので、試みにそれらをやってみたが、すると一方から抗議が出て、神聖な職場に浪花節など引き込むなという。高級な人もかなり多く、例えば家元の能楽をやると2円の切符が羽が生えたように売れる。一方、歌謡曲などは圧倒的に多いので、1週間通しでやっても、なお満足ができないくらいだ。人形浄瑠璃は5日間通してやって大入満員というありさまだ。眞田:私ども[池貝鉄工所]では毎月1回演芸会を催す。その際、流行歌をやると若い連中は喜ぶが、その後で空虚なものが残るとみえる。退廃的な軽音楽に対しては、われわれの気持ちが迷わされるからやめてくれという。残業で疲れたときなどは自分たちで歌うというより、軽いワルツ風のレコードを喜ぶ。題目などはどうでもよく、心に触れるようなものが大事ではないかと思う。北川:私の希望だが、作詩家作曲家が朝の出勤のときの歌だとか、作業が終わったときの気持ちに繰るような歌をたくさん作っていただきたい。清水:しかし詩人作曲家が職場を扱ったものは、ほんとうに喜ばれるか? 馬場:教えられる歌は好まない。 ■吹奏楽指導の苦心 清水:吹奏楽指導の苦心談を。野中さん。野中:私は1933年から吹奏楽をやっている。当初は反対するものが多かったが、3年ほどして工場としてもバンドの必要を認識して、その後は順調に行っている。古谷:団員の出入りの激しいのが一番困る。野中:志願者はたくさん来るが1年続くものは少ない。落伍するものは仕事でも駄目だ。清水:団員が減るのはほかにも理由はないか。古谷:動機によるのではないか。軽音楽の華やかなトランペットに憧れて入ったものの簡単にできないというような。 ■幹部の理解を望む 清水:指導者の良否もあるでしょう。古谷:会社当局の理解が絶対に必要だ。清水:北川さんは社長で自ら棒を振っておられるが・・・。北川:それでも駄目なことがある。現場の班長が面白く思わないこともある。野中:老年の人は理解がない。大内:私どものほうでは明本京静という人がたいへん指導がうまいというので、指導ぶりを下見してからやったのだが、各所の工場でいずれも成績を挙げた。野中:幹部級が発表の機会に接しないと駄目だ。田澤:私のほうではブラスバンドに対して幹部級が作れということで、楽器が入手できることになっている。歌のほうは「職場決戦の歌」というのを工場内から歌詞を募集し、一つは工場長自身が作曲、もう一つは深井史郎に依頼した。そして職場内で発表会をやり、とても好評だった。 (つづく) ■滲み出る音楽 大内:工場内から滲み出たというのはいいものがある。詩は徴用で入ったものの詩で社内の新聞に発表したものがある。それは方言で「オッカンノテガミ」というのだが、ひじょうに感じが出ている。こういうものに作曲したらどうかと思う。田澤:心を強く打つ。新しい研究問題として開拓していく道があるのではないか。 ■ハーモニカは工員に愛される 清水:ハーモニカ合奏指導の苦労を。大川さん。大川:工場にハーモニカ音楽を入れることは1924年ころ三菱造船所にいた時からやっている。その後中島飛行機に映ったが、純然たる工員の音楽団体としてはハーモニカが一番手っとり早い。国民学校を出たばかりの人に高度な音楽を強いても無理なので、ハーモニカ音楽で音楽的な概念と基礎を与える。したがって青年学校の低学年を初等部とし、高学年にいって合奏を仕込む。青年学校を卒業したもの、あるいは音楽の素養のあるものを高等科として社内バンドとしてやっていくというように3段階でやっている。私どもは工場内にひとつの空気を作るためにハーモニカ音楽をやっているので、練習がわれわれの仕事だということにしている。しかし、さいきん戦局の発展とともに昼夜勤務となり、昔のようなかたちで音楽の時間をとることが困難になった。それで合奏団のほうは半休状態で初等科の練習だけをやっている。航空機の戦果が上がれば上がるほど航空機工場に働くものは忙しくなるので、今後は音楽の専門家たちに職場に進出していただき、われわれがやりたい、聴きたい音楽を持ち込んでいただきたいと思う。大内:国民学校を出て田舎から工場へ入ってくる子どもの半分はハーモニカを持っている。馬場:練習時間をとって練習することが、これからだんだん不可能になると寄宿舎でやるのがいいと思う。満洲の分工場でそれをやったことがある。1週間に3回から4回やることもそう無理ではなく、娯楽室に集まることですむ。 ■深呼吸のように 清水:北川さん、合唱団の苦心談を。北川:純音楽的に引っ張っていけない。いま私のところの合唱はほとんど深呼吸に使われている。ひじょうに細かい仕事をしているので、天候の関係や何かで作業的にたるむことがある。すると職場の班長級のものが見ていて、ほんの5分か10分を割いて現場で歌わせてしまう。すると一杯飲んだときのような気持ちになって、ひじょうに作業がのびていく。いまも気分が沈滞したときに合唱を深呼吸代りに使っている。もちろん職場によっても気分によっても違うが、だいたい150から200人くらいなら一部屋でやらせてそうとうの効果がある。しかし音楽的に見ると、ずいぶん音痴なものもいるし[音を]外すようなものもいるけれど、それでも全部が口をあいて歌っていくことによって、気分が転換するようだ。清水:これこそ職場の音楽のほんとうのものだと思う。大内:今日仕事をやる場合、孔子の時代と同様に礼と音楽はひじょうに大事だと思う。さいきん礼は規律ということで職場に入っている。そのうえに工場全体の生活のなかに音楽的な雰囲気を採り入れるというようなことができたら、日本の工場生活も愉快に朗らかなものになりはしないかと考える。(完)
【2007年8月11日+8月13日】
音楽家は挺身する橋本鑒三郎(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.42)
内容:本事業は、日本音楽文化協会および演奏家協会が国家目的遂行一元化の精神に基づき、双方円満了解のもと1943年9月をもって両団体の結合し、そのさいしょの事業であって、名実ともに演奏家作曲家評論家等一丸の動員にくわえて、各開催地における音楽関係者の絶大な協力を得て、音楽を通しての一大国民運動に発展した。主要都市における一般全開演奏は、努めて形式的発表演奏会の形態を避け、解説者は戦時下音楽文化の意義とわが楽界の動向、ならびに本来の目的である音楽を通じての戦意昂揚軍人援護に言及して進行を図り、会は会衆とともに親しみのうちにかつ米英撃滅の意気も高く《大アジヤ獅子吼の歌》歌唱指導を行なうのである。以下、中国班の記録断片を掲げ報告とする。/1.10月2日東京駅頭にて 午後7時、一行11名集合。ただちに中国地区派音楽報国挺身隊を組織し、隊長橋本鑒三郎、副隊長岡崎二郎を選任。一同宮城を遥拝し隊旗を先頭に乗車した。さいしょの目的地は広島市である。副隊長の岡崎二郎は出発直前にお召しを受けたが、音楽家として最後のご奉公を決意し、わが隊に参加した。予定の日程が終了後ただちに入隊のはずである。また参加女性軍中にあって主将格にあたる四家文子も防空服にリュックという姿で隊の中にいる。心強い限りである。 2.○○療養所にて 本療養所は地の利に恵まれないためか従来慰問の機会に恵まれず、療養中の勇士は昨日から本日の音楽会に期待して興奮していると所長が話していた。慰問のプログラムが進んで《大アジヤ獅子吼の歌》を指導中のこと、一隅で黙々と聴いている勇士がいたので近寄って歌詞の印刷物を渡そうとすると、戦盲勇士であることを知り、心から頭が下がった。過去、これ以上に観劇をもって迎えられ、同時に感謝し感謝された演奏の記録があったであろうか。 3.○○航空隊勇士の慰問 ○日午後6時、われわれ一行は予定の演奏を終えて旅館に入った。そこで○○航空隊の勇士と同宿したのである。その代表の方から慰問演奏の依頼を受けた。聞けば同隊中にはかのプリンス・オブ・ウェールズ、レパルス撃沈の勇士もいて、その時の敵弾を受けたままの人もあり、明朝本隊に帰還のうえ第一線に向かうという。そこで夕食は後に回して旅館の広間で演奏にかかった。そして歌唱指導に唱和する元気な声が響いた。夜9時、遅い夕食をとっていると、ほかに宿泊中の同隊幹部の方々からも来援の希望が寄せられ、一同疲れた身体に鞭打ってこれに応え、午前0時この日のご奉公を終えた。翌朝、同隊の人びとは機上手を振って、旅館の真上を真一文字に本隊に向かっていった。
【2007年8月18日】
華と展く勤労音楽松尾要治(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.43)
内容:第3回勤労者音楽大会は1943年10月23、24日両日にわたる全国大会をもって終了した。今年度の参加団体は、合唱198、吹奏楽181、ハーモニカ合奏91、合計470団体であった。前年度参加団体数331と比較すれば、団体増加数は合唱41、吹奏楽67、ハーモニカ31、合計139団体の増加であった。/参加団体がこれほど増加した理由は、本年度は優勝や等級を設けずに音楽を通じて勤労者の音楽交歓の機会としたことと、勤労者の音楽団体が全国的に増加してきたためであると考えられる。実際は、もっと多数の団体が参加を申し込んだが、生産増強のために時間の繰り合わせができず、府県大会の当日になって不参加になったものも相当数あった。府県大会を開催しなかったのは6県で、その理由は音楽による交歓であるという大会の趣旨が不徹底で参加団体が一つくらいしかなかったり、あるいは災害のためなどによるものであった。全国大会での表彰団体は合唱6団体、ハーモニカ合奏4団体、吹奏楽8団体であった。合唱では東京の王子製紙、三越本店、神奈川県の住友通信工業、ハーモニカ合奏では兵庫県の川崎重工業、東京都の中島飛行機、吹奏楽では東京都の日本管楽器、富山県の不二越、愛知県の岡本工業が特に成績優秀であった。/各種目とも前年に比して進歩が見られた。殊に地方の水準が高まったようである。種目別ではハーモニカ合奏の進歩が著しかった。表彰4団体の一つに岐阜県大日本紡績女子ハーモニカ合奏団が入ったのは驚異であった。吹奏楽では関西地方の成績が悪かった。優秀な団員の出征等のために技量が低下したものもあったようである。合唱では関東がよく、関西がこれに続くようである。地方によい指導者がないためであろう。他種目と比較して、実際の工員が合唱団を組織している団体が少なかったのは残念だった。ハーモニカ合奏は産報配給の楽器種量の点からも、今後一層音楽的な指導が必要と思われた。
【2007年8月20日】
◇日本音楽雑誌株式会社役員・社員名簿(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.43)
内容:■役員 
取締役社長  堀内 敬三
専務取締役  目黒 三策
取 締 役   伊藤 文吉
取 締 役   川上 嘉市
監 査 役   福神 神太郎
監 査 役   石原 五木雄
■職員
▽総務部
部 長     目黒 三策
会計主任   円城寺 敏男
         神野 婦美子
         芋川 セチ子
▽編輯部
部 長     堀内 敬三
音楽文化編輯主任 清水 脩
音楽知識編輯主任 加藤 省吾
企業主任   黒崎 義英
調査主任   青木 謙
進行及公正主任  青木 栄
          濱田 翠
▽出版部および営業部
部長       澤田 周久
企業主任(出版) 黒崎 義英
広告主任(営業) 佐藤勘十郎
           梶原 良喜
           村田 幸子
【2007年8月22日】
時局投影野呂信次郎(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.44)
内容:1943年11月1日を期し軍需省、運輸逓信省、農商省、棒空想本部等の行政機構は簡素強力化、人員の縮減等が図られ、その大一歩を踏み出した。東條総理の軍需相兼任のほか山崎農相、八田運輸逓信両大臣の親任が発表された。こうして決戦迫る戦局の要請に即応すべき軍需生産の急速な増強、銃後国民生活の確保、海陸運輸の一貫的強化、民防空行政の統一など中央機構の基本的戦争清治態勢は整備されるにいたった。明治節の日、子宝部隊1097家庭が表彰された。[1943年11月]5日、6日、東京に大東亜の6ヵ国代表(東條首相、汪国民政府行政院長、ワンワイ・タヤコン・タイ国首相代理、張満洲国国務総理、ラウレル比島大統領、バー・モウ・ビルマ首相)が会し、自由インド仮政府主席チャンドラ・ボースも陪席して大東亜戦争完遂と大東亜建設の方針を協議する大東亜会議が世界注視のうちに開催され、大東亜共同宣言が公表された。大東亜10億の民は共存共栄、独立親和、文化昂揚、経済繁栄、世界進運貢献の五大原則を根幹とする東亜の成長を約し、一丸となって米英撃滅を目指して前進を開始した。[1943年11月]17日から3日間、東亜各地の新聞代表80有余名が東京に集い、大東亜新聞大会が日からかれたことは大東亜各政府代表者の会議の後をうけて、もっとも自然で時機を得たものであった。ことに松村隋軍報道部長は「希くばアジヤの筆よ、正義の剣と共にあれ」と述べて全記者に深い感銘を与えた。11月中だけでブーゲンビル島沖海戦、ラバウル上空敵機撃滅戦、第一次より第五次にわたるブーゲンビル島沖航空戦、第一次より第三次にわたるキギルバート諸島沖航空戦と、大海空戦が南太平洋ソロモン海域、あるいは中部太平洋ギルバート諸島などに展開され、敵の空母を屠ること実に17隻、敵側に空前の犠牲と未曾有の損耗を感じさせた。敵は総反攻の態勢を整え、莫大な消耗を覚悟のうえで基地奪回のために決戦を挑み来たったのだ。幸いにして前線勇士は敵の総反攻を粉砕し、その作戦意図を挫折させたのである。一方大陸戦線においては、これに呼応するがごとく11月2日以来湖南省洞庭湖西方において重慶軍第六戦区に対し侵攻作戦を開始した中支方面の日本軍部隊が中支直系五個軍約10万の戦力を撃滅して輝かしい戦果を挙げた。一億国民は総力を挙げて戦闘配置につき、一機、一食をも前線に急送すべき重責を担って銃後の補給戦に挺身している。官庁も学徒も女子も、いや大東亜10億の民はことごとく火の一丸となって仇敵米英撃滅に突撃した。音楽家もまた光栄ある一員であるのだ。
【2007年8月22日】
新刊短評/堀内敬三(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.45)
内容:■『著作権法研究』城戸芳彦著(新興音楽出版社 546p. B6判 5円) 
著作権を詳説し実際に役立つよう綿密な研究を記したもの。附録として著作権に関する法令・条約および索引を掲載。 
■『近代の交響曲』森本覚丹訳(日本楽器製造株式会社出版部 247p. B6判 2円55銭) 
ワインがルトナー著『ベートーヴェン以後の交響曲』とベルリオーズ著『ベートーヴェンの交響曲の批判的研究』の全訳。 
■『ドイツの音楽生活 社会篇』ベッカー著 武川寛海訳(樂苑社 220p. B6 1円96銭)
 
著者はドイツの代表的音楽評論家。本書はドイツの音楽生活の実況を報告するものではなく、それをどのように立て直し進展させなくてはならないかということについて、歴史に基き生活に即して、芸術上の本質から実際的に論及したもので、新しい日本の音楽生活を築き上げなくてはならないわれわれにとって有用な書。 
■『海道東征』信時潔作曲(共益商社書店 156p. B5判 7円)
 
神武天皇の御事跡を北原白秋が雄大な詩篇につくり信時潔が交声曲[カンタータ・・・小関注]に作曲した名作の独唱、合唱および管弦楽のスコア。 
■『ウタトヲドリノホン』社団法人大日本作歌協会編纂(新興音楽出版社 31p. A5判 63銭)
 
幼稚園用の新歌曲10曲にすべて舞踊遊戯のかたちを示している。作詞は小林愛雄、葛原しげる、久保田宵ニ、林柳波、佐々木すぐる、作舞は戸倉ハル、印牧季雄。 
■吹奏奏楽研究書の在庫品調べ
 
各楽器の教則本は共益商社書店、管樂研究会、白眉出版社、ヲグラ楽器店出版部から出ている。ほかに『吹奏楽団の指導と経営』廣岡九一著(共益商社書店 318p. A5判 3円50銭) 各楽器の性質、吹奏楽の編成、練習のしかた、演奏上の注意、楽曲編曲法、指揮法、参考書目など。
【2007年8月24日】
回顧と希望(レコード春秋)/青木謙幸(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.46-47)
内容:■昨年度音盤の回顧 昨年度の音盤における顕著な現象は日本人作曲家ならびに演奏家たちの音盤への著しい進出である。これは外国母型の輸入杜絶による対策もあろうが、国民音楽の樹立ならびに邦人演奏家による音盤化を要望する時代思潮を反映したものとみなすべきで、こうした時勢でもなければなかなか実行できないことであったと思う。主要な音盤は日本音楽文化協会の選定になる『日本現代名曲集』(大東亜)、橋本國彦の《英霊讃歌》、伊福部昭の《交響譚詩》(以上ビクター)、日蓄の『戦争音楽集』、紙恭輔の《ホロンバイル》《ボルネオ》、大木正夫の《国民総進軍》などである。/日本人演奏家の吹込みには草間加壽子によるサンサーンス《ピアノ協奏曲第5番》が特に注目されるべきである。洋楽音盤への進出といまだ音盤化されていない曲の吹込みという二つの点ではなはだ意義ある企画であった。今回のようにいまだ録音されていない曲を、ひきつづき日本人演奏家の手によって開拓してもらいたいものである。ただし録音する以上は作品も演奏も権威のあるもので、充分鑑賞に耐え得るものでなければならない。 ●洋楽新盤=昨年度は予想以上に多くの新譜が登場し、内容的にもよいものが多かった。従来のように新譜なるがゆえに何でも発売することを避け、戦時下にふさわしい健全で内容のあるものに意を用いた結果であろう。勢い古典音楽が多かった。重要なものを拾ってみるとバッハでは《パルティータ第3番》(メヌーイン)、《[無伴奏]チェロ組曲第4、第5番》(カザルス)、《フルート奏鳴曲》(パレルとベッスル)、《提琴協奏曲ニ短調》(シゲッティ)、《結婚カンタータ》(独唱シューマン)などがあり、モーツァルトでは《提琴協奏曲ヘ長調》(メヌーイン兄妹)、《ピアノ協奏曲ハ長調》(フィッシャー)、《セレナード第10番》(同)、《トリオ・ソナタ》(モイーズ三重奏団)、交響曲ではブラームスの第3番(ヨッフム)とマーラーの第9(ワルター)という大曲があった。 ●再版音盤=今日各社の洋楽音盤の中心をなすものである。音盤資材の不足から旧譜中から幾種かの音盤を毎月編成することになる。この曲目の選択が大切になるが、昨年度の再版音盤はだいたいにおいて枢軸国の音楽を中心に編成され、内容的にも充実したものであった。しかし、もう少し戦時下にふさわしい選曲と明確な指導性があってもよいと思う。また、できるならば選曲も各社共同で行ない、統一のあるものにしたい。そうしないと昨年度のようにベートーヴェンの交響曲がどこの会社からも一つも出なかったということが生じる。演奏についてもわが国の演奏家を啓発する最上級のものを選び、それもできるだけ枢軸国の一流演奏家のものをもってしたいものである。 ●協会音盤=今日のごとき戦時下にあって協会音盤が必要か否か、検討の余地がありはしないか。元来協会音盤は特殊なものであるために会員制度が必要とされてきたが、いつのまにか会社の商策に利用されるようになってその意義が薄くなってきたきた。ましてや音盤資材が不足する折柄、よほど特殊なものや研究的なものでない限りは協会制度によらず、一般発売されることこそ望ましい。昨年度も協会音盤として出されたものが相当あるが、厳密な意味でこうした制度を採らなくてはならないものは、はなはだ少なかったように思うがいかがであろうか。 ■音盤界への希望 以上、昨年度の洋楽音盤について回顧した。今年の希望の第一は、緊迫した国内情勢にあっては各社が個々にではなく、総合的な企画をする必要が怒ってくると思う。決戦下、真に必要な音盤の重点企画という面からも、統一の面からもぜひとも必要と考える。第二は、在来の邦楽、洋楽音盤の区別の廃止である。戦時下にあっては、こうした区別の必要がない。すべての音盤が戦争遂行に役立つように企画され、プレスされる建前からしても、両者を一つにひっくるめた戦争曲目編成でなければならないからである。第三は、音盤の活用についてである。日本音盤協会は、この点について対策を立てるよう希望する。
【2007年8月29日】
時局下の音盤と蓄音機/あらえびす(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.48-49)
内容:■日本のものを わが国洋楽音盤界にとって、現下の情勢はまたとない発展の機会であると信じて疑わない。外国の母型が来なければ日本の洋楽音盤が立ち行かないyように思う者があるとすれば、日本人の音楽的能力を過小評価した自己否定的劣弱妄想といわざると得ない。その一例として、草間加壽子が演奏するサンサーンスの《ピアノ協奏曲第5番》(ビクター)などが挙げられるだろう(尾高直忠指揮、東京交響楽団の伴奏)。これは徹頭徹尾日本人の手によって録音されたものであるが、日本人の洋楽音盤独立の可能性を証拠だてるもので、まことに喜ばしい限りである。日本には各方面になお優秀な音楽家がまだたくさんいるはずである。長い間の外人芸術家崇拝のために、真の自己をさえ見出しえなかった隠れた天才も、必ず幾人かは潜んでいることだろう。良心的な歩みを続けてきた音楽家たちは、この際、おおいに奮起すべきときではあるまいか。大東亜共栄圏の指導者としてこのくらいの覚悟はぜひもってもらいたい。/音盤化された日本人の作曲の方面にも、同じことが言えるだろうと思う。かつての流行歌と童謡だけが音盤化された次代から、今日のように日本人の作曲の音盤化を極力推奨している情勢は想像もされなかったはずである。大木正夫が自作《五つのお話》の音盤化を企画し、管弦楽団や12インチのプレス機械を得るのに苦しみ、その経費の捻出に苦しんだ後、帝蓄の手を借りてわずか数百枚をプレスし得たのはわずか10年前のことである。そのレコードをたった1枚、藁科君が米国の国際レコード蒐集倶楽部に送ってやると、米国のファンたちは狂喜して何百枚でも送ってほしいといってきたのは6、7年前のことである。米国のファンにそれほど高い観賞眼があるかどうかは別として、日本人の作曲はわれわれが考えているようなものではないことは確かである。われわれはもう少し自信をもって自信の芸術を研究すべきであると思う。ちかごろは大東亜音盤から日本人の作曲がおびただしく出されており、日蓄、ビクターもそれに劣らず日本人のものを音盤化して、すでに優れたものを提供している。/わけても紙恭輔の《組曲ホロンバイル》《輝く翼》、大木正夫の《国民総進軍》、伊福部昭の《交響譚詩》、橋本國彦の《英霊讃歌》などは敬意を評すべき作品であると思う。紙の技巧的練達、伊福部の意図など日本人の作曲音盤の将来に暗示をもつものであり、橋本國彦は戦争の国民的感激を背景に永く残るであろう。ほかに深井史郎のものなどが計画のうちに加わっているという。新しい時代には、新しい頭脳と才能が必要である。すでに画壇において旧大家の大部分は鳴りをひそめ、いままではさほど注目をひかなかった新人たちが飛躍を試みつつあるが、音楽界においても既成大家や旧人に期待するのは愚かしいことであろう。機会と舞台を提供して新人の活躍に待つべきである。音盤会社の首脳者たちも、存分によきもの、真に日本人のもの、言い換えれば戦力増強に役立ちながらも慰安と芸術的欲求を満たし得るっものを出すことに骨を折ってほしい。 ■再録音 各社が未発売の母型ストックをどれだけもっているかについても問題になっている。日蓄の《ラ。ボエーム》全曲はさいきんプレスされるというし、ビクターのシベリウスなどもいずれは発売されるのであろう。ほかにモーツァルトの《レクイエム》があり、歌劇《ファウスト》の全曲もあるなど大物には事欠かないが、素材の関係から各社が発売を躊躇しているらしい。それよりも、近頃の進歩した技術でさかんに再録音することを勧めたい。母型が輸入されずに見本レコードだけ輸入されているものが各社とも相当数ある。原盤さえ新しければ、近頃の「再録音」技術は母型からプレスするとほとんど変わりのないところまでいっているのである。非常時に対処する便法として、これもまたよいではないか。s
【2007年8月31日】

洋楽(音盤評)/野村光一(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.50-52)
内容:★ビクター 《交響曲第7番 イ長調》(ベートーヴェン 作品92)トスカニーニ指揮 交響管絃団 1944年1月新譜の洋楽名曲はすべて旧盤再発売だった。しかし、日本人の演奏や何かの新手を打って、国策宣揚に拍車をかけることが、この際望ましい。さて、この音盤はトスカニーニがニューヨーク・フィルハーモニック管絃団の常任指揮者を辞任した際、その記念に吹き込んだ音盤である。このレコードは、それによって当時の電気吹込み技術が一躍大進歩をとげたものであることを明示した。われわれはそのレコードのもつ音量の豊かさ、各音の分離の見事さ、吹込まれる音域の広さについて驚いたものだが、録音技術はその後いっそうの改良が加えられて、それ以後の諸盤には、これに勝るものが多く出た。しかしトスカニーニの指揮ならびに管絃団の演奏は依然深い感銘を与えずにはいられない(特に第2楽章)。指揮者の音楽上の特徴は旋律線の処理にあって、明確な旋律がみごとな強弱を作って表現される。しかも歯切れのよい句読つけによっている。この曲におけるトスカニーニのテンポは、他の人よりいささか速い印象を起こさせる。ただしこの速さが一本調子に流れず種々の抑揚や変化を行いながら、著しい迫力と統一を与えているところはさすがである。 《練習曲 作品10》(ショパン)ピアノ独奏 コルトー ショパンの練習曲作品10と作品25、合計24曲のレコードはバックハウス、コルトー(以上ビクター)とコシャルスキー?(ポリドール)の3種類があったと記憶する。バックハウスのはそうとうに古い録音のため、聞こえない音がたくさんある。コルトーのはさいきんのものではないので、音色がいささか悪いが音楽的にすばらしく味のよいものである。コルトーはバックハウスのような技巧家ではない。コルトー独特の芸術味から練習曲を音楽化しようとする。単に練習曲として聴くときにはバックハウスの方に一種のスポーツ的な痛快感を覚えるがそれだけのことである。それに反して、毒々しいコルトーの練習曲は、絵練習曲にそのようなものを求めない人たちからみれば、コルトーのレコードは始終王のものとなる。このレコードにおいて人々のコルトーに対する好き嫌いはもっとも明白にわかると思う。 《チェロ協奏曲 ロ短調》(ドヴォルザーク 作品104)カザルス独奏 セル指揮 交響管絃団 この曲のレコードは、このほかに2、3種類あるがカザルスの演奏ほど立派なものはない。録音も比較的新しく(日本では1938年11月に初発売)、彼は老齢にいたってますます技巧と情熱が加わってきた。伴奏もカザルスの演奏をよく補佐している。録音はチェロの低音が割れたり芯がなくなるようなことがなく明瞭である。 《三重奏曲 第7番 「大公」》(ベートーヴェン 作品97)コルトー、ティボー、カザルス演奏 「大公」は、この3人によるトリオ5種類のうち最良の演奏である。今日まで何度も復活されていて、いまさら何も言うことはない。 《スペイン交響曲 ニ短調》(ラロ 作品11)メニューイン独奏 エネスコ指揮 交響管絃団 いま手許にレコードがなく昔聴いたときの印象だが、少年時代のメニューインのレコードでは、ブルッフとこの協奏曲がもっとも感銘を受けた。天才少年として登場した頃のメニューインは近ごろの彼よりもすべてにおいて魅力的であった。序でながら、この盤の伴奏はパリ交響管絃団である。フランスの管絃団の名前まで秘するのは、時節柄とはいえどうかと思う。 ★テレフンケン 歌劇《さまよえるオランダ人》序曲(ワグナー)テイチェン指揮 バイロイト音楽祭交響楽団 新盤。テイチェンは、さいきんこの音楽祭でもっとも活躍している指揮者の一人のようだが、それ以外の活動についてはあまり知らない。このレコードは現地録音かどうかわからないが、とにかく音の効果はあまりよくない。演奏は無難という程度。ワグナー張りの伝統的で滑らかなテンポが窺えるところが、多少気持ちよい。 歌劇《ヴァルキューレ》騎行 歌劇《マイスタージンガー》徒弟の踊り(ワグナー)イッセルシュタット指揮 伯林フィルハーモニー管絃団 これは再録のはずだが、この方が録音がよい。指揮はテイチェンよりももっと軽快で明瞭で、しっかりまとまっている。レコードとしては、この方が成功している。 ★大東亜 《提琴協奏曲ニ長調》(ベートーヴェン 作品61)カール・フロインド独奏 ダビソン指揮 伯林フィルハーモニー管絃団 新盤で、録音は新しい。この独奏者は細かいところを綿密に弾いているが、それだけ力強さにも乏しいし
幻想にも欠けているともいえる。伴奏は無難。
【2007年9月4日】
◇邦楽(音盤評)/並木若葉(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.52-55)
内容:筝曲《九軍神》坂本歌津子(富士 とー333) 真珠湾頭の花と散った九軍神を筝曲にしたものであるが、唄はだいたい朗吟形式で、筝も琵琶風な弾き方と薩摩琵琶の崩れのような味を狙っているが、内容はかなり空疎である。演奏は巧みで、声も凛としてよく立つ。聴いて楽しめる音盤だが、いずれにしても琵琶唄の琵琶の代りに筝を用いたという感じである。 / 常磐津 《愛国百人一首》常磐津千東勢太夫(富士 と―334) 愛国百人一首より<曇りなきみどりの空を><西の海よせくる浪も>を取り上げ、常磐津風にまとめあげたもので、作曲としては常磐津の節を嵌めて綴りあわせたまでのことである。格別良いところもなければ、悪いところもない。演奏も吹込みも可、古い邦楽趣味の人向け。 / 舞踊小唄《新槍をどり》(平山蘆江詞、佐々紅華曲)《老松》(高澤初風詞、佐々紅華曲)唄:藤本ニ三吉、鉄本政子(ニッチク 100781) 《新山がえり》(平山蘆江詞、佐々紅華曲)《さくら娘》(平山蘆江詞、佐々紅華曲)唄:三島儷子、藤本ニ三吉(ニッチク 100782) 《蛇の目傘》(長田幹彦詞、佐々紅華曲)唄:豆千代、三島儷子、藤本ニ三吉(ニッチク 100783) ニッチク特産品の舞踊小唄であるが、詞も曲も唄もマンネリズムである。斯道の達者ぞろいでどこ一つ非の打ちどころもなく、それでいてどこ一つ讃えたいところもない。唄の声質がどれも同じというのも損である。長唄とか義太夫とか清元とかの寄せ木細工で一つひとつ声質が違うだけでも救われる。曲の中では《蛇の目傘》が一番おっとりして、いい気持ちで聴ける。踊りを見ながら聴けば気も変わるであろうが、音盤だけでは恐ろしく退屈である。ニッチクももう少し企画を変える必要があろう。 / 長唄《紅葉は》唄:吉住小三郎、三弦:稀音家淨観、稀音家六治(ニッチク 4646) 長唄の《高尾懺悔》の一節を抜粋したもの。手ほどき物とされていて、なかなかこなせない唄である。さすがに小三郎で、鶏肉を牛刀で裂く感がある一方、理にかなった唄いぶりである。ただ江戸歌舞伎の妍爛な舞台の雰囲気のなかに浮かぶ傾城高尾の立ち姿は思い浮かばない。 / 義太夫小唄《先代しぐれ》(西内西亭曲)《壱坂》(西内西亭曲)浄瑠璃:小梅、太三味線:清三、胡弓:しげ、太三味線:しげ、細三味線:君江(ニッチク 100787) 4〜5年前からできた義太夫小唄と名付けられたものは、義太夫の語り物の主題を小唄にしたという意味なのか、あるいは義太夫三味線を用いるという意味かどうもはっきりしないようであるが、この場合は語り物として有名なものを義太夫小唄と銘打ったのだから前者の意味であろう。起用された小梅はなかなか努力しているが、欲を言えばもう少し語るという気持ちを体得してほしい。胡弓は邪魔、細棹も音が硬くてない方がしっくりしたであろう。 / 舞踊小唄《浪花人形》(木村富子詞、岡本文彌曲)唄: 勝太郎(天川屋義平)、寅由喜(油屋お染)(ビクター A4527) 《寧楽ニ代》(上坂聖三詞、武本素女曲)唄:市丸(春日藤波)、寅松(衣恋柳)(ビクター 4528) 《京の春秋》(小野金次郎詞、杵屋栄二曲曲)唄:つる子(嵯峨の里)、小つる(花かざり)(ビクター A4529) ビクターが前回の「東京八景」の姉妹編として立案した組物で、浪花、奈良、京都の3ヵ所に分けて、両面1枚宛とした作詞作曲も同一人が受けもち、唄だけがビクターのオールスターキャスト(中にはそうでないものも交じっているらしい)で当たっているのは面白い。作曲も心内の岡本文彌、義太夫の武本素女、ながうたの杵屋栄二と集めたのも興味ぶかい。中でもっともすばらしいのが大阪を受けもった岡本文弥で、勝太郎、寅由喜両人ともなかなかよく唄っている。奈良を受けもった武本素女は義太夫離れした器用で冴えた腕を見せている。《春日藤波》は唄も曲もよいが、唄と唄の繋ぎめが気になる。《衣恋柳》の方は歌沢そっくりの手附だが、情緒豊かにできている。京都を受けもった杵屋栄二は渋い手附で、《嵯峨の里》がニ下がり、《花かがリ》が三下がりでともに陰気すぎる。唄も未だしの感がある。舞踊小唄の企画としては、ニッチクのマンネリズムに比べてこちらの方がよい。 / 歌舞伎劇《桐一葉》(坪内逍遥作)市村羽左衛門(木村長門守)、松本幸四郎(片桐市ノ正)、松本染五郎(片桐主膳ノ守)、浄瑠璃:竹本鏡太夫、三味線:鶴澤市作(ビクター 5893ー6) 坪内の傑作として知られる《桐一葉》から長柄川堤の場の音盤化。羽左衛門の木村長門守は2度目以来の持ち役で、これに対し片桐市ノ正役には松本幸四郎を配したが自他ともに許す適役であることはもちろんだ。鏡太夫の義太夫も、錦上さらに花を添える感がある。録音も上々。 / 器楽舞踊《変化傘》(佐々紅華曲)日蓄邦楽団(ニッチク 100793) 《変化傘》は三味線、筝、鳴物にピアノ、ヴァイオリンを程度の洋楽器を配して、おなじみの曲節、コチャエ、新内流し、水気三重、佃合方、物着合方、靴が鳴る、四丁目、チョボクレなどを巧みに配合しつなぎ合わせたもので、佐々の才能を遺憾なく発揮したもの。いわばゲテ物だが聴いていて決して腹は立たず、踊りがなくとも聴いて楽しめることを請合う。 / 舞踊筝曲《静動》三弦:米川政子、筝:米川康男(ニッチク 100800) へんてこなものだ。鐘、三弦、筝、太鼓、鼓などが何となく思わせぶりな演奏をするがバラバラで、音楽としてのテーマがあるようでもない。いまに面白くなるだろうと思って聴いていたら終わってしまう。あまり誉められた企画ではないようだ。 / 俚謡《あいや節》今重造《長者の山》黒澤三市(ニッチク 100801) 前者は九州の平戸付近に発生した港の騒ぎ唄が日本海を渡り奥羽地方へ移植されたものだ。東北各地に存在するが、ここでは津軽のものである。単に《あいや節》だけでは、どこのものかわからない。したがってタイトルはもっと親切に書くべきである。唄もたいして上手くないが、三味線は津軽独特の撥さばきでよく弾いている。後者は秋田県の俚謡で、むかし田澤湖畔に住んでいた長者の持ち山から金が出たのを、村民が祝いだしたという伝説がある唄。節回しは意外と新しい。黒澤は秋田県の代表的な唄い手であるが、格別上出来でもないし、変な三味線を入れているのもよくない。唄と尺八でやるべきで、それが淋しいのなら、いっそ洋楽器にでも移して黒澤に唄わせたら変わった味のものができるだろう。 / 端唄《春雨》《秋の夜》《檜さび》《深川》《梅にも春》《奴さん》唄:藤本ニ三吉、三味線:小静、豊吉、秀葉(ニッチク 100802-4) ニ三吉による端唄特選集と銘打ったもの。この姐さん芸は一向に歳をとらないのが不思議だ。しかし《秋の夜》や《檜さび》のような上方式の濃厚な、まったりとしたものはニ三吉の歯切れのよい江戸っ子調子でサラサラと片付けられてしまうのでは一向に嬉しくない。《深川》や《奴さん》になると人相応である。唄として楽しめるのは《梅にも春》で、3枚一組で6曲収められたなかでは、いただけるのはこれら3曲だけであろう。
【2007年9月7日】
軽音楽(音盤評)/野川香文(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.55)
内容:1944年1月新譜として野川の手許に届けられた視聴盤は、平岡養一のアルバム(ビクター)だけであった。日蓄の1月は休み、他社はどうなるのかも聞かない。厳しい戦時下なのだから正月気分など吹き飛ばしてしまえというのも一理あろうが、戦時下の正月らしい気分はあった方がいいと思う。われわれの正月こそは米英その他外国のそれとは違った、いい個性をもっているのである。酒を飲んだり、遊びまわったり、仕事を休んだりすることだけが正月ではない。正月という新しい気分のもとに敵撃滅の決意をさらに一層強固にするのである。その意味で、レコードの新譜などもことさらに正月的な編輯をすべきであった。20枚も30枚も並べる必要はない、せいぜい10枚そこそこで充分である。その中に戦時下の正月らしい気分を盛り込んでほしかった。/平岡の木琴アルバムは「日本名曲集」3枚組で「荒城の月/濱の歌」「さくら、さくら/子守唄、中国地方子守唄」「お江戸日本橋/越後獅子」が収録されている(ビクター VA15022-4)。このうち《さくら、さくら》と《越後獅子》だけが管弦楽伴奏で、ほかはピアノ伴奏で吹込まれている。どれを聴いても美しいが、管弦楽伴奏では服部正による《さくら、さくら》の方がよく、平岡市舟による《越後獅子》は芳しくない。ピアノ伴奏(鷲見五郎)は落ち着きが出てきている。/日蓄の12月新譜の中に、下總皖一作曲の《麦打唄》幻想曲《姫松》(32081)、《皇軍を讃へる》(32082)、《鯉のぼりと子供》(32083)が、日蓄管絃団の演奏(作曲者指揮)で出ている。《麦打唄》は埼玉県で歌われる《岩殿山》の旋律をとらえて編曲したもので、素朴な感じのする作。健全な軽音楽として推すことができよう。幻想曲は作曲者によれば、筝歌の旋律をとらえてパッサカリア形式にしたものだそうだが、全体的に安定感のうすい、頼りないものと鳴った。いまさら外国の形式をもってくるより、もっと自由に日本的に処理した方が面白かったであろう。《皇軍を讃へる》は厚みに欠け、構想はいいが構造が粗雑という難がある。《鯉のぼりと子供》は、この中ではもっとも気が利いているが、型の中に押し込めようとしている気持ちがにじみ出て、のびのびさを欠いた。しかし、こういう作曲が次から次へと出るのは望ましい。そして日本人の新しい作曲だけで新譜を占領するところまで進みたいものである。
【2007年9月9日】
音盤彙報(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.56)
内容:■2月の洋楽音盤 ▲ニッチク チャイコフスキー《交響曲第5番ホ短調》メンゲルベルク指揮コンツェルトゲバウ管絃団(12インチ7枚)。深井史郎《ジャワの断章》朝比奈隆指揮日本交響楽団(12インチ2枚)。《軽音楽選》子守唄集。江戸子守唄、モーツァルト、ジョスラン、シューベルト、ブラームス、スラヴ(10インチ3枚)。▲他社は休み。 ■音盤界便り ▲音盤文化賞の設定 日本蓄音機レコード文化協会では優秀音盤普及を図り、音盤文化の健全な発達向上に資するため、このたび優秀音盤企画に対し「音盤文化賞」を授与することとなった。これは毎年1月から12月までに発売された各社の音盤(日本人の作もしくは演奏に限る)より審査のうえ授与するものである。審査すべき音盤の種目を次の5部に分かち、最優秀のもの1編宛を選出する。第一部:決戦下の音盤文化向上に資するもの。第二部:前線銃後の戦意昂揚に資するもの。第三部:健全な慰安に資するもの。第四部:国民の教養に資するもの。第五部:幼児、少国民の教育ならびに情操涵養に資するもの。審査委員は次のとおり。委員長:京極高鋭、第一部:田邊尚雄、園部三郎、第二部:増澤健美、第三部:牛山充、第四部:小松耕輔、第五部:柴田知常。 ▲アジア・レコード会社誕生 日蓄工業株式会社では今回、仏印のアジア・レコード会社(代表、ゴ・プァンマン)を合弁で経営することになり、年内に新発足のはずである。 ▲交響曲《海軍》の音盤化 映画「海軍」の発表とともに作曲された内田元の交響曲《海軍》は、去る11月28、30日に歌舞伎座で行なわれる特別試写会で初演されたが、さらに内藤清五楽長指揮海軍軍楽隊の演奏により、近く日蓄で音盤化することとなった。 ▲謡曲 「観世左近全集」の音盤化 観世流24世の宗家故左近の吹込みによる「観世左近全集」が富士音盤から6曲36枚を第1輯として、1944年1月から順次発売されることとなった。左近全盛期の吹込みで、第1輯には高砂、田村、斑女、羽衣、富士太鼓、鞍馬天狗の6種が含まれている。申込締切は1943年12月20日。 ■文部省推薦音盤 ▲第12回 童謡《カチイイクサ》《セカイノヨアケ》(ニッチク 100766、同 100770)▲第13回 「日本わらべうた」(テイチク 5043-5)、国民歌《みたみわれ》吹奏楽《十億の進軍》(富士 と324)、国民歌《みたみわれ》《海ゆかば》(大東亜 P-5357)、国民歌《みたみわれ》(テイチク X5036)、管絃楽《栃木盆踊りの主題による舞曲》(大東亜 P-5356)、少国民歌《少国民海の歌》吹奏楽《行進曲少国民海の歌》(富士 に605)、『平岡養一アルバム』(日本音響 VA15016-8)、管絃楽《歓喜の頌》(日本音響 JH252-4)、歌曲《花乙女の歌》(ニッチク 32022)、歌曲《海軍航空の歌》(ニッチク 100730)、ピアノ曲《マヅルカとタランテラ》箕作秋吉(ニッチク 100698)▲第14回 常磐津《曇りなきみどりの空を》(富士 と334)▲第15回 歌曲《帆網は唄ふよ》(日本音響 A-4427)、歌曲《土の戦士》(ニッチク 100790)▲第16回 歌曲《ますらをの道》(ニッチク 1100764)、歌曲《アッツ島血戦勇士顕彰国民歌》(ニッチク 100788)、筝曲《御羽車》(ニッチク 1007356)、歌曲《大アジヤ獅子咆の歌》(富士 と330)、行進曲《皇国の子供》(富士 に606-7)▲第17回 《ピアノ協奏曲第5番》(サン・サーンス作曲)草間加壽子(日本音響 4080-3)、筝曲《九軍神》坂本加寿子、斉藤公雄(富士 と333)、国民歌《みたみわれ》伊藤武雄(ニッチク 10-100749)、歌曲《浜辺の歌》笹田和子(ニッチク 100749)、長唄《新曲浦島》芳村伊四郎(富士 ち-103-6)
【2007年9月12日】
戦時音楽問答(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.57)
内容:問:門下生の会は禁止されているが、内輪だけでもいけないのか。答:門下の父兄が相集って家庭的な催しをするのはかまわないが、各所の会館は使用できない。時局下門下生の会など無意味なので自粛されるように。問:「技芸者之証」を持っていないが、賛助出演ならなくてもよいか。答:「技芸者之証」をもたない者は、原則としてお尋ねのような名義で出演することが許されていない。問:演奏会企画書はどう提出したらよいのか。答:原則として開催1ヵ月前に所定の事項を記載した「企画書」4通を日本音楽文化協会を通じて警視庁保安課も提出し許可を受ける。記載事項は、(1)主催者、責任者の氏名住所(2)会名(2)技芸の種類(音楽)(4)目的(かなり具体的に直接の目的を記す)(5)場所(会場)(6)日時(未定の場合は希望の日時)(7)全出演者の氏名、芸名、技芸番号、住所(別紙に記してもよい)(8)題名、歌詞または訳詞、作編曲者(別紙に記してもよい)、歌詞訳詞は1通で可。(9)収支予算書(有料無料とも)。明細に項目を挙げ概算を記すこと。(10)略歴(独唱、独奏会、合同発表会などの場合)。詳しいことは日本音楽文化協会に問合せること。問:独唱会開催の許可が下りたあとで、曲目を変更したいときはどのような手続きをとったらよいか。答:「企画変更届」を日本音楽文化協会を通じて警視庁保安課に提出し、その許可を受けなければならない。問:私は先生についてピアノを研究しているが、今度ピアノを一台購入したい。手続きを教えてほしい。答:所定の申込用紙に師事している先生の証明をもらい、日本音楽文化協会部委員の誰かの記名調印を受け、本人が同協会へ提出しておけば、同協会で資格審査のうえ配給される。申込用紙は同協会または各ピアノ製造元にあるので取り寄せてください。詳細は5銭切手封入のうえ、東京都京橋区銀座西8ノ8、日本音楽文化協会指導課宛問い合わせてください。問:楽譜を配給されるのには資格があるのか。答:産報会員などは別に規定があるが、その他一般の人は次の資格があればよい。(1)音楽業務用(2)産報等に属さない音楽研究者(3)民間音楽団体(4)音感ならびに音楽早教育用。(以上) 付記:これらの回答はすべて関係官庁および関係団体に問い合わせたもの。
【2007年9月14日】
音楽記録(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.58-59)
内容:▲芸能団体の一元化 このたび情報局では内務、文部両省、警視庁等関係官庁の協力の下に、各種芸能団体を一元化し、社団法人「大日本芸能会」(仮称)を作る運びとなり、設立準備委員長に芸能文化聯盟会長酒井忠正伯が推された。この団体には、日本音楽文化協会、俳優協会、演劇協会、舞踊聯盟、邦楽協会、長唄聯盟、三曲協会、浪曲協会、演芸協会、漫才協会の10団体が含まれる。遅くとも明春[1945年]早々に発足の予定である。▲日本音楽文化協会では苛烈な国内情勢に対処し、実質的な音楽報国に挺身するため次の方策を決めた。→従来の演奏会形式の改善、直接戦力増強に協力、航空機献納運動の展開、警報下の国民の士気を鼓舞する作曲等。▲音楽勤労報国隊 日本音楽文化協会では音楽報国運動のほかに直接生産戦に挺身すべく、日本音楽文化協会勤労報国隊の組織に着手。近く結成式を挙げる。▲音楽家の練成会 日本音楽文化協会では都下音楽関係者による練成会を12月上旬より上野松坂屋講堂で開催。一機3日間、200名宛を動員、講師には関係各官庁および学界知名人をもってする。▲楽壇の戦艦献納運動 日本音楽文化協会主催の戦艦献納運動は1943年10月28日をもって一応打ち切った。当日までの寄付金7104円7銭也を海軍省に献納した。▲洋楽企画審査会 芸能文化聯盟では邦楽舞踊企画審査会のほかに、洋楽企画審査委員会を新設することになり、委員として次の諸氏が任命された。 → 堀内敬三、伊藤武雄、井口基成、早川彌左衛門、吉田進、山田耕筰、京極高鋭子爵。▲第3回邦楽新作募集 日本文化中央聯盟では長唄三曲の奨励を現代邦楽全般に拡大し、今回文部省、情報局後援のもとに第3回邦楽新作奨励事業を行うこととなった。詳細は東京都麹町区内幸町2-1 大阪ビル新館の同聯盟に問合せされるように。▲勤労報国隊歌の作曲 大政翼賛会募集《勤労報国隊歌》の応募当選作品の作曲は次の6氏に依頼された。 → 山田栄、清水脩、名倉?[口偏+つくりは分析の析]、平井保喜、東辰三、高田信一。うち1篇を撰定する。▲学園の戦時体制 今回、国立の東京音楽学院では学校=工場の決戦態勢を施すことになり、男女全学生が一日交代に授業と勤労を行ない、航空増産に働くことになっている。▲大東亜共栄圏の音楽界 【フィリピン島】全音楽家を網羅した新フィリピン音楽聯盟が結成され、1943年11月にマニラで発会式を挙行した。総裁ペドロ・アウナリオ、副総裁コンラド・ペニテスおよびイカシアノらである。派遣音楽使節山田耕筰の作曲になる《比島独立祝賀大行進曲》の公開演奏は1943年11月14日、作曲者指揮新フィリピン交響楽団の演奏で3,000人の聴衆を前に行われた。なお当日は辻輝子、富永瑠璃子、平岡要一等が出演した。【南京】皇軍慰問の藤原義江、斉田愛子等の一行は帰途南京で大使館主催のもとに中日文化協会で独唱会を開き、日支要人に多大の感銘を与えた。【仏印】仏印政府は藤原義江の文化親善の貢献に対し、「カンボヂャ勲章」を駐日仏国大使を通じて贈られた。▲[日本音楽文化協会]対外音楽委員会では新生ビルマ、フィリピン両国に対し独立祝典楽曲を贈呈することとなり、《新比島国民に贈る歌》(川路柳虹作詩、 古関裕而作曲、伊福部昭管弦楽作曲)、《ビルマ独立祝典の歌》(笹澤義明作詩、古関裕而作曲 深井史郎管弦楽作曲)を予定。
▲12月の演奏会 → 年表中の「音楽文化」音楽記録を参照のこと。
【2007年9月17日】
音楽時評(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.59)
内容:航空決戦が熾烈さを加えているとき、全楽壇人が軍用機献納運動を起こした。楽壇人一人残らず浄財を拠出し、真面目さを発揮されたい。楽壇人にも白紙令状が下っている。音楽者がハンマーを握るということはこれまで考えられなかったが、決戦に告ぐ決戦の様相に思いをいたせば、音楽者が舞台を降りるときが来ていることを知るはずだ。それは舞台を捨てることではない。音楽は音楽者の精神に宿っており、この精神は戦う工場へと通じる。通じない者は音楽者としても落伍者だ。学徒はすでに出陣した。音楽学徒も多数含まれる。鍵盤をたたいていた指は、米英を指差して「撃ちてし止まむ」の決意を込めていよう。残った音楽者は一意音楽報国に挺身しようではないか。青少年産業戦士は音楽を求めている。音楽もこの方面への挺身を求めているが、活発な動きは見えない。おそらく工場の幹部の理解不足に原因があるようだ。工場の幹部と音楽者ががっちり手を組むとき、青少年は暖かい生活を得るのである。音楽を求める声は大きい。工場幹部の猛省を切に促す。
【2007年9月19日】
吹奏楽法 旋律論(2)深海善次(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.63-60)
内容:第一節 ピッコロ(続き) 多くは総奏の場合にユニゾンかオクターブをもって加勢するか、途中から加わって応援するようなことに用いられる。一例としてウェーバーの《舞踏への勧誘》をベルリオーズが管弦楽に編曲したものを、さらに吹奏楽に編曲したものをみると、ピッコロのユニゾン参加により、(旋律を)フルートのみで演奏されるよりも数倍の輝かしさが添えられていることに注目すべきだ。しかし、ピッコロの低音域はff を奏でるのが難しいため、速い速度のffの総奏でピッコロとフルートのユニゾンを用いても何も期待できない。pまたはppにおける同音は多く用いられる。なぜならピッコロの高音域はpやppを奏することが難しいが、低音域ではとても容易だからである。また、三点C以上の音域の旋律は、特殊な場合を除き、下方オクターブを加えるべしという吹奏楽法の鉄則がある。両楽器における同音可能音域も小部分であることから、他の楽器が8度その他に加わっている場合、[ピッコロとフルートは]同音になったりオクターブになったり、また同音に戻ったりする方法が常套的に使われている。
ピッコロ+木琴 木琴(シロフォン)は元来独奏用楽器とされ、トレモロをもって歌うことはできるが、単打のみではうたうことはできない。どちらの楽器も、音色は脳天を刺激する体のものであり、また歌うことのできない楽器同士の組合せは厳禁されているから、たとえユニゾンの音域が多くとも組合されることsはない。例外として、稀に舞曲などにおけるひじょうに速い経過句に用いられることがある。木琴のオクターブ進行に、ピッコロの後打ちをもって調子付けをしている曲があるが、面白い例だ。
ピッコロ+鉄琴 この両者の組合せは、この世のものとも思えぬ奇異な感を起こすため、稀にしか現れない。その稀な例としては、モーツァルトの《魔笛》の中で鉄琴の曲として知られているものを吹奏楽用に編曲したものがある。
ピッコロ+Es管クラリネット この組合せはたびたび見受けるところである。小型のAs管クラリネットとの組合せも同様であるが、わが国ではEs管クラリネットしか使われない。Es管クラリネットの音色、音強ともにもっとも特色ある音域は、ピッコロにあっては使用効果のない箇所にあたるため、ユニゾン音域は1オクターブに限定される。したがってフルートの場合同様、斉奏のうち4分の3以上はオクターブとなり、残る4分の1以下がユニゾンとして用いられることになる。ユニゾンとしての音群は三点C以上となるため、他の楽器の下方オクターブを必要とすることは論をまたない。おおむねEs管クラリネットの音勢が主動的となるが、高温にいたるとピッコロ優勢となる。音色はEs管クラリネットに光輝を添え、明朗さを加え、軽快性を失わず、効用は単独使用のときと比較にならぬほどである。装飾的な楽句にも、この組合せはたびたび見出すことができる。
【2007年9月21日】
出版文化(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.64)
内容:1943年11月4日、出版界に企業整備要綱が発表され、現在3,000軒ちかい出版業者が一斉に整備統合されることとなった。国家の大方針からすれば当然の事態で、出版界ではすでに腹はできていたため驚かなかった。整備後の出版業者はおよそ200軒くらいになるといわれているが、これはどうだかわからない。ともかく今後は、悪書が皆無となり良書がしだいに普及するのであるからけっこうである。本社出版部はこの状態下にあって良書の出版を企画していたが、1944年1月中旬、下旬にかけて次の3書が発売される。
坂本良隆著『木笛教則本・ソプラノ笛』A列5号判、48頁、定価1円20銭。
坂本良隆著『木笛教則本・アルト笛』A列5号判、48頁、定価1円20銭。
坂本良隆著『児童のための木笛の手引』A列5号判、32頁、定価50銭。
いずれも、今次戦争したに新しくできた楽器「木笛」の教則本として唯一のものである。国民学校および女学校、会社、工場の女工員のための最良の指導書であると信ずる。
次いで1944年2月上旬、中旬に発売されるものは、
清水脩著『合唱指導必携』
国民音楽協会編纂『国民男声合唱曲集』『国民女声合唱曲集』『国民混声合唱曲集』の3冊と、
堀内敬三『日本の軍歌』が発売される。いずれも近来の名著として推奨したい。(保)。
【2007年9月25日】
◇編輯室(『音楽文化』 第2巻第1号 1944年1月 p.64)
内容:第3年を迎えた戦争は、今年をもって最後の段階に突入したかの感を抱かせる。こうした重大な秋[とき]に際して楽壇の進むべき途は、音楽をいかに役立たせるかということを楽壇人のすべてが深く認識し、具体的に実践するにあると思う。白衣勇士の慰問に、また産業戦士の士気昂揚に、もっと音楽を役立てなければならない。/学徒の大半は学業を放擲してすでに出陣した。45歳までの男子は産業戦士として徴用されることになった。楽壇においても徴用に浴した人が相次いでいる。徴用も召集と同じく名誉ある国家の要請であり、このことをよく認識し産業戦士として優秀さを示す音楽家であってほしい。(謙幸)/決戦下の演奏活動が不活発なのは、いかなる原因か。まず積極的な企画性の欠如と演奏家の不徹底な信念によるものと思う。国樂創生、国民音楽の創造がいわれて作曲家は奮起したにもかかわらず、演奏家はこれに協力せず、申請に邦人作品をプロに添えている程度ではないか。作曲家と演奏家の理解ある共同によって、創作活動と演奏活動が緊密に結ばれ、積極的な企画の参加を要望する。(青木栄)
【2007年9月25日】



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